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「天台声明」と「西本願寺声明」との比較研究 I : 四智梵語讃と五眼讃について

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﹁天台声明﹂と﹁西本願寺声明﹂との比較研究

   ︵四智梵語讃と五眼讃について︶ ︾8盲判﹁o鉱く。ωεα矯oh↓Φ5百貫QDげα8旨

1

︵囲ゆ珊温︶国払ユZ富三ぎ5αq9。ロ鴇ωゴαヨ団01︵翻景骨無磯温︶一  真宗に伝承される声明は、東西分派以前より度々改革改変が行われ て今日に至っているが、いずれの改革の折にも常に天台声明を範とし        ① ている。蓮如宗主の子息願当寺実相の編述した﹃本願寺作法次第﹄に も﹁当流の声明は小原流也﹂とあるように、天台声明の旋律や素首、 唱法などの音楽的要素を下意的に採り入れて真宗声明を形成せしめて 来たともいえる。ことに西本願寺においては、この傾向が更に顕著で あり、歴代宗主の積極的な態度によって、声明家の交流も繁く行わ れ、法式の完備に大いに意が払われて来たのである。今日においても その遺風は遵守されているのであるが、本論にいうところの﹁五眼讃﹂ もこうした西本願寺声明の歴史的過程において産み出され、改変さ れ、伝承され来ったもので、音楽的にも台家との交渉をうかがう好資 料の一つといえる。  そこで先ず、本論に先立って真宗声明と天台声明との交渉の歴史に 就いて述べて行きたい。  真宗声明の歴史に関する史料としては、真宗法要︵仮名聖教︶に属 ﹁天台声明﹂と﹁西本願寺声明﹂との比較研究 1

大 小

谷野

功  竜

紀 美 子

する文献、一家衆、堂衆達、宗主側近者達の日記、見聞録、法務担当 者の記録等に散見する記述や、声明家の記録及び声明本等がある。又 歴史的研究としては﹃西本願寺声明の伝来と歴史﹄ ︵当面芳隆著、仏 教史学第二号、昭和二十五年一月刊、仏教史学会︶ ﹃本願寺史﹄ ︵本 願寺史編纂所編、昭和三十六年三月刊、浄土真宗本願寺派宗務所︶ 等が代表的なものとしてあげられよう。以下これらの資料や研究をも とにして意のあるところを抽出略述する次第である。  先ず親鷺聖人在世︵承安三年︹一一七三︺∼弘長二年︹一二六二︺︶を 中心とした時代の声明であるが、宗祖の述作の中には法式声明に関す       ② るものは見られない。ただ﹃改邪抄﹄には   ﹁⋮前略⋮それよりこのかた、わが朝に一念多念の声明あひわか  れて、いまにかたのごとく余塵をのこさる。祖師聖人の御ときはさ  かりに多念声明の法燈、倶阿弥陀仏の余流充満のころにて、御坊中  の禅襟達も少々これをもてあそばれけり。祖師の御意巧としてはま 四三

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﹁天台声明﹂と﹁西本願寺声明﹂との比較研究 1  たく念仏のこはひびきいかやうにふしはかせをさだむべしといふお  ほせなし。ただ弥陀願力の不思議凡夫往生の佗力の一途ばかりを自  溶化佗の御つとめましましき、音声の御沙汰さらにこれなし。しか  れどもとき世の風儀、多念声明をもて、ひとおほくこれをもてあそ  ぶについて、御坊中のひとびとも、かの声明にご\ろをよするにつ  いて、いさ∼かこれを稽古せらる∼ひとびとありけり云々﹂  とあるように、特に声明に対する指示はなかったようであるが、当 時の趨勢として多念流の声明に心を寄せ稽古をする者が教団の中に在 ったようである。こ\にいう﹁一念若しべは多念﹂の声明とは具体的 にどのような種類の声明を意味するのか分明ではないが、 ﹃徒然草﹄ 第二百二十七段に   ﹁六時礼讃は、法然上人の弟子、安楽といひける僧、経文をあっ  めて造りて勤めにしけり。その後、太秦善観房といふ僧、節博士を  定て声明になせり。一念の念仏の最初なり。後嵯峨院の御代よりは  じまれり。法事讃も同じく善観房はじめたるなり﹂  とあることから推察するに恐らく一念流声明とは礼讃や法事讃等の        ③ 声明を指すものと考えられる。又﹃拾遺古徳伝絵詞﹄十五には、見仏 が引導寺に念仏興行をした際、声明の先達として心阿弥陀仏の名や結 衆として声量安楽などの名前が見られるところがら、法然門下に盛行 した声明の一派であったとも考えられる。これに対する多念流声明と は、天台浄土教系の声明と推察される。すなわち天台宗において浄土 教は源信に宣揚され、声明者でもある良忍において開花した。又声明 の聖地ともいわれる大原では天台浄土教の繁昌をもたらし、いわゆる 四四 浄土教習の声明が天台声明中の一ジャンルを占めていたことを勘合す ると、当時、これら二流の声明が存在していたことは推則するに難く はない。特に一念流声明は法然教団の繁昌にともない、相当巷間に流 布されていたようである。       ④  ところで宗祖を中心とする教団では、 ﹃叢林集﹄巻七に   ﹁当家本礼讃ヲ修セラレシ時、間ノ念仏ハ多念義ノ風ヲ試ミ給ヒ  云々﹂  とあるように、一念多念様々な浄土教系声明が混用されていたよう で、宗祖はこれら法式声明にこれという沙汰もなかったことを見れ ば、そこには可成り自由な形で声明が興行されていたことをうかがう のである。ただこ、で述べた一念多念の声明に就いては、まだまだ不 充分な考察であり、今後の研究課題の一つとしたい。        ⑤  宗祖遷化の後、宗祖の息女覚信尼の子息で第二代﹁留守職﹂を継い        ⑥ た覚恵︵仁治・寛元頃∼徳治二年︹=二〇七︺︶は、 ﹃慕帰絵詞﹄巻一 によれば   ﹁⋮前略⋮大原二品親王思遣の御弟子として三部・四曼の募をも  てあそび、五音・七声の曲に達しけるが⋮云々⋮﹂  とあり、青蓮院に密教を修学すると共に、声明を学んだことが知ら     ⑦ れるが、 ﹃最須敬重絵詞﹄巻六には   ﹁⋮前略⋮その由来をたつぬれば、五音七声をわきまへ、呂律清  濁に達すること、天性のうくる所その骨をえたまへりけるほどに、  門跡参仕のいにしへも随分に声明をたしなみ給ひけるが、隠遁の後

