1.はじめに
1.1 問題意識
グローバル化の進む中、日本自動車産業は その生産・サプライヤーシステムの国際的再 編を進めている。その際焦点となるのは、日 本国内で形成されてきた、日本的生産・サプ ライヤーシステムをどのようなものとして評 価するかである。戦後の日本自動車産業の急 成長を可能にした日本的生産・サプライヤー システムは、先進国市場から新興国市場への 中心的市場の変化を特徴とする今日のグロー バル化に対して、そのままでは必ずしも適合 的ではなくなっている。他方、日本企業が長 年かけて構築してきた日本的生産・サプライ ヤーシステムをすべて捨て去るというのも得 策ではない。 各社が構築してきた日本的生産
・サプライヤーシステムの何を残し、何を再編 するのか、あるいは、その強みをどのように 今後のシステム再編につなげるのか。 これは、
今後の日本自動車産業の盛衰を決める重要な 論点である。こうした論点にこたえるために は、まずは、現在の生産・サプライヤーシス
テム再編が、どのような課題認識のもとに、
どのように進められているのかといった実態 を正確につかむことが必要である。
1.2 課題設定
本論文では、この考察の対象を、「日立系 自動車部品二次サプライヤー」とする。その 理由は下記のとおりである。まず、株式会社 日立製作所(以下、日立製作所)は、100%
子会社である日立オートモティブシステムズ 株式会社(以下、日立オート)を中心に、自 動車産業において重要な一次サプライヤーの 一角を占めている。たとえば
『エコノミスト』2007
年
4月
17日号では、「日立が自動車部 品メーカーになる日」と題し、「総合電機最 大手の日立製作所グループは近年、自動車部 品事業を強化しており、今後大きく成長して く素地が整ってきた」
(88頁) と報じている。
にもかかわらず、自動車産業研究において、
一次サプライヤーとしての日立製作所は十分 に考察されてこなかった。その要因の一つと して考えられるのが、日立製作所が、一般的 には独立系サプライヤー
1としてとらえられ
グローバル競争下における
日立系自動車部品二次サプライヤーの対応
Changes of the Autoparts Secondary Suppliers under Globalization in Hitachi Supplier System
牧 良 明
要約
本稿では、自動車部品一次サプライヤーとしての日立製作所のグローバル展開を概観したうえで、
一次サプライヤーのグローバル化に対して、二次サプライヤーがどのように対応しているのかを、
ヒアリング調査を通して明らかにした。国内外の生産・サプライヤーシステム再編の中で、二次サ
プライヤーには、①自立的顧客開拓、②自立的技術蓄積、③自立的海外展開が求められていること
を指摘したうえで、このような自立性を獲得し得た二次サプライヤーに対しては、日立製作所が改
めて関与を深めていることを明らかにした。
てきたことにあろう。 これまで、 サプライヤー システム研究においては、自動車メーカーを 頂点に、 一次サプライヤー、 二次サプライヤー と続くシステムが念頭におかれてきた。その ため、独立系サプライヤーとしてとらえられ てきた日立製作所
2は研究対象として注目さ れなかったのであろう
3。また、本稿では、一次サプライヤーとして の日立製作所ではなく、その下に位置する二 次サプライヤーに焦点 を当てる。当然、二 次サプライヤーは一次サプライヤーの強い 影響を受けながら経営的意思決定を行わざる を得ない。とりわけ、「日立城下町」と形容 されるような日立系の二次サプライヤー(通 常の日立製作所研究においては一次サプライ ヤー)は、日立製作所グループの影響 を大 きく受けることとなる。また、一次サプライ ヤーとしての生き残りを図るためには、二次 以下のサプライヤーの再編を成功させること が、 日立製作所にとっても重要な課題となる。
そこで、本稿では、日立系自動車部品二次サ プライヤーを直接の考察対象と据えることに よって、①日立製作所は二次サプライヤー管
理を、グローバル競争の中でどのように変化 させたのか、②その変化に対して、二次サプ ライヤーはどのように対応したのか、を課題 として設定する。
1.3 論文の構成
2 節では、日立製作所の自動車部品事業の 国内再編及び海外展開を概観する。続く
3節 で、日立製作所と二次サプライヤーとの関係 がどのように戦後構築され、また、日立製作 所の海外展開の中で、二次サプライヤーがど のような対応をし、役割を果たしたのかの事 例を紹介する。4 節で事例を考察し、5 節で 本稿の到達と課題を整理する。
2. 日立製作所における自動車部品事業 の変遷
2.1 国内事業体制の変遷
日立製作所における自動車部品事業の歴史 的展開について整理しておこう。同社の自 動車部品事業は、1932 年の自動三輪車用電
1
一方で、日立製作所を独立系サプライヤーと単純に規定してよいかどうかは検討の必要があると考え る。牧(2013)で考察したとおり、一次サプライヤーとしての日立製作所は、完成車メーカーである 日産自動車株式会社(以下、日産)と、他の自動車メーカーとは異なった歴史的関係性を有している。
また、自動車メーカー別売上割合をみると、2011 年実績で、日産・ルノーが
33%を占め、続くトヨタグループ、GM グループの各
9%と比較して、比較的大きな差を見て取ることができる(日立オート発表「オートモティブシステム事業戦略」(2013 年
6月
13日)参照)。より具体的な考察の中で、日 立製作所を自動車部品サプライヤーとしてどのように性格付けるかは、今後の検討課題である。
2
たとえば、徳田編著(2008)では、日立製作所は「独立系」と位置付けられている(16 頁)。
3
自動車部品サプライヤーとして日立製作所をとりあげた研究としては、カーエレクトロニクス部品に 着目してサプライヤーシステム研究を行った佐伯(2012)が挙げられる。また、中央大学経済研究所
(1976)を嚆矢に進められてきた日立製作所下請研究においては、
青野(1979)、 遠山(1995)(2002)、
