100 年祭・1905 年の没後100 年祭を中心に―
著者
鈴木 道男
雑誌名
国際文化研究科論集
巻
26
ページ
29-42
発行年
2018-12-20
URL
http://hdl.handle.net/10097/00125529
鈴 木 道 男 詩人シラーではなくシラー祭を論じること―序に代えて トランシルヴァニア(ドイツ名ズィーベンビュルゲン1)の中心都市シビウ(ドイツ名ヘルマ ンシュタット)の都心には、書店が二軒ある。一つはフマニタス書店といい、ルーマニア語とド イツ語の書籍とを扱う。もう一軒は、前者より小規模だが、名をシラー書店といい、ドイツ語の 書籍のみを扱うのみならず、ドイツ語の書籍の出版を行い、この都市を築いたドイツ人、ズィー ベンビュルガー・ザクセン2の精神文化を支えている。興味深いことに、中世以来ドイツ語を 話す人々が 1190 年に築いて以来住み続けたこの町にはゲーテを記念する像や碑はなく、その代 わりに自然史博物館にほど近く、広場に面した民家の角にひっそりとシラーの胸像が立ち、彼 (Johann Christoph Friedrich von Schiller、1759. 11. 10 – 1805. 5. 9)の名を冠した書店と共に、ルー マニアの一都市となった現在もドイツ古典主義の二巨頭の一人を讃え続けている。ゲーテの名は 小さな路地にその名が冠されているのみである。 1989 年のクリスマス革命でチャウシェスク政権が倒れたのち、ザクセン人の処遇についての ドイツ連邦共和国との交渉の場で、連邦政府を向こうに回した粘り強い論客であったレーナー牧 師に 2009 年に調査のため面会した折3、「ここではゲーテでなくてシラーなのです」との言葉を 頂いた。それはドイツ本国との一体化の模索という一言でその近代史を表現できるザクセン人の、 「国民詩人」に対する根強い文学的嗜好を指す言葉であるとは理解できたが、いかにしてそれが 成立したかを探る手掛かりは容易には見つからなかった。 ドイツ文学史からシラーについてお浚いをしておく。シラーの没後、ゲーテが事あるごとにシ ラーを称賛した。これに端を発し、数多くの詩と共に民族主義を鼓舞するかのような『群盗』や 『ヴィルヘルム・テル』などの戯曲を創作し、『三十年戦史』をはじめとする歴史学・カントを受 けた哲学と美学にも足跡を残したシラーは、統一を目指す 19 世紀ドイツの英雄、「国民詩人」に 祭り上げられていく。「国民詩人」シラーも「世界市民」ゲーテも、ユダヤ人のブコヴィーナで あれザクセン人のズィーベンビュルゲンであれ、19 世紀には知識階級の崇拝の対象であり、作 品を諳んずることができる人が多かったことには変わりはない。 ズィーベンビュルゲンの特殊なシラー受容とその解明には、シラーの作品自体とは別なところ に鍵があった。その一つの答えは、19 世紀後半から 20 世紀初頭の当地の新聞のシラー祭に関す 詩人シラーではなくシラー祭を論じること―序に代えて 1859 年のシラー生誕 100 年祭―Th. ロッゲの研究を軸に 1905 年、新聞の回顧記事が描くズィーベンビュルゲンのシラー生誕 100 年祭 新聞が予告し、レポートする 1905 年の静かなシラー没後 100 年祭 ザクセン人における 1905 年のシラー祭の意味
トランシルヴァニアのシラー祭
―1859 年の生誕 100 年祭・1905 年の没後 100 年祭を中心に―
る記事に凝縮された形で見出すことができた。とくに 1905 年のシラー没後 100 年祭に、新聞は 驚くほど多くの紙面を割いていた(本論末の一覧参照)。また、次節以降で詳しく見るように、 新聞というメディアの記事を扱うことは、「民族」を考察する上で特別な意味があるのである。 本稿は、1905 年当時のズィーベンビュルゲンの最有力地方紙 Siebenbürgisch-Deutsches Tageblatt 『ズィーベンビュルゲン=ドイツ日刊新聞』4(以後他紙との混同の恐れがない限り、新聞と呼ぶ) における没後 100 年祭に関する記事を拾い、そこからザクセン人にとってこの年及び 1859 年の シラー生誕百年祭がいかなる意味を持っていたのかを考察する。1905 年は、戦間期に最終的に ナチスになだれ込んでその地方組織を形成することによってドイツの第三帝国と完全に一体化す ることになるザクセン人たちが、様々な、多くは右に傾いた、政党とまでは呼べない政治団体の 乱立から次第に一本化され、最終的にドイツ本国と完全に一体となって国家社会主義化が完了す る前夜に当たる。1859 年のシラー生誕百年祭はドイツ語圏で広く祝われた。1905 年の没後百年 祭も盛大ではあったが、多くの場合前者よりコンパクトであった。しかしザクセン人はこれを異 常なほど組織的に、1859 年のシラー祭に劣らず粛々と祝った。しかしその形態は大いに異なっ たものであった。いかにしてそうなったか、また祝祭は彼らにとっていかなる意味を持っていた のかを探るのが本稿の目的である。シラー自身のどの作品と行動が国民詩人の名に値するとされ たのかという古典的テーマとトランシルヴァニアにおけるゲーテ受容については、本稿では扱わ ない。 1859 年のシラー生誕 100 年祭―Th. ロッゲの研究を軸に ドイツ国家の成立と変貌を語る上で、1859 年 11 月 10 日のシラー生誕 100 年祭、1905 年 5 月 9 日の没後 100 年祭、そして 1934 年の生誕 175 年祭はそれぞれ象徴的かつ具体的意味を持って いた。シラーに関する初めての祝祭である 1859 年のシラー祭は、1870/71 年の、プロイセンによ るオーストリアを除外した小ドイツ主義的ドイツ帝国成立前夜に位置し、かつドイツ語圏と在米 ドイツ人たちによって広く祝われており、後述のようにズィーベンビュルゲンも例外ではなかっ た。スイスのものは、その独立を謳いあげた『ヴィルヘルム・テル』に関連付けられた色彩を帯 び、ドイツなど他地域のものとは異なる様相を示していた。本論はこれにも触れない。1934 年 のシラー没後 175 年祭は、「シラーは国家社会主義者であった」とするナチ党員の言説を、ほか ならぬ大学側の教官が追認する5祝祭となり、同じころ学生によるユダヤ人学者の著作に対する 焚書が行われていた。すなわち「大学からのナチス化」という現象を象徴するものとなった。し かし、ドイツ語を使用する大学6を持たなかった当時のズィーベンビュルゲンでは大々的にこれ を祝った形跡はない。また、戦間期を中心にズィーベンビュルゲンのギュムナージウムの講義題 目などを調査したところ、とくにシラーだけが突出して多く教授された形跡も見当たらなかった。 これらの意味についての時代を踏まえた考察は、稿を改めて述べなければならない。また、戦間期、 即ちナチスの勃興から台頭期に、ザクセン人から一方的に絶交状を突きつけられた、隣接するブ コヴィーナのユダヤ人たちの多くは、(いわゆる「啓蒙ユダヤ人」として)自らをドイツの一支 族であると位置づけ、陋狭なドイツの民族主義にアンチテーゼを投げかけるかのように「世界市 民」ゲーテに傾倒していった。シラーはその次に位置付けられていたのである7。このブコヴィー ナとズィーベンビュルゲンの文学受容の対比研究は少なくないが、本稿はこれにも踏み込まない。 既に小ドイツ主義的ドイツ帝国が成立した後の 1905 年のシラー没後 100 年祭も各地で開催さ れた。没後記念祭としては当然ではあるが、その規模は、一般に生誕 100 年祭には及ばなかった。
