Title
沖縄の城 ― その石塁構造
Author(s)
上間, 清
Citation
琉球大学理工学部紀要. 工学篇 = Bulletin of Science &
Engineering Division, University of the Ryukyus.
Engineering(12): 55-78
Issue Date
1976-09-28
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12000/26696
琉球大学理工学部紀要(工学篇)
沖 縄 の 城 ー そ の 石 塁 構 造
上
間
清*
The Stone-wall Structure of Gusuku. the
Ancient Castl on Okinawa I
s
l
a
n
d
.
by Kiyoshi UYEMA
Synopsis
Due t
o
i
t
s
g
e
o
g
r
a
p
h
i
c
a
l
reason t
h
e
Ryukyu I
s
l
a
n
d
s
experienced a
unique h
i
s
t
o
r
i
c
a
l
p
r
o
c
e
s
s
other than t
h
e
r
e
s
t
p
a
r
t
o
f
]apan.
We s
e
e
today unique c
h
a
r
a
c
t
e
r
i
s
t
i
c
s
i
n
i
t
s
c
u
l
t
u
r
e
,
t
r
a
d
i
t
i
o
n
,
f
o
l
k
-
c
u
s
t
o
m
s
and
o
t
h
e
r
s
.
Those f
a
c
t
s
have caught s
c
h
o
l
o
r
s
'
accademic i
n
t
e
r
e
s
t
s
,
t
h
e
accumulated
s
t
u
d
i
e
s
o
f
which r
e
s
u
l
t
i
n
g
,
s
o
c
a
l
l
e
d
by some r
巴se
a
r
c
h
e
r
s
,
Okinology.
However
,
comparing s
t
u
d
i
e
s
i
n
other f
i
e
l
d
s
,
a
s
t
h
e
author s
e
e
s
i
t
,
t
h
e
r
e
has not been p
a
i
d
much a
t
t
e
n
t
i
o
n
s
t
o
h
i
s
t
o
r
i
c
a
l
study i
n
c
i
v
i
l
engineering
s
i
d
e
except a
r
c
h
i
t
e
c
t
u
r
a
l
o
n
e
.
Respond
.
i
ng t
o
r
e
c
e
n
t
l
y
-
r
i
s
i
n
g
i
n
t
e
r
e
s
t
s
t
o
h
i
s
t
o
r
i
c
a
l
s
t
u
d
i
e
s
i
n
c
i
v
i
l
engineering
,
t
h
e
author s
t
a
r
t
e
d
a study on
Okinawa's a
n
c
i
e
n
t
massonry s
t
r
u
c
t
u
r
e
,
t
h
i
s
time p
l
a
c
i
n
g
enphasis on t
h
e
s
t
o
n
e
-
w
a
l
l
s
t
r
u
c
t
u
r
e
o
f
t
h
e
Guskus
,
a
s
p
e
c
i
a
l
name given t
o
t
h
e
o
l
d
c
a
t
s
l
e
s
i
n
Okinawa.
5
5
1 はしがき
沖縄の城(グスク)については、その特異な発生過 程から従来より種々の面から関心がもたれ、研究が重 ねられて来ている。それらはその発生過程に関するも の、(1)城郭文化史的に考察したもの(2)石造を中心とし た建築的な面から資料を収集考察したもの(3)などがあ る。石塁そのものについても多くの出版物に紹介、一 般的言及はあ忍ものの、その構造形態、石積工法等に ついて露点的に考察した、土木工学の分野からの研究 は筆者の知るところではないようである。 築地、堀、石舞台、条里地割などがあるが、その分布 を都通府県別P
:
見ると‘沖縄県は全体で12
件であり、 神奈川県の 13件についで 2位にある。特 l乙城跡につい ては北海道(10件)と共に他県を凌駕し沖縄県は 9件 である。本県が文化史的に特異にして重要な遺跡をも っ地である乙とがわかる。 (4) 日本全国の国指定文化財で土木の分野に関わりをも つものに、城跡(柵、郭跡、陳屋跡も含む)、橋梁、 都城、交通水運、治水利水、石棚、舗石、石階、参道 受付:1976年 4月30
日 *琉球大学理工学部土木工学科 しかし、本土も含めた城跡史研究の巾での沖縄の城 の寄在意義についての研究は十分ではないようであり これからの課題であろう。 本研究は、それへの言及は避けられないにしても、 いわゆる城郭史の研究をするものではなく(広い意味 ではその一環としての位置づけもしうるが)沖縄の城 の石塁について構造的な面を主として考察するもので ある。筆者の抱く研究の窮極の目標は、幾何学化、平 均化、没地域性という特性をもっ今日の土木構造物、 機能施設に対して、伝統、文化のローカリティーから│里杢
rf1 国 股 西 周 春秋戦国 泰 前 渓 新 後 漢 旧 山 新 石 器 時 代 1 4j
I 新 石 沖縄の城ーその石塁構造一
一
﹂
朝
一
品
期 中 貝 塚5
6
何ものかを引きだし、それを今日と明日の土木に生か せるものはなし、かという乙との発見とその応用性にあ る。本稿はその基礎的な研究の一部である。 従来、土木界は一般に歴史や伝統文化に対して、十 分な関心が払われて来なかった。学問的f<::土木工学に 近接する建築学の分野における歴史学、意匠学等の 研究の蓄積l乙比較しかなりの遅退があったと思われる が、昨今は土木界でも歴史の重要性が認識されつつあ る状況にある。(日 本研究の動機は、乙の様な学界の動向、北大の故小 川博三教授の助言、それに本県をとりまく開発状況へ の問題意識であった。 (6) 器 代 一 分 江 戸 一 一 郎 -i 一 近 代 一 歴 ﹁ 近 世 一 一 の 一 一 一 純 一 h H B 期 時 li
代i
期代II
l 代 晩 グ時ly
凶 期
I
9001--1__1三_l'<'__一! │ 古 2 111001 ',r; 代5
:13001 近 1 !1700!世
一
1 近 │ 19001 代 │ 後 時l l時AD
