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[資料]戦後,沖縄で助産師教育が行われなかった9年間に,本土で資格を取得した助産師の軌跡: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)Title. Author(s). Citation. Issue Date. URL. Rights. [資料]戦後,沖縄で助産師教育が行われなかった9年間 に,本土で資格を取得した助産師の軌跡. 仲村, 美津枝; 儀間, 繼子; 玉城, 陽子; 大嶺, ふじ子. 琉球医学会誌 = Ryukyu Medical Journal, 28(3・4): 45-54. 2009. http://hdl.handle.net/20.500.12001/3987. 琉球医学会.

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(128).   Ⅱ.

(129) . 戦後本土で免許を取得した助産師の軌跡. . . () 年, 太平洋戦争の敗戦により島全体が焦 土と化した米軍占領下の沖縄県では多くの医師や看護師 が戦死し, 医療職不足が深刻であった1 3). そのため米 軍は生き残ったすべての医療職を一堂に集めその管理下 に置き, 軍政府の指揮する施設で医業に従事させた. 米 国軍政府と終戦から5年後に軍政府から移行した琉球列 島米国民政府 (

(130).      

(131) 

(132) 

(133)

(134) .  

(135)         ) は, 徹底的に破壊 され荒廃した沖縄本島に, 最も効果的な医療・公衆衛生 システムを構築し成功させただけでなく, 医療従事者の 確保も積極的に行った. 医師養成のため優秀な学生を国 費・自費留学生として本土に派遣するとともに, 看護職 養成のためには!() 年, 高等学校卒業後の3ヵ 年制の看護師学校を開設し, 看護教育を開始した1 4). 看護師学校開設から8年後の() 年に, 助産師 と保健師の養成を目的に看護師学校に助産学科と公衆衛 生看護学科を開設し, 翌年に第一期の卒業生を送 り出した5). 公衆衛生学科は, その後公衆衛生看護学校 として継承され、 その卒業生は沖縄県離島医療のために 目覚しい活躍を遂げた. 一方, 助産学科は1回限りの8 ヶ月の養成 (" 月∼" 6月) で名の助産師を 卒業させただけで休校となった. 助産学科はその後も休 校し, !(#) 年第2期生を迎え入れるまで, 9年 間の空白期間があった5 7). 助産師学校が開設されなかったその9年間 (年 ∼!年) に勇敢にも助産師になるためにパスポート を取り, 本土の助産師学校に入学し助産師免許を取得し た人達がいた. これらの助産師達も現在は定年退職し$ 歳前後となっている. こうした戦後の困難な状況の中, 助産師にあこがれ本土に渡った先輩助産師の軌跡を記録 に残すことは, 戦後の米国統治から本土復帰に至るまで 本土の看護界とは異なる沖縄の助産師の戦後の歴史を知 る上で貴重な史実になると考え調査を行った.. . 1. 調査の対象者および期間 対象者は沖縄県での助産師教育が途絶えた9年間に, 助産師を志しパスポートを取って本土の助産師学校に入 学し助産師免許を取得したことが確認できた 人の助 産師である. この人の助産師については, 本土で助 産師免許をとったことが確実な先輩助産師による同窓生 の紹介や助産師の記念誌の手記等により調査しリストアッ プした. 本土で免許を取った人の卒業校は東京日本 赤十字助産師学校が人, 聖バルナバ助産師学校8人, 武蔵野日本赤十字助産師学校3人, 東京大学附属助産師 学校2人であった.. 2. 調査方法 調査は半構造式の聞き取り調査である. 聞き取り内容 は, ①本土の助産師学校進学の動機又は契機, ②本土の 助産師学校の選択と助産師学校に行くまでの経緯, ③助 産学生時代の状況と思い出, ④助産師免許取得後の就職 状況, ⑤沖縄に帰ってからの活動と助産師以外の職業に 就いた理由である. 何でも話したいことを緊張せず自由 に話せるようにするためテープレコダーによる録音は行 なわず, 2人の調査者による面接を行い, メモの記述の 許可を得てそれを基に面接直後または時間を空けずに逐 語録を作成する方法とした. 調査期間は$年8月から月である. 倫理的配慮として, 対象者に研究の目的を説明した上 で調査協力を依頼し, 参加はまったく自由であり, また 途中で調査への参加を中断することもでき, 参加を断る ことで一切不利益をこうむる事はないことを伝えた. ま た聞き取った内容は, 個人を特定できない形で記録に残 すこと, 論文を学会または紙上で発表することの承諾を 事前に得て, 希望する人には発表前に本文を開示するこ と, 調査結果はこの目的以外には使用しないことを約束 した.. 

(136). 1. 対象者の背景 助産師学校が休校された期間に, 本土で免許を取得し たことが確認できた人のうち3人はすでに逝去され ていた. 人のうち連絡することができ, 研究の主旨, 倫理的配慮について述べ許可の取れた#人を本調査の 対象者とした. 8人は直接面接し, 5人は面会すること を好まなかったため電話によりそれぞれ分から分 の聞き取りをおこなった. 2人の調査者で聞き取った語 りは, 事前にその場でメモを取ることの承諾を得て記録 し, 調査終了後, 直ちにメモを基に逐語録を作成し照合 し, 聞き取った内容に対し認識の違いがないか確認しあっ た. 電話での5人の聞き取りは, ひとりの調査者で行っ た (%&  1). #人の卒業校の内訳は東京日本赤十字助産師学校が 7人, 聖バルナバ助産師学校3人, 武蔵野日赤助産師学 校2人, 東京大学附属助産師学校の卒業生が1人であっ た. 年齢は一人を除き!歳代後半から$歳代であった. 2. 助産師学校進学の動機または契機 助産師になりたかった理由としては 「産婦人科で勤務 して, 看護師でありながら助産行為をしているのが嫌だっ た. 助産師の資格を取って, 正式に助産をしたかった」 「地域で働いている産婆を見て, 子どもの頃から助産師 になろうと決めていた. 看護師として2∼3年勤めたら 進学するつもりであった」, 「尊敬できる助産師がいて, その仕事ぶりにあこがれ助産師になりたいと思った」 と.

