平和条約と私有財産
著者
大沢 章
雑誌名
東洋法学
巻
10
号
1
ページ
1-33
発行年
1966-10
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00007850/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja平
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=主z:.. 与主 目 次 一国際法と個人の保護 ニ保護の対象と保護権 三対立する利益と平和法の要請 四平和条約による個人の保護 国際法と個人の保護 さいきん私有財産の尊重について、東京地方裁判所は、注目すべき判決を行った。それは国内法と国際法とに関し て、極めて宣要な基本的な問題にふれているので、本論のテ l マを展開する論理的の前提として、かんたんにその判 決にふれておきたい。判決がみとめた第一の点は、国際法は原則として任意法規であり、特定国間に特別の合怠があ れば、それが優先するということである。裁判所のこの主張が、実証的に妥当する法的根拠によって支えられている 平和条約と私有財産東 洋 法 学 真実であるか、それとも怒法と国際法とがともにその不当を実証する政治的な提言にすぎないかは、のちに木論がそ れを明らかにするであろう。 現行の国際法の休系のなかに多くの一般的で強行的な法規が存在することは、とうてい疑うことのできない客観的 ( l ﹀ の冥実である。ひとつの例をとってみよう。国際迎合は、その忽立の第二条で、その成員の主椛平等の原則をみとめ ている。したがって、それに反する成員の行動は、国際法によって禁止されている。この例で明らかなように、それ に従うことが強制されている客観的の法があるということは、ことばをかえていえば、そこに強行法規宮
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が存 在するということである。その行動は、国際法にしたがってそうするように方向つけられ、お務づけられている行動 皇室忠良臣官件。号である。そしてその主体を強制し、方向つけるのは、確立された閏際法規g
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円 丘町自身宮月日刊日目。の原則として、長く確立している閏際法の来一木規範のひとつである。条約は、とれを宣言している にすぎない。通商航海条約や、領事条約その他の条約がそれをとくに規定していないとしても、領域の内にあるすべ てのものがその主権のもとに立つ法の原則は、国家の平等性の原則にもと明ついて明らかに確立している。それを侵せ ば、主権の侵害であり、領域の不可侵性に対する侵害、が成立するであろう。 ひとも物も、領域のうちにあるものは、 すべてその地の主権のもとに立ち、その規制をうける。それゆえ、外悶人もまた、内国人と同じように、その保護を うける権利を国際法によって与えられているし、外国人に対してもそういう保訟を与えなければならない義務在、国家は相互的に諒せられているむこれが外国人の保護についての
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ロ 含 丘 の原則である c 国際法団体の成長 であるかぎり、どのような国家も、この法原則にしたがわなければならない。さらに作為だけではなく、不作為につ いての義務があることも、その強行性を実証する明らかな証拠である。主花平等の原則は、同家に対して他の国家の 領域を侵してはならない一般的の義務を-課している。これは、合芯によって生じた義務ではない。条約がなくとも、 各々の国家は、主権の平等の原則にもとやついて、その領域を他のものから佼かされない不可伎の地位を国際法によっ て保障されているのである。これは、具体的な不可侵条約または何事条約などによってはじめて成立する義務ではな い。他国の何ノ域は、法的に見て自国には属しない。国際法的には、それはω
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号である。そうして ﹁かれのも の﹂は、国際法によって保障されており、なにびとも、それを侵すことは許されてはいない。このように、その主体 に対して行動の限界を、積極的と消極的との双方の側から規定する国際法規は、条約に先行して妥当する上位の法規 範である。外交使節が、派遣国を全権として代表するかぎり、それに対してみとめられる特権は、条約に先行する。平 与 者 の あ い だ に 行 わ れ る 国 際 法 の 基 本 的 な 原 則 の ひ と つ は 、 匂 向 日 ロ 宮 目 白 山 口 唱 。 江 戸M
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ロ E m t a の原別である。条約は それを詳細にし、具体的な規定として成文法化したにすぎない。このことは、領域の不可侵性のなかに系としてふく まれている原別であり、不可侵条約によってはじめて生ずる義務ではない。強行的の性質をもっ一般的の国際法が乏 しいのか、それとも多いのかは、国際法団体の本質とその主体、ことに個人の法的地位についての実証的な探究によ って明らかになるであろう。とりわけ国際法の秩序と国内法のそれとのあいだに成立する関連についての正しい認識 は、強行法規と任意法規とが、国際法秩序のなかでどのような地位と価値づけとを与えられているかを明らかに示す 平和条約と私有財産東 洋 法 学 四 にちがいない。国際法は、もしもそれが真実の法の秩序であるならば、各に帰属すべき﹁かれのもの﹂についての正 しい認識と判断とを欠いてはならないからである。それが全体としては統一したものであり、内的に相互関連と段階 性とによってつらぬかれている全部意思であることにおいて、すべての法秩序は、共通の地盤の上に立っているとい える。それゆえ、法の沈黙または不明確を理由にして、個人の先国家的の権利に属するものの保護を国家が与えない ということは、法的には許されないことである。このような拒否は、条件によっては、裁判拒否辰巳︻佐官 ω 2 2 とな ︿ 3 v り、裁判官は刑罰を課せられる結果となる。法の主しい適用と執行とを任務とする裁判官が、もしも政治的の考慮に よって法を曲げるようなととがあるならば、そのととによって、かれは裁判官の地位をすてて、政治権力の使僕とな るだけである。政府の意向をその示唆により、または予測して、あらかじめ結論を準備する裁判官は、政府の不法の 協力者であって、もはや主権者たる国民の使僕ではない。不法は、だれがそれを行っても、 つねに不法だからであ る。不幸にしてこの法意識は、長いあいだ政治権力に従属して、虚偽を形式論理によって真実と思いこませる巧妙な 詑弁によって、その成立をさまたげられてきた。司法殺人を例にとるまでもないが、司法による不法は、多くの不法 のうちで、いちばんその発見の困難な法の仮面であることを、主権者の主体性の意識によって、たえず反省すること につとめなければならない。いまその著しい例を、上述の判決に現れた主張を中心にして、しらべてみよう。虚偽 は、あらゆる場でのぞかれなければならないが、具体的の事案に対して何が法的には真実であるかを宣言することを 任とする司法権の行使においてのそれは‘主権に対する反逆を意味する。良夫をいうことを義務づけられている裁判 官が、もしも法の命ずるところに反して、他の利益または指示にしたがって事案を決定することがあるならば、それ