しかし、ズィーベンビュルゲンではまったく事情が異なっており、後述のように祝祭はザクセン 人の体制によって組織的に準備され、かつ大きかった。しかし松明行列のような示威行動はなく、 多くは建物の中に封じられていたのが大きな特徴である。 公的に組織された形跡が見当たらないにもかかわらず、ヨーロッパ、とくに全ドイツ語圏と北 米(Forty-Eighters と呼ばれる、1848 年の三月革命の結果アメリカ合衆国等に亡命した人々による) で同時に盛大に挙行された 1859 年のシラー生誕 100 年祭とその意味については、トルステン・ロッ ゲによる『メディアによる民族の構築』と題された、包括的にこれを扱った文献が乏しかったこ の分野においては重要かつ画期的な大著(Logge 2014)が出た。ロッゲはドイツ語圏の大都市と 北米のドイツ系移民が多かった都市、およびロンドンやパリにおけるシラー祭を詳細に分析し、 興味深い結論を得た。シラー祭研究において、この研究は現在すでに一つの標準を提示するもの となっており、それに止まらず、民族主義とマスメディアを論じる際にこれを無視した研究はも はや不可能であると考えられる。その主旨は書籍の裏表紙の(他者の署名がないので著者による、 あるいは著者が承認したとみられる)、以下の解説文(鈴木訳)が簡潔に表現している。 …フリードリヒ・シラー生誕百年祭はドイツ語圏の何百もの都市で、そして北米をはじめ 世界中に渡ったドイツ人亡命者と移住者によって挙行され、大規模に、幾日間にもわたる祝 祭行事を伴うものもあった。各地で分散的に挙行された祝祭ではあったが、同時代人にとっ てはすでに民族的祝祭であったのであり、集合的な単数(鈴木注:各地で行われた一つの祝 祭)として解釈されていた。これまで一人のドイツ詩人のなかで祝われた最大の祝祭として、 このシラー祭は歴史に名を留め、国民詩人としてのフリードリヒ・シラー像の成立に寄与し た。この著作は 1859 年のシラー祭の実例をとって、1870/71 年の帝国建国前の国民国家形成 プロセスにおける傑出したエージェントの一つとして、民族的祝祭におけるメディアの役割 を論じている。この時、民族(鈴木注:民族の概念)は祝祭を演じる役者、主催者の側に(鈴 木注:その姿を)左右され、メディアに保護された、コミュニケーションのための祝う側の 構造として立ち現れる。祝う側はシラーを超えてほかならぬ自分自身を、そしてドイツとド イツ民族の観念を祝ったのである。 ロッゲの結論から筆者(鈴木)が抽出した要点を列挙しておく。長文になるのは避けられないが、 ロッゲの著作の重要性に鑑み、本稿もロッゲ以後にシラー祭を論じる上では、彼の説を検証しつ つ論じる必要があるからである。次節において、1905 年発行の新聞が 1859 年のシラー祭を回顧 する記事を分析するが、そこにおいてもロッゲの指摘の重要性の多くが追認され(さらにズィー ベンビュルゲンの特殊性と対置される)ことになるだろう。1905 年のシラー祭は、1959 年のシラー 祭を新聞から参照しながら行われたのである。番号は本稿筆者が付した。以後の引用においては この番号を用いる。 1 .ヨーロッパと北米のシラー祭は市民の祝祭委員会によって組織され、挙行された。この委員 会のメンバーには、当時の教養市民層8を代表する人々が多かった。祝祭を組織した人々の大 多数は、政治的には民主主義的でリベラルな党派に数えられ、委員会の委員にはヨーロッパで も北米でも 1848 年の革命家と民族運動との支援者が多かった。(S. 391) 2 .講演・祝祭歌曲・詩と並んで、祝祭とその対象についての解説は、とりわけ新聞記事におい
て行われていた。そこでは委員会の影響は基本的に限られてはいたが、至る所で、ジャーナリ ストを委員会に迎えることで、一紙ないし複数の新聞を巻き込むことに成功していた。(S.391) 3 .祝祭を支持する人々の間でも、祝祭の民族的性格の解釈には著しい相違があった。民族概念 の曖昧さだけではなく、普遍的に説明可能なはずのフリードリヒ・シラーそのものすら、各々 の祝祭会場に対して、民族的なものと、詩人とその作品に対する独自のディスコースを論じる ことを可能にしていた。それどころか、一部では、ただ一つの町の異なる集会場の聴衆に、異 なる民族像を話すことすら可能であった。(S. 393) 4 .新聞と雑誌は、ヨーロッパでもアメリカでも、地方ごとのシラー祭の企画実行における基本 的な機能を満たしていた。それらは、定期的に会議とリハーサルの予定、広告、委員会と下位 の委員会の指示と告知、都市ごとの祝祭のプログラムを公表することで、現地の祝祭主催者に とっては組織装置として役立った。(S. 393f.) 5 .シラー祭を祝う人は、ディスコース上二重に民族の網目にからめとられることになった。す なわち垂直および水平の網である。垂直(鈴木注:通時的)の網目はフリードリヒ・シラーと ドイツ民族への記憶文化的関連から特徴づけられる。(S. 394) 6 .シラー祭を祝う人々が、詩人フリードリヒ・シラーとドイツ民族の記憶文化的な物語化と解 釈にかぶせた垂直の網目を補完したのが、水平(鈴木注:共時的)な、祝祭の報道記事である。 新聞における祝祭の演説と解説記事、論評や祝祭の史料とは異なり、祝祭のレポート記事によ る、シラー祭を祝う人々の水平の網目における民族は明示的には語られなかった。民族は、事 実確認的であると(鈴木注:一般に)誤解されていた報道記事において、むしろ暗示的に行為 共同体として現れ、それどころか作られていたのである。」(S. 397) 7 .行為共同体としての民族は、分散的(鈴木注:各都市で独立に)に開催されたシラー祭によっ て、メディアがかぶせた網の目によって直接に可視的なものとなり、具体的なものとして経験 できたのである。新聞において読者は自分たちが上位に置かれた行為共同体の一部分であるこ とを「学ぶ」ことができた。(S. 402) 8 .構成主義的なナショナリズム研究は(一般に国家ではなく、集合的なアイデンティティーと 解される)民族が社会的なコミュニケーションの産物であり、すなわちコミュニケーションに よって生み出されるというところから出発している。