序
宮 沢 賢 治 1 ︵ 一 八 九 六 ︱ 一 九 三 三 ︶ に 宮 沢 ト シ ︵ 一 八 九 八 ︱ 一 九 二 二 ︶ と い う 妹 が あ っ た こ と 、 賢 治 が 一 九 二 二 年 一 一 月 二七日に二四歳で没したトシを悼み 、﹃ 春と修羅 第一集 ﹄ 所収の ﹁ 永訣の朝 ﹂﹁ 青森挽歌 ﹂ 等の作品をあらわした ことは 、 広く知られている 。 論文要旨 本論文は 、 宮沢賢治 ︵ 一八九六 ︱ 一九三三 ︶ が 、 妹トシ ︵ 一八九八 ︱ 一九二二 ︶ の死に際して 、 国柱会の典礼をま とめた ﹃ 妙行正軌 ﹄ に従って追善を行おうとしたという見通しのもと 、 考察を行う 。 賢治はトシの通夜と葬儀に参列していない 。 これは ﹃ 妙行正軌 ﹄ が異教他宗の儀礼への参加を禁じていたためであり 、 賢治が 国 柱 会 会 員 と し て の ア イ デ ン テ ィ テ ィ を 強 く 保 持 し て い た こ と の 証 左 で あ る 。 次 に 、 賢 治 が ト シ の 死 以 前 か ら ﹃ 日 蓮 聖 人 御 遺 文 ﹄ を手掛かりに法華経による死者の追善を主題とした創作を行おうとしていたことを確認した 。 そうして 、 賢治が ﹃ 日蓮聖人 御遺文 ﹄ 中の転生観に影響を受けつつ 、 トシの死後の行方を主題とする創作を行うも 、 トシの行方に確証が持てない過程を概観 した 。 そののち 、 妹の死を経た兄が ﹁ すべてのいきもののほんたうの幸福 ﹂ を追い求めるべきだとする物語である ︹ 手紙四 ︺ を 配ったことも 、﹃ 妙行正軌 ﹄ の定める ﹁ 教書 ﹂ としての追善を意図したものだったと検証した 。 キーワード 宮沢賢治 、 宮沢トシ 、 追善 、 国柱会 、﹃ 妙行正軌 ﹄ 『宗教研究』94巻3輯(2020年)宮沢賢治における追善
牧
野
静
本論文では 、 賢治がトシの存在とその死をどう捉え 、 どう行動したかを考察する 。 具体的には 、 トシの葬儀から ト シ を め ぐ る 創 作 活 動 ま で の 一 連 が 、﹃ 妙 行 正 軌 2 ﹄ と ﹃ 日 蓮 証 人 御 遺 文 3 ﹄ の 二 冊 を 手 引 き と し た 追 善 4 で あ っ た と い う仮説を検証していく 。 その際 、 賢治が 、 トシが女性であったことから 、 女人往生 ︵ 成仏 ︶ について何らかの問題 意識を持ち 、 それを創作に反映していった可能性も 、 あわせて指摘する 。 本論文で特に注目するのは 、 賢治が所持していた ﹃ 妙行正軌 ﹄ である 。 これは国柱会の儀礼 、 法要の行い方をま と め た も の で あ る 。 賢 治 が ﹃ 妙 行 正 軌 ﹄ か ら 受 け て い た 影 響 に つ い て の 先 行 論 と し て は 、﹁ 雨 ニ モ マ ケ ズ 手 帳 ﹂ に か ん す る も の が あ る 。 こ れ は 賢 治 が 一 九 三 一 年 頃 使 用 し て い た と 推 定 さ れ 、﹁ 雨 ニ モ マ ケ ズ ﹂ が 書 き つ け ら れ て い た こ と か ら そ う 呼 ば れ る 手 帳 に つ い て の 研 究 で あ る 。 こ の 手 帳 に は ﹃ 法 華 経 ﹄ か ら の 抜 き 書 き が 多 く 記 さ れ て お り 、 賢 治 の 法 華 信 仰 を 探 る 上 で 、 重 要 な 資 料 と な っ て い る 。 そ し て 、﹁ 雨 ニ モ マ ケ ズ 手 帳 ﹂ に お け る ﹃ 法 華 経 ﹄ の 抜き書きは 、 すべて国柱会の編んだ ﹃ 妙行正軌 ﹄ に拠るものだということも 、 既に指摘されてい る 5 。 田 中 智 学 ︵ 一 八 六 一 ︱ 一 九 三 九 ︶ の ナ シ ョ ナ リ ス ト と し て の イ メ ー ジ 6 と 賢 治 が 結 び つ く こ と を 忌 避 す る ゆ え か 、 賢 治 研 究 に お い て 、 国 柱 会 と の 関 係 は 避 け ら れ が ち で あ る 。 し か し 賢 治 は 晩 年 で あ る 一 九 三 一 年 頃 に な っ て も 、﹁ 雨 ニモマケズ手帳 ﹂ に ﹃ 妙行正軌 ﹄ から ﹃ 法華経 ﹄ の抜き書きを数多行うほどには 、 国柱会の教義を強く意識してい る 。 こ の 手 帳 に は 、﹁ 高 知 尾 師 ノ 奨 メ ニ ヨ リ / 法 華 文 学 ノ 創 作 ﹂ [ 十 三 ︵ 上 ︶・ 五 六 三 ] と 記 さ れ た 箇 所 も あ る 。 こ れ は 賢治が国柱会幹部の高知尾智耀と面会した際 、 信仰をあらわすような創作を行うようすすめられたことを指してい る 7 。 以上から 、 賢治の創作の動機には国柱会がかかわっており 、 トシが亡くなった一九二二年 、 およびその後のト シの死をめぐる創作を行っていた時期にも 、 賢治は国柱会会員としての自覚を保ちながら創作を行っていたとみる
宮沢賢治における追善 べきなのである 。 この ﹃ 妙行正軌 ﹄ には 、 追善について記した箇所もある 。 のちに詳しく扱うが 、 賢治はトシの死に際し 、 これを 遵守する行動を取ろうとしたと考えられる 。 これは管見の限り今まで指摘されてこなかった点であり 、 これについ ての検証はオリジナルな作業となる 。 トシの死が賢治の創作に深くかかわるであろうことは 、 賢治研究の厖大な蓄積において 、 繰り返し指摘されてき た 。 なかには 、 作品の読解から 、 賢治とトシの関係にインセスト ・ タブーの気配を読み込み 、 それゆえに賢治の悲 しみ方が尋常ならざるものになったのだとする 説 8 を提示するものもある 。 しかし賢治は 、 少なくとも 、 トシに対す る 自 身 を ﹁ 信 仰 を 一 つ に す る た つ た ひ と り の み ち づ れ の わ た く し ﹂[ 二 ・ 一 四 三 ] と あ ら わ し て い る 。 こ こ で は ト シ を主体に 、 道連れが賢治であると形容されている 。 賢治にとってトシは単に創作意欲を掻き立てるモチーフではな い 。 賢治もまた 、 トシを思索と信仰の主体として捉えようとしていたとみるべきだろう 。 換言するならば 、 賢治は トシと 、 自身の信仰に照らしながら向き合おうとしていたと考えられるのである 。 その上で問題とすべきは 、 トシの死をめぐる賢治の創作が 、 繰り返しトシの死後の行方を問うものとしてあらわ されているという点である 。 賢治が死後の転生を主題として創作を行っていることは 、 賢治研究において何度も注 目 さ れ て お り 、 特 に ﹃ 日 蓮 聖 人 御 遺 文 ﹄ か ら の 影 響 が 検 討 さ れ て き た 9 。 し か し 本 論 文 で 指 摘 す る よ う に 、 賢 治 は ﹃ 日 蓮 聖 人 御 遺 文 ﹄ だ け で は な く 、﹃ 妙 行 正 軌 ﹄ か ら も 強 い 影 響 を 受 け て い る 。 さ ら に 、﹃ 妙 行 正 軌 ﹄ に 則 っ て 追 善 を行っても 、 賢治はトシの往生が確定したとは捉えていない 。 賢治は日蓮や国柱会の説く唱題成仏 、 即身成仏を素 朴に信じてはいな い A 。 そしてこの賢治の転生へのこだわりは 、 本論文で扱うように 、 国柱会の ﹃ 妙行正軌 ﹄ に則っ
