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こぺる No.227(2012)

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2012

こベる刊行会

NO. 227

自分史のこころみ⑩ 「部落 ・在日・ 障害者」問題との三十七年 高田嘉敬 尼崎だより⑧ 人が生きていく上で大切なことを体感させる 中村大蔵 いのちを生きる⑬ Nとの「再会j 長谷川洋子 〈幻の銀河〉 ー写真と文 小 林 茂

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写 真 と 文 小 林 茂

「春は最高だね。ブナの新緑はいいもんだ」。チェーンソーで枝切り

する老人は言った。

(新潟県十日|町市松之山。 2011年4JJ) ふたたび、春がめくふってくるように、このぺ←ジを担当することになりました。時空間を前後 しながら皆さんとともに歩みたいと思います。昨年の束円本大震災、福島原発事故から

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年。人 と人。人と自然。再考すべきこれまでの価値観D 人類もまた銀河の一部であるとするなつかしき

新潟県の豪雪地帯の早春。小見重義さんが薪にするための木を切った。雪ソリで山道まで滑ら す。雪が融けたら軽トラで運ぶのだ。その後、 80歳をすぎた父親が、小ぶりなチェーンソーを背 中に山を上ってきた。細かな,伎を整理する。できる仕事が残されていた。 なぜ、縄文遺跡が雪国に多く発見されているのか不思議だった。秋には鮭がのぼり、雪がある から狩猟もできる。津南町で農業を営む高波さんが言った。 「雪が、半年、土をゆっくり休め、 豊かな水とミネラルを与えてくれる。雪が融けると一気に淵度があがって、作物がすっくと伸び、 ていく。山菜がやわらかく豊富なのも、野菜がおいしいのも、うまい米ができるのも、雪の恵み だと感じて生きている」 こばやし・しげる(映阿盟主悟・カメラマン) 1954年新潟県生まれ。|刈志社大学法学部卒。映画『阿賀に生きる』の 撮影によりEl本映画掠影監督協会第1ti'JJSC賞受賞。隠督 (撮影}作品I::『こどものそら』 『ちょっと育祭』 『わた

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自分史のこころみ⑩

問題との三十七年

高田嘉敬︵社会福祉法人新生会・尼崎市在住︶ 福祉の仕事はウソくさい? 私の職場は、つい最近まで授産施設と呼ばれていまし たが、今は福祉的就労支援施設といいます。障害のある 人の多くは、なかなか就職できません。そこで、働く準 備をするところが必要になります。﹁

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作業所﹂とい う看板をご覧になった方もいることでしょう。私の職場 では、車いすの方や精神的に生き辛さを抱えている人た ちが、印刷と喫茶製菓とダイレクトメールなどの下請け 作業に分かれて働いています。超スモールビジネスとい うか、小商いをかき集めて、こつこつと手作業を積み上 げる現場です。作業所をしばらく利用してから次のステツ プ︵企業などへの就職︶へというのが本筋なのですが、 めったに出口は見つかりませんので、十年以上の﹁長期一 利 用 ﹂ が 大 半 に な り ま す 。 一 外から見ると、福祉施設なのか、町工場なのか区別が一 つ き ま せ ん 。 印 刷 機 械 が ぶ ん ぶ ん 動 い て い る か と 思 え ば 、 ちょっと見には仕事をしてなさそうな人がゆったり出入一 りする作業所の風景は独特です。障害のある人の工賃一 ︵雇用就労ではありませんので給料を工賃と言い換える一 ことになっています︶はいくらで、職員の給料がどこか一 ら出ているのかも、わかりにくい。どうかすると、障害一 のある人を安くこき使っている悪徳事業所と見られかね一 ません。これは、私たちの説明不足と、福祉的就労のあ一 い ま い さ の せ い で す 。 一 こぺる 1

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福祉施設に勤めているというと、清く正しく、禁欲的 な生き方をしていると想像されがちですが、大違いです。 私は、典型的なデモシカ職員でした。もともと福祉の仕 事がしたかったというわけではありません。ほんの腰掛 けで始めた仕事のつもりが、気がつけば三十年近くたち ました。長く続いたからには、それなりに働きやすい職 場なのでしょうが、けっして、福祉に燃える使命感から でも、労働条件が飛び切りよかったからでもありません。 障害のある人と一緒に働くといいながら、職員と所員 ︵施設の利用者︶との賃金格差も待遇も歴然としていま す。その上、障害のある人が働く意味は、複雑です。た だ、長く同じ職場にいると、それなりに見えてくること も あ り ま す 。 私が自分でも思ってもみなかった仕事を選択したのに は、それなりの経緯があります。それを少し書いてみま す 。 岐阜で部落問題に出会う 私が入学した七

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年代の終わりごろの大学は、学生運 動の退潮期で、少数の学生が水俣や沖縄や成田を呼びか けていました。将来は、学校の教員になるつもりでした。 若者特有の正義感にくすぐられて、のぞき見程度でした が、反公害運動や沖縄の基地問題に関心がありました。 同じクラスにやたらと元気に飛び回っている友人がお一 り、彼から在日朝鮮人の運動や考古学と遺跡保存の問題一 や長良川河口堰など、思ってもみなかった身近な社会問一 題の存在を教えられました。それらに知らんふりするの一 は社会性がないと、辛口の忠告も添えてくれました。あ一 る時﹁今度、部落問題に関心がある学生や労働者・市民一 がお金を出し合って家を借りたので、行ってみんか﹂と一 誘われました。それは大学の近く、岐阜市長良太平町に一 ありました。二戸で一軒の木造モルタル二階建ての借家一 です。太平天国社との出会いでした。 太平天国社では、部落問題をはじめ、反基地、反公害、 反原発、女性、障害者、在日、アイヌ、教育、労働運動一 など各地のさまざまな市民運動家に出会いました。まさ一 う ろ こ に、目から鱗。なかでも部落解放をかかげた反差別運動一 は、私の周囲の閉塞感を存分に吹き飛ばしてくれました。 何より、ほんの少し視点を移すだけで、学校教育を支え一 る地域社会の危うさが見えてくることに新鮮な驚きがあ一 りました。学校で落ちこぼれる意味が、個人の自助努力↑ の問題から社会文化的な背景へと一八

