近世に於げる越後長岡異法義始末記
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真宗に於ける秘事法門なるものは、所謂近世期に現出したかくし念仏・かくれ念仏・新後生の類同様、本願寺教団 から食出した特異な存在の一つであるとされ、古くから単なる無知な庶民大衆の迷信・邪教であると蔑視されて来て おり、それは教団の発展と共に其の生命を保って来ているのである。そして封建的権力体制の江戸時代に於ては、日 蓮宗の不受不施派・三烏派或は切支丹等と共に、反社会性の名のもとに官権と教権の迫害・弾圧は厳しいものがあっ 旬。然しそれにもか斗わらず、これ等は広く深く蔓延し本格的興隆に至り、其の実態の具体的全貌を数々表出して、 ① 数種の随筆文学等にも取り上げられる様になった。 所で此の様な秘事法門は、尚今日迄継承され、特に真宗地帯と云われる所に潜在的に分布しているのである。此の 事実に我々は驚きを感じると共に、日本民族宗教の源初的形態を新たに再認識させられる。と同時に、直接現代の社 会・人間に関っている問題でもあり、其の歴史的後付けが非常に大と云わざるをえない。こふに至って此の様な課題 は、今迄の研究の如く一真宗内の問題にとらわれず、もっと自由な広い立場から、其の秘事法門なるものを追求して 近 世 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 記近 世 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 記 ① 行かなければ、真の宗教史的・社会史的解明にはならないであろう。そして、こうした秘事法門を通して庶民の奥底 に秘めている精神構造の一端をも知るという事にも繋がるのである。 そこで此の様な問題を究明する一途として、今回取り上げようとするのは、寛政年間に越後長岡で異法義なるもの ① が発覚し、官権と教権の手によって処分された事件の始末記と、これが現代に継承された所の山伏が唱導する﹁御内 ③ ① 証﹂との関係の問題である。時恰相前後して、関西では﹁秘事法門﹂︵寛政九年︶が、九州では﹁新後生﹂︵寛政十一年︶ 等が露顕しているが、此の越後の異法義は意外に広い伝播力と長い息を保ち継け、宗教学的にも非常に特異な事象の 実態と教義内容を持っており、若干これについて考察を試みたい。 ① さて、寛政七年の事件の発覚と経過を先ず、本願寺側の﹃越後長岡異法義間取書﹄︵以下﹃関取書﹄と略称する︶の史 料で見てみると越後長岡に異法信仰が在るとの事で、藩では内検に及んでいたが、偶石内村の久太郎宅へ時々大勢参 集しているという事で、役人達は博奔の開帳と思い押し込んだ所、﹁本尊之様なる物を相掛銘々拝礼杯致﹂︵﹃関取書﹄︶ 忌 していたとい
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そこで一旦引き上げたが、不審に思い女房一人を駆落に仕立て潜入させ、異法義なる事を確認した 上で役人達が、稲葉村久次左衛門等四人の頭取と、善正寺門徒大嶋村九郎左衛門等二人を召し捕ったのである。そし て、柄吉村の善正寺住職が牢屋に出向いて、教訓目心をさせて一異法之書籍四・五冊三﹃関取書﹂一︶を差し出させた。 此の事件の発覚する以前の享保三年にも、同系統で﹁輪庵法義一と称して百人余が入牢しており、二十年程以前に も見付村妙覚寺旦那に此の法義に帰依する徒が有り、領主より同村禅家の知徳寺へ催破する様申し付けがあったとい う 事 で あ る 。