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 は殊に意を浄土の曲調に入れて名を非道の秀逸にえたまへり。一念  の音曲に節拍子を定めけるは教達なり。かの弟子の中に毒心どきこ  ゆるは上足なり、そのかみ彼を召請して連々これをぞならはれける  云々﹂  とあるように本来聖道門における声明の名手であったが、隠棲後は 専ら浄土教系の声明の会得に励んだことが知られる。又同書には、亀 山上皇の前で覚恵に指南を受けた小野宮師具は声明を請し、大いに上 皇の叡感を蒙ったことが記されているが、覚恵の斯道における名声を 察するに余りあるものがある。  三代目留守職の覚如宗主︵文永七年︹一二七〇︺∼観応二年︹=二五 一〕 jは本願寺教団の形成を果した人として著名であるが、幼少より 南都北嶺の教学を修め、且つ文筆の能にも秀でた人であった。永仁二        ⑧ 年︹一二九四︺、宗祖三十三回忌法要に際して、 ﹃報恩講式﹄を述作し た。講式としてはすでに源信の﹃六道講式﹄や﹃舎利講式﹄、永観の ﹃往生講式﹄、栂尾明恵の﹃四座講式﹄などがあり、報恩講式もこれ       ⑨ ら先行の諸講式に範を採って作製されたものと見られる。 ﹃本願寺通 紀﹄巻第十一︵法事諸式︶の項に収められた記述には、   ﹁永仁二年春覚宗主著二報恩講式三章一、時当三二十三年祖忌一   初総礼、次三礼 次如来唄 表白、式三段 伽陀七個口六礼 六  種廻向﹂  とあり、並家の講式作法次第にならって式文の前後に声明が挿入さ れている。      ﹁天台声明﹂と﹁西木願寺声明﹂との比較研究 1  次いで覚如の子息存覚︵正応三年︹一二九〇︺∼応安六年︹一三七三︺︶       ⑩ も学識文筆に中れ、 ﹃最勝講式文、信貴鎮守講式、知恩講式﹄など多 数の講式を述わしている。  真宗中興の祖といわれる蓮如宗主︵応永二十二年︹一四一五︺∼明応 八年︹一四九九︺︶は文明五年︹一四七三︺吉崎の坊舎に宗祖の述作﹃正 信偏﹄、﹃和讃﹄の開版を行い広く門末にこれを流布せしめることを灯 った。又日々の勧行にも﹁正信偶、和讃の墨筆を行うことを推し進め た。すなわち﹃本願寺作法次第﹄には   ﹁当流の朝暮の勤行、念仏に和讃六首加へて御申候事は近代の事  にて候、昔も加之には御申ありつる事有げに候へ共朝暮になく三つ  るときこえ申候、幻象上人御代迄六時礼讃にて候つるとの事⋮⋮云  々﹂  とあるように存如宗主︵応永三年︹一三九六︺∼長禄元年︹一四五七︺︶      ⑪ の時代迄は﹃六時礼讃、法事讃、阿弥陀経﹄などが専らの勤行であっ たが、蓮如宗主はこ、に大幅な改革を試み、 ﹃正信偶念仏和讃 の読      ⑫ 諦に加えて﹃浄土三部経﹄の読講を正式の勤行と制定したのである。   ⑬ 就中﹃真宗故実伝来抄﹄には   ﹁⋮前略⋮其後蓮如上人ノトキ御弟子敬遠坊ヲ大原ヘツカバサ  レ、山門ノ声明ヲ修練シ夫二塁フテ当家ノ偶頒モ節譜ヲ付テ音律ヲ  正シタマフ﹂  とあり、 ﹃正信偶和讃﹄の節譜が、大原に修学した敬︵慶︶心房の手 に成ったことを述べている。慶聞房は御堂衆の上足として一如宗主に        四五 182