O 700 ⑨ った。 @ その集落は団結を支えるものとして裂なる場所 (ウタキ)をもち、祭租を中心にまとまっていた。司 祭者には「根人」の姉妹たちがあたった。(このよう な大集落をマキヨ、クダ、フダなどと称する) @ 外国との交捗をもら外来文化の輸入があった。 ⑤ 各部族の生産の拡大と富の追求は、自然と部落 聞に抗争を生み、その結果はいくつかの部族を支配す る者を発生させた。この様にして「根人」から按司が 発生した。(これに相当するものは宮古で笠見親、八 重山では「かわら」である)。
乙の按司は権力と共 l乙館を強化する建を生み、 その支配地域のある集落またはウタキのうち、防衛攻 略の戦略的適地を選んで石塁をめぐらし居-城となし、 シロとしてのグシクが生れた。(戦斗に関与しないグ 図- 1 稲作耕作の文化の段階にあり、鉄の使用も始ま2
沖縄の城の成立と分布 本稿は沖縄の城(グスク)の石室のもつ構造的側面 を考察するものであるが、それに先立ち以後の研究の ためにも、従来研究における沖縄の城の成立その他に ついての成果を簡略にまとめ、問題理解の一応の基礎 としたい。 (1)沖縄の膝史における時代区分 沖縄歴史の時代区分については、沖縄の歴史学界1<:: 今日でも議論のあるとζろであるが、 (7)一般的には図 1のようになると思われまとめて見た。I
本土と沖 縄の歴史には格差がある」と称されるが、その様子が よくわかる。考古学的な区分も一般的対応がわかるよ うに作成した。 (2)城(グスク)の成立過程 沖縄の城は図 lの時代区分でいう原始時代l乙相当 する 9~13世紀の間にその築造の開始が推定されてい るもので、文献(8) は次のように述べている。 19~13 世紀にかけて沖縄本島では按司(アジ)たちがすでに 城(グスク)と呼ばれる館(やかた)を構えて権力を ほこり、もろもろの按司たちを支配する『按司のまた 按司』すなわち「大世の主』の座へのぼろうとする野 望をふ、っつけあっていた。」 しかしとの時代(グスク時代)のd様 相 に つ い て は 「今の研究段階ではまだ雲をつかむようなシロモノで しかなく…J
(9)といわれるほど明確でないが、諸論を 概括して筆者はその性格を次のように理解しておきた いと思う。 め 貝塚時代l乙続く時代で、人々の集落は以前の低 地(海岸、砂丘など)から高地へ移動し血縁的な共同 体をつくっていた。支配者は「根人(ネヒト)J
であ った。(3)本土の減との出較考察 沖縄の城については「日本本土の城部より短かくと 見積っても 120~150年前にさかのぼるJ (I~ といわれ、 一般にそのふるさが指摘されているが、その論拠につ いては一般文献にも、筆者らのしる限り明確に提示さ れていないきらいがあり、少し論じてみたいと思う。 わが国の一般城郭史で城とされるものの中l乙は稲城 城柵など歴史前のものも含まれる場合が ・般である。 したがって 「沖縄の城がふるしリ と断ずる場合、城の 概 念 を ど う 規 定 す る か で 見 解 が 異 な るζとになる。 「石塁があったか否か」という観点から論じたとして も果して沖縄の域がふるいといえるかどうか、 城郭史 ζうとし、し の初期に鋭かれる神 縫 石 (北九州、
1
1
1
口地方に分布) やチヤシ(東北、北海道地方に分布)をも城概念の1-11 におく時、それは不確かなものとなる。 このように支えると 「沖縄の城かふるい」と論ずる ~~j合「しかじかの観バ、lから見るとJ という制限規定が その明確さのためにはどうしても必要であるといえよっ
。
筆者は文献(u)一拍調査の成果を麟んで、乙のふるさ の問題につき次のように考察をまとめたい。 ③ l成柵、イナキ、チヤ、ン、神宮E石等も1今めた!ムい 城の概念、つまり 「何らかの工作物で外摘w
然また 社会的)から身を』子るため確保された空間」から7考察 するl得、沖縄の雌史的時代区分の木土との格差を考慮 に入れても、 「沖縄の城がふるLリ との断定はむつか しいようである。本土における古代 (減郭史で↑..Iftと 称されることもある)の城については、 「日卒:書紀」 「市事氾J
「風 土 記」の記述および文献外の遺跡によ る考察の範凶lとあるものと解されるが、チャシ、神高E
石と沖縄のグシク の 関 連は関心がもたれているもの の、イナキ、城柵等は沖縄には、 筆者らの知るところ 特に報告がなく、今日のところ不明である。 @ 石塁のみをその外部構造とした城という限定か らはどうであろうか。この点からは「沖縄の戚はふる い」との表現もやっと正当性を帯びて来るものの、そ の成立の社会的、 廃史的背良l乙言及しない場合、つま り構造物という静的空間のみに石[
1
すると神鑑七i
の{i -:(L:もあり、9世紀 以降 と考えられている沖縄の城が 「ふるい」と必らずしも断じ難くなる。。
権力者による支配体制が潔い、 :文 配 の νンボ ル、攻撃防御の意味をもって、 城郭l乙土塁を使用 せず 石塁のみを用い、丘 陵 地 頂 仁附近を利用した域(シ ロ)という表現をするH寺、沖縦iの城のふるさは州、百の 57 琉球大学理工学部系要(1:学篇) シクも数多くある) なお上記のまとめにも参考にしたグνクの発生につ いての顕著な 2説があるので触れてみたいと思う。ゲ シク論を展開する際よくつl
用 紹 介されるものである が、それは 「担城説J
(10(
{
I
I
'
松説)と 「集落説I
】(1)(闘 :/G説)である。,ij者は琉i 球列応の広範なグシクの現地 踏査の成巣にその論拠を求め、後者は考I'i学的調子需の 成'-f!:にその論拠をおくものであるが、その論じるとこ ろは、 その名称から明らかな加iく、グシク発生の核を 前者が部終の烈威であったとする前者に対し、後者は 集落そのものであったとするものである。 │ 山j説は現イ:
1
平行相対時の状況にあるようであるが、 ~Æ~ :.符によ りi
両手?そ融合した統一の 解 釈 の 試 み も あ る。同それによればi
i
両者 はl
京 浬的には対立ではな く、r
,]
J
じ;}oi象を異なる側而から見たものではないか」 と問うて│刈-2の様な 「ゲシクモテソ.
t
J
を提示してい る。乙の見解は明快であり理解しやすく自然であるO 拝観的資料l乙基づくこの見解の論述を将来ζ期待しつl つ、筆者はー泌乙の見解をグシク発生の現解の基礎と したいとjtllうοD
O
×C
O
O
B
O
O
A
O
O
ク r プ シ い ん イ H ノ { 同 地 集 前 市│
o
│
o
i
× ×o
I
x
x
x
│首│勝中│ │坐 │連 城1 一 城 l 域 │i
.