は最大の不法を構成することである。なぜならば、そういう事態のもとでは、民は不法を是正する道を、あらかじめ とざされているからである。このばあいに、その虚偽を真理のように仮装するものの根拠が、学説であるか、解釈で あるかは、問題の本質を変えるものではない。すべての面から、法の仮面をひきはがすことが、法の支配を念とする ものの共通の課題であることを、法の形式による不法を行う機会の多い権力の行使者は、ふだんに警戒し、おそれな ければならないのである。 ( 1 ) このことは、国内法によっても、国際法によっても、実証されている。たとえば、窓法がわが国の締結した条約や、確 立された国際法規は誠実にこれを遵守することを必要とすると規定しているのは、それらの法を守ってもいいし、守らなく てもいいといっているのではない。誠実に守ることを命ずる法があることを、宣言しているのである。一般的の条約をむす んでおきながら、もしもそれを守らなくともいい任意法規であるとして、それに反する新しい条約を特定の固とむすぷ国が あるとすれば、それは国際法の秩序を破る背信にほかならない。官。
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昏を否定する国は、自らを法外者と断 罪するにひとしい。ある国の反対の意思にもかかわらず、すべての国際法団体の成員に対して強行され、義務づける一般的 の国際法があることは、国内法によっても、国際法によっても、明らかに証明された客観的の真実である。しかし、もしも その思考と行動との方式を明白な証拠にもとづかないで決定する裁判官があると仮定すれば、ひとはそういう裁判の価値 を、何と判断すべきであるか?この点については、後にさらに詳論するところにゆずって、ここでは証拠を無視しての国際 法の性格論は、法の理論ではないことに注意するのにとどめておく。 ︿ 2 ) すべての国際法は、それが規範であるかぎり、当事者の意思を限定する。この拘束は、法的に強制され、当事者はその 規範がある場合に、その規範とはことなる合意によってその拘束力を排除することを例外として明らかにみとめている場合 を除いては、すべての受範者に、その法規範にしたがってのみ行動しうるにすぎないことを命じているのである。もしも合 窓が強制力をもってその当事者を拘束しないならば、およそ国際法は存在しえない。これは、法の支配の基本の原則であ 平和条約と私有財産 五東 洋 法 学 --'-・ /、 口、司法権の発動も、つねにこの思考と行動とについての一般法則にしたがうことが要請されている。証拠にしたがって思 考し、判断する行動の方式は、何が法であるかを具体的にいう場合の裁判の巳
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である。そうして、それがまた 権力行使の基本的な条件でもある。 ( 3 ) 不法を理由にして裁判による救正を個人が要請した坊合に、その受理と審理とを拒むことは、けっきょく法の支配を否 定することにひとしい。国際法が、個人の利益を条約によって保護している場合に、その規定を任意規定であるとして無視 することは、重大な不法である。そこには、結果としての裁判拒否辰巳己o
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が成立する危険がある。フランス法の 体系では、このような裁判拒否は、犯罪を構成し、そのことに関係した裁判官は、訴追せられ、刑罰権の対象となりうる 0 フ ラ ン ス のp
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匂官己が裁判の拒否で訴追と処罰との対象にしているのは、裁判官だけではない。法廷可F E
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-も、行 政機関もふくまれている。人民に対して法の上で与えなければならない保護の拒否が罰せられる必要があるからである。 ( げ 内 同 O H ︼ 臥S
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﹀ユ-同訟を参照。決定的な点は、そのことによって憲法の保障している国民の基本的の人権が、全く否定さ れ、法の体系のなかに、法の責任と制裁とを排除する﹁法のない場﹂が成立する危険があるからである。忠法第九五条の規 定と、その精神とから論究すれば、条約という法形式で憲法の要求しているところに反する特殊の﹁法の拐﹂が成立するこ とを、はたして憲法が許しているかどうかは、理解するのにさほど難かしいことではない。 二 保 護 の 対 象 と 保 護 権 すべての法がそうであるように、国際法もまたその究極においては、人間の権利の保護を志向する法である。それ が伝来的には、国家の利益の保護という表現によって行われているのにすぎない。このことは、しばしば国際法の発 展に対しては、障害となる思考の様式となって作用してきた。たとえば、へ
1 グの陸戦に関する条約によれば、敵国︿ 4 v は占領地にある個人の財産に対して、不可侵の義務を負わされている。個人の権利と利益との保護について見れば、 外国にある個人と、その私有財産とに対してもつ木国の責任は、占領地の敵軍が私有財産に対してもつ関係とは、法 的にことなるものがある。このことは、その木国法の私有財産に対する保護の規定と密接に関係しているからであ る。わが窓法は、財産桂はこれを侵してはならないと規定して、文明国に共通の法の一般原則としての私有財産不可 侵の規範を笠一一一一目している。これは、最少限度の財産が生命粧の系に外ならないからであり、との原則に対する例外 ︿ 5 ﹀ は、とくに同位の法がみとめた場合にだけかぎられている。憲法がみとめたこの基本原則は、あらゆる国家行為に対 して、適用される。したがって、外交権の行使もまた、この私有財産に対する不可侵の原則によって、限定され、条 約によって憲法の原則を破ることはできない。もしも、その条約のなかに、憲法の規定に違反する内容の条文がある とするならば、条約の承認権者は、そのような条約を法形式のひとつとして承認する権限をもつものではない。それ は、憲法によってみとめられた権限の限界をこえ、正しい国家行為としての性格を失った無権限の行為にほかならな いからである。ヘ l グの﹁陸戦の法規慣例に関する規則﹂は、その制定の前からすでに確立されて万民法の性格をも っている慣習法を成文法の法形式をとって宣一一目した法であり、わが国もその締約国である。それは、窓法第九八条第 二項にいう日本国の締結した条約の一にぞくする国際法であることに疑いはない。この条約の第四六条は﹁私有財産 はこれを没収することを得ず﹂と規定している。私有財産が不可侵性を法によってみとめられているのは、それなし には人間の生存権は空しいものとなる危険があるからである。住居の不可侵性も、同じ妥当根拠の上に立つ先国家的 の自然的の権利である。国家から与えられた権利ではないから、国家にとってはそれは﹁じぶんの権利﹂自 g B Y
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平和条約と私有財産 七東 洋 法 学 八 ではなく、個人の!国家から見ればじぶんではないかれの!権利
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﹄尾町にほかならない e いかなる人間も、そ の共同も、かれの承諾なしには、法的にかれのものにふれることは許されてはいない。 ヘ l グの条約は、この法原則 がすでに長く国際関係においての法慣習となっている実証的の事実を宣言したのにすぎない。したがって、ヘ!グ条 約のすべての締約国は、その規定に拘束される。全員参加の条款 b ロZ