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﹁天台声明﹂と﹁西本願寺声明﹂との比較研究 1 仕え、 ﹃本願寺作法次第﹄の中にも法式の精通者として度々その名が 揚げられている。  法式声明取得の為、宗主が側近達を大原へ遣わし修学せしめた例は これより後、実如宗主︵長禄二年︹一四五八︺∼大永五年︹一五二五︺︶ の時代にもある。 ﹃本願寺作法次第﹄に   ﹁⋮前略⋮然ば円田の仰事には下間名字の幼少の人を一人小原の  声明師の弟子になして置、よく稽古の功ゆき候はば、こなたへ取て  をきて声明の譜をよくならはせ覧て、当流によく可覚悟事也と田干  き﹂  とあり、実如宗主の嗣法円如が、本願寺家臣の下妻家の幼少の者に 大原へ声明の修学を為さしあ、取得の瑚りには真宗声明に資せしめよ うとしたものであるがそこには円如の台家声明取得に対する計画的な 意図が感じられる。  本願寺が山科、石山時代を経、西本願寺は天正十九年︹一五九一︺に 現在の堀川の地に移される。  准如宗主︵天正五年︹一五七七︺∼寛永七年︹一六三〇︺︶の時代に東 西分派が行われ、東本願寺では教如宗主が分派后初代の宗主に就くわ けである。准如宗主は僧階を新に定め、又法式面における整備を図っ た。 ﹃本願寺通事﹄や西光寺裕俊の著わした﹃本願寺年中行事﹄によ れば、慶長十六年︹一六=︺三月に宗祖三百五十回忌の法要が営ま れ、この法要に際して登壇、行道、散華などの聖道作法や、雅楽の奏 楽、堂内装厳の整備、法服として七条袈裟着用の制定など法式面にお ける威儀の整備が行われた。こうした傾向は、戦国時代を経て近世に 四六 生き抜こうとする本願寺教団の一面を表わすものであろう。  次の良如宗主︵慶長十七年︹一六一二︺∼寛文二年︹一六⊥ハニ︺︶に至 ると声明の面に改革整備が及んでくる。すなわち万治四年︹一六六一︺、 宗祖の四百回忌法要が営まれるのであるが、この時には前宗祖三百五 十回忌法要と同じく﹃正信偶、浄土三部経、報恩講式﹄が法要の中心        ⑭ とはなっているもの、新たに﹃四耳管﹄が依用されている。 ﹃経谷氏 の調査﹄に依れば、西本願寺の宝庫にこの際に書写されたと思われる ﹃四七讃﹄が収められていると伝えている。こうした四四黒山声明の 導入は、良如宗主の態度もさること乍ら、次の寂如宗主の考えや態度 が大きく働いたものと思われる。  寂如宗主︵慶安四年間一六五一︺∼享保九年︹一七二四︺︶は、いよい        ⑮ よ積極的に魚山声明の導入を図った。広隆寺知影の述になる﹃魚山余 響﹄には、   ﹁吾本山に於て魚山の梵唄を用ひ玉ふことは、実悟キ等に見ゆ、  近年信解院殿御代に専ら魚山流を用ひ玉ふとみゆ。幸雄僧都に命じ  て当家声明数品を製せしむ﹂  とある。幸雄は多紀道忍氏の編述になる大原声明系譜にも名をとど めている。この幸雄以降の大原嫡流者はほとんど西本願寺と関係を持 っているので次にその系譜を掲げておく。以下この系譜を御参照願い 率い。

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良忍−柱聯−宗快−覚淵←口淵−覚超−良雄−宝珠] ﹁幸雄︹=ハニ五∼毛。二︺−珍雄︹=ハ八四∼毛六九︺− 一嶺雄︹一七五九∼?︺1詔雄一良宗一覚雄−秀雄一覚秀 一貞健一仙恵−旧観−三三  幸雄は先の記述の如く、寂如宗主の嘱に依り、西本願寺へも繁く出       ⑯ 入し声明の新作改作などに力を致した。経谷氏は﹃元禄七年︹一六九        ⑰ 四︺書写の声明集の奥書﹄を﹃自著﹄に紹介しているが、それには、 寂如宗主が前良如宗主の二十五回忌及び三十三回忌の法要を営むに際 して声明墨譜の改正を企てたこと、それが為に幸雄が音律の正誤を考 察し、更に門末僧侶の指導を行うべく委嘱され、その為に声明集を作 して献上した旨のことが述べられている。この声明本には次のような 曲が収められているという。