た追善を行うと同時に 、 女人成仏の問題に悩む過程を追うことで 、 はじめて明らかにできるものなのである 。 その 際 、 追善にまつわる賢治のテキストのみでなく 、 賢治が実際にどのような行動を取っていたかを併せて検討するこ とも 、 重要である 。 こ こ で は ま ず 、 ト シ の 死 に 際 す る 賢 治 の 行 動 が 、﹃ 妙 行 正 軌 ﹄ に 則 ろ う と す る も の で あ っ た こ と を 確 認 す る 。 そ れから 、 賢治がおそらくは追善として 、 どのように創作を行おうとしたのかをたどっていく 。 最後に 、 賢治の追善 としての創作が ︹ 手紙四 ︺ に結実しているという見通しのもと 、 その理由を探っていく 。
一
トシの死と
﹃
妙行正軌
﹄
ここでは 、 賢治がトシの死に際して ﹃ 妙行正軌 ﹄ に則った行動をしていたことを指摘しておきたい 。 賢 治 は ト シ 臨 終 の 翌 日 で あ る 通 夜 の 日 に 、 二 階 に 籠 っ て い た 。﹁ 弔 問 客 で ご っ た 返 し 、 お 通 夜 の 食 事 を 出 す の に 家族は追われた 。 宮沢家には下に浄土真宗の 、 二階に日蓮宗 ︵ 国柱会 ︶ の仏壇があり 、 賢治はその御曼荼羅に祈り 続 け ﹂ [ 十 六 ︵ 下 ︶ 年 譜 篇 ・ 二 四 四 ] て い た の で あ る 。 ま た 、 宮 沢 家 の 菩 提 寺 で あ る 真 宗 大 谷 派 の 安 浄 寺 で の 葬 儀 に は 参列せず 、 トシの棺を火葬場に運ぶ際に町角からあらわれ 、︵ 火葬場は火事で焼けていたため 、 野天で ︶﹁ 安浄寺の 僧 侶 が か ん た ん な 回 向 を し た あ と 、 賢 治 は 棺 の 焼 け 終 る ま で り ん り ん と 法 華 経 を よ み つ づ け ﹂ [ 十 六 ︵ 下 ︶ 年 譜 篇 ・ 二 四四 ︱ 二四五 ] たとされる 。 こ れ ら の 行 動 に つ い て 、﹃ 妙 行 正 軌 ﹄ か ら 対 応 す る と 思 わ れ る 箇 所 を 抜 き 出 し て み る 。 ま ず 通 夜 の 日 の 行 動 で あ る が 、 こ れ は ﹁ △ 諸 慶 讃 ︵ 一 般 の 祝 賀 典 體 に 就 て 佛 祖 の 加 護 昭 鑑 を 仰 ぎ 奉 る 法 要 ︶﹂ に お け る ﹁ ◎ 葬 儀 其 他 の 佛 事宮沢賢治における追善 には酒食饗應を追善に混ずる陋風を改め教書を施すべし ﹂ ではないだろうか 。 賢治が通夜の際に二階に籠ったこと は 、﹃ 妙 行 正 軌 ﹄ に お け る 追 善 の 箇 所 か ら 、 少 な く と も ﹁ 酒 食 饗 應 を 追 善 に 混 ず る ﹂ こ と を ﹁ 陋 風 ﹂ と 捉 え た た め であると解釈することが可能だろう 。 なお ﹁ 教書を施すべし ﹂ については 、 通夜 、 葬儀にかんする賢治の行動に 、 対 応 し そ う な も の は 見 受 け ら れ な い 。 た だ し 、 の ち の 賢 治 の 行 動 に 、﹁ 教 書 ﹂ を 念 頭 に お い た と 推 測 で き る も の が 見受けられるため 、 この箇所についてはのちの章で検討する 。 葬 儀 に 参 列 し な か っ た の は 、 既 に 大 谷 栄 一 が 指 摘 す る B よ う に 、﹃ 妙 行 正 軌 ﹄ 中 の ﹁ 本 化 妙 宗 信 條 式 目 の 法 義 を 約行取要して左の五則十條の信條を定む ﹂ における ﹁ 第七条 他教異宗の教義又は祭祀を信仰し及びこれに供養す ることを嚴禁すべし ﹂ という項目を遵守したからだと考えられる 。 他宗の葬儀に参列することは 、 国柱会員にとっ て謗法なのである 。 ト シ の 棺 を 運 ぶ 際 に 賢 治 が 町 角 か ら あ ら わ れ た こ と 、 野 天 で 棺 を 焼 く 間 に 題 目 を 唱 え 続 け た こ と に も 注 目 し た い 。 こ れ は 他 教 異 宗 の 供 養 に 加 わ る こ と の 出 来 な い 賢 治 が 、 苦 肉 の 策 と し て 、﹁ △ 諸 慶 讃 ﹂ に お け る ﹁ ◎ 途 上 に て 葬儀に逢ふ時は相當の敬體を表し微音唱題して弔意を展ぶべし ﹂ を解釈したものであると考えられる 。 先に述べた よ う に 、 葬 儀 そ の も の に 参 列 す る こ と は 、﹃ 妙 行 正 軌 ﹄ に お い て 禁 じ ら れ て い る 。 し か し 、 同 じ く ﹃ 妙 行 正 軌 ﹄ に おいて 、﹁ 途上にて葬儀に逢ふ時 ﹂ は ﹁ 微音唱題 ﹂ して ﹁ 弔意を展ぶ ﹂ ことができるのである 。 賢治は国柱会員であるゆえに 、 トシの通夜や葬儀に参加することが出来ない 。 しかし 、 賢治がたまたま町角でト シの出棺に行き会ったという体であるならば 、 そのまま火葬に立ち会って唱題することも 、 先にあげた ﹁ 第七条 ﹂ に反さず 、﹃ 妙行正軌 ﹄ の定めるところに十分従うものであると考えたのではないだろうか 。
以上をあわせ 、 賢治は ﹃ 妙行正軌 ﹄ の定めるところに則ったがゆえに 、 トシの通夜と葬儀に参列せず 、 出棺の途 中から火葬に立ち会い 、 唱題したと考えられるのである 。 トシの追善にまつわる賢治のこれらの行動は 、 やや奇矯なもののように見受けられる 。 妹を喪った兄が 、 通夜に 一切顔を出さなかったことや 、 葬儀に参列しようとしなかったことは 、 弔問客たちに 、 一体どう見えただろうか 。 トシのからだが焼かれていくとき 、 たったひとりで題目を唱え続ける賢治の姿は 、 おそらく周囲に異様な印象を与 え て い る こ と だ ろ う 。 し か し 賢 治 の こ れ ら の 奇 矯 な 行 動 は 、﹃ 妙 行 正 軌 ﹄ の 遵 守 と い う 根 拠 を 持 つ も の だ っ た の で ある 。 トシの死にまつわる賢治の行動として次に確認できるのは 、 国柱会機関誌である ﹃ 天業民報 ﹄ の一二月二三日付 の記事である 。 ここに ﹁ ● 金壱百円也 岩手宮沢賢治殿 / 右ハ令妹登志子遺志ニ依リ ﹂ という掲載があり 、 賢治が ト シ の 遺 志 と し て 国 柱 会 に 入 金 し て い る こ と が わ か る [ 十 六 ︵ 下 ︶ 補 遺 ・ 伝 記 資 料 篇 ・ 三 三 C 八 ] 。 翌 年 一 月 、 賢 治 は 静 岡 県の国柱会本部を訪ね 、 納骨の手続きを行っている [ 十六 ︵ 下 ︶ 年譜篇 ・ 二五一 ︱ 二五二 ] 。 トシの通夜と葬儀に関連し 、 賢治は基本的には ﹃ 妙行正軌 ﹄ に則って行動していたことがわかる 。 また 、 トシの 名を挙げての入金や 、 国柱会本部に赴いて納骨の手続きを行っていることからも 、 トシを弔うために国柱会会員と し て 可 能 な 限 り の こ と を 行 っ て い る と い え る 。 妹 の 通 夜 や 葬 儀 に 参 列 す る こ と よ り 、 国 柱 会 会 員 と し て ﹃ 妙 行 正 軌 ﹄ に則って行動することが優先されるほど 、 賢治の国柱会会員としてのアイデンティティは強いものだった 。 た だし 、 苦肉の策ともいえるような仕方で 、 解釈の隙間を縫って火葬に立ち会おうとするほど 、 妹を直接弔おうとす る思いも 、 強いものであった 。
