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「変容」の恐怖 : シェイクスピアの『真夏の夜の夢』について: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Title

「変容」の恐怖 : シェイクスピアの『真夏の夜の夢』に

ついて

Author(s)

川本, 真由子

Citation

言語と文化 = Language and culture(2): 57-70

Issue Date

2003-03

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/10364

(2)

「変容」の恐怖

一シェイクスピアの『真夏の夜の夢』について

川 本 真 由 子

序 論 シェイクスピアの「真夏の夜の夢』の構造は複雑である。主な筋としてはアテネの貴族の 男女二人ずつ、四人の恋人の繰り広げる恋の鞘当てがあり、一方で同じ森で繰り広げられる 職人たちの芝居の上演の稽古の筋がある。前者にはこの森を支配する妖精の王オベロンとそ

の配下の妖精、いたずら好きのパックが、観客ともコメンテーターともなり、時には介入す

る。また、パックのいたずらのせいで職人の一人、ボトムには妖精の女王タイテーニアが恋 をする。他方、妖精界ではオベロンとタイテーニアはお気に入りの小姓の取り合いをして喧

嘩の真っ最中である。しかし、魔法にかかったような一夜が明けると、すべては丸く収まり、

アテネの公爵である領主シーシュースの結婚式とともに二組の恋人たちも式を挙げ、彼らは

職人たちの出し物である滑稽きわまりない悲劇(?)を見物して幕となる。

批評家たちの中にはこの劇はバラバラだと評する者もいる。(1)一見したところ、確か

に四人の恋人の恋を巡るメインプロットと、アテネの職人たちの芝居の稽古を巡るサブプ

ロットは、単に同じ森を舞台に繰り広げられているというだけで大した内的関連はなさそう

に思われる。また、最終幕の、貴族たちが職人たちの一風変わった演出の芝居を散々郷撤し ながら見物するくだりは、四人の恋人たちの葛藤が解決されてしまった後なので、ほとんど 蛇足、あるいは冗漫だという印象を受ける観客もいるだろう。恋人たちの結婚でめでたしめ でたしと終わるのではなく、シェイクスピアはなぜ劇の最後に、下手とわかっている芝居を 劇中の観客が罵倒しながら見物するくだりをわざわざ置いたのだろうか? 劇を詳細に見ていくと、この二つのプロットには共通のテーマがあることに気づく。それ はアイデンティティの揺らぎへの恐怖である。そしてこのテーマを理解すると、あの冗漫と も思えた最終幕の「ピラマスとシスビー』見物の場が、劇中の観客たちにも、また、『真夏の 夜の夢』それ自体の観客たちにも一種の慰め、解毒剤のようなものとして働いていることに 気づく。以下の章でこうしたことを論じたいと思う。(2) 1 この章では、アテネの職人たちの芝居の稽古風景を見ていくことにしよう。一幕一場に恋 人たちの物語の発端が置かれ、この二場で職人たちが登場する。興味深いのは、中心人物で

(3)

ある機屋のボトムが、ありとあらゆる役を演じたがることである。彼はピラマスの役を振ら

れているが、それを真に迫って演じる自信があるのみならず(I.ii.21-23)、その恋人のシス

ビーの役も、ライオンの役までやりたがる。

ボトム顔をかくしていいなら、シスビーもおれにやらせるよ。もの

すごくか細い声でしゃべってみせるぜ。ほら、こんな調子でな・「あ

あ、ピラマス、あたしのいとしい人!あなたのいとしいシスビ−よ、

あなたの恋人よ!」

ボトムライオンもおれにやらせてくれよ。おれは吠えるぞ、聞くも

のの胸がすぐように吠えるぞ、おれが吠えたら公爵様はこうおっし

ゃるだろう、「もう一度あれに吠えさせよ」

(I.ii.47-50)(3) (Lii.66-69)

彼の演技への入れあげようは大変なものである。彼は演技をすることが大好きなのだ。そし

てまた、どんな役でも本物ととられかねないほどうまく演じて見せる自信がある。そこで当

たり前のことながらシスビー役を思いとどまらせたリーダー格のクインスが、ライオン役を

も思いとどまらせようと次のように言う時、ボトムはそれを額面どおり受け取る。

クインスおまえがあんまり恐ろしく吠えたら、公爵夫人やご婦人が

たはおっかながって悲鳴をあげるだろう、そうなるとおれたちみん

な縛り首だぜ。

一同も大真面目にこの懸念を受け入れる。

一同そうだそうだ、縛り首だ、一人残らず。

01170-72) (I.ii.73)

