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東三条院法華八講菊合をめぐって

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Academic year: 2021

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東三条院法華八講菊合をめぐつて

萩谷朴氏の﹃平安朝歌合大成﹄に﹁(長保四年)十月故東三条院追叉講菊合﹂亟口番号一 0\)が立項されて\るY一この 菊合の器嵳伝える歌合証本は存在しないのであるが、焚口氏は﹃小大君集﹄や﹃赤染衛門集﹄に見られるズ院の菊合と、長 保四年(一 00二)十河に修された東三条院詮子追善の法華八講とを"付け、次のように論じておられる0 小大君集及び赤染衛門集に伝える菊合は、恐らく、この際、法華八鰈扣願の法楽に、牧女浣の仔まれた勿含の遊びとして 催されたものであろうと推測せられる。東三条院の器麦合は史1に有名な事件であるし、歌合一0五に易げた馬勾侍集に見 る菊合も、恐らく東三条院の御主催になるものかと思われるものであるからである。ト大君の飛の歌四首は、その詞書、ら も、歌1、 2の内容からも、明らかに東三条院器口八講の菊合のことと思われるし、赤仇術門集に見える歌5は、赤染術サ の夫大江匡衡がこの時の願文を奉っている関係からも、恐らく、小大君集の歌と共に、こ尋の詠乍であろうと老えて、こ こに併載した次第である。この菊合は恐らく、和歌を添えられ、若しくは歌合を伴なったものであろうとさえぢぇられるも のであるが、そ四乱内容や人的構成の細部に亘っては一切不明である。東三条院追善八泌に関する日本1略.本明世紀 権記.僧綱補任.{釜御八講記その他の巽文き、一切菊合のこと沓及されていないところから見ると、その、モ催者は 一条天皇ではなく、また、道長でもなく、中宮彰子あたりの御前で密密に催されたものであるかもしれない0 /以下各)

徳原茂実

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萩谷氏はこのように竺ておられるのであるが、﹃小大君集﹄﹃赤染衛門集﹄の果白や和歌を仔細に検討すると、これを女院 追善の法華八講にともなう催しと考えていいものかどぅか、疑問を抱かざるをえない。まずは﹃小大君隼﹄の検討から女めよ 、つ 宮内庁書陵部蔵﹃小大君集﹄(五0 丁九二)から、製の四首を引用する。引用にあたっては、本文を歴史的仮名遣いに 改め、仮名表記を適宴撃表記に改める等の処置をほどこした。 二 十月に女院の御八講ありて、菊合はせさわぎけれぱ 神無月ほとけのかぎりあらはるる庭のまもなく花ぞ散りくる(六) つのまにのりにうつろふ菊なれやすぎにしものと見えずもあるかな(七) し おぼつかな何に来つらんもみぢ見に霧のかくせる山のふもとに(八) 君しあれぱもみぢのかげも頼まねどいたくな吹きそこがらしの風(九) とあまたあれど、かかればとどめつ し 小大君の存命中に﹁女院﹂とNれたのは、正暦二年(九九ご九月に院号宣下を受け、長保三年全 00 こ閏十二月に 逝去した東三条院詮子にほかならない。今上帝(一条天由乏の恐后であり、同腹の弟藤原道長と帝との重要なハイプ役として、 政界に埀きをなす女性であった。