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度ちがって見え一 てきました。それまでは、学校の中だけで純粋に子ども一 が育つことに興味関心があったのですが、どのような社一 会のもとで生きるかに意味があると、遅まきながら考え一

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始 め る き っ か け に な り ま し た 。 しかし、部落問題の学習会に出ても、すすめられて井 上清﹃部落の歴史と解放理論﹄︵田畑書店、一九六九︶ を読んでも、現実の風景とのギャップが埋まらず、すと んと落ちてくる実感がありません。独占資本が部落差別 を助長する、といわれでも、まったく現実感が持てませ ん で し た 。 あ い ろ また、教育との接点を考えると一筋縄でいかない陸路 にぶつかりました。﹁解放の学力﹂です。いわんとする ところの熱い思いは情緒的なスローガンとともに伝わっ てくるのですが、肝心の具体的な中身がはっきりとは見 えてきません。社会正義を押し立てた理論的な主張が、 既存の教育の枠組みをどう乗り越えているのか、多様な 人間の育ち合う関係が今ひとつ描けていないようなもど かしさがありました。このように違和感を持ちつつも、 社会の不条理を撃つ人々、差別を解体する作業の一端を 担っている人々の思いにつながっているという幻想があっ て、太平天国社の活動の端のほうにいました。 理論編というか思想を練る段階では、相当もやもや状 態でしたが、地域の子ども会や聞き取りなどで出会った 人たちの存在は鮮やかです。けっして向こう岸の人々で はありませんでした。子どもたちも親も年寄りも、一人 ひとり地域の生活者として気負いなく出会うことができ ましたので、被差別部落民というフィルターの意味が、 この時ほど無力に見えたことはありません。 違和感といえば、﹃橋のない川﹄第二部︵今井正監督︶ のシナリオ学習会では、﹁差別映画﹂という結論ありき一 の議論が不自由だなあと感じていたのに、﹁なぜ﹂を言一 い出せませんでした。差別的な映画だといわれでも、本一 ょ う か 当のところは実感が持てなかったのです。八鹿事件の直一 後、今から思えばグループダイナミックス︵集団の力学︶ が強く働いたころで、少数意見が言い出しにくいのはど一 こも同じでした。太平天国社では、自由闘達に意見が飛一 び交っていることが多かったのですが、特に部落解放運一 動については、例外的な判断停止があったと思います。 八鹿事件や映画﹃橋のない川﹄では、運動団体の姿勢に一 無条件に共感するようなところがありました。 ちょうどそのころです。藤田敬一さんが、次から次へ と私たち学生に爆弾のような難題を投げかけてきたのは。 ﹁窓口一本化﹂は本当に正しいことか。部落民と呼ば一 れるのは誰のことか。解放教育は何を創ろうとしている一 のか。どんな現象を差別と呼べるのか。それはだれが認一 定するのか。地区指定の意味は。属地属人主義でいいの一 か。地区外に出たら部落民でなくなるのか。部落差別に一 もとづく菟罪とその他の菟罪とは本質的にちがうところ一 があるのか等々、部落解放運動をすすめる側にとっては一 こベる 3

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自明の前提なっていることの一つひとつに確認を迫りま した。私たち学生に向って議論をしかけたと言えば聞こ えがいいですが、むしろほとんど吠えまくっていたのが、 と が 藤田さんでした。そのころの藤田さんはかなり尖ってい て、会えばいつも議論を吹っかけられるので、戦々恐々 でした。関西や九州という部落解放運動の先進地域が抱 える矛盾を具体的に指摘して、﹁このままでいいのか。 今変わらなくてはいけないのは何なのか。なぜそう考え るのか﹂と、それこそ止めどなく藤田さんは迫ってきま し た 。 私は、自分自身の進路に迷っていてどこへ行きたいの か決めかねていましたので、この時期に繰り返された太 平天国社内の議論は、テーマ︵部落解放運動が抱える矛 盾と課題︶そのものよりも、手法︵権威に寄りかからず 自分の手足で考えること︶に、惹きつけられました。正 解などどこにもないのだから、自分で考え抜くしかない というメッセージと受け止めました。けっきょく、私が 太平天国社で一番触発されたのは、自分で考える︵確か め る ︶ と い う 作 風 だ っ た の で す 。 権威に寄りかかる運動は危ない。いつか必ず部落問題 が市民から忘れ去られるときが来る。理屈で︵運動に︶ 入った人は理屈で出てゆく。数を侍んだ運動と高揚感を 過信するのは危うい。そう太平天国社では語られていた ものです。そのころは、運動団体の集会程度ですら新聞一 の 社 会 面 に 大 き く 取 り 上 げ ら れ て い た と き だ っ た だ け に 、 まさかそこまでの大きな転換があるなどとは思ってもみ一 ませんでしたが、三十余年たってみると、そっくり現実一 になりました。これも、印象深いことの一つです。 関 西 で 在 日 の 運 動 に 出 会 う 一 大学を出たのにどんな仕事に就くのかぼんやりしたま一 ま、しばらくモラトリアム︵猶予期間︶を続けたあと、 関西に出て大学院で教育社会学を勉強しました。差別と一 教育の関係について職業教育を切り口に、教育の表向き一 の機能と本質的に果たしている役割との聞の裂け目、教一 ぜ い じ ゃ く 育学のグランドセオリー︵基礎理論︶の脆弱さを象徴す一 る学力の歴史などを考えていました。あいにく怠惰な学一 生生活のおかげで不完全燃焼に終わりましたが。 部落差別と部落解放運動との関係が、今ひとつ肺に落一 ちないまま関西に来て、尼崎で友人と在日朝鮮人一世の⋮ ための識字学級︵オモニハツキヨ︶にかかわり、やがて一 外国人登録の指紋押捺拒否運動に出会います。その渡航一 史も生活の実像も知らないことだらけでした。識字学級一 では、日本語が不確かなまま日本で暮らし続ける在日一 世の語るはし、ほしから生活の過酷さがひしひしと伝わっ一

