トゥレシ(tulesi)の分布状況に関する考察
全文
(2) 国際文化論集. №31. 人の旅行記がまず注意をひく。カルピニは13世紀のモンゴル人の葬儀につ いて,「みなで食べた馬の骨は,死人の霊魂のために燃やす」4) と記してい る。これによれば,犠牲馬の骨を燃やしていたことになる。 馬の骨を燃やす習慣は今日のモンゴル人のあいだにはすでに非常に少な くなっているが,まだその姿を伺わせる祭祀は確認できる。チンギス・ハ ン祭殿でおこなうガリル祭はその一つである。ガリル祭( aril-un tail a) はクビライ・ハーンの勅命により定めたチンギス・ハンの四季祭の一つ 春季祭である「白い群れ祭」. の前夜,旧暦3月20日におこなわれ. る。それはチンギス・ハンおよびその主要な后妃を祭る祖先祭祀である5)。 ガリル祭では祖先祭祀固有の要素,たとえばガリル祭からチンギス・ハン 祭殿(八白室)にもどる際に「ふりむいてはならない」6),という習慣を保 持しているほかに,家畜の骨を火で燃やす行為も残されている。後者はほ かの地域ではもはや多く見当たらない習慣である。ガリル祭で祖先のため に燃やす供物は,次のような骨から構成されている。それは,献上物のす べての丸煮のアマン・フジュー7) (aman )1,黒い胸椎(qara seger)1,黒い腰椎(qara niru u)1,橈骨(bo tu )1,脛骨 (. . )1,腰骨(
(3) )3,膝の骨(toi )1,踵骨(borbi) 1,尾骨( yasu)1,となっている。これらの骨は肉をきれいに 剥ぎとっている8)。 供物を燃やす習俗についての情報は『元史』にも伝わっている。『元史』 巻77祭祀志6「国俗旧礼」においてモンゴル貴族の葬送に関して,「三人 の墓守がいて,三年間は,一日に一回焼飯の礼をつづける」(送葬官三員。 日一次焼飯致祭。三年然後返)と述べている。 また,同じ「国俗旧礼」に皇后,妃の埋葬後は「毎日,羊で二回焼飯す ることを以って祭祀とし,四十九日に至って止める」(葬後,毎日用羊二 次焼飯以為祭,至四十九日而後已)と記している。 ― 24 ―.
(4) トゥレシ( )の分布状況に関する考察. 『元史』によると,元朝世祖クビライ・ハーン時代に,チンギス・ハン をはじめとする歴代祖先を祭る重要性を十分認識し9),チンギス・ハン祭 祀の法則,順序を詳細に規定していた10)。元朝時代に,年中行事の祖先祭 祀に使用する供物は馬,牛,羊その他の動物及び酒,果物など各種多様で あり,儀礼は極めて煩雑である。祭祀の過程を具体的に述べた後,さらに 「祭礼が終わると,すなわち供物の残余を南櫺星門外に撒き散らす。それ は茶飯を投げ捨てるという」11) と記している。ここでは供物を焼くのでは なく,そのまま投げ捨てるとなっている。中国の習俗においても,祖先に 供えた飲食物は燃やさない12)。上で引用した『元史』の「国俗旧礼」で述 べている「焼飯」と比較すれば,相違は示されているが,祭祀の供物の残 余を棄てるという記述にはモンゴル人の固有の習慣が伺われる。 なお,明朝葉子奇の『草木子. 13). 巻3・雑制編もこの習慣を伝えており,. 「元朝では人が死に,祭りをすることは焼飯という。その大きな祭祀では 馬を焼く」14)と記してある。. 2. モンゴルにおけるトゥレシ分布の現状. 現在,モンゴル全体を見れば,トゥレシの有無は葬地における盛り土 (土まんじゅう)の有無とほぼ対応している。すなわち,盛り土を築く地 域ではトゥレシが確認でき,盛り土が存在しない地域ではトゥレシについ ての報告は見られない。注3にも示したいくつかの民族誌的記録によると, 農耕が進んだ東部内モンゴル15) および西部のオルドス(ordus)では土葬 が主要な葬制であり,盛り土を営むが,主牧地域は風葬を葬制の主流とし ており,盛り土の存在は確認されていない16)。農耕が進んでいる地域では トゥレシは広く行き渡り,明確に確認できる。ここでは,トゥレシは通過 儀礼としては埋葬時に,年中行事としては清明節17)および旧暦の大晦日に 営まれる。しかし一方,モンゴル国および内モンゴルの主牧地域ではトゥ ― 25 ―.
(5) 国際文化論集. №31. レシに関する明確な情報が提示されていない。 具体的には,東部のホルチン(qor in),ケシグテン( ),バー リン(ba arin:ケシグテンとともに赤峰市に属する)そして西部のオルド スにおいてはトゥレシという固有名詞が用いられ,トゥレシのプロセスに 関する情報も明確である。地域によってトゥレシの具体的な操作には多少 の相違はあるが,基本的な流れおよび供物はほぼ同様である。他方,スニ ド( . ),ウジュムチン(
(6) . ),アラシャン( ),青海モン ゴル( . mong ol),オイラト(Oirad)およびモンゴル国などの主牧 地域ではトゥレシを伝える明確な報告は確認されていない。 ところが,オイラト,アラシャン及び青海では,トゥレシという言葉は 用いられていないが,通過儀礼としての死後の供養に当たる習慣が見られ る。これらの地域における死後の供養については後で詳細に触れるが,こ の死後供養はオトガ・ヘンシュ・タルビフ(utu a . talbiqu:直訳 すれば煙と匂いを立てる,という意である)18) と称され,トゥレシとは異 なる特徴を持つと考えられる。オイラトでは死後七日間葬地で匂いを立て る植物を燃やし,オトガ・ヘンシュ・タルビフを営むと記しているのみで, それ以上の詳細は述べられていない。同様に風葬が葬制の主流になってお り,類似の習慣を示している青海およびアラシャンを見れば,供物などに はチベットの特色が色濃く看取される。なお,これらの地域において上述 の大晦日と清明節におけるトゥレシ,またはそれに相当する習俗は認めら れない。そのため,これらの地域ではトゥレシは存在しないと見なした。. 3. トゥレシの分布特徴が生じた要因. 前述したように,モンゴル人には早い時期から祖先のために供物を燃や す習慣が存在していた。だが,今,トゥレシには地域差が見られ,これを 営むところと営まない地域とがある。それでは,トゥレシの有無の差異を ― 26 ―.