宮沢賢治における追善 そのような行動をとっていた賢治であるが 、 トシの死を扱う創作において 、 賢治はトシの転生先を問い続けてい る 。﹃ 妙 行 正 軌 ﹄ に お け る ﹁ 葬 儀 表 白 文 ﹂ に は 、 帰 る べ き 場 所 と し て の 常 寂 光 土 が 指 定 さ れ て い る D が 、 賢 治 の 創 作 からは 、 賢治がトシの死後の行方に確信を持っているようには見受けられない 。 賢治は通夜と葬儀にかんして ﹃ 妙 行正軌 ﹄ に則って行動したが 、 その行動によって 、 トシの死後の行方を確信することはなかったようである 。 次章では 、 賢治がトシの死以前に法華経による追善の発想を持っていたことを確認する 。 また 、 トシの死をめぐ る創作についても 、 のちに扱う 。
二
﹃
法華経
﹄
による追善
ここでは賢治が ﹃ 法華経 ﹄ による追善という発想を示した過程を追っていく 。 賢治は一九一四年に ﹃ 法華経 ﹄ に出会い 、 一九一八年頃から 、 天台教学的理解から 、 日蓮教学的理解へと移行し てい く E 。 この一九一八年は 、 賢治が熱烈な法華信仰を表明し始める時期でもある 。 例えば二月二三日付父政次郎宛 書簡で 、 賢治は以下のように綴っている 。 万事は十界百界の依て起る根源妙法蓮華経に御任せ下され度候 。 誠に幾分なりとも皆人の役にも立ち候身なら ば空しく病痾にも侵されず義理なき戦に弾丸に当ることも有之間敷と奉存候 。 [ 十五 ・ 四九 ︱ 五 〇 ] これは自分の身は ﹃ 法華経 ﹄ の功徳により安全であるから 、 徴兵検査に反対してくれるなと嘆願する文脈のもの で あ る 。 ま た こ の 年 の 三 月 に 親 友 で あ る 保 阪 嘉 内 ︵ 一 八 九 六 ︱ 一 九 三 七 ︶ が 盛 岡 高 等 農 林 学 校 を 除 籍 さ れ る と 、 そ れ を 慰 め る 目 的 の 書 簡 [ 十 五 ・ 五 五 ︱ 七 二 ] で 、﹃ 法 華 経 ﹄ を 読 む こ と を 強 く 勧 め て い る 。 こ れ ら の 書 簡 か ら は 、﹃ 法 華経 ﹄ がすべての苦境に対して有効であるかのような賢治の解釈が読み取れる 。 そ し て こ の 一 九 一 八 年 は 、 賢 治 に と っ て 死 を 連 想 す る 出 来 事 が 続 く 年 で も あ り F 、﹃ 法 華 経 ﹄ に よ る 死 者 の 追 善 を 主張し始める年でもある 。 この年の六月一八日に 、 保阪の母親が亡くなる 。 それを知った賢治は保阪宛に何通か書 簡を送っているが 、 それらの中には励ましと同時に ﹃ 法華経 ﹄ で追善を勧めるものがある 。 以下に一九一八年六月 二六日付のものを引用する 。 此の度は御母さんをなくされまして何とも御気の毒に存じます 御母さんはこの大なる心の空間の何の方角にお去りになったか私は存じません あなたも今は御訳りにならない あゝけれどもあなたは御母さんがどこに行かれたのか又は全く無くおなりに なったのか或はどちらでもないか至心に御求めになるのでせう 。 あなた自らの手でかの赤い経巻の如来寿量品を御書きになって御母さんの前に御供えなさい 。 あなたの書くのは御母様の書かれると同じだと日蓮大菩 が云はれました 。 あなたのお書きになる一一の経の文字は不可思儀の神力を以て母様の苦を救ひもし暗い処を行かれゝば光とな り若し火の中に居られゝれば ︵ あゝこの仮定は偽に違ひありませんが ︶ 水となり 、 或は金色三十二相を備して 説法なさるのです 。 [ 十五 ・ 九一 ] 賢 治 が 保 阪 に 書 写 を 勧 め る 根 拠 が ﹃ 日 蓮 聖 人 御 遺 文 ﹄ で あ ろ う こ と は 、 鈴 木 健 司 G や 工 藤 哲 夫 H が 検 証 を 行 っ て い る 。 鈴木は登場する語句から ﹃ 日蓮聖人御遺文 ﹄ 中の ﹁ 上野尼御前御返 事 I ﹂ との類似を 、 工藤は同じく ﹃ 日蓮聖人 御遺文 ﹄ 中の ﹁ 上野尼御前御返事 ﹂ にくわえ 、﹁ 法蓮 鈔 J ﹂ との類似を指摘している 。﹁ 上野尼御前御返事 ﹂ は 、 上野
宮沢賢治における追善 尼御前が自らの父親の追善供養について尋ねたものの返答として書かれており 、 烏龍 、 遺龍という漢土の書家親子 の故事を引き 、 題目の書写がいかに亡き人への功徳となるかを説いている 。 ここでは上野尼御前の父親の行き先と して 、﹁ 今こそ入道殿は都卒の内院に参り給フらめ ﹂ としている 。 また工藤が指摘する ﹁ 法蓮鈔 ﹂ の前半部は 、﹁ 上 野尼御前御返事 ﹂ と同じく烏龍 、 遺龍親子の故事を引いて法華経による追善の功徳を説いたものであるが 、 後半部 で は 如 来 寿 量 品 が 法 華 経 中 最 も 枢 要 な も の で あ る こ と が 繰 り 返 し 主 張 さ れ て い る 。 賢 治 が 書 写 を 勧 め て い る の は ﹁ 如来寿量品 ﹂ であるため 、﹁ 法蓮鈔 ﹂ 中の ﹁ 如来寿量品 ﹂ 強調の影響も受けているのではないだろうか 。 また 、 こ の書簡において 、 賢治が保阪の母の死後の行方を分からないものとして提示していることにも注目できる 。 賢治の 死者の行方についての問題意識の端緒は 、 この保阪宛書簡から読み取れるのである 。 賢治はこの ﹁ 如来寿量品 ﹂ による死者の追善という発想を 、 一九二一年から一九二三年にかけて執筆したと推定 さ れ る ﹃ ひ か り の 素 足 ﹄ [ 八 ・ 二 八 一 ︱ 三 〇 四 ] と い う 童 話 作 品 に あ ら わ し て い る 。 こ の 作 品 の お お ま か な 展 開 を 確 認 する 。 幼い兄弟が主人公であり 、 弟の楢夫が ﹁ 風の又三郎 ﹂ に死を予告され 、 怯える場面から始まる 。 その後 、 吹 雪の中で遭難した兄弟は 、 いつの間にか ﹁ うすあかりの国 ﹂ におり 、 鬼に鞭で打たれながら 、 足を破るような地面 を 裸 足 で 歩 か さ れ る 。 そ こ に ﹁ に ょ ら い じ ゅ り ゃ う ぼ ん だ い 十 六 。﹂ と い う 声 が 聞 こ え て く る 。 兄 の 一 郎 が そ れ を 復唱したことで 、 ひかる素足を持つ ﹁ 大きなりつぱな人 ﹂ があらわれ 、 地面は平らかとなり 、 場が天界を思わせる も の へ と 変 貌 す る K 。﹁ 大 き な り つ ぱ な 人 ﹂ は 兄 の 一 郎 に ﹁ お 前 は 一 度 あ の も と の 世 界 に 戻 る の だ ﹂ と 告 げ る 。 そ う して兄は息を吹き返し 、 弟は事切れているというものである 。 ﹃ ひ か り の 素 足 ﹄ に つ い て は 、 工 藤 哲 夫 が ﹃ 日 蓮 聖 人 御 遺 文 ﹄ 中 の ﹁ 十 王 讃 歎 鈔 L ﹂ と の 構 造 の 類 似 を 指 摘 し て い