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てきました。生活者としてのたくましさと在日朝鮮人の アイデンティティーの多様さに圧倒されたものです。同 時に、在日朝鮮人とひとくくりできないほど、世代聞の ち が い も 鮮 明 で し た 。 私は在日文化の一つである﹁どぶろく造り﹂も知りま せんでした。国税庁の密造酒摘発というスローガンとと もに、ほとんどの日本人が戦後早々と撤退したのに、在 日の人々はしぶとく、いまだに脈々と造り続けています。 昨今のマツコリブ

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ムで再び摘発が強化され、現在やや 自 粛 気 味 の よ う で す が 。 ところが、はじめは新鮮にみえた在日朝鮮人運動でし たが、部落問題で感じたのと同じようなシ

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ン が け つ こ うあることに気付きました。そこかしこで、何度も聞い たようなステロタイプ︵紋切り型︶の在日朝鮮人像が語 られる場面に出くわします。これほどこかで見たことが あるぞと、私の中で疑問符が増えてゆきました。解放理 論︵反差別運動の原理︶と地域で暮らしている人たちの 実在感との希離にそっくりです。どうもこのころから、 人間をひとくくりにする分析や作法に対して、強烈な違 和感が芽生え、その有効性よりも、遮蔽性︵見えなくす る効果︶のほうに目が向くようになります。 そうこうするうちに学業に落ちこぼれてしまい、一一十 代の前半は展望もないまま漂うような生活を送り、気が つけば三十歳近くになっていて、そろそろ自分の生活に一 もう少しリアりティがあってもいいと考え始めたころ、 伴侶に出会います。日本生まれの在日二世︵父親が済州一 島から渡航、母親が九州生まれの二世︶です。出自や背一 景よりも、もちろん個性に惹かれた出会いでしたが、一 緒に暮らし始めると予想外なことが起きて面喰うことに一 なります。子どもの国籍をどうするかなど国際結婚につ一 きものの生活面での波乱は、ある程度予想できていまし一 た。親・きょうだいなど周囲のまなざしの微妙な変化も一 その一つです。そのことよりも、夫婦喧嘩の想定外の結一 末が、カルチャーショックでした。それぞれ個人として一 出会っているはずなのに、﹁やっぱり日本人にはわから一 ない﹂といったフレーズで片付けられることが、しばし一 ば 起 き ま す 。 日常のささいな行き違いの結果を民族の違いに還元さ一 れてしまいかねない危うさが、そこにはありました。立一 場や感性が違うととを前提にわかり合おうとする姿勢を一 拒む﹁足を踏まれた者の痛み﹂論と同じです︵と確信し一 ていますが、まだ口に出したことはありません︶。ほん一 とうにもどかしい。論点そのものよりも、お互い育った一 背景の違いが前面に出でて、夫婦の会話がいつの間にか一 在日朝鮮人と日本人を代表して議論してしまっているの です。家庭内の会話とは思えない表現が飛び交ってしま一 こぺる 5

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い ま す 。 さいわい硬直した会話は日常的にというほど多いわけ ではありませんが、﹁私とあなたの対話﹂ではなくなっ てしまう瞬間は、なんともやり切れません。しかし、こ れは程度の差はあれ、障害のある人とそうでない人、部 落民と呼ばれる人とそうでない人の間にも、起きていた のだと思います。﹁やっぱり男は・:﹂などと身近に語ら れる会話も、きっと近い位置にあるのでしょう。 ようやく定職に就く 子どもが生まれたときは、定職に就いていませんでし た。それまで、学童保育所の産休代替職員、中学校の臨 時教員、看護専門学校の非常勤講師、塾のアルバイトを 転々とした後、システムエンジニアの卵︵瞬化する前に 退職しましたので卵です︶になりました。この仕事があ まりの出張続きで疲れてしまい、子どもが生まれたばか りだったのに途中下車。その後三十代直前になって、今 の職場に採用された、というわけです。福祉施設の職員 ですが、最初は印刷機を動かすのが仕事でした。 作業所は一九七九年の養護学校義務制度化以降に激増 します。障害のある人にとって、”十八の春“は今も狭 き門です。ようやく卒業しても進路の選択肢が限られま一 す。在宅以外に居場所が見つからないことだってある。 このために作業所の多くは、緊急避難的な居場所の確保一 という課題に応えて創られました。やがて、中学校の数一 より多くなり二十万人近くの人が利用する場所になりま一 し た 。 一 なかには豆腐の製造で数億円の事業規模になったとこ ろなど、例外的に成功した事業所はあります。けれども一 圧倒的多数の作業所の前には、今どきと思われるかもし一 れませんが、所員︵施設の利用者︶の時給百円の壁が立一 ちはだかっています。毎月一万円前後の工賃︵給料︶が、 やっとです。事業メニュー︵どんなビジネスに挑戦する一 か︶の貧困さが後々まで、作業所のあいまいさを引きず一 る こ と に な り ま す 。 就職してしばらくは、障害そのものを理解していなかっ一 たうえに、障害のある人が働く意味もわかっていません一 うさんくさ でした。自分の職場でありながら、作業所を胡散臭く感一 じていました。プロの職場とは思えなかったからです。 何のために作業所があり、そこで職員として何が求め一 られているのか。もしも応えられなかったときにはどう一 責任を取るのか。利用者からも親からも企業のようには一 業績や仕事の質があからさまに問われない現場をいいこ一