此の様にして今回の事件は、張本人の飯柳村の市左衛門、頭取の稲葉村久次左衛門・源左衛門・与三右衛門・富嶋 村庄屋五郎兵衛等の中心人物を初め、長岡領だけでも百八十軒の多数者にのぼり、 一 応 ﹁ 僧 分 は 壱 人 も 無 御 座 候 ﹂ ︵﹃関取書﹄︶としている。こ斗に市左衛門を大頭取として頂点に置き、其の下に其々四人の頭取達︵ H H 普知識︶が従が ぃ、適当数の信者のグループの結社︵講形式︶を組織した構成様式が在ったと思われる。そして分布も広範囲に及び、 ① 各東西本願寺の末寺︵十八箇寺が史料上把握出来る︶の門徒が家や類族を媒介として加入して行ったのであり、⋮他天 領にも及んでいた。更に此の越後以外にも徒党が在り、 一 関 八 州 類 属 千 八 百 人 ユ 余 り 候 ﹂ ︵ ﹃ 関 取 書 ﹄ ︶ と 伝 え て い る 。 ﹂ ミ で 注 目 す べ き は 、 一つの秘事法門の特徴とも云える入信の勧誘が、縁者・友人・近所関係を辿って秘密裡に伝播 される所から、家包み・村包みという古い血縁的・地縁的共同体社会の集団組織に基いて現出した事が非常に顕著に 見られるのである o 所謂個人的な刷心というのではなく、家や村の通過儀礼という社会的規制を以て信仰集団に加入 ⑩ して行くのであろう。 然而次に、此の様な異法義の系譜について同じく﹃間取書﹄は、 飯柳村市左衛門不正義相伝り候本元ハ長岡領嶋峯と申処ニ輪庵と中医師捕蹴 U 問領先祖迄伝り候此起りは昔年高野 ︵ 立 カ ︶ 山万川邪義と ︵ 中 略 ︶ 天草之邪法と越前ユ弘り候秘事法門とを混雑仕候而相勧申候輩則寛文年中之義ニ御座候由 此邪義を輪庵先祖相承仕候故輸庵迄秘して伝へ申候処輪庵代ニ露顕仕候一ヨ一時 として、高野山立川流邪義に寛文年中天草の邪法と越前の秘事法門が混雑して教え勧めていたものが、此の異法を享保 三年の輪庵代に露顕する、迄彼の先祖が秘伝相承し、今日の事件の張本人市左衛門迄相伝したとするのである。此の異法 近 世 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 記
近 世 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 一 氾 四 の教義内容は後にも触れるが、立川流と越前の秘事法門の混入は認められるが、天草の邪法所謂切支丹が入っていた というのは疑問で、これが本願寺側の史料であり、又当時﹁邪教﹂と云えば幕府の厳禁する所の切支丹を一般に多く 指していた為に、本願寺側の中傷とも考えられる o 更に続いて﹃間取書﹄は、信者達の主張する異法々脈相伝を、 是ヲワカ家ノ相伝トイフコノ相伝八宗ニツタフトイへトモ徴密ノ口伝ナルカ故ニ真言ニハ新古ノアラソヒヨリタ へ天台ニハ檀那横川等ノ学風ヨリ減ジ浄土門−一ハ七祖ヨリ相承ツテ蓮如上人−一イタル蓮如上人ノ時ソノ法ヲウク 公 明 カ ︶ ︵ 宗 カ ︶ ︵ 後 カ ︶ ハ 市 左 ルモノ夕、赤尾ノ道秀一人ナリ道秀十一代ノ孫越后国住人権左右衛門也是ヨリ辰之助徳兵衛ト相ッ、キ今ノ市左 清 門 カ ︶ 右衛門ニイタルマテ四代ノ間コレヲツタフ ⑬ と記しているが、此の様な相伝は他の色々な芸能・芸道・技術等にも云えるのであるが、現在迄の近い所は大体信ず べ き も の が あ る が 、 それを糊るにしたがい全く史実を無視した偽作が大部分で、 一つの権威づけになるのである。 こ λ では唯、市左衛門は史料的に確認出来る。現在の﹁御内証﹂でも根本聖典の一一書に、 ﹁親鷺聖人直伝御相伝と心 得て謹んで拝読するものなりし ︵ ﹃ 一 二 賢 一 致 書 む として真宗の開祖と結びつけて、 彼等の法門、﹂そ親驚の真実の教え 更に彼の有名な越後の七不思議伝説を、 ⑬ 神秘性を流祖に付会し、神聖視され権威化される事により、其の威力が現在の我々の中に其の佳生かされ、新たなる で あ る と 説 く 。 