内本(2005)、山本(2010)などで、考察対象の中に、本稿における自動車部品二次サプライヤーが
含まれている。しかしながら、これらの研究の問題意識は、中小企業論や地域経済論の範疇に含まれ
るものであるため、自動車産業における生産・サプライヤーシステムの変化の中で一次サプライヤー
である日立製作所や二次サプライヤーがどのような役割を果たしているのか、といった点に関しての
考察は不十分である。
装品の生産が最初である。その後、1935 年 に、四輪自動車用電装品の開発が始まる。当 初、日立製作所 の電装品生産は日立山手工 場で行われていたが、1939 年以降、多賀工 場にその生産拠点を移した。第二次世界大戦 後のモータリゼーションの中、日立製作所は
1964年に自動車機器事業部を新設する。そ して、
1968年に、 自動車部品専用工場として、
佐和工場が操業を開始する
4。このように、佐和工場を中心とした自動車 部品生産体制を構築した日立製作所である が、1999 年に自動車機器事業部を自動車機 器グループに改称したことを皮切りに、21 世紀に入ってから、自動車部品事業の体制 を大きく変化させていった。まず、2002 年 に株式会社ユニシアジェックスを完全子会社 化し、社名を株式会社日立ユニシアオートモ ティブ(以下、日立ユニシア)と変更した。
2003
年に中期計画 として、「i.e.HITACHI プ ランⅡ」
5を発表し、その中で、自動車機器 事業を「グローバル化適格事業」
6とし、同 事業のグローバル化に向けて、積極的に資源 を投資する分野と位置付けられた。同年、自 動車機器グループをオートモティブシステ ムグループに改称し、2004 年に、先述の日 立ユニシアとトキコ株式会社(以下、トキ コ)の
2社をオートモティブシステムグルー プに吸収合併した。その目的は、「日立の持 つセンサーによる外界情報認識技術、ユニシ
アの持つブレーキ・ステアリングを含むシャ シー制御技術と、トキコの持つサスペンショ ン減衰力制御・車高調整技術、ブレーキシ ミュレーション技術などの世界トップレベル の技術を融合し、今後、走行制御系システム などの先行開発、製品化を一段と加速させる こと」(同社広報資料「オートモティブシス テム事業の強化に向けた一体運営の開始につ いて」(2004 年
9月
30日))にある。そのう えで、
2009年に日立製作所からオートモティ ブシステムグループを分社化、日立製作所の
100%子会社として、日立オートモティブシステムズ株式会社を設立するにいたった。た だし、この新会社はマイナスからの船出で あった。表
1に示した通り、2008 年のリー マンショックの影響もあり、2009 年
3月期 決算で、日立製作所のオートモティブシステ ムグループは約
605億円の損失 を出してい た。そうした中、「需要の減退に伴って、売 上高の拡大が当面見込めない環境下にあって も、安定的に収益を確保することを目的に、
さらなる事業の強化と効率化をめざした事業 構造改革」(同社広報資料「業績改善に向け た事業構造改革について」(2009 年
3月
16日))の一環として、新会社が設立されたの である。新会社設立以降、同事業は日立オー トを中心に、比較的順調に業績を伸ばしてい る。
4
日立製作所における戦前の自動車部品事業の開始から佐和工場設立にいたる過程に関しては、 牧
(2013)を参照されたい。
5 「i.e.HITACHI
プラン
II」とは、
「日立グループの最大の強みである技術・知識の融合による新事業の創出、
売上高にして
2割程度の既存事業からの撤退や注力分野の成長による事業ポートフォリオの組替えな どを柱にした」中期計画である(「日立次期中期経営計画『i.e.HITACHI プラン
II』を策定」(2003年
1月
30日))。
6
日立製作所広報資料によると、「グローバル化適格事業」とは下記のようなものである。「グローバル 市場でトップ
3に入ることができる事業・製品を『グローバル化適格事業』として選別し、そこに経 営資源を集中することによって、 グローバル市場における競争力を強化し、 新たな成長を実現します。」
(「日立次期中期経営計画『i.e.HITACHI
プラン
II』を策定」(2003年
1月
30日))
2.2 海外生産拠点
日立製作所自動車部品事業の中核を担う、
日立オートの海外生産拠点をまとめたものが 表
2である。ただし、 既述のとおり、 日立オー トは
2004年に日立ユニシアとトキコを吸収
合併しているため、日立ユニシアもしくはト キコの海外拠点として設立されたものがある ことに注意が必要である。両社のいずれかの 工場として設立された海外生産拠点は、備考 欄にその旨掲載している。
2009
年
3月期
2010年
3月期
2011年
3月期
2012年
3月期
2013年
3月期
売上高
681,750 638,828 737,901 811,583 806,847営業利益
-60,507 -5,486 23,791 37,049 35,423出所:株式会社日立製作所「10年分の主要データ」より筆者作成。
(http://www.hitachi.co.jp/IR/library/fh/index.html:2014年5月20日閲覧)
表 1 オートモティブシステム売上高・営業利益 単位(百万円)
社名 工場名 設立年 主要製品 備考
北 米
アメリカ 日立オートモーティブシステムズアメ リカズ, Inc.
ケンタッキー工場 1985年 エンジン制御システム
べレア工場 1987年 サスペンションシステム、ブレーキ システム
旧トキコ
ジョージア工場 1997年 VTC、プロペラシャフト他 旧日立ユニシア べレアモーター工場 2011年 HEV用モーター
中南米 メキシコ 日立オートモティブシステムズメヒコ 第1工場 1979年 ポンプ、バランサー他 旧日立ユニシア 第2工場 点火機器
日立オートモティブシステムズケレタロ 2012年 サスペンション他
ヨーロッパ イギリス 日立オートモティブシステムズヨー
ロッパLtd.