(137) 仲. 村. 美津枝. . ほか.   

(138)  

(139)          

(140) 

(141)   №. 方 法. ①. 面接. 年齢. 助産師学校. 歳後 東大附属助産師学校. 動. 機. 看試. 助産師教官養成のため県より派遣. 最終職歴 助産師養成教員. 2. ご逝去 東大附属助産師学校. 助産師学校教員→保育園経営. 3. ご逝去 武蔵野日赤助産師学校. 大学病院産科看護師長. ④. 電話. 歳前 武蔵野日赤助産師学校. 中堅で病院より派遣 ちゃんとし た資格で助産業務をしたかった. 私立病院看護部長. ⑤. 面接. 歳前 武蔵野日赤助産師学校. 助産師が少なかったため病院より 派遣された. 私立総合病院看護師長. 6. ご逝去 東京日赤助産師学校. 私立病院で助産師、 結婚後主婦. ⑦ 面接 電話 歳前 東京日赤助産師学校. 助産師として免許を持って助産業 務を行いたかった. ⑧ 面接 電話 歳後 東京日赤助産師学校. 沖縄に助産師学校ができるのを知 らなかったので. ○. 公立病院産科師長. ⑨ 面接 電話 歳後 東京日赤助産師学校. 助産師になりたくて妹が本土で働 いていたので頼っていった. ○. 私立総合病院産科師長. 看護系大学教員 (助産師養成課程). ⑩. 面接. 歳後 東京日赤助産師学校. 養護教諭だったが東京で助産師学 校に進学したかった. ○. 助産師の待遇の悪さに再び養護教 諭へ. ⑪. 面接. 歳前 東京日赤助産師学校. 保健師をしていたがやめて助産師 の学校に進学した. ○. 私立病院で助産業務をしていたが 養護教諭の空きがあり移動. ⑫. 面接. 歳前 東京日赤助産師学校. 助産師になりたかった. 私立病院、 自衛隊病院で助産師業 務後保育園経営. ⑬. 面接. 歳前 東京日赤助産師学校. 助産師になりたかった. 家業 (園芸業).  連絡不能. 東京日赤助産師学校. 公立産婦人科勤務→主婦.  連絡不能. 東京日赤助産師学校. 主婦.  連絡不能. 東京日赤助産師学校. 私立病院助産師.  連絡不能. 聖バルナバ助産師学校 4月入学. 私立病院産科勤務→助産院開業・ 閉鎖→精神科勤務. ⑱ 面接 電話 歳前. 聖バルナバ助産師学校 9月入学.  連絡不能. 聖バルナバ助産師学校 9月入学. 公立病院勤務結婚後病気にて退職.  連絡不能. 聖バルナバ助産師学校. 精神科勤務. . 電話. 歳前 聖バルナバ助産師学校. 公立病院で看護師をしていたが産 科病棟で働きたかった 同校に進学した先輩を頼って. 産婆の仕事を見てとても助産師に なりたかった 先輩を頼って. ○. ○. 公立病院の空きがなく開業医、 助 産院等の勤務後大学病院に勤務 副師長. 本土産科病院→大学病院産科副師 長.  連絡不能. 聖バルナバ助産師学校. 養護教諭.  連絡不能. 聖バルナバ助産師学校. 養護教諭. . 電話. 歳後 聖バルナバ助産師学校. 同郷の先輩が同校に通っていた. 公立病院副部長. 注:ここに掲載した人は, 助産師の記念誌等による本人の手記や本土で助産師免許をとったことが確認できた助産師に同窓 生を紹介してもらう方法によりリストアップした助産師たちであり全員を網羅しているわけではない №の欄で○の付いたものは面接, 電話によるインタビューが可能だった 人である. 看試の欄で○の付いたものは, 本土で看護師国家試験に受験し合格したことを述べた助産師である..

