<論説>日本技術者の「現場主義」について : 経営史的考察
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(2) 30 (296). 横浜経営研究. 第 Ⅷ巻. 第. 4. 号 (1988). 2. 伝記的史料に 見る技術者の「現場主義」. わたる体験の 積み上げから 生まれるのであ と語った ".. 技術者,あ るいは技術者出身の 経営者の伝記. 技術者の現場の 仕事と一口に 言っても,たえ ず現場に出かけて 操業の状態を 観察する,現場. 的史料を長年見て 来た者にとって ,. 日本の技術. 者の間に歴史を 通じて確立されて 来た理想像を 指摘することは ,それほど困難な 仕事ではな い.現場で職工といっしょに働くこと,勤務の 間に技術の研究を 怠らぬこと, この二つが理想 像を成立させる 二大要因であ った・川崎製鉄 社 長 であ った西山弥太郎. C 東京帝大・冶金 ). の事. 例を見よう. 「西山は技師として 製鋼 科 に配属された・. 当. 時技師が現場にはいることはまずなかった・ 技 師は研究や設計をしておれば よ く,現場で仕事 な するのは職工であ った・ しかし,西山の仕事 に対する情熱はそんなしきたりにほお 構いな く,自ら現場にとび込んで職工とともに 働いた・ 暇をみて技術の 本を読んだ・ 毎日が試験勉強の ような繰返しであ った」 ". 西山が川崎造船所. ( 川重 ,. 川 鉄の前身 ) に入. 社した大正 8 年当時,同社においても, 産業全体においても ,. 日本の. 「技師が現場にはいるこ. とはまずなかった」という 事実は存在しない。 ,. ・. において作業員の 仕事を管理する ,. る」. 日頃 から 作. 業 員と緊密なコンタクトを 保って彼等に 指示, 助言を与えるというぐあ いに, 内容はさまざま であ った. しかし,いずれにしても ,文字通り泥 まみれの生活を 強いられた・ 元大阪窯業・ 大阪 窯業セメント 専務取締役谷口徳政 ( 東京帝大・ 応化, 明 37) が , 泥まみれの姿で 社宅に帰った ところを地方の 富家に育った 夫人の母に見ら. れ,「大学出の工学士ともあ. るものが」「何と 情. ない生活をせねばならぬのであ ほ,. ろうか・. これで. まるで 娘 一人を捨てたようなものだ」と. 嘆. かれたという。, .. また,学校の授業を通じては 身につけること のできないタフな 精神力を要求された・ 「私はいきなり……. ました.. ア. 二 交代の昼夜勤に 回され. こんどの役人ほ 青ン僧 タン,なご ぅ. は モ テンバイロというのが 職工たちの下馬評と. とで聞きました・そのころ 町の人も職工も 私 たち職員を役人と 呼んでいました・・…‥私はま. あ. ず 職工の名前を 覚えることを 心掛けました・. そ. しかし, この記述は,たとえフィクシ , ン であ. れから仕事をマスターするために. れ,いやフィクシ , ン であ ればそれだけ 余計. らに加わって 働いてみました. みんなこの 青ビ. に,技術者の理想像を示している・. , ウタンに,なにができるかという. 多くの技術. 者の伝記には ,主人公がいかに他者に比べてこ. 工程ごとに彼 顔つきでし. た」 ".. の理想像に近かったかが 心をこめて描き 出され. これは,元東洋高圧・ 三井化学社長石毛 郁治 ( 東京高 工 ・応化,大正6) の回顧 談 であ. ている.. る. 技術者が現場で 仕事をすることの 意義も , 多 くの技術者にかんする 伝記的文献で 語られてい. 現場における 仕事に習熟させるため ,企業 は,採用したばかりの大学・ 高工 卒の技術者を まず現場に配置し ,そこで訓練した・ 上記の石. る.木下文 三郎元本州製紙社長. ( 東京帝大・. 機. 械 ,大正5) は, 「入社した以上,製紙企業の 全体に通じなければならない・それには 進んで 工場に出て,イロハから 実地にたたき 上げるこ とだ …… .すわっていて偉そうな議論をして. 毛の回顧 談も , 入社直後の実習にかんするもの. も,工場を実地に経営した経験がなければ , い. 元住友合資会社総理事古田俊之助 ( 東京帝大・ 採冶 ) の『追懐銭』には ,明治 43 年 7 月に大学 を卒業し,住友伸銅場 に入所したばかりの 古田. ざとなると実行の 自信も勇気もわくものではな い.特に,技術者の 自信というものは ,長年に. であ る.ただ,石毛の 実習は現場管理にかんす るものであ ったが,中には,作業員と同じ仕事 をさせる実習もあ った..