1998年 エンジン制御システム ドイツ 日立オートモティブシステムズヨー
ロッパGmbH
ザクセン工場 2003年 エンジン制御システム
チェコ 日立オートモティブシステムズチェコ, s.r.o 2011年 サスペンションシステム、ブレーキシステム
アジア
中 国 長沙日立汽車電器有限公司 1995年 電装品
一汽車机工減振器有限公司 1998年 ショックアブソーバー、サスペン ションストラット
旧トキコ
日立汽車部件(蘇州)有限公司 2002年 エンジン制御機器
広州日立優喜雅汽車配件有限公司 2002年 パワーステアリングシステム、ABS他 旧日立ユニシア 東机工汽車部件(蘇州)有限公司 2002年 ショックアブソーバー、ディスクブレーキ他 旧トキコ 日立海立汽車部件(上海)有限公司 2003年 スターター
厦門亨東制動系統有限公司 2010年 ブレーキシステム 阪神電子(常熱)有限公司 2010年 点火コイル 日立海立汽車系統(上海)有限公司 2012年 スターター
日立汽車系統(広州)有限公司 2012年 エンジン制御システム、ABS
台 湾 台湾厚木工業股份有限公司 1975年 パワーステアリングシステム、ストラット 旧日立ユニシア タ イ 日立オートモティブシステムズチョンブリ, Ltd. 1994年 電装品
日立オートモティブシステムズアジア, Ltd. 1995年 パワーステアリングシステム他 旧日立ユニシア 日立オートモティブシステムズコラート, Ltd. 1995年 ショックアブソーバー、ディスクブレーキ他 旧トキコ インド 日立オートモティブシステムズインドPvt. Ltd. 2012年 エンジンコンポーネント
出所:株式会社アイアールシー(2004)143、144頁、日立オートモティブシステムズ㈱HPより筆者作成。
表 2 日立オートモティブシステムズ株式会社海外生産拠点
日立製作所自動車部品事業の海外展開の最 初は日立ユニシアの前身である厚木自動車部 品株式会社が
1975年に工場を設立した台湾 であった。その後、1980 年代は、アメリカ に
2拠点設立している。1990 年代は、7 拠 点を設立し、本格的な海外展開が進展するよ うになる。その中心は、タイの
3拠点、中国 の
2拠点にみられるように、アジアでの生産 拠点の確立である。2000 年代に入ると、そ の傾向はより明瞭になり、2000 年代前半に 中国に
4拠点を設立している。
以上の、3 社の統合以前の海外展開を整 理すると、3 社が連携して海外生産拠点を 構築してきたことを見て取ることができる。
1980
年代〜
90年代にかけて設立されたアメ リカの工場は、3 社によってそれぞれ設立さ れており、また、中国やタイの生産拠点も、
3
社の連携があったと考えられる。海外生産 拠点設立から見ても、この
3社は統合以前か ら密接な関係性の中で戦略を立てていたこと がわかる。
2004 年の
3社の統合以降、しばらく海外 生産拠点の設立はストップするが、2010 年 代に入り、加速度的に生産拠点の構築が進ん でいる。拠点として、 中国だけではなく、 チェ コやインドといった、中国の次の市場を狙っ た展開が見られるのも最近の特徴である。ま た、2010 年代に入ってから、新たに
8拠点 を設立しているが、これは、現在の海外拠点 全
24拠点のうちの
3分の
1にあたることか ら、分社化以降海外拠点設立のスピードが加 速していることを見て取ることができる。
3.事例研究
本項では、日立系自動車部品二次サプラ イヤー
5社に対して筆者が
2013年に行った ヒアリングを基に、事例報告を行う。5 社は いずれも、株式会社アイアールシー(2004)
において、
「協力企業」として分類されている。
3.1 NI 社
7(本社:茨城県日立市)
3.1.1 同社及び自動車部品事業の概要 同社の設立は、1960 年
10月である。同社 は、設立当初から、自動車部品を中心に事業 を行っていた。現在の製造品目は、自動車部 品、医療機器部品、自動組立装置設計
・製作、
その他、であるが、売り上げの
95%を自動車部品が占めている。自動車部品としては、
イグニッションコイルや各種センサ類、電動 パワステ用コントロールユニットなど、電装 品関連が中心である。従業員数は、260 名、
資本金は
3,000万円である。2012 年
9月決 算で、同社史上最高の
72億円の売り上げを 達成するなど、二次サプライヤーとして比較 的順調に成長している企業であるとみること ができる。
3.1.2 日立製作所との取引関係
同社の売上の
95%を占める自動車部品のうち、90%が日立オートと旧日立電線株式 会社
8(以下、旧日立電線) で占められている。
取引関係だけをみれば、日立製作所グループ に依存した企業経営を行っているということ になる。
このような状態を、同社はリスクと認識し ている。そこで、同社は、今後も日立製作所 が中心顧客であることに変わりはないもの
7
本項の記述は、特に断りのない限り、2013 年
3月
27日に同社にて行ったヒアリング、同社提供資料、
および同社ホームページによる。
8
日立電線株式会社は、「日立御三家」とも呼ばれた、日立製作所グループの一角を占める企業であった
が、2013 年
7月に、日立金属株式会社と合併した。
の、日立製作所からの自立の一環として、日 立製作所関連企業以外との取引先を増やそう と考えている。これは、日立製作所グループ のグローバル化に伴う生産拠点の海外移転と いう客観的情勢への対応のためである。
とはいえ、現時点で事業の大部分を日立製 作所に依存する企業にとっては、一般的に新 規顧客開拓は難しい。そうした中、同社に とっては、日立製作所と長年にわたって自動 車部品事業で取引を行っていたことが、新規 顧客を開拓するうえで二つの点で重要な意味 を持っている。一つは、日立製作所の指導な どにより自動車部品事業を行う中で培った、
高い生産管理能力である。周知のとおり、自 動車産業が部品生産に求める
