親 驚 聖 人 の 太 子 信 仰 の 形 成 と 四 天 王 寺
親驚聖人の太子信仰の形成と四天王寺
武E
田
だ
賢
1
寿
2
一、親鷺聖人の太子信仰の特質 親 驚 聖 人 ︵ 以 下 宗 祖 ︶ は 建 仁 元 年 の 春 ︵ 二 十 九 才 ︶ に 、 六 角 堂 へ 百 日 参 寵 の 願 を 発 さ れ 、 九十五日の暁に、本尊の 観音菩薩が聖徳太子の文を結んで示現せられ、 ① ﹁恵信尼文書﹄によって明かなことである。また、元久二年︵三十三才︶に夢告によって緯空の名を改めて善信とせら ② ﹃六要紗﹄に示めされる如く、恐らく聖徳太子の告命によるものであったと言ってもよく、宗祖の信仰体 その示現の文に導かれて ﹁ 雑 行 を 棄 て 本 願 に 帰 ﹂ せ ら れ た こ と は 、 れ た の も 、 験の背景には宗祖の深い太子信仰が働いていたと見ることが出来るのである。 こ の こ と は 、 宗 祖 が 、 文明開板本の ﹃ 正 像 末 和 讃 ﹄ の 後 に 収 め ら れ た 、 ︵ 十 ︶ 多生噴劫この世まで ﹁ 皇 太 子 聖 徳 奉 讃 ﹂ 十 一 首 の 終 り 二 首 に お い て 、 あはれみかふれるこの身なり 一 心 帰 命 た へ ず し て十 聖二奉 徳、讃 皇 ひ の ま お な あ く t土 こ れ の
みむ
t
こ Jくk
③ 護持養育たへずして 如来二種の廻向に ④ す L め い れ し め お は し ま す 。 と讃嘆しておられることによっても明らかなことである。 思 う に 、 日 本 の 歴 史 上 、 宗 祖 は ど 聖 徳 太 子 を 崇 敬 し 、 讃 仰 せ ら れ た 人 は な い と 一 一 一 日 っ て も 過 言 で は な い 。 勿論宗祖に おける、本願他力の信仰の系譜は、印度、中園、 日 本 と 伝 承 せ ら れ た 七 高 僧 の 教 学 、 特に法然上人の教学を以て正統 とすることは言うまでもない。然しながら他面において、 聖徳太子との内心のつながりを無視することは出来ないの である。則ち宗祖は常に法然上人を勢至の化身と仰ぐと共に、聖徳太子を観音の化身と仰いでおられたことによって も察せられる如く、宗祖は現実の世界において法然上人に出会うと共に、 夢の世界即ち超意識の世界において、聖徳 太子に出会われたのであり、この二つの出会いによって宗祖は、 ﹁如来二種の廻向に﹂帰入せしめられるに至ったと 言 っ て も よ い で あ ろ う 。 周知の如く、宗祖は晩年八十才をすぎてから二百首に及ぶ﹁太子和讃﹂を製作すると共に、 ﹃ 太 子 御 記 ﹄ を 書 写 し て、聖徳太子の御苦労を偲ぶと共に、その仏法弘通の恩徳を讃嘆せられたのである。 ︶ 噌 ’ A ︵ 建 長 七 年 ︵ 八 十 三 才 ﹀ ﹃皇太子聖徳奉讃﹄七十五首 (2) 康 元 二 年 ハ 八 十 五 才 ︶ ﹁大日本粟散王聖徳太子奉讃﹄百十四首 (3) 正 嘉 元 年 ︵ 八 十 五 才 ︶ ﹃ 太 子 御 記 ﹄ 親 驚 聖 人 の 太 子 信 仰 の 形 成 と 四 天 王 寺一
一
一
一
親 驚 聖 人 の 太 子 信 仰 の 形 成 と 四 天 王 寺 一 一 四
ω