(142) . 戦後本土で免許を取得した助産師の軌跡. 語っていた. 助産師学校へ進学する契機は助産師の教員養成のため 民政府から派遣された者, 助産師不足のため病院からの 派遣された者もいたが, ほとんどの助産師は看護学校入 学当初から助産師を目指しており, 産婦人科病棟に配置 され資格を持って分娩. 指導に関わりたかったという事 が動機となっていた. 全員が本土に助産師の勉学に行くことで希望に満ちて おり, 不安を感じていたものはいなかった. 3. 本土の助産師学校の選択と助産師学校に行くまでの 経緯 助産師学校の選択は 「同郷の先輩が, その学校にいた ので相談に乗ってもらい, 頼って進学した」 「助産師雑 誌の募集広告を見て決めた」, 「一緒に進学する友人と相 談して決定した」, 「先輩からその学校が良いと言われた」, 「勤務先の病院からその学校に推薦された等」 の回答が あり, 先輩がすでにその学校に進学していたからという 理由が最も多かった. 本土の助産師学校への進学に際しての待遇としては有 給による政府, 病院からの派遣, 退職しての入学など様々 であった. この時代は沖縄の看護学校および公衆衛生看 護学科はすべて, 授業料, 全寮制の食費ともにすべて無 料であったが, 本土でも同様, すべて無料であったとの ことで経済的心配はなかったと話している. まだ復帰し ていないにもかかわらず, 沖縄からの受験者も本土の受 験者と同様, 入学試験に合格すれば助産師学校での入学 金, 受講料等は不要で, 寮費や食費も全て無料, 教科書 も無料配布されたとのことである. また, 助産師学校の 入学に際し, 日本国の看護師国家試験に合格しているこ とは必要なく, 看護師の国家試験を受け直さなくてもす ぐに受験できたと述べている. 4本土での助産学生時代および勤務助産師の思い出 助産師学校時代の語りは, 入学試験の状況にはじまり 教務とのやり取り, 旅行, 実習中に怒られたこと等, 懐 かしい思い出や失敗談など広範囲に及んだ. 助産師学校での分娩実習状況については 「今の少子化 と違ってドンドン子どもが生まれていたから, 分娩も 例から多い人で例くらい取り上げていた」 「全国のい ろいろな地方から学生が集まって来ていたので楽しかっ た」 「英語で勉強しているのかなど, 沖縄についての認 識度は低かったが, 差別等はなかった」 「沖縄の先輩た ちがいろいろ心配して面倒を見たり, 試験の時期は差し 入れをしたりしてくれた」 「沖縄の看護教育は進んでい ると教務からいわれた」 との回答があった. 病院での勉学や, 実習は大変だったが, 沖縄の先輩た ちは何くれと面倒をみてくれ, 試験期間には差し入れを してくれありがたかったことを思い出として述べ,  人全員が助産師学校時代を楽しかったと語っていた.. 日本赤十字東京助産師学校の卒業生はこの先輩, 後輩 の強い絆が現在も継続され, 職種は異なるものの毎年, 同窓会で旧交を温めているそうである. 5. 助産師免許取得前後の日本での就職状況 助産師学校に入学する前, 本土の病院で看護師として 働いた経験のある助産師は 「4月に就職はできたものの, 看護師免許を取るために9月の2回目の国家試験を受験 するように言われ受験した. その頃は看護師の国家試験 は年に2回受験できたが就職したばかりで, 仕事に追わ れ受験のための勉強はほとんどできなかった」 と述べて おり, 看護師として働くためには日本国の国家試験を再 受験し合格することが課されたようである. また, 病院 から看護師免許の受験要請はなかったものの, 「日本の 国家試験を受けた看護師に比べ給料は安かったため, 同 等の給料を得るため日本政府の看護師免許を受けた」 と 話した助産師もいた. しかし, 看護師国家試験を受験し た助産師達は皆1回で受かったと述べ, 沖縄の看護教育 のレベルは高く, 本土での看護師の国家試験は, 沖縄民 政府施行の試験に比べ簡単で試験勉強は十分ではなかっ たが合格できたと話した. また, バルナバ助産師学校に 進学したある助産師は日本政府の看護婦免許を持たない 助産師には, 受胎調節員の資格が認められないと話され 看護師国家免許を受験したという. 本土の助産師学校を卒業し免許を取ると, すぐ沖縄に 帰った助産師もいたが, 中には経験を積むため本土の病 院で助産師として働いたものもいた. 国家資格を持った その後の給料は, 本土の同僚の助産師と差がなかったと 述べていた. 6. 沖縄に帰ってからの活動と助産師以外の職業に就い た理由 日本で助産師の免許を取り本土の病院で経験を積み, 希望に燃えて帰郷した助産師達のすべてが恵まれた境遇 にいたわけではなかった. 人中, 定年退職まで助産業務に従事できたのは合 計7人で, 助産師長又は副助産師長であったものが5人, 助産師養成施設の教員が2人であった. しかし長年の臨 床勤務経験の中では小児科, 手術場, 外科系病棟, 内科 系病棟等も経験していた. 残りの6人は一旦, 助産師と して従事したもの2人は養護教諭, 2人は看護部の管理 職で定年を迎え, 1人は現役の保育園経営, 1人は結婚 後退職し家業を手伝っていた. 助産師は沖縄の公立病院の産婦人科で3年間看護 師として働いた後, 本土の助産師学校に入学し, 卒業後 1年間産科病棟で経験を積んでから沖縄に戻ってきたが 希望した元の公立病院では採用されなかった. 産婦人科 の開業医院で働いている時, 公立病院に空きがあり転職 できたが産科でなく他科の病棟に配置された. その後産 科に移動でき定年を迎えた..