QCDの水準は 極めて高いものがある。同社は、二次サプラ イヤーとして生き残る中で、この要求水準を 満たす技術や管理能力を蓄積してきた。その こと自体が、同社への他企業からの信頼につ ながっているのである。また、自動車部品事 業を中心としているということが、もう一つ 有利に働いているという。同社は、新規顧客 として、自動車部品にかかわる企業に限定し ているわけではない。しかしながら、日本の 製造業がかつてのような輝きを失いつつある 中、新規顧客として候補に挙がってくる企業 は、結果的に自動車部品事業を行っている企 業になるという。つまり、同社が自動車部品 事業を長年行ってきたことが、同社の内部能 力の向上につながっただけではなく、現在の 市場状況にもマッチしているということがい えよう。
もう一つの意味が、日立製作所グループが 持つ、顧客の多様性である。同社によると、
日立製作所グループのなかでも、旧日立電線
は、同じ電装品でも、日立オートとは違った 取引先を持っていた。その中で、旧日立電線 の営業によって、トヨタ系一次サプライヤー から受注した製品の一部を、同社に発注され たという。その後、旧日立電線が、その部品 生産から撤退するとなった時に、旧日立電線 に申し出て同社との取引の継続を認めてもら い、商社経由で部品を納めるようになったの である。
同社が、自動車部品事業の中で高い能力を 構築したと述べたが、サプライヤーとしての 能力構築は、 サプライヤーシステムにおける、
一次サプライヤーから二次サプライヤーへと いった技術指導が重要な意味をもつ。同社に おいても、一次サプライヤーである日立製作 所から指導を受けている。その中で重要な意 味を持つのが、「トヨタ生産方式」に関する 指導である。トヨタ生産方式については、講 師の派遣や講習会などを通して、「ムダの削 減」、「ジャストインタイム(JIT)」、「カイゼ ン」、「かんばん方式」など、その生産システ ムの構築を強く促されてきたという。品質管 理の指導や標準化に関わる指導など、一般的 な意味での技術指導はかねてよりあったが、
トヨタ生産方式に関する指導については、現 在までしっかり息づいており、特別なもので あると感じているという
9。ただし、現在は、かつてのような頻繁な指 導は行われなくなったという。
3.1.3 海外展開
同社は、2013 年
6月にベトナムに現地法 人を設立した。リーマンショックより前にベ トナム進出を将来の選択肢の一つとして考え ており、ハノイ駐在員事務所も設立、現地の
9
日立製作所におけるトヨタ生産方式は、「SAPS(Sawa Action Plate System)」として、1976 年以降に導 入された(牧(2013)参照)。ただし、 同社を含めて日立製作所から指導を受けた二次サプライヤーは、
「SAPS」の名称ではなく、「トヨタ生産方式」「トヨタ・システム」等の名称で指導を受けていたよう
である。
人材も採用していた。2011 年
2月、駐在員 事務所のベトナムでの登記を終え、本格的に ベトナムに生産拠点の設立を検討し始めた矢 先に発生したのが、2011 年
3月
11日の東日 本大震災であった。当面、この大震災の対応 に追われ、ベトナム進出も棚上げとせざるを えなかったのであるが、事態がある程度落ち 着き、ようやく
2013年
6月に現地法人設立 に至ったのである。
2012 年
12月に、同社がベトナム工場を設 立することを日立オートに報告した直後、日 立オートタイ工場との取引に関する打ち合わ せが始まったという。12 月に最初の打ち合 わせが行われたのち、1 月に日本で現地の担 当者と詳細打ち合わせを行い、3 月にはタイ で現地見学と具体的な立ち上げに関する話が 進み始めるというスピード感であった。こう した日立オートの動きの背景には、当然、自 動車メーカーの海外戦略がある。それは、同 社の表現を使うならば、「地産地消」の考え 方である。同社によると、自動車メーカーは 基本的に円に関わりたくないと考えているの ではないかとのことであった。これは、為替 相場の変動の影響を企業経営として受けるこ とをできるだけ避けたいということである。
この「地産地消」の考え方は、いわゆる「ア ベノミクス」以前の円高基調の時期だけでは なく、現在の円安基調の場面でも変わらない という。
自動車部品サプライヤーとしての日立製作 所も海外展開を推し進めると同時に、できる 限りの現地調達を進めているという。 ただし、
自動車産業が要求する
QCDの水準を満たす 二次サプライヤーすべてを、日系企業も含め て現地調達を行う事は難しい。 そうした中で、
同社のベトナム工場は、日立オートの中国広 州工場およびタイ工場の両工場にとって「現 地調達」の中に入るとの認識であるとのこと であった。
ヒアリングにおいて、ベトナム進出の目的
は、現地の低賃金を利用した単なる低コスト 生産ではないと強調された。これは、他の二 次サプライヤー調査でも共通に見られた見解 であるが、単なる低コスト生産を目的とした 海外現地生産は、いずれ、ローカルメーカー との価格競争となり、結果として海外進出の メリットはなくなってしまうのである。同社 も、ベトナム工場には、基本的に日本国内で 培った生産技術を駆使し、主要作業は機械が 行う、日本国内と同様の生産ラインをつくる 方針であるという。
3.1.4 生産技術・生産システム
現在、完成品図面、部品図面が日立オート から送られてきて、それを基にどのように生 産するかを同社が考えている。つまり、図面 を基にした、工程設計や金型製作、部品納入 企業の選択など、設計以外のすべての工程を 有していることになる。このように、図面さ えもらえば、材料、機械もすべて調達し、製 品をつくって納められる体制を整えているこ とは、同社の強みとなっている。
同社は、かつては図面だけではなく、作り 方、使用する機械、材料など生産そのもの以 外のあらゆる機能を日立製作所に依存し、日 立製作所の指示通りに生産してきた。このよ うな経営体制からの脱皮を図り始めたのは、
1980
年ごろからであった。当時の社長(創
業社長)が、治工具を自分たちで作ることを
始めたのである。これまで、生産技術に関し
てあらゆるものを日立製作所に依存していた
同社にとっては、治工具の生産とはいえ容易
ではない。そこで、治工具をつくるための中
古の機械を購入し、また、当時の中小企業と
しては珍しく、大学工学部卒業生を新入社員
として採用した。このように、治工具の生産