.
.
"
1
"
"
I 向上也 集 務 時 代 (文 配 者 アサ) 初 期 域家時 代 (支配者 アツ) 時 期1
城 塞時 代 (支配者 世の主) 後 期 城 塞 時 代 (支配 者 王 ) グ シ ク の 伊I
I
/,;→ 民 ) 動代降 治時以 のた代 てみ時 し ら ク とか シ ク続グ シ 持 ( グの分 1 1 1 1 i! E E H 且 m聞 R H 0:グνクとして活動した x 活動を停止したA:
明治初期まで存在し活動した城 B :"l~
期城時代lζ存在したが最後Jt亡んだ城C
:
アジ│司志の抗争て'亡んだ城D
グシク"~f代の高i地集落,城になりえなかった もの (沖縄思潮第714,同良禽吉氏による -)1[5筆 者加工) 城(グシク)の発展段階モデルI
>
<
J
-2
沖縄の城ーその石塁構造 の築造の具体的年代が不明なものが多く従って「本土 の城よ り00年ふるL、」と明かくには表現できない。 か り に 、 城 築 造 の 盛 期 の 儀 後 の 年として1400佳をと り、本土近世の初年と比較すれば、 170年 と な り 、 は じめに 引 用 し た 「 日 本 本土の城郭よ り短かく見積っ ても 120'~150年前にさかのぼる」という論述は理解し うるものとなる。 58 意味をもつものと思われる。表- 1は文献向から筆者 がまとめたものであるが、石塁土塁両者混合の城郭構 造が圧倒的に多い。本土の中世の城にの城には石塁は ごく一部にしか用いられていず、崎 沖 縄 の 城 築 造 の 盛期を 12~13 世紀とする i培、本土近世(安土桃山 1570 )をさかのぼる乙とになり、沖縄の石塁城郭の ふるさは首肯しうるものとなる。沖縄の城の多くはそ (本土)* 成 構 の 造
t
革 郭 城 表- 1 9 1 U A U A 佳 q d n U A Y 唱 i 一 ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) 一 印 抑 制 問 抑 制 問 抑 制 制 問 問 仰 飢m
m
m
制 的一
1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 4 1 1 1 1 1 1 1 1 1 ) 一 ( ( ( 域 一 一 前 岡 松 松 台 井 附 山 山 岡 田 山 山 山 石 路 山 山 山 中 山 松 亀 島 洲 知 治 山 米 原 戸 本 杵 回 円 付 肥 中 加 担 一 一 本 発 知 萩 歌 和 額 一 一 弘娘二若仏福丸富村長新福笹亀出焼津松徳府和高丸字大高今松久島平熊臼竹府木飯府佐 一 一 凶 ) ) 一 一 n h u n 4 4 性 一 一 唱 i n 4 0 6 一 W 川 町w
m
羽 田 白 河 田 附 回 附 一 一 目 白 日 時 間 H H 回 目 刊 即 日 目 白 一 一 山取回 槻野名 山 羽屋 山 崎田屋原 川 賀 松 越 一 戸 間 諮 根 口 村 山 垣室田島本 山代田林 崎庄田 岡 沢 山 宮 川 一 一 和 津 古 須 保 ケ 棒平 一 一 郡高岸高上桑亀鳥名犬岡士口苅田掛横浜 川 水笠下彦水山石高大小上高松飯松沼舘高本久鶴深鳥字山 一 叫 一明
一
A 口 混 塁 土 塁 石 塁 長 島 田 中 岩 槻 関 宿 佐 倉 土 浦 高 速 古 川 中 村 (1611) 三 春 棚 倉 小 浜 大 野 浜 田 明 石 (1619) 広 島 (1590) 大 村 中 滞 日 出 日 間 佐十原。
δ n o ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) 2 8 3 M H 6 o p u -7 2 5 7 0 2 2 印 切 開 巧 お 団 副 臼 臼 田 回 日 印 印 印 印 1 ム 1 4 1 A 円 円 1 ム 1 A 噌i t A 1 A 1 ム 1 ム 1 A 1 A 1 ム唱 1 2 A 条 阪 崎 尾 中 中 原 所 納 田 山 形沢松寺田津 取 江野穏 山山本 島岡倉津島 淀 ケ 田 忍 ノ 聖 和 児 二 大 尼 西 府 府 小 路 加 飯 上 山 金 小 大高官烏松津赤岡福洲徳福 小 唐鹿 塁 石 減 名 *大類{申編 「日本の城郭史料集J
(昭和43) 所収の山県大弐主主U:
図合結記」の図面調査より作成。 この図面は明和 初 年 (1764)のものといわれ当時の近世城郭の純張関の集大成といわれる。 *年代は井ヒ「定本日本の域J (朝日新聞牡)などを参照した。琉球大・学理 工 学 部 紀 要 (工学篇) 59 (4) 沖縄の城の分布 沖縄の城(グシク)の発見は今日でも続いておか その災数はまだ明らかではないといわれている。それ らの主なものについては、沖縄県の文化財保護委員会 の又
1
(
t
{
.
:
,.;".氏によるものがまとめられてをり、切それ は図- 3(a)(b)の通りである。 沖縄の歴史の舞台となった中南部K数多く分布して おり、北部地減には少ない。この成果にはそれを必然 とする自然的社会的条件があったのであるが、 それら については次節で論じてみたい3 関-
3
城 ( グ シ ク ) の 分 布図 (沖縄本島) 一文化 財保護委員会 (又吉真三氏ら)作成図より (a) 沖縄本島巾南部)
:
.
.
p
,
¥
寸エーラ有印 沖縄の城ーその石塁構造 図 -3(b) 沖 縄 本 島 北 部 .ヂ
1
;
長
・
7
巧 従 /
ャ
ー
へ
"
-
-
-
-
、
r、
.・町長
て
/
有
ト
知
事I
J (.
刀
司
主
了
.
?
丸
吋
f
.