(7) トゥレシ( . )の分布状況に関する考察. もたらした要因は何であろう。 現在,トゥレシを営む地域は埋葬時以外に,年中行事としては清明節と 旧暦の大晦日にも供物を燃やしている。埋葬時に供物を燃やして捧げる習 慣は『元史 ,カルピニ等の旅行記によって分かるように従来からも存在 していた。年中行事としての二回のトゥレシについて,まず清明節におけ るトゥレシは,モンゴル固有の習俗であるが,漢族の影響がある程度看取 できると言えよう。. 3.1 トゥレシにおけるモンゴル固有の習慣と漢族の影響 3.3.1 モンゴル民族における春季の移動時の祖先祭祀 モンゴル民族のあいだにおいて,祖霊へ供物を供える時期はもともと移 動の季節の一つ. 春季であった。『モンゴル秘史』(以下『秘史』と略す). 第70節に春季に祖先へ供物を供した記録が見られる。 tere qabur. Amba ai qa an-u. qatud. Orbai Soqatai jirin. その春,アムバガイ19)可汗の后等,オルバイ,ソカタイの二人,祖 先の(祭祀の)ため yekes-e ajaru. aru san-dur. .
(8) od u. がた. に陵墓の地へ,こちら方へ赴きたるに,ホエルン・ウヂン行きて20). この記述は強力な氏族についてではあるが,祖先祭祀の時期が春である ことを明記している。しかもこの祭祀はモンゴル人の春の季節的移動に際 しておこなわれていた。というのは,つぎの文章が見られるからである。 すなわち,ホエルン・ウヂン(チンギス・ハンの母)がアムバガイ・ハン の后たちを責めて,つぎのように言う。
(9) . . . boluba. ta. 見ていて 食べることに,目ざめさせずして移動することになった, ― 27 ―.
(10) 国際文化論集. №31. 汝等. さらに,つづきの第72節でタイチウド族の移動を記した文章が確認でき る。「 いかにしてか,これらの者,母子等をノタグ21)に棄てて移動せよ。 あ. ひ なか. 汝等も連れ行くなかれ』と言って,明くる日の日中より,タイチウド族は ……,オナンの河を下りて動けり」22)。かくして,移動のとき,テムジン 一家は冬営地に見捨てられた。即ち,祭祀が行われた翌日,かれらはノト グ. 冬営地より移動した。祖先祭祀は春の移動に先立って行われたこと. がわかる。 北アジアの民族は,春に集まってもろもろの行事を行っていた。モンゴ ル語族の烏桓と同類とされる鮮卑は「春を以って饒楽水の川上につどい集 まる」23)。この記述からは,いったいどのような集いであるかは明瞭では ないが,中国語の史料は北方民族に関して,しばしば天地と祖先などを祭 っていた,とまとめて伝えている。もう一例をひくと,『後漢書』巻90烏 桓鮮卑列伝には「鬼神を敬い,天地,日月,星辰,山川および著名な勇者 を祀る」24) とあるように,往々にしてまとめて同時に記している。遊牧の 生産,生活の特徴によって,春季の移動の折には,集まって行事を行って いたが,その際に神々および祖先を祭っていたことと推測できよう。 この習慣は大部分のアルタイ系遊牧民に共通し,それに関してはすでに より古い記録があり,そのなかに時として祖先を祭っていたと明示してい る箇所も見られる。中国の史書に匈奴は,「五月には籠城に大集会して, その先祖,天地,鬼神を祭る」25) と述べている。なお,突厥は「五月中旬, 他人水に集まって天神を拝祭する」26)。 かれらは春のほかに秋にも集まっていた。『史記』匈奴伝には上で引用 たいりん. した文章にひきつづき,「秋,馬の肥えるとき林に大会する」。鮮卑につ いては,『魏書』巻108礼志に,その皇族が先祖を祀る廟を立てて「常に九 ― 28 ―.