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-を援用して、条約の不適用を 主張するのは、明らかに論理的の誤謬を示すものである。ある戦争に、この条約の締約国のすべてが参加しているか どうかが、問題なのではない。条約として成立する前に、その内容はすでに慣習法として確立していた事実を忘れて はならない。したがって、この陸戦法の﹁規則および条約の規定は交戦国が悉く本条約の当事者なるときにかぎり締 結国聞にのみこれを適用す﹂という第二条の総加入条款は、事態の法的意義を変えるものではない。条約よりも以前 に、私有財産の不可侵性は、慣習国際法としてみとめられていたからである。判決も被告の答弁と主張もよ﹂の基木的 な法的事実を完全に誤解している。ととに連合国の白木占領を、戦争における占領と法的に区別して、それをヘ1
グ 陸戦法の適用の外におく主張にいたっては、論弁と評せられでも弁解の余地がない政治的の歪曲である。敵国の軍隊 が自己の領域を占領している客観的の事実が決定的な景味をもつのであり、その占領売被占伺悶が同意したかどうか は、事態の基本的な性格を変えるものではない。被告は、日本占領は、双方の交戦国にあらかじめ戦争をやめる意思 があることを宣くみて論をすすめているが、そのことは、敵軍が自己の領械を占領して主権が占領権力によって限定 されている基本的の事実を少しも変えるものではない。ポツダム宣言の受諾に引きつづいて日本の全領域は、占領軍 すなわち敵軍の権力の下におかれた。これは、歴史的かつ法的に確立した客観的の事実である。ところが、白木もまたその締約国であるヘ l グの陸戦規則は、この白木占領の事実によっては、その効力を排除されるものではない。この ︿ 7 ) ことは、憲法第九八条第二項をみれば、なにびとにも明らかで疑う余地はない。もしも、それを誠実に遵守する義務が あると窓法の明文によって規定されている日本国の﹁締結した条約﹂が、任意法規であると主張するものがあるとす れば、ひとはその論理を何と批評したらいいか? 戦場となっている占領地では、ヘ l グ条約にしたがって私有財産の 不可侵がすべての締約国に義務として強制せられている。そうして、日本もその条約の締約国であるから、憲法第九八 条第二項にしたがっても、それを尊重しなければならない法的の拘束を h つけている。ただその拘束は、窓法の成文に よってはじめて生じたものではない。すでに慣習法としての国際法が確立していたのを、条約は宣言的に成文化した にすぎないのである。個人に対する戦争法の基本目的は、それをできうるかぎり、不必要な損害の外におくことであ る。上述したように、戦闘の行われている占領地においてさえ、占領軍は、敵国人の私有財産を没収することのでき ない法的の拘束をうけているのである。それならば、戦闘を合意によって停止した敵国の領域の占領軍は、その敵地 の個人の私有財産に対してどのような法的の拘束を課せられているのであるかは、事理の当然として、なにびとにも 明らかに理解されるはずである。個人の生命と財産とに対する実戦からの損害は、その占領地が事実上敵軍の権力内 に帰した占領のばあいの方が、もはや敵対行為を全面的に停止した日本占領のばあいよりも、いっそう大きくなる可 能 性 が あ る 。 ヘ l グ条約は、そういうばあいの占領について、占領軍に個人の私有財産を没収してはならないと明文 をもって規定しているのである。個人の私有財産に対するとの没収禁止の条約を、日本は締結したのである。窓法の 明文がかりにないと仮定したところで、個人の保護に対する日本の国際法上の地位は、理解するのにかたいことでは 平和条約と私有財産 九
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ない。戦場である占領のときにおいてさえ、個人の保護のひとつは、その私有財産の不可侵の原則として、ヘ
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の 原則を日本は世界に公約したのである。法理と倫理とは、日本がただ閏宮冨g
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巴ロ君。与を尊重して、その命令を ﹁誠実に遵守する﹂こと以外には行動しえないことを、明らかに証明している。個人の私有財産が砲弾のとんでくる 危険のある占領地においてさえ、不可侵として没収を禁止されているのが、現行の国際法である。もはや砲弥が無害 の幼児や、病人や、老人を傷ける危険のなくなった日本占領のもとにおいては、 ω 同 。 円 神 戸 日 目 ( い っ そ う 強 い 理 由 ) で 、 そ の ( 8 V 没収は禁止されていると考えなければらなない。この明証の事実に対して、東京地方裁判所も、被告も、非常に珍ら しい思考の様式を展開して疑うところがないのは、全く理解にくるしむところである。その主張は、次のようである :::すなわち、かりに陸戦法規慣例に関する条約等が日木占領にも適用があるとしても、右の条約等は任京法規であ ( 9 ) るから、降伏文書の規定がそれに優先するというのである。さきにものべたように、陸戦の法規慣例についての条約 (複数)は、それが成文として締結される前にすでに慣習法として法的の拘束力をもっていたのである。この法的の 基本事実は、のちの法的認識と法的判断とに対して無視することの許されない前提条件となるものである。それだけ ではなく、国内法の上から見ても、日本が締結した条約が法的に拘束して強制力をもつことは、二主の観点から明ら かに論証されており、それらを無視する思考の方式は、全く怒怠であり、非実証的の独断であるというほかはない。 憲法の明文は、日本がむすんだ条約は誠実にこれを守らなければならないとのべている。東京裁判所の判決の主旨 は、被告の主張に従って、条約は守らなくてもいいということに重点がおかれている。その理由は、ヘ
1 グの諸条約は任意法規だからだというおどろくべき背理と不法の独断とである。もしも、個人が約束した契約を守ってもいいし 守らなくてもいいという判決をする裁判所があるとしたならば、 ひとはそういう裁判が許される国を法の支配する国 または法治国とよぶだろうか? それとも、憲法の正文を無視して裁判が、そのときどきの政府
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行政権の絞閃!の 要請と示唆にしたがって行われ、裁判所はけっきょく政府の希望条項を従順に執行することによって行政権に従属す る下位の機関となり、司法権は巧みに法の仮面をかぶって行政権の不法をかばうために舞台の上で舞う能役者にすぎ ない国とよぶだろうか、どちらかだろう。窓法は、良心にしたがって、独立に裁判することを裁判官に命じている。 これは、裁判官の思考と行動とを規定する最高の規範である。裁判が尊重しなければならない事実は、客観的に論証 することのできる確実な証拠にもとずいて認定されなければならない。そうして、このばあいになされる認識と思考 と判断とは、独立にまた良心にしたがってのみ行われなければならないのであり、政府が裁判所を指揮したり、それ に指示や、命令や、示唆などをもって干渉することは絶対に許されない。 ひとは、明治二一年の大津においてのロシ ア皇太子に対する津田三蔵の傷害すす件にさいしての、松方内閣と大審院との関係を、もういちど深く反省してみる必 要がある。湖南事件は、行政権に対する司法権のありかたについて、憲法第七六条の第三項が示している裁判官の判 断と決定と行動とについての最高の規範が、法文の規定がかりに明示していなくても、どういう内容のものでなけれ ばならないかを、七七年の昔において国民と政府とにはっきり語っているのである。 ( 4 ) ﹁私有財産はこれを没収することをえず﹂という陸戦の法規慣例に関する条約の附属書は、条約と一体をなす法であり、 その第四六条第二項でこの原則が規定されているのである。しかしこれは前文の示すところによって明らかなように、あく 平和条約と私有財産東 洋 法 学 までも宣言的の規定であって、創設的の規定ではない。条約の前文によってもそのことは明らかにみとめうるのであり、条 約のむすばれる前から、この法原則はみとめられていたのである。 ( 5 ) 国内法も、国際法も、この法の基本原則にもとずいて、その体系を構成していることは実証されている。財産権の不可 侵に対する例外は、いつもその法価値の同じ法によって、そのばあいを限定してみとめられているにすぎない。へ I グの条 約でも、取立金や徴発などについては、私有財産の不可侵性を制限することをみとめているが、そのばあいには、きびしい 形式を定めて、占領権力による私有財産への介入の危険を防ごうとしているのである。ここでも、﹁かれのもの﹂に対する 侵害が不法として、戦場においてさえ禁じられていることに、深く注意すべきである。 ( 6 ) 文明国のあらゆる人間共同の場においてもしも、法的のわれのもの目。 E H
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とが、司法権によって保護されないならば、法の秩序は否定されて、暴力がこれに代るほかはない。立法権は、この﹁各の 分 ﹂ω
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の正しく明らかに守られるために存在するのであり、行政権はその法の命ずるところが現実となって民 の福祉が各の分にしたがって各人に帰属するために、発動するのである。分立して行使される三権は、つねに法の支配する ためにだけ、民から行使者に厳粛に信託されているのであって、法の定めた﹁かれのもの﹂を﹁われのもの﹂におきかえる 不法を保護するためにあるのではない。たとえ裁判所が、判決という方式でそれを行ったとしたところで、行われた不法は あくまでも不法としてのこる。それは明らかな法の仮面同居25
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日円であり、﹁かれのもの﹂を奪う不法に協力する ものである。このばあいなにびとも、法的の真実を否定することはできない。もしも、行政権の不法に司法権が協力するな らば、法的にはそこに何が成立するかを、国民も権力者も、もういちど冷静に考えぬく必要が、権力の乱用の数多く存在す る現実を前にして、痛切な関心事となってきたのではないか。裁判とは、いつの世でもとはいえないまでも、法治国である ならば、法をいうことではないのか? ( 7 ) わが国の締結した条約が、その条文のなかでそれが任意法規であることをみとめさせる法的に正しい論拠を示すならば 全く別であるが、条約をむすんでおいて、それが任意法規であるなどという主張は、怒法の規定の明文にてらしても、全く根 拠を欠く独断である。もしもd
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含の法の一般原則があるにもかかわらず、条約の明文で約束したところと 反することを同じ私有財産の不可侵について他のものと約束する国がかりにもあるとすれば、世界の正しい世論は、そういう 政府の背信と背理とに対して、どういう批判をするだろう?また思考の論理についての法則を無視して事実の認定と法の適用とを恋意にまかせる司法権に、信頼をおくだろうか?法的思惟の世界に生きるものの、深く反省すべき問題である。 ︿ 8 ) ここで被告と裁判所とが主張しているところは、占領の基本性格を実証的の法事実にもとずくことなしに怒意に分類し て、その個人に対する保護に大きなちがいをみとめようとしていることである。かれらは、連合軍による日本占領を管理占 領とか、保障占領とかまたは戦後占領とよんで、ヘ i グ条約による占領とは、法的にことなるものと勝手にきめている。 これは、全く法的に妥当根拠のない怒意による独断である。被占領地の権力が、その地域においての排他的で最高の主権と して発動しえなくなった基本的の法的事実は、二者に共通であり、占領権力が主権者として行動しうるにいたった変動もま た、共通である。日本占領を
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であると主張する法的根拠は存在しないし、占領軍に対して個人の私 有財産はへ l グの条約に規定されている国際法の保護をもつことについて主張することのできる充分の法的根拠をもってい る。束京地裁判所の判決は、こめ基本的な法関係を、全く無視した誤謬に陥っている。 ︿ 9 ) これは保護すべき対象についての全き錯誤からきているし、へ!グの諸条約と降伏文書とのあいだに成立する法的関係 を歪曲した政治的の主張である。それが法的思惟の基本的な要請に反する矛盾にみちていることは、とうてい否定できな LV (叩﹀この湖南事件は、明治憲法さえが、まだ施行されていなかった時代に、司法権が決して行政権の使僕ではないし、また 決してそれに従属して政府の行う不法を弁護する協力者であってはならない三権の分立の原則を高くかかげた例として、日 本の憲法史ことに司法権の独立について、現行の憲法の範となった事実であるといえる。 問題の焦点は、保護の対象が何であるかの点と、その保護の権はなにものに属するかの、ふたつの点にしぼられ る 。 ヘl
グの諸条約は、私有財産を没収することを占領権力に対してはっきり禁止している。被占領地は、原則とし ては敵国の領域である。そうして、そこにある私有財産もまた、原則として敵人すなわち個人の財産である。この規 定は、個人の財産権に対する不可侵の義務を占領軍に課する方式を通して、個人の国際法における地位と権利との保 護を命ずる法的の根拠が何であるかを、明らかにしたものである。個人の財産が条約によって保護されていること 平和条約と私有財産東 洋 法 学 四 は、法的には、個人が国際法によって保一読され、個人はその財産について敵軍から、したがって外国から保護をうけ る権利を hつける権利をもっていることを意味する。そうしてこのことは、個人が国家とともに、国際法の主体である ことを語るものである。
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l グ条約の第四六条にもとずいて、個人のもっている被保護の桂利は、国際法によってみ とめられている権利である。このことがふくむ意味は、きわめて重大である。というのは、ここで占領権力の介入ま たは侵生白から国際法によって保護されているのは、個人の桂利であり、私有財産だということである。保護の対象 は、個人とその財産経とであり国家ではない。国の公の財産とりわけ軍用品は、破壊の対象であり、戦利品として没 収される。この点で、占領地の私有財産が没収をかたく禁じられているのとは、国際法の上で対跡的な取扱をうけな ければならない地位におかれている。砲火が交えられる地方が敵の権力内に事実上おちいったばあいには、ヘ