名
イ
/ /3
沖縄の械の石塁構造 の規模と、成果としての;者が社会的、政治的はありか 本節の論述は構造を主体とするが、関連事項の一般 たを基本的にきめるということは一般論として是認さ 的衛察として地形についても述べたい。 れている事実であろう。その意味において沖縄本島の(
1
)
築城と地形 城の分布をみる時、その必然件.は首肯しうるものとな さきに沖縄の城は rfiY~ヨ部に多く分布している状況を る。以下 l乙敷街してみたし、。 みたが、その分布をあらしめた最大の要因は、人問所 沖縄本島を南北 iζ縦断し、l
l
i
地の分布佼置をみたの 動を基本的に帝JI約する自然環境であるといってよい。 が閃 ~4 であるが、乙れから明らかなように沖縄本 lJ この制約の中で人々の小l左前動の形態が規定され、そ 地形は次の2地域に大別できる。61 琉球大学理工学部紀要(工学篇) イ.石川市 恩納村仲泊以北の北部山丘地域 ロ.石川以南の中南部低丘陵地域 j週一
5
f乙従って各地域の特徴を述べる。一一一-S
酔 将 一 千
~ ~主
o w
-ぷミザ叫︺ラN Y
M E
m
-ふ
M t r、崎封
4駒
-h w 市 ﹀。
.
.
.
。
沖縄本島の地形i5¥:分 北部地区はさらに地形的な特徴から次の二地域が指 摘できる。 A石川 仲泊横断線から久志 名護南部横 断線で区画される地域、 B本部半島とその根部Cその 他の北部地域。 A地域は東西ともにほぼ同様の海岸地形を有するが 海単線から中央山地までの距離が短かく民耕地のため の適地面積が狭隆で(北部全体の約15% 、 l600ha-~現 在)である乙この地域 fC.城の分布があまりみられない のは基本的にこの生産資源の限定されたことが大きい 要肉であろう。 B地域の名護を:iU'半島は巾央 l乙!肖 1[[を有しつつも 名護(!H)、羽f也、今帰仁にかなりの平野部を有し (北部全耕地面積¢約50%5000haを有する 現在)今 日でも県下有数の農業地域である。これらを控えて、 いわゆる三山時代の一つの勢力をなした北山城(今川 仁城)が存在し、他 i乙名護域などがあったわけであ る。 Cの地域は・部の小規模、IC
野(辺土名、奥)を除い ては、 A地域以ヒl乙山地が海岸に抜し、農耕適地が少 なく)北部全域の約17%1800ha)、広い地域lこ小規模 耕地が分散してをり生産性が低い地域である。乙の地 域は沖縄の歴史の舞台に登とすることはまれで、グシ クの存在も少ない。 中南部地域は lOO~200m の丘陵地を,j1央部にもつ が、その北側、及び西 南部にかけて平野部が比較的 発達し農耕適地も多く(農耕地約13400ha、本島北部 図 5 F、、 ー尋 ム 附 ﹃v v 沖縄本向縦断地形とグシクの分布 ← 持.
鳴
・
・
・
・
4
u
ハHFで
も
、
1
-
[
;
'
-同一4 持i
F
1
8
。
。
。
62 沖縄の城ーその石墨構造 の約l.6倍)よくまとまりがある。沖縄の膝史がζの したのであろう。大雑把な推論であるが、グシク時代 地域を主たる舞台として展開し、城の分布も極めて多 のプリミティフ、な状況ではのや③ゃのなどが、また古 いのは、乙の地域のもつ自然地形条件と生産性が極め 代社会の形成過程といわれる後期においては③や⑤や て大きかったことが基本的要閃といってよいであろ のなどがより支配的lこ位置選定l乙働いたと!忍われる。 う。 個々の城について、これらの要悶あるいはその他が 「人類は自然の環境 le消極的に対応するばかりでな どの様に具体的に築城l乙結びついたかーそれはグシク く、はげしく変動する自然の環境に積極的l乙対応しと 歴史学や考古学の考察対象になりうるだろうし、その れを利用し、人類にふさわしい生活環境を創造する能 面からの成果を期待したいものである。筆者らも関心 力をもっていたのである。人類の歴史は乙の自然の環 をはらってゆきたいと思う。 境への適応と人間生活環境の創造との発展の歴史であ 図 6は、調査対象とし城の石塁の外郭形状を示す った」削人間の歴史の形成と自然環境との対応関係の ものであるが、石塁は山地の自然形状に準ずる場合が 」般則は、この小さな沖縄の島の自然と歴史について 多く、築城地の山頂の形状と見てもきしっかえない。 も河然あてはめてよいわけであろうし、城の 巾 南 部 (2) 城郭の平面構造 地域への集中分布もζの観点からマクロ的l乙説明でき 図 6は主な城の城郭(石泉外郭)半面形状を示し る。 たものである。平面図は文献から得られるものを縮尺 さて、具体的に城の存在する地形をみてみよう。城 加工して作成した。座膏味城については等高線を合む は、その様高は種々であれ殆んど全てが山頂を利用し 詳しい地形図が実測されているが、その他の城につい ている(図
-4
参照)。本土の城郭の発展推移では、 ては輪郭凶が大部分で本来の意味での地形凶は怒って 山頂部を利用した山城、中腹部からふもとを利用した いずその整備が必要である。 (主要な城についての輪 王Jll
l
J
城、それに平地に築城された平城という築城地の 郭平面図は県文化財保護委員会により又古真三氏らが 地形的変濯を経ていることからみる時、沖縄の城が山 実視u
した成果がある)均 民部にその大部分がある乙とは(例外的に、沿岸平地 図にみるように城郭 (わφ援)の、IL
II!I形状は似めて にある具志川滅、 111頂から谷を利用した知念城、ほぽ パライェティーに寓んでおり、 三角形状(例現{f勝 連 平地に近い丘を利用した南山城などがある1、木二七城 城)不現則楕円形〈首里城、附城城)その他がみられ 邦史との対応で「ふるい」とされる乙とと相応する。 るが、それらは特別意図的なものではないであろう。 山頂にあるとはいえ、城のある山頂がその周辺で絞 既に述べた築城地選定の条件にかなう地形や地勢に支 も高い山頂であるとは限らない。従って特定の具体的 配された自然流の平面構図というζとができょうor
t
築城地の選定にはそれなりの理由があった乙とは確か 怠深くみると石塁外事s
線は、自然地形、地勢l乙逆らわ 司 である。それらがどの様なものであったか文献的には ないように可能な限り調和させていることに気づく。f
妥し得ていないが、 次の様なことからが推測しうる。 乙れらのととから、築城者の城郭の手函形状 le関す わ 支配者(按司など)がその支配地域の統申書上の る設計意図は比較的希簿であり、選定した丘陵:頂部を 行為一監視、交通、生産物の貯蔵などーをするの 利用平面民大化を図るべく、自然の』;干す筒聞で努力を に最も効果的であると乙ろの山演 はらった結果が、 変化l乙富んだ形状を生みだしたもの ⑤ 併男の抗争対立の状況下では、各支配者にとっ と思われる。その顕著なーー例は、複雑に入り組んだ海 て自らの支配地の防衛、あるいは他支配者の動向 岸サンゴ右の形状に合せて石墨構築している具志川減 航視、攻撃のため最も適した山頂 (糸満)であり、あるいは中城城東部の石学精造線に。
水源の有無t その他城内生活J~ の条件の適-& 見るととができょう。9
築城材(石材、木材)及び労働力の入手の')1t
f
易 さて全般的平商形状に続いて、その細部の半f
t
r
i
構造 。 信仰.