(11) トゥレシ( )の分布状況に関する考察. 月十月の交を以って,帝は自ら祭る」と伝えている。契丹に関しても『遼 史』地理志巻37に「春秋時の祭に必ず白馬青牛を使う」と類似の習慣が述 べられている。匈奴以来北アジアの遊牧民族が,春秋の2回共同の行事を 行ったのは,かれらが季節移動する節目の時期であり,全部族あるいは全 民族が最も集まりやすい時期でもあると指摘されている27)。その春の移動 に際して,とりわけ有力な氏族の祖先も祭っていた。 さらに,現在も春秋に伝統行事を行う地域が多い。モンゴルの各地にお いてオボー祭は今なおしばしば見られる。オボー祭の行われる時期は多く が春であるが28),オルドスでは秋に行われる29)。また,スニドではテング リに捧げる家畜を聖別する時期は秋である30)。バーリンでは秋にバヤン・ ハン山(bayan qan)を祭る大きな祭祀が催される31)。この時期は家畜が肥 えているという理由のほかに,移動の際に様々な行事を行っていた伝統の 遺風でもあると考えられる。 3.1.2 春秋の移動における儀礼的な意義 移動は重要な出来事であり,その際いろいろな儀礼的習慣が守られる。 移動に際しては,同一ノトグ. 宿営地. の者は誰も残さずに皆で移る。. 残された旧い場所はカラ・ノトグ(qara nutu )つまり黒い故郷と呼ばれ, 黒は不吉の象徴とされる32)。もし,テムジン一家のように,旧い場所に見 捨てられれば,仲間から除外されたことに等しい。また,遊牧民があらた な幕営地に着き,はじめて沸かしたお茶の少量をまず帳幕の戸口から外部 へ撒きちらし,もしくは屋根の円孔から空へ投ずる33)。このように,移動 にともなういくつかの儀礼が行われる。 さらに,移動は一種の離合集散でもあり,吉祥の日と見なされる16日を 選ぶ記載が『秘史』第118節に示されている。殊に春は水草の良い季節の 始まりであり,春を以って1年の開始としていた。『蒙韃備録』に「其の 習俗には草が青くなることを以って一年とする」34) と述べている。このよ ― 29 ―.
(12) 国際文化論集. №31. うな重視される移動に際して,人々とくに強力な氏族は祖先を葬った場所 もしくはその方向に向かい,祭っていたことは容易に理解できよう。 3.1.3 漢族の清明節の影響 元来春の移動に際して,祖霊に供物を捧げる習慣は,後に,漢族のモン ゴル地方への進入にともない,漢族の清明節の影響を受け,時期的に清明 節に従ったと考えられる。中国における清明節の習俗は早くも隋唐時代か ら盛んになったと指摘されている35)。 すなわち,遊牧民としてのモンゴル人は春の移動のとき祖先祭祀を営ん でいたが,それはだいたいの時期であり,定まった日にちはなかった。遊 牧の移動性の特徴により,日にちを定めることも難しいからである。だが, 遊牧から定住に変化すると,定まった日にちに祭祀を行う可能性が高まっ てくる。農耕化,定住化さらに漢族習慣の浸透によって,もともとの春の 時期に祖先祭祀を行っていたうえに,祖先祭祀の時期としては漢族の清明 節の日にちを受け入れたと考えられる。 もちろん,モンゴル人の清明節は漢族のそれとは相違する特徴を維持し ている。少なくともつぎの3つの点で漢族とは異なる。まず,漢族は墳墓 の前に飲食物を陳列するがそれを燃やさない。燃やすのは紙銭のみである。 なお,紙銭を焼かず,そのまま墳墓の頂上に置く地方もある36)。モンゴル 人は飲食物も含む供物すべてを燃やす。つぎは,紙銭と言っても,またも や独自のやり方が確認できる。つまり,紙銭を作るには,鉄など金属類を 避けるために,中国の銅銭そのものを使用せず,銅銭の形を取った木製の 模型を紙に圧しつけて写し取る。最後に,漢族の女性も墓参りをする37)が, モンゴル人の女性は墓参りをしないのが一般的である。 3.1.4 盛り土との関連 トゥレシはとりわけ農業が進んでいる地域で明確に見受けられる。これ らの地域は漢族の進入が最も早かったうえ,開墾が至るところで行われた。 ― 30 ―.
(13) トゥレシ( )の分布状況に関する考察. 農業の推進と牧畜の衰退が定住化をもたらし,定住は祖先を葬った場所の 確認を可能にする。さらに,開墾を行うために,葬地の目印となる盛り土 を築かねばならない。盛り土が築かれる以上,祖先の存在する場所がいつ でも明確に確認できる。祖先があの世で生きつづけること. その「存在」. は,盛り土の構築によって一層鮮明に感じられる。すなわち,祖先は「存 在感」を増すようになる。それゆえ,供物を供することがよりはっきりと 強く要求されるにちがいない。なお,盛り土の高さ,広さを保持するため に,すなわち目印の役割を果たすために,定期的に土を被せることも当然 に求められる。盛り土を築く東部内モンゴルでは子孫を残さなかった人は 火葬される場合が多い。それは土葬し,盛り土をつくると,定まった時期 に供物を供え,盛り土に毎年のように土を被せてあげなければならないか らである。このような実情によっても盛り土が清明節のトゥレシと関わる ことがわかる。元来の春季の移動に際して祖先を祭る習慣に,さらに盛り 土を築くようになった地域では土を被せる行為も加えたのである。 旧暦の大晦日にトゥレシを営む習慣が,モンゴル人のあいだに従来存在 していたのか,または外来文化の影響であるのかについては今のところ断 定できない。ただし,昔は重大な行動に出る際,吉祥の日と見なされる旧 暦16日を選んでいた情報が多く見られる。つぎは,『秘史』に現れる16日 に関する記録をまとめてみる。 『秘史』によると,当時,移動の日は16日を選んでいた。たとえば先に も触れた第118節に次の記録がある。テムジンとジャムカ2人は親しみ合 い,ともに暮らしてきた駐営地から,「夏の初めの月の十六日に」移動し た。なお,チンギス・ハンは大きな戦争に出発するに際しても,依然とし て16日を選んでいた。『秘史』第193節にチンギス・ハンとナイマン族との 戦いを記述するとき,その日にちについては第118節と同様な語句を使用 している。さらに,『秘史』第81節にも,まったく同じ語句が認められ, ― 31 ―.