この場で提示されているのは、演技というもの−自分でない何か他のものになること−の

持つ魅惑と、同時にそれをあまりにうまくやりすぎてしまわないかという不安である。クイ

ンスはボトムを思いとどまらせるために言ったに過ぎないのかもしれない。しかし、この不

安はいったん目覚めると一同の中に蔓延していく。次に職人たちが登場する三幕一場でもこ

の不安は続いていて、実際、ほとんど恐怖といえるくらいになって来ている。

ボトムこのピラマスとシスビーの喜劇にはだな、どうもうまくない

個所があるんだ。まず第一に、ピラマスが剣を抜いて自殺するだろ

う、こいつはご婦人がたにはがまんできまい。そうは思わんか?

仲間たちが同意するので、結局、次のようにすることになる。

(1II.i.8-11)

(4)

ボトム…前口上を書いてもらうんだ。その前口上でこう言うんだ。 剣は抜いても血を流したりはしませんし、ピラマスもほんとうに死 んだりはしません。もっと安心させたければこう言えばいい、私ピ ラマスはピラマスではありません、実は機屋のボトムです。こう言 っておけばみんなこわがらなくてすむだろう。 ライオンについても同工異曲な手立てが考案される。 ス ナ ウ ト で も ご 婦 人 が た は ラ イ オ ン を こ わ が る ん じ ゃ な い か な ? ス タ ー ヴ リ ン グ そ う だ 、 こ わ が る よ 、 き っ と 。 ボ ト ム 諸 君 、 こ こ は 一 つ 熟 慮 せ ね ば な ら ん ぞ 、 ご 婦 人 が た の 眼 前 に 一人もあろうに一ライオンを出すなんてことはとてつもなく恐ろし いことだ。だいたいこの世にライオンほどとてつもなく恐ろしい野 鳥はいないからな。ここは一つ用心せねばならんぞ。 ス ナ ウ ト だ っ た ら も う 一 つ 前 口 上 を 書 い て 、 こ れ は ラ イ オ ン で は あ りません、と言えばいいよ。 ボトムいや、それより名乗りをあげればいい、ライオンの首から顔 を半分ほど出してだな、そこから言えばいい、たとえば、ま、こん な意味欠落のことだ−「ご婦人がたよ」−あるいは「美しいご婦人 がたよ−皆様に願望しますが」一あるいは「皆様に要望しますが」 一あるいは「皆様に懇願しますが−なにとぞおこわがりにならぬよ う、またおふるえにならぬよう、私のいのちにかけて保証いたすで あります。万一皆様にしてここに出ました私をライオンとおぼしめ すならば、私のいのちにかけて痛恨のきわみであります。けっして、 私はさようなものではありません。私は人間であります、いかなる 人間ともかわりはありません」と言ってだな、そこで名前を名乗ら せるんだ、はっきり私は指物師のスナッグですと言ってしまうんだ。 (III.i.15-21) (I1I.i.26-44) 「ご婦人方が怖がる」と彼らは言うが、実際怖がっているのは彼ら自身である。(4)そして さらに言えば、彼らは剣や血やライオンといった恐ろしい、または不吉なものを恐れている ばかりでなく、役柄への変容(融解)を恐れているのである。それは月や壁といったものに 扮する場合にも、ただランタンを持ったり、漆喰を体に塗りつけることによってそれらのふ りをするのではなく、「自分は月に扮している役者だ」と名乗ることにしようと相談がまとま るところからもわかる。(5)「ご婦人がたがこわがるかもしれないから」とか、「月だとは わからないかもしれないから」とか理由をつけて彼らが実際やろうとしていることは、自分 自身一アテネの職人である何の何がしというアイデンティティーと、役柄の間に線を引こう という企てに他ならない。彼らは一方で演技というものに魅せられている。自分以外の何か

(5)