(143) 仲. 村. 助産師は帰沖後, 入学前に働いていた公立病院での 就職口がなく, ある助産院を手伝っていたが, ほとんど 収入がなかったため開業医院に移り, その後欠員が出た と知らせのあった公立病院に転職した. 元看護系大学教員の助産師は帰沖後, 特に支障なく 元務めていた公立の産婦人科病棟に勤務できた. しかし, 以前, 産婦人科病棟で看護師として勤務していた時の職 歴, 助産師学校の学歴, 本土での産科病棟の経験はキャ リアとして認められず再就職した公立病院では, 新卒者 と同じ初任給が支払われた. 看護系大学設置に伴い移動 の話があり, 転職したとのことである. その後, 沖縄県 にいる日赤助産師学校同総会のメンバー人中, 定年 を迎え最後まで助産師 (助産師養成過程の教員. 産婦人 科師長等) としてその業務を継続し退職したのは, 4人 だけであったとのことである. 沖縄に戻り助産師として勤務したものの途中から養護 教諭になり定年後の現在, 孫たちに囲まれ悠々自適の生 活を送っている 氏は次のように語った. 「助産師の仕 事は好きだった. 助産師学校を卒業後4年間, 東京の有 名な病院で助産師として働いた. 沖縄に帰った後の公立 病院での分娩技術や母親たちへの指導は同期で入った新 人の助産師たちが見習うに値する技術であったと自負し ている. 当然, 指導助産師として後輩指導, 業務改善に 自分の学んできた限りを尽くしたが, そうした努力は直 属の上司や看護管理者から認められなかった. 自分の給料が, 学校を卒業したばかりの新人助産師た ちとまったく同じで, 本土での経験年数が全然加味され てないと知った途端, やる気がなくなった. そんな時, 助産師学校時代の養護教諭をしている仲間から養護教諭 の話が来たので, すぐに転職を考えた. 給料は高く, 日 曜は休みで夜勤も三交代もない. 養護教諭になって本当 に良かったと思っている. しかしながら, もしあの時, 助産師の経験が加味された給料であったら辞めなかった かもしれない. でも助産師を辞めたことをぜんぜん後悔 してない. 助産師だったら定年まで働いたとしても得ら れなかった養護教諭としての年金額にも, とても満足し ている. 養護教諭になってからは, 助産師にまったく未 練はなかった」 と述べた. 7. 助産師を継続できなかった優秀な先輩助産師 聞き取りの中で, 数名の助産師は彼女たちのモデルと なった先輩助産師に付いて口述していたが, 助産師業務 から離れた先輩助産師達の才能とリーダーシップを惜し む声が大半であった. 「助産師を辞めて養護教諭になった先輩がいたが, 助 産の教え方も分娩技術も最高にうまかった. あの先輩が 助産師を続けていたら, 絶対に沖縄の助産師の発展に寄 与していた」 「本土の助産師学校に入学する時, 私が頼っていった 先輩は, 本土で助産師の経験を積み, 沖縄に帰ってから. 美津枝. . ほか. 助産院を開業したが, 病院分娩が増えたり嘱託医との問 題があったりして, 助産院を閉鎖した. その後, 病院に 再就職したが産婦人科勤務はせず2度と助産師業務には 戻らなかった. 内地にいた時, 分娩技術や妊婦指導の方 法を教えてもらったが, とても上手だったので, 今でも もったいないと思う」. . . 助産師になりたいという強い意志を持って本土で助産 師免許を取得した人の助産師に語ってもらい, 多く の情報を得ることができた. ただ, 約半世紀前の聞き取 り調査であり, 時代背景や状況が同じでも個々人により 感じ方, 受け止め方が異なる場合や記憶や認識のずれが 生じる場合がある. こうしたひずみを少なくし, 聞き取っ た内容をより客観的な史実として検証するためには, そ の時代の関係資料や文書等の検討, 社会背景となる公的 統計, 社会的データの裏づけが必要となる. そのことを 踏まえつつ考察を試みた. 1. 助産学科が休校した理由と沖縄の戦後の助産師数の 変遷 助産師になるため人の看護師が本土に行かざるを 得なかったのは助産師学校が中断されたことによるが, 終戦後, 沖縄県で助産師学校一期生の助産教育を担当し た教務大城宏美氏8)は, 琉球看護婦協会創立 周年記念 誌に, 休校した理由を 「海外からの帰郷助産師または未 開業の資格助産師が個人開業に踏み切り, 戦争当時少な かった助産師の数が急増し助産師を暫時養成しなくても 十分この業務が円滑に運営されるとの政府の見解からで あります」 と記述している. 大城氏の記述している通り,  (

(144)  ) 年時点で助産師数は 人であり看護師数  人保健師 人よりはるかに多かった9). この時点で, 政策として助産師を新たに養成するより, 数の少ない看護師や公衆衛生看護師を養成することが優 先されたことは充分理解できる. 一期生の助産学生 人を8ヶ月の教育課程で養成し 年に卒業させた後, 大城氏は 「ワーターワース女史の命令により, 不本意な がらも沖縄で今若い助産師を養成するよりも開業助産師 の再教育が住民のためにも必要だ」 ということで全島各 地区を2週間のカリキュラムで再教育を実施した )と書 いている. 資格を持った助産師の再教育のための大城氏 と 時間の講習会に同行した古堅氏は,  (

(145) ) 年 から1年間各地区で巡回指導し,  (

(146) ) 年には血 圧測定, 骨盤計測, 母親学級の持ち方などの実技の伝達 講習を行い, 助産師たちの質の向上に尽力したと記述し ている). 戦中戦後を通し他の医療職より数の多かった 助産師の活躍は目覚しく, 多くの書籍 )や記事 )が残 されているが, 助産師の力量は基礎教育や助産師養成期 間, 内容等により, その質においては必ずしも均一では.