から始まった生産手段の開発能力の構築は
その後も継続され、現在では自動機の生産も
可能になっている。さらに、自社で使用する
だけではなく、顧客企業にも納入するまでに
至っている。
さらに効率の良い生産計画を実行するため に、これまですべて日立製作所から支給を受 けていた材料や部品も自分たちで購入するべ きであると考えるようになり、その担当部門 として資材調達部を設置した。当然、生産 手段開発能力と同様、資材調達能力の構築に もコストがかかるが、当時の社長は、これら の部門に利益を優先的に回していたようであ る。そして、オフィスコンピュータを一台買 い、注文、発注、支払等のシステムの構築を 行わせた。これが、現在の同社の生産管理シ ステム構築のスタートになったという。
このような生産管理能力をもつことは、日 立系自動車部品サプライヤーシステムの国内 再編及びグローバル展開においても重要な意 味を持つこととなった。まず、日立製作所の 国内生産の再編過程の中で、同社は、日立製 作所の生産機能のアウトソーシングの際の受 け皿企業の一つとなった。当然、同社にとっ ては初めて生産する部品が多かったため、日 立製作所からの厳しい技術指導を受けながら の新技術導入となった。こうして、日立製作 所のアウトソーシング戦略が、同社の新技術 導入の条件ともなった。
こうした状況の中で、日立製作所が海外進 出を考えるようになった際、国内ではアウト ソーシングした部品を、今度は再び内製化す る方針を取った。その際、同社がアウトソー シングの際の受け皿企業として機能し、技術 を蓄積していたことから、日立製作所の海外 生産拠点での製品立ち上げの際の同社の協力 が可能となり、スムーズな新製品立ち上げに 寄与している。このような海外生産拠点での 協力関係を通して、同社は海外での日立製作 所との関係を緊密なものとし、日立オートの 中国工場やタイ工場と、同社ベトナム工場と
の取引関係の結びつきを強めようとしている。
3.2 SI 社
10(本社:茨城県常総市)
3.2.1 同社及び自動車部品事業の概要 同社の創業は、1939 年までさかのぼる。
創業の地は東京であった。翌
1940年に、日 立製作所亀戸工場の協力工場の認定を受け た。戦後、日立製作所多賀工場協力工場の認 定を受けている。現在の同社の事業領域は、
自動車部品、家電・弱電部品、およびトラン スファーロボットの
3つである。自動車部品 としては、モーターケースやモーターコアな どを生産している。資本金は
1000万円、従 業員は
76名である。
3.2.2 日立製作所との取引関係
戦前から 日立製作所と取引関係にあった 同社は、もともとは非自動車部品事業を中 心とした企業であった。同社が自動車部品生 産を開始したのは、1970 年に、日立製作所 佐和工場向けに生産したエンジン制御用アク チュエータバルブが最初である。しかしなが ら、その後も同社の事業の中心は非自動車部 品であった。たとえば、1986 年に日立マク セル株式会社(以下、日立マクセル)と取引 を開始したのであるが、それ以降の同社の事 業の中心は、フロッピー用部品であった。な お、現在の同社社長は、以前、日立マクセル でフロッピーディスクの部品生産に携わっ ていた。その後、徐々に同社の売上における 佐和工場向けの自動車部品の割合が上昇し、
1998
年ごろから、佐和工場向けの自動車部 品が
7割程度を占めるに至った。
日 立 製 作 所か ら の指 導 と し て、 現 在 は
ISO/TS16949規格
11に関して受けていると いう。同社によると、ISO/TS 規格は、現在 一次サプライヤーは取得を義務付けられ、二
10本項の記述は、特に断りのない限り、2013 年
3月
18日に同社にて行ったヒアリング、同社提供資料、
および同社ホームページによる。
次サプライヤーは同規格を取得するように指 導されているという。同社は同規格取得に向 けて、日立オートとチームを作って対応して いるという。月二回、日立オートから人が来 てラインの変更を行っている。
3.2.3 海外展開
同社は、 タイ現地法人の
SPメタルとのジョ イントベンチャーを
2012年に設立した。SP メタルは、日立製作所家電事業のタイ工場の 生産技術部にいた人物が独立して設立したも のである。同氏は日本の日立製作所にも研修 に来るなど、従来より日立製作所とのかかわ りの深い企業であった。そうした中で、同 社と
SPメタルとの交流が始まり、ジョイン トベンチャー設立に至った。タイ工場設立の きっかけは、数年前より、日立オートから国 内の仕事は増えないといわれていたことに あった。同社によると、現在では、海外工場 を持っていなければ、国内向けの 新規契約 でさえ結ぶことはできない。そのため、海外 工場の設立を考えるようになったという。現 在、同ジョイントベンチャーは、日立オート 向けだけではなく、日産や三菱自動車工業株 式会社といった自動車メーカー、あるいはト ヨタ系等の自動車部品サプライヤーに納める といったように、海外における顧客の多様化 にもつながっている。
3.2.4 生産技術・生産システム
同社は、日立オート向け部品生産を行う上 で、その部品の金型設計から行っている。こ れは、生産の初期段階から、自ら合理化を行 う能力を有していることを意味している。
また、自社製品として、汎用ロボットを有
している。この汎用ロボットは、もともとは 長野県の有限会社共和(以下、共和)が有し ていた技術であった。共和が廃業を考えてい るとの情報を得た同社が、共和が保有してい たプレス機の購入に行ったところ、同社の事 業そのものを引き継いでほしいと言われ、汎 用ロボット生産事業も引き継ぐこととなっ た。その際、共和の工場は同社長野工場とし た。汎用ロボットは、通常
2〜3千万円ほ どかかるそうであるが、同汎用ロボットを使 用すれば
700万円で済むという。
このように、金型の設計や自社製品を有し ていることから、同社では研究開発スタッフ を抱えている。金型設計にかかわるスタッフ が
2〜3人、メンテナンスが
3〜4人、長 野工場には設計
1人、メンテナンス
1人で、
これらのうち、日立製作所
OBが
2名含まれ ている。
3.3 KA 社
12(本社:茨城県日立市)