(14) 国際文化論集. №31. この日にタイチウド族が宴を張ったと伝えている。『秘史』に頻繁に現れ る記録からわかるように,当時,16日はモンゴル人にとって重要な吉日で あったにちがいない。 上述のように,北アジアの遊牧民は春秋の移動に際してさまざまな行事 を行っていた。モンゴルと同様に北アジアで活躍していた遊牧民匈奴の祭 期について,正月(冬)は「寒気最も厳烈で,万物総べて荒涼たる季節で あり,非社交的な蟄居の時期」であり,匈奴単于の正月の祖先祭祀は中国 文化の影響であるという指摘38)が参考になる。旧暦大晦日に祖霊を祭る習 慣は古いことも古いであろうが,季節と日にちのいずれから見ても,外来 文化が影響を及ぼした結果であると想定できる。しかしながら,時期の問 題を別にすれば,トゥレシの供物,営む方法のいずれも固有習慣の特徴を 保持している。. 3.2 トィレシを営まない習慣の理由 先述した如く,風葬が葬制の主流となっている地域ではトゥレシが存在 しない。トゥレシを営む地域は伝統を保ちながらもある程度漢文化の影響 を受けたが,それでは,トゥレシを営まない習俗にはいかなる理由が考え られるのであろうか。それには主としてチベット仏教の影響が確認できる。 3.2.1 チベット仏教の死後観の影響 かつて,死者に供物を燃やして届ける習慣はモンゴル人の習わしであっ たにもかかわらず,上述の民族誌的諸記録(「主要参考文献」において* を付したもの)によると,現在は風葬が葬制の主流となっている地域では トゥレシが見当たらない。もちろん,モンゴルにおける風葬についての細 緻な研究はまだ行なわれていない。チベット仏教が浸透する以前の風葬は 如何なる状況であったのかという問題が明らかにされていない。なお,チ ベット仏教の働きかけによって風葬がどのような変化を示したのかについ ― 32 ―.
(15) トゥレシ( )の分布状況に関する考察. ての研究も不十分な状況にあるといわざるをえない。その難点の一つは文 献資料が乏しいことである。だが,草原遊牧民と森林狩猟民との起源的な 関連を考えれば39),風葬は森林狩猟民の樹上葬の伝統を受け継いだ草原遊 牧民の葬制の一つであると捉えられる。すなわち,「その精神的な意味内 容からして狩猟民文化に帰属せしめるべき」樹上葬または台上葬が草原地 帯の自然環境に適合した結果である40)。森林地帯の樹上葬もしくは台上葬 が木の少ない草原では風葬に変化した。しかしながら,現在の風葬にはチ ベット仏教の色彩が多く読み取られる。 言うまでもなく,風葬はチベットの鳥葬とは異なるが41),チベット仏教 の影響が明確に看取できることは疑いない。現在の風葬では,死体を野原 に野ざらしにして,定まった日42) に死体の有無を確かめに行く。これを 「エレギルテ・ヒフ」(ergilte :直訳すれば戻りをする,という意で ある)43) という。死体が野獣や猛禽にすでに食べられて残っていないなら ば,家族が吉兆と見なす。それは霊魂の古い住みかが破壊され,死霊が速 く死体から立ち去り,この世を離れ,極楽の世へ行くかまたは輪廻転生す ることを示しているからである44)。逆に死体が未だ食されていなければ, 穢れがあるかまたは会うべき親族に会えなかったために,死霊が死体を離 れない。それがゆえに,死体が野獣や猛禽に受け入れられない。そのよう な場合は,青海では会わなかった親族が食物を持って葬地に行き,食物を 撒き散らす。もしくは穢れを清めるためにラマ僧を招き,読経する45)。オ イラトでは死体を他の場所に移して,あとは二度と行かない46)。 チベット仏教の死後観によれば,遅かれ早かれ,いずれにしても,祖霊 が極楽の世に行くかあるいは生まれ変わる。したがって,供物を必要とは しない。東部内モンゴル及びオルドスと異なり,風葬をする地域では大晦 日に祖霊を祭るのではなく仏像の前にろうそくを灯して敬意を表す47)。仏 教における霊魂が極楽の世に行くかまたは転生するという観念は,シャマ ― 33 ―.
(16) 国際文化論集. №31. ニズムの死霊が死者の世で生きつづける観念とは異なる。前者の場合は祖 霊に供物を供する必要が無いが,後者の場合はあの世で生き続けるに必要 とする物を供しなければならない。 3.2.2 トゥレシの存在しない地域における死後供養 風葬を主流とする地方では葬式を行った後,一定した期間中に供物を燃 やして供養を行う習慣が記されている。青海地方は49日目まで毎日ザンバ (Zamba チベット式の食物)とその他の食物及び布切れ,杜などを燃やし てあげる48)。アラシャンでは住居の外,小高い場所でザンバ,バター,砂 糖類を燃やして煙とにおいを立てる。これをオトガ・ヘンシュウ・ガルガ コ(utu a ar aqu 煙と匂いを出す,という意味である。オイラ トではこれと同じ意味でオトガ・ヘンシュ・タルビコ utu a talbiqu を使用している)と称しており,49日ないし百日までは毎日行う49)。 すでに言及したように,オイラトにおいてはこの期間が縮まって死後の7 日間となっている。 これらの地方における飲食物を燃やす習俗は,死後の一定した期間に限 られ,いわば通過儀礼としての供養であり,年中行事としての上述の清明 節,大晦日の祭祀は確認されていない。13世紀におけるモンゴル人の死後 供養としての供物を燃やす習慣は先に述べたが,オトガ・ヘンシュウ・ガ ルガコとはまた相異点が見られる。後者にはチベット仏教の影響が強く見 受けられ,固有習慣のトゥレシとはつぎの2点で異なる。 一つは供養の期間がチベット仏教の影響によるものである。仏教を信奉 する多くの民族には死後の7日目の倍数とりわけ49日目が重視される50)と 同様に,モンゴルにおいてもこの日が重要である。祖霊はこの日に裁きの 庭に立ち,最後的に受けるべき処遇が決まる。この期間中,祖霊は地上を 彷徨い,この世を去っていないため,飲食物を供えなければならない。風 葬を行う多くの地方は49日目を以って供物の最終日とする。なお,チベッ ― 34 ―.