(3) 日本技術者の「現場主義」について. が,. 3 年間,職工同様に勤務させられた 事実が. 随所で記されている. これほ,海軍工廠から住 友伸銅 場 に移った技術者藤本 磐雄 ( 東京帝大・ 機械棚機, 明 36) が,湯川寛 吉岡 場 支配人に進 言して実現させたもので ,外国人技術者から鋳 迫技術を習得させる 必要と職工になって 職工と ともに働いて 初めて「本当のエンジニアになれ る」とし 藤木の信念から 出ていた 8,. ぅ. (297)@31. (森川英王 ). ものになり,二週間の練習期間を終わるころに は 一人双の人夫になった」. Ⅰ. 2). もちろん, このような形の 現場実習だけがす べてではなかったよ. う. で, 現場で作業員たちと. いっしょに働くのではない ,現場監督という形 の 実習も多かった・. 大正 10 年頃 のことだが, 内. ケ崎賈 五郎元東北電力社長. ( 東京帝大・電気 ). の場合は,大阪電燈に入社後,約3 年間, 同社. つい労働で,職工も特に頑健な人達でないと 勤. とその後身であ る日本水力,大同電力の本社で 働いた後,木曾の読書 ( よみかき ) 発電所建設. められない. 夏になると古田君は 揮一つになっ. 工事現場に赴任し ,. 「何しろ熔解炉の 作業は工場の 中でも最もぎ. て作業をやった・ よく病気にならなかったもの ( 藤本 で,随分乱暴なことをやらせたものだ」 の回顧 談 ) 。 '. 「そこらあ たりの街の鋳造 場 と余 変わりのない 古 っぽげた工場で ,土間には沢 山の小 吹炉 があ って,その一つ一つの炉には 真 赤になった 柑渦が 毒々しい煙を 濠々とあ げてい る・その中に 古い金釦の学生服をまとい ,煤け り. たヵ ンカン帽をかぶり ,. 口 を ば 手拭で掩い,手. 1. 年半勤務した.. 「私は中学生のとき 電気屋になろ うと 決心し た・そして電気量になったら ,年をとってから. 現場へ行くよりも 若い ちに一日も早く 現場の 希望を持っていた.そ 仕事を習得したいとし れだげに建設工事は 絶好の機会であ ると喜ん だ・・…‥仕事のことはいっこ にわからず閉口 う. ぅ. う. した・. しかし私の部下には ,機械でも電気で. も ,ベテランがそろっていたから,その人たち. にせる金棒で 柑 渦の中をかき 廻したり,職工さ んたちと一緒に ,火のょぅァこ なっている 柑渦 を 金鉄 で 挟み出しては 鎔けた地金を 鋳型に流し込. うようなことを 主としてやった・そして 徐々に それら べ テランの人たちから 教えを受けた.電. んだりしている 古田さんの姿を 見出した」,。 ,.. 気量としてはここで 非常な修業を 積んだ」 埼 .. 『追懐銭 凹は ,「之が住友に於ける学校出の 新. 採用者のアップレンチース・コースの あ. ると述べているⅢ・. か立証できない・. 初め」で. 本当にこれが 最初かどう. しかし大学・ 高正卒の技術. に実務をまかせ ,. こっちはただ 人事の統轄とい. 学卒技術者をいきなり. 産業現場に送り 込ん. で, そこで鍛え上げるトレーニンバ. 日でも広く日本の. 方式は,今. 産業企業の慣行となってい. る. その意義は,外国人の現状調査者によって. 者を,採用直後から現場に勤務させるだげなら. も語られている・. ともかく,職工と同じように働かせることが ,. 産現場における. 引用者 ) 訓練制度を考えた. それほど早くから 行われていたとは 考えられな い・ しかし第一次大戦後にそのような 事例を 見出すことはそれほど 難しくない・ 住友伸銅 所. 上級管理者連中は ,. 自分たちも苦労してきて ,. ( 伸銅 場 が大正 2. 年に改称 ), 小野田セメントな. どであ る. 大正 ェ 0 年に大学を卒業して 小野田セメントに 入社した元同社社長安藤豊穣 ( 東京帝大・応化 ) は 語っている・ 「まず手始めの 実習に何をやる. かというので ,石灰石運搬を選んだ. ところが 初めは腰が痛くて 閉口したが,一週間もたつと 石の " ンドリンバもトロ ,コの扱い方もお手の. R. P. ドーアは ,. それがためになった ,. うが,たしかにこ. う. 「この ( 生. という考えだったであ ろ. い. がて管理者になった 時 ,. う. 経験を経た新卒者がや 自分の監督 下 にあ る人. 々が実際にどんな 事をしているのかについて , かなりょくわかるはずだ」と. 述べている,。 ,.. 3. 「現場主義」の 現実的必要性 それでは,この ょう な「現場主義」が , 長い 間,日本の技術者の 間で実行され ,少なくとも ,.
(4) 32@ (298). 横浜経営研究. 第 Ⅷ巻. 第 4 号 (19㏄ ). 規範として尊重され 続けた理由はどこにあ るの. を 成り立たせる 複数の企業がいっせいに 同じ過. た ろ うか .. 程を辿るわけではなく ,企業の内部に先発,後 発の差が生じるのであ り,後発企業は日本国内 の先発企業から 技術を学ぶのではないか ? そ の場合はど だったのか ? こ いった諸疑問 が 次々浮かんで 来るのであ る.. いくつかの理由が 考えられるが ,. さ. し当たり重視すべきは 次の二つであ る. 第一は, これまで日本産業が 生産することが でぎなかった 新製品をつくる 生産方法,使用し. たことがなかった 新生産方法を 初めて導入する 時,それらの 生産方法は日本の 産業現場の誰も が経験したことのないものだから. ,. 日本人の誰. かが,書物なり,外国の産業現場における学習 なり,経験者 ( 大部分は外国人 ) に よ る指導な りを通じてにれらが 相互に重複していること は言 までもあ るまい ), 生産方法を学び 取り, 日本の現場に 伝達しなければならない. この誰 かとは,ほとんどの場合,高等教育機関で学ん う. う. う. たとえば,あ る産業の後発企業が ,. 日本国内. の先発企業から ワ ン・セットの 技術者,作業員 を引き抜くことによってスタートした. 場合, 先. 造工業国の技術はすでに 現場に定着しているの であ るから,技術者が現場に張りついてまで 技 術指導に当たる 必要はないはずであ. る. ただ. し,技術者・ 作業員の内部育成を 原則とする日 本企業のライフタイム・. ヱ. ンプロイメント・. ステムでは,企業間の技術移転が困難であ. だ技術者だったのであ る.. シ. り,. つまり,後進工業国であ る日本の技術者たち. 後発企業の技術者・ 作業員の間にも 先進国から. は,先進工業国の技術を日本の 現場に伝えると. 技術を導入する 国内先発企業の 技術者・作業員 間ンこ存在するのと 同じ関係が成り 立つ, という. いう使命の下に. ,養成され,官庁・ 企業に採用. された・外国人技術者・ 労働者は,言語の壁,. ことも考えられる. この ょう な諸問題にまでさらに 立入って検討. 職業・生活慣行,高額な 人件費等の理由から , 日本の産業現場に 入り込むことは 至難であ った. を加える必要があ るのだが,それはともかく,. し,かりに入り込んだにせ. 後進工業国日本の 産業が先進国から 技術を学. よ ,多数の日本人作. 業員に技術を 伝達することはさらに 困難であ っ. び,現場に定着し終えた後においてさえ , たと. た. えぱ ,現在においても,技術者の「現場主義」. ・. 日本人の代表が 現場に入り込んだ 外国人か. ら指導を受けて ,それを多数の作業員に伝える という手段がとられた. また, 日本人なら誰でも ,直接,先進工業国 の 技術を学び取って , 日本の現場に 伝えること ができるというわげにはいかなかった. つま. り,外国人と 会話し得る能力, テクノロジ一に かんする知識,個々の生産工程に止まることな くシステム全体を 理解するために 必要な体系的 な 理論的素養, これらを兼ね 備えた人物といえ ば,高等教育機関を卒業した技術者ということ になる・彼等は ,本来,現場との 密接なつなが りを持っていなければならない 存在であ った. しかし,以上はごく 一般的な説明であ る. 一. つの産業が外国の 技術をほ ば 学び終わった 後は ど だったのか ? また,一つの産業が先進的 工業国の技術を 学び取るといっても ,その産業 う. が広く見出されるとすると ,. 「現場主義」の 成. り立ちを技術移転の 必要だげから 説明したので は十分でない ,. ということになる.. 第二の理由 は ,. 日本の産業では 現場管理者の. 慢性的不足が 存在し,その結果,大学・高正卒 の技術者がそのギャップを めなければならな ぅ. かった, という事情であ る.. たしかに, 明治中期ごろまでにはそのような. 事情が存在したと 思われる・ 『工学会誌 第 70 巻 ( 明治 20 年 10 月 ) の匿名記事 は ,工業学校 ( のちの工手学校 ) の創設を主張して ,次のよ うに述べている. コ. 「・…‥工業家の. 傭鴨 せる技術者 " 大抵元工部. 大学校友東京大学出身の 学 師 ならす ん " 欧米諸 州修学の工師ならで ハ 兎に 角其 計画を仕遂げ 難. きを以て工業家も 従来是等の人々を 傭鴨 するこ.