l グ条 約によって、法的に占領が成立するのである。そうして、占領地においては、国の財産とはちがって、個人の財産経 は、原則として敵軍によって尊重され、私有財産の没収の禁止が、法によって規定されているのである。対手敵国を 降伏させる必要のある実戦の坊においてさえ、占領軍は、みだりに個人の杭利に介入し、それを侵害し、私有財産を 没収することを法によって禁止されている事実は、白木占領における私有財産の法的地位がどのようなものであるか を理解するについて、主要な契機を提供する。占領経力は、被占領地の個人の利益を保設するについての制限をかせ られているのであるから、この事実にもとずいて、個人の国際法における椛利主休たる地位、すなわちその主体性が 確立されているとみとめなければならない。すでに敗戦の事実の確立した国の被占領地が、この悲一本的な法的事実を ディスク V パンツ 無視していいという主張はそれゆえ、とうてい成立する余地がない。ふたつの占領のあいだに、不一致をみとめようとする思考の方式は、ふたつの占領が、国際法のみとめる占領の基木概念によってつらぬかれている事実にもとずい ロひカルファラ ν l て、否定されなければならない論理の誤謬をふくんでいる。この解釈の根本的なあやまりが、保護の対象を正しくと らえることそ不可能にしたばかりではなく、その対象に対しては、国際法にもとずくものと、国内法にもとずくもの との、二重の保護権が厳存する重要な法的事実の認識を、見落させてしまったのである。かりに国家権力がその行使 についての原則と限界とを正しく理解しないで、個人の私有財産を不当かっ不法に没収するあやまちを犯したとして も、そこには法的価値において上位の審級としての国際法の秩序と、その命ずる保護の要訪と校利とがあることを、 忘れてはならない。降伏文書の規定も、のちにのベる﹁解散団体の財産の管理及び処分等に関する政令﹂も、この上 位法の規定に反しては、法的に全く効力をもちえないのが真実である。 対 立 す る 利 益 と 平 和 法 の 要 訪 すでに引用した東京地方裁判所の判決は、国の利益と佃人のそれとが対立する事件について提起された訴訟に対し てなされたものであり、けっきょく国の考えたところが、裁判所でみとめられて、佃人または団体の主張が斥けられ た裁判の判決である。このばあいに、裁判所は、国際法の秩序が個人の利益と程利との保護について示している配慮 と保障の手段とについて正しい認識をもって裁判を行っているかどうかをしらべることは、平和法への道が拓かれる か、それとも恐るべき全休戦争の観念と事実とが再び政府の行為によってくりかえされて、民にいいようのない﹁戦 平和条約と私有財産 一 玉
東 洋 法 学 一 六 争の惨禍﹂がまたおしつけられるかのわかれ道に私たちを立たせるからである。国民は、きびしくまた正しく、 つも政府の行為﹂を監督しなければならない義務と権利とを、や一応法によってみとめられているからである。平和をう ー寸 し、 るために、法とその機能とは、うむことなく平和に備えなければならない。平和をうるために、戦争にそなえた﹁政 府の行為﹂から、民にどのような惨禍と不幸とが押しつけられたかを、人類の悲しい歴史が、権力による不法の決算 として、正しく記録しているからである。うそは、医者がガン患者に対していう例外のばあいをのぞいて、たれがい ってもいけないが、平和法への道と戦争への道との十字路に国民が立たされたとき、政府と、裁判所と、学者との協 力でのべられるばあいにはどうなるか? その民に加えられる災害がどんなものであるかは、広島と長崎とのことば も、たれかがあえてそれをいう良心と誠実と勇気とをもたなければ、 につくしがたい﹁惨禍﹂が、それを私たちに実証している。真実は、それ自らの道をひらくが、法的の真実について ︿ ロ ﹀ いつかは石が
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叫ぶにちがいない。 (日)この国民による政府の行為に対する監督と是正とについては、アメリカの独立宣言がもっとも雄弁に、また格調の高い 文体で、国民のもつ権利と責任とについてのべている。またその二ニ年のちのフランスの﹁人間と市民との権利宣告己と、 一七九三年のそれのなかでも、同じ法の基本原則が窓法体系のなかにとりいれられ、さらに第四共和制と第五共和制との憲 法のなかにおいても、重要な基本原則として確認されている。 (ロ)かつて正戦ZE
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を名目にして戦争を計画し、準備し、実行した多くの国の政 府または権力者たちは、民の福祉と国のそれとのあいだに、しばしば対立があり、またありうることをみとめようとはしな かった。かれらは、その行使する権力が、本質的にはl
形式的にではなく│民からの厳粛な信託にほかならない真実に対し て、ほとんど盲目であった。そうして、いわゆる﹁歴史的の権利﹂が、しばしば5
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。にほかならないことに対して は、全く耳をかそうとはしなかった。ひとたび武器が動けば、法はカの外におかれると考えた官官円山口g
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の 世俗の絶望的ななげきは、かれらの思惟と行動とを規定する最高の規範と L て、その心裡に作用 L ていたのである。ここにも、グロティウスの﹁戦争と平和の法﹂の体系から、戦争を法の外におく
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についての理論的の根拠がひそんでいる。なぜならば、﹁なんじら黙さば石叫くべし﹂の予言は、熱核兵器の投げられると き、人類の葬送曲となる危険がなにびとにも明らかだからである。平和の法への新しい道は、]凶勺E
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ではなく して、理性がめざめ、良心が叫ぶ誠実と勇気とをとおして、はじめて拐かれるにすぎない。 占領権力が、国際法の確立された条規に反して発動しえないことは、国際法の一般規定をその国の国内法の構成部 分としてとりいれている国の憲法によっても、実証することができる。しかも現存する文明国が、このような国際法 の国内法への可o
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自 習 ω ω の過程をとっているかどうかとはなれでも、間際法の規定に反しては国安椛力 が発動しえない法的関係は、なにびとにも明らかである。その効力において上位法と下位法との比重を定める法の段 階的構造は、主権者である民の利益と権利との保護の要請の上からも、この限定が必要であり、また正しいことを論 証している。平和の法官官舎 は、戦争を法の外におくととを、その茶一木目的として措定する。たとえ宍法にお いて、市民の権利だけでなく、人間の桂利の保護が高くかかげられているとしても、もしも下位の法である法律がそ れを骨ぬきにし空文に帰せしめるような施行の法をつくるならば、そこには法律による不法、 い わ ゆ る ∞ 2 2 N ロ 岳g
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が、専制政治とことなるところのない怒窓を法律の名で行うにちがいないことは、こんにちまでの法と政治 との歴史にてらして、きわめて明らかである。木件についていえば、敵国の領域を占領した占領権力の法的責任につ いての原則とが問われていることを、考えなければならない。昭和二三年三月一日の総司令部党書 ( A G 三八六・七) は、解散団体に属する財産が、すべて日本政府に移転さるべき旨を指令した。原告の請求原因に対して被告は、この 指令を重視して答弁を行っている。すなわち、この所有権の移転を命じた指令は、日本の民主主義的の態勢を確立さ 平和条約と私有財産 七東 洋 法 学 i¥. せた正当な権限の行使であって、なんら国際法に違反するものではないというのである。政治の要請と、法の命令と の対立をどう取扱うべきかの重要な論点が、 ζ こ に ひ そ ん で い る 。 ( 臼 ) ﹁ 判 例 時 報 ﹂ N O 仙 6 頁。被告はここでへ l グの条約を任意法規であると怒意的に独断し、降伏文書の規定がそれに優 先することを主張している。 この指令にもとずいて昭和二