3.3.1 同社及び自動車部品事業の概要 同社の創業は、1940 年である。同社は、
部品製造部と金型製造部の
2部門を有して いる。事業内容は、自動車電装部品の製造、
ダイカスト金型設計及び製造、冷間鍛造金型 設計及び製造、冷間鍛造油圧プレス機械設計 及び製造である。部品製造部において生産さ れているのはコミンテーターやピニオンシャ フトなどの冷間鍛造によって生産される自動 車用部品である。資本金は
4,500万円、従業 員は
86名である。少し古い数字であるが、
2007
年の売上高が
13億
6,000万円であった。
3.3.2 日立製作所との取引関係
同社は、1940 年に日立製作所多賀工場の
11 IATF(International Automotive Task Force)によって、ISO9001
を基に開発された、自動車業界向け品 質マネジメントシステム(IATF および一般財団法人日本品質保証機構ホームページ参照)。
12
本項の記述は、
2013年
6月
24日に同社にて行ったヒアリング、同社提供資料、 および同社ホームペー
ジによる。
指定工場として創業した際に、電装部品の製 造を開始している。 しかしながら、
1948年に、
プラスチック金型の製造を開始して以降、金 型生産が事業の中心となった。その主要顧客 は、日立製作所で家電関連の生産を担ってい た多賀工場であった。 同工場にて使用される、
洗濯機、掃除機、テレビ枠生産向けの金型を 製造していたのである。その後、多賀工場に あった電装部門が、佐和工場として独立する 際に、
「勝ち馬に乗らなくては」ということで、
1968
年に佐和工場向けの自動車電装部品の 生産を再び開始した。
こうして、部品製造部と金型製造部の
2部門による企業体制が構築されたのである が、バブル崩壊までは、両部門ともに、ほぼ
100%日立製作所との取引であったという。しかしながら、その後、トヨタ系など、日立 製作所以外の自動車部品サプライヤーとの取 引を増やし、現在、日立製作所との取引は、
金型、自動車部品共に、割合としては低下し ているという。このように日立製作所以外の 取引先を増やしていったのは、バブル崩壊以 降、日立製作所の海外生産が本格化し、国内 取引がしぼんでいったためこのままでは先細 りであると考えたためである。
また、かんばん方式に関しては、日立製作 所からの指導によって導入していったとい う。
3.3.3 海外展開
同社は、40 年ほど前に、近隣の中小企業 数社で出資してシンガポールに進出したこ とがある。しかしながら、この 取り組みは あまりに早すぎ、失敗に終わった。その後、
1995
年に、トヨタ系列のサプライヤー二社 と同社の三社の出資によって、タイに合弁会 社を設立した。しかしながら、設立当時は日
立製作所の自動車部門の元気がなく、取引相 手の中心がトヨタ系の会社 となったことか ら、2012 年に出資をやめたとのことであっ た。ただし、これは、同社が今後の海外展開 を行わないということを意味するわけではな い。今後、自動車生産が海外へとますます広 がる中で、同社も、海外生産拠点の設立を、
常に検討しているという。
3.3.4 生産技術・生産システム
冷間鍛造に使用する金型に関しては、内製 のものと外製のものとがある。内製外製問わ ず、 すべての金型設計は同社内で行っている。
同社の場合、金型を生産するには
30〜40の部品が必要とのことであったが、その組立 図や一つ一つの部品の図面を書いたうえで、
内製・外製を判断しているという。
冷間鍛造を金型設計から行うために必要な 要素を、 同社では以下の
6つに整理している。
すなわち、工程設計、塑性理論、金型設計、
機械工程、超硬合金の知識、コーティング知 識である。これだけのことをすべて自社内で 行うためには、それぞれに関して人材育成が 重要である。すべての要素を一人の人間が担 当することは困難であるため、同社では、機 械関係と金型関係、あるいは量産担当とメン テナンス担当というようにある程度分業して 担当者を振り分けているが、それでも
10年 以上経験がない社員は一人前とは言えないと いう。
3.4 SE 社
13(本社:茨城県日立市)
3.4.1 同社及び自動車部品事業の概要 同社の会社組織としての設立は、1950 年 であるが、個人創業としては、さらにさかの ぼることができるという。資本金は
4,200万 円で、従業員数は
85名である。同社は、創
13 本項の記述は、特に断りのない限り、2013年
10月
7日に同社にて行ったヒアリング、同社提供資料、
および同社ホームページによる。
業以来、プレス専門サプライヤーとして事業 を行っており、現在は自動車部品事業に特化 している。自動車部品事業に特化しているこ との強みとして、「いろいろな部品に絡むこ とができる」ことが挙げられた。実際、同社 の生産する部品は、電子部品、電装品、エン ジン関係部品、 足回り部品、 カーナビ用部品、
バックモニター用部品、燃料電池用部品など 多様である。これは、ハイブリッド自動車や 電気自動車、さらには燃料電池車など、今後 の自動車市場の中心的製品が何になるかが読 めない中で、どのような自動車市場になって も自動車部品サプライヤーとして生き残るた めの戦略である。このような自動車に関わる 多様な部品を生産するためには、自動車部品 事業に特化することが重要だという。
3.4.2 日立製作所との取引関係
既述のとおり、同社は設立以来一貫してプ レス専門のサプライヤーであるが、創業当初 は、冷蔵庫や洗濯機など、日立製作所の家電 事業に部品を納めていた。日立製作所が佐和 工場を設立し、自動車部品事業を本格化さ せることを契機に、同社も自動車部品事業に 徐々にシフトしていった。本格的に自動車部 品事業が中心になっていったのは、1995 年
〜96
年ごろである。
自動車部品事業に特化している同社ではあ るが、取引相手は多様である。日立オートを 主要な顧客としながら、経営の安定を図るた め、新規の取引先の開拓を進めてきた。ヒア リングによると、日立系では日立オートを含 む
9社以上と、非日立系でも
5社以上と取 引しているとのことであった。
かつては、技術
・管理水準向上の場として、