(147) . 戦後本土で免許を取得した助産師の軌跡. なく問題もあった)ようである. 助産師学校を休校して でも質の向上を優先した, 沖縄の戦争直後の看護に多大 な貢献をしたワニタ. ワーターワース女史,)の判断は 正しかったといえる. その後も助産師は増加し ( ) 年にはピークの 人となり, この時点で, 看護 師も 人, 保健師は 人に増加している8, ). しかし, この( ) 年をピークに助産師数は急 激に減少し, わずか5年後の (

(148) ) 年には.

(149) 人と なっている8, ). その上, これらの助産師は助産師再教 育を受けたとはいえ, そのほとんどが戦前の看護教育の 基盤がないかあるいは1年の看護教育後の6ヶ月∼1年 間の助産教育だけを受けた年配の助産師であり, 高等学 校卒業後3年過程の看護教育を受けて, 助産師となった ものは少なかった9,, ). 琉球政府立助産師学校 (1年コース) が約年の時 を経て人の定員で再び開校された翌年の (

(150) ) 年に那覇看護学校に訪れたワットソン高等弁務官に対し, 校長の照屋寛善氏は 「全琉に助産師が

(151) 名おり, 年間 約2万人の分娩介助において  人 ( %) の介助を 助産師がおこなっているが, 歳台が人, 歳台が  人,

(152) 歳台

(153) 人, 歳台の助産師は 人と少数で, 平均年齢は 歳となり, 若い助産師の養成が急務であ ると助産師教育の強化を訴えた )」 と記述しているが, その時点で, いかに助産師の高齢化が進んでいたかが伺 える. その5年後の (

(154) ) 年では実働助産師数は  人,  ( ) 年では 人, (. ) 年では 人であっ た.  () 年には実働助産師数 人に増加したも のの, 現在までの約 年間余, 全助産師数 人前後, 業務に従事している助産師数は 人前後で推移してい る8, ). 2. 助産師となった動機とその社会的背景 本土へ渡ってでも助産師になりたいと進学した助産師 たちの動機として, 「地域の開業助産師の活躍をみて」 とする者が多かったが, それにはその頃の時代背景が大 きく影響していると思われる. 太平洋戦争で唯一, 地上戦の場となった沖縄には

(155)

(156) () 年と

(157) ( ) 年の出生数の統計はない. しか し, 

(158) () 年には 

(159) 人の出生数の記録があり, 終戦直後の

(160) ( ) 年の出生数が  人の記載が あり, 5年後の ( ) 年に出生数  人のピー 8) クを迎えベビーブームとなっている . 

(161) ( ) 年 の沖縄の医師の総数は 人,  ( ) 年には 人 であったが, 産科医師は人8)しかおらず, 異常分娩以 外のほとんどの分娩が助産師の介助によるもので, 分娩 介助は助産師の独壇場であった ). こうした助産師に よる自宅分娩の様子やその活躍を見て育った女学生にとっ て, 助産師は将来の憧れでありモデルであったと考えら れる.. 戦後の統計が整備され, 医療者別の立会い分娩数が公 表された( ) 年には, 全出生数  人中, 自 宅分娩が %で, 助産所 %, 病院 %, 診療所

(162)   %となっている. しかし地域により自宅分娩の割合は異 なり, 自宅分娩は那覇  %, 中部 %であるのに対 し, 北部, 南部, 離島では ∼%とほとんどを占め ている. そのうち助産師の立会い分娩は. 人 ( . ) %), 医師 %, その他  %と記録されている . そ の後も助産師による分娩は減少しているとはいえ, 彼女 たちが本土に渡って行った頃の年代前半までは助 産師による分娩は%を保っている8). 3. 復帰前の琉球列島米国民政府発行の看護師免許の扱 い 本土に渡り助産師学校に入学する前, 病院勤務を経験 した助産師は, 本土の看護師と比べ不当に賃金が安かっ たことについて述べていたが, その明確な理由について の返答は得られなかった. しかし, これは沖縄の琉球列 島米国民政府発行の看護師免許が祖国復帰前にどのよう に扱われていたのかを知るうえで興味深いことであり, その時代の沖縄の看護師免許の扱いについて調べた. 助産師学校を受験する際, 沖縄から本土に渡り看護師 として就職することなく, すぐに受験したものは支障な く入学試験を受験できたとしている. 助産師学校入学の 資格は保健師助産師看護師学校指定規則の助産師学校養 成所の指定基準, 第三条 )に規定されており 「保健師助 産師看護師法 (以後保助看法) 第 条のいずれかに該 当するものであることを入学又は入所の条件とする」 と ある. 保助看法 条

(163) )は看護師国家試験の受験資格につ いて4号記載している. 一号, 二号は文部科学大臣又は 厚生労働大臣の指定した学校又は看護師養成所を卒業し たもの, 三号は准看護師が受験する場合の資格に関する ことである. 復帰前の沖縄ではそのいずれにも該当しな いが, その四号において 「外国の第5条 (保助看法の看 護師の定義) に規定する業務に関する学校もしくは養成 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 所を卒業し, 又は外国に置いて看護師免許に相当する免 ・ ・ ・ ・ ・ 許を受けたもので, 厚生大臣が第1号又は第2号に掲げ るものと同等以上の知識および技能を有すると認めたも の」 との記載があり, これに相当したのではないかと考 える. このことは, 琉球列島米国民政府の高等学校卒業 を入学条件とした3年過程の看護師教育カリキュラムを, 厚生省は助産師学校に進学するための受験資格として認 めていたことを意味する. つまり, 復帰前は外国とみなされていた沖縄の看護師 が助産師学校を受験するためには, 沖縄の看護師養成所 を卒業しているか看護師免許を持っていれば受験資格を 満たすことになり, 直ちに受験できたようである. しか しこの制度も 年の保健師助産師看護師法の改正に より, 看護師国家試験の合格が保健師免許及び助産師 免許付与の条件とされ, 年4月1日から看護師免.

