ディバと砂漠の遺跡の第1発掘調査
著者 佐々木 達夫
雑誌名 金沢大学歴史言語文化学系論集 史学・考古学篇 =
Study and Essays : History and Archaeology
巻 1
ページ 105‑175
発行年 2009‑03‑25
URL http://hdl.handle.net/2297/17267
デイバと砂漠の遺跡の第1次発掘調査
佐々木達夫
本稿の目的
ペルシア湾岸とオマーン湾岸を中心にアラビア半島のイスラーム時代町跡調査を継続している。そのうち最近 第1次発掘調査を行った遺跡の概略報告と資料の紹介、継続調査の見通しを述べる。シャルジャ首長国ディバの 農園内遺跡とその近くの海岸に沿う町跡遺跡の2地点、アブダビ首長国の砂漠内のベドウィン居住跡のムレイ及 びタウィ・ベドワ・シュワイバ、及び点在する砂漠内のキャンプサイトなどいくつかの地点の調査についてであ る。農園と港町、海岸と砂漠という遺跡立地の対比ができる異なる性質の居住跡であるが、出土品には共通Mkも 多くみられ、異なる環境の関連した一体の生活空間としてとらえる歴史研究が求められる。いずれの遺跡も継続 的な調査が望まれる。当該地域の生活スタイルを探るための地域的特徴をもつ遺跡である。
1.デイバ農園内中世遺跡の踏査と第1次発掘調査
調査準備
ペルシア湾岸の古代中世遺跡調査を筆者は1987年から開始し、14世紀後半から15世紀にかけての港湾都市遺 跡ジュルファール等を発掘調査した。当該地域の遺跡から多くの貿易品が出土し、14世紀後半以降の海上交易を 研究する資料を入手できた。周辺遺跡との関連を調べてジュルファールの特徴を鮮明にするため、ペルシア湾か らホルムズ海峡を回ってアラビア半島のオマーン湾岸で、上|ゴ肢研究資料が入手できる遺跡を発掘することが必要 となった。ペルシア湾岸とオマーン湾岸では砂漠と山岳、内海と開かれた海という地勢の違いから、生活や貿易 の相違があれば出土品の様相が少し違う可能性もあり、政治的にはホルムズやポルトガルなどの海域支配のあり かたと関係していることも予想された。また、10世紀以降l4Uh紀前半以前のU暁資料がペルシア湾岸地域に少 ないため、その時代の遺跡をオマーン湾岸で発見することが最初の調査目的になった。オマーン湾岸は筆者も 1987年から毎年訪れていたが、1993年7月、シヤルジヤ首長国古文化財庁長官ナスル・アル・アブーデイ氏と 会見し、オマーン湾岸イスラーム時代の港湾都市遺跡あるいは交易拠点都市遺跡の調査を実施したい旨を口頭で 申し出た。同年8月、同氏に調査申請書を送り、9月初めにシヤルジヤ首長国から公式の調査許可証が日本に届 いた。その後、シャルジャ首長国やフジェイラ首長国のオマーン湾岸遺j’i踏査や発掘調査を実施することとなっ た。同時にペルシア湾岸のジュルファール、ジヤジラット・アル・ハレイラ、ジュメイラなどの遺跡発掘を継続 し、サウジアラビア、オマーン、イエメン、バハレィン、イラン等の周辺国関連遺跡を訪れ、遺跡及び出土品研
究等を実施した。
遺跡踏査
オマーン湾岸で本格的な調査を開始したのは1994年3月であった。アラブ首長国連邦シヤルジヤ首長国内及 びフジェイラ首長国内の遺跡踏査で、オマーン湾岸のイスラーム時代港湾都市遺跡を発見することを目的にディ バ、コールファッカン、フジェイラ、カルバ、コールカルバを踏査した。当該地域の海岸線は2011t紀後半に道
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路建設と家建設、砂浜の整備と海岸埋め立てのため、自然地形はほとんど消え、遺跡も消滅したのではないかと 危倶された。ディバ・ヒッサンDibbaAll-Hisnではワディや農園周辺に人工的なマウンドが連続してみられ、海 抜8~10mの地或、海岸から1kmほどの範囲に広がることが多い。これはワディ内の水位との関係でナツメヤシ 農業ができる範囲が海岸からこの付近までとなることに関連していると思われる。農園に沿って西方の山側にマ ウンドが広がることが多い。マウンドは高さ2~3mで径20~30mほどの円形となり、約30基が1km以上の長 さの範囲に集中し、東南伽lのマウンドは墓地に利用されているものがあった。マウンド上に建物壁の痕跡は見ら れなかった。マウンド表面にはl81u2紀以降の陶磁器片が散乱していた。前期イスラーム陶器片は僅かであった。
