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井上円了と清沢満之の共同研究 : 近代の仏者清沢満之 利用統計を見る

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井上円了と清沢満之の共同研究 : 近代の仏者清沢

満之

著者名(日)

延塚 知道

雑誌名

井上円了センター年報

10

ページ

29-50

発行年

2001-07-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002720/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

︿井上円了と清沢満之の共同研究﹀

近代の仏者清沢満之

延塚知道

ぎぎご詳亀ヘミき ﹂ 近代の仏教者  清沢満之は、生涯仏者として生きようとした人です。人生のどの場面をとっても親鷺の信仰に生きようとする 姿勢は一貫していますから、先ほど東洋大学の桶谷秀昭先生が﹁井上円了という人は非常にわかりにくい﹂と仰 っておられましたけれども、そういう意味では、清沢先生は非常に分かりやすい人です。文久三︵一八六三︶年 の生まれで、明治維新の時には五歳でしたから、井上円了先生の少し後輩にあたります。明治三十六二九〇 三︶年の六月六日に四十一歳の若さで亡くなりますが、ちょうど日本近代の出発点に活躍しました。明治の息吹 を腹一杯吸って生きた人ということで、日本近代を考える上でいろいろな示唆を与えられます。  清沢満之をどう見るかについて、例えば吉田久一先生や脇本平也先生は﹁近代の仏教者﹂として清沢先生を見 ておられます。そういう意味で清沢満之は、仏教という世界で近代を実現しようとした人であるとも言えます。  私共の、真宗大谷派︵以下、大谷派と略す︶という教団で、親鷺の仏教をになうという仕事をしましたけれど も、その仕事は、単に宗派内に止まらないで、日本近代に大きな影響を与えていると思います。宗派からいって も清沢満之を持ったということは、近代教学という名前でいわれるように、清沢先生の学問の伝統が親驚の仏教 2g 〈井1川了と清沢満之のit”同研究〉近代のμ、者清沢満之

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を近代化したという意味を持っています。それが大谷大学の一番骨太い学問の伝統として今も伝えられているわ けです。  曽我量深先生は、大谷大学の学長になられたときに、真宗学という学問は大谷大学と龍谷大学にしかありませ んので、龍谷大学にご挨拶に上がるのです。その席で﹁あなたの大学は清沢満之がいないでしょう。私の大学は 清沢満之を持っています。旧態然とした江戸の宗学で今の近代を生きる人間がどうして救われますか。親鷺の仏 教を学ぶのならば、清沢満之先生に依るべきでしょう。﹂といって、龍谷大学の学長以下当局の先生方に説教し て帰ってきたということを聞いております。松原祐善という、私をお育て下さった先生は、﹁そのエピソードを 話した後、必ず、曽我さんはひどい人や﹂といっていましたけれども、ご自分が学長になられたとき、龍谷大学 にご挨拶にうかがい、曽我先生と同じことをして帰ってこられました。その意味で清沢満之を持ったということ がどれほど大きいかということを思います。われわれ近代人が親鶯の仏教を我がものにしたいという求道心を起 こしたときには、同じ近代人として救われた清沢満之の求道が、決定的な道標になるのです。その意味で大切な のです。  脇本先生は、清沢満之を近代の仏教者というときに、四つの点を挙げておられます。  一番目は近代的な自由な批判精神を持っていることです。宗派というのは非常に閉鎖的な、あるいは権威的な 一面を持っている場所です。そういう意味で清沢先生のような自由な批判精神を持って宗派の中に生きたという ことは大変まれでありました。  二番目には、明治の初頭でありますから、当時の日本人の課題は、日本国という国家をになっていくというも のでした。福沢諭吉先生を初めとして、独立した日本国を作りたい、あるいは国民国家の形成という課題をにな 30

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っていたのです。その中にあって清沢満之は、近代的な個というものに傾斜していったということが指摘されて いました。  三番目には、親讐の仏教を非神話化したといわれています。清沢先生は当時、﹁今親鷺﹂といわれていました。 それは親驚の仏教を、単なる学問とか教義に止まらないで、仏教を信念として体全体で生きていったという意味 で、仏教を非神話化した人であるといわれています。  さらに四番目には、その思想を近代的な表現形式をもって新しい言葉で表現したと、四つの点を挙げておられ ます。  重ねて失礼ですが、自由な批判精神を持っていること、個を問題にしたこと、仏教を非神話化したこと、近代 的な新しい表現形式を持ったこと、この四つの点を挙げて、清沢満之が近代の仏教者だというのです。 二 満之の就学  清沢満之は文久三年の生まれですが、もともと大谷派の僧侶ではなく、尾張藩の武士の子です。しかし、お母 さんは真宗の篤信のこ門徒でした。名古屋市内の覚音寺に、満之も小さい頃からお母さんに連れられて一緒に聞 法に行っていたと伝えられています。そういう縁と覚音寺の子供たちが満之の友達であったということもあっ て、十六歳の時に、家庭が貧しくて勉強を続けたいのだがどうしたらよいかを、覚音寺に相談に行きます。その 結果、十六歳の時に得度をして、東本願寺の育英教校という学校で勉強することになります。そのころから清沢 先生は大谷派の教団と関係を持つわけです。  井上円了先生は清沢先生の少し先輩で、教師教校で学んで、その後、東京大学に留学しました。当時の東本願 31 (井ヒN了と清沢満之の共同研究・近代の仏者清沢満之