(17) トゥレシ( )の分布状況に関する考察. ト仏教の影響を受けたほかのアルタイ系民族もやはり同じように49日目を 重視する51)。もちろん,オトガ・ヘンシュウ・ガルガコもトゥレシも祖霊 のために,飲食物を燃やす点では同様であるが,前者はチベット仏教に色 塗られたこともまた明白である。遊牧民の本来の春の祭祀が見られないこ とから考えても,チベット仏教のファクターがはるかに大きな比重を占め ていると受け止められる。 いま一つは目的の重点が相違する。固有習俗のトゥレシには火崇拝に基 づく信仰の要素ならびに死霊恐怖観念の成分がより多く読み取れるが,上 述の風葬を行う地域の死後の供養には煙とにおいをたてることがより重視 されている。典型的な一例を見てみよう。チンギス・ハン祭殿で行われる 祖先祭祀であるガリル祭において,チンギス・ハン,ボルテ夫人および他 の主要な妃. クラン妃とグルベルジン妃. に供物を燃やすが,その際,. たきぎが燃え尽き,煙が立ち終わってから供物つまり丸煮の特定の骨を燠 で焼く52)。ここでは,煙と匂いを立てることが意図的に強調されている傾 向が見られない。庶民の場合でも,トゥレシを営むには煙と匂いの役割を 考慮しているような意識ははっきりと見出せない。すなわち,トゥレシで は煙と匂いよりは火そのものの役割が重視されていると考えられる。 一方,風葬を行う地域において供物を燃やす目的は,煙と匂いを立てる ことにあると見られる。これらの地域ではザンバをはじめとする食物およ び匂いをたてる植物を燃やす。ウジュムチンの記録によると,ここでは浄 化の意味も含まれているが,風葬の場所でこのような植物を燃やす53)。匂 いと煙を立てる目的はとりわけ次の習俗によって明らかになる。地理的位 置がチベットに近い青海モンゴルでは,死後49日間ザンバを燃やし,ツァ バサル( absar:匂いを立てるという意味。チベット語。油と混ぜたザン バを燃やし,匂いおよび煙をたてる習慣を指す)を行う。死霊は飲食物の 食用ができず,匂いのみが受亨できるため,ツァバサルを行うことによっ ― 35 ―.
(18) 国際文化論集. №31. て,死霊が祭られると言われている54)。これはチベットの鳥葬を連想させ る。すなわち,これらの地域では風葬の操作がチベットの鳥葬とは異なる にもかかわらず,チベット鳥葬におけるハゲワシを誘うためにザンバを燃 やし,煙と匂いを立てる方法を受け入れたと考えられる。火に供物を投ず る固有の習慣とチベットの鳥葬のやり方との習合であり,チベット仏教の 要素も鮮明に見受けられる。 全体的に見れば,風葬を主とする地域における死後供養である飲食物を 燃やす習慣にはチベット仏教の色彩が明確に認められ,トゥレシと異なる。 このような実情に基づき,風葬する地域ではトゥレシが存在しないと考え られる。しかしながら,風葬を行う地域における死後の供養は通過儀礼で あり,いわば,これも死霊を行くべきところに行かせ,決まった時期にこ の世を離れることを望んでいるのである。前述した「エレギルテ・ヒフ」 習慣において,読経もそして食物の撒き散らしも,死霊をこの世から離す ことを図っているのであり,オイラトにおける他所に移動させてから二度 と行かない習慣には死霊恐怖観念の痕跡が一層鮮明であろう。さらに,火 を用いる固有の習俗もなお保持され,この点は死霊恐怖観念の表現でもあ ると考えられる。したがって,風葬する地域はチベット仏教の影響を受け ながらも,固有の習俗である死霊恐怖観念の要素がなお幾分か残っている。. 4. お. わ. り. に. 上述のトゥレシの分布状況およびその理由はつぎのようにまとめられよ う。まず,トゥレシはモンゴル人固有の習慣であり,それを営む時期は埋 葬時および春季であった。つぎに,現在,盛り土とトゥレシの有無がほぼ 対応している。農耕化が定住化をもたらし,これらがさらに祭祀を行う日 にちを定める可能性を生じた。開墾によって盛り土を普及させ,そのうえ 漢族の清明節の影響が加わり,祖先祭祀の日にちはもとの春季であったこ ― 36 ―.
(19) トゥレシ( )の分布状況に関する考察. とがさらに確定され,清明節に定着した。つぎに,遊牧民文化には狩猟民 文化の痕跡が見られ,風葬は死者を「実用的な理由から草原に放置してお いて,さらに移動していく」55),この古い形式の変化である。それには, チベット仏教の浸透が加わり,とくにその死後観は現在の風葬を行う地域 におけるトゥレシを営まない主要な理由になる。第四に,風葬が主流であ る地域における死後供養と固有習俗としてのトゥレシとは,時期と目的の いずれにも異なる特徴が確認できる。最後に,いうまでもなく,チベット 仏教はモンゴル全土に浸透した。しかしながら,複雑な歴史,社会,経済 および地理的位置などの理由56)により,地域によってその影響に自ずと強 弱がある。そのうえに,漢族の進入およびその文化浸透の程度の差異も加 わり,トゥレシの現状をもたらした。 このように,トゥレシを営む習慣は,モンゴル族固有の春季における移 動の際に祖先を祭る習慣に,漢文化つまり農耕化,定住化および清明節な どの影響が加わった結果であると見られる。トゥレシを営まない地域は主 牧地域であり,チベット仏教の与えた影響がより大きいであろう。だが, これは基本的な要素を考えたことであり,チベット仏教はモンゴル全土に 浸透し,漢文化はとくに内モンゴルの全地域に大きな影響を及ぼしたこと は周知のとおりである。さまざまな理由により,これらの異文化がモンゴ ルに及んだ影響には程度の差異があり,習俗の地域差をもたらした要因に なると考えられる。. 注 1) :祖先供養に際して,飲食物,紙銭及び布切れなどの供物を燃やし ol jang
(20) -yin nebterkei toli oyun-u bodi て供える習慣( . 主編 Mong [モンゴル族民俗百科全書・精神巻],内モンゴル科学技術出版社,1999年, 273 274頁)。 ― 37 ―.