  四智轟重臣着座讃呂律散華呂律後唄対璽譜一=礼呂律

 六種廻向、四奉請 弥陀経、合殺、九声念仏、八句念仏三重、云何  唄、始段唄、殿形唄、伽陀十二首 勧請文三篇 下高座文、報恩講  式三重墨譜 式間讃、歎徳文、文土偶、十四行偶、讃仏偶  ﹁魚山余響﹂にはこれらの中で、﹃讃仏偶、文類偶、着座讃、敬礼、 勧請、式間和讃﹄など真宗独自のテキスト内容を持つ声明や、伝統的 に用いられて来た声明については   ﹁讃仏偶、文類、十四行偶、呂律着座讃、敬礼勧請式間和讃は幸雄  僧都の墨譜なり、讃仏偶は法華幟法肩段呂の墨譜によれり、文類は      ﹁天台声明﹂と﹁西本願寺声明﹂との比較研究 1  五念門と図画をあわせとると見へたり、十四行偶は通法、例時両経  段あはせとれり、着座讃は呂律とも昌昌讃漢語をとり用ゆ、敬礼式  間和讃はよりところたしかならず、幸雄の工夫と見へたり、⋮中略  ⋮重誓偶は大俄悔による。十方念仏は早三法の十方念仏による⋮下  略⋮﹂  とあり、台家の声明曲の墨譜より流用を図って新に改作を施してい る。又これら声明曲の他にも、 ﹃報恩講式﹄の墨譜を﹃六道講式﹄の 博士に従って改作したことも﹃今山余響﹄に知られる。  こうして幸雄を中心として新作或は改作された諸声明は、宝永八年 〔一 オ一一︺に営まれた宗祖四百五十回忌法要に依用されるところとな       ⑯ る。この儀の次第は﹃竜門旧事記﹄に収められているが、各法要には 再編なったこれらの声明が、駆使されていることはいう迄もない。  こうした台家魚山の声明家と本山との交渉はこの後も続けられて行 く。 ﹃魚山余響﹄には   ﹁本山往還偶、願生憎は宮山珍雄の墨譜也、二藍泉院にて其草本  を見る。往還偶の奥に、黒本者就西本願寺御門跡三回忌墨譜依懇望  以光明真言新記入     享保十二丁未稔 二月下旬        魚山大僧都 珍雄 願生偶 此本は就西本願寺先御門跡三回忌墨譜依懇望以切話錫杖新書之畢   享保十二丁未年二月 虚器       四七

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﹁天台声明﹂と﹁西本願寺声明﹂との比較研究 1   右信解院、御三回忌の時なり、信順院殿御望に依り製せられたる  なり、珍雄は後に城南院大僧正と申す幸雄の弟子なりときつ伝へた  り云々﹂  とあり、知影が宝泉院で幸雄の弟子珍雄の往還偶、願生湿の草本を 見聞し、住如宗主︵延宝元年︹一六七三︺∼元文四年︹一七三九︺︶が珍 雄に嘱して改作に従事したことが知られる。更には諸山嫡流譜に名を とどめる領雄、詔雄等も同様に声明の指南、改作に参画していること が知られる。  経黒氏に依れば、この頃初めて西本願寺の声明本が開版されたと伝 えている。すなわち宝暦六年︹一七五一︺の﹃真宗声明品﹄がそれで、 全三巻よりなり、そこには﹃四智讃﹄、﹃法讃﹄、﹃僧讃﹄など台家魚山 の声明がそのまま墨入れられていると伝えている。  文如宗主︵延享元年︹一七四四︺∼寛政十一年︹一七九九︺︶から本如 宗主︵安永七年目一七七八︺∼文政九年︹一八二六︺︶の間に亘っては、 知影が活躍した。彼は先程来引用している﹃魚山余響﹄の著者でもあ り、本山末寺の僧侶として西光寺世運に声明を習い、後に大原の知観 に就いて伝授を受け遂には三山嫡流系譜に名をとどめるに至った人で ある。彼の師たる知観も、西本願寺に参劃しており、 ﹃魚山余響﹄に は   ﹁⋮前略⋮今度観僧正を請ひ、院家、内陣の面これを学ぶにつき  堂達の内も四・五輩ついてきしことを得たり、これより吾山内、ほ  ぼ魚津の声明といふものをしれり、吾山内声明中興の時といふべ 四八  し﹂  とあるように寂如宗主以来いさ、か粗に流れるきらいのあった声明 を堂衆、院家達に指南する為に招かれている。又改作の面においても 同書に宗祖五百五十回忌法要に際して、阿弥陀俄法中﹃観経﹄真身観 より抽出された章句に法華早三法の墨譜を施したこと、又寛政七年 〔一 オ九五︺教化の恩徳讃に墨譜を施したこと等多くの業績がある。  一方知影も声明指南に加えて声明帳の改作を行った。 ﹃魚山余響﹄ には   ﹁文化十一年甲戌五月 当御門主本署声明帳の改写を命じ玉ふ。  芙容の間に於て御側御用人 松川弓馬を以て仰せわたさる 二十二  年乙亥三月信入院殿十七回忌御法事前写しうる﹂  とあり、この記述に継いで本山三洋の年中行事が記載され、各々法 要に用いられる声明及び作法が次第に従って詳びらかに述べられてい る。これ迄西本願寺声明に参劃した江山の声明家達はいずれも台家に 属する人々であったが、知影は先にも述べたように末寺僧侶でありな がら卸量の声明家でもあった点に特色がある。自著﹃魚山余響﹄には声 明道における高度の見識の上に西本願寺声明の伝統を重んじつ、も、 当宗派に対する適切な見解を以ってのぞんでいることがうがわれる。  明治時代、明如宗主︵嘉永三年︹一八五〇︺∼明治三十六年︹一九〇 四︺︶は宗門の諸制度に対し、果敢な改革を行った。又宗主は斯道に 関しても造詣深く、広く法会の調査研究を行い、勅会や古来の諸寺法 会についての由来故実を述べた﹃仏会紀要﹄を著わし、更に詳細な諸