12世紀~13世紀初の中国青磁碗1片、同時期の多彩釉刻線文lliil器片などがアルヒッサン・スポーツ文化クラブ 前のマウンドから採集された。この辺りが古代中lUニデイバの内陸側の際と推定され、町跡は海岸とマウンドの間 にあったと推定される。この地域は踏査当時シヤルジャ首長国領であったが、21世紀初はシヤルジャ首長国とオ マーン国領に分割され、家を建てるためにマウンドは削られて消滅した。
海岸に沿う地域でも墓地に利用している小さなマウンドが残るが、マウンド表面には石壁基礎の痕跡が見え、
壁材料の珊瑚が掘り出されている。14世紀前半の中国青磁の鉢と内外面に鏑連弁文がある盤の2片が採集された。
AIGhaJmbiyah地区でもワディや農園近くにマウンドがあり、マウンド表面に泥レンガ壁基礎が見られ、19~20 世紀の施釉陶器や土器片が散乱していた。農園際外側のマウンドと海岸:に近い地域のマウンドは性質が異なる可 能性がある.
農園内遺跡の発見と第1Eh6発掘調査
デイバの遺岡リi踏査は1994年のオマーン湾岸遺''1蝿査のなかでも中心的な部分を占めたが、そのときの踏査で は不明であったデイバ農園内の中世遺跡がワディ内農園(N25,36,37,E56,15,45)でその後発見された。200ui年12 月にシャルジャ首長国立博物館長サバ・ヤシムと佐々木は当該農園内遺跡を踏査し、14~151螂己の中国青磁や染 付を表面採集した。遺構の残存状態を調べるため、2006年12月に第1次発掘調査を実施し、14~15世紀の中世 遺跡の遺構が残ることを確認した。
第1Mケ(発掘調査は長さ13.4m、幅2mのトレンチ1本を農園内平坦地に設定し、14~15世紀と推定される遺構 の確認面まで掘り下げた。トレンチ内にいくつかの石積み家壁基礎が発見され、壁基礎周囲から14世紀の陶磁 器が出土した。現在は平坦となるが、少し前にはこの部分にマウンドが残っていたと農園労働者がいう。トレン チ内でも20世紀の埋士が広がる部分があるから、最近削平が行われたことが推測される。こうした結果から、
14世紀の家跡が部分的に残る村跡であると推定された。農園内の家跡をトレンチ周辺を広げる発掘調査で調査す る予定である。
ディバの考古T学
ディバはDIBBA,DibaPabaPobaPvboなどと表記され、オマーン湾の西北隅の<びれ部湾内に位置する港町 で、ムサンダム半島の付け根にある辺境の町である。ディバから北は断崖絶壁が続き道路がなく、ホルムズガ匝峡 まで大きな町は存在しないパキスタンやインドとの交易、ペルシア湾に出入りするlWMipの寄港地としてデイバ は重要な位置を占める。デイバ湾岸にはポルトガル砦があったという記録が1518年頃に記載された(Dualte Balbosa74)。その後、1646年に記録されたインド洋沿岸の鶏のなかにデイバも詳細に現れる。「方形の4隅に円 形塔が建ち、入り口にも警備用塔があり、中央部に塔が1つ井戸とともに建つ。壁は石で造られ、銃眼を備えた 手すり壁が付く。囲い壁内には司令官の家が11|if、教会が1軒、兵士用の家々、地下に貯水池があり、空き地の
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一部に食料倉庫がある。」(deResende,lbIioI51-I52)b3つに分カツlTjた城壁に囲まれる家々が並喚城壁外にナツ メ椰子樹園力錨かオL、中央に方形石作り'1、城があり、壁は二重で上を歩ける強固な壁でつながる四隅の塔に大砲 が配置されるというji鍬がある巴BdeResende)。司令官の住む区域に加えて、教会、倉庫、井戸があるとドウ・