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とに、課題は先送り。そのころは、それでもプロかと言 われると、返す言葉がありませんでした。 はじめのうちは、脳性マヒだからここまで、知的障害 ならこの仕事は無理、などと障害を作業ができないこと の 判 断 基 準 に し て い ま し た が 、 毎 日 一 緒 に 働 い て い る と 、 利用者はどんどん変わっていくし、その人ができないこ とに着目していたら見えていなかったところがいっぱい あ る こ と に も 気 付 き ま す 。 少しずつ、作業所で出会った人は一人ひとりおもしろ い、と思えるようになりました。足りないといえば足り ないし、過剰と思えば過剰といえる感性の吹き出し方を、 おもしろいと感じられるか、けったいなやっと否定的に 受け取るかが、分岐でした。人間理解というにはおこが ましいほど当たり前の向き合い方を取り戻すのに、何年 も か か っ て し ま い ま し た 。 しかし今でも、﹁障害のある人ばかりが集まって仕事 をするのは正しいことなのか。利用者と職員はどんな協 働性を創ろうとしているのか。それは患者と医師のよう な関係か。けっきょく障害のある人は向こう岸で別の生 き方をする人たちなのか﹂など、これらの疑問に応えら れ ず に い ま す 。 とはいえ最近ようやく、障害のある人の働く意味がわ かりかけてきました。障害のある人は失敗体験を積み重一 ねて、”できないあなた“と言われ続けてきた人が多い。 このレッテルを投げ返し、肯定的な自己像を取り戻すた一 めに、障害のある人が働く積極的な意味があるのだと考一 え て い ま す 。 それにしても、福祉の現場には余分なものが、たくさ一 んぷらさがっています。その一つが障害者という名付け一 です。那覇市や北広島市など各地の自治体や福祉の専門一 家の中で﹁障がい者﹂という混ぜ書きが始まっていまし一 た 。 戸田二郎さんは障害者か 障害者という用語の論争︵障がいと混ぜがきにするか、 害という字を止めて障碍にするとか、その多くはどう書一 くかという表記の問題に終始しています︶に出会うたび一 に、私を一言い負かした戸田二郎さんは何と呼ばれたらよ一 か っ た の か と 思 い 返 し ま す 。 戸田さんは、私の学生時代からの友人です。太平天国一 社で出会いました。本職は印刷業、戸田写植の代表︵オ

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一 ナ

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︶で、本誌﹃こぺる

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印刷と発送を一手に担って一 い ま す 。 ポ リ オ の 後 遺 症 が あ っ て 、 歩 く と き は 片 松 葉 杖 。 こぺる 7

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最近は車椅子で移動することが増えました。ぽっちゃり の体型は、今もそのまま。天国社中では、﹁じろさん﹂ で 通 っ て い ま し た 。 戸田さんのプロフィールを数行で要約すれば、﹁市民 運動の影が薄い保守的な地域にあって、組織を侍まずコ ツコツと障害者解放運動を牽引して現在に至る﹂、でしょ う か 。 戸田さんは料理と議論と夜がめつぽう強いばかりでな く、大好きです。最近、ますます磨きが掛かっています。 とにかくよくしゃべります。中学卒で働き始めたキャリ アの差でしょうか、そのころから抜群に世間知に長けて いて、それはそれは、しゃくにさわるくらいでした。 私もどちらかといえば理屈言いでしたので、よく議論 しました。労働運動から美味しい料理の作り方や障害の ある人の生きづらさのことなど、延々と論争になること がありました。言い負かされるのはたいてい私のほうで、 こ の 事 態 は 現 在 も 継 続 中 で す 。 さて、戸田さんがどかっと座って議論すると、根っか らの達磨さん体型ですから、ひときわ安定感がありまし た。ということは、彼が口角泡を飛ばしているときは、 移動の支援が要りませんから、障害者と呼ぶ意味があり ま せ ん 。 人間を固定的に分一 類する用語として、障害者や当事者を使うことの意味で一 す 。 一 もう一つは、障害者という用語そのものの妥当性。障一 害者という用語は、いつ、どのような時代背景のもとで一 創られ、それがどのような意識のもとで普及したのかに一 ついて、多くの人は専門家も含めて自覚的ではないとい一 う こ と 。 一 障害者と呼ばれることの意味 そもそも、モノやコトに差しさわりのある状態を一不す一 障害︵胃腸障害、電波障害など︶という用語が、いつの一 まにかその人の存在そのものにすり替えられて、障害者一 と命名され始めました。この時、二十四時間いつでも障一 害者と呼ばれる人が発見されたと言えます。この錯覚に一 気付くことがないままにずいぶん年月が過ぎてしまいま一 問 題 は 二 つ で す 。 ま ず 、 り、女・子ども・老人などのように、 少数者が そ う 呼 ば れ る こ と 、 ﹁ い つ で も ﹂ つ し た 。 乗車する・トイレに行く・食事をする・意思を伝える など生活のさまざまなシ

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ンで応援が必要な人は、その

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時その場面にだけ障害があるというのならまだしもだっ たのですが、現実はそうではありませんでした。 さて、障害のある人はさまざまなのに、障害者とひと くくりに呼ばれるようになったのは、いつからでしょう。 残念なことに、乙の肝心な疑問に福祉の教科書は答えて はくれません。いつの時代にも障害者と呼ばれる人がい たかのように叙述されています。 しかし、障害者という言葉は新しい。どう見積もって も、たかだか六十年ほどの歴史です。敗戦後の傷虞軍人 対策事業から障害福祉施策の体系化が進む流れの中で、 一九四九年に身体障害者福祉法ができます。少なくとも このときを前後して身体障害者︵略して身障︶という用 語 が 流 通 し 始 め ま す 。 ということは、坂本龍馬も福沢諭吉も夏目激石も、障 害者とひとくくりに呼ばれる人には出会っていないこと になります。﹁びっこ﹂や﹁めくら﹂と呼ばれた人々に 出会っていたのです。国語辞典で障害をひくと﹁さわり。 じゃま﹂と書かれています。当然、障害物は﹁じやまな もの﹂です。それでは、障害者は﹁じやまなひと﹂と書 かれているでしょうか。そんなはずは絶対ありません ︵英語で障害物はオブスタクル[