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寺法会の声明、法式に及ぶ故実を集大成した﹃龍谷叢書﹄を著わして いる。       ⑲  明治十三年︹一八八○︺には、大津三井寺の光浄院に野山より﹃覚 秀﹄を招じ、寺院子弟を集めて勤式声明を学ばしめた。その際覚秀は 鋭意入念な指導を行い、当時の魚山における声明法式のすべてに及ぶ 品目を伝授したといわれている。  その薫陶を受けた人々には﹁沢井了頓、沢円諦、都路広智、三谷教 応、三上専持、南海城、近藤鈴成、桃園恵心、園香林、大野宝城、花 房慈敬﹂等の諸氏があり、これらの人々は後に西本願寺勤式の中枢と なり、後進の指導に、伝承に従事した。なかでも沢円諦と近藤亮成の 二氏は本山にあって、声明本の作製や改作に参劃しその功績は大なる 物がある。今日西本願寺法務部にあって、声明法式の伝承指導に従事 する人々、或は末寺にあって本山の法務に参勤する諸僧の中には、こ れらの人々の直弟子若しくは孫弟子にあたる人々が多数ある。  覚秀は聖明如宗主の請により、声明集﹃龍谷唄策﹄を編述した。こ の声明本は明治二十一年2八八八︺に開版されており上下二冊より成 っている。唄策に編まれた声明曲を次に記しておこう。  礼仏頒 三十二相 三礼 如来唄 勧請 和順章 仏名 教化 嘆仏文 唄呂律散華 梵葦生偶 伽陀 五眼讃 着座讃 画讃 念 仏正信譜 六種廻向 掌文讃嘆 葦間伽陀 八句念仏 式間和讃 合筆 後唄 恩徳讃 総礼伽陀 対自 大悲段 四句念仏 発願文 三選章 総礼頒 供養文 叩几願文 唱礼 五障 四奉請 甲念仏 ﹁天台声明﹂と﹁西本願寺声明﹂との比較研究 1 回警句 三宝礼 讃仏偶 重誓偶 帰三宝譜 十二礼文 十二光礼 臓悔文 二門偶 後夜偶 流通章 召請偶 三奉請 請讃偶 広略 骸悔 五悔 散華讃 云何梵 云何偶 讃請文 散華竪文 五明念 仏 論讃偶 嘆仏讃 荘厳讃  魚山の声明家による本山への声明指導はこの時期を以って終了す る。これより以後は先述したように覚秀の薫陶を受けた人々が中心と なって伝承指導の任を荷って行く。西本願寺の法式声明は、この後鏡 心宗主︵明治九年︹一八七六︺∼昭和二十三年︹一九四八︺︶の時代、近 くは現勝如宗主︵明治四十四年︹一九一一︺︶の昭和六年︹一九三一︺直 に大幅な改訂が行われるが、いずれの改訂の折にもこれらの人々、若 しくはその薫陶を受けた人々の手に依って成されたことはいう迄もな い。  前項において天台声明と西本願寺声明との交渉についてこれを歴史 的に述べて来たのであるが、こうした歴史を裏付ける音楽的資料とし て現行声明中の ﹃五眼讃と廻向句﹄がある。これら両声明曲は現在 ⑳ ﹃大師影供作法﹄の中に収められているのであるが、度々の改訂に依 って往時の声明の墨譜がまったく統廃合されてしまった現在も、往時 のま\の姿を保っている。なかでも﹃五眼讃﹄は﹃四智梵語讃﹄の節 譜を採り入れたものと云われているが、先行曲たる﹃周智梵語讃﹄は 良如宗主の万治四年︹一六六一︺宗祖四百回忌法要に採り入れられてい るのを初見とする。 ﹃攣眼讃﹄については、玄智の﹃祖門旧事記﹄に   ﹁本山ノ声明 時々改革アリテ 新旧合舞数フレハ ソノ品甚ダ 四九