カルデイも図から述べる(deCaldi,Doel97])。豊かな生活と富の存在あるいは麺凸の恐怖を想像させる図である。
この図と同じような城壁がデイバに存在していたとウイルキンソンは指摘しているが(WiIkinsonl964)、現状でボ
ルトガノレ砦跡の確認はできない
デイバについては、「この砦から遠くないところに4隅に塔をもつ壁がポルトガル砦と同じ高さの城壁町 fblh巳6sがある。人口は1,000人を超え、アラブ・ムーア人で、兵士はきわめて少ない。9つの大砲がある。この ディバ町の近く、海岸のナツメヤシ畑際に大きくない砦があり、泥レンガadobeで造られ、円形塔の部屋、大小 の円形cavalm、井戸がある。その近くに200人ほどの村があり、2つの防御用塔があり、囲レ壁を作り始めてい る。この村にはナツメヤシ畑の反対側際海岸に別の砦があり、300人が住む。多くは船乗りで、村は円形の泥レ ンガ壁で囲われ、4つの塔がある。住民はナツメヤシと漁業(魚と真珠)で生計をたてる。」(deRescndel51-152)。
ポルトガル砦は石作りの頑丈な構造であるが、周辺の町は泥レンガ壁に囲まれたアラブ人町である.200~300 人の船乗りの町・農業・漁業の町であったことがわかる。
1994年のデイバ踏査で筆者は宋代青磁やl4UL紀の中国青磁を発見したが、その後は時折訪れて数カ所で比較 的新しい陶磁器を採集する程度であった。2004年12月、中国の青磁や染付が散布する遺跡を踏査した。1994年 踏査で陶磁器片が散舌Lするマウンドを見つけた地点に接するワディ内の農園のなかにある。2004年時点では畑と なるが、地表面に陶磁器片が散布している平坦地はN25,36,3ZESdl5,45地点である。中国の青磁や染付、ミャ ンマー青磁などを表面採集した。地元農民は以前マウンドがあったが、削平されたという。すでに遺構が破壊さ れて残らない可能|生があったが、2006年12月に試掘した。その結果、14世紀頃の遺跡が残る可龍性が確認され た。近い将来に発掘調査を実施する予定である。
デイバ海岸に沿って警察署建物があり、その建物裏に砦Fo1tとlWZばれる小丘がある。小丘登り口に切り出した 珊瑚や海岸石beachstonesを積んだ階段の痕跡が残り、地表面には14世紀の中国陶磁器から最近までの陶磁器片 が散らばる(佐々木2007)。砦のオヒlHllに接して現在のマーケットがあり、その付近からも近世の陶磁器が家建築 工事のたびに採集されている.マーケットに隣接する海岸側に漁業関係の施設があり、2007年春にデイバ海岸遺 跡として保護する地域に指定された。佐々木はシャルジヤ首長国とデイバ・プロジェクトを計画し、当該地点(デ イバ海岸道''1,の発掘調査を2007年冬から予定していたが、土地買収などの遅れがあり2008年になってから現 地発掘調査を実施した。ディバ海岸遺跡は海岸道路に接し、道路の前はオマーン湾で現在漁港となる。砦から南 西600mの地点でヘレニズ:ム・パルテイア時代の石積み墓が発見され、2004年にシヤルジヤ博物館によって発掘 された。墓に隣接した区域でも住居跡が発掘され、地表面に近い層から18~20世紀の陶磁器が出土した。1片 であるが、14世紀の中国竜泉窯青磁蓮弁文碗も第1層から出土している。この地域及び周辺部の一部も遺跡とし て保護されており、住居跡の下層には年代の遡る住居跡の存在が推定される。調査のための家を遺跡内に建設し、
ディバ海岸遺跡の第11次発掘調査からここを調査事務所兼住居として使用し、周辺地域を含めて出土した遺物の 倉庫としても利用している。
デイバは古い瀞汀として当該地域や歴史研究分野では有名であるが、考古学調査の成果はまだ少ない。ディバ はワディ内のみの狭い地域に現在も居住され、オマーン、フジェイラ、シャルジャの3国が狭いワディ内の町を