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寺は、成績の良い学生を東京大学に留学させるということをしていました。井上先生が第一回目の東本願寺から 送られた留学生であったと思います。清沢先生も同じように東京大学に留学することになります。そのときに稲 葉昌丸とか柳祐久という人と一緒に東京に出ていくのですけれども、﹁先輩の井上に、万事よく相談をしろ﹂と いわれて出ていくのです。  多分、井上先生の薦めがあったのだろうと思いますが、満之は東京大学で西洋哲学を学ぶことになります。フ ェノロサについてへーゲルの哲学を学んだり、ブッセについてロッチェの哲学を学んだりというようなことで、 西洋の思想をよく学んでいきます。  例えば、福沢諭吉や新島裏という人たちは、あの当時ではまれですが、すでに外国への渡航経験を持っていま す。清沢先生は生涯一度も渡航した経験はありませんけれども、草創期の東京大学で西洋の思想を学びました。 それは、渡航経験ではないけれども、早く西洋の近代的なものの考え方に触れているのです。そういう意味で は、当時でも近代人のエリートとして生きていきました。  西洋の近代的な自我に目覚めて、非常に我の強い性格であったように思われます。いろいろな意味で、自分の 我を曲げることがきらいな性格です。学問としても自分が心から納得しなければ、どこまでも追求していくとい うところがあります。また、人間としての生き方も、西方寺という三河大浜の大きな寺に養子に入ることになり ますが、人間関係に苦しみます。いろいろなかたちで人間的にぶつかって、うまくいかないという状況があるこ とを見ても、一面非常に我の強い、当時の近代人のはしりとして生きたであろうということが思われます。  東京大学で学んだ後、井上円了先生の哲学館︵東洋大学の前身︶の設立に協力し、同館や第一高等学校で一年 間講師をつとめ、その後、二十六歳で東本願寺の中学校の校長になって京都に赴任してきます。今の大谷高校の 32

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前身ですが、京都府が持っていた府立の中学校が経営的に傾き東本願寺に経営をゆだねたことがありました。そ のときに東本願寺は、清沢満之に府立の中学校の校長になることを要請するのです。満之はまだ東京大学の大学 院で宗教哲学を学んでいたのですが、東京から京都に帰ってくるのです。  当時の東大出の学士といえば、超エリートです。一級下には岡田良平という人もいますし、あるいは沢柳政太 郎という友人もいます。岡田良平氏は後の文部次官になりますし、沢柳政太郎は、東北大学の総長や文部大臣に もなります。ですから満之が望めば、国家の重席に就くこともできますし、あるいは東大でそのまま学問をして 学者として十分に仕事をしたであろうと思われます。ですから、当時の人たちはなぜ清沢満之が大谷派というよ うな小さな宗門の中に身を埋めるのか、を疑問に思ったのでした。ただ清沢先生は﹁身は俗家に生まれ、縁あり て真宗の寺門に入り、本山の教育を受けて今日に至りたるもの、この点に於いて余は、篤く本山の恩を思い、之 が報恩の道を尽くさざるべからず。﹂といって大谷派の中学校長に赴任してくるのです。 ゴ﹂満之の求道  この中学校の校長時代に清沢先生は、生活を一変します。それまでは宗教哲学を学んだ超エリートとして生き てきたわけです。もちろん京都に来て校長に赴任したときにも山高帽をかぶってステッキを持ち、西洋タバコを くゆらせるというように、ハイカラないでたちでした。毎日、人力車で中京区の丸太町から学校に通ったといわ れてますので、エリートとして振る舞われていたようです。京都に来て]、二年してから、その山高帽を捨てて 墨の衣と一本歯の下駄に替え、修行者然とした格好に一変します。要するに清沢満之は、求道に生活の全部を収 敷していきます。 33∠川円了捕沢満之の川・研究、近代の仏者清沢満之

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 おそらく満之は、大谷派の責任を宗派の内と外に対して果たさねばならないと思われたのでしょう。当時大谷 派は両堂を再建して負債を抱えていました。宗派金体でともかくその負債をどうして償劫するかということに奔 走していたために、宗教の本義である教学についておろそかになっているという現状がありました。  さらに宗派全体に世俗化が進んで、僧侶としての生活態度が衰頽していくという状況がありました。そういう 宗派全体の責任を持たなければならないという課題に立ったとき、清沢満之は、自分自身が親鷺の信仰を身をも って生きるものにならなければならないということを、自らに課したのだと思います。  さらにいえば、中学校で学生の教育に当たるわけです。実際に宗派の子弟を育てていくという教育の場所に立 ったときには、単なる学問だけでは宗教的な人は育たないという、教育上の課題に直面したのではないかと思わ れます。  それは恐らく、お母さんから教えられたのではないかと推測されます。東大の大学院で彼が勉強をはじめたこ ろに、郷里から両親を呼び寄せて、東京で一緒に生活をはじめます。そのときに篤信の母親のタキが、﹁息子の とこに行くのならば﹂と言って、得度をして東京に行くのです。暁鳥敏先生によると、母親が得度をして息子の 所へ行ったというのは、東京大学で宗教哲学を学んだ息子のところに聞法に出かけたのだそうです。清沢先生 は、母親に毎日のように宗教の話をしました。しかしその母親は、﹁どうも薄紙一枚のところがわからない﹂と いってなかなか納得しなかったのです。そういう体験から、本当の教育というか、僧侶として教化をしていくと きには、単なる学問ではなくて親鷺の信仰を身をもって生きなければ、本当に人には伝わらないという切実な課 題を、母親に教えられたのだと思います。  さらにいえば、育英教校をはじめ明治の頃の真宗の学びは、特に蓮如の教学を中心に勉強しております。蓮如 34