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g

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口互ですが、人 に使うときはじやまな人という意味です︶。 このように 考えると、障害者という名付けそれ自身に、 し穴があったことはあきらかです。 さて、障害者の対概念である健常者が、新しく創られ一 たことも傍証になります。ざっと調べた範囲では、辞書一 に採録された用例は一九五二年を遡りませんから、や一 はりこの少し前に障害者という用語が創作されたのでしょ一 v

いつでもどこでも、障害のある人とそうでない人︵健一 常者︶を固定的に見てしまうことが、私たちの社会には一 多すぎます。人にものさしを当てるのは少ないほうがよ一 いに決まっていますが、例外的に許されるとしたら、ト一 リ ア

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ジユ︵緊急災害時に被災者の受傷度を分類する手一 法︶ぐらいでしょう。これは、限られた状況下の限られ一 た期間内で、限定的にひとを分類することが許される例一 で す 。 当事者も障害者も、二十四時間いつでもそう呼ぶこと一 ができないところが似ています。当事者の場合、さまざ一 まな社会的テ

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マに参与するときだけ、その人は当事者一 になります。一定の関係性にコミットすることで成り立 つ概念です。関係性といってわかりにくければ、問題意一 識を共有する姿勢の有無、あるいはその人の生き方にか一 かわると言い換えてもよいでしょう。 大きな落と こベる 9

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最近、障害当事者という用語が使われ始めました。障 害のある人自身のことを強調したいときにそう呼びます。 ﹁ 他 で も な く 障 害 の あ る 我 々 だ け が 当 事 者 だ ﹂ と い う ニ ュ アンスで使われます。もっと縮めて、当事者支援と言っ たりもします。このように当事者を自分たちの側だけ独 占 的 に 使 う こ と が 増 え て い ま す 。 しかし、当事者を”足を踏まれる側“の少数者だけに 限って使うべきではありません。あるテ

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マ に 何 ら か の 主体的なかかわりをもっ人々すべてが、当事者と呼ばれ てよいはずですから、私は障害のある人の就労支援をす る職員として、このテ

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マ の 当 事 者 で す 。 りんごと障害者のちがいについて 障害者という呼び名は、戦後復興期の特異な行政用語 が、身障などの呼称と合わさって普及するうちに、いつ の間にか人聞を分類する物差しとして実体化します。福 祉の専門家は、この言葉の変質に気付かないまま、あた かも障害者と呼ばれる人が昔からいたかのような錯覚を 持っています。これは、表記の問題なのではありあませ ん 。 あるくだものを ﹁ り ん ご ﹂ と 呼 ぶ こ と と 、 ある人を ﹁障害者﹂と呼ぶのとは、まったくちがうレベルの名付一 けです。﹁りんご﹂と呼ばれたくだものは、﹁りんご﹂と一 呼ばれていいでしょうが、﹁障害者﹂と呼ばれた人は、 二 十 四 時 間 い つ で も ﹁ 障 害 者 ﹂ な の で は あ り ま せ ん か ら 。 障害のある人は、その人が支援を必要とする時にだけ、 障 害 の あ る 人 に な り ま す 。 一 戸 田 さ ん に ﹁ 今 、 戸 田 さ ん を 障 害 者 と 呼 ぶ の は 変 で し ょ ﹂ と投げかけたら、﹁そう思う。だけど、それは障害だけ一 ゃないよ。﹃部落民は幻想﹄とか﹃障害は個性﹄とか議一 論があったけど、そう難しく言わなくたってね。女性や一 在日や部落でくくられることだって、もともと﹃二十四一 時間いつでも﹄があてはまる概念かどうか、検証が必要一 だったんやよ﹂と返されました。私も、そう思います。 人間を分けて考えることを前提にした仕事の末端にい るという自覚が持てるか、これが初めの一歩です。私た一 ちは、子どもと先生だったり、障害のある人と施設の職一 員だったり、それぞれの役割や仕事を通して人に出会つ ています。その前に、﹁あなたと私﹂が出会っていると一 いう肝心なことを見失っていないかが問われています。 部落解放運動や社会的少数者の異議申し立ての意味は、 ひとくくりにされた人々から投げられた、﹁あなたと私一 の復権の主張でもあったのですから。 の 関 係 ﹂

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尼 崎 だ よ り ⑧

人が生きていく上で大切

なことを体感させる

中村大蔵︵阪神共同福祉会・ 尼 崎 市 在 住 ︶ 児 童 施 設 が あ る 。 私が役員を務める社会福祉法人には老人施設のほかに ﹃こぺる﹄誌上ではもっぱら老人施設 からの発信が多いが、児童施設の歴史は老人のそれより 十 三 年 も 古 い 。 その一つである保育園の職場内研修﹁私の保育観﹂発 り が と う ﹂ が あ っ た 。 表で、複数の保育土が取り上げた言葉に期せずして﹁あ そ の 一 人 、 K 保育士は で 次 の よ う に 述 べ た 。 ﹁ 子 ど も と 関 わ る 中 で ” 思 い を 伝 え る “ というテ

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マ ” あ り が と う “ という言葉を大 と 言 一 自 分 自 身 子 、 と も に 一 対して優しい気持ちになれる気がします。子どもも同一 じ で は な い か と 思 い ま す 。 一 そのやりとりをしている子どもの姿を見て心一 切 に し て い ま す 。 ” あ り が と う “ という言葉は、大人 になっても言われると嬉しい言葉の一つであると思い ま す 。 何気ない子どもの行動の中でも ” あ り が と う “ 葉にすることを心掛けていく中で、 ま た が 温 か く な り ま す 。 こ の 言 葉 を 、 子どもたちが自然に 言えることは素敵なことだと思うので、大切にしてい き た い と 思 い ま す 。 ﹂ T 保育士は ” 保 育 の 中 で 大 切 に し て い る こ と “ と い う テーマで同様のことを述べた。 ﹁子どもの言葉はまっすぐで、私たち大人が思って いる、使っている以上に心がこめられている。子ども た ち の ” あ り が と う “ の言葉を、当たり ” ご め ん ね “ 前に受け止めず、心と心を向き合わせて受け取ってい こぺる き た い と 思 う 。 ﹂ 11