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領有しており調査しにくいこと、20lib紀末から大規模な住宅地開発が行われたため遺跡が消滅したこと、現在の 市街と重なる地域では堆積層が厚く古い時代の迩鋤は数m下に埋もれていることがその理由であろう。古い家の 建て替えで遺跡が発見されることがあり、シャルジャ領内のi画跡保護にシャルジャ政府ぱ積極的である。調査予 定の農園内遺跡は勤生シャルジャ首長国領に属している。
文献
dcC息Idi,B、&DoeDB.,]971,A1℃hacolOgicalSurvcyintheNonj1cmlnlcialSIatcs,Eastand恥sL21-3A;225-289 dcRcscmde,Iblio,ElLivmdoEstadoOTiental,Briti5l】Museum「LS1D〔Rncmanuscriptl97・
DuartcBajbo6a,n1eBookofDumeBaIbosHLEdh凸dbyMIpngwonhDamcs,I9I8oT11cHakllWtSociety RB.。eRcscmde,E1LivmdoEstadodalndiaOricmta])[BnUshMuscumSkxlncMS」97,lb1.149-]sU
WiIkinsoLlC,1964,ASlGctchofIheHistorta1Geo1コ沖hyoflhclmcialOmfmdowntoIhcBcginningorthcl61hCcmulXGoogz印hical JoummoCXXX-3;337と349.
佐々木達夫,2007「オマーン湾岸北部地域の遺跡出岳跳ii)磁器」『金沢大学文学部論集史学・考古学・地理学篇』27:203-282.
佐々木達夫bl994「アラビア半島アデン湾,オマーン湾のイスラーム迦跡踏査」『ラーフイダーン』15:l36Fl4L
2.ディバ海岸遺跡の第1次発掘調査
発掘地概要
発掘地点はアラブ首長国連邦の東北端、オマーンW1i岸のムサンダム半島付け根の町シャルジャ首長国のディバ 海岸に位置する。発掘区域の南側には隣接してⅡ千レンガ造りの'1コ近世砦が残る。デイバはオマーン国、シャル ジヤ首長国、フジェイラ首長国の3つに分割される。発捌IIL点はシヤルジャ首長国AlHisnにある。刺M1lは海、
iLilUlは現在の町並で以前はワディ内のナツメヤシ農園と#碇される。さらに西側は急峻なハジヤール|」」脈の岩|」」
がそびえ、北は85kmほど北方に延びる岩山のムサンダム半島となる。
発掘地点の北側はオマーン国の農園と町、南刺U|はフジェイラ首長国の農園と町で、いずれの地区も農園と港 町のある3つの居住区がある。これらを併せた町がデイバである。16世紀初にポルトガル砦がデイバ海岸平坦面 に建てられたが、現在はその位置が不明瞭である.日干レンガ砦の地表面に14世紀中国竜泉窯青磁などが見ら れることから、ポルトガル来航以前からのデイバ農園地域の砦であることがわかる。
デイバの町と農園などの週RJ蝿査はl99ul年に実施した(佐々木1994)。2004年12月にデイバ農園内の過l1jjW健I 査を行い、14~15世紀の中国青磁や染付、ミャンマーi1i凶磁を表面採集した。農園内遺跡の発掘調査は2006年12 月に第1次発掘調査を実施し中世遺跡が残ることを鵬沼した(佐々木2007)。
2008年12月にデイバ海岸遺跡の第1次発掘調盃を行った。発掘区域の西南隅D6は北緯25.37,09,43,J朽径 56。]6,23"75である。発掘した地点は砦1MII部の海岸に沿う111「の一部と推定される。砦中央部との距離は30mほ
どで、現在保護されている砦壁際からD6ポイントまで]8m・
調査繰渦
発掘地点は現在のスーク(マーケット)の鋼IUlにあたり、以前からスーク及びその周辺の工事等による出土品 をシャルジャ国立考古学博物館のイッサが採集し、佐々木が保管していた。ディバは中国文献にも名前が残る町
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であり、ムサンダム半島を隔ててアラビア湾(ペルシア湾)側のジュルファールとオマーン湾側のディバは対照 的な位置にあり、両地域を比較研究するうえで重要な場所である。そのためデイバ発掘調査を計画していたが、