る M 。 工藤は ﹁ 十王讃歎鈔 ﹂ において肉親による法華経を用いた追善の功徳が何度も繰り返し強調されていることに 注 目 す る 。﹁ 十 王 讃 歎 鈔 ﹂ に は 、 追 善 が な け れ ば 地 獄 行 き だ が 、 追 善 に よ っ て 成 仏 す る 例 が 挙 げ ら れ て い る 。 工 藤 は ま た 、﹁ 法 蓮 鈔 ﹂ に お け る ﹁ 如 来 寿 量 品 ﹂ の 強 調 か ら も 、 賢 治 が ﹃ ひ か り の 素 足 ﹄ の 着 想 を 得 た と し て い る 。 執 筆者もこれに同意する 。 ここまで見てきたように 、﹃ ひかりの素足 ﹄ は ﹃ 日蓮聖人御遺文 ﹄ から強い影響を受けつつ描かれたものである 。 この作品がトシの死の前後の期間に執筆されていたことからも 、 賢治が死者の追善を非常に重要な問題として意識 していたことが推測できる 。 しかし賢治はこの ﹃ ひかりの素足 ﹄ に 、﹁ 凝集を要す おそらくは不可 ﹂ [ 八校異篇 ・ 一 一 七 ] の 書 き 込 み を 添 え 、 生 前 発 表 す る こ と が な か っ た 。﹁ 如 来 寿 量 品 ﹂ を 用 い た 追 善 の 物 語 は 、 賢 治 の 没 後 ま で 日の目を見ることがなかったのである 。 この章では 、 賢治は日蓮教学的法華信仰に目覚めたころから 、﹃ 法華経 ﹄、 特に ﹁ 如来寿量品 ﹂ を用いた肉親によ る追善という発想を持っていたことを確認してきた 。 それはトシの死の前後にあらわされた ﹃ ひかりの素足 ﹄ とい う童話に 、 一旦は結実した 。 賢治がそれを ﹁ おそらくは不可 ﹂ のまま放置したのと同時期に 、 賢治はトシの死をめぐる創作を行っている 。 次 章ではそれを扱う 。
三
トシの行方
ここではトシの死をめぐる創作を扱う 。宮沢賢治における追善 最 初 に 注 目 す る の は ﹃ 春 と 修 羅 第 一 集 ﹄ に お け る 挽 歌 群 で あ る 。 ト シ の 死 を 直 接 扱 う 作 品 は 、﹁ 無 声 慟 哭 ﹂ に お け る 五 篇 ︵ そ の う ち 三 篇 が ト シ 臨 終 の 日 付 を 附 さ れ て い る ︶ と 、﹁ オ ホ ー ツ ク 挽 歌 ﹂ に お け る 五 篇 の 、 合 わ せ て 十篇である 。 ト シ 臨 終 の 日 付 を 附 し て い る 作 品 に は 、﹁ け ふ の う ち に / と ほ く へ い つ て し ま ふ わ た く し の い も う と よ ﹂︵ ﹁ 永 訣 の 朝 ﹂︶ [ 二 ・ 一 三 八 ] 、﹁ あ あ け ふ の う ち に と ほ く へ さ ら う と す る い も う と よ / ほ ん た う に お ま へ は ひ と り で い か う と す る か / わ た く し に い つ し よ に 行 け と た の ん で く れ / 泣 い て わ た く し に さ う 言 つ て く れ ﹂︵ ﹁ 松 の 針 ﹂︶ [ 二 ・ 一 四 二 ] 、﹁ お ま へ は じ ぶ ん に さ だ め ら れ た み ち を / ひ と り さ び し く 往 か う と す る か ﹂︵ ﹁ 無 声 慟 哭 ﹂︶ [ 二 ・ 一 四 三 ] の よ う に 、 トシが間もなく息を引き取るであろうことを 、 一人で遠くに行ってしまうと表現するものが続く 。 こ れ ら に は 、﹁ お ま へ が た べ る こ の ふ た わ ん の ゆ き に / わ た く し は い ま こ こ ろ か ら い の る / ど う か こ れ が 天 上 の アイスクリームになつて / おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに / わたくしのすべてのさいはひをかけて ね が ふ ﹂︵ ﹁ 永 訣 の 朝 ﹂︶ や 、﹁ ど う か き れ い な 頬 を し て / あ た ら し く 天 に う ま れ て く れ ﹂︵ ﹁ 無 声 慟 哭 ﹂︶ [ 一 四 四 ] な どの表現もみられる 。 これらについて 、 大谷は ﹁ 輪廻転生の行く先を六道 ︵ 天 ・ 人間 ・ 修羅 ・ 畜生 ・ 餓鬼 ・ 地獄 ︶ の ︿ 天 ﹀ であることを祈る願望を表 出 N ﹂ したものだとしている 。 続 い て 収 録 さ れ る ﹁ 風 林 ﹂ に は ﹁ お ま へ は そ の 巨 き な 木 星 の う へ に 居 る の か ﹂ [ 二 ・ 一 四 八 ] と い う 問 い か け が み ら れ 、﹁ 白 い 鳥 ﹂ [ 二 ・ 一 五 〇 ︱ 一 五 三 ] に は 、 ト シ が 白 い 鳥 に 転 生 し て い る イ メ ー ジ が 綴 ら れ る 。 こ れ は ト シ の 畜 生 道への転生を示唆したものだと 、 大谷は指摘してい る O 。 なお 、 この ﹁ 風林 ﹂ と ﹁ 白い鳥 ﹂ の二篇は 、 のちに賢治自 身の手入れによって削除されている 。
﹁ オ ホ ー ツ ク 挽 歌 ﹂ に 収 録 さ れ た 五 篇 は 、 一 九 二 三 年 八 月 の ﹁ 亡 く な っ た 妹 ト シ と の 交 信 を 求 め る 傷 心 旅 行 ﹂ [ 十 六 ︵ 下 ︶ 年 譜 篇 ・ 二 五 七 ] の 成 果 を 記 し た も の で あ る 。 こ こ で も 賢 治 は 、 ト シ の 行 方 と し て 何 ら か の 他 界 を 想 定 し よ う と し て い る P が 、﹁ と し 子 は み ん な が 死 ぬ と な づ け る / そ の や り か た を 通 つ て 行 き / そ れ か ら 先 ど こ へ 行 つ た か 分 からない ﹂︵ ﹁ 青森挽歌 ﹂︶ [ 二 ・ 一六 〇 ] と記すように 、 トシの行方を確信していない 。 ここまで見てきたように 、 賢治は ﹃ 春と修羅 第一集 ﹄ において 、 トシの転生を前提とした創作を行っている 。 そしてその転生先が天であるよう祈るが 、 トシが天界へと転生したことを確信してはおらず 、 確信出来ないことと あわせて 、 創作上に表現し続けるのである 。 賢治がトシの死以前から ﹃ 日蓮聖人御遺文 ﹄ を手掛かりに 、 死者の行方と追善に思いをめぐらせていたことは 、 先 に 紹 介 し た 保 阪 宛 書 簡 か ら も 明 ら か で あ る 。 賢 治 は 友 人 の 母 親 の 追 善 に ﹃ 法 華 経 ﹄、 特 に ﹁ 如 来 寿 量 品 ﹂ を 強 く すすめている 。 しかし 、 実際に ﹁ 如来寿量品 ﹂ による追善の物語をあらわそうとしたとき 、 未発表のまま挫折する のである 。 ﹃ 日 蓮 聖 人 御 遺 文 ﹄ 中 に は 日 蓮 の 転 生 観 を 探 る こ と の 出 来 る 、 説 話 や 故 事 の 引 用 が 多 く 見 受 け ら れ る Q 。 本 論 文 で は賢治のテキストと遺文との詳細な比較は行わないが 、 賢治がトシは転生を果たすと考えていることは確認してお く 。 ﹃ 春 と 修 羅 第 一 集 ﹄ 以 外 に も 、 賢 治 が ト シ の 死 か ら 着 想 を 得 て い る と 思 わ れ る 、︹ 手 紙 四 R ︺ [ 十 二 ・ 三 一 九 ︱ 三 二 一 ] と い う 作 品 が あ る 。︹ 手 紙 四 ︺ は 、 賢 治 と ト シ を モ デ ル と し た と 思 わ れ る S 、 兄 チ ュ ン セ と 妹 ポ ー セ の 物 語 で あ る 。 妹が病死したのちのある日 、 兄は小さな蛙を石で打つ 。 すると妹が兄の夢に出て 、 何故 ︵ 蛙に転生していた ︶