(5) 日本技術者の「現場主義」について. ととなるが何分日本全国工業隆盛に 趣くの折柄 C ) 工師払底にして 容易に得る能 ハす 幸に之を得 るも俊秀卓絶の 技師に 其 実地監 定 ,意匠,計 ママ. 画,製図,計算等細大の 事項一切を担当せしむ る. ハ 恰も千両役者に 馬の後足を依頼すると 一般. (森川英王 ). 不足は次第に 解消する方向に 向かっていったも のと思われる・ いや,不足が解消するだけでな く,現場管理者の技術力の方が 大学・ 高 工を卒 業したばかりの 若手技術者のそれを 上回り ,む しろ,後者を指導することになるような 事態さ. 俳優の迷惑 " 素より結局座元の 損失に帰するも. え生じた・. のなれ " 工業家に於て " 是非とも数多なる 補助. だのであ る.. の技手を傭 ひ 入るの必用を 見るなり. (299) 33. それほど,現場管理者の充実が進ん. 然れとも. たとえば, 明治末・大正初期に 三菱合資会社. 我国にて " 古来工業に関する 学校の如き " 極め. 造船部神戸造船所の 電機工場主任であ った皆川. て砂 なく 為 めに是等の人物 " 誠に得難ぎものな. 正治郎は,工手学校の出身であ るが,製図工場. り……」. の未熟な学卒技術者の 指導につとめ ,. 明治 24 年,三池炭破 仕事務長の任にあ った鉱 山技術者団琢磨は ,. 「実習旅行」で 三池を訪れ. 余り夜の 9 時 10 時迄も若手技師を 相手に教えた り説明したりして 皆を困らせたものであ った」. た帝国大学工科大学生今泉嘉一郎 ( のち日本鋼 管 重役 ) に対し, アメリカと日本の 炭坑のマネ. で 皆川氏に習. 、ジネント. 8 年頃 であ った ",.. の差異について 語っている, アメリカ. では坑夫が「 少シ 八字 モ 知り算術 モ 出来 ル位ナ. 奴 」なので,彼等がだんだん昇進して,現場管 運者になり, さらには 炭硬の マネジメントにも 当たるようになる・ これに対し,日本の坑夫は, 「文字 ヲ知 ルモノ ナシ , 文 典義務 ヲ 知ラ ズ成ル ベク 丈 私利 ヲ賈 ボリ今日 ヲ送 ラントシ, 明日 / 事実二省、 ル研 二アラズ」で ,彼等を引き上げ て 現場管理を任せるわげにはいかない. ないので,. しかた. 「旧来両刀 ヲ挟 「シモノ 若グ " 学生. 「熱心の. といわれる 瑚 .. 「学校出の技師達も 経験を積ん う. ことも 少 くな」ったのは ,大正. それでは,現場管理者の 充実の結果,大学・ 高 正平技術者の「現場主義」がゆらしだかといえ ば ,そうではなかった・ 技術者の「現場主義」 を現場管理者の 不足だけで根拠 づ げてはならな いのであ る.. 私は,技術者の「現場主義」と現場管理者や 熟練作業員との 間の関係において ,上述したの とは別な様相を 見出だし得ることに 興味を覚え る・現場管理者や 熟練作業員の 育成が進み,彼. タリ シ如キ モノ ヲ用 ヒテ 其 / 監督 ヲ為 サザル 可. 等が産業現場を 統轄できる よう になった段階. ラズ」だが,彼等は坑内のことを 一つも知らな. で,彼等の既成の技術や生産方法に 対する固執 が 技術の改善や 経営の合理化を 妨げる重大な 要 素となることが 多かった.その ょう な「 古 ぎも の」への固執を 打破し新技術の 採用と合理化. い, という内容であ る 瑚 .. 鉱 m 業においても ,現場管理者の不足は大き な 問題となっていたことがわかる.現場管理者 不足が明治双半期に 広く見られたことは 想像に. を推進する役割を 担ったのが, まさに学卒技術. 難くないし,それを補. 者の「現場主義」であ ったといら事実であ. う. ために高等教育機関田. 身の技術者が 現場に入って ,. 「馬の足」の 役回. りを演じさせられたのも 当然であ ったと思われ る・. しかし, このような状況がいつまでも 継続. その最も典型的な 族の所有・経営する. る・. 事例として,安川敬一郎一 福岡県の明治,赤池 炭蹟 一一. 明治 41 年 ケこ 明治鉱業株式合資会社になる 一一に. したわげではない.. おいて, 明治 35 年ごろ,長壁式採炭法 ( 長壁 法. 義務教育の拡大と 現場作業員の 知的素養の向 上 ,現場作業経験の蓄積と熟練作業員の 成長, 工手学校の設置や 大企業の「職工教育」等に 見. の 初期的形態の 長壁 払 )", が 実施されたいきさ. られる工業教育の 充実等の結果,現場管理者の. つが興味深い. 同法の実施を 推進した技術者は ,石渡信太郎 ( 東京帝大・. 採冶 ,明治33) であ った・石渡の.