イスラーム時代居住遺跡の発見と発掘に合う場所選定が難しく、一部の試掘などを除き本格的発掘の開始は2008 年となった。
第1次発掘調査は2008年12月に実施した。12月7日に日本を発ち、8日朝デイバDibbadighouSeに至リラ嵩家 から発掘地点まで歩5分で、途中にタンドリーロテイを焼く店、小さな雑貨屋、各種店が並ぶスークがある。パ キスタン作業員の家はスークの隣にあり、遺跡まで歩1分も家から遺跡と反対方向に歩くと大きなスーパーマー ケットがある。発掘地点は2007年まで漁港関連施設があったが発掘のため2008年に地上建造物を撤去し、簡単 な整地を発掘前に行った。まだ遺跡内に残る家は整備して倉庫に使用。出土品を並べ発掘機材を保管し、トイレ に使用。倉庫は電気、水道が使える。
30m×20mの発掘区域を海岸道路及び隣接するスーク建物に沿う方向で設定スーク壁長さは855mで、発 掘区域方向は磁北から西に29.5度振れる。海岸の東側を上に図面作成するため、北側から南側にABCD、東側か ら西側に1,2,3,4,5と10m方眼を遺跡に設定し、北東側ポイントを方眼の名称とする。パキスタン人、スリ ランカ人が発掘作業員。現場作業時間は6:30-10:00、朝食、10:30-12:30b12月28日、遺跡前の漁港海岸で満 潮海水面を0mとする。発掘地点の標高は約4mとなり、深さ4mほどを発掘する予定
周辺清掃後、北西側、南西側、南東側の開放部3カ所を金網で閉鎖し、海岸通りの北東側のみを出入り口とす る。発掘区域周囲に石垣を築く。表土のセメント、砂利などを剥く、トレンチで表土と第1層を確認後、表土層 をブルドーザで剥ぎダンプカーで土砂を運び出す可。表土には2007年まで使用された塩漬け魚工場や小屋の基礎 が残る。セメント床面と床面下に敷いたlH妹Ⅱ層が残る。セメント床面には塩漬け魚工場の柱跡のコンクリートが 残る。表土を剥ぐとコンクリート製ブロックを積んだ201m:紀家基礎が発掘区域全体に見える。第1文化層Level lはコンクリートブロックで壁を作った家の建つ面とそれより上堆積した層。Levellの砂層から18~19世紀の イラン製織1$11陶器や施釉彩画陶器、中国福建省の18~1911上紀の染付鉢、17世紀初のしよう州窯染付盤なども出 土するが、多くの出土品は20世紀の土器、陶磁器である。第1次発掘は第1文化層Level]の家基礎を掘り出す
ことと、トレンチで層を確認することで終了した。
2008年12月28日はMuhalmml,1430.12月31日、シヤルジヤテレビが遺跡の発掘風景を取材、放映b2009 年1月1日、オマーンのDibba海岸で初日の出を見る。1月4日、シヤルジヤ首長国.首長シェイクスルタンに会 い、遺跡発掘状況及び日本招待や考古学展覧会開催を伝える。1月6日、DepartmelltofCultlnEandlnibmlation長 に会い、その内容は3社の地元新聞に報道された。2009年1月7日朝ドバイ空港から帰国。ただし、今回発掘の 面は20世紀後半であるため、作業員12名に1月末まで発掘を継続させ、遺跡周辺に保護のフェンスを造らせた。
3月前半に現地を訪れ、遺構の実測を行う予定である。次回のイードは2009年11月26日頃となり、11月末は 連休となる予定で、12月2日(水)は建国記念日の休日が確定し金曜と士曜が休日であることから、2009年末
の発掘開始は12月6日以降が適している。
発掘区域
第1次発掘調査で海岸通りに沿うデイバ砦易lblN11に発掘区30×20mの600㎡を設定した。30×20mの発掘区域
の西南部は北緯25.37,09,,43、東経56.16、23"75である。
30m×20m発掘区域を含めて発掘対象地域の東北側地点をA1とし、その西南の10xlOmの範囲をA1区とし