になることは楽しい経験である。他方で、彼らは変容を拒否している。他人の目に自分自身

とわからぬほど変わってしまうことは一たとえばライオンそのものと思われて怖がられたり

することは−耐えがたいことである。そうなれば自分自身、自分を見失ってしまうかもしれ

ない。彼らは演技に魅力を感じているが、一方でアイデンティティの喪失をもたらすかもし

れない、得体の知れない力を恐れてもいる。

演技の持つ不思議な力についてシェイクスピアは他の作品においても繰り返し触れている。

例えば「コリオレーナス』において、主人公はローマの民衆の前で演技をするように母親に

求められ、血を吐くような内心の苦しみを吐露する。

コリオレーナス…この両の頬には

奴隷の微笑をみなぎらせ、この両の目には

小僧の涙をあふれさせるのだ!この唇のあいだに

乞食の舌を動かし、馬に乗るとき以外にはけっして

曲げたことのないこの膝を、施し物を受けるときの

乞食のように曲げるのだ!ああ、そんなことが

おれにやれるか!おれの真実をみずから汚し、

からだの動き一つ一つでもって消しがたい卑しさを

心に教えるようなことが! (III.ii.115-123)(6)

彼にとって演技をすることは単に便宜上のことだけではすまされない。それは彼の内面に食

い込み、彼のアイデンティティそのものに変化をもたらす危険性があるのだ。あるいは『ハ

ムレット』において、ハムレットが母親を諭して言うセリフ、「美徳はなくてもあるように

装ってほしい、そうすれば天性も変えられる」(I1Liv・160,168)(7)なども一例と言えるだ

ろう。

かくして職人たちは自分自身のアイデンティティを見失うまいとして、ずいぶん念の言っ

た演出方法を作り上げる。そこへ登場した妖精のパックは、ボトムの馬鹿さかげんにあきれ

返り、これがお前の正体だとばかりにまさに図星のいたずらをする。ボトムの頭にロバの頭

をくっつけてしまうのである。もちろん、ロバの属性が、「馬鹿」「頑固」などであるのは言

うまでもない。 2

次に、この劇のメインプロットとも言える四人の恋人たちのをめぐる筋であるが、ここで

もやはりテーマはアイデンティティの喪失、動揺である。混乱がきわまった時、ハーミアは

わけがわからなくなって叫ぶ。

(6)

ハ ー ミ ア 私 は ハ ー ミ ア で は な い の ? あ な た は ラ イ サ ン ダ ー で は ? (1II.ii.273) この夏の夜の恋人たちの混乱状態についてはルネ・ジラールが彼の提唱する模倣の欲望の 理論を用いて見事な解釈を展開しているので、ほとんど付け加えることは何もないほどであ る。ジラールは、シェイクスピアの初期の喜劇『ヴェローナの二紳士』からヒントを得て、 デイミートリアスがハーミアを愛するのはハーミアその人を愛しているのではなく、ライサ ン ダ ー ヘ の 模 倣 的 対 抗 意 識 か ら で あ る と 言 う 。 そ し て ま た 、 ハ ー ミ ア が デ イ ミ ー ト リ ア ス を 誘惑したのは彼女のライヴァル、子供時代からの友人であるヘレナが彼に惹かれていたから だと分析する。(8)さらに、少し長くなるがジラールの分析を一部引用しよう。 「もっとも明白なデイミートリアスの場合からはじめよう。彼はライサンダーがハーミアを自 分から奪ったためにライサンダーを模倣する。敗北した恋のライバルがみんなそうであるよ うに、彼は勝ちほこる相手によって大いに欲望を媒介されるのである。かれのハーミアに対 する欲望は、ライサンダーがそのモデルを提供しているかぎり、いつまでも激しい。しかし、 ラ イ サ ン ダ ー の 心 が ヘ レ ナ に 移 る と す ぐ に 、 デ イ ミ ー ト リ ア ス も ま た 心 が わ り を す る 。 こ の 完壁なオウムのような人物は、プローテュースをさらに滑稽化したような存在である。彼の 場合、グループ内に第三の女‘性がいれば、きっと彼女にも恋するだろうが、彼には模倣があ まりにも必須の条件になっているので、ライサンダーよりも先に恋することはありえない。」 (9) 「対象物は、媒介に追いつく手段でしかない。欲望が目ざす相手は、あの媒介者のく存在〉そ のものである。プルーストは、こうしたく他者〉であろうとするどう猛な欲望を、渇きにた とえている。」(10) モデルが問題である以上、対象の価値や美点は主体にとってなんら意味を持たない。(11) デイミートリアスは、モデルであるライサンダーがハーミアを愛すればハーミアを、ヘレナ を愛すればヘレナを愛する。 もちろん、彼らの心変わりは、妖精パックが塗った魔法の‘惚れ薬だということになってい るoしかしそれはシェイクスピアが利用した表面上の小道具であって、シェイクスピアの真 意は、ジラールが指摘するように、若者たちの間に渦巻いている奇妙な欲望を描くことで あったのは疑いの余地がない。シェイクスピアは彼の他の作品でも繰り返し描いているよう に、ここでも人間の不可思議な模倣の情熱を戯画的に活写しているのだ。ジラールの説に 従って、四人の恋人たち、と一くくりにしてよいのかという疑問も出るかもしれない。ヘレ ナだけは最初から愛する相手を変えていないし、ハーミアがライサンダーを愛するからと いって彼を誘惑しようとしたこともないので例外であると言えるかもしれない。しかし彼女 もハーミアになりたい、と模倣の欲望らしきことを口にする。この劇に最初に登場したとき のことである。