一つの唱導として説いている事等を鑑みるにつけ、 奇蹟や ﹁人格神﹂的存在が出来とるとするのであろう。又此の相伝でも、﹁蓮如上人|ツョウシヨ坊|赤尾道宗﹂︵円御聖教﹄︶、 そして調査上確認出来た龍慶英信妙覚坊全信現善知識としているがこ λ で寛政年間の異法義と同じく﹁蓮如﹂ と﹁赤尾道宗﹂を取り入れているが、 一般に真宗の篤信家・妙好人的人物を秘事法門の相伝に結び付ける事例はよく 在る事で、大部忠太郎・金森道西・堅田源右衛門等は其の類で、秘事信者の妙好人的人物に対して独自な評価を以て
捉えている事で輿味ある所である。斯くて、此の様な相伝の詳細な内容は秘密裡に巻物等に記されて、非常に貴重な 物として取り扱われ、秘事組織の善知識と他数人の幹部だけの知る所であって、信者や部外者には余り目に触れる機 会 は 少 な い 。 さて、此の様な秘事信者にとって最高位の相伝は、 徴密な口伝﹂であるとして其の詳細を﹃聞取書﹄に、 仏道ハ釈迦之方便説エ而口伝と申事無之候而はたとひ仏像を礼し経典を読諦仕候而も無益之事ユ候儒道もが伏之 ︵ 寄 力 ︶ 説多く伝授有之物−一候又神道も寄を言一一而是亦口伝有之候と申儒仏神之三道共−一虚佐之説と隠しめ候︵中略︶其 ︵ 所 カ ︶ ︵ 所 カ ︶ 口伝スル取ノゴ一体一体ノ伝ヲモテ諸宗ノ奥義ト定メリ故−一其勧ル取口一様ナラス男女老少智愚等ノ機ニ応ツテ差 ︵ マ ﹀ ︶ ︵ 所 カ ︶ コ として紹介しているが、こうして我々以外の﹁諸宗エツタフル取ハミナコレ浮挙ノ説ニツテワカ家ノ第二義門﹂︵﹃聞
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F 1 ソノ差別委ク 口 刀 − ノ 1 ノシルシカタシ 取書﹄︶であるとする。所謂﹁唯授一人口決﹂という事を強く前面に押し出して来るが、本願寺側では当然、 ⑬ に於て口決伝授の法門無之義に侯﹂︵﹁越後了専寺・久唱寺御教誠﹂︶と、明和年間に越後の国に下した教誠でも強く否定 ﹁ 御 当 家 している。こうして ﹁ 御 内 証 ﹂ で も 、 ﹁ 御 相 伝 ノ 人 々 ハ 内 心 − 一 深 ク タ ク ハ イ テ 外 − 一 ハ 方 便 ノ 他 力 ヲ タ テ ベ ジ ﹂ ︵ ﹃ 御 聖 典己としている様に、所謂秘事信者がよく云う所の法門なるものに表一一があり、寺院に於ける僧侶の布教を表の法門 と呼び、これは一往の説h
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方便説︶であるとし、一一に真実の信仰が在りこれが我々の法円であるという類である o 信仰を僧と俗とにはっきり区別し、本当の宗教は寺院に相伝されているのではなく、俗︵在家︶たる我々の法門に伝 承されたのであるとする。それは、家︵司祭家長︶や村︵司祭長老︶の信仰集団を構成する村落共同体の祭記の源初 的形態を暗示するものがあろう。 又、此の異法義の頭取達を﹁善知識﹂であると称していたと云うから、これも秘事の中核をなす所であり、俗人の 近 世 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 記 五近 世 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 記 ム ノ、 知識を立てミ此の善知識の口伝に絶対の信頼を持たせる。