この観点からは、民族が生産される主要 な場は集会に集まる公衆という場である。こうして、民族はコミュニケーションの中で出来す るということをここで確認することができる。民族は(鈴木注:コミュニケーションの結果と しての)出来事なのである。(S. 404) 9 .民族はメディア現象なのである。(S. 405)1859 年のシラー祭では、数多くのドイツの「民族」 が討議された。民族はその中に統合されるべき人間の分散的な相違に直面して、可能な限り多 くの連帯を可能とするためにはこの曖昧さをもつことに頼らざるを得なかった。この連帯のた めの技術的な条件づけを行ったのが印刷メディアなのであった。(S. 406f) 1905 年、新聞の回顧記事が描くズィーベンビュルゲンのシラー生誕 100 年祭 1905 年 4 月 11(第 5、6 面)、12(第 4、5 面)の両日、新聞はシラー生誕の地の雑誌『シュベー ビッシャー・メルクール』の記事を引き、1859 年当時の祝祭が各地で大規模に行われたことの みならず「自由意思で、誰に導かれることもなく、主導的な中心もなく、全く自由に、国民の精 神の深部から、この多くの示威行動は立ち現れた。これらの示威行為は一緒になって、天才に対
する愛と尊敬のただ一つの大きな示威運動を形成し、同時に自分自身を自覚するドイツ民族の強 大な示威行為となった。」という一文が象徴する内容を伝えていた。これはロッゲが 1859 年のシ ラー祭において水平の(共時的)網の目(5.)と語ったメディアの機能に他ならない。 1905 年 4 月 21、22 の両日、今度は新聞が「1859 年のザクセン人のシラー祭」と題して掲載し た記事の 21 日掲載分をここに掲げる。以下の記事の以下の全文の引用は極めて長いものとなる が、極めて重要でもある。1905 年のシラー没後 100 年祭は、この記事が述べる生誕 100 年祭を なぞるようにして行われたわけではないが、この回顧記事は明らかにシラー祭が何物であるかを 読者に植え付けようとしている。ロッゲの指摘(7.)のように、人々は自らの記憶からではなく、 新聞記事でシラー祭がいかなるものかを学んだのである。この記事は 46 年前の記事を用いた暗 示的基調演説であるかのように、また祝祭の基底精神を植え付けるためのものであるかのように 見える。その半世紀ほど前の生誕百年祭当時、ズィーベンビュルゲンのドイツ人、即ちザクセン 人たちには、後にオーストリア・ハンガリー二重帝国内のハンガリー領となる地方で、1867 年 のアウスグライヒを控え、「ハンガリー化」の予感が漂いはじめていた。しかし中世にハンガリー 王から獲得した自治特権をまだ失ってはおらず、ハプスブルク領内にあって、小国家が乱立する ドイツ本国と同様の、あたかも遠い一領邦であるかのようにドイツ世界を形成して自足していた のである。その当時、シラー祭を祝うことが、統一の機運が高まるドイツとの連帯をこれほどま でに謳うものであったことは驚くべきことなのである。すなわち、ズィーベンビュルゲンにおい ても、ロッゲが描出したこの祝祭の一般性と特殊性が端的に表れているのである。21 日の記事 全文9は以下の通り。 1859 年のシラー祭、即ち大詩人の生誕百年祭についての論説の中では、我々ザクセン人も、 帝国の同胞たちの陰に隠れているとはいえ、誠実さと情熱に関しては引けを取っていないと 考えられていた。読者諸氏はおそらく、本紙の当時にみられる記事の中から、当地における シラー祭についての短報を読むことに関心を抱かれるであろう。短い抜粋ではあるが、少な くとも我々の町々におけるシラー祭は以下のように描かれている: ヘルマンシュタットでは、シラー祭はまことに壮大に挙行された。10 月 21 日には k. k. 帝 国10法学院の院長ミュラー博士が、威厳に満ちたシラー生誕百年祭を挙行すべく、熱のこもっ た「ヘルマンシュタットとその周辺のドイツ人たちに対する呼びかけ」を発表した。この呼 びかけは「この全ドイツ民族の、そして当地で暮らす大ドイツ11民族自身の第二番目(鈴木注: の民族集団の)のうち、考え、そして主導する一部分に属する人々は、歩み出なければなら ない。そして当地のドイツ世界のすべての教養階級の代表者たちは、感激をもって自らを祝 祭的に表現しなくてはならない。」と結ばれた。 委員会が組織され(その中では大学教授フォン・ツィーグラウアー氏だけがご存命である) 祝祭が慎重に準備されて、11 月 9 日の夕べには祝祭用にライトアップされた劇場で記念公 演が行われた。シラー祭では、収益がシラー基金に充てられるべきことになっていたため、 チケットは割高であった。しかし劇場に押し掛けた観客の数は異常なほどで、たちまち満席 となった。祝祭上演は、悲劇を司るムーサのメルポメネ、同じく歴史を司るクリオ、喜劇を 司るターリアの忠誠が、シラーの生誕にあたってその対象を獲得するという戯曲的な詩に よって始まった。この詩の最後には、舞台の背景から詩人の胸像がベンガル花火12に照ら されて現れた。このシーンの音楽はマツヒェッティ連隊の楽長すなわち有名なベルリンのコ
ンサートマスター、ベラ・ケーラーが作曲したものであった。最後に『ヴァレンシュタイン の陣営』が、ウルバーンの演出によりオールキャストで上演された。上演後、市役所からフ ライシャー、オウアー、ヘリオウアーの各街路を通って大環状道路まで 150 名の松明行列が 練り歩き、その中心ではシラーの胸像13が 4 つのランプのオベリスクに囲まれて立っていた。 ここでコーラス隊が『歓喜に寄す歌』を披露し、その後二重帝国法学院教授フリードリヒ・ シューラー = リブロイが演壇に登って祝辞を述べ、それに応えて松明がシラー像の前に積み 上げられ、松明行列を先導していた軍楽隊がロッシーニの「テル序曲」14を演奏した。 祭りの本祭は翌日、新教の市牧師教会の塔上からの讃美歌「明けの明星はなんと美しく我々 に光を注ぐことか」によって幕を開けた。引き続いて軍楽隊が演奏つきで市の目抜き通りを 行進したが、その際にはベラ・ケーラー作曲のシラー行進曲が演目となった。10 時半に k. k. 帝 国国立ギュムナージウムで祝祭が始まり、ヴィルヘルム・シュミット教授が祝祭スピーチを 行い、続いて新教の上級ギュムナージウムにおいて挙行された。後者では当時ギュムナージ ウムの教員であったゴットフリート・カぺジウスが祝祭演者となり、3 時から「ハンガリー 王冠荘ホール」で催された 170 名出席の祝祭晩餐会では、法学院院長ミュラー博士が乾杯の 音頭を取った。続いて地方長官リヒテンシュタイン侯がズィーベンビュルゲンにおける学者 生活と精神性における進歩の進捗について訓話した。