琉球・来間島の家族慣行と祭祀組織
─「法的慣行」としての「伝承」とその解釈的構成─(その1)林 研 三
はじめに 1.来間島の概況 2.世帯と婚姻 (1)世帯類型と世帯の状況 (2)婚姻と転出入世帯 本稿の資料は2001年度から2004年度までの調査によって得られたものであり、現在の 宮古島市が成立する以前の来間島を対象としている。さらに本稿は『沖縄における近代 法の形成と現代における法的諸問題』(科学研究費補助金[課題番号13302001/基盤研究 (A)/研究代表田里修]による研究成果報告書・2005年3月刊)に掲載された拙稿を加筆 修正したものである。はじめに
本稿は、宮古諸島・来間島での家族・親族関係の展開、及び当地 のブナカと呼ばれる三つの祭祀組織、そのブナカの始祖とも伝承さ れている家でとり行われるヤーマスウガンについての考察を行う。 このことは当地の「島建て神話」や多くの「神々」等についての 「伝承」が、来間社会の構成にどう関わっているかを考察すること にもなる。「伝承」を民間信仰や祭祀儀礼のレベルに押しとどめる ことなく、当該社会存立の中軸となる家族・親族・祭祀組織と関わ 3.親族関係の事例(以上本号) 4.祭祀組織ーブナカとヤーマスウガン 5.若干の分析 おわりにらせながら論じようとするものである。 こういった家族・親族と祭祀組織の関係は、先行する沖縄研究で は常に試みられてきたが、そのなかには沖縄本島での門中組織と それに関する儀礼との関連を問う論稿が少なくなかった。確かに、 門中は沖縄社会での一つの特色であり、日本本土の同族と門中、あ るいはその構成単位としての家とヤーの比較研究も行われてきてい る。しかし、沖縄の家族や親族が門中によって語り尽くされるわけ ではないし、ましてや沖縄本島と、本稿の対象とする宮古諸島を含 む先島諸島との差異も無視できないことはいうまでもない。 沖縄本島や先島諸島での村落・家族・親族・祭祀等についての多 くの先行研究は、社会人類学・文化人類学や民俗学、あるいは地理 学や歴史学の分野で盛んに行われきた(1)。それに対して、近代法制 史学や法社会学での沖縄研究では、現代の基地問題や農業水利権等 についての論稿を別とすれば、明治期の「旧慣温存政策」や「土地 整理事業」等についての研究が目立つようである(2)。 しかし、前者の諸分野での、特に人類学や民俗学での多くの研究 においては、本稿の対象でもある様々な儀礼や慣行が論じられては いるが、それらの社会規範としての実効性に注目して、当該社会の 構成を論じたもの、あるいは現代におけるそれらの変容過程に焦点 をあてた論稿は少ない(3)。どちらかと言えば、各地の基層文化や社 会構造の「原型」抽出に焦点があてられ研究が従来は多かったよう である。 他方の法社会学の分野では、その分野の性格上法や慣行に留意し ているとしても、村落社会での慣行や儀礼等を現在の沖縄社会の問 題として、あるいは現在の村落社会における実効性のある社会規範 として、すなわち当該村落社会の存立構造との関係性の観点から論 じた論稿は多くはない(4)。近代法制史研究では、先の「土地整理事 業」のような公式法上の問題点に精力が注がれる一方で、法社会学
研究では、基地問題などに関連する現代的な諸問題が注目される趨 勢は否めない。 本稿では、当地の概要や家族・親族関係の展開を論じた後で、現 在も実行されている慣行や儀礼を考察する。そして、当地への転入 者・婚入者や「帰郷した他出者」の取り扱いを事例としてとり上 げ、転入者や帰郷者とともに変容する来間社会、その来間社会を構 成する慣行・儀礼の「法的慣行」としての「実効性」に注目する。 その「実効性」をもたらす背景には、当地の「始祖伝承」があるこ とを本稿では想定しているのだが、ここから「法的慣行」として多 様な要因を内包する慣行・儀礼と、家族や親族、さらには当該社会 との関係を論じる契機を模索していくことになろう。 言うまでもなく、「法的慣行」(5)は末弘厳太郎の用語であるが、 本稿では様々な慣行や儀礼が、当該社会を規律・構成しつつ、その 社会構成の変容とともに自らも変容していく過程を示す言葉とし て用いたい。慣行と儀礼、そして来間社会を、その基軸を「始祖伝 承」に求めながら、解釈的に構成しようとする意図がそこには含ま れている。
1.来間島の概況
来間島は沖縄県・宮古本島の南西約1.5キロメートルに位置し、周 囲6.42キロメートル、面積2.83平方キロメートルの離島であり(図 (1)参照)、島内では一集落が成立している。明治41年の島嶼町村 制によって、来間は他の下地間切の川満、上地、洲鎌、与那覇、嘉 手苅などとともに下地村を形成した。戦後下地村の一部は上野村と して分離したが、昭和24年には町制が施行され現在に至っている。 離島のため往時は宮古本島との往来にはサニバと呼ばれる船が利用 されていた。サニバは来間と宮古本島の与那覇前浜間を行き来していたというが、5,6人から10人程度の人員が乗船できるにすぎ ず、さらに漕ぎ手が3,4人は必要であったので、常時本島との間 を往来できたわけではなかった。 その後、1950年に来間在住のK氏が発動機船を購入し、来間と平 良市との間の就航を開始した。また、1972年の本土復帰に際して 「復帰丸」が国の援助を受けて就航した。さらに、港の整備が進め られると1978年1月からは定期船「フェリー来光丸」(定員29名 18.96トン)が運航され、不定期船の「はやぶさ」、「サンマリー ナ」も就航することになり、サニバ時代と比較すると定期的でかつ 頻繁な往来が可能となった。しかし、1995年に宮古本島との間に来 間大橋が完成すると、自動車による往来が可能となり、これらの就 航船は姿を消すことになる(6)。 このような離島という条件下のため、来間では各種の公共事業も 1960年代以降に順次実施されたにすぎない。例えば、電話が開通し たのは1964年12月30日であり、それ以前は急用の場合は電報を用い 図(1) 先島諸島と宮古島 宮古島 来間島