宮沢賢治における追善 自分を殺したのかと尋ねる 。 兄は妹の死後の行方を探さずにいられなくなる 、 という筋書きである 。 この作品は 、 以下のように結ばれる 。 ﹁ チ ユ ン セ は ポ ー セ を た づ ね る こ と は む だ だ 。 な ぜ な ら ど ん な こ ど も で も 、 ま た 、 は た け で は た ら い て ゐ る ひ とでも 、 汽車の中で苹果をたべてゐるひと ︹ で ︺ も 、 また歌ふ鳥や歌はない鳥 、 青や黒やのあらゆる魚 、 あら ゆるけものも 、 あらゆる虫も 、 みんな 、 みんな 、 むかしからのおたがひのきや ︹ う ︺ だいなのだから 。 チユン セがもしもポーセをほんたうにかあいそうにおもふなら大きな勇気を出してすべてのいきもののほんたうの幸 福をさがさなければならない 。 それはナムサダルマプフンダリカサスート ラ T といふものである 。 チユンセがも し 勇 気 の あ る ほ ん た う の 男 の 子 な ら な ぜ ま つ し ぐ ら に そ れ に 向 か つ て 進 ま な い か 。﹂ そ れ か ら こ の ひ と は ま た 云 ひ ま し た 。﹁ チ ユ ン セ は い い こ ど も だ 。 さ ア お ま へ は チ ユ ン セ や ポ ー セ や み ん な の た め に 、 ポ ー セ を た づ ね る手紙を出すがいい 。﹂ そこで私はいまこれをあなたに送るのです 。 兄が死んだ妹の行方をたずねることは ﹁ むだ ﹂ であり 、 妹を本当にかわいそうに思うならば ﹁ すべてのいきもの のほんたうの幸福をさがさなければならない ﹂ のであり 、 そうして 、 チュンセでもポーセでもないこの物語の語り 手が 、﹁ このひと ﹂ に 、﹁ みんなのために 、 ポーセをたづねる手紙を出すがいい ﹂ と告げられたとするものである 。 ﹃ 春 と 修 羅 第 一 集 ﹄ に お い て ト シ の 死 後 の 行 方 を 問 う 創 作 を 続 け て い た 賢 治 だ が 、 賢 治 は ト シ の 死 の 翌 年 で あ る 一九二三年に 、 兄が妹の死後の行方をたずねることを ﹁ むだだ ﹂ とする作品をあらわし 、 やや特殊な仕方で人の目 に触れさせようとしている 。 これはどのような意図に基づいていたのだろうか 。 こ こ で 、 一 章 で 取 り 上 げ た ﹃ 妙 行 正 軌 ﹄ に お け る 追 善 の 箇 所 に 、﹁ ◎ 葬 儀 其 他 の 佛 事 に は 酒 食 饗 應 を 追 善 に 混 ず
る陋風を改め教書を施すべし ﹂ というものがあったことを思い起こしたい 。 賢治は確かに 、 二階に籠り 、 通夜の弔 問客と酒食を共にしないことで 、 この前半部に従ったといえる 。 そして後半部の ﹁ 教書を施すべし ﹂ に則った賢治 の行動は 、 トシの通夜や葬儀からは見出せない 。 賢治はトシの追善のために 、 布教活動を何らか行うべきであると 考えたのではないだろうか 。 トシの死から着想した作品において 、 宗教的理想を掲げること 、 またそれを投函して 歩くという行為が 、 賢治がトシの追善として行おうとしたものだったのだと推測することも 、 うがちすぎたもので あるようには思われない 。 なお 、 賢治が一時期には日蓮と同一視するほど熱烈な信奉を捧げていた田中智 学 U は 、 あまり輪廻や転生を語らな い V 。 し か し こ こ ま で み て き た よ う に 、﹃ 日 蓮 聖 人 御 遺 文 ﹄ に 基 づ い て ト シ の 転 生 を 考 え 、 創 作 に あ ら わ す こ と と 、 ﹃ 妙行正軌 ﹄ に則って行動することは 、 賢治の中で矛盾なく併存していたと考えられるのである 。
四
︹
手紙四
︺
と
︹
手紙二
︺
先の章では 、 賢治が ﹃ 妙行正軌 ﹄ に則った追善として ︹ 手紙四 ︺ を配ったことを検証した 。 ここで一つ 、 疑問が生じる 。 トシの追善のための ﹁ 教書 ﹂ として配られた ︹ 手紙四 ︺ のストーリーは 、 何故 、 カ エルに転生した妹を打ち殺すものでなければならなかったのだろうか 。 執筆者はこれを 、 賢治が女人成仏 ︵ 往生 ︶ の問題を意識し た W ためであったと考える 。 トシ臨終を描いた ﹁ 永訣の朝 ﹂ は 、 実は複数のバージョ ン X が残されている 。 賢治が初版本に大幅な書き込みを行 っ た 、 通 称 ﹁ 宮 沢 家 本 ﹂ に お い て 、 ト シ が 末 期 に 食 べ た 雪 に つ い て の 記 述 で あ る ﹁ 天 上 の ア イ ス ク リ ー ム ﹂ は 、宮沢賢治における追善 ﹁ 兜卒の天の食 ﹂ [ 二 ・ 三五六 ] へと改稿されている 。 これについて池川敬司は 、 トシが女人のまま兜卒天の天女に転 生することが出来る可能性のゆえであるという説を示してい る Y 。 ﹃ 日蓮聖人御遺文 ﹄ 中には ﹁ 女人往生 鈔 Z ﹂ のように 、﹃ 法華経 ﹄ のみが女人成仏 ︵ 往生 ︶ を可能とすると説く箇所 が あ り 、 賢 治 は お そ ら く こ れ も 読 ん で い た と 考 え ら れ る 。﹃ 法 華 経 ﹄ に 基 づ い て 女 人 成 仏 を 祈 る の で あ れ ば 、 龍 女 の変成男子がすぐさま連想される 。 しかし 、 賢治は 、 トシを念頭に置いたと思われる女の登場人物が 、 男の肉体に 変成する物語を描かない 。 池川説には一定の正当性があるように見受けられる 。 トシの死をめぐり 、 賢治が女人成仏 ︵ 往生 ︶ の問題を意識した可能性は 、 それ以外のアプローチを用いても検討 するべきだろう 。 一 九 二 〇 年 九 月 一 二 日 、 賢 治 は 妹 シ ゲ ︵ 一 九 〇 一 ︱ 一 九 八 七 ︶ ・ ク ニ ︵ 一 九 〇 七 ︱ 一 九 七 九 ︶ を 引 率 し て 岩 手 山 登 山 に 赴 く [ 十 六 ︵ 下 ︶ 年 譜 篇 ・ 二 〇 四 ] 。 こ の 登 山 は 父 政 次 郎 ︵ 一 八 七 四 ︱ 一 九 五 七 ︶ の 発 案 で あ る 。 当 時 の 政 次 郎 の 発 言 と し て記録されているものに 、 以下のようなものがある 。 女トイフモノハ 、 カワイソウナモノダ 。 コンド生レカワッテクルトキハ 、 オ前タチヲオンナデハナク 、 男ニ生 レテ来サセタイ 。 霊山デアル岩手山ニ登ッテ 、 神仏ニ祈願スレバ 、 来生ハ男ニ生マレルコトガデキ ル a 。 これは娘たちが来生で男に転生できるよう祈る発言である 。 なお 、 この時 、 トシはおそらく体調の問題から 、 登 山 に 同 行 し て い な い 。 賢 治 が こ の 岩 手 山 登 山 に つ い て 語 っ た も の は 管 見 の 限 り 見 当 た ら ず 、 父 と 賢 治 が 女 人 成 仏 ︵ 往 生 ︶ や 女 人 の 罪 障 に つ い て や り 取 り し た も の も 見 当 た ら な い が 、 少 な く と も こ の 登 山 に か ん し て 、 賢 治 が 父 の 要望に沿った行動を取っていると看做すことは出来る 。