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は、﹃御文﹄等の多くの著作を残しておりますが、蓮如の優れたところは、親鷺の信仰を身をもって生きたとい うところにあります。その蓮如の最も大きな仕事は教学というよりむしろ教化ですから、そういう蓮如に清沢満 之は深いあこがれを持っていたようです。  このようないくつかの点から、宗教というものは単なる学問ではない。東京大学で学んだ宗教哲学でもそうで すが、最終的には﹁死をどう超えていくか﹂という切実な課題を自分の体で勝ち取らなければ、大谷派の宗門に 身を置くものとしての責任はとれないという課題を、感得されたのだと思います。  それで﹁ミニマム・ポッシブル﹂という実験をはじめます。それも非常に近代的だと思います。食べるものを 極力少なくし、着る物も最も粗末なものを着て、最後には松ヤニをなめながら生きたといわれていますから、非 常に激しい禁欲主義をとって﹁人は何によって生きるのか﹂という最小限の可能性を文字通り実験していくので す。明治二十四年、満之が二十九歳の時に母親が亡くなりますが、このころから禁欲生活は急に激しくなってき ます。お母さんは﹁薄紙一枚のところがわからない﹂といい続けて亡くなっていったわけですから、満之にした ら、身体で信念を勝ち取らなければ、仏教は決して人には伝わらないと改めて強く思われたのであろうと推測さ れます。その課題を、このミニマム・ポッシブルの実験で果たしたいと思われたのでしょう。ですから母の死を 契機に、特に激しい禁欲主義が進んでいくことになるのです。  明治二十七二八九四︶年に、清沢満之はそれがもとで結核になっていきます。この年の一月に、前法主の厳 如の葬儀が執り行われます。寒風が吹くその葬儀に清沢先生初め多くの人が頭を剃って参列するのですが、その ときに流行性感冒がはやりました。東本願寺から風邪がはやったということで、当時その風邪を大谷風邪と呼ん だそうです。清沢先生は、激しい禁欲・王義の実験の最中ですから、体が弱っていて風邪を引くのです。友人たち 35 ⑬Al円rと清沢満之の共同研究川エ代の仏者清沢満之

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はみんな心配して清沢先生に、﹁禁欲主義をやめて、とにかく薬を飲んでものを食べてくれ﹂と勧めるのですが、 断固としてそれを聞き入れませんでした。  それで当然のように満之は、結核になっていきます。結核にかかったというよりも、私はあえて結核を選び取 ったとしか考えられないのです。宗教は先ほどいいましたように﹁死をどう超えていくか﹂という課題の下で、 死において自分自身を問い、死によって生きるということを問うということが基本です。ですから清沢先生はあ えて結核を選び取ってまで、その課題をわが身に実験しようとしたと思われます。その結果、兵庫の垂水で療養 することになっていきます。 36

四宗門改革運動

 その清沢満之が果たした仕事についてですが、一つは結核の身を押して、宗派に責任を持っていくという意味 で、教団の改革運動に奔走していくことになります。  満之はすでにいいましたように、近代の強烈な自我を持ち、その自我を生きそれに苦しんでいくのです。その 苦しみを、親鷺の信心でどう超えていくかという課題を持ちます。その近代の自我が持つ問題性を親鷺の仏教に よってどう超えていくことができるのかという道筋を立てたことに、親驚教学を近代化したという意味があるの です。  当時の大谷派の教学は、江戸の宗学がずっと伝統されていました。そういう従来の宗学の問いの立て方や、学 問としての整理の仕方では、強烈な自我を生きる近代人を救うことができないのです。  例えば、問いということからいえば、清沢先生のような﹁自己とは何ぞや﹂という問いは、非常に近代的な問

