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世紀転換期のアメリカにおける不法行為法

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Academic year: 2021

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(1)世紀転換期のアメリカにおける不法行為法 楪 博 行 はじめに 20世紀へ向かう世紀転換期のアメリカは、世界一の工業国となると同時に都 市化をもたらした。急速な経済発展と都市化により、激しい労使対立や農民の 反乱が起こり、数多くの移民が流入してきた⑴。そして20世紀初頭には革新主 義と呼ばれる時代を迎え、社会福祉的政策がとられるようになった⑵。 法学の場面でも大きな変革の時代を迎えた⑶。まず南北戦争後には大学教育 と法科大学院教育が変革された。判決を経験から帰納法的に分析して法理を導 き出し、それを理解することが求められた⑷。法学教育は当時の定義で科学的 に行われることになったのである⑸。さらに1873年にはホームズ (Oliver Wendell Holmes) は、多くの判決を分析し過失による不法行為を理論化した⑹。 このように20世紀に至る世紀転換期において、アメリカの不法行為法は過失 による不法行為の理論化に加え、時代の影響を受けて、何らかの法理を現在に 伝えたはずである。つまり、形成に時間を必要とするコモン・ローではなく、 社会動向に敏感となり得る学説が過失による不法行為を理論化したことから、 それは容易に想定されるのである。そこで本稿は、世紀転換期における不法行 為法の発展過程を分析し、いかなる不法行為法上の法理または特徴が形成され 現在の不法行為法に資する点があるのか考察を加える。 1.危険の引受け法理の形成 19世紀末には移民の流入を受け人口が増加し、それに伴う急速な経済発展は 交通事故や工場労働での事故の増加をもたらした⑺。しかし、裁判所は契約の 自由を基調とするレッセ・フェールを堅持した⑻。また19世紀末の人々は、事 ─ 51 ─.

(2) 故などの惨事が起こっても誰かに責任を負わせる感覚がなかったのである⑼。 この社会状況の下で導かれたのは、損害賠償を否定する過失による不法行為の 抗弁 (defense) であった。これが危険の引受け (assumption of risk) の法理であり、 世紀転換期に形成された第1の不法行為法理である。 危 険 の 引 受 け は1900年 の マ サ チ ュ ー セ ッ ツ 州 最 高 裁 判 所 の Lamson v. American Axe & Tool Co. ⑽で明示された。本件は、斧の製造工場で斧を置いて いた棚が崩壊し、落下した斧でケガを負った被用者が使用者を訴えた案件であっ た。首席裁判官のホームズは、斧を製造する工場で勤務している時点でケガを 負う危険性を認識しかつそれを引き受けており、使用者を相手取って過失によ る不法行為の訴えを提起することはできないと判断した⑾。たとえ職を失うこ とを憂慮して危険を引き受けたとしても、当該法理が適用されるとも述べてい る⑿。ホームズは、使用者の損害賠償責任をあくまでも被用者が危険性を認識 していない場合に限定し、被用者がこれを認識していれば、危険の引受け法理 によって損害賠償責任から使用者を免除したわけである⒀。つまり、裁判所は 事故をもたらす労働条件には目を向けていなかったのである。 危険の引受けの原型は、1859年にヒラード (Francis Hillard) によって既に示さ れていた。彼は、被用者が危険な状態を認識しつつ労務提供を継続していれ ば、危険を引き受けていると述べていた⒁。当該法理は、使用者と被用者間の 雇用契約から導き出されたものであった。その後、1870年には当該法理は訴権 の放棄として位置づけられるようになった。使用者と被用者間の黙示の契約で あり、分配される責任とその契約を継続させていることを根拠に被用者が訴権 を放棄したととらえられたのである⒂。黙示の契約に拠る危険の引受けの観念は、 1886年のトンプソン (Seymour Thompson) に継受された。そして契約内容は、労 務提供にとどまらず多岐にわたるものとなった。これはいずれも契約案件にお ける訴権の放棄に近似した性質を前提として、使用者と被用者または運送人と 乗客との関係の中で適用されたものであった⒃。そしてトンプソンは、これら の契約関係以外においても広く契約で適用される法理であると想定していた⒄。 しかし、危険の引受けの根拠を契約関係に求める見解は否定されつつあった。 1878年にワートン (Francis Wharton) は、労務提供中の事故が被用者の過失によ る不法行為であり、その損害賠償の支払い義務を契約に基づいて緩和させるこ ─ 52 ─.