次 に 、︹ 手 紙 二 ︺ [ 二 ・ 三 一 五 ︱ 三 一 六 ] と い う 作 品 を 紹 介 し た い 。 先 に 取 り 上 げ た ︹ 手 紙 四 ︺ に は 、 執 筆 時 期 、 配 布時期共に不詳の 、 同形式の文書がもう三種類存在する 。 そのうち ︹ 手紙二 ︺ は 、 アショウカ王が 、 ガンジス川を 逆流させることが出来るものはいるかと問い 、 ビンヅマティーという娼婦が名乗りを上げ 、 祈り 、 逆流させるとい う筋書きである 。 自分を買うものにはみな ﹁ おなじく ﹂ 仕えるという ﹁ まことのこころ ﹂ のゆえであると 、 ビンヅ マティーは語る 。 この ︹ 手紙二 ︺ が賢治研究において取り上げられることは少な い b 。 出典として 、 賢治が所持していた ﹃ 国訳大蔵 経 ﹄ 経 部 第 十 二 巻 に お け る ﹁ 国 譯 彌 陀 王 問 經 ﹂ に お い て 、﹁ 阿 育 大 王 ﹂ が ﹁ 恆 河 ﹂ を 逆 流 さ せ る こ と が 出 来 る か と 問 い 、﹁ 瀕 圖 摩 帝 ﹂ が そ れ に 答 え る と い う 、 ほ ぼ 同 じ 筋 書 き の 箇 所 c が あ る た め 、 そ れ だ と 推 測 で き る 。 賢 治 自 身 は 、 配 っ て 歩 き た い ほ ど 娼 婦 の 物 語 に こ だ わ っ た 理 由 を 述 べ て い な い 。 た だ 、﹁ い や し い ﹂、 ﹁ 不 義 で 、 み だ ら で 、 罪 深 ﹂ い 、﹁ 畜 生 同 然 ﹂ の 女 が ﹁ ま こ と の 力 ﹂ を 示 す 物 語 d を 選 ん だ こ と に 、 何 ら か 仏 教 と 女 性 に か ん す る 賢 治 の 考 えをみてとることは出来るだろう 。 賢治が具体的に女人成仏や女人往生について語ったものは遺されていない 。 しかし 、 今まで賢治が参照したこと が あ る 程 度 確 定 で き る と 検 証 さ れ て き た も の に お い て 、 追 善 の 成 功 例 は 、 男 に 対 す る も の が 多 い 。﹁ 上 野 尼 御 前 御 返事 ﹂ や ﹁ 法蓮鈔 ﹂ に登場する烏龍 、 遺龍親子の故事は 、 息子が父親を祈るものであり 、 日蓮のすすめによって上 野尼御前が追善しようとしているのも自身の父親である 。 賢治が描いた ﹃ ひかりの素足 ﹄ も 、 兄が弟の追善を行う 物 語 で あ っ た 。 そ う し て 、 賢 治 は 創 作 上 で ト シ の 行 方 に 確 信 を 持 つ こ と は な く 、 兄 が 妹 の 行 方 を 問 う こ と は ﹁ む だ ﹂ であり 、﹁ すべてのいきもののほんたうの幸福 ﹂ を求めるべきだとする 。 ここで 、﹁ すべてのいきもののほんた
宮沢賢治における追善 うの幸福 ﹂ を追うべきであるチュンセに 、﹁ ある人 ﹂ がかけた言葉を 、 いまいちど確認したい 。 チユンセがもし勇気のあるほんたうの男の子ならなぜまつしぐらにそれに向かつて進まないか 。 チュンセは ﹁ ほんたうの男の子 ﹂ として発破をかけられているのである 。 病を得て罪なく死んだ妹は 、 カエルに転生した上で 、 兄の手によって再び打ち殺される 。 それと知らず妹を殺し た 兄 は 、﹁ 勇 気 の あ る ほ ん た う の 男 の 子 ﹂ と し て の 使 命 を 与 え ら れ る 。 物 語 上 の 妹 の 役 割 と 兄 の 役 割 は 、 大 き く 異 なっているのである 。 序 で 引 用 し た よ う に 、 賢 治 は ト シ に 対 し 、﹁ 信 仰 を 一 つ に す る た つ た ひ と り の み ち づ れ の わ た く し ﹂ が 自 身 で あ ると述べていた 。 しかし 、 実のところ 、 トシが亡くなり 、 トシ自身の言葉が紡がれなくなってからの賢治は 、 女人 であるトシが上位転生を果たせない可能性に苦悩していたと考えられるのである 。 そうして賢治は 、 畜生に転生し て し ま っ た か も 知 れ な い ト シ を も 救 う た め に こ そ 、﹁ す べ て の い き も の の ほ ん た う の 幸 福 ﹂ を 、 追 い 求 め る べ き 理 想としたのではないだろうか 。 トシが畜生になってしまったのなら 、 畜生ごと救えばいいのである 。 賢治自身は具体的に女人成仏を語らない 。 女人の罪障を強調するものも 、 書き残していない 。 しかし 、︹ 手紙二 ︺ に お け る 娼 婦 の 造 形 や 、︹ 手 紙 四 ︺ に お け る 兄 妹 の 描 写 か ら 、 賢 治 が 女 性 の 仏 教 的 な 救 済 に 困 難 を 見 出 し て い た 可 能性を指摘できるだろう 。
結
本 論 文 で は ま ず 、 賢 治 が ト シ の 葬 儀 に 際 し て 、﹃ 妙 行 正 軌 ﹄ の 追 善 に ま つ わ る 箇 所 を 遵 守 す る 行 動 を と っ て い た可能性を指摘した 。 次に 、 賢治がトシの死以前から ﹃ 日蓮聖人御遺文 ﹄ を手掛かりに法華経による死者の追善を主 題とした創作を行おうとしていたことを確認した 。 そうして 、 賢治が ﹃ 日蓮聖人御遺文 ﹄ 中の転生観に影響を受け つつ 、 トシの死後の行方を主題とする創作を行うも 、 トシの行方に確証が持てない過程を概観した 。 そうしてのち に ︹ 手紙四 ︺ を配ったことも 、 トシの追善を意図したものだったと見立てた 。 さらに 、 賢治が ︹ 手紙四 ︺ において ﹁ す べ て の い き も の の ほ ん た う の 幸 福 ﹂ を 追 い 求 め る べ き だ と し た の が 、 ト シ の 転 生 先 が 畜 生 道 で あ る 不 安 を 反 映 しつつ 、 宗教的理想を追い求めたものであった可能性を指摘した 。 こ こ ま で 見 て き た よ う に 、 賢 治 は ト シ の 追 善 を 意 識 し つ つ 、 ト シ の 死 後 の 行 方 を ﹁ わ か ら な い ﹂ と 表 白 し 続 け た 。 賢治自身はそれを 、 追善が不十分であるゆえだと考え 、 創作を重ね続けたのかも知れない 。 あるいは 、 女人で あ る ト シ の 死 後 の 行 方 を 祈 る こ と に つ い て は 、﹁ す べ て の い き も の の ほ ん た う の 幸 福 ﹂ の 中 に 含 め て い く し か な い と い う 結 論 を 、︹ 手 紙 四 ︺ に お い て 打 ち 出 し て い る と み る こ と も で き る だ ろ う 。 賢 治 の テ キ ス ト の 多 く は 生 前 未 発 表だが 、 賢治はこの ︹ 手紙四 ︺ を配り歩いている 。 この ︹ 手紙四 ︺ は 、 賢治自身によって 、 他者の目に触れさせる だけの価値があると認められているのである 。 ︹ 手紙四 ︺ で提出された ﹁ すべてのいきもののほんたうの幸福 ﹂ は 、 賢治のその後の創作である ﹃ 銀河鉄道の夜 ﹄ に お け る ﹁ み ん な の ほ ん た う の さ い は い ﹂ [ 十 ・ 一 七 三 ] に も 引 き 継 が れ る テ ー マ と な る 。 賢 治 の 作 品 に 通 底 す る 他 者への祈りの端緒は 、 家族であるトシの追善を行ったことにあった 。 そしてそれは 、 国柱会の教義を意識しつつ 、 彼の法華信仰に基づいて深められた思索の軌跡から 、 辿ることができるものなのである 。