こうした善知識の口伝というものが無い所の仏教では、仏 像を礼し経典を読請しても無益であるという理論が出て来て、現代の﹁御内証﹂でも、 一胸に仏を持ち乍ら絵像拝む ⑬ はかなさや﹂﹁木テ刻ンダ仏ハ仏絵−一書イタ仏ハ仏カ\すきざまず仏ワ何処く− Q 無題記﹄︶としているのである。こう して代々相承されて来た原始社会の神の言葉を伝え、奇蹟を行う司祭又はツャlマンたる善知識は、所謂﹁人神﹂的 ﹁善知識の御心が仏にて、阿弥陀如来を善知識にとりこして、善知識の外に仏はない﹂︵﹃総州異安心 ︿下総孫衛門﹀御教榊ごという知識即仏︵神︶とする知識帰命に発展し、知識以外には仏も神も拝せずとする前述の系 観念で捉えられ、 譜の箇所で指摘されている様に、越前高田派の大町門徒の如道一派の一一小拝秘事﹂に繋がって行くのである。これに ⑬ 関連して、親驚に名を借りた偽書﹃一宗行儀抄﹄に、 去正治年中越後国頭域ノ郡岡田郷ニ長連坊トテ立川流ノ外法ノ学匠アリ。此人ハ出羽国ニ高市ト云里ノ者ト聞伝 タ リ o 彼長連ガ外法ヲ世間エ流布ツテ伝ル人皆仏前−一詣 γ テ。仏ヲ会テ拝ムベカラズト謂ジケル。︵中略︶長連ガ 外法ノ終リ悪業ノツモリニ柏崎ユテ祉ヲサラツ候ト。天下−一風間候 として、立川流を伝えた輩の偽作と思われるが、全ては信じられないにしても一応の参考として見る時、立川流の教 義が北国に広がり此の兵法義の源流を形成し、 一不拝秘事﹂にも影響を与えたとも想定するのである。 四 では、此の様な異法義組織の信者達は何の様な活動をしていたのであろうか。然し残念ながら限られた数少ない史 ⑫ 料からは詳細な実態は掴みにくいが、幕府の﹃御仕置例類集﹄︵以下﹃例類集﹄と略称する︶には、 奇怪之修法等ハ不致候とも異法を信し、村々之もの共え附聞、帰依之ものは同行と唱、 石内村久太郎方を致定宿
ニ、折々罷越右同行共を集メ、異法之意味説聞、俗之身分を以信施之鳥目申受 として、確証的には捉えがたいが、 一般の秘事法門に特徴的に見られる呪術的・現世的密儀礼︵加入儀礼等︶なる ⑮ ﹁奇怪之修法﹂等はしていないとしている。又信者達を﹁同行﹂と称し、石内村の久太郎宅を﹁定宿﹂にして、市左 衛門は布施を収受していた事が分る。尚﹃聞取書﹄によると、宿善当来して同行の一人として﹁血判誓詞 L をし呉法 の教えに与るまでは、中々入信の許容は困難であったらしく、秘密裡に法門を伝播していた様である。此の事は、現 在の﹁御内証﹂でも彼等が使用している﹃御聖典﹄の各所に、 し ﹂ ︵ ﹃ 御 内 証 一 心 記 ﹄ 等 ︶ と 記 さ て お り 、 こ れ は 更 に 同 行 内 に 於 て も 、 ﹁此の一大事は決して他流の人々には秘すべし秘すべ ︵ 臥 カ ︺ ﹁此一大事ハ夫ツテ同行人難成ルトヨグヨク其 心 ヲ 見 定 テ 許 ツ 可 ク 申 ス 者 也 ﹂ ︵ ﹃ 大 悟 決 定 書 ﹄ ︶ と、極めて厳しいものであった事が知れ、実際現実に部外者には見せ ず、語らずという封鎖的宗教活動を行っているのである。又前述の発覚の時に差し出させた様に、秘事法門では必ず と云っていミ程、法義上の名目に珍解釈を加えた秘事書を持っており、此の異法でも教義に関する書籍も取り用いて いた様で、信者達が借り受け写し取っていた。 そこで次に、此の異法義の教義内容は何の様なものであったか簡単に見てみたい。先ず幕府の﹃例類集﹄によると、 此の異法は市左衛門の祖父の代に浄蓮寺より伝来したもので、 日月を以、父母とも阿弥陀とも尊ミ、農業の出精いたし、父母を大切−一いたし、主人を敬い慈悲を専−一心掛候得 ハ、五穀も実り往生も宜問、日月之恵疎−一致問敷旨 という極めて現実的生活面に側した教えであったが、これに懇意にしていた医師輪庵は、 一つの宗旨を得意の医学に 関連させて、五行・五体説に付会して一派を立て其の手引き書をも作り、同行共へ布教したというものである。これ が前に出て来ている一輪庵法義﹂と云われる由来であったじ又﹃聞取書﹄は、 近 世 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 記 七