正 嘉 二 年 ︵ 八 十 六 才 ﹀ ﹁ 尊 号 真 像 銘 文 ﹄ ︵ 広 本 ︶ (5) 同 年 九 月 ︵ 同 才 ︶ ﹁ 正 像 末 和 讃 ﹄ ︵ 脱 稿 ︶ ﹃皇太子聖徳奉讃﹄十一首 思うに当時宗祖は内には善驚義絶の問題をかかえ、外には、権力による念仏の弾圧及び日蓮の念仏誹詩の問題に直 面しておられたのであり、これ等の問題の解決を、 日 本 仏 教 の 開 祖 で あ り 、 またかつて宗祖を本願念仏に帰入せしめ られた、観音の化身としての聖徳太子に求めて行かれ、その切ない心情が沢山の﹁太子和讃﹂の製作として現われた と見ることが出来るのである。古来、宗祖の﹁太子和讃﹂は他のコニ帖和讃﹂に比して格調の低いものとして、其の 真偽が疑われるのであるが、当時すでに八十才を越えておられた宗姐の心情を察する時、格調の低い方がむしろ当然 のことではなかろうか。また宗祖の太子に対する姿勢は、 太子を人間太子として見るのではなくて、太子を観音の化 身、弥陀の化身として帰依信順して行かれたのであり、 従 っ て 宗 祖 に と っ て は 後 世 、 ﹁太子伝暦﹄等によって、超人 化され、仏格化された太子こそ宗祖の心情に最もふさわしい太子であったと言ってもよく、 この故に、宗祖において は、弥陀信仰と太子信仰が全く一つのものとして受容せられることを得たのである。 さて、宗祖の﹁太子和讃﹂の中で、最初に製作された、 コ 皇 太 子 聖 徳 奉 讃 ﹄ 即 ち 通 称 、 ﹁ 七 十 五 首 和 讃 ﹄ は 、 主 口 融 周 義絶の前年に製作されたものとして、 特異な性格を持つものである。則ち﹃七十五首和讃﹄は第二日に先ず、聖徳太 子の日本における仏法弘通の恩と、衆生救済の慈悲に感謝すべきことを述べ、 次いで二首以下十首までは、六角堂建 立の縁起をのベて、六角堂は太子建立の寺であり 日本最初の寺であると述べているのであるが、これは恐らく、宗 祖が二十九才の春、出離の要道をたずねて、 六角堂に百日参寵されたことを憶念して書かれたものと推察することが 出来るのである。続いて次の第十一首から第十四首までは 太子信仰の源流とも言うべき、太子南岳後身説を述べてい る の で あ る 。 思うに、この太子が南岳恵思禅師の後身であると言う説は、奈良時代に鑑真門下の思托及び法進等によってとなえ られたものであり、それは中国における寸法華経﹄行者である恵思禅師と、 日本における叶法華経﹄の伝持者である 聖徳太子とを結びつけることを意図するものに外ならない。則ち奈良時代に始まった太子信仰の主流は、 ﹃ 法 華 経 ﹄ の行者としての太子の超人化、仏格化を形成するものであったのであり、従って太子を観音の化身であると言うのは、 司 法 華 経 ﹄ の 第 二 十 五 品 、 ﹁観世音菩薩普門口問﹂に説かれる観音を意味するものであったことは言うまでもないこと で あ る 。 こ れ に 対 し て 宗 祖 は 、 一面においては、法華行者としての太子信仰を認めつつ、 他面において、太子を以て、浄土 教の弘宣者であり、西方浄土への往生者であると信仰せられるに至ったのであり、 従って宗祖にとって太子は弥陀の 協士として、念仏往生を宣布する観音の化身であると堅く信じておられたのである。 そしてこのような宗祖独特の太 子信仰を形成する一つの要因となったのは 守七十五首和讃﹄の中心となっている﹃四天王寺御手印縁起﹄であった と言うことが出来るのである。
二、聖徳太子と四天王寺