t
の要請からの地形的適不適 の叙述、や誠みる乙とにとよるが、それらの特徴をあらか もちろん乙れらの盟由や要国は、同等の重みで築城 地の選定l乙作用したものではないであろうし、!時代の 1 ':1会的状況を敏感に反映し、築城者の権力、 力量、支 配地の規模などが相まって、単独叉は複数として作用 じめ整理しておく。 守 〉 城宇11線は曲線を一日本とし、/([線の利用はどちら かというと限定的である。 ⑬ 本土近t
t
t
域事I1の一般的特徴である信託構造(引ぼ臼 琉球大学理工学部紀要(工学篇)
市町同ぷ-T
I
l
l
w
b
o
ヱ
坦抑﹄伊U
F
Z
市﹀「
。
ム
下
山 川 町 めH F .
一ープベ
;
j
¥
はノ﹁¥
図 σ》 義8
4
何
回
zw い けε w h
川畑
竺
一
月
〆 吋
員
H F
言 幸司. . b 著 顕 払 円 J よ カ 線 性 的 形 凹 望 の 的 城 前 城 何 , 中 幾
、
.
.
.
a し 美 ム M 線 化 曲 変 行 の 蛇 線 の曲 城 な 城 在 中 自 制 網 走 側 同 QWl 世 界 Q 凶 器 支 北山城の蛇行曲線 石塁は全般に粗野T
こが力強い d 石塁の平面曲線精巡 関-
7
北山城の凹曲線 マツシブでスケ-)レが大きい c忍
琉球大学理工学部紀要 (工学篇) 65 り、水濠)の人工的なものがみられない(自然渓 @の曲線性の特徴は全体から細部に至るまでー貫し 谷の利用が結果的に濠の機能をもったものは、中 ており、前者の場合は地形の等高線Ir.沿う形で可能な 城、北山などにみられる) 限り適合させそれと大きく交叉する乙とはない。後者
。
石塁機能としては、 力学的には土留の機能、空 (細部)にあっても石塁の隅角部の平面形は勿論、他 閥的には域内空間の確保と保護(自然、外敵から の隅角と連続する部分も平面的に曲線、面的 l乙曲面を の)か主たるものであろう。石塁直土の別の構築 もつ場合が多い。直線精進は城内通路の側面、通路ア 物の支持機能は付与されていないようである。乙 ーチ(石造)の両側、 城郭石塁背面などにみられるが れらの特徴は原理的Ir.沖縄の民家の石垣のもつ機 規模は比較的小さく部分的な利用といえる。しかし南 能と同じであると指摘できょう。 山城の場合主要な石塁構造部分IL直線を用いたところ @ 石塁の平面細部形状には特意な形状がみられ、 があり稀な例である。 その形の特徴から次のようκ
仮称する。e
の凸凹構造および蛇行構造(図ー7) は、平面細 i )凸閉曲線構造 ii)蛇行構造 部構造の際だつた特徴を示すもので、石墨の全体構造 これらは、石塁全体としては先述のように自然地 形地勢ζl適合させながらも、細部的に設計者のあ る作為を感じさせる構造である。それらはより新 らしいか、勢力のあったといわれる城に比較的顕 著である。乙の 2構造については更に検討する。 が「自然流」的印象をもつこととは対称的ζl石塁築城 者(按司、王など)また設計者の強い作為、意図を印 象づけるものである。図- 8(a)~ (b)は筆者と協力者に よる石E
霊平面形状の実測図である。l
-
.lr.説明した向線 性がよくわかる。N
閥比屋武綱鍬│ (a) El.tIJ.城 平 面 凹 構 造 ¥ /'T7>nうず~7>>柄mn切手t--"'r"~)l/<i'lh.ι 一 ' 也 、 一a
f
f
r
f
l
作I"_ _ ~ 品 ,_...~ 一 九三
;
、
r
"
打 怖 句 同
J
笥.0;;....ノ
ゲ
'h令,メ,氏~証ri
;
[
¥
;
勺九川/ワ川/ (b) 首 j科 域 - * 市 構 造 琉大似1 占館~! 図-
8
実 現)1 図 原縮尺1
・2
0
0
琉球大学風工学部紀要(工学篇) 67
司
、
ι 本 丸、吋ぷ凡礼町
、.~包 ι三 通 路 ト チ )1 k
~,-仇:」;いみと、~~
,
,ç~ (d) Ijj 城 々¥
y
.