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いです。その問いには、江戸の宗学では充分に答えられないのです。そういうようなことがありまして、教学に ついてまず第一に責任を持たなければならないという課題が清沢先生の中にあったと思います。  しかしながら当時の教団の状況は、先ほどいいましたように、両堂再建の負債をどうして償劫していくかとい うことに奔走していました。ですから教団の最も大切な課題である教学に、全力を注ぐということになっていな かったのです。その教団のあり方を憂えて、満之は教団改革運動に奔走していくことになります。  明治三十五二九〇二︶年、亡くなる一年ほど前の当用日記に清沢満之は、自分の信心がどのように深まって いったかという歴程について書きつけています。それはこういう文章です。﹁回想す、明治二十七、八年の養病 に、人生に関する思想を一変し、ほぼ自力の迷情を翻転し得たりといえども、人事の興廃は、なお心頭を動かし て止まず。すなわち二十八、九年における我が宗門時事は、ついに二十九、三十年に及べる教界運動を惹起せし めたり﹂とあります。  したがって、明治二十七年に結核にかかりほぼ﹁人生に関する思想を]変して﹂、自力の迷いを翻したという 経験を持ったのです。しかし教団のいろいろな事情の中で、二十八年、二十九年、三十年の頃に先ほど申し上げ た教団の責任をになって教団改革運動に身を挺していくことになるのです。療養先の垂水から京都に帰ってき て、京都の白川村に教界時言社を置きます。そこから、﹃教界時三亘という機関誌を発行しながら教団の改革運 動に奔走します。結核の血を吐きながらですけれども。  そのときに、第一に、教学の刷新ということ、もう]つは議会制を要求して改革運動を推進します。非常に近 代的な人だと思います。それまで東本願寺は、要するに家老がおり、その下で専制政治が行われていたわけで す。それに対して議会政治を要求していくのです。その運動は全国的な広がりを見せ、教学の刷新や議会制の要 37 パ川円rと渚宏満之・〕共1・・]研究・Littu・仏者r敵尺満之

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求も、一端は成功していくかの勢いでした。しかし結果的には、本山の大きな政治的な圧力を、運動に結集した 一人ひとりの信心の力が突き破れなかったのです。運動をしていた人々は、それぞれの場所へ帰っていき改革運 動は挫折していきます。清沢先生の生涯は、ほとんど挫折のくり返しです。人間的にいえば悲劇の人生を送った としか思えません。結核にかかり、宗門の責任をになって教団改革運動に奔走しますけれども、これにも挫折し ていきます。  この運動の終結に当たって満之は、こういいます。﹁帝国大学や真宗大学を出た人が多少ありても、此↓派ー 1天下七千ケ寺の末寺  のものが、以前の通りであったら、せっかくの改革も何の役にも立たぬ。初めに此の ことがわかって居らなんだ。それでこれからは一切改革のことを放棄して、信念の確立に尽力しようと思う。﹂ と、こういって改革運動に挫折し、大浜の西方寺に帰っていきます。 38 五 黙忍堂臓扇  教団改革運動の責任を取らされて、教団から除名され、血を吐きながら大浜の西方寺に帰って行くのです。し かし西方寺に帰ってもいろいろな事情や人間関係に悩みます。例えば、疾や血を吐く結核は当時不治の病でした から、ご門徒の人から嫌われました。さらに、西方寺に帰っても自分がいる場所がないという事情がありまし た。西方寺には住職の厳照の三女の婿である藤分法賢という人もいました。彼は改革運動の頃も満之に代わって 寺務を助けてくれていたのです。ですから今さら満之が寺にいても別に役に立つわけでもなく、かえって皆に迷 惑をかけるばかりでした。  その上、父親の永則の処遇に悩みます。清沢先生自身が結核の身で養子です。自分の居場所がなく西方寺に養

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われるということだけでも大変な気苦労があるのに、頑固一徹な父親までも引き取って養ってもらわなければな らないという事情の中で、清沢先生は人生の危機に立たされていきます。  この頃、ご自分の号を、﹁黙忍堂膿扇﹂と名のります。膿扇とは十二月の扇という意味ですから、何の役にも 立たず、黙って堪え忍ぶ他はない者という名のりでしょう。帝大出の学士という肩書きをはぎ取られ、一人のた だ人として悶え苦しむ他はない人生の危機のなかで、他力の信心は深まっていくのです。  先ほどの日記の回想の記事に、結核にかかったという養病に○がうたれています。それは先生の求道には自分 の死がかかっているということが重要であることを示しています。当時の日記には血を吐いたという記事が毎日 のように出ています。さらには、徹夜で悶々として眠れないということも書かれています。その中で宗教の定義 について書いているのですが、﹁死の前に立ってどうして安心を得るか﹂という宗教の定義が掲げられています。 非常に単純な宗教の定義ですけれども、何も学問的な定義をしているのではなくて、当時の清沢満之にとって は、そのことが最大の人生の課題であったわけです。  当時の啓蒙思想家たち、特に福沢諭吉などは、﹁宗教は蒙昧時代の遺物であって、文明が発達すれば、宗教な どなくなるものである﹂というのです。それに対して、宗教は死の前に立って安心を得るものである。にもかか わらず、文明が発達すれば宗教がなくなるというのならば、文明の発達によって人の死がなくなるというのか と、非常に強い口調で批判をします。さらに宗教は死に対して安心を得るという以上に、死を通して人間の独立 というものを勝ち取っていくものである。もし﹁宗教が、蒙昧時代の遺物である﹂というのならば、本当の人間 の独立など語れるはずがないではないかと、暗に福沢諭吉の﹁独立自尊﹂を批判しています。福沢諭吉の名前は 直接出ていませんけれども、一方に福沢諭吉を見てるのだと思います。 39;t H]irヒ瀞、洗Z・)i≒「司研究・・1Ltt・」仏嬬沢満之