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     ﹁天台声明﹂と﹁西本願寺声明﹂との比較研究 −  多シ。就レ中宝暦十一年辛櫃三月 宗祖五百年忌ノ法事以来ハ霊智  讃 仏讃 法讃 夕潮等ノ聖道家ノ声明ヲ停廃シテ 新桑ニ正適量  籍ノ文二依テ 諸国讃 五眼讃仏吼讃勧黒蜜等ノ声明ヲ製シテ  真宗ノ所用トセラレタリ、卓識ト云ツベシ﹂ とあり、この曲が製された時期や動機がうかがわれる。又知影の﹃魚 山余響﹄には、   ﹁五心讃、仏吼讃、瓦窯讃は宝暦中五百回忌御忌に斬譜なるよ  し、五眼讃は四智梵語讃、仏吼讃は僧讃、諸智讃は心略讃によれ  り、何人の作といふことをしらずいつれ面白からぬものなり、五眼  讃などは尤滞るところ多し﹂  とあって、五眼讃が四智梵語讃の墨譜を移して製せられたことがわ かる。すなわちテキストの内容を真宗の教義にふさわしいものに置き 変え、墨譜はほとんどそのま\を転用したものと考えられるが、これ に対し玄智は﹁卓識といひつべし﹂と称讃しているのに対し、知影は ﹁いずれも面白からぬものといひつべし﹂と甚だ批判的であるのは両 者の立場の相異が感じられて興味深い。  現在の五眼讃の節譜は一応覚秀の時期迄さかのぼり得ると考えられ る。この時期に至る迄の各期の代表的な声明本は次の通りである。  ω 声明集 近藤亮成編 昭和八年刊  ② 梵唄集 沢 円諦編 明治四十三年刊  個 龍谷唄策 覚 秀編 明治二十一年刊  これら三種の声明本に収められている五眼讃の墨譜を比較してみる といずれも﹁呂曲盤渉調、出音徴﹂とあり、墨譜の細徴に至るもほと        五〇 んど同じである。従って黒帯の指示した印本が墨譜に関する限りは現 在迄伝承されていると考えて良いだろう。しかも、これらの墨譜は現 在行なわれている天台の﹃四智梵語讃﹄とも大略同じであり、覚秀以前 に迄さかのぼり得るものとも考えられるが、未だ往時の声明本にすべ てあたっていないので、それについてはいずれ稿を改めて述べたい。  ところで実際の演唱についてはどうであろうか、次項において、現 行天台の﹃四書梵語讃と五眼点﹄とを比較し、その異同について考え てみたい。  先に、資料の上で﹃五眼讃は四智梵語讃﹄の旋律をあてたものであ るという事が認められたが、実際に現在西本願寺で演唱されている ﹃五眼讃﹄と天台宗の﹃無智梵語讃﹄を比較してみたい。

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﹁天台声明﹂と﹁西本願寺声明﹂との比較研究 1

簑摩労粗壼締甲羅

 。く恕ル.転置鴨スをノス

亀摩剃翻継親

タノスノスノス さいモ

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謹鯨

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智三世

端黒

   天台宗 四智梵語讃 多紀道忍編 声明集 芝金声堂 昭和13年刊 五一

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瓠羅信州

鞭轟織、馨

   @     まのロ      げ        

後学藩轟露

   喚 ゆr  .’

ス!り.民!難奪畢

響驚盤欝

 ノ   ロ   ロ      ロ  コ ヒ      イ   墾最畢・ξτ師札奪膚、三礼登戸

  光明供遜辞

   先署讃梵語擁養調

吃で座交堂裂列讃筆頭奪馨.、

多患勾 同音・鼻一己拭・畢.・富

山ヴ   阜 亀

    ぐ        コタ  ひン コ 

蜜鱒黎轟舞

    天台宗U四智梵語讃 中山玄雄編 魚山声明全集 芝金声堂 昭和31年 176

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  ﹁天台声明﹂と﹁西本願寺声明﹂との比較研究 −

  九眼讃・・徹盤霊

    礁犠.

熱眼済.徽難戦少93

り       をユ だロニ  ニゑむ

     は   サ  こ       リ

     ノ      メ 

    か

五眼讃 覚秀編 龍谷唄策 明治21年刊

       五二

大師影供作法

 先導師箸産

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盗藤騨馨墨渉調

整撫辱診

   ︾

悪様麓聴

講嚢葉叢

 ム   を  え  

蔽議墨匁壁胃誰

、曜一       ︸一    ﹁ρ一 一  一昌

(11)

さ鋸供作法

先舞屠庚

攻衆僧著座

  次ム尿讃一音舳盤渉調

    傅供之寿剛亀

  

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      む 五眼讃 近藤亮城編 声明集 昭和8年刊  以上五つの墨 譜は、比較的時 代の新しいもの のみである。沢 円諦編によるも のは、旋律型︿ 押出し﹀がくア タル﹀になって おり、 ︿キル﹀ 位置も少し異っ ている。これら の相異が沢円諦 自身の改定か、 或いは、このよ うな演唱もあっ たのかは、より 古い墨譜を参照 しなければなら ないが、今回は