市管理秘書官ヤーコプ・パンニヒャー が、地方長官をたたえる万歳を唱和した二番目の乾杯の挨拶は、「真に古典主義的」なもの と表現されていた。ヘルマンシュタット市に献じた侯爵の次なる乾杯によって、晩餐会は終 了した。この日の祝祭はホテル「ローマ皇帝館」ホールにおける輝かしい舞踏会で幕を下ろ した。 祝祭第三日は、夕刻、またもや完売となった劇場で挙行された音楽祭であり、180 名ほど の音楽愛好家が出演した。この最後の祝祭は以下のプログラムによった:C.M. ヴェーバー の『祝祭序曲』、A. ロムベルク15作曲のシラーの『鐘の歌』。歌の歌詞の最後の言葉16に関 して、当時の通信員は「この都市の平和と喜びを約束する言葉は、いわば、偉大な詩人の精 神の愛する堂々たるヘルマンシュタットの住民に向けた別れの挨拶であった。この都市は挙 行されたシラー祭において、真・善・美に対する感激に対してかくも高揚した、高貴な表現 を与えるすべを心得ていたのである。」と書いていた。さらに注意すべきことは、これらす べての祝祭行事に対して、地方長官リヒテンシュタイン侯が夫人と官庁及び軍の幹部全員を 引き連れて陪席したことである。 祝祭の第一夜と第三夜に行われた劇場公演および呼びかけられた募金によって、祝祭委員 会はすべてのコストを差し引いても 1000 グルデンという相当な額をドレスデンのシラー基 金17のために、ウィーンのその支所宛送金することができた。この送金は 12 月 1 日付で、 Fr. ハルム、ラ・ロッシュ、S.H. モーゼンタール、レオポルト・コムペルトおよび E. リック の署名を添えた以下の書状によって証明された。「この気高い志による献金はそもそもが多 大ではあるのですが―私どもにとってはこれによってさらに大きな意味をもつものとなりま す。つまり、この献金はドイツの文化生活の最も遠い最終地点の一つから、すなわち純粋に ゲルマン的な、ズィーベンビュルゲンのザクセン地方から到着したものであり、改めて、い にしえの祖国との精神的利害を伴う関係があちらではいかに深いかについての証明を与えて くれたものなのです。感謝を、心からの感謝をこのドイツ的行為に対して表します。」(後編 に続く)
4 月 22 日掲載の後編18はズィーベンビュルゲンのザクセン人都市各地で開催されたシラー祭 の報告である。新聞によれば、各地でも盛況を呈した。掻い摘んで大意を述べれば、ズィーベン ビュルゲン第二の都市クローンシュタット(現ブラショフ)でもルター派のギュムナージウムが 中心となって全階級が参加するものとなった。シラーのドラマと、シラーの「歓喜に寄す」付き のベートーベンの第 9 交響曲の第 2、第 4 楽章が学校の合唱団とともに演奏されたことが特筆さ れる。シェースブルク(現シギショアラ)でも、学校が発端となって全階級の市民が参加した。 フランツ・ハラー伯から当地のギュムナージウムに 200 グルデンが寄贈された。ビストリッツ(現 ビストリツァ)では小さい祝祭から始まって、それが全市に広がった。10 日に本祭が行われた。 舞踏会と募金の収益 200 グルデンがシラー基金に寄贈された。メディアシュ(現メディアシュ) では教会を起点に、10 日に市民全体に祝祭が広がった。ブロース(現オラシュティエ)では規 模は小さいがシラー祭が挙行された。ミュールバッハ(現セベシュ)とゼクシッシャーレーゲン (現レギン)の新聞からはシラー祭の記事は見つからなかったとのことである。 記事が伝えるミュラー博士の演説は、オーストリア国内にあって、当時の大ドイツ主義と小ド イツ主義の対立を飛び越え、一気に第三帝国のナチスの言説を思わせるように響いてはいないだ ろうか。その文脈の中で、彼は「当地のドイツ世界のすべての教養階級の代表者たちは、感激を もって自らを祝祭的に表現しなくてはならない」と演説を結ぶ。ロッゲの結論 6.7.8.を再度 参照されたい。ここではシラー祭は道具なのであって、これを機に自らの存在をドイツ世界の中 に誇示せよと言っているのである。そして、この新聞の回顧記事は明らかにそれを強調している。 しかし 1859 年の時点では、ドイツ帝国どころか国家社会主義も存在しない。ここにシラー祭の 大きな特徴を見なければならない。 そして記事の最後に置かれている、献金を贈られたドレスデンのシラー基金からの礼状は、「ド イツ民族の東の守り」としてズィーベンビュルゲンを讃える際のナチスの言説と見まがうもので あることを指摘しないわけにはいかない(それとともに、ズィーベンビュルゲンがいかにドイツ から遠いかも感じさせるものでもある)。ともかくも、本国のドイツ世界がザクセン人を受けい れたのだと、新聞は謳っているのである。こうしてドイツ帝国成立前夜の本国とズィーベンビュ ルガー・ザクセン人が一体であったことを新聞が宣言してゆく。描写された 1859 年の祝祭には、 地方長官、即ちザクセン人たちの行政機関の長が祝宴に陪席していることも特徴的である。あく まで市民側の祭りとして行われた他地域のシラー祭とは異なり、ズィーベンビュルゲンでは幅広 い階層が揃って参加していたことには大きな意味がある。ロッゲの指摘(1.、3.)とは異なり、 少なくともヘルマンシュタットにおいては政治もシラー祭に搦めとられており、ザクセン人の民 族としてのアイデンティティーは均質化していたかのように、新聞によって謳われていたのであ る。 これらの二つの言説は、明らかにズィーベンビュルゲン固有の「ドイツ民族」を顕現させてい る。この記事の一つの眼目である。(ロッゲの指摘 6.8.参照)そして、それを伝える新聞の機 能は、ロッゲが 1859 年のシラー祭を開催した広範な都市から抽出したメディアの機能といかに 合致していることか。ザクセン人は、ドイツ語圏で各都市独立に、しかしかなり均質に行われた シラー生誕百年祭を明らかに共有した。シラー祭は確かに「民族」の発揚の場であった。しかし、 新聞が回顧した、行政の長まで参加し、全階級が加わったズィーベンビュルゲンの中心都市ヘル マンシュタットのシラー祭に立ち現れた民族の像は、ロッゲが描いたもの(3.)および多彩な民 族像が呈示可能であった「水平の網目」(6.)とは異なり、非常に画一的なものであり、すでに