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鼎国にょれば、ある年の十河に束三条女院の法華八講が修され、結願の後、契口が催されたということがわかるが、その法 華八講が女院追善のためであったとは書かれていない。むしろ女院が、様した法華八講であったと読み取るのが、この詞書の 素直な解墾はなかろうか。﹁菊合はせさわぎけれぱ﹂については、﹁盛大に菊合を崔されましたので﹂、﹁笥含をして驫ぎまし (注3︺ たので﹂などと現代票されているが、いずれの解釈をとるにしても、長保四年十河という、いまだ女院の一周忌を迎えても いない一、備のさなかに、しかも当の女院の器如法要の直後に、そのように盛んな遊宴が催されるものであるか、大、に是.と 言わざるをえないだろう。 林家旧蔵木﹃小大君集﹄の果凶には﹁十月女院の御はかうありし時、きくあはせに人々こひしかぱ﹂とあって、ト大君が弌 作歌を求められたという、書陵部本の詞書にない情叛奈当き込まれている。しかし女院追善の法華\満であったとは、やはり どこに上国かれていないのである。 次に、﹃小大ゑ集﹄の和歌につぃての検討に移りたい。萩谷氏は先ほどの引用文の中で、﹁歌1、 2の内容からも、月らかに 東三条院追善八勢菊合のことと思われる﹂と述ベておられ、その﹁歌1、 2﹂とは﹃小大君集﹄の弌、七番歌をさして、る0 角翆羽ぐは、一﹁神灸氏月という名の通り、神はいなくなりました力ゞ、そのかわり仏というムカゞ巳白あらわれる荘ミ要1 の昜に、隙 間もないほど花か散り積もつています﹂といったところであろう。法華八勢法爲キ表した一首である0 ただし、この歌、 ら判明する事実は、この法要が修されたのは十月であったというにすぎず、それが女院追善のための法華\講であったことを 示唆する文言はな 0 し 同様のことは七番歌につぃても言えるだろう。その解釈は﹁花の色が美しく変色するにつれて、いつの闇に厶法に{示旨決凹え Ξ

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をした菊なのでしょうか。花の盛を過ぎたとは見えず、美しく咲き匂っていることです﹂といったところか菊合のために隼 められた菊が、満開から日を経てますます美しく変色する(﹁うつろふ﹂)のは、仏法に心をうつろわせた賜物であるとして、 仏事を尊び、菊合を寿いでいるのである。ここにも法華八講が女院追善のためであったことをにおわせる文言はない﹁うつ (注ι ろふ﹂を﹁色槌せた﹂と解し、﹁すぎにしもの﹂を女院の死を暗示すると説くむきもあるが、女院追善の催しという先入観か ら導き出された解釈七冒わざるをえないのではないだろうか。菊花か﹁うつろふ﹂と表現される場△口、美しく変色することを 意味する例が夕夕く、これもそのように解して問題はなかろうと思っ。 八番歌は紅葉をテーマとしており、菊合の歌としては異例であるかに見える。二四首本﹃小大君集﹄(冷泉家時雨亭文庫所蔵) にょれば、この歌群の型臼には﹁十月、女院の御八かうありて、きくあはせさはぎ、そのときの人々いひければ、みなだいど もありき﹂とあって、複数の題(﹁題ども﹂)誕定されていたようであるから、一響に付属して行われた歌合において吋の みならず、荘禾など秋の景物も歌題とされたのかもしれない。それにしてもこの一首はご尖景を前にしての即興か、あるいは 屏匝L歌のような詠風であって、一痢合に付属する歌合のためにあらかじめ用意された歌には似っかわしくないようである。なお、 これまでの二首と県、この歌にも女院追善の法事に結びつく文言はどこにもない。それどころか、女俗善法要の後に﹁何 に来つらん﹂(どうして来てしまったのか)などという歌を提出するとしたら、それは恩知らずで罰当たりな一一勗と言うべき であるから、そのような非常識な事態を相楚すべきではなかろうと思、つ。 九番歌について言えぱ、これが女院逝去後における契口の歌でないことは明らかといぇよう。その鯛釈は﹁女院かいらっしゃ るので、女院の庇護を頼みとしている私は、紅葉の陰など頼みにはしませんが、それでも紅葉が散るのは惜しいのでオ枯ら しの風よ、激しくは吹いてくれるな﹂といったところであろう。﹁君しあれば﹂という初句は明白に、女院の存命を意味して おり、﹁君しあらば﹂(もし女院がいらっしゃつたら)とする本文は諸本中に見出せない。 以上、﹃小大君集﹄の四首について検討を加えてきたが、いずれにも菊合が女院逝去後の催しであることをにおわせる文言