— 41 — ていた。電報の場合も本島の下地町の郵便局まで行かなければなら なかった。また、来間の各戸に電気が送電されたのは1969年10月8 日であった。それ以前は長い間ランプ生活が続いていたが、1947年 頃に発動機を購入した者がおり、その自家発電によって各戸に送電 していたが、それも一日のうちの夜の3,4時間と限られた時間で あった。 電話や電気以上に深刻な問題を孕んでいたんが水の問題であっ た。1日に何回も来間井戸から水を汲んでくる必要があっため、 1920年代以降に各戸ごとの飲料水タンクの設置がはじまり、戦後の 1961年にやっと簡易水道が布設された。この簡易水道というのは井 戸の水を貯水タンクに汲み上げ、そこから集落内の三カ所に設置さ れていた共用栓に送水するというものであった。 しかし、この方法は干魃の際に井戸の水がかれればば役立たなく なることは言うまでもない。そこで1971年以来宮古本島との間に来 間島海底水道を設置することによって、この水問題を解決しようと した。1976年4月にこの水道事業が完成し、各戸への給水が開始さ れた(7)。 来間島の集落は、2001年現在、宮古郡下地町の10行政区の一つを 構成している。この10行政区とは旧来の来間・与那覇・上地・洲 鎌・入江・嘉手苅・高千穂・川満の各地区と、新たな上地団地と川 満団地である。表(1)は2001年3月末日現在の各行政区の世帯数 と人口を示したものであり、表(2)は下地町全体と来間の過去約 20年間の人口と世帯数の推移を示したものである。 表(1) 各集落の人口と世帯数(2001年3月末日:「町勢要覧」) (来間) (下地町) 男 女 計 世帯数 男 女 計 世帯数 1983年 1987年 1996年 2001年 97 92 94 107 108 98 90 98 205 190 184 205 76(2.7) 76(2.5) 79(2.3) 87(2.3) 1525 1492 1555 1594 1558 1545 1633 1703 3083 3037 3188 3297 883(3.5) 944(3.2) 1110(2.9) 1181(2.8) 川満団地 上地団地 川満 高千穂 嘉手苅 入江 洲鎌 上地 与那覇 来間 121 116 237 60 180 201 381 100 141 166 307 118 79 74 153 65 54 86 140 89 107 105 212 75 188 194 382 149 288 312 600 191 329 351 680 247 107 98 205 87 男 女 計 世帯数
札幌法学 25 巻 1 号(2013) さらに表(3)は来間での農家数の推移を示している。近年の来 間の農産物ではサトウキビが中心であるが、最近では葉タバコやマ ンゴ栽培に従事する農家も増えてきている。表(4)は作付け面積 の作物種類別面積と飼育されている肉用牛の頭数及びそれを飼育し ている農家数の推移を示したものである(「2000年世界農林業セン サス」より)。 下地町での各行政区では部落会長(区長)が選任されているが、 各部落会は町との事務委託契約を締結し、部落会長は「部落を統括 し、部落の予算決算、財産管理、部落行事等を行う執行機関的役割 を果たす職責にある」とされている(8)。 来間地区でも部落会が構成されており、任期1年(4月から翌年 非農家 専業農家 第一種兼 第二種兼 農家総数 作付け面積(a) 1980年 1990年 2000年 1980年 1990年 2000年 18 28 27 39 35 39 6 12 5 16 2 6 61 49 50 10412 6241 7648 表(3) 来間の農家数の推移 いも類 工芸農作物 野菜類 飼料用作物 その他 農家数 頭数 308 142 45 7246 4653 7315 1664 705 288 1194 731 0 0 10 0 38 28 13 193 76 67 表(4) 来間の作物種類別面積(単位:a)と飼育肉用牛数 表(1) 各集落の人口と世帯数(2001年3月末日:「町勢要覧」) (来間) (下地町) 男 女 計 世帯数 男 女 計 世帯数 1983年 1987年 1996年 2001年 97 92 94 107 108 98 90 98 205 190 184 205 76(2.7) 76(2.5) 79(2.3) 87(2.3) 1525 1492 1555 1594 1558 1545 1633 1703 3083 3037 3188 3297 883(3.5) 944(3.2) 1110(2.9) 1181(2.8) (括弧内は一世帯あたりの人数) 表(2) 来間と下地町の人口と世帯数の推移(「町勢要覧」、「下地町誌」、「下地町50周年記念誌」) 121 116 237 60 180 201 381 100 141 166 307 118 79 74 153 65 54 86 140 89 107 105 212 75 188 194 382 149 288 312 600 191 329 351 680 247 107 98 205 87 男 女 計 世帯数
3月まで)の「部落会長」が毎年3月に選出されている。この部落 会長が会計担当の幹事を選出する。さらに当集落では地域的に1組 から4組までに区分されており、それぞれの組で各組長が毎年選出 されている。 1960年度以降の現在までの来間部落会長名を表(5)に記してお く。見られるように、40歳代という中堅クラスの部落会長が多いよ うである。部落会としての共同作業は年3回から4回ある。道路な どの清掃作業が行われているが、そのうちの1回はカーカスと呼ば れる来間井戸の清掃作業である。この共同作業には通常は各戸から 1名が集まる。部落会の常会は不定期に開催されているが、高齢者 のみの世帯では「もうトシだから出席しないし、しなくても何も言 ってこない」という。
2.世帯と婚姻
(1)世帯類型と世帯の状況 前節の表(1)で見たように、2001年3月末日現在では住民票上 は87世帯が来間に在住していることになるが、今回の調査の最終年 の2005年3月までに確認できた限りでは現住世帯数に多少の異同が ある。まず、住民票上では在住していない世帯でも実際には居住し ている世帯がいる。逆に住民票上は在住しているが、「福祉施設」 等への入所などによって現住していない単身世帯が3世帯ある。 2001年から2005年3月までの間に当地出身の夫が死亡したため、妻 (宮古本島出身)が転出した世帯が1世帯、さらに2003年9月の台 風によって借りていた家屋が崩壊したため転出した世帯も1世帯存 在する(当該居住者は日本本土からの転入者)。 