当時、これから成立するはずの帝国とザクセン人との一体化が意図されていたことを強調するも のであった。そしてこの回顧記事はロッゲの言う通時的な垂直の網の目(5.)によって読者を搦 めとろうとしていることが確認できる。 新聞が予告し、レポートする 1905 年の静かなシラー没後 100 年祭 1905 年 5 月 9 日のシラー没後 100 年祭も、学校が発端となって開始された。祝祭に関して、 『ズィーベンビュルゲン=ドイツ日刊新聞』は大小 40 以上の記事を掲載した。本論末の「シラー 没後 100 年祭に関する Siebenbürgisch-Deutsches Tageblatt の記事タイトル一覧(筆者調べ)」の 通りである。 早くも 3 月 2 日に、新聞は当時大作家とみなされていたゲルハルト・ハウプトマンのシラー頌 歌を掲げる。これが新聞によるシラー祭記述と報道の幕開けである。同日、O. レトリツカ博士 が『学校・教会通信』誌に掲載した、ギュムナージウムを中心とした中等教育機関がいかにシラー 祭を挙行するべきかに関する詳細な指示も掲載される。ズィーベンビュルゲンでは 1859 年同様、 やはり、ギュムナージウムとその教員、教養市民層が祭りの発端となった。すなわち、この記事 は、この時点でも、教養市民層が祭りの中心にいたことを示しいている。そしてドイツ語を用い る大学のないズィーべンビュルゲンにおいて知識階級とその予備軍であるギュムナージウムの生 徒が実働部隊となるよう動員をかけているのである。数日にわたって各学校を中心に開催された 祝祭は確かに大規模であった。しかしこの年のシラー祭は、前回 1859 年とはうって変わり、各 種の学校と講演会場、せいぜいが劇場を舞台とするのみなのである。それらの外にあまり出ない ことが大きな特徴となる、大規模ながら静かな祭典であった。軍楽隊の行進も松明行列もない。 すなわち、この年のシラー祭記事を通覧すると、この年の祝祭では動員数が多い割りには、1859 年の生誕祭が町中を包んだ熱狂は影を潜めていることがわかる。膨大な量の新聞記事を通読する と肩透かしを食らった感すら覚える。 確かに没後記念祭が狂乱に包まれるのは相応しいことではなかろう。しかし他のドイツ世界で は必ずしもそうではなかった。例えば、新聞の 5 月 12 日の記事では(ドイツではない二重帝国 の首都である)ウィーンでさえシラー祭で学生 2,000 人が参加する松明行列が行われていたこと が報じられているように、ドイツ各都市とウィーンでは 1859 年の小型版の祭りが展開していた のである。 3 月 30、31、4 月 1 日の 3 日間にわたって、新聞は「シラー祭のために」というかなりの紙面 を割いた記事を掲載するが、何とそれは入手可能なシラー関係文献と価格の表を中心とするもの であった。しかも、掲載されたシラー全集をはじめ数多くの作品、伝記その他のなかに「民族と シラー」を思わせるものは注意深く除かれているように見える。 しかし前節で触れた 4 月 11・12 日(ドイツ国内中心)と 4 月 21・22 日のズィーベンビュルゲ ンの民族の祭典となった 1859 年の生誕百年祭についての新聞の記事は、あくまでも回顧記事の 形に封じられてはいるが、これこそザクセン人が望んだ情報であったことだろう。前節で全文を 引いた 4 月 21 日の記事の冒頭が「1859 年のシラー祭、即ち大詩人の生誕百年祭についての論説 の中では、我々ザクセン人も、帝国の同胞たちの陰に隠れてはいても、誠実さと情熱に関しては 引けを取っていないと考えられていた。読者諸氏はおそらく、本紙の当時にみられる記事の中か ら、当地におけるシラー祭についての短報を読むことに関心を抱かれるであろう」と始められて いることに注目したい。読者が本当に最も求めた情報は、新聞が回顧記事に忍ばせた、本稿前節
で伝えた「ドイツ民族」の成立を祝う内容ではなかっただろうか。 数日にわたる様々な学校における祝祭の後の 5 月 8 日の本祭は、ルター派の男子国民学校で開 催された。F. カペジウス博士19のスピーチは「民族」に触れず、若者の文学としてのシラー作 品を強調するものであった。この本祭には政治家、牧師、国立ギュムナージウムの教授たちも列 席していた。すなわち当地の 1905 年のシラー祭も民衆レベルの祭りではなく、本国とは異なり、 トランシルヴァニアに暮らす(意識の上ではもはやドイツ国民となっていた)ドイツ系住民全体 の祭典であったのである。8 日には、8 つの講演会が行われることを新聞は予告する。しかしそ れらについてのレポートはなぜか掲載されなかった。その意味は次節で考察する。 新聞が祝祭当日の紙面の最後の 4 ページを上質紙で飾った、実質的には付録であった『シラー を記念して』は H. クレースの詩「フリードリヒ・シラーに」のエピローグとプロローグに続いて、A. シュレジウスの「シラーと我々ザクセン人」によってシラーの作品引用でザクセン人とシラーと の距離を縮め、A. メッシェンデルファー20の「詩にみるフリードリヒ・シラー」を掲載し、最 後に「陪席した人による報告から、シラーの死と埋葬」で締めくくる。文学的香気の高いもので あった。しかし通読するに、「民族」の文字はあっても、そこに力点はない。 新聞はズィーベンビュルゲンの主要都市各地のシラー祭が盛大に行われたことも伝える。15 日にはモスクワでも祝われたことを伝え、31 日にはアメリカのクリーブランドで 4 日を中心に シラー祭が行われ、シラーの名を冠した行政区が設けられたことが報じられる。しかしここにも 「民族」の文字がない。1859 年の民族の祝祭の盛り上がりと対比すると、明らかに何らかの抑圧 が働いているとしか考えられない。 ザクセン人における 1905 年のシラー祭の意味 1867 年のアウスグライヒ以降、オーストリア・ハンガリー二重帝国内で実質的に独立を果た したハンガリー国内では、公的機関のハンガリー語化に始まる激しい「ハンガリー化」が徹底し て行われた。そしてズィーベンビュルゲンもその版図内に位置していた。中世に彼らが「ハンガ リー王の客人」として招かれて入植して以来、トランシルヴァニアを版図に収めた国はハンガ リー、オスマントルコ、オーストリア、二重帝国内のハンガリー、そして現在に至るルーマニア と変遷している21。ザクセン人の特権廃止はアウスグライヒ以降話題となっていたが、1876 年に、 彼らは中世以来変わらず保持してきた自治特権を、近代国家ハンガリーの枠組みの中で最終的に 失う22。彼らはハンガリーの国民であることを余儀なくされたのである。これを含めて、ハンガ リー化は年々強化された。1905 年を挟む頃には、例えば 1898 年には、国内のすべての地名表記 がハンガリー語のものに一本化23され、ドイツ名は公式には一切認められなくなり、1907 年に はいわゆるアポニー法24によって初等学校におけるハンガリー語による授業が義務付けられて いる。戦争の結果というわけでもなく、至極平和なうちに、二重帝国の成立によって、中世以来 初めてトランシルヴァニアにおけるドイツ世界が失われる危機に瀕していたのである。 この事態を受けて、ザクセン人たちは戦間期までに 5 回の「ザクセン会議(Sachsentag)」(1872、 1890、1896、1919、1933)を開いて、ことあるごとに政治情勢に団結して対応しようとしてい た。25これはもちろん、ハンガリーという実質的な独立国の中では、公的にはその国民であるザ クセン人の国会と呼ぶことはできず、開催回数も少なかったが、それでもザクセン人の最大の意 思決定機関ということができる。そして開催されるたびに彼らは右傾化を強め、国家社会主義と の完全な一体化が決定的になった 1933 年で議会は役目を終える。1872 年の第 1 回ザクセン会議