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﹁失敗﹂しでもまた取り組んでしまった補導委託 これらの報告を聞きながら、私の運営する老人ホ

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ム での非行少年の補導委託に思いを馳せた。 今まで何回となく﹃こぺる﹄誌上で触れてきたことで はあるが、現在も一人の少年を受け入れている。老人ホ

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ム の 職 員 は 内 心 、 ﹁ ま だ や る の か ﹂ と思っているなかで の 受 託 だ っ た 。 身柄っき補導委託中の二人の少女にホ

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ム ヘ ル パ

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の 資 格 を 修 得 さ せ 、 二人とも園田苑の職員として採用した ものの、半年も経たずして二人とも姿を消し、 そ の 後 は 音信不通のまま今日に至っている。 その次に受託した少年は過去最長の九ヶ月に及ぶ受託 期間となったーである。﹁尼崎だより﹂⑩に掲載したケ l スである。彼は東日本大震災の被災地で復興にあたる会 社から内定通知をもらい、誓約書、身元保証書まで送付 し た が 、 その後待てど暮らせど音沙汰がない。私からも 何回となく連絡をとったが、相手は電話口にも出ない。 然﹁謝罪﹂との標題で ﹁ こ の 度 の 採 用 を 白 紙 と さ せ て い ただきます﹂との紙切れが送られてきた。 現地用の安全靴やカツパなど七つ道具を買い揃えての この結果である。少年はふて腐れ、受託者の私は途方に つ 手 な し の 状 況 に 陥 っ た 。 一 思えば面接の一度もない採用通知がそもそもおかしかっ たのだが、それまでに何回となく受けた他社の面接は、 補導委託中であることを明らかにしてのことでもあり、 す べ て 駄 目 だ っ た 。 そ の 後 、 彼 か ら 一 度 だ け 電 話 が あ り 、 好 余 曲 折 の す え 、 今は四国にある工事現場に契約社員として働いているよ一 う で あ る 。 一 このような経過を知っているだけに、新たな受託に職一 員は﹁またか﹂とうんざり顔だった。 しかも、私が東日本大震災で現地へ足繁く通っている 状況だったので ﹁どうなることだか﹂と、職員はいつに 返信もない。採用通知を受け取ってから約一一ヵ月後、突断った。被災地支援で尼崎市をしばしば不在にしなけれ なく不安顔だった。私も裁判所からの依頼をいったんは

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ばならないことを理由にしたが、それでも新たな依頼を し て く る 。 具 体 的 な 内 容 ︵ 事 犯 ︶ と 家 庭 環 境 を 聞 い て し ま え ば 、 こちらの姿勢も揺らぐ。聞かなければよかったと思って も 後 の ま つ り で あ る 。 結局、暮・正月を挟むことになる身柄っき補導委託を すぐさま O K し て し ま う こ と に な っ た 。 止むを得ない。私の被災地支援に同行させた。少なく はない出費も覚悟した。被災地の老人ホ

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ムにもそれと な く 知 ら せ 、 ホ ー ム で の 連 泊 も お 願 い し た 。 ありがとうと言われて、初めてありがとうと返せるが、 そ れ に は 潮 時 が あ る 。 このような少年たちが老人ホ

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ム園田苑で、お年寄り から日々語りかけられる﹁ありがとう﹂ との言葉に自己 を取り戻し、自己の居場所を見出していくことはこれま で 多 く 体 験 し た 。 園田苑の職員として雇用した前述の少女もその例に漏 その内の一人は園田苑で受託中に少年一 院に収監された。院内の生活態度が優秀ゆえ収監中に国一 費 で ホ

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ム ヘ ル パ

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の 資 格 を 習 得 し た 十 七 歳 の 女 性 で あ っ た。その二人が町で出会った初対面の男性とともに姿を一 消した。私は﹁ありがとう﹂の絶大な︵?︶効用を、あ一 まりにも過大評価していたのだろうか。﹁ありがとう﹂ を耳にするだけが全てではないことに気がついてなかっ一 た 。 一 そんな中で保育士の発表から、﹁ありがとう﹂は言わ一 れるだけではだめで、﹁ありがとう﹂と発語することの一 方 が 重 要 だ と 知 ら さ れ た 。 一 ﹁ハイと言う素直な心﹂などと一連に印刷される、 ﹁ありがとうと言う感謝の心﹂などの俗っぽくも押しつ一 けがましい標語の類には拒絶反応すら起こるが、﹁あり一 がとう﹂を耳にして、﹁ありがとう﹂と素直に返す相互一 交流が自然となされてこそ、﹁ありがとう﹂の普遍的な一 そう考えると、これまで受託した一 れ な い 。 し か も 、 効 果 が 出 る の だ ろ う 。 こぺる 六十人を越す少年たちは、 そ れ ま で の 生 育 歴 で 、 ﹁ あ り がとう﹂と言われる機会がほとんどなかったのではない 13

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か と 推 測 さ れ る 。 私は、彼ら彼女たちと接してみて、 この少年たちは抱 きしめられた体験があまりにも少なすぎたのではないか と 思 っ た 。 し か も 、 物 心 が つ く 以 前 に 、 その体験がほと んどなかったのではないかと確信するようになった。そ れどころか、被虐待の体験を持つ者が多い。 し か も 、 の時期は多くの場合、幼少期であり、虐待を加えた者は 近親者か非常に近しい関係にある者である。さらに、少 数だが発達などに障碍を持っている少年もいる。 家庭崩壊した少年もおり、家庭生活そのものを一度だ に体験したことのない少年もいる。 その少年たちにタイ ムスリップさせて、家庭の擬似体験をさせることなど、 私にはとうてい不可能である。 私も、親に叱られ殴られた体験を人並み以上に持つ。 だが、静かに思い起こせば、抱きしめられ、頬ずりされ たことの方がはるかに多かった。 そのような体験を持つ