(3) とは法の方針 (policy of law) に違反すると述べた⒅。危険を招いた者はその危険 により被った損害の賠償を得られないのが当然であり、これは不法行為法の枠 内の考えであるととらえたのである⒆。そこで危険の引受けの法理は、使用者 と被用者の契約関係に根拠を置く法理ではなく、過失による不法行為の事案に 対応するものと位置づけられ、契約関係とは区別されたのである⒇。 以上のワートンの主張を受けて、1895年にウォーレン (Charles Warren) が、 過失による不法行為の一般法理として危険の引受けを位置づけようと試みた㉑。 ウォーレンはまず社会構成員が社会に対して負う普遍的な注意義務が存在する ことを仮定し、当該義務が過失との間に相関関係をもつものであるととらえた㉒。 過失による不法行為訴訟では、被告が原告に対して負う義務の存在を原告が証 明しなければならない㉓。それに対して被告は抗弁として、被告の義務が不在 の状況に原告が自ら身を置いたことを主張することができると考えたのである㉔。 1906年には、ボーレン (Francis Bohlen) は、危険の引受けが特定の不法行為に 限定的に適用される法理ではなく、過失による不法行為案件で一般的に適用さ れるべきであると述べた㉕。つまり、使用者と被用者など特定の関係や契約関 係を前提とするものではなく、任意に行った場合において当該法理が適用され ると主張したのである㉖。ボーレンはまず経済状況から危険の引受けの法理を 正当化しようとした。20世紀初頭のアメリカの経済状況は良好で失業率も低く、 被用者が自分の仕事を危険と考えれば危険でない仕事に転職することは可能で あった。それにも関わらず転職せずに労務提供を継続していれば、既に任意で 危険を引き受けていると考えたのである㉗。次にアメリカ人を社会学的に分析 した結果から当該法理を導いた。アメリカ人は安全の確保を求める傾向を有し ているため、危険が軽率や不承不承の行為から発生すると理解していると述べ る㉘。これらを総合し、またアメリカ人の個人主義志向も併せて考え、アメリ カ不法行為法で危険の引受けの法理は妥当すると結論づけたのである㉙。 現在では、当該法理は不法行為一般の抗弁と位置づけられている㉚。一方で、 従前の根拠であった雇用契約は、州労災補償法 (workerʼs compensation statute) に 代替させられてきた。雇用関係では、州労災補償法を通じた労働災害への補償 により、実質的に危険の引受け法理が適用除外されるようになったからであ る。アメリカでの労災補償法の嚆矢となった㉛ 1911年のウィスコンシン州労災 ─ 53 ─.