(7)

Hel.…0happyfair!

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(…ああ、しあわせな美しいあなた!あなたの目は彼方の

北斗星、あなたの舌は甘い調べ、麦は緑に、

サンザシのつぼみがほころびるころ、羊飼いの耳に

聞こえてくるヒバリよりも美しい音楽。病気がうつるように

器量もうつるなら、あなたの美しさをうつして、この私に、

私の耳にあなたの声を、私の目にあなたの美しい目を、

私の舌にあなたの舌の甘いメロディーを。

世界が私のものなら、デイミートリアスは別にして、

あとはみんなさしあげるわ、あなたみたいに変われるものならね。)

(I.i.182-191)

ヘレナはハーミアに"translate"(変容)したいと願う。

さて、夏の夜がふけるに従って、若者たちの−とりわけ男たちの−互いを模倣する欲望は

織烈を極め、愛する対象をそろってハーミアからへレナヘ移した男二人はついに剣を抜いて

決闘に及ぼうとする。

夏の夜の森は、象徴的にはおそらく、潜在的な願望を表に引きずり出す魔法にかかった場

である。(12)男たちばかりでなく女たちまで互いに身体的な暴力を振るいそうな兆しを見

せ、こうして二組のライヴァルは互いに罵り合ううちにすっかり自分を見失ってしまう。と

りわけ男たちにその傾向は著しい。彼らはまったく同じような修辞文句でへレナの美をたた

え、互いにそっくりの調子で罵り合うので、どちらがどちらか区別できないほどだ。彼らは

誰を愛するかよりもまずライヴァルとして存在する。ヘレナの言葉がその本質をよく言い当

てている。 HelYoubotharerivals,andloveHermia: AndnowbothrivalstomockHelena.

(あなたがたはおたがいにハーミアを愛する競争者、

それがいまではおたがいにヘレナをからかう競争者。)

(III.ii.155-156)

(8)

ここには個‘性はなく、模倣の欲望によって振り回される同じような人間がいるだけである。 この精神的同一性、精神的双生児‘性の中にそれぞれの個性は埋没してしまっている。 最初にパックが間違えて魔法の‘惚れ薬をライサンダーの目に塗りつけ、そのためにライサ ンダーがヘレナを愛するようになったとき、オベロンはパックを叱り付けて次のように言っ た。 Obe・Whathastthoudone?Thouhastmistakenquite, Andlaidthelove-juiceonsometruelove'ssight; Ofthymisprisionmustperforceensue Sometrueloveturn'd.andnotafalseturn'dtrue. (おまえはとんでもないまちがいをしでかしたな、 まことの恋人のほうの目に‘惚れ薬を塗りつけたな。 おまえのまちがいのおかげてたい診、んなことになるぞ、 まことの恋は不実に変わり、不実の恋はかわらないぞ。) 1ll.87-91) しかし、もとの愛か、変わってしまった愛か、どちらが本物の愛と言えるのだろうか?混乱 を収拾するために、オベロンはライサンダーの目に塗られた惚れ薬の力を別の草の効用で消 し去ることにする。 Obe.Whentheynextwake,andallthisderision Shallseemadreamandfruitlessvision; AndbacktoAthensshalltheloverswend, Withleaguewhosedatetilldeathshallneverend. (彼らが今度目を覚ませば、このお笑いぐさはすべて、 はかない夢、むなしい幻にすぎぬと思われて、 恋人たちは仲よくアテネに帰っていくだろう、 そして彼らの愛‘情は死ぬまで変わりないだろう。) III.ii.370-373 オベロンはこともなげにこう言うが、この解決方法は一抹の不安を観客の心に残すのではな いか。デイミートリアスの本当の心はどちらなのか。ハーミアを愛する方なのか、それとも ヘレナを愛する方なのか。彼の目に‘惚れ薬は塗られたままでいいのか。