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六 ﹃阿含経﹄熟読  この頃から﹃阿含経﹄という経典を清沢満之は熟読していきます。﹃阿含経﹄はお釈迦様の言行録ですので、 当時小乗仏教の経典としてあまり読まれなかった経典です。しかし清沢先生は、非常に短期間に日記に抜き書き をしながら﹃阿含経﹄を読みふけっています。それは当然のことですが、学問とか教学ということではなく、死 を前にして眠れず、人情の煩累の中で迷い悶える。そういう迷い悶えからどうして解放されるのかという課題の 下で、この﹃阿含経﹄を熟読したのだと思います。なぜなら苦からの解脱が仏教の基本ですから、基本から学び なおしたいということがあって、おそらく﹃阿含経﹄を読みはじめたのだと思います。  ﹁回想す﹂という求道を表す文章は、﹁二十七、八年の養病﹂という結核の体験からはじまっています。そのと きすでに自力の迷情をほぼ翻したと書いているのですが、それで十分な救いにはならなかったのだと思います。  先生の求道からいうと、先にも述べました、禁欲・王義の実験であるミニマム・ポッシブル等もあるのですから、 そこから書いてもよさそうなものですが、先生ご自身の求道を回想する文章は、そうではありません。血を吐い て死の前に立つところから、書き始められているのです。  何か問題が起これば、人間は努力してそれを克服していこうとするのが普通です。しかしそれが死の前に立っ て、足下から全部ゼロになっていくという体験を持ったのです。今まで築いてきたものや、人間の努力さえ何の 役にも立たない死の前に立たされて、自力で生きてきたと思っていた妄想が破られたのです。  その自力無功の体験だけが、他力を説く親鷺の仏教の真理性を知ることができるのです。ですから結核という 大きな体験を通して、自力というものに対するある種のあきらめが、親鷺の仏教への求道に駆り立てていったの です。その決定的な体験が養痢の体験であったと思います。 40

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 しかし満之は、宗門改革運動という政治運動に身を投じます。宗門に責任を取ろうとするときには、政治運動 の方が即効性があるように思えるし、結核の身ですから満之は生き急いでいたのではないかと思われます。  例えば、正岡子規も結核にかかって、自分の生きる道を夏目漱石に相談するのです。﹁自分は結核になっても う命は短い。だからどういうかたちで日本国に貢献したらいいか。政治家になるには命も短いのでそれはできな い。実業家になって働くにも時間もないし体力もない﹂と相談すると、夏目漱石は﹁それなら、文学という世界 で、日本人の精神生活に責任を持ったらどうか﹂というのです。血を吐いて死期が近いことが、自分の身の処し 方の第一の条件になるのです。  そのように満之も、宗門への責任を果たすために生き急いだというか、政治的な改革という方が、目に見えて 早く責任が果たせると、思ったような気がするのです。  宗門改革運動に破れたときに、改めて信念の確立に力をつくしたいといって﹃阿含経﹄を読んでいきます。そ の﹃阿含経﹄の中で改めて満之が学んだことの一つは、何といっても仏教を学ぶ方法論です。それは﹁内観道﹂ という方法です。仏教は基本的に老病死をどう越えていくかということですが、老病死を超えるという場合に、 単純にいいまして、二つの方法があります。一つは、歳をとらなければいいし、病気にならなければいいし、死 がなくなればいいわけです。  われわれが普通生活する場合には、だいたいそのような方法でものを考えています。今の日本の現状を見ても 医学は、延命することばかりを目指しています。私は父親をなくして、病院があのようなひどいことになってい ることを初めて知りました。とにかく延命することばかりで、びっくりしました。人間が本当に何を願っている かという、最も基本的なことが、全く抜け落ちているのです。そういう世間の考え方を外道といいます。病気し 41 Sl[円了と清が満之の共「・・]研究\近代。‘仏者清沢満乙

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ないように、健康でいつまでも若々しくと努力するのですが、死なない者は一人もいないのです。  だから仏教は、そういう方法を採らないのです。そういう外道という方法ではなくて、老病死を受け入れられ ない自分とは何ものであるかに目覚めて、老病死の苦から解放されていこうという方法を採ります。そういう方 法を内観道といいます。満之は、その仏教の内観道という方法を、この﹃阿含経﹄に改めて学び、その内観道に 帰ろうとするのです。  つまり教団改革は、自分の外側の改革運動ですから、外側を変えていこうという外道に走ったわけです。しか しそれを反省して信念の開発に力を尽くしたいと満之がいうのは、この運動に対する反省の言葉ですから、﹁阿 含経﹄によって内観という仏教独自の方法に、改めて立ち返ろうとしているのです。  もう一つ満之が、﹃阿含経﹄に学んだことがあります。満之は晩年、自分より先に、長男と次男と奥さんの大 切な三人を、亡くしていきます。それでも涙を流さなかったと伝えられていますが、﹃阿含経﹄の釈尊が出家を するところに感銘して、涙を流したと日記に書いているのです。さらに友達にも、その感動を手紙に書いて送っ ています。お釈迦様の出家の精神、つまり全てを捨てて宗教的な真理がほしいという、その強烈な菩提心に感銘 して涙を流すのです。  逆に清沢先生は当時、自分の号を﹁黙忍堂臓扇﹂と名のって、絶対に捨てられない重い現実の中で責任を感じ て、狂うように生きているということがあります。どうしたらお釈迦様のように、一切を捨てて強い菩提心に生 きられるのか。どうしたらあらゆるものから解放されて、自由な・王体になれるのか。その課題は、京都に来て宗 門に責任をとろうとし、ミニマム・ポッシブルの実験を始める頃から、すでにお釈迦様の厳粛な菩提心を実践し ようとされていたのです。それが現実には、人情の煩累の中でどうしても、自由な・王体になれないということが 42