向 . 凹 精 進 2 の 丸四
一 一
尺 仁 原 ユ l刈 8 フ~i
l
l
i
l
隊l
3 の 丸68 沖縄の城ーその石塁構造 凸凹構造にも規模形態とも種々のものがあり、中城 の場合両凸部の中心間隔は23m(いわゆる本丸)、
2
5
m (二の丸)18m (三の丸)、雄大な北山城の場合32m
(
正面左翌の石塁)となっている。これらの構造の 形状は凡そ図- 9のようにまとめらよう。 i )凸凹の全体につき石塁を用い、曲線利用意図の より明析な構造(例座喜味、中城、首里) ii)全体を石塁とすることはイ)と同様であるが、 凸部をより7 ッシブに角型にするもの(例北山) iii)凸部の一部又両方を石塁でなく自然岩を利用し たもの(例安慶名) 作為、意図は顕著ながら、それがどの様なものであ a 中 城 b ヰI 城 c 北 山 キ 守 手i
柏 e 安 名 関 9 .>Ji.而凸凹構造 ったかは現在筆者は文献的l己確認しえていないが、考 えられる要因としては次のいづれかあるいは複数の組 合せがあったと恩われる。 i )構造上の強化のための要請 ii)戦略との要請 iii)宗教的要請 iv)美意識具現の手段 v)海外からの築城に関する知識の影響 とれら個々についての検討はそれぞれの調査研究を 必要とし、また今回研究の範囲を越えるものがあるの で、乙』では考え得る要因の指摘に[とめたし、。しか し、 i )の構造的要因については土木工学との関連も ありいま少し言及を誠みたい。 石塁~構造的な視点から検討する場合、その背後l乙:
1
:
を有するか否かは着目する必要がある。前者の場合 は土留め機能を有するわけであり、単なる空間確保の 厚手風的機能に別の機能が加わるわけであるO きて上述 の凸凹構造についても同様に土留機能を付与されてい る場合(首里城、安慶名城など)とそれが顕者ではな い場合(巾城城、北山城など)があり、その用い方に おいて必らずしも構造機能上からの選択意図があった とは思われない。もし意図的 lζ凸凹の間部を士ー留に利 用したとするとこれは工学的に極めて軍要な窓味をも つことになる。その理由は、垂直方向の力(荷重)11:抗 して石塁アーチを利用したと同じ原盟を、水平方向か らの力 (土圧)に対して石援をもって利用したことに なり、工学技術史的に特筆に値するものといってさし っかえないと思われるからである(関ー10)。土*-を 基部 /;'?//~I I-
→
』
二Fi らと
に
/
乙
二
!
石積(南線積み) (a) 抵抗力小 (b) 抵抗)JA: 間 10石績のτ│ノ而術造と抵抗琉球大学理工学部紀要(工学篤)
6
9
巾心とした本土中世城郭にはもちろん近世城郭にもこ が大正五年視察した所感にして「琉球古城跡中最も難 のような形での石塁の利用は筆者のしるところ稀なも 攻不落で然も近代築域家の参考になる域は中城城跡で のと思う。しかし、前述の様にこの凸凹構造が力学上 ある。この城は琉球独特の築域法にフランス式の築城 意図的に用いられたようでもなく、いま直ちに沖縄の 法を取り入れてあるという点が特色である。乙のフラ 石塁構造のもつ特徴として技術的意義をことさら強調 ンス築城法の最も日立っている部分は雷形通路であ するのは困難である。将来この面の研究も課題の一つ る。」 である。 引用文献仰は、 ζのととにつき、築城当時の琉球王 きて、凸凹構造の検討につづいて次に蛇行構造の考 悶が海外(南ばん)貿易が盛んであっT
こから、ポルト 察を試みたい。 ζれは小区聞において故意に石塁線を カール人によってフランス築城法を学んだものであろう 蛇行させて構築したと思われる石塁平面構造である。 と結入でいるが、その点、の経緯についてつつ込んだ考 「故意」というのは、先に述べた石塁構築の、地形地 察はない。多くの検討すべき余地を残している。沖縄 勢に沿うという ~10m の小区間で山が 2~3 つもあるような蛇行構造 を敢えてする必要があったかということである。簡易 な直線的構造にしても自然流の原則は崩れないからで ある。 石塁建造者、設計者らは精綾なまでに自然流を追求 したのであろうか。今のところ十分論証する材料 fr.乏 しいが、筆者は、おそらくそのようなものではなく、 後述する石積工法で変化をもたせるために用いた扇状 石の利用と同様、半面構造的 fr.変化をもたせた構造で はないかと思われる。もしそうだとすれば、沖縄の城 の悠造者、設計者らは、自然からヒントを得て、環境 に変化をもたらす努力をした繊細な感覚の持主だった かもしれない。 さて、以上で石塁の平面構造についての論述を終る が、いま一つ筆者が凸凹構造と仮称した石塁部分につ きe般に流布している説にフランス式築城術の影響と するのがあるので説明と寸察を試みる。との説の出所 は、大正年閥、軍人で当時築城術の権威であったとい う藤j津準一氏が中城城視察の時の印象を述べた発言で 外接触の状況、当時のフランスその他ヨーロッパの城 の構造、藤津氏関連の調査などがあろう。筆者も関心 をもち調査をはじめているが成果を見次第別の機会 l乙 報告したいと思っている。 (3)石塁の断面構造 城の石墨の断面構造としては図 11のようなタイプ が確認できた。一つの城にーつのタイプのがあるので は勿論なし種々のタイプが存在する。表--2は各城 において調査した各タイプの有無である(有O印)。 図-12は法面構造の2、3の城の例を示す。 種々の異なる石墨構造(その一面として種々の法 面)が一城に種々存在する乙とは、城が一時期l乙必ら ずしも完成されず、技術の変遷を反映する長い聞に築 かれたであろうこと、また城の各部の機能的な重要度 に対応して石塁構造を選択したであろうことなどが現 由として考えられる。したがって必ずしも、特定のタ イプが特定の時代のものとみる乙とはできないが、主J 塁建設の技術的程度は、石塁が高くなるにしたがい、 また勾配形状が複雑化するに従って、高度のものが要 あるらしく、それは次のようになっている。個 求されるものであるので、石塁断面形の発生的なふる 「域の築き万については熊本第6師団参謀長藤津準 さは凡そ図 11で(a)め)→(c)ω)(e)→(f)ではないかと考え _....大佐(日本築城法の権威で巾将まで昇進、後待命) られる。 (e) (b) (c) (d) (e) (f):
F
t
椛
t
石積み 雑 積 み_
u
:ち 積 み
棒勾配石積 下急1二緩勾配 弓 勾 配 際1-11 石 積 断 面 の 形 状r
o
~純の城ーその石塁構造I~
断面タイプI ~凶暴
!