近 肢 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 記 ︵ 顕 カ ︶ ゾレ一切ノ法ハ根本ノ二理ヨリ豆レタル日月ノ二体ヲモテ惣体トス︵中略︶ 八 一切万物生ツテ滅セサルモノナツ日 月ヲモテ体トスルカ故ナリ日月ハ即チ陰陽ナリ陰陽即チ男女ナリ男女交会ヨグ万物ヲ生ス即チ是根本ノ二理ヨリ アラハレタル︵中略︶コノ根本ノ理ヲ儒道−一ハ大極トイヒ無極トイヒ神道ニハ国常立ノ尊トイヒ仏教ニハ空王士口 仏トイブ︵中略︶コ、ヲモテソノ根本ノ日月敬セスンハアラス故ニ仏門ニ仏体ヲ画グウツロ三一ノ円光アリ二ノ 円光ハ即チ日月ナリ円光一一ヨリテ仏体アラハル仏体即チワレラナリ故ニ一二体合ツテ一体ニ帰スレハ一体即チ三体 ナリモジコノ法ノカクノコトクナルヲ信ジテコノ道理伝ルトキハソノ理ニカナフカ故ニヨク日月宮−一生ス日月ニ ヨリ生スルカ故ユ能日月ニカヘル と記していて、比の様な教えは本願寺では、 ︵ 体 力 ︶ 或人、真言の五大五行の法門をや聞き誤りけん。木火士金水は弥陀本願の本となり、 日天月天陰陽の二つは、方 物の父母なり。十劫正覚も外になし。十月胎内の事也と云々是秘事法門とて、以ての外の邪義邪見也 ⑬ と強く否定している様に、此の教義内容は諸種の方面から雑多な思想が入り込んで、実に混雑を極めている。中でも 最も著しく影響を受けているのは、所謂﹁邪義の所立儒仏神之三道を取違候﹂︵﹃関取書﹄︶と述べている如く、神儒仏 の三道を陰陽の理で一致せしめた三教一致の思想である。これは鎌倉時代以後勢力を有して、現在の﹁御内証﹂の根 本聖典ともなっている﹃三賢一致書﹄︵一名三界一心記・伊勢大龍編・文保元年︶に顕著に現われている。 又斯様な思想は、後世の秘事法門に流伝して行く秘事聖典の中に強く影響し、﹃蓮如上人秘書﹄・ ﹃ 心 血 脈 抄 ﹄ ︵ 御 内証所持︶等は最も甚しいものである。尚、此の様な思想と相俊って﹁帯解仏法﹂という雑魚寝の実態が混入してい た事も特筆しておきたい。 斯而、此の様に近世に於ける教学の発達に伴なって、秘事の教義も発展体系化し、色々の秘事聖典が出来上って来
るが、それは有らゆる宗派の教義を自分達の主張に都合よく変容して摂取して行くという多神教的面が顕著に見られ、 非論理的で学問的には程遠いものではあるが、そこに何らの矛盾・葛藤をも生ぜずに現実に適応して行くという庶民 的精神生活の一端を窺い知る事が出来ると同時に、そこに一つの唱導の手段としての﹁談義本﹂的役割を果していた と し な け れ ば な ら な い 。 五 さて以上の様な異法義の始末として、藩では張本人たる市左衛門は天領の住民で、其の他々領とも関係して事件の 重大なる事を認め、幕府に吟味及び処分を申請した。当時幕府は、此の様な秘事法門等の﹁異法又ハ奇怪異説之類﹂ ⑧ ︵ ﹃ 例 類 集 ﹄ ︶ を 凡 て 、 御 定 百 箇 条 中 の ﹁ 三 鳥 派 不 受 不 施 御 仕 置 之 事 ﹂ の 条 文 に 引 き 当 て た ら し く 、 寛政八年の制裁でも これに準じた処分をしている。其の﹃例類集﹄には、市左衛門︵遠島・死亡︶、圧屋五郎兵衛︵軽追放︶、与惣右衛門 外四人︵所払・与惣右衛門・久次右衛門病死︶、 屋・組頭にも其々過料等を科せられ、其の他﹃聞取書﹄には長岡領百八十軒の者に皆禁足を命ぜられたと在る。 