周知の如く、聖徳太子の四天王寺建立については、 古く﹃日本書紀﹄及び﹁上官聖徳法王帝説﹄に記録されている のである。則ち﹁書紀﹄によれば、用明天皇崩御の年即ち用明天皇二年七月の条に、 太子は蘇我馬子の軍に随って、 物部守屋を討伐するために出陣されたのであるが、 守屋の軍が強くて、馬子の軍は三度も退却したのであった。 書 紀﹄はこの記録に続いて、 親 驚 聖 人 の 太 子 信 仰 の 形 成 と 四 天 王 寺 一 一 五親 驚 聖 人 の 太 子 信 仰 の 形 成 と 四 天 王 寺 一 一 六 ひ き ど は な は た 是の時に、厩戸皇子、束髪於額して、軍の後に随へり。自ら付度りて日はく、﹁将、敗らるること無からむや。願 白 り て の き き 、 、 、 、 、 た き ふ さ に非ずは成し難けむ。﹂とのたまふ。乃ち白腰木を前り取りて、疾く四天王の像を作りて、頂髪に置きて、誓を発 ﹁今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四壬の奉為に、寺塔を起てむ﹂とのたま品。 て て 言 は く 。 と 述 べ 、 そ の 後 に 、 し づ 乱を平めて後に、摂津国にして、四天王寺を造る。大連の奴の半と宅とを分けて、大寺の奴・田荘とす。 い ち い を以て、法見首赤躍に賜ふ。蘇我大臣、亦本願のままに、飛鳥の地に、法奥寺を起句。 田一万噴 と 記 録 せ ら れ て い る の で あ る 。 ま た こ の こ と を 、 ﹃ 法 王 帝 説 ﹄ に は 、 丁未の年の六七月、蘇我馬子宿禰大臣、物部守屋大連を伐つ。時に大臣の軍土魁たずして退く。故に上宮王、 ﹁ 若 し 此 の 大 連 を 亡 す こ と 得 ば 、 四 玉 の像を挙げて軍士の前に建て、誓ひて云はく、 四王の為めに寺を造り、尊重供養 し 奉 ら む 。 ﹂ と い へ り 。 即ち軍勝つことを得て ⑦ 王 の 生 れ ま し て 十 四 年 ぞ 。 大 連 を 取 り 詑 り ぬ 。 此れに依りて即ち難波の四天王寺を造る。聖 と記されているのであり、これ等の古い記録によれば、 四 天 王 寺 は 、 太子十四才の時の守屋討伐における発願によ って建立せられる運びとなったことが知られるのである。そしてまた、 ﹃ 書 紀 ﹂ に よ れ ば 、 推 古 天 皇 元 年 の 条 に 、 ﹃ 秋 ③ 是の歳始めて四天王寺を難波に造りたまふ。﹂と記されている 九月、橘豊日天皇を河内の磯長陵に改め葬めまつる、 こ と か ら 、 四天王寺の建立は、推古天皇の元年と見ることが出来るのである。 思うに、近年、津田左右吉博士をはじめとする歴史学者の聞に、 ﹃ 古 事 記 ﹄ ﹃日本書紀﹄に対する批判的研究が進 め ら れ た 結 果 、 ﹃書紀﹄の記録の中には後世の作為によるものが多く存し、客観的史実として認め難い記録が多分に
含まれていることが発見されるに至ったのである。従って太子の四天王寺建立の記録についても、当時太子が僅か十 四才であり、守屋討伐軍の後方にあって、雑役に従事しておられたと推察されること、 また四天王信仰の典拠である ﹃ 金 光 明 最 勝 王 経 ﹄ の 我 が 国 に お け る 流 行 は 、 天武天皇の頃まで下らねばならぬこと等を理由として ﹃ 書 紀 ﹄ 及 び ﹃ 帝 説 ﹄ の 記 録 に 疑 問 を 持 つ 学 者 が 少 く な い の で あ る 。 例 え ば 、 家 永 三 郎 博 士 は そ の 著 、 可 日 本 仏 教 史 ﹄ に お い て 、 四 天 王 寺 に つ い て 、 ﹁この寺は聖徳太子が物部守屋征 伐の時、戦勝を四天王に祈願し造寺を誓一い、乱ののち、摂津国に建立したものという。 