協力会同士の技術発表・品質 の勉強会、5S の勉強会、JIT の指導など、日立製作所から の指導や、協力会での勉強会などが存在して いた。同社は、このような技術指導を日立製 作所から受け、「日立製作所に育ててもらっ
た」ことは現在の同社の経営において大きな 意味があったと認識している。 同社によると、
「こうした指導に対して、真摯に向き合って
ついていこうとした企業と、それをイベント として流していた企業とを比べると、今は大 きな開きがあるのかもしれない」とのことで あった。しかしながら、現在ではそういった
「文化」は存在しないという。
3.4.3 海外展開
同社は、現在、2015 年稼働を目標に、ベ トナムでの工場整備を進めている。ベトナム への進出を考え始めたのは
2002年のことで あった。このころ、日立製作所とともに、海 外拠点の候補先をいろいろと見て回ったとい う。表
2にあるように、2002 年は、日立製 作所が本格的に中国進出を開始する時期にあ たっている。この時期の日立製作所の中国進 出は、顧客としては日産を念頭におかれての 候補先の選定であったという。
この時の候補先の訪問によって、同社は海 外進出に関して二つの認識を得たという。一 つは、同社にとっての顧客企業である一次サ プライヤーと同じ条件では長期的には経営を 安定させることはできないとの認識である。
一次サプライヤーと同じ国、同じ条件で生産 した場合、一次サプライヤーからの値下げ要 求に対して答えられる余地が狭くなると考え たのである。これが、同社が中国ではなくベ トナムを進出拠点として決めた大きな要因で ある。ただし、たとえ一次サプライヤーと比 べてコスト的に有利な国で生産拠点を構えた としても、いずれはローカル企業との価格競 争となることは避けることはできない。これ が、二つ目の認識である。つまり、ローカル 企業との価格競争を避ける何らかの
「仕掛け」がなければ海外進出を行ったとしても、長期
的に成功を収めることはできないと考えたの
である。2002 年に日立製作所とともに海外
拠点の候補先の見学を行い、その後日立製作
所自身が中国に進出する中で、同社が海外進 出する機会は何度もあり、また、日立製作所 からの呼びかけもあったという。にもかかわ らず、 現在まで海外進出を行わなかったのは、
この認識のためである。つまり、たとえ自動 車メーカーや一次サプライヤーが中国をはじ めとした海外拠点を設け、その拠点に対する 取引が一時的に存在しているからといって、
現在の国内の既存技術を単に海外に生産移管 するだけでは、 何億円も設備投資をした上に、
ローカル企業との価格競争に直面する。価格 競争に勝つことができた場合でも、初期投資 は回収できない、という判断を下していたの である。これが、ベトナム進出を決断してか ら
10年以上も実際にはベトナムに工場を建 設しなかった理由である。この「仕掛け」こ そが、後述の、同社の「独創技術」であり、
2012
年
12月と
2013年
3月に関連特許を取 得した、割裂技術である。割裂技術を開発す ることで、ローカル企業が簡単には価格競争 には持ち込めない条件をつくったうえで、ベ トナム進出を決定したのである。
ただし、2000 年代初頭には海外進出の必 要性を認識していた同社は、2002 年以降海 外展開に向けて何もしていなかったわけで はなく、10 年以上にわたって、現地との人 的ネットワークを構築していた。この人的 ネットワークが、いざベトナムに進出するに あたって、条件の良い立地の紹介、その土地 の安価での取得、あるいは現地チャネルのス ムーズな構築 など、迅速な海外進出に大き く寄与することとなった。そうでなければ、
2012
年から
13年にかけて特許を取得した技 術をもって、2015 年には現地工場を稼働さ せるという素早い展開を見せることはできな かったであろう。
このベトナム工場は、ヨーロッパ、中国、
台湾といった海外顧客向け自動車部品を生産 する拠点と位置付けている。
3.4.4 生産技術・生産システム
既述の割裂技術であるが、そこで「独創技 術」という言葉を使用した。これは、同社が ヒアリングにおいて強調された言葉である。
同社によると、グローバル化し、ますます競 争が激しくなる日本企業が目指すべき技術開 発の方向性は、「独自技術」ではなく、「独創 技術」であるという。この二つの言葉は、お よそ以下の意味で使用されていると整理でき る。まず、「独自技術」とは、既存技術の延 長線上に自ら開発した新技術のことである。
その場合、その技術によって実現されるもの は、既存技術と比較して、より精密に、より 速く、より低コストに生産された製品・部品 ということになる。このような技術開発は重 要ではあるが、同社によると、グローバル競 争の中で勝ち抜くには不十分であるという。
なぜなら、このような技術は、いずれ同一線 上でより精密で、より速く、より低コストに 生産することが可能となる技術が国内外で開 発されるためである。そこに待ち受けている のは、 際限のない価格競争である。一方の
「独創技術」は、これまでの技術革新の延長線上 にない、原理的に自社オリジナルの技術のこ とを言う。このような「独創技術」を開発す ることができれば、容易に他社はまねするこ とができず、簡単には価格競争に巻き込まれ ずに済むのである。
では、その 割裂技術とはどのようなもの
であろうか。同技術を紹介した 新聞記事に
よると、「板側面から切れ目を入れ、途中ま
で裂くように分断することで成形やほかの
金属との接合が容易になる」(『日本経済新
聞』2013 年
7月
25日付)技術である。つま
り、金属板をプレス機によって裂き、その裂
いた部分をさらにプレス機で加工したり、あ
るいは裂いた部分に他の部品を挟み込んで溶
接することを可能にする技術なのである。こ
の技術の利点は、同記事によると以下のとお
りである。「新技術の利点はコスト削減効果
だ。電力変換装置のコネクター部品を製造す る場合、 従来の加工法より工程数は
12分の
1、完成にかかる時間も
4分の
1に圧縮でき、7 割以上のコスト削減につながると試算する」
(同上)。この、金属板をプレス機を使用して
「裂く」技術は、これまでになかった発想で