久太郎︵三十日手鎖︶等の中心人物の判決と、 石内村と飯柳村の庄 一方向じ﹃間取書﹄によると、前述した様に検挙された者の内、東西本願寺の門徒が多数有った為、ゴ一条御坊輪番 法憧坊恵献並に御使僧逢生庵は命を受けて、教団独自の門徒取り調べの任に当り、幕府との折衝も行った。又呑月院 深一蜘講師も、信者の旦那寺として直接教誠指導に当り、多くを回心させた先の善正寺猶龍なる者より調査報告を得て、 ③ 色々門徒処置に関する意見書を本山に提出した。 これ等の厳しい処分により其の痕跡は絶無に帰したかの様に思われたが、 @ なる秘事法門が現在に脈動している事実である。此の﹁御内証﹂については別論で其の実態と信仰内容を若子述べた 斯 而 、 今迄度々触れて来た 一 御 内 証 ﹂ 近 世 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 記 九
近 世 に 於 け る 越 後 長 岡 異 法 義 始 末 記
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の で こ A では割愛するが、長岡︵異法義︶と刈羽・柏崎・北条へ各御内証︶という地理的な接近と、異法義と御内証 の唱導者龍慶師との間の年代的差が殆ど無い事、そして前述した如くお互いに相伝中に蓮如や赤尾道宗を取り入れ、 ﹃ 一 二 賢 一 致 吉 一 日 ﹄ を 基 盤 と し た 立 川 流 を 含 ん だ 信 仰 形 態 で あ る 事 等 を 考 え る と 、 寛 政 年 間 の 異 法 義 の 継 承 と 確 − 証 出 来 る の で あ る 。.
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以上見て来た如く、幕府や本願寺等の政治的・宗教的統制力は、秘事法門という密儀的宗教により拍車を加える事 となり、社会的にも精神的にも一つの強い団結の元に、封鎖的地下組織に次第に追い込むといった近世的現象を呈し て行くのである。此の様に、庶民大衆の生活と心に長く深く惨透し息づいている信仰というものを、単なる一介の禁 令・教誠や一時的弾圧で改まったり消滅したりするものでないであろう。所謂今日迄の新興宗教の経過が物語る如く たとえ其の様な徴候を見せたにしても、それは飽くまで表面的で一時的なものであって、其の本質的な信仰たるもの は人間の尾棋骨の如く、根強く潜在し形を変容しつつも再発・継承し易いものである。 こ、にこれ等秘事法門を、単に秘密結社的存在として片付けるのではなく、封建的権力体制の中で、次第に教団の 拡大組織と宗学の発達に相俊って純化して行く︵一面では抽象的で観怠化して行く︶仏教というものを、其の底流に 日本固有の民族宗教及び呪術的原始信仰︵俗信︶を保持している古い封鎖的な村落共同体社会︵同族集団的社会︶の 仏教講︵秘密念仏結社︶を形成する庶民大衆が、何の様に複雑で徴妙な葛藤状態を呈しながら現実に受け入れて行つ た か を 知 る 上 で 、 一つの特筆すべき事件であった o 然而今は、唯一時期の一地域に発生した異法事象を見て来たので あるが、今後は更に他の江戸期の秘事法門等との関係に於て比較検討し、より近世の宗教史社会史の上に位置づけて行かなければならない。 ① 註 江戸時代に於て多くの秘事法門徒が厳重に処罰されたが、 最も悲惨な結果を物語っているものに、明和時代の御蔵 法 門 が あ る ︵ ﹃ 後 見 草 ﹄ 中 ︶ 。 ﹃ 親 子 草 ﹄ ﹃ 後 見 草 ﹄ ﹃ 過 限 録 ﹄ サ 二 樵 閑 話 一 ﹃ 兎 悶 小 説 ﹄ ﹃ 通 航 一 覧 ﹄ 等 。 