来間には日本本土からの転入者も少数であるが居住しているが、 その中には住民票は当地にあるが常時の在住が確認されなかった1960年度 1961年度 1962年度 1963年度 1964年度 1965年度 1966年度 1967年度 1968年度 1969年度 1970年度 1971年度 1972年度 1973年度 1974年度 1975年度 1976年度 1977年度 1978年度 1979年度 1980年度 1981年度 1982年度 1983年度 1984年度 1985年度 1986年度 1987年度 1988年度 1989年度 1990年度 1991年度 1992年度 1993年度 1994年度 1995年度 1996年度 1997年度 1998年度 1999年度 2000年度 2001年度 2002年度 2003年度 2004年度 洲鎌純吉(没) 仲宗根金市 大浦 撤(没) 洲鎌純義 具志堅実 奥平清忠 来間栄一(没) 西平正一(没) 池間金三(没) 洲鎌金次郎 川満 茂 砂川恵敷 上地滋男 保良春栄 国仲喜八郎 国仲昌仁 大浦撤(没) 大浦撤(没) 大浦撤(没) 大浦撤(没) 大浦撤(没) 狩俣弦幸(没) 狩俣弦幸(没) 国仲喜八郎 来間好成 砂川輝夫 砂川輝夫 新城清一 保良勇(没) A(没) B B B B B B C D A(没) E F G H I J 36歳 32歳 36歳 44歳 48歳 36歳 38歳 46歳 55歳 45歳 64歳 42歳 49歳 50歳 45歳 43歳 44歳 45歳 46歳 47歳 48歳 54歳 62歳 48歳 39歳 41歳 53歳 年度 氏名 就任当時の年齢* 表(5) 部落会会長(1988年度までは『下地町誌』97∼100頁から引用。*での空欄は不明)
者もいる。後述するように、世帯上は別であるが1戸に同居してい る親夫婦と子夫婦も存在している。そこで、実際に常時居住してい る世帯を戸数単位に換算してみると82戸(世帯)となる(アパー ト式町営住宅に居住している8世帯を8戸として算出した。事実婚 夫婦は住民票上は2世帯であるがここでは1世帯としてカウントす る)。このうち9戸(9世帯)は本土出身者による世帯である(他 に本土出身者の家屋が2戸存在するが、常時の居住如何は確認でき なかった)。 前掲の来間小・中学校編『九十年誌』によると、1985年現在の来 間の在住戸数(世帯数)は77戸(78世帯)であった。この77戸のう ち2004年9月現在までに10戸が空屋または屋敷地のみとなっている が、この10戸のうち1戸は当集落の者に売却され、現在は本土出身 者が賃借している。それ以外にも当集落出身者や本土出身者が賃借 している家屋、本土出身者の「別荘」とされている新たな家屋が数 戸存在している。さらに77戸のうちには、1985年当時には実際には 家屋のみが存在していたにすぎず、後述のヤーマスウガンの時にの み帰島していた世帯も存する。この世帯は平成7年の来間大橋の完 成後に帰島した。 各居住戸には屋号がついている場合が多いが、今回の調査で判明 した屋号と地番を表(6)に記しておく(9)。 前述のように現住82世帯のうち9世帯は本土出身者の転入世帯 であるので、本節では除外し、以下では残りの73世帯について記 述していく。 まず73世帯を同居世代・構成員別に分けた類型を表 (7)に記しておく。 単身世帯と夫婦のみの世帯が計48世帯にのぼり、全体の約65.8パ ーセントを占めている。単身世帯のなかでは配偶者の死亡による単 身世帯は17世帯、島外で結婚していたが単身で帰郷した者の世帯が 3世帯、離別による単身世帯が1世帯あり、他は婚姻経験のない者
による単身世帯である。また、夫婦世帯のなかには当地出身者同士 の再婚によるものが一世帯含まれているし、事実婚夫婦と思われる 夫婦が2組存在していた。これらⅠ-a・bの世帯主の子の多くは島 字来間3番地 8番地 9番地 11番地 15番地 18番地 19番地 20番地 20番地 23番地 24番地 25番地 28番地 32番地 33番地 35番地 36番地5 39番地 41番地 44番地 47番地 48番地 49番地 50番地 52番地 54番地 55番地2 56番地 59番地 イズニャー メーズ イズヌヤー ンニマ メーヌヤー マイガー ンケーズ マイバランケー ズナンヤー サヤフヤー カバニャー ンケープクミャー (ムケプクミャー)* アガズピャー ンカンミャー イディフツ (タイワンヤー)* ンマヌバ ナカヤー ヤーマスヤー カーンツチャーガマ ヤイヤヤー マイバラヤド マイバラカーンッチャー メーヌピャー アガズニャー アカズ イズバリヤー ムサーマヤー アガズバランケー マイガフツ 60番地 64番地 65番地 69番地 70番地 79番地1 80番地 89番地 90番地 91番地 93番地1 128番地4 129番地 130番地 263番地8 264番地3 265番地2 369番地4 369番地9 370番地1 372番地 373番地 374番地 377番地 378番地 379番地 383番地2 383番地6 383番地9 480番地 (アガズバラ)ジャーヤー ツクヤー ウプヤー プクミャー(フクシャー)* スムリャー バソーナカ プカーテ(プクアティ)* シバラカーンッチャー シバラヤド ウイニャー ガーラヤー ギラミーヤー マムヤー アガズピャーガマ マンシューヤー カンドヌヤー ゼントクヤー エイチヤー アカンツ ナスチャヤー ウプガニヤー スシエーテェー ンミッシャー ウヤキャーガマ イズヌピャー キンジローヤー サンナンヤー ショージンヤー マツヌヤー ホウゾーヤー (地番) 屋号 世帯主(地番) 屋号 表(6) 現世帯主名と屋号(*は同書記載屋号と異なる聞き取り調査結果)
外に他出しており、当地内に子の世帯が分出している親世帯は二例 のみである。 世帯主夫婦とその孫からなるⅡ-cの二世帯のうちの一世帯は、 世帯主夫婦の婚出した子が死亡し、その子の配偶者は日本本土に他 出したままなので、子の子である孫を引き取った結果であり、他の 一世帯ではやはり世帯主の子が他出したままなので(「旅に出てい る」と述べていた)、その子の子(孫)を引き取っている。 このような世帯主と孫の世帯は現在の単身世帯のなかにもかつて は見られた。その一例は世帯主A(1910年代生)の場合である。A の子は一度は結婚し、子(世帯主Aの孫)を生んだが、後に離婚し 双方とも沖縄本島に他出し、再婚したので、Aがその孫を幼少期か ら引き取って育てていた事例である。この事例では孫が成人後結婚 し一時はAと同居していたが、Aと孫の配偶者との「折り合いが悪 くなった」ので孫夫婦が宮古本島に他出した結果、Aのみの単身世 帯となったのである。 表(7)世帯類型 同居世代 Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ 世帯類型 a b a b c d e f g a b c 単身世帯 世帯主夫婦のみの世帯 世帯主夫婦と未婚子の世帯 世帯主夫婦とその親の世帯 世帯主夫婦とその孫の世帯 世帯主とその未婚子の世帯 世帯主とその親の世帯 世帯主と子夫婦の世帯 世帯主と親と姉の世帯 世帯主と親と子夫婦の世帯 世帯主と子と孫の世帯 世帯主夫婦と子夫婦と孫の世帯 世帯主と親と子夫婦と孫の世帯 25世帯 23世帯 9世帯 1世帯 2世帯 5世帯 1世帯 1世帯 1世帯 1世帯 1世帯 2世帯 1世帯 世帯数 計 48 20 4 1