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あると思われます。  そういうお釈迦様の出家の精神、つまりあらゆるものから自由であるという精神が、どこで実現するかという と、それは自力無功というところで、触れることができるものだと思います。結核で死の前に立ち、一切のもの が自力で決着が付くという妄想が破れて、ある種の翻りをしたときに、満之は一種の自由境を感得したに違いな いのです。そういうお釈迦様の出家の精神は自力無功というところで実現するということを、﹃阿含経﹄の中で 読みとっていったのだと思われます。お釈迦様の仏教と親鷺の他力の仏教が、そこで↓つになっていくものを ﹃阿含経﹄の中に感得したに違いないのです。﹃阿含経﹄は小乗の仏教だといってだれも省みなかったけれども、 見る人が見れば﹁これは他力の教えである﹂と満之がいっていることからしても、そのことが推測されます。 七 ﹃エピクテタス氏教訓書﹄  ﹃阿含経﹄を読み終えてから、満之は、エピクテタスの語録を読むことになっていきます。満之は、本当の意 味の自由な、王体を求めていきます。お釈迦様のように、捨てきれないほどの人情のしがらみの中でそれを捨てて 自由になるのではなくて、その中にあって、しかも自由な・王体とは何かを、求めていくのです。お釈迦様のよう な自由をどうして獲得するかが清沢先生の課題ですけれども、それが今言った自力無功というところで実現する のだという直感があったのだろうと思います。それを求めてさらにエピクテタスの語録を、読み進んでいきま す。  エピクテタスはローマのストア派の哲人ですが、若いころには奴隷でした。鎖につながれていた奴隷ですが、 そういう状況の中で自由であることをうたった人です。要するに意志の自由を叫びます。﹁暴君が自分を鎖でつ 43 井1円r’二紺o満之.洪1司研fi・近代∋仏者清沢満之

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ないでも、つなぐのは自分の体であろう。もしはねても首であろう。私の自由な意志は絶対に奪えない﹂と、叫 んだ人です。親友の沢柳政太郎の書棚からエピクテタスの本を借りて読むのですが、大きな感銘を受けます。満 之は迷悶するものとして、人情の煩累の中で、いかに自由な主体であり得るかということを、エピクテタスを通 して学んでいくことになります。  明治三十一二八九八︶年の秋頃からエピクテタスの本を読みはじめます。学んだものを日記に書き付けてい くのですが、まず、自分の意のままになるものと、自分の意のままにならないものがあると、分けていきます。 意のままになるものは、意見や動作や好き嫌い、こういうものは自分の意のままになるものである。意のままに ならないものは、身体や財産や名誉や官爵であるというように、己の所作に属するものとそうでないものとに分 けていきます。あるいは﹁疾病・死亡・貧困等は如意ならざるもの。これを避けんと欲するときは苦悶を免るる ことあたわず﹂といいます。  自分の意のままにならないものと、意のままになるものとを、しっかり分けなさい。そして意のままにならな いものについては、それを甘んじて受け止めていきなさい。﹁疾病は身体の障害にして意念に関するに非ず。こ との起こるごとに瞑想一番せよ。これあるものに対する障害にしてそれ自身に対するにあらざるを知るべし﹂ と。こういって自分の意のままになるものと、意のままにならないものを分け、それを見分ける智慧を、エピク テタスは﹁不動の知慧﹂というのです。  清沢先生は、エピクテタスのいうことは一応そういうことと了解し、それに大きな感銘を受けています。つま り自分の意のままになるもの、それについては自分で努力することができる。しかしそれ以外のことについて は、甘んじて受け入れるしかないということです。そして事が起こったときに、そのどちらであるかをよく峻別 44