(6) 34 (300). 横浜経営研究. 第 Ⅷ 巻 第 4 号 (1988). 回想談を少々長いが 引用しておこう. 吾 々学校で長壁法の 講義を聞いた 技術者 は 大いに之を試みようとしたが ,実地上りの係長 は中々之を許さない.鉱夫は無論危険だとして 承知しない・ 何にせよ,其の当時大学を出た 吾 々は技師と云 辞令は貰っても ,鉱夫からは技 師といわれず ,先生々々と言って尊敬されただ. 4.. 「. う. 「現場主語」の 起源. 「現場主義」の 成り立ちを,先進工業国から の技術移植の 必要性や現場管理者の 不足をうめ る必要性等 だ げによって説明できないとする と,. 日本の・技術者の 内面に明治以後ビルト・イ. けで命令は少しも 聞いて呉れない. 先生などに. ンされた価値意識二行動理俳を 問わざるを得た. 石炭は掘れるものかと 云 様な言を耳にして 残 念 で堪らなかったが ,要するに何事も実地経験 からだと,朝はセ 時から タ は五時過ぎまで ,素. くなって来る ,. そこで作業員といっしょに 汗を流して働かな げ ればならない」とし 規範を彼等に 受け容れさ. 足にわらじ,魚油の ヵン テ. せたところの 彼等の価値意識 = 行動理俳は何で. う. ラ で鼻の穴を真黒に. して坑内に入ったもので ,無論夜間の勤務もや ったが, なかなか先生の 言 ことを鉱夫も 下級 小頭,頭領も聞いてくれない・ う. ところが,其の内に急に私の 言 よ. う. う. ことを聞く. になった.それは私が坑内の仕事に 経験を. 得て仕事が解って 来たと云. う. 結果ではなく , 私. が 酒を相当に飲めることと 柔道,当時九州では 柔道のことを 体術と云っていたが ,その体術が 少し出来ると 云 ことからであ る・今度来た 先 生は丈は低いが 毎晩坑内から 出て上り酒『 角 ゥ. 「現場に行かなければならない ,. ぅ. あ ったのか.. ここで,私は,江戸時代から継承された伝統 的文化 ( たとえば儒教思想 ) とか,日本人固有 の 民族性とかには 触れるつもりはない・ 答はで. きる限り近いところに 探し求める方が よ い・私 は,明治以後の日本技術者を 育てた技術教育の あ り方に, 「現場主義」の 起源をさぐってみた いと 届け,そのさい,明治以後の 日本の高等テ. チ』を五合やるげな ,話せると云 う のであ る…. クノロジー教育の 出発点を形成した 工部大学校 の教育理念と ヵリキ ,ラムに焦点を合わせ,あ わせて,それらが後代の教育に 及ぼした影響に. …或る会合の 時酒の上から 役員同志のげんかが. ついても見ていきたいと 考える・. う. 始まり御定まりの. 刃物姉昧,その時私は相当酔. ったと見え半分 腰 が動かなかったので ,そのげ んかを酒を呑みながら 黙って見ておったそうで あ る.そのことが鉱夫の間に大酒番 で 度胸が. いとうまい工合に 伝えられた……急に を鉱夫がきく. よう. ょ. 私の命令. になり,当時の残 柱 式を長壁. 式 に改良することが 出来たのであ る」、 。 ,. ・. 「現場主義」がもたらした 技術者,現場管理 者 ・作業員間の 価値意識・情報の. 共有が,技術. 者の意思を現場で 通りやすくしたのであ の種の事例は 数多い・そして ,. る・. こ. 「現場主義」が. 日本産業の技術力を 条件 づ げているというの も,具体的には, この ょう にしてもたらされる. 産業現場の人間関係を 抜きにして説明すること はできない.. 工部大学校という 教育機関とそれが 日本の高. 等テクノロジー 教育の出発点であ るという事実 について,今更説明することはしない・ 明治㎎ 年に創設された 帝国大学を構成せる 五つの分科 大学. (法. ・. 医. ・. エ. ・. 文. ・. 理 ) の一つ,工科大学. ( 現在の工学部に. 当たる ) の前身が,工部大学 校 ( 明治 6 年創設の工学寮が 明治 10 年に改組改 称 ) と東京大学 ( 明治 10 年創設 ) 理学部の工学 関係学科 ( 明治 18 年 12 月に工芸学部として 独 立 ) から成り立っていたという 事実だけを伝え ておけば, ここでは足りるであ ろう,。 , ・. 工部大学校の 特色は,実地教育に大きなウェ イトを置いたカリキュラムにあ った・ 「生徒在 校修業 / 期ヲ 六年トス功二年ハ 校中二 於テ 修学 シ 英俊二年間 " 毎年六. ケ 月間. 校 中二 於テ 修学 シ. 六ケ 月間 " 実地二 就 キテ各志願 / 工術ヲ 修業 セ.