(4) 補償法は、1900年の制定運動開始を経て、1905年にウィスコンシン州議会に法 案が提出された。当時のウィスコンシン州最高裁判所裁判官であったマーシャ ル (Roujet D. Marshall) などが当該法案の支持を表明したため、多くの州民が損 害を被った被用者に同情的となっていった㉜。これを背景に危険の引受け法理 の対象から労務提供が外され、労災補償法により被用者の労務提供中の損害が 補償されることになったのである。この世論の動向は当時の革新主義と合致し たものであった㉝。労働者福祉の視点から由来した労災補償法と軌を一にした ともいえるのである。ウィスコンシン州で制定された後、労災補償法はアメリ カのすべての州で制定されるに至ったのであった㉞。 以上のように、州レベルでは被用者の危険の引受けの状況は変化した。また、 連邦では勤務中に損害を負った被用者の救済を目的として、運転士をはじめと する鉄道労働者には1908年に連邦雇用者責任法 (the Federal Employers Liability Act) が成立した㉟。複数の州にまたがって鉄道整備や業務を行う鉄道労働者には、 州法である労災補償法が適用されないため、連邦雇用者責任法が制定され、適 用範囲が広げられたわけである。さらに1939年に連邦議会は連邦雇用者責任法 で危険の引受けを抗弁と認めない改正を行い㊱、連邦制定法による雇用関係で の危険の引受けの法理を否定したのである。 2.寄与過失と最後の明白な損害回避機会の法理 第2の不法行為法理が最後の明白な回避機会 (last clear chance) の法理であり、 寄与過失の例外として位置づけられる。寄与過失は、1809年にイングランドの 判決である Butterfield v. Forrester ㊲によって示された㊳。当事者双方に過失があ る場合に、いずれの当事者に対しても損害賠償を否定する損害賠償上の法理で ある。当該法理は些細な過失であっても、当事者双方への損害賠償を完全に否 定するものであったため、過失の少ない不法行為被害者には過酷な処置とな り、何らかの例外が求められていた。そこで、1842年にイングランドにおいて Davies v. Mann ㊴で最後の明白な損害回避機会の法理が示されたのであった。本 件は、路上に放置されていたロバに被告が御する馬車が衝突した事件であった。 判決は、ロバとの衝突を最終的に回避できたのは被告であり、それを行わなかっ ─ 54 ─.

(5) たのは被告の責任であると結論づけたのである㊵。 アメリカでは、1880年にトンプソン (Seymour Thompson) が、最後の明白な損 害回避機会の法理を、原告の過失が損害発生に直接影響を与えなければ、自ら の過失で損害賠償を否定されないとするルールであると述べた㊶。しかし1885 年にビーチ (Charles Beach) は、最後の明白な損害回避機会の法理が、寄与過失 を廃止する効果があるという致命的な誤解を導くものであると主張した㊷。つ まり彼は寄与過失を肯定し、最後の明白な損害回避機会の法理を否定したので ある。具体的には、当該法理が寄与過失の存在意義を否定する効果をもつこと になり、そのため過失による不法行為案件での判決の行方が想定されないと述 べたのである㊸。ビーチは、寄与過失の存在を絶対ととらえ、これを基礎に過 失による不法行為上の争点を解決することを望んだわけである㊹。ビーチが目 的としたのは、アメリカにおいて寄与過失と最後の明白な損害回避機会の法理 を調和させ、過失による不法行為を秩序ある論理的体系にすることであった㊺。 しかし、当該法理を正当化する理論的基礎を示すことはなかったのである。 1886年にはウィルズ (William Wills) が、最後の明白な損害回避機会の法理を 過失による不法行為での一般的に適用される法理にはならないと主張した㊻。彼 は当該法理の適用が実際には困難であると認識したからである㊼。最後の明白 な損害回避機会の法理は当事者双方に過失があるにもかかわらず、最後に損害 回避機会をもつ者だけに責任を負わせ、損害発生を回避する機会がいずれの当 事者に来るかで、結果が異なってしまうことを批判したのである㊽。しかし一 転して後年の1889年には、彼は最後の明白な損害回避機会の法理が、法的責任 を限定する作用をもつ近似的因果関係 (proximate cause) に由来するため、当該 法理が主たる損害原因を発生させた者に責任を負わせる基準となっていると述 べている㊾。1888年のシャーマン (T. Sherman) とレッドフィールド (A. Redfield) の第四版の教科書でウィルズの1886年に示した考えが検討され、最後の明白な 損害回避機会の法理が妥当であり、かつ必要な法理であると説明された㊿。そ して、1898年に出版された第五版では、当該法理の核心となる部分を抽出し、 損害発生を回避する最後の機会をもつ者は他者に過失があっても免責されない と簡潔に言及されたのである。その後の1901年には、トンプソンは改訂版教 科書を出版し、Davies 判決の法理を「最後の明白な損害回避機会の法理」と名 ─ 55 ─.