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しなさい。それを見極めるのが、エピクテタスがいう﹁不動の知慧﹂だと、いうのです。  ↓応理屈ではエピクテタスがいうとおりなのですけれども、清沢先生の思索はそこから、仏教の内観道という 方法で、独自に進んでいきます。たとえば大浜の西方寺のこ門徒の家に法事に行っても、塩をまかれて﹁もう来 なくていい﹂といわれるのです。東京大学で学んだ学士としては耐え難い屈辱ですけれども、それが心の中でぐ るぐる回って、腹が立ってしようがないわけですから、自分の心も結局、外物・他人によって迷わされていくと、 尋ねていくのです。そうするとエピクテタスのいう﹁不動の智慧﹂とは何か、本当の意味で自分の・王体とは何 か。エピクテタスは、意のままになるものというけれども、それは一応理解できる。しかし自分の心は外側のも のから迷わされて狂っているわけだから、﹁本当の自己とはいったい何なんだ﹂と、さらに追求していくことに なります。 八 真に薗己なるもの  そしてむずかしいのですけれども、こういう言葉で書いています。﹁曰く天道を知るの心、これ自己なり﹂と。 ﹁天道﹂というのは、同じ日記の中に﹁天道は真諦である﹂とか﹁阿弥陀﹂とかいう字訓をうっていますので、 やがて清沢先生が、後に﹁絶対無限の妙用﹂というのと同じ意味です。ですから宗教的な真理の働きを﹁天道﹂ という言葉で表明するのです。そういう絶対無限の働きを知ることができる心、これが自己であるといいます。 さらにそれに続けて、﹁天道を知るの心を知るの心、これ自己なり﹂と﹁知るの心﹂を二回繰り返していうので す。  満之は結核になって血を吐き、自力無功ということを知ったということを書いています。仏教はその死の苦し 45舛lllげ靖沢称z肪些「・概究川い仏者瀞!満−

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みを超えるのが目的ですが、その際、苦と感じている自分自身とは何ものであるかという、人間全体の目覚めに よって苦を超えようとするのが仏教の方法論です。満之が書いているように、結核によって自力無功ということ を知らされても、それが、十分な意味で自分の存在全体の目覚めにはならなかったのだろうと思うのです。例え ば、大病でもすると誰でも﹁自力で生きてきたのではない﹂と思うことがあります。その体験を通して、親鷺の 仏教である他力の教えを聞こうとする姿勢は生まれても、その体験だけで、人間全体の目覚めにはならなかった のです。  他力の求道が自力無功の体験から始まりますので、そこから自分自身の存在全体の目覚めを求めて、﹃阿含 経﹄、﹃エピクテタス氏教訓書﹄に尋ね続けたのです。そしてついに﹁天道を知るの心を知るの心﹂と﹁知るの 心﹂が二回繰り返されるように、絶対無限の働きの前に自力無功と繊悔するほかはない存在の全体を、もう一度 向こうから知る心というように、主客が逆転しているのです。そういう書き方になっています。ですから人間の 側から、自分のことを思うというのではなくて、絶対無限の働きによって存在の全体が照らされています。人間 が人間の立場で見た自分ではなくて、向こうから阿弥陀の知慧に照らされて、主客が逆転しています。それを通 して、自力無功の体験が、自己自身の目覚めにまで純化されています。  そこに近代的な自我を突破していく道があるのです。その突破したところから改めて近代の全体を照らされ、 近代の闇を教えられる道があると思います。清沢満之の求道の歴程には、そのような大きな意味が思われます。 46

九近代を超える道

 その信念にたって満之は、 命についても次のような文章があります。﹁われらは死せざるべからず。われらは

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死するもなおわれらは滅せず。生のみがわれらにあらず。死もまたわれらなり。われらは生死を併有するものな り。われらは生死に左右せらるべきものにあらざるなり。われらは生死以外に霊存するものなり﹂といいます。 肉体は有限で確実に死ぬ。しかし、絶対無限に通達した自分の信念は、生や死に左右されずに自由である。この ように満之は、肉体は有限で死ぬけれども、それを引き受けていける自由な主体に転換していると思われます。  やがて﹃歎異抄﹄によって満之は、その主体についてこう語ります。﹁自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗 托して任運に法爾に、この現前の境遇に落在せるもの、即ちこれなり。ただそれ絶対無限に乗托す。故に死生の こと、また憂うるに足らず。死生なおかつ憂うるに足らず、いかにいわんやこれより而下なる事項においてを や。追放可なり。獄牢甘んずべし。誹請損斥許多の凌辱あに意に介すべきものあらんや。われらは寧ろ、ひたす ら絶対無限のわれらに賦与せるものを楽しまんかな﹂と。私の言葉にすると、次のようになります。  ﹁自己とは他でもない、絶対無限︵法︶の働きに乗って、与えられた身のままにこの境遇に生かされているも のこそ自己といえるものです。ひたすら絶対無限の働きに生かされているのですから、死や生について心配する 必要はありません。死や生について心配する必要がないのだから、これよりもささいな事件については、いうま でもないことです。  追放も結構です。牢獄に入ることも甘んじて受けましょう。悪口や排斥、多くのはずかしめなどは、なんら・心 にとめるほどのことではありません。いやこれらを心配し、心にとめたとしても、私はこれらについてどうする こともできません。それよりもむしろ私は、ただ絶対無限の働きに生かされ与えられているものを楽しみたいも のです。﹂  満之は、こういう精神の夜明けを持ったのです。私たちがどうしても突破することができない人間の自我を超 47 tl [円了とr・X・if・e満之ゾノ∫目・・1研究近代の仏者清沢満之