真夏の夜の森で、二人の若者に起こったことはアイデンティティの喪失、もしくは混乱で

ある。二人は模倣的対抗意識−それは森に入る前からもともと持っていたにせよ−の過熱の

ために精神的双生児状態に陥り、完全に自分を見失ってしまった。それに従って娘たちも混

乱し、自分に対する周りの人間関係を把握できなくなり、彼らのアイデンティティの認識は 激しく動揺する。

(9)

Hel.NowIperceivetheyhaveconjoin'dallthree

Tofashionthisfalsesportinspiteofme.

(やっとわかったわ、三人ともぐるになって

このお芝居を仕組んだのね、私をいじめるために。)

Her鷺AmnotlHermia?ArenotyouLysander?

(私はハーミアではないの?あなたはライサンダーでは?)

3 (111.11.193-194) (II1.ii.273)

さて、一夜明けて、シーシュースとヒポリタは夜の間に若者たちの身に起こった出来事を

聞き、それについて話し合う。シーシュースは雄弁を振るって、それを狂人、詩人の想像力

と肩を並べる、恋人にありがちな過剰な想像力のせいにしてしまおうとする。

ヒポリタほんと不思議ね、シーシュース、あの恋人たちの話は。

シーシユース不思議すぎてほんとうとは思えぬ。私には

あのような珍聞奇談はとうてい信じることができぬ。

恋するものと気ちがいはともに頭が煮えたぎり、

ありもしない幻を創り出すのだ、そのために

冷静な理‘性では思いもよらぬことを考えつく。

狂人、恋人、それに詩人といった連中は、

すべてこれ想像力のかたまりと言っていい。

広い地獄に入りきれないほどの悪魔を見る、

それが狂人だ。恋人もそれに劣らず狂っていて、

色黒のジプシー女に絶世の美女へレンを見る。

詩人の目は、焼‘惚とした熱狂のうちに飛びまわり、

天より大地を見わたし、大地より天を仰ぐ。

そして想像力がいまだ人に知られざるものを 思い描くままに、詩人のペンはそれらのものに たしかな形を与え、ありもせぬ空なる無に それぞれの存在の場と名前を授けるのだ。

そのような魔術を強い想像力はもっているので、

ただある喜びを感じたいと思うだけで、たちまち

その喜びを仲介するものを思い浮かべるし、

あるいは暗い夜、ある恐怖を想像するだけで、 簡単に草むらが熊と思われてくるのだ。 V.i.1-23)

(10)

シーシュースが想像力に言及するのは実はこの有名なスピーチだけではない。彼はボトムた

ちの演ずる芝居『若きピラマスとその恋人シスビーの冗漫にして簡潔な一場、悲劇的滑稽劇』

について饗宴係から説明を聞いたときも、想像力を強調する。三組の貴族たちが結婚式を挙

げたあと、眠りにつくまでの間の余興にと、四つの出し物が提示されるが、くだんの『ピラ

マスとシスビー』は饗宴係のフイロストレートによってひどくけなされる。 フイロストレートこの芝居は、公爵、台詞が十ばかりの長さで、 私の知るかぎりこれほど簡潔な芝居はありません、 ところがその十ばかりの台詞でもあまりに長すぎて 冗漫な芝居になっております。と申しますのは、 この芝居のどこを捜しても、適切な台詞一つなく、 役に合う役者一人おりません。 フ イ ロ ス ト レ ー ト お よ し な さ い ま し 、 公爵のごらんになるようなものではありません。 私も下見しましたが、なんの取り得もないしろものです。 ただ公爵のお慰みにと、もってまわった台詞を 四苦八苦して暗詞した、その気持ちだけが 殊勝といえば殊勝でして。 ところがシーシュースは、フイロストレートがけなせばけなすほど乗り気になる。 シーシュース取り得のないものをとりたてて感謝するのが親心だ。 彼らのまちがえた意味をまちがいなく受けとり、 忠実な心がはたしえぬことを、出来栄えでなく 心栄えで見てやるのが、上に立つものの喜びなのだ。 V.i、61-65) (V.i、76-81) V.i.89-92