さらに、傍系親族を含むⅡ-gの世帯の場合は以下のような形成 過程を経ている。すなわち、世帯主B(1950年代生)はかつては宮 古本島で結婚していたが、離婚後に帰郷した。しかし、Bの実兄が 結婚後生家で生活していたので、Bが実母と実姉を伴って分出した のである。 このように他出した者が帰郷する例は当地では少なくない。Ⅱ -d・Ⅱ-eの親子世帯のうちでも子が帰郷した結果である世帯も存す る。例えば、世帯主C(1950年代生)は沖縄本島で八重山諸島出身 の女性と結婚していたが、単身で帰島し実母と同居している。 世帯主D(1930年代生)の世帯も今回の調査時(2002年)にはそ の母親と同居していた。Dは当地出身の女性と結婚していたが、死 別した。後に宮古島本島出身の女性と再婚し宮古島本島の平良市に 居住していたが、数年前に単身帰郷した。そして2003年に母が死亡 したので、2004年9月現在は単身世帯となっているのである。 世帯主E(1930年代生)の父は島外出身者であったが当地出身の 母と結婚し、当地に居住していた。E自身は「ユラリモノ」と言わ れていた。「ユラリモノ」とは「あっちに行ったりこっちに行っ たりしている者」という意味であるという。その言葉が意味して いるように、Eは早くから他出していたが、「約10年前に戻ってき て」、現在は妻子とともに暮らしている。 73世帯のうちで前述のB・Eの世帯を含め、現世帯主が、自らの 父母、あるいはその配偶者の父母が居住していた家屋から分出した 世帯は21世帯ある。このうちアパート式の町営住宅に居住する世帯 は6世帯あり、残りの15世帯のうちの12世帯がヤーモト(本家)か らパズリファ(分家)したとされている。この12世帯の世帯主の 平均年齢は約80.8歳(2004年現在、以下年齢については同じ)であ り、町営住宅に居住してる6世帯の世帯主の平均年齢は約46.5歳で ある。
前者の平均年齢と後者の平均年齢はほぼ1世代のひらきがある し、町営住宅に居住している世帯主のなかにはその親夫婦(表(7)の Ⅰ・bに含まれる)だけの世帯が当地に存している例が2例ある。こ の2例を例外と見るか、あるいは新たな居住形態の萌芽と見るかに ついては、ここでの早急な結論は控えたいが、少なくともここ1, 2世代のうちでの分出世帯がこの21世帯を含めた計31世帯(現世帯 主が2世代目の世帯である10世帯を含む)あり、73世帯の約42.5パ ーセントを占めていることは留意しておきたい。このことはすぐ後 に述べる通婚圏に関連する婚入者の生家のその後の動向とともに、 当地の居住者の近年の流動性を示唆するからである。 (2)婚姻と転出入世帯 ここで婚姻・出産慣行について若干述べておこう。まず、当地で の伝統的な婚姻儀礼についてであるが、今回の調査ではさほど明確 な儀礼は聞き取れなかった。そこで、本稿では1912年生まれの女 性が結婚・出産した時の様子について、彼女からの簡単な聞き取 り調査の結果を記しておく。彼女は18歳の時に結婚したが、夫は第 二次大戦中に戦病死している。当地では結婚式はササギと呼ばれて おり、彼女の結婚に際しては花婿を含む男家の人が「酒、食べ物を たくさんもって家にきて踊った」し、男家にも女家の「人が酒、食 べ物をたくさんもって行き、やはりみんなで踊った」が、双方とも 「潮が満ちている時に行った」。 その後でやはり「潮が満ちている時に」彼女(花嫁)は夫(花 婿)の家に行ったが、「家に入る時には、タライに塩と水を入れて 手足を洗ったし、その家の仏壇を拝んだ」という。ここではこの 「満潮時」ということが強調されているようで、子の出産について も「潮が満ちている時に生むのがよい」とされている。子の出産は 婚家で行ったが、「へその緒」は「家の庭に埋めた」。子が生まれ
てから10日以上経過してから「日ヒ カ ズ数のいい日」に命名するが、2歳 までに死亡した場合はその遺体は「松の木の下に埋める」という。 次に前述の73世帯への婚入者の生家(出身地)を見てみよう。上 記の現世帯主が分出した21世帯を除く52世帯では、現世帯主以前の 世代での婚入者がいたことになる。それらの婚入者の生家を世代別 に算出することも可能であるが、前述のように分出世帯の世帯主の 年齢自体に大きな幅がある。その年齢差を無視して世帯主の世代別 の通婚圏を明示することは、通婚圏の通時的傾向を見るうえではさ ほど意味があるとは思えない。 そこで本稿では年齢層(コーホート)別に婚入者の出身地を示し ていく。当該の婚入者がすでに死亡し、他方の配偶者が生存してい る場合は、その生存配偶者を人数に入れた(3例)。また、通婚圏 は一般には婚入者の出身地によって指示されるが、本稿では出身地 と婚姻前の当該者の居住地が異なる場合にはその居住地を示すこと にしたい。 さらに離婚(あるいは別居)者の場合もかつての婚入者の出身地 (ないし婚姻前居住地)や年齢が明らかな場合は、その者を含め、 婚入者の年齢が不明な場合(1例)は、当地に居住する他方配偶者 の年齢から想定されるコーホートに組み入れた。また、再婚者につ いては初婚の場合のみを扱うが、初婚夫婦がともに死亡し、後妻の みが生存している場合(1例)はその生地を「参考資料」の意味で 記載した。 なお、当地には外国籍(フィリピン)の妻が6人いるが、彼女ら の年齢については今回の調査では不明な部分が多いので、その夫の 年齢を別途に表(9)に記することにした。表(10)は表(8)・ (9)をまとめて表示したものである。
表(8)での「生家転出」にはヤドーリ(10)を含むが、表(8)の コーホートBには「沖縄本島出身者1名」が含まれている。これは 当地出身者が沖縄本島に居住していた時に結婚した事例であり、現 在本人は帰郷しているが、沖縄本島出身の配偶者は当地には不在で ある。また宮古本島の城辺町出身の1名は上記の「参考資料」に該 当するもので、これら2名を除くとBでの実質的な内婚率は95.5パ ーセントである。 この数字を採用するとAからDに至るコーホートでは漸次内婚率 は低下していることになるが、AからCまででは内婚率は9割を超 表(8) 生年ごとの婚入者出身地(転出にはヤドーリを含む。婿養子数は内数。城辺町は宮古本島の自治体) cohort A B C D E F G 生年 1911∼20 1921∼30 1931∼40 1941∼50 1951∼60 1961∼70 1971∼ 人数 15 (婿養子1) 24 (婿養子3) 13 10 (婿養子1) 3 1 4 出身地(居住地) 当地出身者率(%) 100 87.5 (95.5) 括弧内の数字について は下記参照 92.3 80.0 0 0 0 当地15(生家転出4) 当地21(生家転出9) 下地町(来間以外)1 城辺町1 沖縄本島1 当地12(生家転出2) 平良市1 当地8(生家転出1) 平良市2 下地町(来間以外)1 城辺町1 不明1 日本本土1 日本本土4(内1名は推定) 表(9) フィリピン籍の妻の夫の生年 表(10) 婚入者出身地(婚姻前居住地) 生年 1931∼40 1941∼50 1951∼60 1961∼70 1971∼ 当地 56 平良市3 下地町(来間以外)2 城辺町2 日本本土5 沖縄本島1 フィリピン5 不明1 人数 1 1 1 1 1