資料が集まら

ず、墨譜に関す

る考察はしな

い。  現在の演唱は四智讃は多紀道忍編、五眼讃は龍谷唄策の墨譜によっ ている。従ってその二つを比べてみると、勿論テキストの字数や、一 字の音節数の相異などで若干の変更はみられる。  四智讃︵以下四智讃と略︶の最初の﹁縛日払﹂は一音節の字であるか ら、各々に︿二つユリ﹀があてられているが、五三讃の字はほとんど が二音節なので、︿二つユリ﹀を一音節にあて、いるため、﹁眼.清﹂ など︿二つユリ﹀が二回つつ続いている。そのためもあってか、五眼 讃には︿三つユリ﹀がみられない。  ︿ユリ﹀に続く<キル﹀の位置は両者異っている。又、五眼讃には ︿ササヤク﹀が用いられているが、これは旋律型の付加とはいえな い.即ち、文字の最後の音が七のように発音されるという事を示して いるにすぎない。  複合旋律型は全く同型のものを、そのま\当てはめている..  ピッチに関しては、 ︿押出し﹀のそれが異っている。四智讃は﹁角﹂ から﹁徴﹂への半音の上降である。四恩讃の﹁努﹂につけられた複合 旋律婦中、 ﹁徴﹂は本来は﹁角﹂そして﹁恒﹂の﹁角﹂は﹁商﹂であ ったが多紀道忍氏によって改定されたということを灰聞している。さ すれば五識讃の旋律型のほうが原型を示しているといえよう。  次に、実際にこれらの節譜がどのように演唱されているかについて 考えたい。 ﹁天台声明﹂と﹁西本願寺声明﹂との比較研究 1 五三

(12)

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(15)

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(16)

﹁天台声明﹂と﹁西本願寺声明﹂との比較研究 1  これらの採譜には、昭和四十八年七月二日∼四日大津市西教寺に於        ⑫ て行われた相愛女子大学音楽学専攻生のフィールド・ワークの際の片     ㊧ 岡義道氏と霊岳英雄氏の講演と実習の録音テープを使用した。従って 両氏各々一人の演唱であり、随所に解説を加えながら行われた。なお       ⑳ 四智讃の採譜を行うにあたって、天台声明のレコードを参考資料とし て使用した。  採譜はできるだけ忠実に行ったが、両者の比較において、五線譜が かならずしも、最も適当であるか否か少し疑問を感じたりしたので、 譜の上で簡略化し、説明を加える方針をとった。  ①/或いは\は2音間のポルタメントを示す。最初の音、最高音、 と最後の音のみの記譜を行った。  ②﹀は、長さの一定しない休止である。  ③・は、非常に短い休止で、ブレスも行わない場合が多い。  ④はビブラートの記号。この個所は、本来は︿ユリ﹀のはずである が、演唱者の息がたりなくなったのか、音価を測定しにくい状態であ ったのでこの記号を使用した。  各々一回の演唱を録音したのみであり、又一人の演唱によるものな ので個人的なくせや、偶発的なものを除外した客観的資料とみなす事 はできない。が、各々の旋律型が両宗派でどのように演唱されている かを知る何らかの手がかりとなると思った。  五眼讃には九つの旋律型がある。次に各々の旋律型を抽出し比べて みる。  ④は四智讃、⑤は五眼讃より抽出された旋律型である。 ︿押出し﹀ ︹黒影1︺

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(18)

﹁天台声明﹂と﹁西本願寺声明﹂との比較砥究 1 にのみ存在すること、、演唱者達に余り好まれる曲ではないことな ど、納得のいく現象である。  以上のアナリーゼによって、直ちに天台声明と西本願寺声明の違い を述べるには、余りに性急である。現在西本願寺の声明には現在約三 十の旋律型が使用されている。今後の課題としては、それらの旋律型 を数多くの声明の中より抽出し、検討を行っていきたい。  西本願寺の声明は、天台宗声明の影響が非常に強いといわれなが ら、今迄のところこの種の研究は行われていない。我々は、この研究 を全くパイオニア的に試みた。その結果、この方向で研究を進めてい くことは誤りではないという確信を得ることができた。しかし、今回 は、資料の不足のため充分な研究を行うことはできなかった。今後の 問題としては、いたずらに両声明を比較するばかりではなく、テキス ト・クリティックと、現行の演奏との関係をもっと明らかにしていか ねばならない。  又、こうした声明とは別に、真宗には大衆によって唱和される正信 偶和讃がある。東本願寺では、蓮如宗主以後、そのま\の形で伝統を 保持していると伝えられる。西本願寺においては、度々の先に述べた ような声明の改定が行われてきたので、正信偶和讃にも、何らかの影 響が及んでいると想像される。しかし、大衆により唱和される正信偶 和讃の音楽的な研究は、当時の民衆音楽を知る上においても、何らか の手がかりの一つとなろう。今後の課題として我々は、この瀬戸を深 めていきたいと思う。   