あり、まさに「独創技術」である。
割裂技術の開発において、2011 年
3月
11日に発生した東日本大震災が二つの意味で きっかけをつくった。一つは、金属板をプ レス機で裂くという発想のひらめきである。
2011
年
3月
14日当時、茨城県内にある同工 場周辺は停電状態が回復していなかった。そ うした中、社長 が帰宅する際に、門の前に あった金属板を見かけ、車で夜に出かける時 に、このままでは危ないなと思い、その金属 板を家に持ち帰った。その持ち帰った金属板 を見た社長の息子が、おやつにと食べていた
「さけるチーズ」から、「鉄もこういう風に裂
けたらいいよね」といい、社長が、金属板を 裂くという発想をえるに至ったのである。そ してもう一つが、「普通なら聞き流していた」
という息子の言葉を、「独創技術」開発とし て実現させるに至った、強烈な危機意識であ る。東日本大震災を受けて、被災したルネサ スエレクトロニクス株式会社の那珂工場には 多くの自動車メーカーが援助に来ていた。一 方で、同社には自動車メーカーや一次サプラ イヤーからの支援は来なかった。 この違いを、
自動車メーカーから見た企業の重要度の違い と感じた。また、 実際に、 東日本大震災によっ て、地震の前に見積もり段階で同社への発注 が決まっていた部品 が、3 月
14日に、その 発注が大阪の企業に変更になったとの連絡が 入ったのである。
このように、東日本大震災は、普段なら流 してしまうきっかけから発想を得、また、そ
の発想を何としても実現しなければならない という強烈な危機意識を同社に与えたのであ る。しかしながら、東日本大震災という直接 的なきっかけのみが、「独創技術」誕生の要 素ではない。まず、一般的な意味での危機意 識は、かねてより持っていた。同社は、日立 製作所との「親子関係」はなくなっていると の認識から、日立製作所以外の顧客との取引 を、自ら開拓しなければならないと考え、既 述のとおり、非日立系の多くの企業と取引を 行うようになった。そこに至るには、当然、
激しい競争に勝ち残る必要がある。その競争 の中で、自らの強みと弱みを発見し、また、
市場からの様々な情報から、今後のあるべき 技術発展の行方を模索していた。そして、こ うした危機意識を、社内で意識的に共有して いたことも重要である。こうした認識の共有 が、いざ、割裂技術という「独創技術」を社 長が発想した際に、技術者がその意味を即座 に理解し、開発を迅速に開始することを可能 にしたのである。
3.5 OK 社
14(本社:東京都品川区)
3.5.1 同社及び自動車部品事業の概要 同社の設立は、1934 年である。2012 年度 の売上は
58億円であったが、そのうち
7割 以上が同社の主力製品である、ブレーキホー スの口金具であった。同社で生産された口金 具は、ゴムホースメーカーに納入され、そこ でブレーキホースに組み立てられ、自動車 メーカーに納入されている。資本金は
1億 円である。ブレーキホース用口金具の取引の うち、H 社(日立製作所グループ企業)と、
NC
社とで7 割を占めている。
H社と
NC社は、
日本における自動車用ブレーキホース市場の
6割を占め、ほとんどの自動車メーカーに納 めているという。なお、同社が納めているブ
14本項の記述は、特に断りのない限り、2013 年
8月
26日に同社にて行ったヒアリング、同社提供資料、
および同社ホームページによる。
レーキホース用口金具に関しては、両社でブ レーキホースとして組み立てられた後は、日 産の自動車に組み込まれる割合が多い。 また、
同社はスタッドボルトも生産しているが、そ れは、日産に直納している。
3.5.2 H社との取引関係
歴史的にみると、同社は、まず日産との取 引を戦後開始し、その関係で、日産との取 引のあった
NC社との取引も開始することと なった。日産との取引を開始したのは
1945年であり、真鍮 を使ったグリースニップル の生産であった。その後、バンディチューブ を止めるチューブナットやスタッドボルトを 切削にて生産していたが、1958 年ごろから、
スタッドボルトの生産を、切削から冷間鍛造 に切り替えた。スタッドボルトを冷間鍛造で 生産するのは、当時としては先駆的な取り組 みであったと言い、その後の、冷間鍛造を中 心とした同社の技術開発を考えたうえで重要 な画期であった。H 社との取引は、日産及び
NC社との取引関係の中で始まったようであ る。その経緯に関しては、詳細は不明とのこ とであったが、H 社との取引関係も、長期間 にわたっている。
3.5.3 海外展開
同社は、1989 年という比較的早い段階に タイに進出している。タイ 工場からの出荷 先は、アメリカ、カナダ、日本、EU、中国、
ベトナム、インドネシアおよびタイ国内であ る。従業員数は、2003 年
4月段階で
200名 程度であり、現在は
570名程度である。売 り上げは、2013 年度で約
40億円である。
1989 年時点で海外進出を決めた要因であ るが、一つは、日本国内のみの生産では、将 来的に生産拠点として手狭になると考えたこ とにある。これは、1989 年当時、日本国内 はバブル景気の真っただ中にあったことが 一つの要因と考えられよう。二つ目には、コ
スト削減である。そして、三つ目が取引相手 である
H社からの海外進出の要請であった。
ただし、当時の
H社からの要請は、H 社の 近くで生産してほしいというものであり、具 体的にはアメリカへの進出要請であった。表
2にある通り、1989 年段階での 日立製作所 海外拠点は、アメリカとメキシコにしかな かったのである。しかしながら、アメリカへ の進出はリスクが高いと考え、東南アジアに 目を向けるようになり、タイへの進出を決定 した。東南アジアの中でタイを選択した理由 は、比較的政治が安定し、治安が良いことに 加え、識字率が高いことにあった。当時、日 本からタイに進出する企業は少なく、先発組 であったという。
最近のタイ事業を考えるうえで重要 なの が、人件費 の上昇である。熊谷(2013)に よると、インラック政権の下で
2012年
4月 に行われた最低賃金の約
40%の引き上げや、需給逼迫などの影響により、タイは全体的に 賃金上昇の傾向にあり、製造業においては、
2012