シーシュースは、つたない技でも見る側にその意図を汲もうとする気持ちがあれば意図は伝

わる、と述べる。これは若者たちが夜の間に経験したことについて彼が述べたこととどこか

でつながっている。彼は若者たちに夜の間に起こったことが恋人の想像力がありもしない幻

を作り出したのだと言い、また、余興についても、その表現はいかに稚拙であっても受け取

り手の心構えによってその真意一歓迎の意一は受容可能なものになり、想像力で補えば芝居

もまたましに見える("theworstarenoworse,ifimaginationamendthem"V.i.208-209)と

言う。一方、ヒポリタはシーシュースの恋人たちの想像力説については半信半疑でこう言っ

たのだった。

(11)

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(それにしてもゆうべの話をすっかり聞いて、

みんなの心がそろっておかしくなったことを知ると、

想像力が生み出す幻とは言えない、それ以上の、

大きな現実の力が働いているように思われるけど。)

(V.i.23-26)

そして彼女は職人たちの芝居が下手だと聞くと、シーシュースとは逆に、むしろ見たくない

と言う。(V.i.85-86)シーシユースはすべてを想像力に還元しようとする。他方、ヒポリタの

方はより客観的に物事を見ようとしている。しかしながら、シーシュースの想像力について

の弁舌はあまりに雄弁で、きれい事に過ぎる観があるのに加えて、職人たちの芝居を見るこ

とについてもやや熱心すぎはしないか。むしろ彼自身もヒポリタと同様、若者たちの話に不

安を覚えているのかもしれない。人間の変容(transfiguration)に驚異と不安を覚えるあまり

に、夜の間に起こったことは過多な想像力のせいだと力説するのかもしれない。そう考える

と、彼が職人たちの芝居が下手だと聞けば聞くほど見物に乗り気になることも説明がつく。

下手くそな芝居は人間の変容の不可能性を裏打ちするように働くだろうからだ。そして期待

にたがわず、職人たちの演出は舞台のイリュージョンをこわすように、こわすようにと働く。

先に述べたように、こういった演出の理由は、彼らが演技というものに惹かれながらも、

実はそれによるアイデンティティの変容を恐れているからに他ならない。この滑稽な最終幕

では、夜の間に恐ろしい変容(=ロバの頭の‘怪物)を経験した、すなわちパックによって自

己の本性を開示されてしまったボトムももとの姿に戻って演技を楽しんでいる。同じく夜の

間に自他の狂気じみた変容を経験した若者たちもまたシーシユースとともに芝居のそこここ

で軽い郷捻の言葉をはさみながら、心からこの演出を楽しむ。

ライオンご婦人がたよ、皆様は、床を這いずる小ネズミを

こわがるほどにおやさしい心をおもちのはずなれば、

怒り狂えるライオンが雄々しく雄叫びするときは

おそらく恐れおののいておびえることでありましょう。

それゆえ申しあげますが、私はスナッグ、指物師、

この恐ろしいライオンの姿は仮の姿です。

もしも私が本物のライオンとしてこの席に

人を殺しにきたのなら、私としてもあわれです。

シーシュースなかなか礼儀正しいけだものだな、それに分別ももちあわせている。

デイミートリアスけだものとしてはけだし最高ですね、私もはじめて見ました。

ライサンダーただし勇気にかけてはこのライオンは狐です。

(12)