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年に﹁ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関する件﹂が勅令第四二号として発 せられた。そうしてこの勅令にしたがって憲法案施後の二三年八月一九日に、 ﹁解散団体の財産の管理及び処分等に 関する政令﹂が政令第二三八号として公布されたのである。所有権の移転処分は、この政令の第三条にある﹁解散回 体の動産、不動産、債権その他の財産は国庫に帰属﹂するという規定を適用して行われた。権力のらん用l
松利ので はないーからいつも確実に保護されなければならない対象がなんであるか? その保護の責任は、たれに帰属するの か ? 占領された敗戦国は、占領権力のどのようなl
たとえば国際法の確立された条規に正面から違反するような! 命令にも、そのまましたがわなければならないのか? '無条件で降伏したのであるから、敵軍である占領軍は、国際 法の一般原則に明らかに反することをも、被占領国に命令することができるのであるか? これらの重要な聞に対じ ての被告の容は全くかんたんで、客観的に妥当する法的の論拠を欠いていることは証明にかたくない。それは、右の 政令とこれにもとずく行為は、すべて有効というべきであるとのべているだけで、その主張の根拠は、降伏文書の規 定が任意法規であるヘ l グの陸戦に関する諸条約に優先するという独断につきる。一訟法にしたがってわが国の締結し た条約は、守らなければならない法的の拘束力をもっている。その条約で、私有財産を没収することを許さない原則が宣言されているのである。しかも条約の内容を枯成する条規は、それらが条約の形式をとって成文となる前から償 習法として妥当していたことは、前文によっても明らかである。したがって、被告たちが主張する条約の第二条の b -5 0 件 。 臣 官 ロ ∞
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-を理由にして、その条約を任意法規であるということは、規間前理的には、会一くあやまった摂一一百 である。降伏文書の性質は、無条件の敗北の承認と、その結果の受諾であるから、法形式としては、合窓による交戦 の停止と、迎合軍の課するポツダム宣言にもとずく諸義務の岡山行についての約京である。白木はそれゆえ、 ﹁ 強 制 さ れて芯欲した、しかし意欲した﹂のである。ところでこの合意は法の約束であるから、双方の当事者が法の上で許さ れることだけしか約束することのできないのは、自明の理である。なぜならば、法は不可能を絃利とし、義務とする ことはできないのであるから。戦勝者と敗戦者とのあいだに成立した力の侵劣による降伏文書の規定も、この泣本原 則を変えることは絶対にできない。それは、法の思考の法則と、人間の理性の論理とに反するからである。国際法団 体を規制する主粧の原則は、たとえ降伏の事実にもとずいて戦敗者の主権の上に占領軍の主粧がおかれたとしても、 この事実は、双方に対して確立された国際法に反して行動する自由を与えるものではない。降伏文書は、決して戦敗 国を国際法のかする義務から解放する法的の力をもつものではないし、また個人が固とは別に国際法によって保護さ れている私有財産の不可侵についての固有で、基本的な権利を、うばう権原となりうるものでもない。被告たちの答 弁と主張とが、この決定的に重要な法の論点について、なんの問題意識をも示していないのは、いったいどういうわ 政府による私有財産の没収が、国際法を無視した不法であることを強いて弁護しようとして、考慮 ( M ﹀ すべき法的の基木論点に気がつかないで、適法の結論を主張することに急いだためであろうか?政令第二=一入号そ けであろうか? 平和条約と私有財産 九京 洋 法 ~ 寸ー 二
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のものの公布を論拠として、それと、それにもとずく政府の行為とをすべて有効というべきであると独断して他のも っと重要な論点にふれていないのは、それらの存在を知らなかったのか、忘れたのか、それとも知っていて無視した のか、東京地方裁判所の思考の方式を通しては、はっきり理解することはできない。裁判所は、日本国と迎合国との あいだに締結された平和条約を法的に決定的な力をもっ根拠であると考えて、その見解を正当化しようとつとめてい る。しかし、その努力が空しいことは、きびしく正しい規範論理の思考g
口 H ているものであるならば、たやすくみとめうるところである。平和条約の第一九条ω
は、日本国は占領期間中に占領 当局の指令に基づいて若しくはその結果として行われ、又は当時の日本国の法律によって許可されたすべての作為又 は﹁作為の効力を承認﹂するよう義務づけられているから、木件不動産の国庫帰属(没収)の無効を主張することは ( 日 ) 許されないと、はっきり断言している。しかしこれは、まことに驚くべき非法的の独断であると評するほかない。い まその法的理由を考察してゆこう。 ( M ) ここで被告の主張している政令第二三八号の第三条にもとずいてなされた私有財産を国庫に帰属することを命じた政府 の行為が全く正しいという判断は、論理的には、論点相違のあやまちに起因している。問題は、その政令と、さらに降伏文 書の規定の実行の方式とが、それらに上位する国際法の確立された条規に迎合してなされているかどうかの点に、決定的の 意味があるのに、これらの点が全くふれられていない証拠の不充分に全く気がつかずに、独断的に適法であるとの価値判断 が行われているからである(上掲の﹁判例時報﹂ N O 仙参照) (日)この私有財産を国庫へ帰属させた政府の行為は、国際法の体系が国内法のそれと同じように段階的の栴迭をもっている 基本的の事実に対して、きびしい認識と判断とを行うことなしに、私有財産の不可侵性を尊重して戦地においてさえその没 収を禁止しているへ l グの条約を、かんたんに任意法規であると主張して疑わない独断にもとずく誤謬である。これは基本 的な思考の方式を無視して、二国のあいだの合芯で自己もまたその締約国である一般法規を排除しようとする行動であることは、とうてい否定することができない。もしも、ある国の政府の行う重大な措置が、思考と行動との妥当性についてふつ うに要求されている前提要請を考慮しないでなされていることが客観的な証拠にもとずいて論証できるとするならば、すで になされた認識と判断とについて、謙虚に反省することが、独立と良心とを裁判官の職務行動のもっとも大切な要素として 命じているその国の法に忠実にしたがうことではなかろうか? すでに分析してきたように、この裁判では、二つの対立する利益と校利とが各々ことなる法的見解にもとずいて争 われ、その争の根本となった私有財産の国による没収の事実を、被告は適法と主張し、原告の主張する没収行為の不 法についての訪求原因を、裁判所は斥けて原告を敗訴と判決して被告が訴訟に勝つ結果となった。このように、被告 の主張がみとめられて原告の請求が斥けられたことは、ことばをかえていえば、国の、すなわち政府の行った私有財 産の没収についての行為が正しいという法的の価値判断をしたことにほかならない。裁判所は、政府のがわに立つ て、国が締結したヘ