(21) 国際文化論集. №31. 2) Eldegdei&Ardaj ab, Mong ol-un ni u a tob iyan- tailburi(モンゴ ル秘史還原注釈),内蒙古教育出版社,1986年,p. 467;同上注;Sampilnorbu 編著 Mong ol-un jang a ali-yin toimu(モンゴルの風俗),遼寧民族出版社, 1990年,p. 51. 3) 参考文献のうち*マークがついているもの。したがって,これらの民族 誌的記録によるものは特記の必要なところは明記するが,逐一の注を省く。 4) カルピニ/ルブルク著. 護雅夫訳『中央アジア・蒙古旅行記―遊牧民族. の実情の記録― ,1989(平成元)年,光風社,16頁。 al&.
(22). Altan ordun-u tail a(黄金オルドの祭祀),民族出版社, 5) Sainjir 1983年,p. 119,p. 138. 6) 同上注の引用文献 p. 139. :直訳すれば口の首であり,頚椎の骨のうち下顎骨にもっ 7) aman とも近い骨をさすとされる(小長谷有紀「モンゴルの家畜屠殺をめぐる儀 礼」 東北アジアの歴史と社会 ,畑中幸子/原山煌編,名古屋大学出版会, 1991年,p. 306参照)。 8) 前掲注5の引用文献 p. 136,p. 139;楊海英「オルドス・モンゴルの祖先 祭祀. 末子トロイ・エジン祭祀と八白宮の関連を中心に」 国立民族学博. 物館研究報告』21,1997年,679頁。 9). 元史』巻77「至正親祀南郊」条に「天子の職で最も大事なことは礼儀で. ある。礼儀のなかで第一重要なことは孝である。孝のなかで祭祀は最も重 要である。世祖皇帝は新都に移った後,最初太廟を建立し,根本を知って いると言える」(蓋天子之職。莫大於礼。礼莫大於孝。孝莫大於祭。世祖皇 帝自新都城。首建太廟。可謂知所本矣)と述べている。 a an (十善福白史冊), 10) Liu jin suv 整理校注 Arban buyantu nom-un 内モンゴル人民出版社,1981年,pp. 87∼88. 11) 原文は「礼畢,則以割奠之餘,撒於南櫺星門外,名曰抛撒茶飯」( 元史』 巻74「祭祀」三)となっている。 12) 永尾龍造著『支那の民俗 ,アジア学叢書8,大空社,1996年版,226∼ 227頁;申士. 傅美琳主編『中国風俗大辞典 ,中国平和出版社,1991年,. 230頁,263頁。 13) 元朝末明朝初の書物。全4巻。内容は天文,律暦,習俗など多方面にわ ― 38 ―.
(23) トゥレシ(.
(24). )の分布状況に関する考察 たるが,元朝のモンゴル人についても多く伝えている。 14) 原文は「元朝人死,致祭,曰焼飯。其大祭,則焼馬」( 草木子 ,中華書 局,1983年版)である。 15) 通常内モンゴルの東部つまり呼倫貝爾市,興安盟,通遼市及び赤峰市を 含むが,本稿執筆に際して,呼倫貝爾に関する民族誌が見られなかったた め,本稿では後者の三つの地域を指す。 16) 盛り土については拙文「18世紀モンゴル諸族の墳墓形式の変容」 EX ORIENTE』Vol. 10を参照されたい。 17) 4月4日もしくは5日に墓参りする。墓の掃除をしたり,土を被せたり して,また供物も供えられる。 ali(オイラトの風俗),内モンゴル人民 18) Na. Basang 編著 Oirad-un jang a 出版社,1990年,p. 55. 19) 最初の部族王国を創設したモンゴル部族の英雄カブル・ハンのあとを受 け継ぎ,この部族王国の第二代のハン位についた人物であり,チンギス・ ハンの四世の祖に当たるとされている(村上正二訳注『モンゴル秘史―チ ンギス・カン物語―』1,平凡社,1970年,56頁)。 ol-un ni u a tob iyan〔モンゴル 20) ラテン字転写はバヤル(Bayar 復原 Mong 秘史 ,内モンゴル人民出版社,1981年),エルデンテイ等(Eldengdei& Ardajab, Mong ol-un ni u a tob iyan tailburi〔モンゴル秘史還原注 釈 ,内モンゴル教育出版社,1986年)を参考し,訳文は小沢重男に従った ( 元朝秘史全釈』中,風間書房,1986〔昭和61〕年,13頁)。下線筆者。 :ノトグともいう。故郷の意味である。村上正二はこの箇所を冬営 21) nutu 地と訳している(村上正二訳注『モンゴル秘史―チンギス・カン物語―』 1,平凡社,1970年,101頁)。 22) 日本語訳は小沢重男『元朝秘史全釈』中,風間書房,1985(昭和60)年, 25頁。 23) 以季春月大会於饒楽水上( 宋〕范曄. 撰『後漢書』巻90. 烏桓鮮卑列伝,. 中華書局,1965年版)。 24) 原文は「敬鬼神,祠天地日月星辰山川及大人有健名者」である。 25) 五月大会籠城,祭其先,天地,鬼神(司馬遷『史記』匈奴列伝,中華書 局,1959年版)。 ― 39 ―.