こ の 所 伝 に 従 っ て 、 四 天 王 寺 はその名の示すとおり仏国守護の四天王を本尊とした国家的性格の寺院であったといわれている。 ③ 創についても寺伝をそのまま信ずることはできない。﹂と述べておられるのである。 しかしこの寺の草 然しながら一面、家永博士も指摘しておられる如く、 昭和九年の塔倒壊に際しての調査の結果、塔の造り方が法隆 寺と同じ形式であることが発見せられ、 また出土瓦も飛鳥寺に次ぐ古式のものが見られ、 さらに戦災後の発掘調査に よって、中門、塔、金堂、講堂が南北中軸線に配置されて、古代建築の旧規をよく保っていることが確認されるに至 っ た 。 従 っ て 、 遺 跡 、 遺 物 の 上 か ら 、 四天王寺が推古朝建立であることは間違いないと言ってもよいのである。 さ て 古 来 、 四天王寺に関する縁起として最もよく一般に流布したのは、 言 う ま で も な く 、 ﹃ 四 天 王 寺 御 手 印 縁 起 ﹄ であり、宗祖もまたこの﹃御手印縁起﹄によって、 ﹃ 七 十 五 首 和 讃 ﹄ を 製 作 し て お ら れ る の で 、 以下少しく﹃御手印 縁起﹄について述べることとする。 ﹃御手印縁起﹄は別名﹁本願縁起﹂と言われ、また ﹁ 四 天 王 寺 縁 起 ﹂ と も 、 ﹁荒陵寺御手印縁起﹂とも言われる が、この﹃縁起﹄には太子御自身の手形が二十五個処に押されていたと伝えられている。 そ し て そ の 巻 尾 に 、 皇 太 子 仏 子 勝 輩 、 親 驚 聖 人 の 太 子 信 仰 の 形 成 と 四 天 王 寺 七
親 驚 聖 人 の 太 子 信 仰 の 形 成 と 四 天 王 寺 一 一 八 乙 是 卯 融 歳 起 正 文 月 納 八 孟 目、⑮星.,,,. 呈 内 監 不 可 披 見 手 助 、 濃 と奥書されているので 一般に、推古天皇の三年に、 聖徳太子が自撰されたものとして珍重されて来たのである。 然しながらこの﹃縁起﹄の成立については異議を唱える学者が多い。則ちこの﹃縁起﹄の古写本の一つとされる、 陽明文庫蔵の東大寺宗性の自筆本の末尾に、 寛弘四年八月一目、此縁起文出現、郷都維那十禅師慈蓮金堂六重中求一一出之勺 一 条 院 御 時 閉 一 瑚 一 階 一 一 長 吏 慶 算 定 額 之 恥 。 とあり、この記録によって、 江戸時代の考証学者、 @ 狩 谷 披 斎 は 、 本﹃縁起﹄の製作年代を一条天皇の在位︵九八六 ⑬ | 一
O
一一︶の時代と見ているのである。そして近年には、和田英松博士は、堀河天皇︵一O
八 六 | 一 一O
七︶の御代を ⑬ また赤松俊秀博士は、寛弘四年︵一OO
七︶即ち、慈蓮の発見直前頃の作と見ておられるのである。ま 下 ら ぬ と さ れ 、 た一方この﹃縁起﹂の記事や用語、 及び四天王寺蔵本︵根本本︶の筆致等から見て、大よそ平安中期の作と見るのが 妥当とせられるのである。 ﹃御手印縁起﹄と﹃七十五首和讃﹄ 最 後 に 、 ﹃御手印縁起﹄と﹃七十五首和讃﹄について考察するに。既に長安先生が﹃真宗研究﹂第十三輯において 指摘しておられる如く、 ﹃七十五首和讃﹄は善驚の異義から ﹁鎌倉訴訟﹂に進展し、更に義絶に到ると言う、宗祖 にとって最も苦難に満ちた時代に製作された﹁和讃﹂であり、宗祖は白からの苦悩の解決を、 太子の仏法の中に求め られて、数多くの﹁太子伝﹂を熟読せられ、特にこの﹁御手印縁起﹂に心を寄せられたものと思われるのである。