(6) づけたのであった。 一方で、最後の明白な損害回避機会の法理の根拠を近似的因果関係に求める 学説は、1889年以降になると批判されるようになった。Davies 判決と近似的因 果関係は関連性をもたないという理由からである。1889年にシォフィールド (William Schofield) は、Davies 判決が近似的因果関係に言及したものではないと 主張した。その理由として本判決で検討されたのは、被告の最後の機会でロ バとの衝突を避けるための適切な注意を払ったか否かであったと述べたのであ る。本判決が示したものは、他者の過失によって引き起こされた損害、つま り結果の回避義務である。適切な結果回避義務を履行することが、損害の救 済を得る条件となっていると理解したのである。 1908年にはボーレンは、近似的因果関係とは異なる複数の違法行為が連続し て損害発生に寄与する場合に限り、最後の明白な損害回避機会の法理が適用さ れ、法的責任判断の補助的基準になると主張した。そして当該法理を、原告 に危険が迫っておりその回避ができないことにつき、被告が知っている場合、 もしくは被告がその危険を知るべきまたは認識可能であった場合に、被告に責 任を負わせるルールであると解したのである。 わずかな過失にもかかわらず救済が否定される寄与過失は、過失が少ない当 事者にとって過酷なものである。それを緩和する目的のみで最後の明白な損害 回避機会の法理を根拠づけるには、妥当性が欠如していると批判を受ける可能 性がある。そのため、過失の少ない当事者を救済するための明確な根拠が求め られるのである。Davies 判決にはこれが欠如していたため、最後の明白な損害 回避機会の法理を近似的因果関係で説明する学説が出現したわけである。しか し、当該法理と説明概念の間の論理的関連性が示されなかった。法を科学的に とらえる傾向からは、複数の判例から帰納法を用いて法理を論理的に導く必要 がある。最後の明白な損害回避機会の法理の根拠を説明するにあたって、裁 判所に代わり不法行為研究者がそれを担ったわけである。しかし、寄与過失が もつ過失が少ない当事者への過酷さを緩和させること以外に、最後の明白な損 害回避機会の法理の妥当性を見出すことはできなかった。 現在ではアラバマ州、メリーランド州、ノース・カロライナ州、バージニア 州、そしてワシントン D.C. のみが寄与過失制度を採用している。ただしこれ ─ 56 ─.

(7) ら諸州においても、最後の明白な損害回避機会の法理は適用が制限されている。 損害発生の主たる要因となる被告の過失と原告のそれが同時発生する場合には 適用除外されるのである。アメリカでは、過失の多少にかかわらずいずれの 当事者も損害賠償を負担すべきとの考慮から、上記以外のほぼすべての州で比 較過失制度が採用されてきた。これらの州の多くでは最後の明白な損害回避 機会の法理の適用はないが、ネブラスカ州とサウス・ダコタ州では当該法理 が過失による不法行為の近似的因果関係判定基準として機能している。 3.使用者責任と共働者の準則 第3の不法行為法理が使用者責任 (respondeat superior) である。当時の不法行 為研究者は、経済発展を目的として加害者の責任を制限する方向性を示してい た。これを推進したホームズは、社会構成員間には損害に対する相互保証が あり、過失のない者も他者が発生させた損害への賠償を負担する責任があると 述べていた。この考えが代位責任 (vicarious liability) である。また、被用者が 第三者に加えた損害の賠償責任を使用者に負わせたのが使用者責任 (respondeat superior) である。1852年に合衆国最高裁判所は Philadelphia & Reading R. R. v. Derby で、代位責任を雇用関係や使用者による被用者への支配関係ではなく、 被用者の行為が業務の範囲内であることに根拠を置くと判断していた。 一方で、既に1842年にマサチューセッツ州最高裁判所は、被害者と同僚の被 用者の過失によって起きた労働災害の損害について、使用者の損害賠償責任を 免除する旨を示していた。本件は鉄道会社に勤務する被用者の過失が同僚に 損害を与えた案件であった。本判決は、業務の遂行中に他の被用者が過失で損 害を発生させれば同時に損害賠償責任を引き受けていると述べ、使用者には 法的責任がないと判断したのである。使用者責任の例外となる雇用者免責法 理は、共働者の準則 (fellow servant rule) と呼ばれることになった。共働者の準 則により、使用者責任はいわば骨抜きにされたのである。 19世紀後半までは共働者の準則が適用されていた。しかし、19世紀末の世紀 転換期にはこの適用を巡る議論が起こり、合衆国最高裁判所はこの適用を制限 する方向性を示すようになってきた。まず、1884年の Chicago, Milwaukee & St. ─ 57 ─.