(7) 日本技術者の「現場主義」について シメ後二年 " 今ク実地二献 テ執業 セシム」と. (森川英王 ). 35. (301). ただし,官営諸工場鉱山における実地学習期. 「工部大学校学課 並 諸規則」第 2 節が実地教育 重視の観点を 明示している ",. カリキ,ラムに. 作成,卒業試験の準備に充てられるので ,実際. おける実地教育のウェイトは. は. 年 ととも. ヰこ. ,後述する通り,. 低下する方則 こ 向かうのだが ,実地. 間は, 2 年間といっても , 最後の半年は 論文の 1. 年半であ った. 中でも,最初の 1 年間. 5 年生 ) は貴重な学期だったようで ,. (第. 「学課 並. 教育重視の観点は 最後まで一貫していた. 実は, この「工部大学校学課 並 諸規則」第 2 節は,工部大学校の前身であ った工学寮の「学 課 並 諸規則」第 2 条を修正の上継承したもので. 諸規則」第 27 章の各所に,. あ. る・. ". 毎年六 ケ 月間 寮申二於テ 修学 シ六ケ 月間 " 実. たちと同じ仕事をしたり ,彼等の一団の監督責 任を与えられることもあ った ",. 無給ではな く, 明治 0 午 ごろには手当 ( 日給 ) 50 銭を支給. 「生徒 在寮 修業 / 期ヲ 六年トス 初 四年間. 地二献 テ 各志願 ノエ術ヲ 修業セシム後二年 " 全 ク. 実地二 就テ執業 セシム」がそれで ",. 実地教. 育重視の観点が 工学寮段階においてはさらに. 「生徒 此 学期 ヲ終ヘ テ帰校 スルヤ一般 二著 シキ学参 ヲ現 " スヲ常 ト. ス,'6). といった表現が 見られる. この. 1. 年半の間に,学生たちは,現場作業員. ェ. されている ",.. 徹. この ょう な産業現場における 実地教育を重視 する ヵリキ ,ラムが, 誰のアイディアによって. 工部大学校の 末期に当たる 明治 18 年 4 月に改. 実現したか, また,そこにどのような教育理念 が働いていたかを 考察しょう,. 底 していたのであ る. 正された「学課 並 諸規則」は , 第 19 章で 6 年の. 学期を予科 2 年,専門科 2 年,実地神2 年に分 げた 上 ", 第 23 章実地科の第 1 節において,「生 徒予科 及ヒ 専門 科 / 課程 二在テ 図学友 ヒ 試験場. 工学寮 一 工部大学校の 創立に参画して ,制度, カリキ,ラムの作成に当たり ,. 自ら 都倹. ( とげ. 課業二服事シテ. ん )2。 ' に 就任, 学校の運営を 指揮した人物とし て,ヘンリー・ダイアー HenryDyer の名前が. 多少実地 / 事業 ヲ 執り 特二 専門 科 / 課程 二在テ " 府下近傍 / 諸工事諸工場 ヲ 巡視シテ実地二所. ようやく広く 知られるようになったのは , この 10 年間くらいのことであ る・ 三好情 浩 , 化政己. 究シタリト 雄モ最後二年間課程 二於テ 八専. 氏 らの研究業績によるところが 大きい 30).. ( 実験室のこと. 一一引用者. ). ノ. ぅ実. 地二 就テ 事業 ヲ修 メシム」と規定し , 。,工部大. 学校創設当時からすると 前期と中期の 実地教育 が後退した事情を 窺わせる. しかし,後期2 年 間の実地教育専攻だけは 工学寮時代も 含めて 一. 質 して変化していないのであ. る・. 実地 科 2 年間の実地教育とは ,専門科 におい て専攻した学科 ( 土木,機械,造船,電気,道 家, 応用化学,鉱山, 冶金 ) に応じ,工部省営 轄 下の官営工場,鉱山に配属させられ ,業務に 従事することを 内容としていた・ 工事二服事スルヤ 英主務. ノ. 「生徒 / 出テ. 工師 " 生徒 ヲ処 スル. 二具学生 ト見傲シ 生徒 " 都テ其 指揮 二従ヒ 事業. 工学寮 一 工部大学校における 実地教育優先の ヵ リキュラムの 決定, 実施に当たって ,. ヘンリ. ー・ダイアーが 果たした役割は 絶大であ る.. し. かし, それをあ まり過大評価してはならない. 弱冠 24 歳のダイアーが 新設の「工業学校」校長. として明治政府に 雇い入れられたのは 明治 5 年 夏, 日本に着任したのは 6 年 6 月であ. る・. しか. し それに先立つ 明治 4 年 4 月に工部省が 作成 したところの「工部学校建設概要」には 大学校二 ニ ケル修業中 " 諸工学科技術. ,「二 二 渉り活. 物実地 / 修行 モ為仕 労力洋美如上達姉 テ 検査 %. ヲ執ツテ 工事 / 経営國 字設計等 / 事ヲ修メ或 ". 超 ュ ル考選挙 / 正洋行セシメ 快事」とあ り,す でに実地教育重視の 観点が確立している ". な. 又 生徒ヲシテ工事. お ,工部学校は, 16 歳以下の者を 入校させる 2. ノ. 一部%分担セシム ルコ トア. 18 年 4 月改正「学課 並 諸規則」 第 27 章第 10 節 )",. リ」. ( 前掲明治. 年間の小学校. ( スクール ). させる大学校. (. とその卒業生を 入校. コクレージ ) の両者から成り 丈.
(8) 36@ (302). つものと構想されていた 切. 横浜経営研究 ・. 第Ⅷ巻. この工部学校の 大. 学校構想が工学寮として 実現するのであ る。 小 学校の方は明治 7 年に設立されるが , 10 年には 廃止されている ",. 大学校に実地教育重視の 観点を持ち込んだ 人 物が ,工部省創設の推進者で, 明治 4 年当時, 工部大 丞 ・工学頭として 工部学校の設立に 当た. 第 4 号 (1988) ら ,前者は n 工業事業を監督指導する. りはむ しろ学校の教師にふさわしい 人物 を作り,後 者は肝有用な 職工ではあ っても生命と 金銭の危 険を字 む 工学の実地を 委ねることのできない 人 よ. コ. 物コ を 作ると述べ,. 丁. 成功的な ェ ンジニアに な. るであ ろう人物を養成するためには ,両方の 制度の賢明な 結合が必要であ る』と主張した・. っていた m 尾庸 三であ ることは間違いない. 山. この賢明な結合こそが 工部大学校の 特質であ っ. 尾は,文久3 年 (1863) にイギリスに 密航した. て,そのことを明治 10 年 (1877) の『ネイチュ. 5 人の長州藩士の 一人であ り, グラス ゴ 一にあ. ア コ誌が高く称揚した」㏄. '.. ネ ピア造船所で 徒弟として働きながら ,同地 のアンダーソンズ・カレ , ジに 通学した 34). ち. 「. なみに, ダイヤーもアンダーソンズ・カレッジ. う説があ るが, これに は 根拠がない⑨. また,. v=学び, さらにグラス ゴ 一大学に進学, ここを 卒業した・別に 山尾のアンダーソンズ・カレッ. 北氏 のように, ダイア(の教育理俳がスコット ランド原産であ ることにこだわりすぎる 論者も. ジ在学中, ダイアーと面識があ った ね げではな. いる 如 .. いが,工学寮一 工部大学校経営に 当たっての両. 大学, グラス ゴ 一大学. 者の密接な協力関係には 同窓生意識, さらには. モデルを超越した ,. グラス ゴ 一のめかりが 影響していた 鋤 ,. て 上げ, 日本という東洋の 島国において 結実さ. 従来,工学寮一 工部大学校をダイアーが チュ. る. 