シ ー シ ュ ー ス そ の と お り だ 、 知 恵 に か け て は ガ チ ョ ウ だ 。 (V.1.214-224) 月このランタンは角をもつ月、三日月のつもりです一 デイミートリアスそれなら自分の頭に角を生やしてくればいいのに。 シーシュースあの男は三日月顔ではないな、角は満月顔のなかにかくれているのだろ う。 月 こ の ラ ン タ ン は 角 を も つ 月 、 三 日 月 の つ も り で す 。 かく言う私は月に住むと言われる男のつもりです。 シ ー シ ュ ー ス こ れ は ひ ど い 、 い ま ま で の な か で も い ち ば ん ひ ど い ま ち が い だ 。 あ の 男 はランタンのなかに入るべきではないか、でなければ月に住む男にはなれまい。 デイミートリアスなかに入る気にはなれないでしょう、蝋燭が燃えておりますから。 いや、どうやらあの男も腹立たしげにじりじりと燃えているようです(V.i.235-241) 職人たちの、わざわざ「自分は塀の役をするスナウトだ」、「自分はライオン役をするスナッ グだ」と断る演出は、芸や小道具の不足を補うという表向きの名目に隠れた、変容の恐怖へ の対抗策である。彼らが何を演ずるにせよ、こう断っておけば自らのアイデンティティに揺 らぎは生じない。(13)シーシュースたち貴族がこの劇中劇のそこここに半畳を入れながら もこの演出を楽しむ様子なのも、実はやはり変容への不安があるのではないか。潜在意識を 引きずり出し、それまでのアイデンティティを崩壊させる真夏の夜の森の恐怖の後では、ラ イオンを演じてはいても実は指物師のスナッグであると身元がはっきりしている世界は好も しい。つまり「ピラマスとシスビーjというこの滑稽な劇中劇は、貴族たち、とりわけそれ までのアイデンティティの喪失という、人生の深淵をのぞいてしまった四人の若者たちの恐 怖をなだめるのに一役買っているし、さらに言えば、その若者たちの夜の間の変貌振りやボ トムの変貌振りを目の当たりにしたこの劇自身の観客たちの動揺をおさめるのにも一役買っ ていると思われる。 結 論 婚礼祝いの際の喜劇という、この劇の成立事情からして、人間の本‘性を暴きだす夏の夜の 森の、深く暗い魔法の余韻が響くままに劇を終わらせることはシェイクスピアには出来な かった。だからこそシーシュースの、詩人、狂人、恋人という陳腐な、しかし雄弁な説明で この真夏の夜の出来事をくるみ込み、さらに変容の可能性をいささかも許す余地のない演出 を施した劇中劇で締めくくることによって、シェイクスピアはいわば毒消しを試みたのだと 考えられる。夜の森で四人の若者に起こったことは彼らの人生そのものの中で起こった変容 であり、ボトムたちの芝居における演技による変容とはレヴェルが違うものなのではないか、 という反論もあるかもしれない。(14)しかし、オベロンやパックという神性を帯びた存在が

(13)

彼らの行動を観察している構造が示唆するように、シェイクスピアにとっては中世以来の、

「世界劇場」の実感は現代の我々よりはるかに強かったのではないか。ボトムたちの芝居を貴

族たちが見ていることと、我々人間たちのはかない営為が繰り広げる世界劇場をどこかで神

が見ていることは、シェイクスピアにとってはそれほどかけ離れた感覚ではなかったのでは

ないか。彼の多くの作品の中で、性々にして芝居と人生とがパラレルなものとして提示され

ていることは誰も否定しないだろう。彼にとって芝居は人生の本質を垣間見せてくれる強力

な思考上のトゥールであった。だからこそアイデンティティの揺らぎの微塵もない、舞台の

イリュージョンの力を一切排した演出を施したボトムたちの芝居が、貴族たちにとっても、

この「真夏の夜の夢』という劇を見ている観客たちにとっても人生への不安をなだめるもの

として働くのである。そして言うまでもないことだが、ボトムたちが自分たちの芝居にこの

ような演出を施したということ、そしてそれをシェイクスピアがいわば解毒剤として−ちょ

うど'loveportion'の効能を打ち消す別の草の汁のように一自分の喜劇のしめくくりに持っ

て来たということ自体が、シェイクスピアが真夏の夜の森(人生かつ舞台)で起こる出来

事一他者の存在への渇望に伴うアイデンティティの喪失、変容一の可能性をいかにリアルな

ものと受けとめていたかを物語っているし、また同時に舞台のイリュージョンの力をいかに

強力なものと認識していたかをも示している。この複雑な構造の喜劇は、他者の存在への渇

望が、自分とは違うものになる「演技」というものと、人間‘性のどこか深いところでつな

がっていることを見据えた、メタシアター的な演劇作品なのである。

1G.K.ハンター『シェイクスピア・後期の喜劇』(英文学ハンドブック「作家と作品くシェ

イクスピアNo.6)J(研究社、1971年)、3頁。

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UniversityPress,1979)に非常に大きな示唆を受けた。

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よる。日本語訳はごく一部を除いて小田島雄志訳「夏の夜の夢』(白水社、1983年)を借

用した。

4Girard,ATheatreofEnvy,p、60.