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た。標高・海抜はベンチマークを発見できなかったため、遺跡前の漁港海岸で12月28日2回あった最大の満潮 海水面を測り、その面を標高・海抜0mとした。発掘地点の標高は約4mとなる。1988年のジュルフアール遺跡 発掘では、潮の満ち引きの中間高さを仮に海抜0mとして遺跡測量を行った。その後、海抜が判明し、+0.9mす ることとなった。ペルシア湾とオマーン湾の水位は同じではないが、アラブ首長国連邦の海抜は同じ基準を用い ている。ジュルファール遺跡の計測時では満ち引きの中間高さよりも海抜0mは1mほど高い。すなわち満潮最 高面が海抜0mに近い。GulftimeSによる12月28日のシヤルジヤの満潮2回のうち最大水位は海抜1.87m、最 低水位は0.34m、その差は1.53m、アブダビの満潮2回のうち最大水位は海抜1.92m、最低水位は0.4m、その 差は150mである。オマーン湾岸のデータは見つからなかったので、デイバでは2008年12月28日の最高水位 を0mとして遺跡の標高を示すこととした。当該地の土地沈降や海面上下を除けば、満潮で濡れない地面に人々 が居住するのは当然であり、発掘地の実態にあう標高・海抜の設定となる。発掘地の原点は配電施設建物基礎面
で4.40m・
トレンチ内層位
表土を剥ぐ作業と同時に、発掘区域の南側壁際に幅1m長さ10mほどのトレンチを入れた。表土には建物基礎 と床面が残る。その下にコンクリートブロックの家壁基礎があり、基礎の建つ面を第1文化層Levell下面とし、
壁基礎上部の削られた面を表土層の下面とする。表土には僅かな土器片が見られるが、多くは|散去した家廃材や 最近のゴミである。レベル1からは土器片や少量の施釉陶器片が出土する。レベル1の下はいくつかの層に分け られるがピットもある。出土したjiiZドijIi3器は19世紀から20世紀のものが主である。トレンチ内ではレベル1の 下に建物基礎は見えない。
発掘遺構
表土
表土面に2007年まで使用された塩漬け魚工場の基礎が残る。セメント床面と床面下に敷いたH妹11層、及びセ メント床面に塩漬け魚工場の柱跡コンクリートが残る。その建物に伴うと思われる井戸が西北部にある。砂地を 円形に掘り下げ、中央に太い塩化ビニールパイプを入れた井戸跡で、井戸枠や周囲の石積みはない。井戸内はき れいな砂で埋めている。レベル1のコンクリートブロック積禺ブ建物基礎とレベル2の石積み壁基礎の一部を掘り
削っている。レベル1
表土のセメントや砂利層を剥ぐと粘質の砂層があり、ほぼ全面に建物痕RJiDがみられる。レベノレ1では発掘区域 全面にコンクリートブロックを積んだ家壁基礎が残る。ブロックの平均的な大きさは長さ30.3cm、幅14.2cm、
高さ15.1cmで、セメントを間に詰める。壁厚さは長い方向となり約30cmで30.0cmと30.5cmが多い。10個のブ ロック計測では長さ30.0cmから31.5cmで平均30.3cm、幅13.3cmから15.0cmで平均14.2cm、高さ14.0cunから 16cmで平均15.1cm・壁表面はセメントを薄く塗る。現在の家にも|司じノ|瀞造のものがある。コンクリートブロッ クの下には大きな川原石を並べた部分と、砂地のみの部分がある。仕切り壁など簡単に追加した壁は下に)11原石 がないようである。発掘区域中央部に南北方向の道があり、道に沿って両側に家が建つ6家の間の南北道路幅は 2.6m・家全体の大きさはまだ不明であるが、室内の長さは3.0m、3.5m、3.6mなどの部分がある。
表土とほぼ同じ面には東南部に井戸があり、井戸枠は最上面が円形の薄いコンクリート面で、そのコンクリー ト表面に接して下にコンクリートブロックを2段積み、さらに下はjll原石を積む円形井戸6川原石外径L48m、
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内径0.88m、発見時の井戸枠面標高4.37m、発見時は深さ3mで、内部の土砂をさらうと、深さ41mで水が湧 く。井戸内水面標高27cm・水面部分から上1mはⅡ|原石を積まず、固い岩状の砂を円形にiMllっている。