(25) 国際文化論集. №31. 26) 又以五月中旬。集他人水拝祭天神( 周書』巻50. 異域伝突厥,中華書局,. 1971年版)。 27) 江上波夫は北方アジアの遊牧民に見られる春秋二回の公共的大祭につい て詳細に取り上げている(「匈奴の祭祀」 匈奴の社会と文化 ,山川出版社, 1999年,282∼286頁)。 ali(ウジュムチンの風 28) &.
(26) 編著 jang a 編著 Ba arin-u 俗),内モンゴル人民出版社,1992年,p. 162; jang -yin durasumji(バーリンの風俗録),内モンゴル人民出版社,1987 a an 編著 jang a ali(スニドの風俗),内モンゴル 年,p. 39;Da. 人民出版社,1991年,p. 60. -yin tob i(オルドスの風俗鑑)海拉爾市, 29) Namjildorji 編著 Ordus jang 内モンゴル文化出版社,1992,p. 418. a an 編著 jang a ali(スニドの風俗),内モンゴル人民出版 30) Da. 社,1991年,p. 56. arin-u jang -yin durasumji(バーリンの風俗録),呼 31) 編著 Ba 42. 和浩特,内モンゴル人民出版社,1987,pp. 41 Mong ol-un ayan jing, !" # $mong ol-un $ sonin, 1992. 5. 6 32) Te. (「モンゴルの旅」 内モンゴル日報 ). 33) 後藤冨男「モンゴル族に於けるオボの崇拝. その文化に於ける諸機能. 」 民族学研究』19/34,1956年,62頁。 34) 其俗毎以草青為一歳(趙. 撰『蒙韃備録 ,王国維箋証,『王観堂先生. 全集』第十二冊,台湾,文華出版公司印行,1968〔中華民国57〕年)。 35) 子琴『中国風俗史 ,巴蜀出版社,1987年,164頁。 36) 申士. 傅美琳主編『中国風俗大辞典 ,中国平和出版社,1991年,230. 頁,263頁。 37) 前掲注35の引用文献205∼206頁。 38) 前掲注27の引用文献290頁。 39) 大林太良『葬制の起源 ,角川選書92,角川書店,1977年,45∼46頁;ウ ラヂミルツォフ著. 外務省調査部訳『蒙古社会制度史 ,1936年,71∼80頁。. 40) 大林太良『葬制の起源 ,角川選書92,角川書店,1977年,148頁 41) モンゴルの風葬は死者を野ざらしにしておき,自然に任せる。チベット ― 40 ―.
(27) トゥレシ( ). )の分布状況に関する考察 の鳥葬では死者を野原に運ぶが,特定の人が死者を解体し,ハゲワシに投 じて食させる(川喜田二郎『鳥葬の国:秘境ヒマラヤ探検記』講談社学術 文庫〔1033 ,講談社,1992年)。 ali〔オイラ 42) オイラトは49日目に行くが(Na. Basang 編著 Oirad-un jang a トの風俗 ,内モンゴル人民出版社,1990年,p. 52),青海では三日または mong ol-un jang a ali〔青海モ 七日目となっている(Sarangerel 編著 ンゴルの風俗 ,内モンゴル人民出版社,1990年,p. 95)。 43) 前掲注30の引用文献 p. 323. ol 44) モンゴルに伝わったチベット仏教の死後観に関する詳細な解説は Mong jang -yin nebterkei toli oyun-u bodi(.
(28) 主編. モンゴル族民俗百. 科全書・精神巻,内モンゴル科学技術出版社,1999年,pp. 218∼221)など がある。なお,チベット文化についてはR.A.スタン著. 山口瑞鳳・定方. 晟訳『チベットの文化』 (決定版),岩波書店,1993年〕が参考になる。 mong ol-un jang a ali(青海モンゴルの風俗),内 45) Sarangerel 編著 モンゴル人民出版社,1990年,p. 96;前掲注30の p. 323. 46) 前掲注18の引用文献 p. 52. &Se enbilig 編著 jang a ali 47) 前掲注18の引用文献 p. 288;
(29) . (アラシャンの風俗),内モンゴル人民出版社,1989年,p. 191. mong ol-un jang a ali(青海モンゴルの風俗),内 48) Sarangerel 編著 モンゴル人民出版社,1990年,p. 97. enbilig の引用文献 p. 369. 49) 前掲注47の
(30) . &Se 50) 日本では毎日の供養法事がこの日を以って一応終わり,この49日目は忌 明けで,そのあと一周忌と飛ぶのが一般の風である(最上孝敬『霊魂の行 方 ,名著出版社,1984〔昭和59〕年,200頁,261頁;堀一郎『堀一郎著作 集. 第六巻. 生と死 ,未来社,1990年,262頁);中国にも類似する習慣が. 認められる(子琴『中国風俗史 ,巴蜀出版社,1987年,130∼131頁)。 51) ウノ・ハルヴァ著. 田中克彦訳『シャマニズム―アルタイ系諸民族の世. 界像― ,三省堂,1989年(再版),302∼303頁。 al&. . Altan ordun-u tail a(黄金オルドの祭祀),民族出版社, 52) Sainjir 1983年,p. 138. ali(ウジュムチンの風 53)
(31) & !"#$. #
(32) 編著 %& '( jang a ― 41 ―.
(33) 国際文化論集. №31. 俗),内モンゴル人民出版社,1992年,p. 239;なお,チベットの鳥葬と類 似する習慣は青海省海南州のモンゴル人のあいだに見られると伝えている。 海南州では,ハゲワシを誘うため,バターと混ぜたザンバ(チベット式の ol jang.