棒認
|詰
|
岩
ー
│
弓
認
城 名 "J
r
3
3
1
5
A
J
f
L
J
《
l
f
l
1
-
'
-
I
術 点;
三
二
二
: I
立
し(三!±│二│工
I
I
ク ク (a)J
- t 志 川 城 南 側 (b) 共 志 川 城 正 而 内 側 関-12 イi
塁の法市構造(その1)琉球大学理工学部紀要(工学
f
r
c
l
)
71(
c
)
r
r
城 城二の 丸 東 隅 (d) 座高lJ;4(城二の丸東隅(e) rll城 城て三の丸西隅 (f) 賂 百 味 城ごーの丸東
72 沖縄の城ーその石塁構造 (4)石積工法 沖縄の城の石積み工法にも多様なものがある。それ らの相違の背景をなすものは、得られる石塁用石材の 石賀、量であり、石積技術の水準、築城者の好みによ る選択などであろう。以下においては、まず一般的な 石積工の分類の問題を述べ、そして沖縄の城(調査対 象の城)の石積工の徴徴等を述べるc 1 )石積工の分類 石積工には多種多様の名称が今日用いられている が、たとえば土質工学における土の分類 Ic.相当するよ うなより学閥的体系的な分類はない。近年は天然石を 用いる石積工は、特別な利用の場合を除き稀なものと なり、代ってコンクリート二次製品である種々のブロ ックが用いられるようになり、石積工もパライェティ ーが少なく、谷積か布積かの二通りが主流となってい る。そのため石積工も技術的にあまり重視されず、そ の面l乙関する工学的関心は殆んどなく、分類について も、在来の名称を学問的概念の不明確なまh使用して いるのが現状といってよい。 しかし、畏観工学が関心をもたれつつある今日、近 長観構成においては十分関心の払われてよい石墨につ いても、設計的表現を可能ならしめるための体系的分 類が必要である。 表
-
3
石積工の分類基準と在来名称 分 類 の 基 準 │ 分 A 用 材 方 式 1 乙り (天然石か加工石か) .>-~I
1 野石積 2 ^樵石積(切石積) 1 雑石積 2 玉石積 3 豆石積 4 呉呂太積 5 布石積 6 野面積 7 角石積 8 板石積 9 間知石積 10桝石積 11箱石積 な ど C 石垣集合面の白地の整形の程度i
1 整層積 2 不整層積 3 乱層積B
J
J
U
工 の 程 度 D 部 分 的 目 地 の 形 状 1 谷積 (失筈積) 2 亀甲積 3 日の目積 4 入 れ 子 積 な ど E 用 石 の 大小 混 合 の 程 度I
1 舌L
積(乱石積, 笑い積) 2 (等石積ホ) から ねり F 目 地 補 強 の 有 無I
1 ':tg積 2 練 積 ー一一一一一一一一一 「一一 つt; 一 一一 1:1 一一一 い の こ!
1 打込み矧ぎ 2 切込み矧ぎ 3 算木積(井桁積, G 石 積 の 特 殊 技 術 │せいろう さん 1井棲積) 4 落し積 5 桟 積 な ど H 石 垣 面 の 紋 様 の 変化i
1 遊ひ晴 2 (等紋様積)* I 石 垣 立 面 の 勾 配 形 状 ゆみのり 1 ,,'[.積 2 曲線積 3 丸肩 4 宮 勾 配 (弓 法, のり 扇の勾配) 5 棒 法 6 寺勾配J
組 合 せ の 表 現 こり 1 岩座積 2 玉石布積 3 整層野石積 4 整層機 石積(切石整層積) 5 野石乱層積 6 切石整層乱積 Eり 7 乱層樵石積 8 整層乱石積 9 (野石乱層積)本 lu(切石乱層積げ など *分類ヒ付加した方がよいと思われるものの仮称7
3
個の基準Jζ同時に対応するものも少くない。概略的対 応として理解されたい。図 13は主なる石積工の関示 である。 琉球大学理工学部紀要(工学篇) さて、 次-3は今日用いられている多くの石積工の 名称を、分類の基準と思われる事項に対応させて配置 してみたものである。叫~'tII石積名称の中には、複数ボ 以 て 凶
拠点
J
石 積 工 の い ろ い ろ 図-13盟申ぞ
L
_j
[
]
¥
-
l
l
-
ーコ山口己主
玉石谷積み 布積み ヲR
石布積み ノレ 野石乱層積み ロ 乱 積 み イ 迫い 飼 切石乱!雷積み汀
広
口
百
即
日
江
主
口
一
コ
一
ー
と
二
,
託行積みE
5Z5E
ロ
フ
乙
]
仁
吋
こJ
2
i
[
ーコ」二
党
~_JUL
「
ー
γ
一
つ
f
ー
一
つ
ぐ
ー
し
j
C_
仁
J
ど
〕
と
ノ 、 ワゴ仁つ仁コ
[
ー
コ
[
_
.
_
ゴ
仁
ゴ仁
二
)
仁
三
コ
仁二〕仁コ仁
t
l
l
f
干i
整屑乱税みコ巨孟仁
ホ 寺 勾両日 ヨ 宮勾配 (扇ノ勾配) カ 切石主主層積み チ 切行整!日乱積み製 鵠
ト 算木 積 み タ 谷 税 み ヌト
:
r
:
i
乱開磁み沖縄の城ーその石塁構造 ア ブ リ
垂
に
一
一
,
.
.
.
.
.
.
-
¥
.
I"
,
11 非i
I
ち 、\ィぞ•:
r
i 円 山 浦 田 h y 落としこみ、 、
1.
、
、
‘
.
.