(8) Paul Ry. Co. v. Ross では、車掌の過失により機関士がケガを負った事案につき、 車掌は共働者ではなく、業務から見て使用者に準ずるとする判断が下された 。車掌が列車運行につき全般的な権限を有し、列車運行のために雇用されて. . いる者への監督権を及ぼすことができる者と位置づけられたからである。し かし1890年代に入ると、合衆国最高裁判所は Ross 判決を破棄した。1893年の Baltimore & Ohio R. R. v. Baugh で、蒸気機関車の機関士の過失により機関助士 がケガを負った事案につき、機関士が蒸気機関車運転部門の責任者であっても 使用者に準じないとして、共働者に該当する旨の判断を下したのである。そ して、使用者が代位責任を負うには使用者の何らかの義務違反が必要であるか ら、使用者が被用者の業務に相当な注意を払っている場合には責任を負うこと はないと付言したのである。これに対して反対意見は、本判決により今後は 使用者の責任を追及できなくなるとの懸念を示したのであった。つまり、本 判決は Ross 判決で示された被用者を疑似使用者と位置づける論理構成を否定し、 使用者責任を使用者自身の過失の有無に基づいて判断したのであった。 19世紀末においても共働者の準則を前提とした使用者責任を否定する傾向が 判例上存続した。ホームズによる社会構成員間の損害に対する相互保証である 使用者責任が、コモン・ロー上制限されたわけである。この制限の背景には、 裁判官の間で使用者責任の法理のとらえ方、つまり最新の学説を否定する旧態 依然とした思考が存在したと考えられるのである。 コモン・ロー上の使用者責任の制限を認めた Baugh 判決に対して、先例であ る Ross 判決の妥当性を主張する論者も存在した。しかし、使用者責任の制限 が解除されるには世紀転換期を経過した次の時代まで待たねばならなかった。 連邦では、1939年に連邦雇用者責任法が改正されて共働者の準則が廃止された のである。現在の使用者責任は、雇用中に行った被用者による不法行為につ いては使用者が責任を負うことになっている。その判定は、被用者の行為が 雇用目的に沿ったものであり、使用者の仕事を達成するための範囲内であるか 否かが基準となっているのである。. ─ 58 ─.

(9) おわりに 19世紀末から20世紀に至る世紀転換期において、アメリカの不法行為法に新 しい法理が加わった。危険の引受けと最後の明白な損害回避機会の法理であり、 これらの法理の根拠を何に求めるかについて議論がなされたのである。 新しい法理の形成ではないが、この時期の不法行為法上の議論には使用者責 任があった。これは南北戦争前に既に確立した法理であったが、共働者の準則 により制限されていた。この制限が解除されたのは1939年であり、長い時間を 必要とした。なぜなら、使用者責任および共働者の準則ともコモン・ロー上の 法理であったために判例の変更がなされず、最終的に立法による解決が待たれ たからである。 世紀転換期で生まれ、また議論がなされた法理は、すべて不法行為責任の制 限を目的とするものであった。またこの間に深い議論がなされたとしても、法 理は流動的であった。しかし、社会的変革に直面した世紀転換期に現れた新し い法理は、学説および判例上の議論を経て、時代状況により内容を変化させな がらも、脈々と現在に受け継がれているのである。. 註. ⑴ 岩野一郎「都市政治と移民」 (阿部斉等編『世紀転換期のアメリカ―伝統と革新―』 91頁所収)(東京大学出版会、1982)を参照。 . ⑵ 前掲阿部斉等編・新川健三郎「革新主義より「フーバー体制」へ―政府の企業規 制と実業界―」259頁を参照。. ⑶ 南北戦争後のポストベラム期にプラグマティズムの影響を受けた法学者は、法学 を科学としてとらえて帰納法的に法理を導きだそうとした。なお、ポストベラム期 において法学教育が変革された過程については、楪博行「世紀転換期におけるアメ. リカ不法行為法形成を支える制度的背景-大学における専門教育の視点から-」白 鴎大学法政策研究所報告第8号12頁 (2020) を参照。. ⑷ Christopher C. Langdell, A SELECTION OF CASES ON THE LAW OF CONTRACTS Ⅵ (1871). ⑸ G. Edward White, TORT LAW IN AMERICA 24 (1980).. ⑹ Oliver W. Holmes, The Theory of Torts, 7 AM. L. REV. 652, 662 (1873). ホームズは多く の判例を分析して、過失による不法行為の前提となる義務は社会に対するものであ. ─ 59 ─.