(164) 仲. 村. 美津枝. 許に合格しないものは, 助産師, 保健師免許を公布でき ないようになった). 一方, 本土に渡り, 看護師として働いてから助産学校 に進学した助産師は 「看護師国家試験に合格するまでは ・ ・ 看護助手なみの賃金で働いた」 と述べており, このこと から推測すれば, 復帰前の沖縄は外国として扱われ, 布 令による看護師免許は都道府県発行の准看護師免許とさ え同様には扱われていなかったと思われる. しかし, 病 院の要請や賃金の不公平さ等から看護師の国家試験を受 験した彼女たちは, 高校卒業後3年間の看護教育に統一 された米軍指導の沖縄の看護教育のレベルの高さを本土 に示す結果となった. 与儀千代子氏)は日本復帰まで, 看護に関する免許試 験業務は琉球政府厚生局医務課看護係や資格審査委員会 によって布令号 ( 1 ∼ 9  ), 布令 号 (   1∼   8  ) により実施されており, 米国の制度にならい毎年免許の再登録がなされていたと 記述している. 日本復帰が決定された (

(165) ) 年 [公衆衛生看護師助産師看護師法 (

(166)  9 1∼

(167)  5 

(168) ) の施行により布令号, 号の免許登録者は同法 に基づくすべて免許の切り替えを行った. 復帰した (

(169) ) 年5月日以降は保助看法に基 づいて免許公布がなされ, 公衆衛生看護師助産師看護師 法により登録された免許は 「沖縄の復帰に伴う厚生省関 係法令の適用の特別処置等に関する政令」 第条の規 定により保助看法と同様に取り扱うことが決まり, すべ て厚生省に引き継がれ, その数は看護師 人, 助産 師

(170) 人, 保健師

(171)

(172) 人だった)と記述されている. この免許の切り替えは比較的スムーズに行われたとい われているが, 復帰前に渡航し看護師国家試験を1回で 受かった彼女たちや他の本土の病院に就職するため受験 した看護師たちの能力が評価の一助とされたかもしれな い.  (

(173) ) 年3月, 復帰に先立ち保助看法による始 めての国家試験−看護師 回, 保健師 回, 助産師回 が沖縄で実施され厚生大臣署名入りの免許となった4, ) (  2参照).. . ほか. 4. 恵まれなかった本土で免許をとった勤務助産師たち 戦後の助産師教育が行われなかった時代に希望に燃え 本土で助産師免許を取得して帰ってきた助産師達の境遇 は恵まれているとは言えず, 助産師として技能を伸ばし 発展できた者はわずかであった. 1) 助産所開業を断念した助産師たちとその社会背景  年代, 華々しい活躍を見せていた開業助産師に 憧れ沖縄に帰って開業を目指していた助産師にとって, 助産師の扱う分娩は急速に少なくなり助産所は窮地に追 い込まれているという厳しい現実が待ち受けていた. 助 産師の活躍の場であった自宅で分娩する産婦は減少し, 病院, 診療所の急増により医師の取り扱う分娩数は急増 していった. (

(174) ) 年では出生数   人中, 立会い出生数 は助産師が  人 ( %), 医師は . %, 分娩場 所は助産所  %, 診療所 %, 病院 %となって いる. 5年後の (

(175) ) 年では出生数  人中, 助産師の立会い出生数は 人 ( %) に激減し医 師の立会いは. %と逆転している. 分娩場所も助産所 %, 診療所. %, 病院  %となっている.    (  ) 年では出生数  人中, 助産師の立会った出 産はたった.  人 (  %) であり場所も助産所での分 娩は  件 ( 

(176) %) で, ほとんど診療所  件 ( 

(177) 8,, ) . %), 病院

(178)  

(179) (  %) 分娩に移行してる ( ) 年以降自宅分娩は減少し, ほんの一時期, 助産所分娩が増加したものの, 医師による立会い分娩の 増加とともに, たちまち助産師による分娩介助は減少し た. (

(180) ) 年以降の診療所の急増により, 助産所 分娩も助産師による分娩も減少し斜陽期をむかえた. 本 土の助産師学校を終え経験を積んだ助産師たちの帰った 時期はちょうどその頃に当たっており開業を諦らめたり, 運よく助産院を開業しても経営困難に陥りその夢を断念 せざるをえなかった. たとえば, 助産師免許を取得後, 前述した教務の大城 氏の助産院で勤務した経験のある2人の助産師は, 「そ の当時では保健指導も充実しモデルとなる設備の整った 立派な助産院だったが, 大城氏が健康を害され経営困難.   . 

(181). .    

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(205) . 沖縄の看護協会,年/% .*1 +, *+ 日本看護協会沖縄県支部年表( ) 年−* (.) 年より作成.

