◎論説日中相互イメージの交錯
東 ア ジ ア に お け る 相 互 認 識 の 意 味
韓国の読者へ︑そして日本の友へ孫歌
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本稿は︑韓国の﹁創作と批評﹂出版社から出版された筆
者の論文集﹃アジアという思惟空間﹄の前書きである︒出
版社からの要請に応じて︑私個人の思想遍歴を書いたつも
りだが︑思うに︑個人のことより︑中国の思想界が一九八
〇年代以降に示してきた多彩な変化そのものを書くべきで
あったろう︒本稿では︑私個人の経験を︑ただ読者諸氏の
中国認識へのアプローチのステップとして役立てていただ
けれぼ︑何よりありがたいことである︒本稿はもともと韓
国の読者に向けて書いたものだったが︑韓国以外の読者も
自ずと視野に入ってきていた︒韓国でこの本が前書きを含
めて出版されて以来︑すでに一年余になるが︑前書きに書
いたことは︑おそらく今日にもなお生きている︒この一文
を日本の読者にも捧げ︑問題意識を共有することができれ ば︑と思う所以である︒
韓国の友人たちが私の書いたものを韓国語に翻訳して下
さると聞き︑大変光栄に思う︒これをきっかけに私は韓国
の読者と出会う機会を得たのである︒翻訳のお世話をして
いただいた韓国の友人は︑私にこの文章を書くに当たって︑
本書の内容についてではなく︑私自身について語ってほし
いと言ってきた︒思うに︑それは私の個人的経験に何か価
値があるというよりも︑中国と韓国の知識人が互いの文化
的背景や行動原理について︑(おそらく知識はそれなりに持
つようになったものの)感覚的にはまだなじみの無い現状
東 アジアにおけ る相互認識 の意 味
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において︑率直に自己を語ることで互いの距離を縮められ
るかもしれないということだろう︒
一九九五年︑私は初めて韓国を訪問し︑釜山で開かれた
シンポジウムに参加した︒私にとって︑この韓国訪問は忘
れがたく︑重要なものとなった︒私は大きな衝撃を受け︑
皮膚感覚のレベルで﹁東アジア﹂についての経験を求め始
めた︒
私は大学の中国文学科を卒業したのだが︑後に述べる縁
そから正統的﹁文学研究﹂から逸れて︑日本思想史にかかわ
る研究を行ってきた︒十数年来︑私はずっと中国と日本と
の間の問題を論じ続け︑韓国の問題については︑立ち入る
機会もその能力も全くなかった︒実際︑初めての韓国行き
さえ日本の友人に勧められてのものであり︑その上︑日本
人研究者や韓国留学生数名とともに日本から釜山に向かっ
たのである︒
まさに韓国へのこの入り方のせいだったかもしれないが︑
私は﹁純粋な中国人﹂が気づきにくい事実に気づいた︒そ
れは︑韓国と日本との﹁対立﹂あるいは﹁対話﹂には︑﹁中
韓﹂や﹁中日﹂の同様の状況ではむずかしい︑真の接触が
あるということだ︒韓国人と日本人は︑どうやらいかに鋒
を交え︑いかに対話の経路を見つけるかをよく心得ている
ようだ︒対立するにしろ︑敵視するにしろ︑あるいは友好
的に付き合うにしろ︑双方にはあるべき﹁呼応﹂がある︒ 一方︑中国人は韓国や日本に対して︑相手方に分け入って
行く有効な経路を見つけられず︑このために感覚的な呼応
を欠く嫌いがある︒おそらくこのような状況のために︑中
国の知識人と韓国の知識界との対話においては︑西洋の媒
介‑例えば西洋のモダニティ理論や批判理論ーに依存
しがちになり︑直接対話は難しくなる︒いかに誠意があろ
うと︑私たちは互いに何の媒介もなしに相手の問題や苦悩
にアプローチすることが困難なのだ︒
初めての韓国訪問からはすでに七年もの歳月が過ぎた︒
状況は大きく変わり︑韓国の状況が中国知識界の視野にも
従来とは比べものにならない比重で入るようになり︑対話
も深化している︒しかし︑だからといってあの最初の困惑
が解消したわけではなく︑逆により見えにくい形で私たち
の﹁交流﹂に影響を与えているのを︑今もうっすらと感じ
る︒中国の知識人にとって︑﹁韓国の論理﹂はなじみが薄
く︑分かりにくいものであり︑﹁英語の論理﹂に﹁翻訳﹂し︑
さらに人びとが一定程度以上共有している理論分析で補う
ことで︑何とか理解可能︑中に分け入ることが可能なもの
となる︒一方︑韓国の知識界にとっては︑中国知識人の視
野における﹁アジア意識﹂の欠落は︑ある程度まで中華帝
国の自己中心主義の現代版だと解されがちである︒
中国知識人にはアジア意識が欠けていると韓国の友人が
批判するのは当たっていると私は思う︒﹁アジア﹂言説が次
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第に流行しつつある昨今の状況にあっても︑中国の知識界
にはアジア意識が依然として欠けている︒私たちもアジア
を議論してはいるものの︑それは必ずしもアジア意識の存
在を証明するものではない︒それはちょうど西洋の理論資
源を用いているからと言って︑必ずしも西洋中心主義を鼓
吹しているわけではないのと同じだ︒私がこの知的状況に
注目せざるを得ないのは︑東北アジア地域に一定程度共通
する知のあり方のためである︒東西が相互にぶつかり合い
融合する枠組みの中で︑自らの歴史過程を議論せざるを得