では Ⅰ.ザクセン民族の国家内生活における地位と喫緊の目標を明らかにすること Ⅱ.間近に迫ったザクセン人の自治と共同体の在り方の改革に対する一致した希望とその推進 を根本的に公式化すること Ⅲ.必要な目標を達成するための手段と道筋ために慎重であること の 3 点を議決している。26彼らの喫緊の目標は自治の保持と回復である。前々節でみたように、 1859 年の時点で既にザクセン人はドイツ人であり、ドイツと一体の存在であることを事実上決 めていた。そしてナチズムの浸透を受けるまでは、ザクセン人は議決の通り慎重に振舞った。上 述のハンガリー化の措置に対しては、ハンガリー政府に対して面従腹背を貫いていたのである。 1905 年のシラー祭は、上述のように生誕祭ではなく没後 100 年の記念祭であるから、生誕祭 よりも静かに挙行されるべきなのかもしれない。しかしもとよりザクセン人にとっては、公然と 「民族」の主張を掲げることができない状況が成立していた。粛々と行われた祝祭ではあったが、 それでもハンガリー政府の反応は芳しくはなかったと思われる。1907 年のアポニー法による学 校教育の場におけるハンガリー語の強制はシラー祭への報復であるかのようにすら見える。新聞 が 1905 年のシラー祭に伴って行われた、おそらくは「民族」を高揚していた 8 つの講演の要旨 を掲載しなったのも、ハンガリー政府への配慮ではなかったかと考えられる。 第一次世界大戦の終結に伴い、トランシルヴァニアはルーマニア領となった。今度は「ルーマ ニア化」が遂行されたが、それは「ハンガリー化」に対抗するもので、例えば右翼組織「鉄衛団」 はハンガリー人を主たる標的としたため、ザクセン人に対してはハンガリー化の時ほど厳しいも のではなかった。とはいえ「ルーマニア化」も強力に遂行される。このようなザクセン人に固有 な事態に初めて直面したハンガリー化の時点で、彼らは 1859 年精神に立ち返り、ドイツ語話者 であるハンガリー人となることではなく、ドイツとの一体化を選択した。明らかにその確認作業 の場が、表面上は学校行事に縮退した 1905 年のシラー祭なのである。 1905 年のシラー祭当日の 2 カ月も前から、新聞は 1859 年のシラー祭を描いてみせ、二重帝国 の枠を飛び越えてドイツとの一体化するという形でザクセン人の民族性を把握するように導いて いた。1859 年以上にギュムナージウムをはじめとする学校が主たる場となった 1905 年のシラー 祭は、表面的には文学祭であることを装い、実は新聞が常に 1859 年のシラー祭を参照させ、あ たかもそれを若い世代に刷り込む装置として機能させることを意図したものだった。そしてハン ガリー政府の意向については一言も書かずに、回顧記事のように盛大にシラーと民族を祝福する 祝祭ができない現状を、特に若者の胸に刻ませた。やはり、報道することのみがその機能ではな い新聞が「民族」の再確認に関わっていた。そうすることはザクセン人の新聞としては当然なの だという空気はアウスグライヒの頃から醸成されていたのであり、彼らの中では疑いの余地はな かった。新聞はハンガリー化の嵐の中で、シラー祭の「民族」を 1859 年の回顧記事のみに封じ 込めたが、その意図は誰もが理解することができた。ロッゲの指摘(4.および 5.)はここでも 確かに成立していた。そこにこそ活字メディアの隠れた意図があったのである。1859 年の祝祭 の意味を十分に理解しつつ、生徒として抑制された祝祭に参加した人々は、ドイツ語を用いる大 学のないトランシルヴァニアから、続々とドイツ本国のザクセン地方の大学に向かった。彼らが ズィーベンビュルゲンに、自らの立場を回復してくれる強力な存在としてのナチズムをもたらす のである。後にナチスの武装親衛隊に続々と加入し、この新聞の死亡広告欄を黒い十字で埋めて いった世代をリードしたのであった。
ズィーベンビュルゲンでは 1905 年においても、ロッゲの指摘(3.)は妥当しなかった。新聞 は一枚板のザクセン人の民族性を確認させようとしていたのである。
一次資料
シラー没後 100 年祭に関する Siebenbürgisch-Deutsches Tageblatt の記事タイトル一覧(筆者調べ)27
主要記事
2.MärzS.4f. Ein Schillergedicht von Gerh. Hauptmann.(G. ハウプトマンのあるシラー詩) 2.MärzS.5 Zur Schillerfeier in unseren Mittelschulen.(中等教育機関のシラー祭について) 30.März S.4f. Zur Schillerfeier 1905.(入手可能なシラー作品・文献と価格の表)
31.März S.4f. Zur Schillerfeier 1905. (入手可能なシラー作品・文献と価格の表) 1.AprS.3f. Zur Schillerfeier 1905 (Schluß) (入手可能なシラー作品・文献と価格の表)
11.Apr.S.5f. Das Schillerfest im Jahr 1859. (Aus dem „Schwäbischen Merkur“)(シュベーヴィッシャー・メル クール誌の 1859 年シラー祭記事)
12.Apr.S.4f. Das Schillerfest im Jahr 1859. (Schluß) (同後編)
21.Apr.S.2 Wildenbruch statt Wilhelm Tell. (ヴィルヘルム・テルの代わりにヴィルデンブルーフを) 21.Apr.S.4f. Sächsische Schillerfeiern im Jahre 1859(ザクセン人の 1859 年のシラー祭)
22.Apr.S.5f. Sächsische Schillerfeiern im Jahre 1859(schluß)(同後編) 29.Apr.S.4f. Nach Schillers Tod. (シラーの死後について)
8. Mai S.9-12 Zu Schillers Gedächtnis (特別付録「シラーを記念して」) (Gedichte von Hermann Klöß: Auf Friedrich Schiller. Prolog, Epilpg Adolf Schullerus: Schiller und wir Sachsen.