思うに﹃七十五首和讃﹄にはその末尾に特に乞加偽が付せられているが、 そ の 、 南無救世観音大菩薩 願 哀 仏陸、 常 覆 撰 護 受 ⑮ 我 南無皇太子勝童比丘 と言う言葉は、当時の宗祖の心情を最もよく示すものと言ってもよく、更に続いて宗祖は、 ﹁御手印縁起﹄の奥書 き で あ る 処 の 、 皇太子仏子勝童 乙 是 卯 縁 歳 起 正 文 月@納 置 金 共 同 主主 内 監 不 可 披 見 手 跡 猿 の文をそのまま転写しておられるのは、披見することの出来ない、 太子真筆の寸縁起﹄を披見することを得られた、 宗祖の感動を如実に示すものと推察し得るのである。そして最後に、 ⑫ 拝見奉讃人者南無阿弥陀仏可唱可唱 と自書しておられるのは、太子によって教えられた道は 詮ずる処、南無阿弥陀仏を唱えることであったと分った 喜びを述べられたものと言ってもよいであろう。 さて宗祖は如何なることを﹃御手印縁起﹄学ばれたであろうか。 ﹁御手印縁起﹄では四天王寺の建立について、 な 荒陵の郷、荒陵の東に建立するが故に、処の村の字を以て、寺の名を号づく。 ⑮ 寺 と 日 う 。 先ず注意すべきことは、 四大天王に発願するが故に、四天王 と 記 し て 、 四 天 王 寺 の 建 立 を 、 ﹃ 書 紀 ﹄ ﹃ 帝 説 ﹄ に 述 べ ら れ た 、 守屋討伐における太子の発願に起因するものとし 親 鴛 聖 人 の 太 子 信 仰 の 形 成 と 四 天 王 寺 一 一 九
親 鴛 聖 人 の 太 子 信 仰 の 形 成 と 四 天 王 寺 一 二
O
ているのに対して宗祖は﹃七十五首和讃﹄の第十五首において、 ︵ 十 五 ︶ 太子手印の御記にいはく 有情利益のためにとて 荒陵の郷の東に ⑮ 寺を建立したまへり と 述 べ て 、 四 天 王 寺 の 建 立 を 、 ﹁有情利益のため﹂と領解しておられることである。則ち宗祖は、第六十二首及び 第 仏士十 法C三 輿 首 隆 に せ し め ペ コ ザ コ 有情利益のためにとて 守 主 こ か 屋 ヨ の の が 臼 衡 邪 域 山 見 に よ を い り 隆 り い 伏 た で し ま て て ふ @ 仏法の威徳をあらわせり 安 い 養 ま のt
こ 往 教 生 法 さ ひ か ろ り ま な り り@て と歌っておられることによって明らかな如く、 宗祖は太子の守屋討伐、引いては四天王寺の建立を﹁安養の往生﹂ のためと信じておられたことが知られるのである。思うにこのように宗祖が、 四 天 王 寺 の 建 立 を 、 ﹁ 有 情 利 益 の た め ﹂ ﹁安養の往生﹂のためと信仰せられるに至ったのは、 ﹃ 御 手 印 縁 起 ﹄ に 、 四天王寺について ﹁宝塔、金堂は、極楽@ 土の東門の中心に相い当れり。﹂と述べられていることに起因して、 古くから四天王寺を以て、 浄土への往生を願求 する寺として尊崇し、参詣せられていたことに基づくものと言うことが出来るのである。 このことについて、伊藤真徹先生は、 ﹃ 平 安 浄 土 教 信 仰 史 の 研 究 ﹄ に お い て ﹁聖徳太子の建立寺院中、特に四天 王寺が叡山浄土教信奉者に霊蹟視されるに至ったのは制度史的には四天王寺が天台宗に隷属し、末寺化してより後の こ と で あ る が 、 しかしこのことは信仰史的な裏付けを必要とする。 即ち信仰史的には聖の宗教活動により、太子信仰 が僧俗大衆の中に浸透した事実を見逃すことは出来ないが、 より根元的には﹃御手印縁起﹄の発見、即ち寛弘四年 ︵ 一