— 52 — えている。C・Dにおいては「平良市出身者」が見られるが、これ らのうちCでの「平良市出身者」1名の実際の出身地は多良間島で あり、彼女は「平良市で働いている時」に現在の夫と知り合って、 結婚後夫の出身地である当地に「戻ってきた」のである。いずれに せよ、「平良市出身者」がC・Dのコーホートに存することは、当 時における当地と平良市の間での交通・交流を示すことになろう。 1951年以降の出生者についてみると、その実数は極端に低下する とともに、村内婚率は0パーセントである。このことについては、 以下での2事例によっても示されている。 (事例1)、(事例2)ともにエゴは1930年代生まれである。そ れぞれ長男、次男の違いはあるが、ここで注目したいのはそのキョ ウダイと子のそれぞれの所在地である。エゴのキョウダイの世代で は当地内での婚入者や分出者もいたが、その子には当地に在住する 者や当地で婚入した者は皆無である。 (事例2)ではエゴのヤーモトになる長男B(没)の息子も転出 し、現在は那覇市に在住している。これらのエゴの子の年代がほぼ 1950年代以降の出生者に該当するのである。このエゴ世代と子世代 △=○ △=○ ▲=○ △ △=○ ) 在 島 本 縄 沖 ( ) 在 阪 大 ( ) 入 婚 地 当 ( 在 町 地 下 ) 入 婚 地 当 ( ) 入 婚 地 当 ( ○ △= ○ 旧下地町在 A 沖縄本島在 旧下地町在 伊良部島在 ○ ○ (当地在) (事例2)現住地の事例 エゴ(▲ 次男 1930年代生) (事例1)現住地の事例 エゴ(▲ 長男 1930年代生) (分) △= ○ ▲=○ ○=△ ○=△ C△=○ B (当地婚入) (当地婚入) (当地在) △ △ ○ ○ △ △ ○
琉球・来間島の家族慣行と祭祀組織(林) の間には太平洋戦争があり、子世代の成人期は日本の高度経済成長 期にあたることなどが、このような差異をもたらしているのかもし れない。 そして、1960年代以降の出生者については日本本土出身者が見ら れるようになる。表(8)のコーホートF・Gでは計5名と表示さ れているが、この5名以外にもう1名の本土出身者がいる。この1 名はその夫や子ともに下地町川満団地に居住しているが、夫婦で当 地の夫の親のもとにほぼ毎日通っており、夫は当地で農業に従事し ている。彼女の生年は表(8)のGに該当するので、F・Gの実数 は計6名が実態に近い数字となろう。 このような本土出身者の存在とともに、上記に記したような世帯 単位での本土からの転入者が見られるようになったのは最近のこと である。そして、コーホートDとF・Gの間隙を埋めているのが表 (9)で示したフィリピンからの婚入者であった。つまり、当初は 村内婚が多かったが、1940年代以降の出生者になるとその割合は低 下していき、それに伴ってフィリピン出身の女性の婚入がはじま り、その後に本土出身者が増加していったのである。 最初の本土出身の婚入者はS氏(1960年代生)であったが、彼女 とその夫の経営するマンゴ農場へのアルバイト女性のなかから当地 に婚入した者もいる。彼女の説明によると、「来間大橋ができて、 △=○ △=○ ▲=○ △ △=○ ) 在 島 本 縄 沖 ( ) 在 阪 大 ( ) 入 婚 地 当 ( 在 町 地 下 ) 入 婚 地 当 ( ) 入 婚 地 当 ( ○ △= ○ 旧下地町在 A 沖縄本島在 旧下地町在 伊良部島在 ○ ○ (当地在) (事例2)現住地の事例 エゴ(▲ 次男 1930年代生) (分) △= ○ ▲=○ ○=△ ○=△ C△=○ B (当地婚入) (当地婚入) (当地在) △ ○ △=○ ○ ○ ○ △=○ 当地在 (那覇市在) 平良市在 那覇市在 平良市在 平良市在 那覇市在 △ △ ○ ○ △ △ ○
収入が増えたことが」小さくない影響を及ぼしており、「橋がなか ったら、ヤマトから(嫁は)来なかっただろう」という。実際彼女 以外の本土出身者は来間大橋完成後の婚入である。 表(8)で注目されるのは、当地出身の婚入者生家のうち16戸 (世帯)がその後転出ないしはヤドーリしていることである。前述 のように、ここ1,2世代では31世帯が新たに分出し、さらに9世 帯が本土からの転入世帯である。この分出・転入世帯のうち8世帯 は当地に新たに建設された町営住宅に居住しているのであるが、こ れを差し引いても32世帯が増加していることになろう。 これらと表(8)でのE・F・Gでの通婚圏の状況をも併せて勘 案すると、近年の当地での居住世帯の入れ替わりの多さは否定でき ないのではないだろうか。このような「入れ替わり」は転入者を受 け入れる土壌が当地にあることを意味しており、しかもその土壌は 最近生み出されたものではないと思われる。このことは次の事例に よっても示されていよう。 (事例3)のエゴの父母A・Bはすでに死亡しているが、Aは 「約100年前」に下地町から転入したと言われている。彼は当地出 身のBと結婚し、エゴが生まれたのであるが、Aがどのような経緯 で転入したかは明らかではない。しかし、転入者であることはエゴ 本人や当地の人々も認めているところである。 (事例4)のA・B夫婦は宮古本島の上野村のカーラバリという 集落に居住していたが、「親とケンカして出てきた」という。そし て夫婦で当地に転入してきたのである。彼らは後に「この島の議員 さんと話をして畑をもらい」定住した。その子Cは当地出身の女性 と結婚し、現在はCの子Eが世帯主である。 このように当地で妻帯した者以外にも、戦前は多良間島からの転 入者が約10名ほどいたことが今回の聞き取り調査によって知られて いる。彼らは当地在住者の「畑を耕して、住居と食べ物を与えら
れていたり」、近辺の「海で魚をとってきて、それを売って」生 活をしていたと言われている(11)。彼らの来住については「この島 は粟、麦、芋、豆や在来種のサトウキビなどがよくとれたので、自 給自足ができた、だから多良間の人もよく来た」と説明されていた が、現在までその子孫が残留していることはない。しかし、そうで あっても戦前のこのような転入者の存在は、当時からそのような転 入者を受け入れる土壌を当地が有していたことを意味していよう。