ないとき︑我々はいわゆる﹁純粋な本土﹂や﹁他者と区別
された自己﹂などという分類に拠って主体性を確立するこ
とはもはや不可能だ︒しかしそれと同時に︑私たちの母語
文化が単純には通分できない特質を持っていることも否定
できない︒単に文化相対主義と自文化中心主義︑あるいは
国際主義と民族主義などという対立概念を用いるだけでは︑
このような複雑な状況に有効にアプローチすることはでき
ない︒また単に問題をグローバル化の文脈のなかに置いて
論じるだけでは︑やはり状況の中の最も複雑な要素を捨象
せざるを得なくなる︒これらのことは︑問題から逃避する
ことを潔しとしない人であれば︑誰もが認めざるを得ない︒
このような大前提を議論しないことには︑私たちはより複
雑な精神領域において︑根本的な問題に向き合うことがで
きない︒﹁なぜ我々はアジアを論じなければならないのか﹂︒ この命題と︑この地域に生まれた私たち知識人との間の関
係はいかなるものなのか︒
経済のグローバル化と東アジア社会の急速な勃興︑アジ
ア金融危機によって形成された東アジアと東南アジアなど
諸地域との緊密な関係︑これらによって確かに﹁アジア﹂
はもやは単に西洋に対して受動的な存在ではなくなった︒
もともと西洋世界によって創り出されたこの客体は自己へ
と回帰し︑自己の主体を確立し始めた︒しかも︑この過程
がいったん始まると︑国民国家を基盤とした従来の﹁西洋
との対抗﹂モデルは明確な輪郭を失ってしまう︒同じよう
に自国領土に米軍基地の存在を容認せざるを得ない韓国と
日本の間では︑﹁アジア﹂問題に言及しない限りは︑国民国
家を前提とした各々の対米抵抗の発想が有効であるかに見
えるが︑アジア︑特に東アジアの叙述が前提となると︑日
韓の矛盾もそこに交じり合って出てくる︒歴史的な恩讐の
記憶がもたらす痛みは︑米国占領下という現在の傷口がも
たらすそれに劣らない︒このような﹁東アジアの内部矛盾﹂
の顕在化によって︑我々は国際政治関係の叙述を新たに組
み立て直さざるを得なくなる︒なぜなら︑それはもう単な
る﹁西洋の覇権の東洋への侵入﹂問題ではない︒日本の﹁大
東亜共栄圏﹂イデオロギーが覆い隠してきたアジア諸国侵
略の事実は︑﹁東西対抗﹂モデルを用いるのみでは歴史上の
緊張関係を説明できないことを証明している︒
東ア ジアにおける相 互認識の意味
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日本の歴史において﹁アジアを代表して西洋に対抗する﹂
というスローガンが組織したものは︑アジアの一体化どこ
ろか︑隣国に対する残酷な侵略と剥奪であった︒このこと
は厄介な問題を東アジアの知識人に突きつける︒西洋への
対抗姿勢は必ずしも自らが覇権論理に陥らないことを保障
してはくれない︒それどころか︑戦後の冷戦構造の中で分
裂状態に置かれた東アジアは︑米国という西洋覇権の象徴
を﹁内在化﹂してしまった︒アジア(東アジア)が西洋に
対抗するという構図は論理的には成立しても︑現実と歴史
との関係においては︑政治・社会生活上のリアリティを持
たない︒では︑真の状況はというと︑複雑な覇権関係は﹁内
部﹂と﹁外部﹂との相互作用を通して︑アジア内部の覇権
関係を西洋(特に米国)の東洋に対する覇権関係としっか
りと絡み合わせている︒このような状況の下では︑国民国
家の枠組みが依然として有効であっても︑あるいは地政学
の視点が新たな視野を切り開いたと言っても︑複雑な国際
政治関係情勢を前にして︑我々はやはり一つの固定した枠
組みや視点に依拠してあらゆる問題を解釈することは不可
能なのである︒なぜなら︑これら比較的有効な枠組みや視
点にしても激変の過程にあるからである︒
以上のような認識に基づいて︑自分の限られた知識や思
考範囲の中ではあるが︑私は一貫して東アジア︑特に日中
間の﹁アジアの内部問題﹂を処理しようと試みてきた︒私 にはアジアや東アジアについて何がしかの原理を見つけ出
せるような力はないにしても︑このような模索の中で私は
東洋と西洋とのあいだの真の相互作用の過程に導かれただ
けでなく︑状況の流動性に向き合うことをも迫られるよう
になった︒そして私は︑アジアに向きあうかどうか︑アジ
アを課題にするかどうかなどは問題の核心ではないのだ︑
問題の核心は︑このような思考を通して自分がどのような
問題群に身を置くことになるのか︑言い換えれば︑アジア
と向き合う︑東アジアと向き合うとき︑自分は流動する状
況に真に向き合っているのかどうかなのだ︑ということを
自覚し始めたのである︒
一九七八年の春︑私が吉林大学の門をくぐり勉学を始め
たのは︑ちょうど中国に歴史的な転換が起こっている時期
であった︒文化大革命後︑初めて学科試験によって大学に
進学した文系学生として︑私たちとその後数年次の学生た
ちは︑知識上︑精神上の﹁断絶﹂に直面した︒我々の先生
たちは災厄から抜け出したばかりの知識人であり︑多くが
文化大革命中に批判を受けて︑心に傷口や陰影を抱えてい
た︒このため教学において彼らは学生に妥協的態度を取り
がちであった︒教材も教え方も文革前や文革中からのもの
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