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えた絶対無限︵法︶から、もう一度自分の全体を引き受けて生きていける主体を、清沢先生は獲得しているよう に思います。  その信念に立脚した先生の仕事としては、東京に真宗大学を建てて、仏教の学を世界に公開していこうとしま した。そこから、その後の仏教界をになう多くの人材が育っていきました。  その真宗大学を建てるために満之が東京に出てきたときに、東片町の近角常観の求道学舎に寄宿します。その ときに中学校の時から満之を慕っていた暁烏敏、佐々木月樵、多田鼎という学生と一緒に住むことになります。 その私塾に﹁浩々洞﹂という名前をつけて、その後も清沢先生を中心にして、沢山の学生と一緒に生活がはじま るのです。その﹁浩々洞﹂から多くの人材が育っていきます。また、そこから﹃精神界﹄という雑誌を出して、 今いったような信念に基づいた思想を公にして、日本近代の在り方そのことを問うていくのです。  例えば﹃精神界﹄の一番最初の文章はこういう文章です。﹁吾人の世に在るや、必ず一つの完全なる立脚地な かるべからず。もしこれなくして、世に処し、ことを為さんとするは、あたかも浮き雲の上に立ちて技芸を演ぜ んとするものの如く、その転覆を免るる能わざること言を侯たざるなり﹂という言葉ではじまっています。  清沢先生の言葉は、現実の問題を思想的に昇華していますが、その当時の日本の状況をよく見て日本の進もう とするべき方向に大きな警鐘を鳴らしているのです。近代的な日本の歩み全体が人間の問題として捉え直したと きには、浮き雲の上で舞いを舞っているようなことになっているのではないかといっています。  福沢諭吉のように近代的な人間肯定に立って、生きることを前提に考えれば、富国強丘ハとか殖産興業というよ うに、人生を豊かにすることを考えます。しかし、生だけが人間ではありません。人間は必ず死ぬものです。だ から死というものを突破したところから、もう一度人間そのものを見返すような目がなければ、例え豊かになっ 48

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て国が独立したとしても、豊かになったことそのことが人間をだめにしていくのです。その意味で、近代の人間 肯定に立った人生は、人間が十全に生きたことにならないのだ、というような警鐘を鳴らしているのです。  ですから、真宗大学を建てることにしても、単なる近代的な大学を建てたのではなくて、﹁他の大学とは異な る﹂というように出世間の学を学ぶ大学を建てようとしたのです。それまでに大学は、一応三つの大学がありま す。東京大学は明治十年に建ちましたし、京都大学は明治三十年です。さらに、当時私立で大学を名乗ったのは 慶応義塾の大学部ですが、それは明治二十三年です。それに継いで真宗大学は明治三十四年に巣鴨に建つことに なります。当時の日本全体の状況から見て、当然かと思われますが、﹁国家に須要なる人物を養成する﹂という のが帝国大学令です。福沢諭吉の慶雁義塾の大学部もまたその国策に乗っていたわけです。その中で、あえて京 都にあった真宗大学を東京に移転開校して、﹁世界第一の仏教大学たらん﹂という気概をもって建てられました。 そして世界中から後に、仏教を学ぶ留学生がたくさん来るであろう。そのときのためにも、仏教の大学として建 たなければならない。しかも開学の辞では﹁本学は他の学校とは異なりまして﹂といっています。真宗大学を日 本の中心である東京に建てたのですが、都心に背を向けて建てたというふうにいわれていますので、日本全体の 進むべき方向に対して大学の学問としても、警鐘を鳴らしていったということがあるのです。  私は、清沢満之の信念を中心にお話をしましたけれども、清沢先生の果たした仕事は﹁他力の信念﹂に立って 仕事がなされています。したがって、近代化したということからいうと、確かにその通りでありまして、大谷派 は清沢満之を持ったことによって、教学としても組織としても近代化されました。近代化したといっても江戸時 代の宗学に手を加えて近代化したのではなくて、近代を生きた清沢満之が親鷺の信仰に直参し、それによって助 かっていったという道筋が、結果的に教学を近代化したという意味を持っているのです。 49 〈井i川了と清沢満之の共同研究・近代の仏9・mwm之

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 その意味で確かに近代的な仏者であるといえると思います。最初に申し上げましたように、脇本先生が四つの 点を挙げて清沢満之を近代の仏者であると言うことも、もっともなことであると思います。ただ、現代の私たち の抱えている課題は、近代が行き詰まりを見せているということにあろうかと思います。どういう問題を取って も、例えば環境破壊の問題にしろ、臓器移植の問題や遺伝子の組み替えの問題、またさまざまな戦争や国家の問 題、そういう今抱えているわれわれの問題は閉塞的な状況になっていて、人間が人間の立場で努力すれば解決が つくというような課題ではないと思います。近代的な人間肯定の全体が問われているということが、今のわれわ れの課題であると思うのです。  そういうことからすると、清沢満之を近代的な仏者というよりも、むしろ今のわれわれの課題から見れば、近 代を超えた仏者と見るべきだと思います。現代の閉塞状況を、どこで私たちは突破していけるのか。どういう方 向でものを考えていけば、今のような現状を突破できるのかという課題に立ったときには、近代的な仏者という 以上に、近代を超えた仏者と清沢先生を見るべきです。その満之の信念に、われわれが今のような状況を超えて いく方向性があるのではないかと思うのです。  そういう現代の問題が、私たちの共通の課題ですので、清沢先生の信念について簡単な道程をお話しました。 言葉は足りませんが、意のあるところをお汲み取りいただけば幸いです。 50

参照

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