(10) るととらえたのである。アメリカにおける過失による不法行為の形成については、. 楪博行「アメリカにおける過失による不法行為の形成」法政治研究第6号1頁(2020) を参照。. ⑺ John Fabian Witt, THE ACCIDENTAL REPUBLIC 26 (2004).. ⑻ Id. at 67. 憲法的視点に立てばレッセ・フェールとは、政府による干渉を極力避け るという意味をもつ。岡嵜修『レッセ・フェールとプラグマティズム法学-19世紀 アメリカにおける法と社会-』73頁(成文堂、2013)を参照。. ⑼ Lawrence Friedman, A HISTORY. OF. AMERICAN LAW 3rd ed. 352 (New York: Touchstone. 2005) (1st ed. 1973). ⑽ 177 Mass. 144 (1900). ⑾ Id. at 145. ⑿ Id.. ⒀ White, supra note 5, at 41.. ⒁ 2 Francis Hillard, THE LAW OF TORTS OR PRIVATE WRONGS 3d ed. 467 (Boston: Little Brown 1866) (1st ed. 1859). ⒂ Thomas G. Shearman and Amasa A. Redfield, A TRIETIES. ON. THE LAW. OF. NEGLIGENCE 2d. ed. 121 (New York: Baker, Voorhis & Co., Publishers 1870) (1st ed. 1869). ⒃ 2 Seymour Thompson, THE LAW. OF. NEGLIGENCE. IN. RELATIONS NOT RESTING. IN. CONTRACT. 1147 (1886). ⒄ Id. at 1148.. ⒅ Francis Wharton, A TRIETIES ON THE LAW OF NEGLIGENCE 2d ed. 203 (Philadelphia: Kay & Brother 1878) (1st ed. 1874). ⒆ Id. at 235. ⒇ Id. at 188.. ㉑ Charles Warren, Volenti Non Fit Injuria in Acts of Negligence, 8 HARV. L. REV. 457 (1895). ㉒ Id.. ㉓ Id. at 458. ㉔ Id.. ㉕ Francis Bohlen, Voluntary Assumption of Risk, 20 HARV. L. REV. 14, 91 (1906). ㉖ Id. at 14.. ㉗ Id. at 15-16. ㉘ Id. at 107. ㉙ Id. at 115.. ㉚ See, 5 LITIGATING TORT CASES § 59:68 (2019 updated).. ㉛ ニュー・ヨーク州では1910年に労災補償法が制定されているが、これが使用者に. 対して強制的な性質をもつという理由から適正手続 (due process) 違反とされている。. ─ 60 ─.