A E 3 3

可 k p v φ ’ 九 日 ? V4M あるいは僅かしか持っていない少年だから と言って、今、私が彼ら彼女たちを、殴ったり、抱きし めたり、頬ずりするわけにはいかない。 それでなくとも そ の 善 一 口 少年に対して一 があまりにも少なかったこと一 ﹁ありがとう﹂を言われて、初めて﹁あ一 の言葉と意味を体得する。しかし、﹁ありが一 を言われて、その言葉と意味とを自分のものにで一 き る の は 、 そ の 潮 時 、 時 期 が あ る 。 一 この少年たちに、私がやみくもに﹁ありがとう﹂を連一 発するわけにはいかない。それはあまりにもわざとらし一 い も の に な り 、 ぎ こ ち な い 。 一 今も補導委託を受けている私の結論は、あまり高望み一 自分が生きていく中でどれほど多く一 実感できる糸口を、彼一 多感な時期である。何をしてやればいいのか、どうすれ ばいいのか、頭を抱えてしまう。 ただ、少年たちから発せられる ﹁ あ り が と う ﹂ が多くはないことは確かである。 こ れ は 、 かけられる ﹁ あ り が と う ﹂ に 因 る 。 人 間 は り が と う ﹂ と う ﹂ を す る の で は な く 、 の人が関わっているのかを体感、 ら彼女ら自身がそれなり見出せたらよしとしている。 ︵ 二

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一 一 年 十 二 月 ︶

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いのちを生きる⑩

N

長谷川洋子︵大阪府小学校教員 三 島 郡 島 本 町 在 住 ︶ 十二月十九日 何十年ぶりかに N と 出 会 っ た 。 い や 、 ﹁ 出 会 っ た ﹂ おかしい。彼がパネラ

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の 一 人 と し て 、 T 市主催の教育 フォーラムでしゃべるのを、私は客席で聴いていただけ だ か ら 。 N と初めて出会ったのは、私が教員になって二年目。 同和教育推進校︵同推校︶から彼は転任してきた。何を 一番大事にして子どもに教えたらいいか手ほどきしてく れたのは N た ち だ 。 小学校はひとを大切にする世界だが、別世界の音楽の 競争社会からやって来た私に、初任校の先輩たちは手を 焼 い て い た 。 そんな私に、彼は自分の生き様を語り、 ととひとが生き合う実感みたいなものを教えてくれた。 子どもに人気があって、歌もうまく、 ちょっと苦み走つ た イ イ 男 の N に 、 私 は 憧 れ た 。 N は幼少時代を大阪市野田で過ごした。両親は仕立屋 で、お二人とも耳が不自由だった。家は貧しかったが、 』ま 車がつぶしたものを遊び道具にしたり、八百屋が野菜を一 いっぱい積んでウンウンと引くリヤカーを後押して駄賃⋮ をもらったりした。一方で、﹁しようがい者の子ども﹂ と言われ、差別されたという。それが彼の解放教育の原一 点であることを知った。組合的な考え方を教えてくれた一 の も 彼 だ 。 一 気性の激しい彼は﹁管理職は敵だ﹂と語ったものだっ た。だが、時は流れ、今や彼は校長になり、パネラ

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の 一人として、私の目の前の舞台の上に座っていた。 フォーラムは、大阪府実力テストの T 市の点数が府平一 均を上回ったという報告から始まった。舞台のスクリ

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一 ン に 色 と り ど り の 巨 大 な グ ラ フ が 次 々 と 現 れ る 。 そ の 後 、 文科省研究指定を受けた同推校の Y 中や、道徳教育研究一 こぺる ひ 校 の R 中などの子どもの笑顔の写真が映し出される。昔 15

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の T 市を知っている人がこれを観たら、 いったいどこの 市のことかと思うだろう。実績上昇を狙う、どこにでも ある市。写真の子どもの笑顔は美しすぎて、 その透明感 に か え っ て 不 安 を 覚 え た 。 パネルディスカッションは、元 NHK アナウンサーが コーディネータ

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で 、 パ ネ ラ

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は N の 他 に T 市市長、千 葉 大 学 教 授 、 PTA 代 表 と い う 取 り 合 わ せ だ 。 N の 容 貌 が 変 わ っ て い る の が 、 遠 目 で も よ く わ か っ た 。 以前の鋭敏さや激しさが影をひそめ、何を考えているの かわからないひとになっていた。 話の最初のテ

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マ は ﹁ 子 ど も 時 代 に よ か っ た こ と 、 い や だ っ た こ と ﹂ 。 他 の 人 は と り と め の な い 思 い 出 話 を し た が 、 N は 、 親 の こ と 、 線 路 に 置 い た 鉄 釘 の こ と 、 八百屋のリヤカーの駄賃の話 と思った。彼の話しぶけ入れられず、今更ながらショックを受けた。 を 語 っ た 。 ﹁ こ こ で 話 す の か ! ﹂ りも変容していた。愛想よく遠い思い出を語るおだやか な 声 。 しかし最後に﹁いやだったことは、近所のひとに ﹃ つ ん ぼ の ︵ 親 の ︶ 子 や ﹄ と 言 わ れ た り 、 そのように対中で抜け出した。すでに街路は深々と冷え込んでいた。 応された乙とです﹂と言った彼の声は、昔に戻っていた。 そ の 次 の 展 開 に 私 は び っ く り し た 。 司 会 は ﹁ あ 、 そ れ つ て 放 送 禁 止 用 語 で す よ ﹂ い さ と 彼 を 諌 め 、 ﹁ み な さ ん の お 話 い や だ っ た こ と は そ ん な に な か っ たようですね﹂とまとめたのだ。昔の T 市が大事にして一 い た ﹁ 解 放 教 育 ﹂ か ら 考 え る と 、 あ り え な い 発 壬 目 だ っ た ロ N は手許を見たまま何も言わなかった。昔の彼なら黙っ てはいなかっただろう。他の三人も無言。誰も批判しな一 いのをいいことに司会はどんどん話をすすめ、 N は み ん な と お だ や か に 話 を 続 け て い た 。 二年目の私が N たちから教えてもらった﹁自分を見つ一 め、ともに生きる仲間を見つめ、ささえあい、ともに学一 び、成長すること﹂は、今でも大事なことだと思ってい一 る 。 N たちと出会わなかったら私は全く違った教員になっ て い た こ と だ ろ う 。 彼 ら へ の 感 謝 と 同 時 に 、 T 市 の 教 育 、 その教育を支えていたひとびとの激しい変容が容易に受一 を 伺 う と 、 小 さ い と き 、 ﹁ ヒ ラ で よ か っ た ﹂ 。 小さな私の実感だった。会の途