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グの条約と、その根底にある国際慣習法のみとめる法原則の私有財産の不可侵についての原告 の主張を正しくないと判断し、条約と確立された国際法規とともに禁止している私有財産の没収に対する明らかな禁 止にもかかわらず不法な没収を断行した政府の行為が、全く正しいものであるという裁判を、あえてしているのであ る。平和の法の形成と発展との視点からみて、この判決は、学者に対しても、きわめて重大な問題を提出している。 なぜならば、裁判所も被告も、降伏文書にもとずいて、 白木国は占領権力の行った所有権の移転に関する行為の効力 を承認しなければならないことを強調はしているが、その占領軍が自己に上位する国際法の禁止を無視してはならな い こ と に つ い て は 、 ひとこともふれてはいないからである。ととに、 ヘ!グの諸条約の基本目的を全く省みないの は、法解釈の方法としては、正しいとはいえない。この基本目的は、条約という法形式をとることにあるのではなく、 平和条約と私有財産東 洋 法 A主.t.. 寸・ すでにのべたように、慣習としてみとめられかつ守られている先条約的の法がある客観的の事実を宣明することで あ る 。 前 文 は 、 ﹁陸戦慣習を明確に規定することを目的﹂とする旨を明らかにしている。これは、条約によってその ときまでなかった新しい法を制定することを目的としているのではなく、すでに行われていた慣習法を、条約という 法形式において確認したことを意味する。ことに、 ﹁人民及び・交戦者が文明国の聞に存立する慣習、人道の法則及び 公共良心の要求より生ずる国際法の原則の保護及び支配の下に立つことを確認する﹂という表現は、法的に見てきわ めて重大な意味をもっている。条約の形式はもっていないが、そこには人民と交戦者とに対する国際法の原則が支配 す る こ と を 、
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l グ諸条約の締約国は、明文をもって互に確認しているのである。そうして、くりかえしその点に注 意を促してきたように、 日本はその締約国であり、これらの条約は、憲法のいう﹁日本国が締結した条約﹂にほかな らない。この点は、日本占領の連合国についても、同様にあてはまる。占領国も、被占領国も、この確立されかつ条 約の明文で承認された国際法の原則に反して行動する権利は、全くもっていないのである。裁判所は、被告の誤った 見解をそのまま自己のものとして、 一般法規と特別法規とを規制する原則によって訴訟を解釈しようとしているが、 その論理にあやまちがあることは、前述したところによって明らかである。どのような人間共同の法においても、全 部秩序と部分秩序とのあいだの関係を規制する原則を正しくみとめることなしには、その目的である平和を保障する ことはできない。これは、普遍に妥当する論理の要請である。したがって、私有財産の不可侵性を保障している全部 秩序の法は、その法の体系のなかで、同位法による例外の承認を行っていないかぎり、例外なしに行われなければな らない。例外のない規則は存在しないという法の諺は、その例外が、同位の法によってみとめられているばあいにだけ、あてはまる。もしそうでなしに、下位の法によって、上位の法の命じていることにことなる例外がみとめられる ことを許すならば、法の秩序の基本目的は、全く失われてしまうであろう。なぜならば、下位の法によって、上位の 法の例外をみとめることを許すならば、多くの国の法と政治との歴史が悲しくもまた明らかにそれを実証しているよ うに、例外の集積と、その事実についての民の意識の麻庫と、消失とによって、確実に、例外が原則になってしまう からである。厳然たる事実として、どのような占領に対しても行われる人道の法または人間の良心からでてくる国際 法の原則があることを、
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lグ条約の前文は確認している。それゆえ、すべての占領地において、この法は拘束し、 人民と交い法の限戦者とを、政府と占領権力とによって代表される国家の行動に対して、保護し、侵害してはならな 界を示したのである。そうしてこの客観的に妥当する法が、権力の交通を規制するところの、占領権力に上位する規 範であることは、なにびとも否定することはできない。もしもそれを否定するならば、法の支配をみとめないことに なり、法の基本目的である平和を否定することになるであろう。もしも、法の解釈が、法そのものと平和との否定に 傾くとすれば、ひとはそのような解釈をどう評価すべきであるか? 正しい平和の法が成立するために必要な前提要 件は、国際法が権力に対して課した制限である。そうして、その認識と尊重とに、秩序の安全がかかっている。四
平 和 条 約 に よ る 個 人 の 保 護 一九五一年九月八日サン・フランシスコで署名された﹁日本との条約﹂は、憲法の上からも、国際法の上からも、 平和条約と私有財産東
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羊 法 且ι ヴー 二 四 きわめて重要な論点を多くふくんでいる。しかし本論では、主として私有財産の保護を中心にして、個人の地位と権 利とがどのように取扱われているかの問題を論究するのにとどめたいと思う。領域についての規定が、平和の法の成 立と発展とに対してどのような意義をもつかの、法的にも、政治的にも重要で困難な問題については、 いずれ発表す る﹁平和法についての試論﹂のなかでのべるところにゆずることにする。ここでは、権力の不法として、﹁かれのも の﹂をその承諾なしに一方的に、自己に帰属せしめた私有財産の没収の問題を芳察することにとどめたい。 (日)本論では領域についての平和条約の規定にふれないで、平和条約のなかでも、その第一四条による日木国民の財産権に 対する連合国と日本国との合意の法的意義を、国内法の秩序と国際法のそれとから論究することに努めたい。 敗戦国に対する占領軍の法的責任は、被占領地がもはや現実には戦場ではなくなったという事実によっては、根本 的に変るものではない。財政上の責任についても全く同じである。戦場でなくなった地域の占有も、敵軍の権力の下 にあることは、明らかである。それゆえ、ヘ
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グの陸戦に関する法、ことに私有財産の没収を占領軍に対して禁止し ている法が占領の行われるところで効力をもちつ。つけていることは、法的にはとうてい否定することができない。占 領軍は、その占領地を管理するにあたって、自己の行動を規制する上位の法の拘束を、決して排除できるものではな い。占領軍に対して主権の行使が無制限に許されるものではなく、それをきびしく規制する客倒的の原則と、限界と が存在することは、占領の行われている敵国の領域においての主柱についても、冥突である。占領軍の属する国の主 桂も、被占領地の属する国の主権も、この法の拘束の外に立つことはできない。これは、きわめて主要な基本的の事 実である。占領国が勝利をえた実力の促先は、その事実によって、 かれらを国際法の拘束から仰放するものではないからである c 占領によって、被占領地は、占領軍の椛力の下に立つのであるから、被占領国の主権は、そのかぎりに おいては限定をうけるのは当然である。戦闘行為が終っていないばあいには、被占領国の主権は、被占.飢地から排除 されて、その行使ができなくなる。もちろん、このばあいにも、被占領国の法が、そこに行われることは、租税の徴 ( ロ ) 収が現行の法律によって行われることから見ても、明らかである。なぜならば、多くのばあいに占領軍は、自ら直接 に占領地の行政にあたらないで、被占領国の既存の機関をとおして、その地に行われている法によって、行政の実際 にあたらせているからである。この意味では、被占領国の主権は、法的に見て、完全にそこから排除されているので はない。