(11) See, Ives v. South Buffalo Ry. Co., 94 N.E. 431 (1911). ㉜ 17 WIS. PRAC., WORKER S COMP. LAW § 2:2 (2019 updated).. ㉝ 革新主義とは世紀転換期にアメリカが直面した問題に対する改革運動であり、都 市の中間層をターゲットとして女性参政権の確立、住民提案や住民投票、そして工 場法や最低賃金法などの社会立法の具体化がなされてきた。久保文明『アメリカ政 治史』74-75頁(有斐閣、2018)を参照。. ㉞ 全米の労災補償法の詳細については、See, e.g., Alan Stephens, Workers’ compensation: coverage of injury occurring between workplace and parking lot provided by employer, while employee is going to or coming from work, 4 A.L.R.5th 585 (1992). ㉟ 45 U.S.C.A. § 51. ㊱ 45 U.S.C.A. § 54.. ㊲ 103 Eng. Rep. 926 (1809).. ㊳ 寄与過失法理の成立過程およびそれを巡る問題については、楪博行「寄与過失を 巡る問題」白鴎法学第26巻1号445頁 (2019) を参照。. ㊴ 10 M. & W. 546 (1842). ㊵ Id. at 548.. ㊶ Thompson, supra note 16, at 1157.. ㊷ Charles Beach, A TRIETIES ON THE LAW OF CONTRIBUTORY NEGLIGENCE 12 (1885). ㊸ Id.. ㊹ Id. at 481-82. ㊺ Id. at 12.. ㊻ William Wills, Book Review, 2 L. Q. REV. 506 (1886). ㊼ Id. at 507. ㊽ Id.. ㊾ William Wills, Book Review, 5 L. Q. REV. 85, 87 (1889).. ㊿ Thomas G. Sherman and Amasa A. Redfield, A TRIETIES. ON. THE LAW. OF. NEGLIGENCE 4th. ed. 165 (New York: Baker, Voorhis & Co., Publishers 1888) (1st ed. 1869).  1 Thomas G. Sherman and Amasa A. Redfield, A TREATIES ON THE LAW OF NEGLIGENCE 5th ed. 154-55 (New York: Baker, Voorhis & Co., Publishers 1898).  1 Seymour D. Thompson, COMMENTARIES ON THE LAW OF NEGLIGENCE 229 (1901)..  William Schofield, Davies v. Mann: Theory of Contributory Negligence, 3 HARV. L. REV. 263, 271 (1889).  Id..  Id. at 273..  Id. at 274 n.5..  Francis H. Bohlen, Contributory Negligence, 21 HARV. L. REV. 233, 238 (1908).. ─ 61 ─.

(12)  Id. at 259..  科学的法学方法として、ハーバード法科大学院長であったラングデル (Christopher Columbus Langdell) は、1870年代から判決を教育上の素材として、学生に集中的講. 義することが科学的法学教育であると考えた。そして帰納法を用いて基本的な法理 とその適切な概念の理解を目指した。See, Langdell, supra note 4, at Ⅴ-Ⅶ ..  William L. Prosser, Comparative Negligence, 51 MICH. L. REV. 465, 496 (1953).  Palenchar v. Jarrett, 507 F. Supp. 2d 502, 512 (D. Md. 2007)..  比較過失制度が成立した過程については、楪博行「アメリカにおける比較過失」 白鴎法学第26巻2号107頁 (2019) を参照。.  See, e.g., Rios v. Norsworthy, 597 S.E.2d 421, 426 (Ga. 2004).  Am. Jur. 2d, Negligence §1001.  White, supra note 5, at 50..  Oliver W. Holmes, THE COMMON LAW 96 (1881).  55 U.S. (14 How) 468, 485-86 (1852)..  Farwell v. Boston & Worcester R.R., 45 Mass. 49 (1842).  Id. at 57.  Id. at 62..  White, supra note 5, at 51.  112 U.S. 377 (1884).  Id. at 394..  149 U.S. 368 (1893).  Id. at 385-86.  Id. at 411..  White, supra note 5, at 55..  Sherman and Redfield, supra note 51, at 419.  45 U.S.C.A. § 51..  See, e.g., OʼToole v. Carr, 815 A.2d 471, 474 (N.J. 2003)..  See, e.g., Wrenn v. G.A.T.X. Logistics, Inc., 73 S.W.3d 489, 493-94 (Tex. 2002).. ─ 62 ─.

(13) American Tort Law at the Turn of Twentieth Century Hiroyuki Yuzuriha At the turn of twentieth century, American tort law has introduced some new legal theories: assumption of risk, last clear chance, and vicarious liability. In introducing these theories, fierce discussion continued among commentators on the theories. Although commentators were interested in the development and refinement of the theories of tort law, they were particularly enthusiastic about one doctrine, limiting liability. The doctrinal histories reveal not only the ingenuity of late nineteenth century legal study, but also suggest a basic tenet that legal theory is in a constant state of flux. American experience of tort law at the turn of twentieth century has an influence on tort law today.. ─ 63 ─.

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