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濃水飛山記 マ今年も、多くの年賀状をいただき ま し た 。 三 通 を 紹 介 し ま す 。 ・ ﹁ 私 は 去 年 も 体 調 が す ぐ れ ず 、 原稿を書き切ることができず、申し わけありませんでした。東日本大震 災 で 身 近 な 人 を 次 々 と 失 っ て い く 人 々 を見ていると、今、こうして生きて いる自分が多くの人々との関わりの 中 で 生 き て い る こ と が 身 に 泌 み ま す 。 もう少し自分の生を深めたいと思い ま す 。 ﹂ ・ ﹁ 昨 年 は ﹃ 多 文 化 共 生 の 可 能 性 ﹄ に つ い て 書 く つ も り で い ま し た が 、 個人的に大きな壁にぶつかってしま いました。﹃こぺる﹄にあと一篇載 せ て 頂 き た い と 切 望 し て お り ま す 。 自分の壁を乗り越えて表現したいと 思 っ て い ま す ﹂ 。 お二人の原稿が間に合うよう念じ て い ま す 。 −﹁﹃濃水飛山記﹄︵別号︶の命 に つ い て の ア ン ケ ー ト に 驚 き ま し た 。 道 で 子 供 に 釣 っ た 魚 の 調 理 を 教 え 、 小さいときに殺生を教えるべきだと 言っていた人がいて、これはなるほ ど と 思 い ま し た ﹂ 。 朝日新聞の連載コラム﹁野遊び大 全﹂に、こんな文章が載っていまし た。﹁釣った魚をその場で逃がすの を キ ャ ッ チ & リ リ ー ス と い う 。 だ が 、 逃す理由の多くは、魚に触りたくな いとか、料理が面倒とか、魚がかわ いそうといったもので、いずれもい た だ け な い 。 そ ん な 行 為 は 不 健 全 で 、 子 供 の 教 育 上 、 よ ろ し く な い 。 ︵ 略 ︶ 獲物を捕まえた﹃ゃった﹄が、﹃か わ い そ う ﹄ ﹃ 残 酷 ﹄ に な り 、 ﹃ 面 白 い ﹄ ﹃ き れ い ﹄ に 変 わ り 、 最 後 に ﹃ う ま い﹄にたどり着く。このつながりこ そが、﹃命とは何か﹄を感じとるう え で 重 要 な の だ 。 。 ホ イ 捨 て リ リ ー ス や言葉の教育からは、命の大切さは 学べない。子どもに殺生を教えるの は、大人の大事な務めである﹂︵作 家阿部夏丸。日−

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︶ 。 例の中学校の教員たちは、校長ふ くめ、もう一度きちんと﹁いのちの 連 鎖 ﹂ を 学 び 直 す べ き で す な 。 マいま講演で、ゃなせたかし作詞・ いずみたく作曲の﹁手のひらを太陽 に ﹂ を 出 席 者 と 一 緒 に 唱 っ て い ま す 。 ﹁ぼくらはみんな生きている/生 きているから歌うんだ/ぼくらは みんな生きている/生きているか ら悲しいんだ︵略︶ぼくらはみん な生きている/生きているから 笑うんだ/ぼくらはみんな生きて い る / 生 き て い る か ら 嬉 し い ん だ ﹂ 。 ときには谷川俊太郎さんの詩﹁生き る﹂を読むこともあります。﹁生き ているということ/いま生きている ということ/それはのどがかわくと いうこと/木もれ陽がまぶしいとい うこと/ふっと或るメロディを思い 出すということ/くしゃみすること / あ な た と 手 を つ な ぐ こ と ﹂ 。 わたしは、この問、多くの人と手 をつなぎ、それに支えられて生きて きました。おかげで﹃こぺる﹄終刊 まであと一年。よろしくお付き合い 願 い ま す 。 藤 田 敬 一 ︵ ロ ・ 1 ・ 9 記 ︶ マ ﹁ ﹃ 乙 ぺ る ﹄ の 合 評 会 と 総 会 ﹂ の お 知 ら せ 3 月出日︵士︶午後 2 時 。 京都府部落解放センター 3 階 話 題 提 供 者 : 山 田 委 弘 さ ん ︵ 予 定

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*終了後、京都市三条河原町の﹁新 羅 ﹂ で 懇 親 会 を 聞 き ま す 。 発行者こベる刊行会(代表藤田敬一) 発行所 岐阜市西改田字川向187 4 藤田敬一方 〒5011161 Tel.&Fax. 058 239 5348 E mall k fuiita母h6.dion.ne.jp 印刷・発送 戸田写組(〒印t・6m 暁阜県笠松川円拙寺8犯lTel0回388・[864) 定価300円 年 間 購 読 料4000円 郵便振替:01010 7 6141 銀行振替十六銀行正木支店 こべる刊行会代表藤田敬一名義 普通口座 1418253 -.JII.O

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第227号 ー〆’\之J2012年2月25日発行

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て 可 。

ニニ七号三O一二年二月二十五日発行︵毎月一回二十五日発行︶ 一 九 九 三 年 五 月 二 十 七 日 第 三 種 郵 便 物 認 可 定 価 三 百 円

参照

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