山尾は,造船所の現場で働ぎっ つ 学んだ自ら. り,ヒ工科大学をモデルにして 構成したとい. しかし, ダイアーはチュー. リ. " ヒ 工科. ( スコットランド ). 等の. きわめて独創的な 理念を育. せたというべきであ ろう.. の経験にもとづいて ,工部学校の大学校 一 工学. ダイアーが日本への 渡航中に作成したプラ. 寮に実地教育重視の 理念を持ち込んだのであ ろ. ン,工部省の構想,出来上がった工学寮の実体,. う. ダイアーもまた ,機械工場の徒弟として 働. この三者の関係については ,なお検討を要する. きつつ, アンダーソンズ・カレッジに 学んだキ. 問題点が内在し ,見解の相違もあ る が, ここでは省略する。".. ャリアの持主であ り,。 ,, 山尾の理念に 同調する. よう. であ. る. ことは容易であ った.工学寮一 工部大学校のカ リキュラムは , 山尾, ダイア一の共鳴する 理念. 5.. 「現場主. 圭 」の伝統化. に 即して, ダイアーが伴走したものといってよ し. Y. 工学寮 一 工部大学校の 実地教育重視の 理念. 学寮のカリキュラムに 具体化させたダイア 一の. は,その後,どのように 推移したのであ ろうか・ この点に対する 言及は,近代日本の 技術者の 「現場主義」の 起源を,歴史的にさかのばって. 理念は , 彼の徒弟生活と 学生生活の同時体験だ. 工部大学校の 理念, カリキュラムに 求める私見. げから生じたわけではない ,それは, ヨーロッ. の 正当性を確認するためにも 必要であ ろう.. しかし, 「講義室の時間と 少なくとも同じ 時 間を実習に向けるべぎであ る」と主張し "', 工. パ大陸とイギリスそれぞれの 工学教育を比較対 照することを 通じて得られたダイア 一の年来の 主張に発していた・ その主張を三好情 浩 氏の論文の一節を 引用す ることによって・ 紹介しておこう・ 「ダイアー は大陸の制度とイギリスの 制度とを比較しなが. 史実を辿ると ,時代とともに上記の理念が 衰 退したのではないかと 疑いたくなるようなとこ. ろがあ る・第一に,前述した 如く,工学寮から エ 部 大学校にかけて ,工部大学校の初期から末期 にかけて, カリキ,ラムにおける実地教育のウ ェイトが低下していったという 事実であ る "'..
(9) 日本技術者の「現場主義」について. 第二に, 山尾・ダイア 一の教育理念の 結晶とも い. う. べ. き 工部大学校が. , 東京大学工芸学部との. (森川英王 ). (303)@37. 「大学二アリテ practice / 事ヲムヤ ,三知. り. タ ガル " 大 ナル 誤 ナリ, brain ヲ シテ 益 confuse. 対等合併という 建て前を示しながらも ,実質的 にほ東京大学に 併合きれて,帝国大学工科大学. セ シム ル / , ,excurslon 中 三猿二 management. に転化したという 事実であ. 二アリシトキハ practice 事 ガ知. る 執 ・そして,第三. に ,帝国大学工科大学の修業年限は 3. ヵ年と工 部大学校より 短縮され, とくに「実地研究が 卒 業論文作成と 組み合わされ ,第三年次にのみ配. ナドヲ 知 りタ ガルハ不可ナリ , 子モ西洋 / 学校 り. タク 感ゼシ事. アリシ ガ今ト ナリテ ハ 大学二アリテ practice ヲ 矢ロ. り. 尼ラザリシ 事ヲ悔 イズ 却テ theory / 知り. 足ラザル コトヲ悔ュ, 勉メテ theory ヲ知 ラン. 置され」 、 。 ,, 工部大学校の 実地神 2 年間と大き. 事ヲ勉ムベシ p actice / 事 " 五年モ十年モカ 、. なへだたりを 生じた事実であ. ル車ナリ,一週間二週間二テ 会得スベ キ モノニ. る・. この第二,第三の事実は,工科大学創設への. 「. アラズ方大学二店リテ 之ヲ知 ルノ必要ナシ」 ",.. 動きに対する 工部大学校卒業生・ 在校生の反対 運動の焦点をなしていた・ 明治 19 年 1 月 ,工部 大学校学生が 森有礼文部大臣に 呈した建議 書. でもない.学生に対して「碩学多識 / 人トテ ル. ほ,. 事ヲ希 " ズ寧 口実際 二 当り,esponsibilityヲ有. 「理論. ト. 実業 トヲ 素ネ、 教へ」. る 工部大学校. が廃止され, 「実業二頭 キモ 理論 / 考究 ヲ怠、 ス理学 / 研究. 学部. ヲ 第一. ( その分身たる. ノ. ラ. 眼目」とする 東京大学理. 工芸学部. ). に編入されるこ. とを憂慮している。。 , .. 団は , 決して「現場主義」を 否定しているわ. けでも,理論に没入することを 求めているわけ. シテ実際 二 アタリテ読書スル」ような 人を望ん でいるのであ る. 自らの経験に 立って,学生時. 代に「 従う二 混雑ナル practice / 事 」にとられ れることなく , theo y の研究につとめよと 勧告 「. しかし,私は,工学寮から工部大学校をへて 帝国大学工科大学にいたる 間のカリキュラムに. おける実地教育の 比重の低下には ,合理的な根 拠が存在し, これをもって「実地教育重視の 理 念 」が衰退したと 断定することはできないと 考 える.. 実地教育の比重の 低下は,第一に,工部省管 轄の官営事業が 民間への払い 下げによって 縮小 し,実地教育の場が失われていったことによ. しているのであ. る 49,. 団. と同じような 感想を抱. く技術者は少なくなかったと 思われる・ 団の発言は , 決してダイア 一の理念と相反す るものではなかった. ダイアーはカリキ ,ラム. における実地教育のウェイトを 高くすることに つとめたけれども ,それは理論の過小評価を意 味していなかった. ダイアー は ,. 「. 卿等 卒業後. る 。 。 , .第二に,工部大学校の 実地教育重視は ,. は万凡の事に 当るを辞すべからず ,然る場合に 臨んでファクト 教育の卒業者は 学習の応用遅鈍 にしてシオリー 教育の卒業者の 機敏なるに如か. 内外から「一般に 云って工部大学は 南 校. ず」と語っていた。。 ). ( 東京. 大学理学部 引用者 ) より実地はすぐれてい たが数学の 力 などは劣っていた 様だった」 " と の 批判を受けるような 行き過ぎを伴っており ,. この是正が必要だったことによる.. そして,第三に, MI. T を卒業した 鉱 m 技術. 帝国大学工科大学における 実地教育の比重の 低下は,工学寮一 工部大学校におけるそれの 新. しい環境 ( たとえば官業の 縮小 ) に対する適 応,あるいは「行き 過ぎ」の是正を 意味するも. ので,決して現場尊重の気風を 否定して,. 「碩. 者の団琢磨が , 三井 炭傭 仕事務長の立場におい. 学多識 / 人 」 せ つくり出すことを 意図してはい. て, 司辰 逓に 実地調査に赴いた 工科大学 採冶科 学生今泉嘉一郎に 対し語った言葉 ( 前にも紹介. なかった.. した ) が示すような 現場技術者からの 要求であ った ,. そもそも,帝国大学工科大学が工部大学校の 理念の対立物であ るかのように 見ること自体, 間違っているのであ る・工部省の 廃止ととも.