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@ ︵大学音楽学部助教授 〃  〃 講 師︶ 六〇 ① ﹁一、声明は小原流事﹂ ︵命定聖教全書︶ ② 覚如著、 ︵真宗聖教全書︶ ③三三著、三五第四段  ﹁建久三年あきのころ、御白河の院の御菩提のためにやさかのやまとの入道  見仏引導寺にして七日念仏勤行しはんべりける。声明の先達に心阿弥陀仏共  行の結衆に見仏房、住蓮房、安楽房等あまたひとびとありけり、声明を興行  せられけることは、こゑ仏事をなすいはれあれば⋮⋮中略⋮⋮住蓮安楽この  二人はときの宗匠ときこゆ、ゆゆしくたふとかりけるとなん﹂ ︵真宗聖教全  書︶ ④叢林集巻七三五十三法事勤行︵真宗全書︶ ⑤ 親鶯滅后、京都東山の大谷の地に遺骨を収めた祖師廟が建立され、この廟  が後の本願寺へと発展するのであるが、その三主には宗祖の血脈直系者があ  たった。これを留守職という。 ⑥ 全十巻からなり、覚如の次男従覚の述作、覚如の行状を書したもの︵真宗  聖教全書︶ ⑦ 文和元年乗専著︵真宗聖教全書︶ ⑧覚如、永仁二年、宗祖三十三回忌法要に際して著述せられたもの ⑨ 全十五巻 京都慶証寺玄智、寛政三年の著︵真宗全書︶ ⑩ 最勝講式文は尊正寺僧正玄智の、又信貴鎮守講式は信貴山学頭宝塔院叡空  律の嘱によって漂わされたものである。知恩講式は、謝徳講式、尊師講式と  も称して延文三年の述作といわれる。法然の遺徳を讃仰したもので、実如宗  主の頃迄は、真宗教団で専ら行われていた。 ⑪  ﹁六時礼讃﹂は六時に阿弥陀仏を讃嘆する行儀で、唐の善導大師の述作に  なる﹁往生礼讃偶﹂の解文がテキストとなっている。本文にも述べるように  わが国の浄土教系教団では専ら依用されている。   ﹁法事讃﹂は﹁浄土法事讃﹂とも称し、善導の作で﹁阿弥陀経﹂を読講す  る行儀を述べたものである。 ﹁阿弥陀経﹂は、弥陀の浄土の様相並びに功徳  を述べた経典である。我国では亀荘僧鳩摩羅什の訳経になるものが専ら用い  られている。

(19)

⑫ 大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の三部の経典を指し、真宗ではこれら  を正依の経典としている。 ⑬京都願楽寺慧恵明和二年著、巻下雑聚問答︵真宗全書︶ ⑭ 蝶蝿芳隆著﹁本願寺の声明とその伝来﹂ ︵仏教史学第二号、昭ゐ年刊︶九  十二頁参照 ⑮ 全一巻 龍谷大学蔵 京都光隆寺知影の著、知影は幼少より西光寺交流に  ついて声明を学び、寛政元年二十七才で大原において理病院知観に師事す  る。文政八年示寂、此書は、本山声明に関する様々な事項や年中行事を記  し、更に宮中の仏事についても詳述している。 ⑯ 右此聲明書者、本門主寂如前大僧正迎先師二十五回忌及三十三回忌之法諦  専興星明野道而悉改正墨譜之章焉、 束子野柄訂考呂律聲明之田鼠且爲二末弟  僧侶一数教二聲響一高命難レ黙、不レ得二固辞一遂集及二三策一散書墨譜云爾    元緑七穰甲戌秋八月上旬、魚山大僧都法印幸雄   

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⑰経谷芳隆著﹁本願寺の声明と伝来﹂︵仏教史学第二号︶九十三頁 ⑱ 祖門旧事記 巻二 祖忌法事紀宗祖四百五十回忌法会差定︵玄智、天明三  年著、真宗全書︶ ⑲伊勢の出身、姓は園部、幼少より魚山に入り知観、秀雄等に師事し、宝泉  院に住するが明治二十七年に示寂、京都東山大谷に墓所がある。 ⑳ 西本願寺では、それぞれ法要の内容によって、これに唱諦される声明曲と  行儀作法とがまとめられ、法要の目的に従ってこれらの作法が適宜用いられ  ている。現在、24種の作法があるが、すでに﹁龍谷唄策﹂には作法毎に声明  曲をまとめることが行われている。   大師影供作法は、宗祖の御影を讃仰する法要であるが、この作法もすでに  龍谷唄策には見えている。但し現行のものとは少し異っている。現行の次第  は次の通りである。    ①五眼讃    ②類讃    ③書讃    ④念仏正信偶    ⑤回向句   五眼讃はそのテキストを大無量寿経下巻より採り作法中においては雅楽の  奏楽の後冒頭に請唱され、この間に伝供︵衆僧がリレー式に供物を供えるこ  と︶が行われる。 ⑳ 京都芸術大学教授、天台真盛宗霊徳寺住職、多紀道忍師に師事、天台声明  に関する多くの著作がある。 ⑳ 現在西本願寺勤式指導所主任、会堂、本願寺勤式練習所において声明を学  び、宮西本願寺法務部に奉職、今日に至る。 ⑱ 天台声明︹鶉二て一、マω竃ヴ剣一OOOμ︵h∼劇︶監修解説 片岡義道。 166 ﹁天台声明﹂と﹁西本願寺声明﹂との比較研究 1 六一

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