7
4
いろいろのr:1地 よりま受密にするため、イ閑々の石の周辺がていねいに成 形され、よくかみあっている。との様の加工は、単一 の工具のみではなく、数積類のものがあった乙とを紅! 起させる。 そのほか石積みの全体構成の管理1
一直線κ松む、ま たある曲線、曲面をもって積むなどーの技術のN
tt:も 示唆する。おそられ今円でいう丁張の技術は駆使され たと見てよいのではないかと思う。 図-14(a)(b)には、 -般的な四辺形石、互辺形石と日! なり、扇形に加工した石を用いた部分である。おそら く石干積立みI両封のl単江 '五J_L二法乙lによる視党的印象の平紋化 剖HE
灘2
する日的の一種の遊ぴ積みであろうο面白いと思 う。薄型城者の広図か、 ??前者の築城者の怠を汲んだ配 慮かはしらないが、{iiJれにしろ、そこには造形を:?!;慮 する余裕が感じられる。沖縄的繊細Hさの千i積みにおけ る具現とでもいえようか。 さて図示の数例につき特徴を述べたが、特定の城I乙 特定の石積1このみが用いられているものではない。積 々の七積工が用いられているのが大多数である。それ は、築城時において従前から蓄積され、選択しうる技 術の存在、あるいは築城後の修復、拡張時 iζ以l
i
i
f
と兇 なった工法(必らずしも進きかした新らしい技術とは限 らなし、)の採用などの結巣によるものである。 ソ1
4
の円積み2
)
沖縄の城の石積工法 まず具体的事例を図一14fr.示した。図i乙 示 し た の は、中城城、勝連城、北山城、南山城の一部であるが 他の城の石積み工法も多方乙れらのいずれかに類する ものが多い。 才1
積みにおける技術の進歩を用石、加工、石積みの 細籾(それは白地の統一、;規則性l乙表われるが)及び 全体管理の観点、からみる時、閣に示された石積みにお ける差異の存夜がある程度盟解できょう。 勝連の一斉s
にみる凶 14(e)の様な野石舌し腎積みは、 係集石を、特別な設計滋識をもたず、感覚的判断のみ をたよりにかみ合せつみあげたものであるο ζの様な タイプにも、用石の大小 l乙構わず維につんだものと、 かみ合せによりr
-
l
:
志をはらい用石を慎重lζ したものな ど胤始的な形態の中にも、技術的配慮の差はみとめら れるもののイJ
積技術的にはもっとも初歩的なものとみ なしてよいであろう。 │文!-14(g)石積みの粗草花さの点ではじ氾と同様であ るがJfj石は採集イコそのものではなく、何らかの鉄器具 を用し、て岩塊を:fJ
ちわって採取したものであり、その 点道具の進歩を示唆するものがある。 その他の凶示の石積工法l乙は、 ζれらに比較し、か なり高度の筏術の要求が光されている。まず、府行名 々の力llTの{(であるが、iiij而はもちろん、f
i
地形成を レ中城城本丸前面 等大の石を用いた布石積 (c) 中城域三の丸前面 部分的加工石を用いた乱周積み、下部にやや大きい石を 用いている。下部に扇石を用いた遊び積みが見える。 (a) l!) ト ( 足 掛
H
)
民 一 掃 日 夜 都H
密か収録選 中城三の丸西側の内面 5~6辺を加工し呂の目 1[. 積んでいる。 ω) a図の扇石の拡大図,これにより石塁面の紋様に変化を 与え美観を向上させている。かみあいが勝れている。 (b) 沖約の城の石積工法(その1) 同一1
4
北山城正門西側内面 割石の狙石を用いた乱層乱石秘み (g) 勝連城・本丸南側外面 野石乱周舌
L
積み (e) 制 対 謹 一 捌 同 Q 山 町 │ 袋 Q 岡 県 走 ι 山 沖縄の城の石積工法(その 2) 中城二の丸北側内面 部 分的加工石を用いたやh整層にした布積 図-
1
4
(f)'
"
E、一 一
一
一
⑧ 棒 法 一0
一0
一0
一0
一0
一 ⑧ 宮 勾 配 一 一0
一 一0
一 @ 丸 肩 積 み 一 一 0 一 一 。 一 @ 曲 線 積 み 一 一 一 ⑧ 立 ち 積 みO
一ω
o
ω
0
一 一ω
0
一 ⑫ 切 石 積 み 一 一 ⑬ 野 面 積 み 一O
一0
一O
一 。 一 一 み 一 例 刑 判 叫 ん ギ 一 一 一 日 州 一 積 一 ⑫ 切 石 積 み 一 一 一 一 一 一 積 一 川 両 旧 ノ 日 積 み 一 一 一 一 0 一 0 3 層 一L
根 一⑬谷 積 み 一 一 一 -j 一 一l
F
拘 置 石 谷 積ι
一 一 一 一 l l ! 一 一 乱 簿 一 時 一⑬ 野 角 積 み 一 一 度 一 野 一 ⑪ │ 岡 川 は 白 み 一 一 一 ー ﹁ l l l ﹁ 一 一 程 一L
石 み 一 @ 切 石 積 み 一 一 例 。 一 一 一 川0
一 一 一 一 の 一 十 市1
5
阿
川
ゆ
巳
ρ
一 l f 一 一 ﹁ 一0
一 一 層 一 層 一 刻 一 み 一 ① 切 石 積 み 一 一 一 一 一 一 一 一 一 整 宝 石 一 時 叫 下 込 み ハ ギ 一 一 一 回 一 一 十 十 ↑ の す 一 軒 石 一C
E
判 明 み ↑ 一 一 一 一 一 商 一 一 一 ゆ 野f
l
ぽ
ι
一 一 一 一 一 一 川 一 一 一 一 ① 切 込 み ハ ギ 一 一1
2
一 一 与 ①亀甲 積 み 一 一 一 一 一 石 程 一 石 一 知 一i 一 一 一3
一 樵 一 町 市 岡 崎 │ み 一 一i
一 一 七 一 ③ 入 れ 子 積 み 一 一 一 整 一 石 み 一 @ 玉石布積み一 一 一 一 一 野 積 一 ① マ ク ラ 積 み 一 一 一 日 は 湖 、 ¥ ¥、 ¥ 一 川 一 一 南 出 る ¥ 、 毛 一u
一而
れ
│
川
一
﹄
備 2号 石垣 立 面 の 勾配による分類 用 み I-!L
石
1 l 積 み l 類 利 積 の 分 法 積 石 の 城 各 表-
4
o
0 ③座喜味城 : 1 t ! │(1)! │ ! ⑦ 安 ゲ 地[
-
-
i
-1 - 1十
一
[
-
j
!
--
♀
一 一 一 一 一
~ ( 撰 糾H
)
附 削 U 唯掃引かH
四 川 糾 υ ホ 以前穏o
(1)。
。
。
f、
E V n ) ハ ( 、ノ 、J a・
ha
・
h 。 。 の 一 # h V 4 A V 4 b 一 れ れ い 一 ら o ら な み 垣 見 で 一 一 に 石 に 形 一 一 壁 立 分 な 十ー 側 直 部 全 一 路 い る 完 一 一 通 低 す も 一 一 一 、の応 し 一ー 一 一 チ 上 対 ず 一 一 一 一 一 鐙 に ら 一 一 i l i -ア 岩 川 必 域 一 々 一 城 一 一 崎 一 り 幻 幻 ミ 数 一 城一念 一 剖 一 ( ( ( 4 糸 一 玉 一 知一具 一 ① 一 盛 ⑪ 一 ⑬ 一 「) 「三 〉 〆v ヘ (3)。
(1) 「、 υ78 沖縄の城ーその石塁構造 表- 4は各城において観察された石積工法の名称で ある。1)にも述べたように、体系的、学問的分類法 の不在のため、ある程度の判断の相違が判断者により 存在するととは否めないだろう。 石積分類の考察とよ り詳細な各城右積工の考察についてはさらに検討する つもりである。さしあたり、調査 各 城 の 石 積 工 に つ き、工法の採用種別の理解l乙役だてるものである。