(10) 38@ (304). 第 4 号 (1988). 第 Ⅷ巻. 横浜経営研究. に ,工部大学校が文部省管轄下の 東京大学によ. 二年次学年試験終了後の 夏休み期間中の 50 日間. って実質的に 併合されることになったのは 事実 であ る. しかし工科大学創設時の 教授陣 22 名 ( 教授 14 名,助教授 7 名,講師1 名 ) 中 ,外国 人 4, 外国留学 5, 東京大学理学部卒業生 4 に 対し,工部大学校卒業生は 9 名で,最大の勢力. に日立製作所で ,卒業前の 1 月から 3 月にかけ. を占めていた。、).. ( 芯化. ( 電気 ),. ),. 計約. 年. 6. カ月間であ. 間の修学期間中の. る 瑚 .工部大学校末期の 6 1. 年半,つまり 4 分の. べると。 3 年間中の半年間は 6 分の. 1. に比. 1 で短い・. ( 道家. 中村真青. 中野初子. ( 電気. = 建築 ), 助教 ( 応化 ),. ), 的場中. 河喜 (鉱. 山 ),. 井口存星 (機械 ) であ る.助教授が 目立つ のは卒業年次の 若い層が多かったからで ,工部 大学校卒業生が 差別されたわ け で は ない.工科 大学創設時の 助教授 6 名 中 , 明治 19 年に東京電 燈技師長に招かれた 藤岡市助と明治 20 年Ⅱ 月 工 手学校創設と 同時に同校校長に 就任した中村 貞 吉 以外はすべて 教授に昇格している。 ". 工科大学には 工部大学校の 教育理念の担い 手 たちが継承されたのであ り,実地教育尊重の 観 点も失われなかった・ 舘昭 氏のように,工科大 学への移行が ,工部大学校にとって,. 「いかに. その特質を失わしめるような 改革であ ったか」 と 断定しては誤りであ る㈹. 「工科大学の 卒業 生が社会に出る 時代になってから 工学の生産社 会からの遊離の 傾向がはっきりと 顕 われはじ め」たとまで 言って ほ即 ,. なお,安川の時代の工科大学でも ,三年次の. 教頭心得 ), 三好. ( 電気,. 晋 六郎 ( 造船 ), 辰野金吾. 多能 達. 合. しかし,極端に短くなった ね げではない.. 教授は志田 林 三郎. 授は藤岡市助. て芝浦製作所でそれぞれ 実習を行っている・. さらに大きな 誤りを. 実習が終了した. 後,卒業論文の作成が義務づ. け. られていた. この点は工部大学校当時と 変わら ない.. 実習 先は 「個人々々手蔓 を求めて依頼」し 職工と同じ 鏡 張り削りの た,安川は,芝浦では 仕事をさせられ ,. 「チゼ ルと ハンマーを宛てが. はれ, コツコツやり 出したが,時々左手をハン マ一で叩いて 痛い目に遭った」 6。 ). 日立でほ,. 東京高壬生 2 名と協力して ,. 日立鉱山水力発電. 所の変圧器の 乾燥と注油を 担当させられている B7). 「. p 「 actiCe ノ事 」をくわしく 知るに は 十分で. なかったかもしれない. しかし,実習生は,工 場・鉱山の長,学卒の技術者,現場の熟練作業 員から与えられた 課題に取り組み ,結果につい て 採点されたり ,指導を受けたりした・ しかも,. 得た知識,経験,それらにもとづ く意見や提案を 報告書にまとめさせられるの. 実習を通じて. で, ただの視察,聞き取りに終わるものでほな. 犯すことになる.. かった 即 .. 期間は短縮されたとはいえ ,工部大学校の実 習教育は工科大学に 引き継がれた・ 多くの工学 士たちの伝記的史料にほ ,工科大学・工学部時. 体験を通じて ,現場を尊重する気風を身につげ ることができた.. しかも,将来の技術者たち ほ ,現場. 代の工場・鉱山実習の 記録や回顧 談 が発見され. 工学寮 一 工部大学校の 教育理念と近代日本 技 術者をしっかりとらえていた「現場主義」とを. る・彼等の技術者としての 成長にこれら 実習の. つなぐ要因として. 果 たした役割は 小さいものでなかったと 推測さ. 実習教育の意義が よ りいっそ 見直されなけれ ばならない。 考察は, さらに帝大以外の 高等工. れる.. 時代によって 差異があ るかもしれないが ,安 川第五郎 ( 東京帝大・電気, 明 45) の「伝記」 と 回想録「思出の 記」によって ,工科大学生の 実習期間を計算してみた・. 了後の夏期休暇中. (約 1. 一年次の学年試験終 ヵ月. ). に芝浦製作所で ,. ,工科大学・工学部における う. 業学校や私立大学工学部の 現場実習教育へとひ ろがる必要があ るだろう・諸外国の ェ リート 技. 術者教育機関における 現場実習の事情も ,視野 に収めらるべきであ ろう・.