3.親族関係の事例
本節では、まず当地での民俗的な親族名称を提示しておこう。父 (事例3)転入者の事例Ⅰ:(エゴは1920年代生▲・●は当地居住者) (事例4)転入者の事例Ⅱ(Eは1940年代生 ▲・●は当地居住者) △ C B ○ = △ A (当地在、後に転出) エゴ ▲ = ● ●=▲ (当地在) △ △ ○ ○ ○ (八重山) (埼玉県) (神奈川県) (沖 縄 本 島) A △=○B △=● D ▲=● C ▲=● △ ○ E▲≠○ (沖縄本島) ▲=● ▲はウヤ、母はアンナ、姉はアンガ、兄はアジヤ、弟や妹などの年 下の者はウトゥト、甥や姪はまとめてミゥー、舅はスタサァ、姑は ストゥマ、さらにおじいさんはシュウー、おばあさんはパーマ、男 はピィキドウン、女はミドウンとも言われている。これら以外にも 「血のつながり」をピィキ(ピィーツ)、「系統」のことをサニや ダニと言うが、このヒキやサニ、ダニについては後述したい。 前節でもふれたが、過去1,2世代での当地のヤーモトとパルデ ィファの関係(便宜上以下では「本分家関係」として記する)は 22例存在する。それ以前の世代からの「本分家関係」で今回の調 査で確認できた例は4例である。 町営住宅に居住する8世帯のうち、日本本土出身者の世帯は2世 帯、当地在住の親のみの世帯と分離した子世帯が2世帯、親が他の 子(孫)や他の子世帯と生家で同居している子世帯が3世帯であ る(12)。これら町営住宅に居住する子世帯を「分家」(パルディフ ァ)と見なすかどうかについては若干の留保を必要とするので、先 の22例には含めていない。次の表(11)は今回の調査で確認できた 「本分家関係」である。 この26例のうち3世代以上を経過している4例については、その 世代継続数は明確ではない。さらに表中のno.24については多少の 説明が必要となろう。no.24の「分家」世帯主Xの父はno.8の「分 家」世帯主Hと兄弟であるので、通常ならばXとHは同一のヤーモ トを有することになる。しかし、Xの父(前世帯主・没)はN.Se (no.24)の父の姉と結婚し、その後数年間は妻の生家(no.24)で 同居し、そこの農業を手伝っていた。これは当時N.Seが「幼少で あったため」とされていた。 その後、Xの父は妻の生家から農地を分与されて分出世帯を形成 した。従って、彼はその生家からではなく、妻の生家から「分家」 したものと認識されているのである。このような例は当地では「珍
しい」とされているが、血縁関係ではなく、農地分与が「本分家関 係」の構成要因となっている事例としてあげておきたい。 表(11)のなかでヤーモトがすでに転出している例が4例存在す る。転出戸Ⅱ・Ⅲの家屋は残存しており、前者の継承者は那覇市に 在住し、その家屋は2003年9月までは本土出身者が賃借していた。 転出戸Ⅳの現世帯主(1920年代生)は現在平良市に居住している が、1972年頃に転出した。この現世帯主の父の父の父が平良市で生 まれたが、後に当地に転入し、当地の女性と結婚し定住したとされ no. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 ヤーモト O.Y S.K 同上 転出戸Ⅰ S.K K.K O.Z 転出戸Ⅱ S.I B.S N.T 転出戸Ⅲ 同上 転出戸Ⅳ 同上 同上 O.T 同上 G.Ki S.Te 同上 S.Ka Y.Tu N.Se U.Si K.Ko パルディファ A B C D E F G H I G K L M N O P Q R S T U V W X Y Z * 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 2 2 2 2 不明 不明 2 2 2 2 2 2 4か5 不明 表(11) 「本分家関係」(*はパルディファの世代継続数、no.1∼no.26の番号は便宜上付したもの)
ている。転出戸Ⅰについては以下で説明しよう。 この(事例5)では、A(1920年代生)とCは「分家」し、Dと Fは当地内に婚出した。当初長男のBは結婚後に親と同居していた が戦死したので、妻のB1は生家に戻った。B1はその後再婚し、八 重山地方に転出した。Aは結婚後もしばらくは両親とともに生家に 居住していたが、両親死亡後に現在の家屋に移転した。その生家の 家屋は取り壊され、宅地は現在は畑としてAによって利用されてい る。 さらに、一度は当地に「分家」したCも「畑を売って」平良市に 転出している。平良市に転出したCはともかく、現在も当地に居住 しているAも生家に居住し続けることはなかったのである。このよ うに、この事例では、生家(=「本家」)は実質的にヤドーリして いるが、他方では次のような事例も見られる。 この(事例6)のA(1940年代生)の世帯はB(1950年代生)の 世帯のヤーモトであると言われているが、Bの祖先が何代前に分出 したのかは不明である。Bの父の父CはAの父D(次男)の兄(長 男)であったが、E夫婦に子どもがいなかったので、Cが養子とな って、E夫婦の家屋に居住し、その孫がBである。つまりE夫婦は そのままであったならばその家はヤドーリとなったであろうが、C を養取することによってそれを回避しており、この時にC・Dの父 (事例5)転出戸Ⅰの事例(●と▲は当地現住者) △=○ (分) (分) ●=▲ ○=△ △ ●=△ ○=△ A(三男) B1 B(長男) C(次男) D F ↓ ↓ B1 転出 転出 ▲ ▲
の後妻であったFの位牌もE夫婦のもとにもたらされたという。 位牌が移動させられた理由は、Aによると先妻と後妻の「位牌を 一緒にまつるのはまずいので、兄弟で位牌を分けた」とのことであ る。この位牌の処置も当地の親族関係を考える際に考慮すべき事項 であるが、ここでは「本家」と「分家」の間での養子縁組に注目し たい。「本家」の長男が「分家」に養出している点である。このこ とは「本分家」間の家格差や各戸継承者としての長男優先原理の希 薄さを示唆していよう。さらに、このような措置が先の(事例5) でとられなかったことは、「本分家関係」におけるヤーモトの存続 が、ヤーモトであるが故に重視されているわけではないことを示し ているのではなかろうか。 このように(事例6)では養子縁組が行われていたが、前掲の表 (8)で表示しておいた婿養子の事例の一部をもここであげておこ う。婿養子の事例は少ないが、そうであればこそ、どのような時に (事例6)ヤーモト・パルディファ間の養子(▲・●は当地現住者) (分) → (位牌の移転) ○ = △ E F ○ = △ = ○ (養取) △=○ △ → △= ○ D(2M) C(1M) C ● = △ ● = ▲ A ▲ B