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は見られないし、それどころか九番歌に至、つては、女院の存命が明言されているとしかぢぇられないのである。 今度は榊原家本﹃赤染衛門集﹄から、一馨氏が﹁歌5﹂として取り上げている一首を引用しよう。 四 十月に前女院の菊合に 露よりも玉のうてなに菊の花うつろひてこそ色まさりけれ(一五三) ﹁前女院﹂については、﹃赤染衛門集余﹄はこれを﹁東Ξ条院一償幸﹂と注した上で、﹁桂本(桂宮本をさす1徳原)に は﹁前﹂姦いので、現女院の上東門院を指すようにとれるが、﹁上東門院菊合﹂は長元五年(一 9Ξ一)で、系の年代順 からはかけ離れている上に、赤染は線していない。桂本は﹁前﹂奮ちたものであろう﹂と述ベている。﹃和歌文学大系 {注7) 2。﹄は所収﹃赤染衛門集﹄脚注において、、﹁詮子を﹁前女院﹂としたのは、表記時に一学烹織したためか﹂としている0 ずれも現女院彰子と区別するために詮子を﹁前女院﹂と称したとの見竺、一靴力がある。 歌の解釈は、﹁菊の花は、露が置いて色変わりした美しさよりも、玉の台(女院御所)に移し植えられてからいっそう、美 しさがきわだっています﹂といったところだろう。﹁玉の台﹂のあるじである女院を賛美する〒凶であって、女院の逝去をう かかわせる文言はどこにもない。﹃<釈﹄が﹁歌の内容は追善八講にふさわしくないのではなかろうか﹂と述ベている通りで あろう。そればかりか、﹃小大君集﹄の四首については、法華八芳後宴菊合の歌であったこと高き明記されているが、 これには仏事にかかわる記述がない。菊合をメインとする催しであったとするのが、この果国と歌から読み取れる、至極まっ

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とうな理解とは言同えないだろうか。 以上のべてきた通り、﹃小大君集﹄の四首、あるいは﹃赤染衛門集﹄の一首は、いずれも東三条院詮子の存命中極された 一響の歌であったと考えられる。それぞれの型目に﹁女院﹂﹁前女院﹂とされているのを一呈通りにうけとるならば、詮子が 院号宣下を受けたのは正暦二年(九九じ九月十六貝逝去したのは長保三年(一 09 )閏十二月二十二日であるか、正 暦二年十月から長保三年十月まで、十河は一二回めぐつてくる勘定である(正暦四年には閏十月があった)。これらの菊合は、 そのいずれかの十河に催された契口であったと推測されよう。 ただし、﹁女院﹂﹁前女院﹂というのが、最終的な呼称をもって詮子個人を特定したものであるならば、正暦二年をさかのぼ る可能性もあるだろう。そうなると、皇太后時代の寛和二年(九八六)七月七日の嬰麦合(歌合番号八九)も視野に入ってく るのであってご希二年六月二三日の一条天皇践祚ののち、国母となった詮子が自邸でしばしば風一甑事を催し、宮廷文化の 一翼を担っていた様相が見えてくる。これらの菊合はそのような文脈でも理解できるのではなかろうか。 もちろ会子は、風出織事のみならず仏事にも熱、心であった。﹃日本紀略﹄や﹃小右記﹄には、詮子にょる仏事や参勇事 実が繰り返し、張されている。記曾とどめられていない仏事も少なくはなかったであろう。﹃小大君条﹄に見える法華八講 の菊合は、そのような折の催しかと推測される。東宮(のちの三条天白巴に仕える小大君(東宮御所での召名は﹁左近﹂)に まf松が依頼されているのは、詮子に仕える女房と小大君との佃人的友誼にょる依頼かもしれないか、その背後に、宮廷社 0 会の融和をはかろうとする詮子の意志がはたらいていると想像してみることも可能かもしれない ﹃平安朝歌合大成﹄に﹁(長保四年)十月故東三条俗叉講菊合﹂亟口番号一 0八)として立項されている菊合について 五