(206) . 戦後本土で免許を取得した助産師の軌跡. となり助産院を廃業せざるを得なかった」 と残念そうに 話した. 助産院分娩が衰退していく中での助産院経営の 困難さだけでなく大城氏の助産師としての人柄や力量を 惜しみ, 偉大なリーダーを失った損失についても述べて いた. 助産師の取り扱う分娩数はその後も減り続け,  ( ) 年ではその立会い出生数は 人 )で,  ( ) ) 年では立会い出生数は 人 , (

(207) 2) 年では 人 ) である. 以後, 現在まで就業助産師数は, 人前後, 取り扱い分娩出生数は年間∼ 人前後の横ばい状態 で経過している , ) (   3参照). 2) 勤務していた病院への復職や職歴が認められなかっ た助産師たち 退職して助産師学校に進学した者の中には元の公職に 復帰できず民間産婦人科病院, 産科診療所, 助産所等に 就職した. 運よく公職に復帰できても, 本土での助産師 としての教育歴や職歴は考慮されず, 給与, 待遇とも同 期に就職した新人看護師と同等の扱いであった. また産 婦人科に配置され, 助産師としての技術を生かせる者も いたが, 助産師としての職種を確保されることなく, 内 科病棟, 精神科病棟に配置され産科へ戻れない助産師も いた. にもかかわらず, それぞれに配置された場でリー ダー的役割, 管理能力を発揮し, 後に, 看護部の管理職 に就いたり他科の病棟師長などの職務で貢献した者もい た. しかし, 職歴や技能を認めない理不尽な待遇を契機と して助産師免許を取得しながら養護教諭, 公衆衛生看護. 婦, 保育園経営に職換えする助産師もいたことは否めな い. 助産師を辞めざるをえなかった人々の中には助産師 のリーダーとして助産師界を背負い, 助産師の地位向上 に活躍しただろう人々も少なからずいたはずである. そ の助産師たちがもし助産師を続けていたら後輩助産師に 多くの恩恵をもたらしたであろうと考えると本当に残念 でならない. 優秀な助産師を助産師として臨床の場に踏 みとどめさせるには助産師個人の努力では限界があり, 助産師が助産師として働ける待遇改善や行政的な方策が 必要であろう. また助産師であり続けられるように, 同 じ助産師や看護職同志がともに環境を改善し, 時代に沿っ た助産師としての役割が果たせるように知識や, 技術を 磨いていかなければならない. 現在, 産科医が不足し正常分娩を扱う助産師を見直す 機運があり, その役割に期待するという好機が訪れてい る. この期待にどう応えられるかはこれからの助産師の 生き残りを左右するかもしれない. 助産師としての強い アイデンティティを持ちながら, 時代の流れの中で助産 師としての技量を充分果たせず断念した, これら先輩助 産師のためにも私たち助産師は, こうした機会や期待を 逃さず発展しなければならないと考える.. . . 本調査の助産師たちは, 本土に渡ってでも助産師にな りたいという強いアイデンティティ持ち免許を取得し, 本土で培ったコンピテンシーを持ちつつ助産師であり続.   . 

(208). .   . .      

(209)     .   .   Ⅱ   . .      

(210). N(%).    

(211)   .  .   .  . # $%. #&' #(%. .   . . &. #). # $%). #(' #*. .   . . #(. #*. # $(.  ' #. .   . . *&. # #. # $. ' (.  #. #%. # $)(. (' *. #' )( ) ). &#( % (). #' *% ( & )). #)' %(&( ). #*#.  *. #. # $). (' #*#. #' ## (  ). ' #(%( ). ' *$(* *). &' #(%( &). #). %. $%. # $*(. #' ( &. ' %(#( )). ##' * &( &). %' ))( #). ' #%&(#( ). *. *. %&. # $*. ' *#. %' (%(#& (). #)' ((* %). #' &)&( & %). ' )( # (). %*. #)&. )#. # $&(. (' &#. $' $*(% &). #(' (* (%$ *). &#( % (). )&( ( ). #. #*. $(. # $&. (' $$. $' &)((%* *). #(' #(( $). *( # ). #*( ( #). &. &. #' &#. # $$(. (' &#. $' $*(% &). #(' (* (%$ *). *( ( %). (( ( #). *. %. #' & . # $$. #)' *#. &' ((%$ (). &' %*((( )). &( ( ). ( ( ). . . ' #&$.  (((. #)' **. &' *)(# ). &' # &(%& ).  ( ( #). )( ( ). #(. #. ' %).  ((. #)' ##. &' %$(# ). *' *)*(%& ). %)( ( ). $( ( ). . #). ' *&%. 

(212)   . . . .

(213).  . .  . .   . . !   . ". 資料:#$&(年まで稲福盛輝編著沖縄の医学<医学・保健統計資料編>+ %%から作成. #$&年より沖縄県環境保健部予防課:沖縄 県の母子保健から作成 #$$(年より医療者数は衛生統計年報より作成 (#$$年'((年は#$$)年'((%年の調査数(隔年調査のため)).