婿養子が迎えられるかが、次の(事例7)からも垣間見られるから である。 この事例ではA夫婦の世帯がヤームトである。Dの世帯が次男ヤ ー、Bの世帯が三男ヤーであり、B(1920年代生)とD(1910年代 生)は婿養子を迎えている。Dには弟がいたが、現在は他出してい る。Bの場合も兄弟が2人いたが、2人ともに戦死している。この 2人が戦死した時にはすでに長女のCは婚出していた。そこで、 Bが当地出身の婿養子(1920年代生)を迎えることになったのであ る。 このような婿養子を迎えることは、明らかに当該戸の世代継承を 意図していることになろう。しかも、双方とも、少なくともこの親 族図の範囲外の非近親者から婿養子を迎えていることは留意されて もよいであろう。 このように血縁関係、特に明らかに認知できる父系血縁関係に拘 泥することなく婿養子を迎えていることは、表(8)での他の2 例の婿養子の場合も同じである。特に現住するもう一人の婿養子 (1920年代生)は当地外の旧下地町出身者である。 以上の「本分家関係」とともに、先述の婚入者出身地や町営住宅 居住世帯を概観すると、当地では多重な親族関係が存在することは 言うまでもない。このような親族関係については当地ではウチュザ やカタイという民俗語彙が用いられてきた(13)。 (事例7)婿養子の事例(▲・●は当地現住者) △= ● ○ ●=▲ ○ ▲=● △ △ ●=△ △=● 婿養子 D A 婿養子 B ( 戦 死 ) C(長女) F (分) (分) ○=△ △=○ △=○ E ●=△ ○=△
— 61 — ウチュザについては「血縁関係があればウチュザ」と言われてた り、その範囲は「マタイトコまで」とされているが、おおむね自己 を中心とした双系的な5,6親等を限界としているようである。 他方のカタイは自己からみた自己の妻の生家を意味することが多 いが、自己の子にとってはその成員はウチュザに入ることになろ う。今回の調査でもこのマタイトコまでとされるウチュザの範囲を 超える親族関係については不分明な場合が多かったが、このような 世代深度の認識傾向は「本分家関係」の認知の多くが2世代以内で あったこととも関連しているのかもしれない。 後述するように、当地の始祖とされている3兄弟の末裔であると 認知されている3世帯主が存在する一方で、前述の通婚圏から推定 される旧来の村内婚率の高さが、常に「新たな親族関係」を生むこ とによって、「旧き親族関係」の忘却や「転入者の受け入れ」を促 進したのかもしれない。このことについては本稿の最後で再度ふれ ることにし、ここではウチュザが具現化する事例として各種の農作 業や共同作業などの事例を挙げておこう。 (事例8)共同作業の事例Ⅰ (事例10) 共同作業の事例Ⅲ (事例12) 共同作業の事例Ⅴ (事例9)共同作業の事例Ⅱ (事例11)共同作業の事例Ⅳ △=○ ○ ○ ○ ○ △ H▲ エゴ▲=● ○ 当地在 呉市 (沖縄本島) 平良市在 ▲B △= ○ C○=△ ○ △ A G D ▲ ○ △ ○ エゴ エゴ▲ (▲が当該者) ○=▲ ▲城辺町 ▲平良市 ○ ▲ ▲ ○=▲ エゴ 他にアルバイト数名 ▲ ○=▲ エゴ
札幌法学 25 巻 1 号(2013) (事例8)から(事例11)までは、エゴのタバコ栽培やサトウキ ビの植え付け時のユズ(ユイマール)や「手伝いを頼む」相手の事 例である。ユズとは賃金の支払いなくして労働を「融通し合う」こ とを意味しているという。もちろん(事例11)において注釈してお いたように、実際の作業はここに図示した者以外のアルバイト数名 を採用することもあるし、さらにはすべてアルバイトでまかなう場 合もある。例えば、上記事例以外のSK(1920年代生)の場合は、 2004年9月のサトウキビの植え付けに際しては、平良市のシルバー センターから派遣された数名と当地に居住している日本本土出身者 2名を雇用していた。 (事例12)については多少の説明が必要である。エゴ(1910年代 生)には4人の子どもがおり、娘Cの子がE・Fである。エゴのキ ョウダイのうち一人は当地内に婚出し、一人は平良市に、他は沖縄 本島と日本本土に居住している。エゴも以前はサトウキビ栽培を行 っていたが、高齢になった時にはその刈り入れに際してはGの夫A が手伝いにきていたという。現在は販売目的の農作業は行っておら ず、所有する畑約200アールのうち約50アールをBに、他はAの友 人に貸与していたが、後者については今後は当地在住のタバコ栽培 (事例10) 共同作業の事例Ⅲ (事例12) 共同作業の事例Ⅴ (事例11)共同作業の事例Ⅳ △=○ ○ ○ ○ ○ △ H▲ エゴ▲=● ○ 当地在 呉市 (沖縄本島) 平良市在 ▲B △= ○ C○=△ ○ △ A G D E △ F △ ▲ ○ △ ○ エゴ エゴ▲ (▲が当該者) ○=▲ ▲城辺町 ▲平良市 ○ ▲ ▲ ○=▲ エゴ 他にアルバイト数名 ▲ ○=▲ エゴ (点線内が同一世帯)
者に貸与する予定であるという。前者のBへの貸与の理由の一つは 「妻とシンセキであるから」であった。 娘Cは数年前に死亡した。Cの夫は日本本土に他出しており、C 死亡後も連絡がとれなかったので、孫のE・Fをエゴ夫婦が引き取 って生活していた。2004年4月からEは平良市内の高校に進学する ことになったので、平良市在住のGと同居を開始した。このEの高 校入試合格を祝うために2004年3月にエゴ宅において約30名を招 いて祝宴を開催することになった。その際「豚1頭をつぶす」こと になったが、その手伝いを依頼したのがBとHであった。さらに、 2005年4月からはFも平良市内の高校に進学することになっている が、FはD(平良市在住)と同居予定であるという。 これらの若干の事例でも見られるように、シンセキのなかで農作 業や祝事の際の「手伝い」を依頼する相手は、当地かその近隣に居 住するウチュザの範囲に含まれる場合が多く、しかもキョウダイ関 係を中心にしているのである。キョウダイ関係を中心にすることは 血縁関係が小さくない比重を占めていることになる。 前述のように、この血縁関係についての当地の民俗語彙としては ヒキ、ピ(ヒ)ィツという言葉があげられる。例えば「バンダーヒ ィツ」と言った場合は「私たちのヒキである」という意味である。 さらにこのヒキに類縁するも民俗語彙サニやダニは、既述のように 「系統」を意味しているとされる。しかし、サニ・ダニ・ヒキはそ の使用の文脈によって同一の事象をしめしたり、異なった事象を意 味することもあるようである。このことは次に述べるブナカの説明 についても表れてくるが、ここではもう一つの民俗語彙タッフィー とともにダニについてもう少し述べておこう。 先の(事例12)では、エゴとその子はそのヤーモトの屋号イズを 用いて「イズダニである」とされている。これは父方の祖先がイ ズであるという意味を含むが、他方で母方の祖先をタッフィーとい