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検討を加えた結果、その存在の根拠とされている﹃小大君集﹄と﹃赤染衛門集﹄鼠はいずれも、東三条院詮子の存命中伝 された菊合の歌であったろうことを確かめた。これら私家集に記しとどめられた菊合を、あらためて﹃歌合大成、一流に命名し 直すならば、﹃小大系﹄のそれは﹁(様三年以前)十月東三条院八講菊合﹂、﹃赤染衛門集﹄のそれは﹁(様三年以前)十 (注ど 月東三4匪羽△口﹂とするのが妥当ではなかろうか。 さて、これら焚口が、東Ξ条院詮子の生涯において、どのような意義をもつものであったか、いささか想像をふくらませて みたい。九月九日重陽節に菊花の宴を催して菊酒を飲み、その日'をおびた菊の着せ綿で身をぬぐうなどの風習が、老いを 除き長寿を祈る行事であったことは周知の通りであるが、そのの三g十月にかけて、菊合を催して一兇をもてあそぶのも、 うつうユ兇の美を愛でる楽しみのみならず、主催者や参会者の長寿を祈念すゑ諜あいも含まれていたにちがいない。それ は菊合倫向矢たる﹁寛平御時内裏一1﹂の歌﹁ぬれてほす山路の菊の露のまにいつか千歳をわれはへにけむ﹂(素性)や、天 暦七年(九五三)十打二十八日の﹁内裏菊合﹂の歌﹁千歳ふる習聖ばおきなが身の花こそひさしかりけれ﹂(忠見)、あ るいは後世の例としては長元五年(一 9三一)十月十八Πの﹁上東門院彰子契口﹂における一番左歌﹁ながき世のためしに植 うる菊の花ゆくす念く君のみぞ見む﹂(伊勢大輔)などの警徒よっても明らかであろう。 それにつけて想起されるのは、詮子松康にめぐまれていなかったらしいことである。﹃日本紀略﹄や﹃小右記﹄等には皇 太語子、あるいは東Ξ条院詮子の﹁御悩﹂の記袈繰り返し見出される。長徳四年(九九八)七月二日には﹁東三条院不予﹂ に依り大赦が行われており令日本紀略﹄)、この時はよほどの重病であったものと謡される。一条帝や道長など、周囲の人々 の、心配はひととおりではなかっただろう。それのみならず、彼女の同腹の弟、道隆は四三歳、道兼は三五歳の若さで世を去っ 。同腹の姉超子が天元五年、ヘ九八二),正月二十七H、庚申待の夜に突然死したことは、何よりも詮子にとって大きな衝撃で (逹0︺ あったに違いない。きょうだいの短命な血を白分も受け継いでいるのではないかという惚れや、一一族につきまとう物の怪ヘの 燿れは、病気がちな彼女の心身を一層むしぱんでいたであろうし、彼女の周囲も詞様の朏れにとらわれていたのではなかった

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このような詮子にとって、延寿の効があると信じられていた一兇に{奇せる思いは格別だったであろうし、そのような詮子の 意を汲んだ周囲の人々が、菊花をもてあそぶ行事の開催を彼女に進言することも一再ならずあったのではないか。本稿で指摘 した二度の菊合を、こういった流れの中に置いてみることもできるのではないかと思うのである。 ﹃平安朝歌合大成﹄にょって菊合の歴史を概観してみるならぱ、{蒐平年間に一度、延喜年間に二度、天暦年間に一度の丙 <住。︺ 裏菊△口﹂が見出され、菊合が宮廷行事として発生、継承されていたことが知られる。その後、﹁長元五年十月十八日上東門院 彰子菊△口﹂に至る長らくの間(天暦七年から長元五年まで七九年)、歌合記録に残る菊合は存在しないのであって、かろうじ {住Ⅱ) て私家集に痕跡をとどめる菊合が、これら詮子関連の菊合なのである。 このような状況から判断すると、現存資料にょって判明する事実の背後に、今では知りえぬ膨大な圭尖が存在したことを考 慮するとしても、契口が当時ありふれた催しであったとは言い難いのではないだろうか。大量の菊花を調達することは、東三 条院詮子ほど倫勢をもってはじめて可能であったろう。ところがそれら一響においては、女房たちにょって即興の和歌が詠 まれることがあったとしても、その場限りに詠み捨てられて記録としては残らず、時に余興として歌合が計画された際に限っ て、あらかじめ歌人に一、πが依頼されることがあったのだろう。小大君と赤染衛門の家集に記しとどめられているのは、その ような折の歌であったに違いない。 最後に長元五年の﹁上東門院彰子菊△口﹂について一言ふれておきたい。この菊合について変口朴氏は﹃平安朝歌合大成﹄に おいて、﹁そもそも菊合というものは、天暦七年の内劣合以来七九年、史上に名を留める程のものは行われなかったのであ るから、既にそこに復古的な意図が男られるわけであるが、行事内容の上で、誓[十Ξ年の内裏契口や、天暦一響の先蹴を どれ程生かし得たかはわからない﹂と述ベておられる。しかし、本稿の論旨をふまえて考えるならば、﹁上東門院彰子菊合﹂ の先朧というべきは、はるか昔の﹁内一諾合﹂などではなく、東柔院詮子にょって催された菊合なのではないだろうか。少 か 0