宮沢賢治における追善 注 ︵ 1︶ 本論文における宮沢賢治のテキストは宮沢賢治 ﹃︻ 新 ︼ 校本宮澤賢治全集 ﹄︵ 筑摩書房 、 一九九六 ︱ 二 〇〇 六年 ︶ を定本とする 。 また [ 巻数 ・ 頁数 ] の順に表記する 。 ︵ 2︶ 田中智学 ﹃ 妙行正軌 ﹄ 師子王文庫 、 一九 〇 三年初版 、 一九一五年十五版確認 。 以降本論文における ﹃ 妙行正軌 ﹄ はこれを参照 する 。 ︵ 3︶ 加藤文雅編 ﹃ 日蓮聖人御遺文 ﹄ 祖書普及期成会 、 一九 〇 四年 。 以下 ﹃ 御遺文 ﹄ と表記 。 ︵ 4︶ 追善を主題とした近年の研究に 、 徳野崇行 ﹃ 日本禅宗における追善供養の展開 ﹄︵ 国書刊行会 、 二 〇 一八年 ︶ がある 。 ︵ 5︶ 小倉豊文 ﹃﹁ 雨ニモマケズ ﹂ 新考 ﹄ 東京創元社 、 一九七二年 。 ︵ 6︶ 大谷栄一 ﹁ 戦前期日本の日蓮仏教にみる戦争観 ﹂︵ ﹃ 公共研究 ﹄ 三巻一号 、 二 〇〇 六年 ︶、 八 〇 頁 。 ︵ 7︶ 高知尾智耀 ﹁ 宮沢賢治の思い出 ﹂︵ ﹃ 真世界 ﹄ 真世界社 、 一九七六年 ︶、 三 〇 頁 。 ︵ 8︶ 福島章 ﹃ 宮沢賢治 芸術と病理 ﹄ 金剛出版 、 一九七 〇 年など 。 なお 、 福島の解釈には問題がある 。 福島はトシが恋慕の情を抱 いて苦しんだ相手として 、 肉親である賢治を想定する 。 しかしトシの恋愛事件の相手が花巻高等女学校の音楽教師であったこと は 、 当時の ﹃ 岩手民報 ﹄ における報道から特定できることが 、 山根知子 ﹃ 妹トシの拓いた道││ ﹁ 銀河鉄道の夜 ﹂ へむかって ﹄ ︵ 朝文社 、 二 〇〇 三年 ︶ において指摘されている 。 ︵ 9︶ 賢 治 の 死 生 観 を 扱 う 先 行 論 と し て 、 例 え ば 賢 治 が 倶 舎 論 に 注 目 し て い た こ と を 指 摘 す る 小 野 降 祥 ﹃ 宮 沢 賢 治 の 思 索 と 信 仰 ﹄ ︵ 泰 流 社 、 一 九 七 九 年 ︶ や 、﹃ 日 蓮 証 人 御 遺 文 ﹄ か ら の 影 響 を 指 摘 す る 栗 原 敦 ﹃ 宮 沢 賢 治 ││ 透 明 な 軌 道 の 上 か ら ﹄︵ 新 宿 書 房 、 一 九 九 二 年 ︶、 鈴 木 健 司 ﹃ 宮 沢 賢 治 幻 想 空 間 の 構 造 ﹄︵ 蒼 丘 書 林 、 一 九 九 四 年 ︶、 工 藤 哲 夫 ﹃ 賢 治 考 証 ﹄︵ 和 泉 書 院 、 二 〇 一 〇 年 ︶ などを挙げることができる 。 ︵ 10 ︶ 賢 治 の 他 界 観 に つ い て は 、 大 谷 栄 一 ﹁ 近 代 法 華 信 仰 に み る 浄 土 観 の 一 断 面 ││ 宮 沢 賢 治 の 場 合 ﹂︵ 池 見 澄 隆 編 著 ﹃ 冥 顕 論 ││ 日本人の精神史 ﹄ 法藏館 、 二 〇 一二年 、 三六五 ︱ 三九一頁 ︶ が詳しい 。 ︵ 11 ︶ 大谷前掲 ﹁ 近代法華信仰にみる浄土観の一断面││宮沢賢治の場合 ﹂、 三七三 ︱ 三七四頁 。 ︵ 12 ︶ なお 、 トシが国柱会に入金してほしいと願った遺言等は見つかっておらず 、 これが実際のトシの遺志を受けてのものなのか 、 賢治の独断であるかについては 、 資料の制約上確定することが難しい 。 ︵ 13 ︶ 同前 、 三七八頁 。 ︵ 14 ︶ 大平宏龍 ﹁﹁ 法華経と宮沢賢治 ﹂ 私論 ﹂︵ ﹃ 文芸月光 ﹄ 第二号 、 勉誠出版 、 二 〇 一 〇 年 ︶、 六 〇 ︱ 七七頁 、 大谷栄一 ﹁︿ 国土成仏 ﹀
という祈り││宮沢賢治と日蓮主義 ﹂︵ ﹃ ユリイカ ﹄ 四三 ︵ 八 ︶、 青土社 、 二 〇 一一年 ︶、 一八六 ︱ 一九五頁 。 ︵ 15 ︶ 親 友 で あ る 保 阪 の 母 親 が 亡 く な っ た ほ か 、 賢 治 自 身 が 六 月 三 十 日 に 肋 膜 炎 の 診 断 を 受 け 、﹁ わ た し の い の ち も あ と 十 五 年 は あ る ま い ﹂ と 予 感 し て い る [ 十 六 ︵ 下 ︶ 年 譜 篇 ・ 一 五 七 ]。 実 際 に 賢 治 は 十 五 年 後 の 一 九 三 三 年 に 命 を 落 と す 。 ま た こ の 年 の 一 二 月には 、 トシがスペイン風邪を患って入院する [ 十六 ︵ 下 ︶ 年譜篇 ・ 一六八 ]。 ︵ 16 ︶ 鈴木健司 ﹃ 宮沢賢治 幻想空間の構造 ﹄ 蒼丘書林 、 一九九四年 、 七 〇 ︱ 七三頁 。 ︵ 17 ︶ 工藤哲夫 ﹃ 賢治考証 ﹄ 和泉書院 、 二 〇 一 〇 年 、 二八 ︱ 三二頁 。 ︵ 18 ︶ ﹃ 御遺文 ﹄、 二九七五 ︱ 三 〇 八七頁 。 ︵ 19 ︶ ﹃ 御遺文 ﹄、 一一四八 ︱ 一一七二頁 。 ︵ 20 ︶ ﹁ 上野尼御前御返事 ﹂ に ﹁ 都卒の内院 ﹂ が登場すること 、﹃ ひかりの素足 ﹄ 中の天人が登場し音楽を奏でる描写等から 、 賢治が 兜卒天を意識していた可能性を指摘できる 。 ︵ 21 ︶ ﹃ 御遺文 ﹄、 五四 ︱ 八 〇 頁 。 ︵ 22 ︶ 工藤前掲書 、 一 ︱ 五六頁 。 ︵ 23 ︶ 大谷前掲 ﹁ 近代法華信仰にみる浄土観の一断面││宮沢賢治の場合 ﹂、 三七四 ︱ 三七五頁 。 ︵ 24 ︶ 同前 、 三七五頁 。 ︵ 25 ︶ 同前 、 三七五 ︱ 三七六頁 。 ︵ 26 ︶ ﹃ 日蓮聖人御遺文 ﹄ 中の転生観については 、 高森大乗 ﹁ 日蓮遺文にみる輪廻転生 ︵ 仏教の生死観 ︶﹂ ︵﹃ 日本佛教学会年報 ﹄ 二 〇 〇 九 年 ︶、 二 九 五 ︱ 三 〇 八 頁 が 詳 し い 。 高 森 は 遺 文 中 に 引 用 さ れ た 、 人 間 界 衆 生 が 天 上 界 へ 転 生 し た 事 例 ︵ 上 位 転 生 ︶ や 、 人 間 界から地獄界や畜生界へ転生した事例 ︵ 下位転生 ︶ の事例を検討し 、 整理している 。 ︵ 27 ︶ 通称 ︹ 手紙 ︺ と呼ばれる四種類の文書のひとつ 。 いずれも無題のままで活版印刷され 、 別々に匿名で郵送されたり 、 手渡しさ れ た り 、 中 学 校 の 下 駄 箱 に 入 れ ら れ た り し た と 云 わ れ る [ 十 二 校 異 篇 ・ 二 一 一 ]。 そ の う ち ︹ 手 紙 四 ︺ の み が 一 九 二 三 年 頃 に 配 布されたと推定されている [ 十二校異篇 ・ 二一二 ]。 ︹ 手紙一 ︺、 ︹ 手紙二 ︺、 ︹ 手紙三 ︺ は 、 一九一九年頃の配布であると推定され ている 。 伊藤真一郎 ﹁︹ 手紙一 、 二 、 三 、 四 ︺﹂ ︵ 佐藤泰正編 ﹃ 宮沢賢治必携 ﹄ 学燈社 、 一九八 〇 年 ︶ 参照 。 ︵ 28 ︶ 病死する妹が 、 兄のとってきた雪を食すなど 、 トシ臨終の場面をなぞるような描写が見受けられる 。 ︵ 29 ︶ 題目を梵語原音に写そうと試みたものであると考えられる 。 松山俊太郎 ﹁﹁ 宮沢賢治と蓮 ﹂ 覚書 ﹂︵ 大島宏之編 ﹃ 宮沢賢治の宗 教世界 ﹄ 北辰堂 、 一九九二年 ︶、 三四五 ︱ 三八 〇 頁 。