新しい民俗学的方法論を取り入れての此の問題の論考と し て 、 五 来 重 教 授 ﹁ か く し 念 仏 と 通 過 儀 礼 ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 研 究 ﹄ 第十一輯︶の論文が有り、今これに負う所が多い。 此の異法義に関しては、三田村起魚氏﹃日本及日本人一 第五百八十七号・長岡市役所﹃長岡市史﹄・水谷寿氏﹃異 安心史の研究﹄に若干紹介されている。 ﹁ 天 明 ・ 寛 政 秘 事 法 門 ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 大 系 ﹄ 第 三 十 六 巻 ︶ ﹁ 九 州 新 義 ノ 沙 汰 覚 ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 全 書 ﹄ 反 正 紀 略 ︶ 大 谷 大 学 図 書 館 歳 。 後述の教義で﹁不拝秘事﹂を強調している所から附暖の 場合に役人の目を誤魔化す為の演出であったのかもしれ E 、 。 J J E ’v 異法義の同行数として何軒とか、類族有として報告して い る ︵ ﹃ 関 取 書 ﹄ ︶ 。 注③五来重教授前掲論文・拙稿﹁東海地方における秘事 法門について﹂︵﹃印度学仏教学研究﹄第二十一巻、第二 ② ③ ④ ③ ⑦ ⑥ ⑤ ⑨ l ⑮ 近世に於ける越後長岡異法義始末記 白 。 号 ︶ 参 照 。 例えば当時﹁芭蕉公三世﹂と記した秒伝書等を流布しな がら遊行していた俳講師も其の一例である。拙稿﹁近散 における俳講師と遊行家|特に北陸地方での安楽坊春波 法師の活動について﹂︵﹃印度目子仏教学研究﹄第二十二 巻 、 第 二 号 ︶ 参 照 。 最近、迄庶民の聞に本願寺の門跡を生仏として遇していた 如きである c 明和五年六月﹃続真宗大系﹄第十八巻 現代の金沢秘事法門徒の使用している秘事聖典中の﹃蓮 如聖人御詠歌﹄に﹁経々二戸ナシ、木像−一言ナク知識一 言ヲモッテ滅後/如来トス﹂の箇所が出て来るが、同列 な も の で あ ろ う 。 ﹃続真宗大系﹄第十八巻 ﹃真宗大系﹄第三十六巻異義集四 第一冊古類集一・第三冊古類集三 注⑩前掲拙稿で、現代に存在する秘事法門の一般的特徴 で儀礼の顕著なものを若干述べた。 ﹁ 異 執 決 疑 編 ﹂ ︵ ﹃ 続 真 宗 大 系 ﹄ 第 三 十 六 巻 ︶ ﹁ 旧 幕 府 御 定 書 ﹂ ︵ ﹃ 百 万 塔 ﹄ ︶ 此の小論に多く用いた所の﹃越後長岡異法義関取書﹄は 元 は 越 前 、 水 臨 寺 ︵ 深 励 講 師 住 土 守 ︶ 所 蔵 本 で あ っ た 。 ⑫ ⑭ ⑬ ⑬ ⑫ ⑮ ⑮ ③ 同 ⑫
近世に於ける越後長岡異法義始末記 ② 松 谷 了 玄 氏 ﹁ 大 谷 派 に 於 け る 異 安 心 調 理 の 方 法 ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 研究﹄第三輯︶参照。尚大会当日会場にて北野龍雄氏の 御厚意により拝見した﹃御文﹄の写本の奥書に﹁正徳五 年末ノ正月十六日マテニ書マウシチカイサフハオンユル シクタサルヘクサフラフ了念﹂と記されてあり、内容 @ は詳細に検討していないが、恐らく秘事法門に関しての 教誠回心の誓詞的なものと思われる。 ﹁ 越 後 地 方 に お け る 秘 事 法 門 に つ い て ﹂ ︵ ﹃ 宗 教 研 究 ﹄ 四 第 十五巻、第二輯︶尚これは極めて不完全なものであり、 次の機会に詳細にまとめてみたいと思っている。