う言葉で示すこともあるという。(事例12)の場合はエゴの妻につ いては、その生家の屋号プクミャーを用いて「プクミャータッフィ ーである」と言われる。このようにダニ(あるいはサニ)とタッフ ィーは父系的な血縁と母系的な血縁を示しているように思えるが、 ダニについては必ずしも明確な使い分けがなされているわけではな い。 (事例12)のエゴの娘CやGもイズダニであるとされていたが、 結婚後についてはその認識は曖昧になってくるようであるし、以下 の事例でもそのゆらぎが見られる。 (事例13)のAと(事例14)のBは双方とも婿養子であったが、 (事例13)のエゴ(1960年代生)は母のダニであり、(事例14)の エゴ(1930年代生)は父と同じダニであるという。このような差異 が何故生じるかは判然としない(年齢層の差異も関係しているかも しれない)。同じ婿養子であれば、双方の事例のエゴは同様な方式 でダニに属することになるはずである。 この点をさらにたずねていくと、ダニという言葉の意味ではな く、その用法によって個人の所属が左右される側面があるという。 すなわち、ダニという言葉は先のイズダニや、あるいはイリフツダ ニというように、特定の「系統」について使用される傾向が強く、 すべての「系統」や血縁関係について必ずしも使用されるわけでな い。 (事例13)ダニの事例Ⅰ(▲と●は同じダニ) (事例14)ダニの事例Ⅱ ○ ⇒ ▲ B ▲ ▲ ▲ ▲ ▲ ▲エゴ △ ⇒ ● A ▲エゴ
(事例13)は前者に該当するが、(事例14)の場合は、通常はエ ゴの父方、母方のどちらについても「○○ダニ」とは言わない。し かし、調査者があえて質問するので、「どちらかと言えば」とい う留保付きで、父の生家のダニであるという回答が得られるのであ る。つまり、民俗語彙であるダニは、分析概念である父系にそのま ま該当するわけではなく、「○○ダニ」という言葉の使用頻度が高 い「系統」の場合のみ、ダニは諸個人の所属を決める要因の一つに なっているようである。ただ、ダニが父系、母系に拘泥することな く使用されるわけではなく、このような一定の限定内で父系に傾斜 していることは、先のタッフィーという語彙との対比からも知られ よう。 (1)人類学や民俗学での沖縄研究は枚挙にいとまがない。戦後に絞っても、多くの 研究成果が報告されている。代表的なもののごく一部として、『沖縄の社会と 宗教』(平凡社 1965)、『沖縄の民族学的研究』(民族学振興会 1973)、 『沖縄文化論叢 民俗編Ⅰ・Ⅱ』(平凡社 1971)、『現代のエスプリ 沖縄 の伝統文化』(NO.72 至文堂)のみをあげておこう。本稿の対象地である来 間島については、牛島巌「琉球宮古諸島の祭祀構造研究の問題点」、植松明石 「先島の御嶽をめぐって」がある(双方とも『沖縄文化論叢 民俗編Ⅱ』に所 収)。社会学での比較的最近の論稿としては、北原淳・安和守茂『沖縄の家・ 門中・村落』(第一書房、2001)をあげておきたい。 (2)田里修・森謙二編『沖縄近代法の形成と展開』(榕樹書林 2013)。「土地整 理事業」についての論稿も多いが、ここでは西里喜行「土地整理研究」『論 集沖縄近代史』(沖縄時事出版 1981)、田里修「沖縄県の地租改正の特色」 『沖縄文化』15巻2号(1979)などを参照。 (3)勿論、「規範」や「慣習法」という語彙が用いられてこなかったり、留意され なかったわけでない。例えば大胡欽一は「シマ(集落を意味する・林)の性格と 概念は、民間宇宙観の表現でもあり、同時に慣習法上の完結した生活領域であ った。…かかる情況はまさに世俗的慣習法領域として完結した領域でありえ る」(大胡欽一「祖霊観と親族慣行」前掲『沖縄の民族学的研究』所収』)と 記しているし、川田順造は「私は文化=民俗は、それを担っている当事者に意 識されうるものとしては『規範』、研究者の側からの抽象としては『指向性』
の、必ずしも複合されていない集合としてとらえたいと思う」(「民俗研究に とっての地域」、比嘉政夫「琉球列島文化研究の新視角」『民族学研究』61巻 3号444頁からの引用)としている。 (4)この分野での数少ない論稿の一つが、江守五夫「沖縄における祭祀承継に関す る社会問題 ─ 法社会学的=民族学的レポート」『家族の法の歴史』(法律文化 社 1981)であり、これは現代の「トートーメー問題」を扱った論稿である。 この問題は「琉球新報」が1980年1月に扱い出したことが発端となり、沖縄県 内において大きな反響を呼んだ。江守は「『トートーメー』とは、『位牌、系 譜、祭具、墳墓等、法的にいわゆる祭祀財産』を表す方言であり、この承継に 財産の相続がからんでいることから、今日多くの問題が派生している。その中 心的な問題点は、女性が祭祀(位牌)を承継できないとする慣習であった。祭 祀の承継は本島南部の門中制度からすれば、被相続人の父系的に連なった男性 親族に限られるのであり、それ故、女の子供しかいない家では、娘は他家へ嫁 がせ、男性の親族を養子にとって、それに祭祀を継がせるのであり、しかも財 産の大部分をも一緒に相続させる習わしとなっており、ここにこの慣習をめぐ って深刻な問題が惹起することになるのである」(同書527頁)として、この 慣習がどのように成立してきたかを検討している。 (5)末弘厳太郎「調査方針等に関する覚書」『中国農村慣行調査 第1巻』(岩波 書店 1951) (6)『九十年誌 昭和60学年度』(下地町立来間小・中学校 1986)181頁、『下 地町町制施行50周年記念誌』(下地町 1999)157頁 (7)前掲『九十年誌 昭和60学年度』176頁〜179頁参照 (8)『下地町誌』(下地町 1989) 97頁 (9)前掲『九十年誌 昭和60学年度』187頁〜189頁参照 (10)ヤドーリとは「その家の者がいなくなった家や、家がたおれること」を意味 するとされていた。 (11)「畑を耕作していた者を『陸軍多良間』、海で魚をとっていた者を『陸軍多良 間』」と呼んでいた」という。 (12)残りの1世帯は一度転出したが、後に「戻ってきて」から結婚した者の世帯 である。 (13)カタイとウトザに関しては、蒲生正男・大胡欽一「第6篇第2章 南部宮古島 の<カタイ>・<ウトゥザ>の社会構造」『沖縄ー自然・文化・社会ー』(平凡 社 1976)を参照