宮沢賢治における追善 ︵ 30 ︶ 一九二 〇 年一二月二日付の保阪嘉内宛の書簡において 、 賢治は ﹁ 今度私は / 国柱会信仰部に入会致しました 。 即ち最早私の身 命は / 日蓮聖人の御物です 。 従って今や私は / 田中智学先生の御命令の中に丈あるのです 。/ 謹んで此事を御知らせ致し 恭し くあなたの御帰正を祈り奉ります 。﹂ [ 十五 ・ 一九五 ︱ 一九六 ] と述べている 。 ︵ 31 ︶ 一九 〇 三年から翌年にかけて行われた本化妙宗研究大会における田中智学の講義を記録し 、 加筆した ﹃ 妙宗式目講義録 ﹄ 全五 巻 ︵ の ち ﹃ 本 化 妙 宗 式 目 講 義 録 ﹄、 さ ら に ﹃ 日 蓮 主 義 教 学 大 観 ﹄ と 改 題 、 以 下 ﹃ 大 観 ﹄ と 表 記 ︶ に は 、 智 学 が 自 身 の 過 去 生 ︵ ロ シア人の学者など 、 いずれも人間 ︶ について言及する箇所があるが 、 自身の来生について述べている箇所は 、 管見の限り見当た らない 。﹃ 大観 ﹄、 一四六八 ︱ 一四六九頁参照 。 ︵ 32 ︶ 高橋直美 ﹁﹁ 無声慟哭 ﹂﹁ オホーツク挽歌 ﹂ 作品群の解釈をめぐるいくつかの問題点││トシ成仏についての賢治の煩悶 ﹂︵ ﹃ 宮 沢 賢 治 研 究 Annual ﹄ 二 号 、 一 九 九 一 年 、 二 八 二 ︱ 二 九 三 頁 ︶ が 、 賢 治 が 女 人 往 生 を 意 識 し て い た 可 能 性 を 、﹃ 大 日 本 国 法 華 経 験記 ﹄ と ﹁ 青森挽歌 ﹂ との比較から指摘している 。 ︵ 33 ︶ 詩集 ﹃ 春と修羅 ﹄ は 、 一九二四年四月二十日 、 関根書店を発行所として刊行された 。 賢治はその後 、 手もとの何冊か ︵ 冊数不 明 ︶ に加筆 、 削除等の手入れを施した 。 このうち 、 現在知られているものは 、 宮沢家本 、 故菊池暁輝氏所蔵本 、 故藤原嘉藤治旧 蔵本の三冊である 。 ︵ 34 ︶ 池川敬司 ﹃ 宮沢賢治とその周縁 ﹄ 双文社出版 、 一九九一年 、 六一 ︱ 七九頁 。 また関連して 、 日本の説話文学の複数の有名作品 において 、 女人の転生は天界と人間界を行き来するものであったことが 、 丁莉 ﹁ 女性たちの転生と ﹁ 謫生 ﹂ ││説話と物語のあ りよう ﹂︵ 張龍妹 ・ 小峯和明編 ﹃ アジア遊学 女性と仏教と文学 ﹄ 勉誠出版 、 二 〇 一七年 ︶、 六 〇 ︱ 六六頁において指摘されてい る 。 ︵ 35 ︶ ﹃ 遺文 ﹄、 四七 ︱ 五三頁 。 ︵ 36 ︶ 森荘已池 ﹃ 宮沢賢治の肖像 ﹄ 津軽書房 、 一九七四年 、 二二一頁 。 ︵ 37 ︶ 先 行 論 と し て 、 久 保 田 正 文 ﹁ 三 つ の 手 紙 に つ い て ﹂︵ ﹃ 四 次 元 ﹄ 五 〇 、 一 九 五 四 年 ︶、 一 一 九 三 ︱ 一 一 九 九 頁 が あ る 。 な お 久 保 田 は ﹁ こ の 話 は 仏 典 に ﹁ 貧 女 の 一 燈 ﹂ と し て 出 て い る ﹂ と す る が 、 そ の ﹁ 仏 典 ﹂ が 何 で あ る か は 示 し て い な い 。 例 え ば 河 崎 顕 了 ・ 長 等 神 立 ﹃ 因 縁 聖 話 ││ 蔵 経 新 訳 ﹄︵ 興 教 書 院 、 一 九 〇 八 年 ︶ に は ﹁ 貧 女 の 燈 ﹂ と い う 章 が 設 け ら れ て い る が 、 こ れ は ﹁ 難 陀 ﹂ という女乞食が ﹁ 大誓願 ﹂ を起こし燈明を捧げ 、 それが燃え続けたという奇跡を紹介するものである 。 女による誓願と奇跡 と い う 点 は 共 通 す る が 、 女 の 名 前 と 職 業 が 異 な る こ と 、 ア シ ョ ウ カ 王 も ガ ン ヂ ス 川 も 登 場 し な い こ と か ら 、︹ 手 紙 二 ︺ と 同 内 容 と看做すには無理がある 。
︵ 38 ︶ 国民文庫刊行会編 ﹃ 国訳大蔵経 ﹄ 国民文庫刊行会 、 一九一八年初版 、 一九三五年四版参照 、 一九六 ︱ 一九九頁 。 ︵ 39 ︶ 本論文における ︹ 手紙二 ︺ のあらすじや娼婦の形容を示す際の ﹁ ﹂ 付きの用語は 、 全て賢治自身が ︹ 手紙二 ︺ の中で実際に 用いているものである 。
Miyazawa Kenji’s Memorial Services for the Deceased
M
AKINOShizuka
The purpose of this paper is to explore the contemplative process through which Miyazawa Kenji (1896-1933) commemorated his sister, Toshi (1898-1922). Kenji’s response to her death was intensely influenced by his member-ship of the Nichiren Buddhist lay organization Kokuchūkai, or “Pillar of the Nation Society.”
Upon Toshi’s death, Kenji experienced a deep sorrow, but nonetheless he did not attend her vigil and funeral ceremony. The Kokuchūkai forbade attendance at ceremonies of other sects and, since the Miyazawa family belonged to True Pure Land Buddhism, Kenji was barred from attending his sister’s funeral rites.
After this incident, Kenji began writing poems and stories for the repose of Toshi’s soul. In accordance with his Buddhist beliefs, Kenji believed that the souls of the dead transmigrate. Kenji prayed that Toshi might trans-migrate to Deva’s realm, but he became anxious in fear of the possibility that Toshi might be reborn in the animal realm instead. Kenji wrote a story in which, after his sister’s reincarnation as a frog, he inadvertently killed her. Kenji subsequently decided to pursue happiness for all animals and people, since any of them might be his transmigrated sister. Moreover, Kenji’s distribution of his stories was motivated by his religious beliefs and faith in the Kokuchūkai.