(34). -yin 食物)を焼き,煙と匂いを立てる( 主編 Mong nebterkei toli oyun-u bodi〔モンゴル族民俗百科全書・精神巻 ,内モンゴル 科学技術出版社,1999年,p. 206)。 54) 前掲注48の引用文献 p. 77. 55) 前掲注40の引用文献45頁。 56) チベット仏教とモンゴル各地の俗界との関係,当時の社会・政治事情な らびに布教人物に関する考察は若松寛の研究がある(「カラムックにおける ラマ教受容の歴史的側面」 東洋史研究』25:1,1966年;「蒙古ラマ教史 上の二人の弘法者. ネイチ-トインとザヤ-パンディタ. 」 史林』56:. 1,1973年)。. 主要参考文献: .
(35)
(36)
(37)
(38)
(39) !(モンゴル族の 伝統的礼儀・習慣の精粋1・2)," # # $%# # & # '( ) ) ( $ *Na. Basang 編著 Oirad-un jang a ali(オイラトの風俗),呼和浩特,内モンゴ ル人民出版社,1990 *Namjildorji 編著 Ordus jang.
(40). -yin tob i(オルドスの風俗鑑)海拉爾市,内 モンゴル文化出版社,1992 Narantuya* a 編著 Mong ol-un ulamjilaltu eger yosun(モンゴル族の民間禁忌), 内モンゴル人民出版社,1997 * 編著 . . mong ol ud-un jang a ali(ケシゲテン・モンゴル族 の風俗),赤峰市,内モンゴル科学技術出版社,1996 ol jang.
(41). -yin nebterkei toli oyun-u bodi(モンゴル族民 主編 Mong 俗百科全書・精神巻),赤峰市,内モンゴル科学技術出版社,1999 * * & 編著 . . !. jang a ali(ウジュムチンの風俗), 呼和浩特,内モンゴル人民出版社,1992 *" # * &Uran$ imeg 編著 Qor in-u jang a ali(ホルチンの風俗),呼和浩 ― 42 ―.
(42) トゥレシ( )の分布状況に関する考察 特,内モンゴル人民出版社,1988 .
(43).
(44)
(45) (モンゴル習俗大解説書) ! "# # $%# & % ' ( ' )*++ , Sainjiral& Altan ordun-u tail. a(黄金オルドの祭祀),民族出版社, 1983 */)0' $' 1#' ' 23 456 735
(46) 8 9 :;
(47) 5
(48) 8 9 <= ' ' ' ' ' *+ > ?! Sampilnorbu 編著 Mong. ol-un jang a. ali-yin toimu(モンゴルの風俗)瀋陽,遼 寧民族出版社,1990 *Sarangerel 編著 .
(49) mong. ol-un jang a. ali(青海モンゴルの風俗)呼和浩 特,内モンゴル人民出版社,1990 * 編著 Ba. arin-u jang
(50) . -yin durasumji(バーリンの風俗録),呼和 浩特,内モンゴル人民出版社,1987 * &Se enbilig 編著 jang a. ali(アラシャンの風俗)呼和浩特, 内モンゴル人民出版社,1989 *Da. aan 編著
(51)
(52) jang a. ali(スニドの風俗),呼和浩特,内モンゴル人 民出版社,1991 子琴『中国風俗史 ,巴蜀出版社,1987年. ― 43 ―.
(53) 国際文化論集. №31. About the Survey of the Tulesi Distribution. Narangerel. Tulesi is a kind of Mongolian custom referring to the burning the sacrifice contributing to the ancestors. In ancient times, it was usually held during the burial and before the spring moving. However, in nowadays Mongolia and some parts of Inner Mongolia, there is not any record of the custom. Viewing the distribution of the Mongolian people, whether there is Tulesi generally accords to the distribution of the inhumation which is mainly in the east part and Ordes area highly developed agriculture of Inner Mongolia where Inhumation is the major burial form and to built tomb as well as sacrifice Tulesi. In Mongolia and some parts of Inner Mongolia with stock raising as the major activity, there is no record of inhumation and Tulesi. The author of the article holds that the custom of Tulesi is influenced by the expansion of Han-Chinese agriculture culture and Qingming festival, changing from nomadic life to settled down life. People lived nomadic life was influenced more by Tibetan Buddhism and have no Tulesi custom. Different foreign cultures influence Mongolian culture which gradually formed its regional difference and the difference is also reflected in the regional distribution of the Tulesi custom.. ― 44 ―.
(54)
関連したドキュメント
4 because evolutionary algorithms work with a population of solutions, various optimal solutions can be obtained, or many solutions can be obtained with values close to the
Kaplick´ y shows H¨ older continuity of velocity gradients and pressure for (1.1) with p ∈ [2, 4) under no slip boundary conditions. Based on the same structure of the proof and
[56] , Block generalized locally Toeplitz sequences: topological construction, spectral distribution results, and star-algebra structure, in Structured Matrices in Numerical
By interpreting the Hilbert series with respect to a multipartition degree of certain (diagonal) invariant and coinvariant algebras in terms of (descents of) tableaux and
Keywords: continuous time random walk, Brownian motion, collision time, skew Young tableaux, tandem queue.. AMS 2000 Subject Classification: Primary:
Kilbas; Conditions of the existence of a classical solution of a Cauchy type problem for the diffusion equation with the Riemann-Liouville partial derivative, Differential Equations,
This paper develops a recursion formula for the conditional moments of the area under the absolute value of Brownian bridge given the local time at 0.. The method of power series
The study of the eigenvalue problem when the nonlinear term is placed in the equation, that is when one considers a quasilinear problem of the form −∆ p u = λ|u| p−2 u with