Adolf Meschendörfer: Friedrich Schiller in seinen Gedichte. Schillers Tod und Begräbnis. Nach dem Berichte eines Augenzeugen)
(H. クレースの詩「フリードリヒ・シラーに」のエピローグ、プロローグ、A. シュレジウスの「シ ラーと我々ザクセン人」、A. メッシェンデルファーの「詩にみるフリードリヒ・シラー、「陪 席した人による報告から、シラーの死と埋葬」)
9.Mai S.3f .Die Schillerfeiern unserer Schulen (当地の学校におけるシラー祭)
24.Mai S.5 „Wallenstein“ Erster Abend. (J-) (J 生の『ヴァレンシュタイン』上演第一夜評) 25.Mai S.5f. „Wallenstein“ Zweiter Abend. (J-) (同、第二夜評)
Tagesbericht(日々の短報)
12.Apr.S.3 Schillers Stammbaum(シラーの系譜) 21.Apr.S.3 Schiller als Persönlichkeit (新刊紹介)
22.Apr.S.3 Die Schillerfeier der Bukarester Deutschen(ブカレストのドイツ人のシラー祭) 22.Apr.S.3 Die Schillerfeier und das „Geschäft“(シラー祭とビジネス)
22.Apr.S.3 Ein gutes Schillerbild.(優れたシラー像) 26.Apr.S.3f. Schillers Urenkel.(シラーの子孫)
2.Mai S.5 Die Schillerfeier des Männergesangsvereins (男声合唱協会のシラー祭)
4.Mai S.3 Die Schillergabe der sächsischer Hochschüller(ドイツのザクセンの大学におけるシラー献金) 8.Mai S.5 Schiller. Acht Vorträge, aus Anlaß des hundertjährigen Todestages gehalten in Hermannstadt (シラー没
後百年を記念してヘルマンシュタットで行われる 8 つの講演会)
8.Mai S.5f Schillerfeier (in „Aus Hermannstadt und Umgebung,“) (ヘルマンシュタットとその近郊のシラー 祭)
10.MaiS.3 Schillerfeier aller Enden (各地のシラー祭)
10.MaiS.5 Schillerfeier des Hermannstädter Männergesangvereins(ヘルマンシュタット男声合唱協会のシラー 祭)
11.MaiS.3 Schillerfeier in Oesterreich und Deutschland(オーストリアとドイツのシラー祭)
11.MaiS.4f. Die Sächsischen Schillerfeiern. (Broos, Mühlbach, Schäßburg) (各地のザクセン人によるシラー祭。 ブロース、ミュールバッハ、シェースブルク)
12.MaiS.3 Schillerfeiern. (Wien, Dresden, usw)(ウィーン、ドレスデン等のシラー祭短報) 12.MaiS.3 Schillerheft des „Kunstwarts“.(『芸術展望』誌のシラー特集号)
12.MaiS.4f Die Sächsischen Schillerfeiern. (Bistritz, Kronstadt, Mediasch)(各地のザクセン人によるシラー祭。 ビストリッツ、クローンシュタット、メディアシュ)
13.MaiS.5 Die Sächsischen Schillerfeiern. (Agnetheln)(同、アグネーテルン) 15.MaiS.4 Russische Kundgebungen zur Schillerfeier.(ロシアのシラー祭開催)
15.MaiS.5f Die Sächsischen Schillerfeiern. (Heltau, Reps, Sächsisch-Regen)(ヘルタウ、レプス、ゼクセッシュ ‐ レーゲンのシラー祭)
17.MaiS.3 Briefe deutscher Studenten an Schiller.(ドイツ人学生たちのシラー宛書簡) 24.Mai S.3f Die Geburt Schillers − ein Schlag für seine Vaterstadt.
31.Mai S.2 Schillerfeier unserer Landsleute in Amerika.(在アメリカ同胞のシラー祭) 14.Aug.S.6 Das Hermannstädter Schillerdenkmal(ヘルマンシュタットのシラー記念碑)
Untrhaltungsblatt(娯楽欄)
13.MaiS.9 Aussprüche Schillers über Kunst.
Anzeigen(広告)同じものが幾度か重複する。以下の 2 書の広告が目立つ。
2.Mai S.8 Schiller (8 Vorträge), „Schiller als Persönlichkeit“ von Dr. Eugen Lassel 5.Mai S.7 „Friedlich Schiller“ von Dr. A. Schullerus
シラー作品
Spiegel-Online Projekt Gutenberg: Friedrich Schiller: Gedichte - Kapitel 151, Das Lied von der Glocke.
二次文献
Göllner, Carl, 1988:Die Siebenbürger Sachsen in den Jahren 1848-1918. Köln/Wien Böhlau.
Logge, Thorsten, 2014:Zur Medialen Konstruktion Des Nationalen: Die Schillerfeiern 1859 in Europa Und Nordamerika. Vandenhoeck & Ruprecht.
Ludewig, Anna Drothea, 2008:Zwischen Cyernowitz und Berlin. Deutsch-jüdische Identitätskonstruktionnen im Leben und
Werk von Karl Emil Franzos. Georg Olms/Hildesheim
McArthur, Marylin, 1990:Zum Identitätswandel der Siebenbürger Sachsen. Köln/Wien Böhlau. Myß, Walter (Hrsg.)1993:Lexikon der Siebenbürger Sachsen. Wort und Welt verlag. Roth, Harald, 1996:Kleine Geschichte Siebenbürgens. Köln/Wien Böhlau.