占領軍は被占領地においては、その行政について、直接に管理するのではなく、自己の芯忠を指示し、命令 して、対手敵国にその施行にあたらせ、それを監督する立坊をとっているのが、ふつうの例である。ただこのばあい にも、占領軍の権力の行使を規制する強行法規としての国際法の一般法規が妥当する関係を、忘れることは許されな い。被占領地の人民が国際法によってみとめられている保護が、占領の事実によって否定されることは、法的にはあ りえない。占領が無条件の降伏によって成立するばあいについても、同じ法の原則が支配することは、疑いえないと ころである。双方が一般国際法の規制をうけており、各の権力が限定される関係に立つことにおいては、占領国も被 占領国も、法的には平等の立場におかれている。しかし、占領軍は、国際法が禁止していることを、命令できないだ けではなく、被占領国も、そういう不法の命令にしたがうことを、許されてはいない。ことに、占領を契機として成 立するようになったところの、主権国が敗戦国に対して命令し、強制することができるという例外的な法関係は、国 際法団体の平和と、その法秩序の安全とから見て、永続すべき性質のことがらではない。力の伎劣がっくりいだした 平和条約と私有財産 二 五
ヌE 法 ヤ 法 学 一 一 六 戦勝者の法的地位と権能とは、戦争状態のつづくかぎりにおいてみとめられるにすぎない例外である。それは、でき るだけ早く、原則が要求する正常の状態に復帰することを求めているし、それが正しいし、また必要でもある。平和 条約は戦争状態を終了させて、新しい平和状態をつくりだすことを志向する条約であるから、新しい戦争原因をふく む規定を設けることを、できるだけさけなければならない。敗者を、いつまでも国際法団体においての法的の劣者と しておくような規定をつくることは、けっきょく新しい戦争の可能性をますことになるからである。個人の地位が 尊さ重れなければならず、その利益と権利とが、戦争の前にくらべて、より少ない保護しか与えられないような規定 を設けることは、平和条約の基本目的に反することになる。これは、国際法の秩序が、もともと平等であったその主 体のあいだに、不平等な法的地位、たとえば戦敗国の戦勝国に対する﹁劣小の地位﹂冨吉念日件。
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をつくって、そ れを固定させることが、長いあいだに何を生みだすかについて少し深く反省するならば、おのずから明らかになって くることがらである。もしも、戦敗因の領域の法的全一性Z
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合 同 O耳 目 昨 日 目 。 こ と を 定 め た 国 際 法 の 基 本 原 則 が 否 定 さ れ て し ま う か ら で あ る 。 法 的 に も 、 政治的にも、平和状態の下において、主権国の領域の一部が、他の主権国によって政治と法と経済とを支配されて、 その主権のもとに立つということは、文明国のあいだではふつうにありえない全く例外のことである。それはある地 域が、領域としては、自己の領域であっても、そこには他国の主権が行われていて、自国の主権は全く排除されて、 行われてはいない状態である。したがって国内法から見ても、国際法から見ても、そこには同一の国家の領域のなかに、時間を同じくして、二つのちがった国家が存在し、かつ行動しつづけていることを意味する。国の主権者である 国民、とりわけ外国の主権の支配のもとに自らの意思を直接にきかれることなしに永続的に立たされている住民の利 益と、権利との保護の有効性の視点からみて、このような二つの主権の同時の存在と、発動とが、より望ましいもの であるか、それともその反対であるかどうかは、理解するのにさほど難かしいことではない。住民の意思が、どちら がよりよいものと選ぶかは、主権の平等の原則にてらして明らかである。個人の利益が有効に保護されるかどうか は、全体として住民の自由に表明する意思ことにその願望に適合するかどうかが、それをきめるについての決定的の 契 機 と な る 。 一国を、二つの国家の主権が、国民と領域との全一性の原則に反して二つのちがう法城として支配する ことは、平常の状態のもとでは、全く考えられない例外である。なぜならば、そのことによって、領域の一部が治外 法権のみとめられる特殊の地域となり、本国の主権によるその地域の住民の保護と、外国の主権によるそれとは、ど ちらが保護として価値が高いかの決定的な意義のある問題を提起するからである。とにかく、それが法的の特別な状 態であり、過渡的な性格のものであることは、なにびとにも明らかなはずである。しかも外国の主権の下に立つ国民 は、いろいろの点で、自国の主権の下に立つ国民にくらべて、不利な地位におかれているのが事実である。このよう な例外の状態が、その国の憲法と国際法とから見てどのような意味をもつかは、保護の有効性を座標にして測定され なければならない。自己の領域の一部の住民を、それが永続的に外国の主権の下に立つという事実をもとにして、他 の領域の住民に比していちじるしい不利な状態におくことが、平和の形成と発展とにとって何を意味するかを、力に よって成立した既成事実の観点からではなく、自己の自由な意思によってその政治形態を決しうる国民主権のそれか 平和条約と私有財産 二 七
東 洋 法 ~ 寸ニー 二 八 ら、考察しなければならない。国内法と国際法とが、この点について何を規定しているかを、正しく理解する必要が あ る 。 (げ)この方式は、かつての植民地の民に対して行われたものと同じ心理的な理由や、経済的な理由にもと,すいている。この 方式のもとでは、住民は、自らが政治と行政とを行っているとの錯党にみちびかれやすい。ところが沖純の状態は、これら とは全く対照的である。前者のばあいは、いままでの法律が行われ、いままでの裁判所が、司法権を行使したのであり、連 合軍による日本占領もそのカテゴリーにはいる。 (臼)その権力は、占領目的によって限定されるから、国際法がみとめていない、あるいは禁止していることを命令し、行わ せることは占領軍にはできない。占領軍の権力が敗戦国の主権の上におかれることと、その占領椛力に上位の法としての国 際法の原則と限界とがあることとは、全くちがったことがらである。監督も、管理も、この限定のわくのうちにおいての み、法的には有効であるにすぎないことに、深く注意すべきである。平和条約の第一九条
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は、この法の段階構造からでて くる効力の順位を、全く無視している恋意的な規定である。 平和条約による個人の保護がどのようになされているかを正しく理解するために、それと主要な関係をもっ条文に ついて、きびしい検討を行う必要がある。東京地方裁判所は、国家間の合芯l
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相互の問においては、とくに効 ( m 己 力の優劣はないとの見解をとっている。この提一一↑一日は、法的の認識としても、法的の判断としても全く根拠のない独断 に立つ℃いる。それはまた、国際法の法源についての非実証的な怒意を表明している。すでに国際裁判において適用 される法が何であるかを考えるならば、との主張が正しいか正しくないかは、きわめて明らかなはずである。国際司 法裁判所規程は、その第三八条の 1 の C で 、 ﹁文明国が認めた法の一般原則﹂をその法源のひとつにかぞえている。かつての国際述盟のもとにおいての常設国際司法裁判所規程にも、これと全く同じような規定があるから、