OO
七︶に最も重大な浄土教に連がる時点を見出すのである。 @ 聖を四天王寺に吸引することとなった。﹂ この縁起の発見により、中央文化圏の代表的人物や、 と述べておられるのであり、 ﹃ 御 手 印 縁 起 ﹄ が 、 四天王寺と浄土教、引いては太子と浄土教を結びつけるために如 何に重大な役割りを果したかが窺われるのである。 次に四天王寺の本尊について、 ﹃ 御 手 印 縁 起 ﹄ は 、 太子の前身である百済の聖明王が、太子の入滅の後、恋慕渇仰 して造り、敏達天皇の六年に阿佐太子を使いとして、 日本にもたらした処の、金銅の救世観音像を安置すると、記し て 宙 あ 阿十る 佐::;が 太 子 こを の
勅 観 使 音 に 像 て にィ
コ
て 刀て 祖 は わが朝にわたしたまひし 四 こ 士 敬 金 の じ 田 銅 像 院 の つ に 救 ね 安 世 に 置 観 帰 せ 世 命 り @ 音 せ 。 よ 親 驚 聖 人 の 太 子 信 仰 の 形 成 と 四 天 王 寺親 鴛 聖 人 の 太 子 信 仰 の 形 成 と 四 天 王 寺
一
一
一
一
一
聖徳太子の御身なり 弥 こ 陀 の 如 像 来 こ の と イ じ に 身 恭 な 敬 り@せ 。 よ と歌っておられるのであり、ここに示されている、 太子と観音、更には太子と弥陀の一致を確信しておられた処に、 宗祖の太子信仰の特質が存するのである。 以上の外に、四天王寺と舎利信仰、守屋の変化と仏法破滅、太子の変化と正法護持等の問題について語らねばなら ぬのであるが、今は紙数の都合で割愛することにしたい。 そして最後に宗祖の﹃七十五首和讃﹄には見えないが、宗 祖の心を少なからず動かしたと思われる﹃御手印縁起﹄の文について述べることとしたい。 則ち﹃御手印縁起﹄の終 り近くに、末法の世相について、 然りと雄ども、末代の道俗無慣にして、貧欲日日に増して、寺物を競い争うて、 応に三塗八難の中に堕つベし。仮 令寺物無しと雄ども、骨って滅亡すること莫からん。:::斯の時に当りて、王位日に競い、君臣序をあやまち、国 @ 務を奪い諦わん。父と子と義絶えて、国王、后妃其の数国に満ち、官物滅亡せん。:::哀れむべし、傷むべし。 と述べられている言葉は、善驚の問題をかかえておられた宗祖の心に如何に強く響いたことであろうか。更に﹃縁 起 ﹄ は 、 せ ん 、 斯 く の 如 き 等 の 者 は 、 一香一花を挙げて恭敬供養し、若し一塊一塵を以て此の場に描げ入れ、遥かに寺の名を聞き、遠く見て拝恭 ⑧ 一 浄 土 の 縁 を 結 ば ん 。 若 し 、 と述べているのであり、ここに示されている、末法の世において、 ﹁ 父 と 子 と 義 絶 え て ﹂ も 、 四天王寺を拝するも の 、 言 い 代 え れ ば 、 四 天 王 寺 の 本 尊 、 即 ち 観 音 、 即ち太子、即ち弥陀を拝するものは、 ﹁ 一 浄 土 の 縁 を 結 ぶ ﹂ こ と が拝見奉讃人者南無阿弥陀仏可唱可唱 出来ると言う言葉は、宗祖の心を如何に感動、慶喜せしめたことであろうか。この感動こそ先に示した、 の言葉となって現われたものと言ってもよいであろう。 ② ① 註 ﹃ 定 本 親 驚 聖 人 全 集 ﹄ 第 三 巻 ﹁ 書 簡 篇 ﹂ ﹃ 真 宗 聖 教 全 書 ﹂ 二 宗 祖 部 一 八 七 頁 四 四