Wagner, Ernst (ges. u. Bearb.)1981:Quellen zur Geschichte der Siebenbürger Sachsen. Köln/Wien. Böhlau. 杉浦忠夫(2005)「シラー崇拝とナチズムとイェーナ大学 1933/34」『明治大学教養論集』通巻 395 号 pp.7-29 鈴木道男(1997)「ルーマニアのドイツ語言語島の文化的意味について Ⅰ . 三つの言語島の過去と現在」東北 大学言語文化部『言語と文化』第 8 号 鈴木道男(2007)「ディアスポラの紐帯としてのアンソロジー―『故郷の心』とズィーベンビュルゲンの国家社 会主義について―」日本独文学会東北支部『東北ドイツ文学研究』第 50 号 pp.121-142 鈴木道男(2014)「アンドレアス・シュミットの『フォルク・イム・オステン』序説―忘れられた戦時下ズィー ベンビュルゲンのナチス文化雑誌と文学―」東北大学大学院国際文化研究科『国際文化研究科論集』第 22 号 pp.45-58
注 1 以後本稿では、ドイツ系住民世界内の事象に関わる場合この言葉を用いる。トランシルヴァニアは地域全体 を表す場合に用いる。 2 本稿では、ズィーベンビュルゲンに 11 世紀から入植していたこのドイツ人たちをザクセン人と呼ぶ。ドイツ 本国のザクセン人ではないことに注意されたい。鈴木(1997)S.128-130 及び巻末年表 S.136-141 参照。 3 10 月 5 日。Pfr. Wolfgang H. Rehner はトイチュハウス附属図書館の司書を務めている。文化センターであるト
イチュハウス(Begegnungs- und Kulturzentrum FriedrichTeutsch)は、現在でもほとんどのザクセン人が所属する ルター派教会(Die evangelische Kirche A. B. in Rumänien, ルーマニア・アウクスブルク信仰告白派福音教会)が シビウ市のヨハンニス教会に併設した文化施設で、ザクセン人の重要な拠り所の一つである。 4 この新聞は、本稿が扱う 1905 年と、戦間期の大部分が 2018 年 9 月の段階でまだデジタル化されていない。 そのため、新聞全体の所在が確認されたオーストリア国立図書館の製本された新聞資料に基づいて引用を行う。 筆者の無理な注文に快く便宜を図ってくださった館員諸氏に感謝したい。 5 例えばイェーナ大学を例に考察したの杉浦(2005)S.10 参照。 6 トランシルヴァニア全体では、1872 年にフランツ・ヨーゼフⅠ世の命でクルージ(本来ザクセン人がつくっ たクラウゼンブルク)にハンガリー語のみを用いるバベシュ・ボヨイ大学が設立されたのが当地の最初の大学 と考えられる。2009 年版大学案内によれば、当初はドイツ語、ルーマニア語などを用いる多民族性に配慮した 大学が構想されたが、結局ハンガリー語を用いる大学として創立されたとのこと。現在はルーマニア語を用い る大学である。 7 ただし、ブコヴィーナの中心都市チェルノヴィッツにおいても、学生らの手で、1859 年のシラー祭が挙行さ れていた(Ludewig 2008 S.61 参照)。チェルノヴィッツにドイツ語を用いる大学が設立されたのは、オーストリ ア併合 100 周年の 1876 年のことであり、この学生は当地からウィーンなどの大学に遊学していた人々である。 8 従来の貴族階級に代わって、国を実質的に動かした学位を持つ官僚、大学教授などを指す(Bildungbürgertum)。 9 1905 年 4 月 21 日第 2- 第 3 面 10 1918 年のオーストリア・ハンガリー二重帝国崩壊以前に書かれたこの新聞の記事で、1867 年のアウスグライ ヒによる二重帝国成立以前から存在した国立の機関には、k. k. の名が冠せられているが、これはオーストリア・ ハンガリー二重帝国(K. und K.)ではなく、単にオーストリア帝国の意味である。 11 帝国の公職にある人物が、ドイツの前に「大」を付けることは、大ドイツ主義の支持者が当時からハプスブ ルク帝国内に数多くおり、公然と意見を発していたことを示す。結局は、多くの民族を領内に抱えるオースト リアにとって、オーストリアを含む大ドイツ主義による統一は、この国の解体に等しいため、オーストリアは ドイツ統一から手を引き、プロイセンの小ドイツ主義によるドイツ帝国が成立するのは周知のとおりである。 12 青白い光を比較的長く放ち、強い照明に用いられる。 13 この胸像は本稿冒頭で現存することを述べた像ではない。本論冒頭に述べた胸像は、1905 年 8 月 14 日の新聞 6 面にある「ヘルマンシュタットのシラー記念碑」という記事によれば、シラーを熱愛するサラミ製造業者によっ て建立されたものである。 14 オーストリアのスイス侵略に抵抗するとされた人物ヴィルヘルム・テルの音楽が、シラー祭の名を借りて公 然と演奏されていることにも注意されたい。
15 Andreas Jakob Romberg(1767-1821)、ドイツのバイオリニスト・作曲家。
16 「今こそ我が綱にかけた力で / 鋳坑の中から鐘が引き出されるぞ。/ 響の国へと / 登れ、空まで。/ 引けよ、引け引け、 持ち上げろ! / 鐘が動くぞ。持ち上がる。/ 鐘の音が表わすのはこの町の喜び、/ 鐘の最初の響こそ / 平和を告げ るものであれ !」(筆者拙訳。テクストはシュピーゲル誌のプロジェクト・グーテンベルク版 Friedrich Schiller: Gedichte - Kapitel 151 を利用した。)という、シラーの長大な詩(1800)の最終連(423 − 430 行)を指すと思わ れる。ロムベルクの曲は、日本ではほとんど知られていないが、ドイツでは現在でもオーケストラ付きの合唱 で演奏されることがある。 17 ドイツのシラー基金は、1855 年にユリウス・ハンマーによってワイマールで設立された、作家の支援のため の団体である。ドイツ語圏の主要都市に支部があったが、それぞれ独立性が強かった。ドレスデン支部は 1855 年には既に設立されていたが、作家の支援のほかに、「シラー宝くじ」を発行し、貧困者の支援にもあたった有 力な支部であった。第一次世界大戦後のインフレ、第二次大戦前の強制解散、ドイツの東西分裂による 2 団体 化などを経て、現在はチューリンゲン州立のワイマール「シラー基金 1859」が主に活動し、文学賞「シラーリ
ング賞」を 3 年おきに授与している。詳細は、Schillerstiftung1859 のサイトに詳しい(www.schillerstiftung.de/ 2018 年 9 月 30 日参照)。シラー祭同様、シラー基金も分散的存在なので、ここにシラー祭の巨大なプロジェク トの起点を求めるのは困難であろう。 18 1905 年 4 月 22 日第 4 面 ‐ 第 5 面 19 シビウの学者一族に属する。1859 年のシラー祭に登場していたゴットフリートの孫。ミュース(Myß 1993) によれば一族のベルンハルト・カペジウス(1889-1981)は言語学者兼作家、その孫のロースヴィトは女流作家 であった。
20 Adolf Meschendörfer(1877-1963)は作家。1907 年から 14 年まで文化雑誌 Die Karpaten の編集に当たった。鈴 木 2014 S.46 参照。この雑誌は、ザクセン人のナチズムへの接近を促す論調を築いたいくつかの文化雑誌の嚆矢 となった。この雑誌に拠って、シラーと教会を切り離す論調を展開して、ルター派教会から激しい非難を浴び たこともある人物だが、ここでは触れない。 21 鈴木(1997)巻末年表 S.136-141 参照。 22 ヴァ―グナー(E. Wagner)がザクセン人の歴史の転換点における重要な文書をまとめた史料集(1981)収録の「王 領の廃止についての法律;ズィーベンビュルゲンの再編成」(S.240-242)参照。 23 ヴァ―グナー(1981)掲載のハンガリーの改正地名法(S.245ff)参照。 24 ヴァ―グナー(1981)の「国立学校以外の法関係規定(アポニー学校法)」(S.247-251)参照。 25 鈴木(2007)S. 124 参照。 26 ヴァ―グナー(1981)の「メディアシュで開催された第 1 回ザクセン会議の民族行動計画」(S.235-239)参照。 27 この新聞は、各年末に掲載記事目録を付しているが、残念ながら必ずしも網羅的ではなく、小記事は掲載し ていない。そのため、この一覧表は短文も含めて、筆者(鈴木)が記事を拾って作成したものであるが、新聞 がデジタル化されておらず、テクストは小さいドイツ文字のままであるから、検索が難しい。本表にも見落と しがあるであろうことをお断りする。