(11) 3. 日本技術者の「現場主義」について. 6.. む. す. (森川英五 ). (305) 39. び. 4. 日本の大企業は , その半ばをクローズド・シ ステムの家族企業によって 占められながらも ,. それらの封鎖的な 家族企業群 ( たとえば財閥 ) をも含め, 明治末期以降経営者企業への 道を急 速に辿り始めた・ 昭和初頭には , 日本経済は経 常若企業が ド ; ナントな状況,つまり経営者貸. 3 入牢㏄ 3 頁 ∼26 172 2 一 目 @ 一 目 l ﹂ Ⅰ 周 回 貝 キ コ 委 口 業. 本主義の段階に 到達したとまでは 言えないが, その段階の間近まで 近づいていたのであ る。9),. 歴を調べてみると ,技術教育を受けた技術者が. 167 名で全体の 35.5%, 帝国大学工科大学・ 工 学部に学んだ 工学士だけを 数えると 122 名で 26 % であ る。。 ', 経営者企業の 発展をリードした 専. 門経営者の中で , 「現場主義」の 価値規範を身 につけた技術者がきわめて 高い比重を占めてい た・. 154 社の大企業は 金融,流通, サーブ. ィス 部門に所属するものをも 含んでいるから ,. 上記の 35.5%,. 26%. という数字の 意義は,数. 字 が直接示すものょり 大きい一一. 日本の技術者の「現場主義」は ,たんに技術 者がかかわりを 持つ分野だけでなく ,. 日本の企. 美行動 全胸 こまで影響するところがあ ったと 居、 われる・ その影響の跡を 克明に辿ることは 困難 な課題であ るが,それが達成されるなら ,. 日本. 企業の国際競争力の 高さを経営史的立場から 根 拠づける上で 有効であ ろう,別の機会において 取り組むこととした い .. 注. 1). マ 一ア. イ. 、ノ. ・. J . ウィーナ「英国産業精神の 衰. 2). ロナルド・ P. .. 剛訳. (勤 草書房,. ドーア『イギリスの. 昭. 工場・日本. の工場 労使関係の比較社会学』山之内・ 場 訳 (筑摩書房,昭和62 年 ), 32 頁, 41 頁・. 水. 4. 退 ・文化史的接近』 原 和 59 年 ), 236 頁・. ︶ ︶ ︶穏 ︶︶︶ ︶ @ ︶四 ︶︶ 0︶ 15︶ ) わ打 お笘 2笏 % 照 W ㎎︶ ㎎鴇 3. そのような経営者企業の 力強い発展の 足どり が 確認される昭和 5 年現在, 日本の大企業 154 社の専門経営者 saIahed manager 470 名の学.
(12) 40@ (306). 横浜経営研究. コ. 第 43 巻第. 1. 号. 012345555555. 『教育学研究. 一. (昭和 51 年 ),. ︶︶︶︶︶︶. 1234. 3333. ︶︶︶︶. た 人々 コ ( 同文箱 ,昭和59 年 ) 日日工部大学校史料 J 8 頁. 同上. 同上書, 91 頁, 121 頁. 三好情 浩 「工部大学校 都検 ヘンリー・ダイア 考」. 第 4 号 (19㏄ ). 第Ⅷ巻. 』. 工部大学校の 成立と展開. 」. 正教. 4 O4 工. ︶︶. 有 学研究 第 43 巻第 1 号, 15 頁. 北 前掲 書 , 117 頁. コ. F 東京大学百年史・. 通史 1J 658 頁, 三好前掲. ︶︶︶︶︶ 姥穏佃邸弼. 論文 3 ∼ 4 頁 前掲 館 論文 17 頁 『東京大学百年史・ 通史上 J 805 頁, 939 頁 同上書 939 頁. 日日工部大学校史料』附録 123 ∼ 4 頁. F 東京大学百年史・ 通史 lJ1 677 頁, 前掲緒論. 789. 444. ︶︶︶. 文 17 頁. 日日工部大学校史料』附録 109 頁. 『男爵団琢磨 伝 』下巻,附録204 ∼ 5 頁. 同上.. 678. の形成. 555. 』. ︶︶︶. 56789. 33333. ︶︶︶︶︶. 同上. 通史 U 657 頁. 前掲,姉好論文5 頁. 同上, 7 頁. F 東京大学百年史・ 通史 ェ 660 頁, 前掲, 三 好論文 7 頁, 館昭 「日本における 高等技術教育. 18 頁. 上冊 , 12 ㏄∼ 6. 頁・. 同上書,千冊313 頁. 前掲緒論文 21 頁. 同上.. 『安川第五郎 fJ( 刊行会,昭和52 年 )36∼ 7 頁, 安川第五郎「思出の 記」㏄安川第五郎・ 遺稿 と 追想 皿 ㏄安川第五郎 f 』刊行会 ) 所収, 121∼. 3 頁. F 東京大学百年史・. 日日工部大学校史料』附録 『東京帝国大学五十年史』. 9 頁 「思出の記」 122 頁 同上, 124 ∼ 5 頁.. 実習報告は工学部図書室に 置いて学生たちの 閲. 覧に供された (同上, 129 頁 ). 武田晴八丁日 本産鋼業 史 (東京大学出版会,昭和62年 ) は , 過去における 諸大学の工学部学生の 実習報告を 日本産綱業の 技術進歩や設備投資にかんする 史 料として存分に 利用し,成功している. 59) 拙稿 "P,erequisites for the Development of Manage,ial Capitalism : Cases in Prewar Japan", in Kesaji Kobayashi and Hidemasa Mo,ikawa, eds., D 。U 。Zopm ㎝ 古研 M&n0 群 ん磁 協 加ゆ㎡ 5,, P,oceedings of the l2th Fuji Confe,ence, Tokyo (Unive,sity of Tokyo Press), 1986 60) 拙著『日本経営 史 ( 日経文庫, 日本経済新聞 社 ), 昭和 56 年, 147 ∼ 150 頁. 』. 』. ( もりかわひでまさ. 横浜国立大学経営学部教授. コ.
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うのも、それは現物を直接に示すことによってしか説明できないタイプの概念である上に、その現物というのが、
存在が軽視されてきたことについては、さまざまな理由が考えられる。何よりも『君主論』に彼の名は全く登場しない。もう一つ
の知的財産権について、本書により、明示、黙示、禁反言、またはその他によるかを問わず、いかな るライセンスも付与されないものとします。Samsung は、当該製品に関する
父親が入会されることも多くなっています。月に 1 回の頻度で、交流会を SEED テラスに
○齋藤部会長 ありがとうございました。..
〇齋藤会長代理 ありがとうございました。.
自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から
・毎回、色々なことを考えて改善していくこめっこスタッフのみなさん本当にありがとうございます。続けていくことに意味