5塀が名乗ることはここではまだ取り決められていないが、最終幕の上演では名乗ってい

る。

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日本語訳は小田島雄志訳「コリオレーナス』(白水社、1983年)を借用した。

7HoraceHowardFurness,ed.,Hamlet(ANewVariorumEdition;NewYork:Dover

(14)

Publications,1963). 8Girard,ATheatreofEnvy,p.33-34.

9Girard,ibid,p.33.日本語訳は小林昌夫、田口孝夫訳『羨望の炎』(法政大学出版局、

1999年)から借用した。 10Girard,ibid,p、43.ジラールはセルバンテス、スタンダール、フロベール、プルースト、 ドストエフスキーの作品の中に見出した模様の欲望の構図を、シェイクスピアの多くの 作品の中にも見出しているが、この「真夏の夜の夢』がその発見のきっかけになったと 語っている(前掲書、『羨望の炎』671頁)。 11Girard,"MythandRitualinShakespeare:AMidsummerNight'sDream,"Texual Strategies:PerspectivesmPost-StructuralistCriticism(CornellUniversityPress, 1979),p.191. 12RuthNevo,"Fancy'sImages,"WilliamShakespeare'sAMidsummerNight'sDream [ModernCriticalInterpretations]ed.HaroldBloom(NewYork:ChelseaHouse,1987), p、66. 13勿論、『ピラマスとシスビー』の筋が『ロミオとジュリエット』のそれとそっくりであっ て、ハーミアとライサンダーの悲劇ヴァージョンであり、メインプロットの変奏である ことは明白である。ただし結婚祝の劇としては相応しくないため、シェイクスピアがこ とさら軽く、バーレスク風に味付けをしたのだとも言える。ヤン・コットは、この喜劇 の中で死の脅威は恋人たちの上に最初から覆い被さっていて、「死」に関連した語句が頻 繁に出てくることを指摘している。JanKott,"TheBottomTranslation,"William Shakespeare'sAMidsummerNight'sDream[ModernCriticalInterpretations]ed. HaroldBloom(NewYork:ChelseaHouse,1987),pp.82-83. 14DavidMarshall,"ExchangingVisions:ReadingAMidsummerNight'sDream,” WilliamShakespeare'sAMidsummerNight'sDream[ModernCriticalInterpretations] ed.HaroldBloom(NewYork:ChelseaHouse,1987),p.113.Marshは、この劇では登場 人物はしばしば役者のような属‘性を持つと論じている。

(15)

Fear of 'translation'

- an interpretation of A Midsummer Night's Dream

Kawamoto

Mayuko

Shakespeare's A Midsummer Night

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Dream has multiple plots: one of four young lovers, one

of mechanicaIs of Athens, one of Fairy King and Queen, and one of Theseus, duke of Athens and his new bride Hippolyta. A critic once remarked, "Shakespeare has lavished his art on the sepa-rate excellencies of the different parts, but has not sought to show them growing out of one another in a process analogous to that of symphonic' development' ." The former two plots }the main plots of the play, actually I,however, when closely looked at, tum out to share a common, deeply resounding theme, that is, 'fear of "translation'" or 'fear of loss of identity.' (Fairies and people in the other two plots function as a kind of frame: they watch what's happening or listen to what has happened to the characters in the two main plots, comment on them and sometimes even act on them.)

In this paper, I would like to show how the main two plots are working together to give the picture of that kind of fear, which seems, in this play, inseparably intertwined with human innate fascination towards getting 'translated' into another being. In addition, I would like to point out that although the play-within-the play performed by the mechanicals at the end of the play appears rather trifle and boring, or even superfluous, but that this play-within-the play is nothing but Shakespeare's elaborate design to relieve the audience from the above-mentioned fear. And last but not least, I would like to add that lowe much of this analysis to Rene Girard's brilliant and inspiring reading of this play.

参照

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