(214) 仲. 村. けたいという希望をもっていた. しかし, その時代背景 や境遇に翻弄されその初心を断念し助産師としての技能 を発展させることができなかった者もいた. 助産師になった彼女たちの助産師としての業務の継続 を阻んだのは, 病院や診療所の増加という医療形態の変 化の中で, 助産師が扱う出産数が激減したという社会状 況と, 助産師としての技術が活かせられない勤務配置や 助産師としてのキャリアが認められない待遇面の悪さで あった.. . 沖縄で助産師学校が休校された時代に, 本土にわたっ た人の助産師とその時代背景についてまとめたが, 本土で助産師免許を取得した全対象者を把握できたわけ ではなく, 調査できた対象者も人中人と数が少な く, また聞き取り調査の限界として研究者側の解釈に偏 向の可能性もあり, その時代背景となるさらなる公的統 計, 社会的データの裏づけが必要である. 謝辞と断り 本資料をまとめるに当たり, インタビュー調査にご協 力頂いた皆様に心よりお礼申し上げます. また, 保健婦助産婦看護婦法の一部を改正する法律 (平成年月成立, 平成年3月1日施行) に伴い保 健婦, 助産婦, 看護婦の名称は保健師, 助産師, 看護師 となったため, 文中ではすべて師に統一しましたが, 法 律改正までの名称は保健婦, 助産婦, 看護婦であったこ とをお断りしておきます. ただし, 文献については表題 どおり保健婦, 助産婦, 看護婦としました..

(215)  1) 崎原盛造:戦中および戦後沖縄における保健医療の 状況, 戦後沖縄における米軍政府の保健医療政策の 検証, 科学研究費補助金研究成果報告書, 課題番号 (),  , . . 2) 照屋寛善著 「戦後沖縄の医療−私の歩んだ道から−」 第1章 沖縄医療界の危機,

(216)   メジカルフ レンド社, 東京,  . 3) 沖縄県環境保健部予防課:長寿のあしあと 沖縄県 長寿の検証記録 第1章終戦直後の沖縄の医療 と公衆衛生のあゆみ, 第2章医療従事者の育成,

(217) , 沖縄県, 沖縄,  . 4) 沖縄県立コザ看護学校年表:記念誌, 沖縄県立コザ 看護学校創立周年記念事業期成会:

(218)   ,  . 5) 真玉橋ノブ:沖縄における看護制度の移り変わり, 琉球看護婦協会創立 周年記念誌,

(219)   ,  .. 美津枝. ほか. . 6) 高屋澄子, 玉城清子:助産学科の教育の変遷, 仲里 幸子編集, 沖縄県立那覇看護学校閉校記念誌,

(220)  ,  . 7) 新垣キミ子, 大城弘子:沖縄における助産婦教育の 変遷, 日本看護協会助産婦部会沖縄県支部,  周 年記念誌,

(221)   ,  . 8) 大城宏美:沖縄における助産婦,

(222)  , 琉球 看護婦協会創立 周年記念誌,  . 9) 稲福盛輝編:沖縄の医学<医学・保健統計資料編>

(223)    考文堂,   .  ) 大城宏美:戦後の開業助産婦再教育, 沖縄の看護 協会 年,

(224) . , 日本看護協会沖縄県支部,  . ) 古堅キヨ:協会設立雑感, 日本看護協会助産婦部 会沖縄県支部 周年記念誌,

(225)  ,  . ) 福地曠昭:産婆さん,

(226)  ,  , ひるぎ社, 沖縄,  . ) 武田栄子:いくさ世にいのち支えられて, 沖縄戦 を生きた助産婦の記録,

(227)   , ドメス出版, 東 京,  . ) 沖縄助産婦協会:創立 周年記念誌,  . . ) 日本看護協会助産婦部会沖縄県支部:会員の思い 出,

(228)  ,  周年記念誌,  . ) 森山シズ:私の戦後史助産婦生活一筋に 沖縄タ イムス1月,  . ) 仲村美津枝:沖縄県の助産師の歴史−戦前戦後の 歴史的変遷から見えてきたもの−, 助産師()   , . . ) 上村聖恵:高知と沖縄とワーターワースさんと私 沖縄の看護協会 年 日本看護協会沖縄県支部

(229)  ,  .  ) 与儀千代子:看護協会の発展とワーターワース女 史, 沖縄の看護協会 年 日本看護協会沖縄県支 部

(230)  ,  .  ) 沖縄県環境保健部:医事概要 昭和年,  . ) 沖縄の臨床看護研究会:第4章 先輩看護師を訪 問して, 沖縄の臨床看護のあゆみ,

(231)   , . . ) 照屋寛善:戦後の助産婦事業をたたえる, 日本看 護協会助産婦部会沖縄県支部 周年記念誌,

(232)  ,  . ) 沖縄県環境保健部予防課:衛生統計年報 (人口動 態統計編) 昭和 年,  ,  . ) 看護行政研究会監修:平成版看護六法, 新日本 法規,

(233) , . . ) 看護行政研究会監修:平成版看護六法, 新日本 法規

(234)  , . . ) 医道審議保健師助産師看護師会分科会:保健師助 産師看護師国家試験制度改善部会報告書, , . 

(235) ) 与儀千代子:職務を通して看護の歴史を振り返る, 日本看護協会看護婦部会沖縄県支部  周年記念.

(236) . 戦後本土で免許を取得した助産師の軌跡. 誌   ,    ) 稲福盛輝著:沖縄の医学<母子保健編>第2編人 口動態から見た母子保健 . , 考文堂,     ) 沖縄県環境保健部予防課:沖縄の母子保健, .

(237)  . ) 沖縄県環境保健部予防課:沖縄の母子保健, .

(238)  . ) 沖縄県環境保健部予防課:沖縄の母子保健,    . ) 沖縄県環境保健部予防課:衛生統計年報 (人口動 態統計編) . ) 沖縄県環境保健部予防課:沖縄の母子保健,  . .

(239)

参照

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