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^子'は、伯母:言全子'主Ⅱ昔の一羽合に関する評判を耳にしていたであろうし、実際に菊合の^に居あわせ、たかもしれないの である。 一一 1卓Ⅱ彫(合、ニナく打艾:^匠一ノ、Ⅱa手Ⅱ1i pUイドノ\打1夏、:ⅡⅡ司Ⅱ打ム、ιープヌノー、()、ンR /X、一一ハミー、ジ。 X、 ﹂ノ (2)竹鼻織﹃小大系注釈﹄(平成元年六月一日小茶、木刊行会)一八ページ。 (3)平塚トシ子、松延市次、長野淳﹃小大君莱全釈﹄(平成一二年七河輸林書房)一 0二ページ。 (4)竺2)書一九、二0ページ。 (5)﹁秋をおきて時こそありけれ菊の花うつろふからに色のまされば﹂(十N今集・秋歌下)など、裏付けとなる実例は多い。なお、徳植俊之 西化攷1冬の一兇をめぐつて1﹂(﹃誤喜耕究﹄第六一号平成二年一 0珂)、武田早苗﹁﹁移ろひたる菊﹂豊味するもの1 ﹁うつ ろ乙たる菊にさしたり(蜻蛉日記)﹂私見1﹂(﹃利歌鯛釈のパラダイム﹄平成十年十一月讐岡1!1院)参環。 (6) W慶子・阿剖俊子・林マリア・北村杏子・田中恭子示染何傘釈﹄(昭和六一年九打器ル邑工三、ページ。 (7)誤斈大系即璽戊爲安集・赤染衛門集・染而冕・紫式塑・一竺位条﹂(平成一二乍三月明治書院)九弌ページ。示染打 門象﹄は武田〒苗氏担当。 (8)両私家集詞券﹁女院﹂益剛女院﹂という張を、とりあえず額而どおりに受け取った上での命名であって、詮子豊太一何代の催し であったかもしれない可能性を否定するものではない。 (9)雫際身の心惰を物牙資註ないが、ヲ発翻﹄﹁花山たづぬる中納言﹂には益子の)御忌のほどあさましういみじう過ぐさせ たまふにつけても、今は女御(詮子)の御有様いとど恐ろしう匝家は)おぼしめして、女御殿と尊凸とはほかに渡したてまつりて ﹂と、超子逝去の直後、詮子の身の上を案じる父燕、家の姿希かれている。なお﹃小右記一天元五年正打二十八B条にょり、詮子が

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超子逝去墨H、宮中から退出した事条知られる。 (W)﹃平安朝歌合火成﹄の歌合番号三、三五、三二、四三 (Ⅱ)﹃馬内侍集﹄に﹁あるところの御まへに菊あは二ふとて、あるものの珂あかきにこひありくをみて﹂として﹁1にまかふとやおも ふ菊の花うつろふ色はことにも有かな﹂(三手文庫本、ブハ九番歌)という一首が見える。・羽合のために沖化の訓匙に夲刈走する人を見て詠 まれた歌であるが、これが詮子主催の契口であったか否かなど、、一切は不明である。なお、萩谷氏は﹃平安朝嬰口火成﹄に﹁県年惑身 合﹂(歌合釆習一セ 0五)としてこれを立項しているが、これは亘において倫Lという推定にもとづく命名であって、厳密には﹁某 (とくはら・しげみ本学教授) 年或所契口﹂であろう。

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