炉がいくつか見られる。HearLblは数IMilの石を置いた外径48cm、内径24cm円形状の基礎が残る。砂が赤く焼 けている。同じ壁に沿って数個の炉があるようである。ただし、レベル1かレベル2か、不明瞭である。
レベル2
マドバッサ。マドバッサ西側には)||原石が並塁川原石は壁iM;礎で、床のチャネル部の立ち上がりが見られる ため、マドバッサの壁基礎と思われる。川原石の壁は北(IUlに延びるようであるが、すぐ二ll3lHllは小さなピットによ って壊され残らない。北側に続いていたと思われる壁は井戸によって壊されており、その部分の上にレベル1の コンクリートブロックの壁が載るようである。第2次調査で確認する必要がある。
Madbassalは5本の東西方向のチャネルがあり、チャネル周囲(マドバッサ内面)の大きさは東西1.43m、
南北1.3mの'I型である。東南角に受穴がある模様であるが未確認、
出土品
2008年12月の第1次発掘調査で表土から出土したものはゴミと僅かな鼠の土器片、20世紀の施釉陶器片であ る。レベル1出土品は土器片と施釉Nil器片である。20世紀のものが多いが、{錘、な量ながら14世紀中国竜泉窯 青磁片、17幽己初の潮|、|窯染付盤、18~19蝉uの中国染付碗Ⅲ、イランの青釉下褐彩陶器片も混じる。
発掘地周辺の地勢
発掘地点はアラブ首長国連邦シヤルジヤ首長国デイパ海岸の湾内に面する。平坦なワディ河口で陸地側にはナ ツメヤシ農園がまだ残るが、宅地開発が進んでいる。日干レンガ砦の隣であり、ディバのなかでも古い町の一角 に位置する。2008年中頃から漁港の埋め立てと堤防建設が進み、2009年未完成予定の新港及び関連施設が南側 に建設中である。古い地勢と景観は消えつつある。
発掘地点の歴史
イブン・バットウータが14世紀中頃に聞いた(あるいは見た)111「は「オマーンの諸都市の一つにザキー……
その他の町としてクライヤート、シャバー、カルバ、ハウル・ファッカーン、スハールがある。それらの町々の すべてには幾つものi叩11、果樹園JW-ツメ椰子の樹木がある。そして、この地域の多くはホルムズの行政地区に 含まれる。」(家島1998174頁)という。マスカットからホルムズに至る町の名にカルバとコールファッカンが 挙げられているが、ディバの名前はない。「ヤークートによると、ハウル・ファッカーンは山が迫ったオマーン 海岸の小規模の111m〔bu1ayda)で、ナツメ椰子の実と良質な飲料水で知られた(YaquLZノヰ88-89:LaI-MUjawin280)」(家 島1998243頁)。オマーン湾岸の111Tと同様にデイバもポルトガルが侵攻し海岸に砦を築いたが、その場所は不明 瞭である。
文献
佐々木達夫・佐々木花江2007「デイバ膿園内中'1,1ヨ跡の踏査と第1次発掘調査」『金大考古』56:6-10.
佐々木達夫,2007「オマーン湾岸北部地域の進l跡出二k陶磁器」「金沢大学文学部論集史学・考古学・地理学i制27,203-282.
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家島1998『大旅行記3』(全8巻、イブン・バットウータ、イブン・ジュザイイ編、家島彦一訳注)、東洋文lil[630、平凡社。
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3.砂漠の民の生活跡の第1次発掘調査
調査の目的と経過
アラブ首長国連邦の生活は20蝉酸半から急激に変化している。都市郊外に現jlLfi化と土地開発が広がってい るが、UAE緑化計画によって砂漠のなかにも激変が及んでいる。アブダビ首長国やアライン近郊の砂漠にもイス ラーム時代の生活跡や遊牧民の痕跡が数多く残っていると思われるが、それはすぐに失われるのではないかと危 倶されている。砂漠の民はベドウインと呼ばれ、20世紀前半から中頃にかけての写真、砂漠横断探検家や民俗調 査の記述、伝承の文字記録などが彼らの生活を知る資料として利用できる。これに加えて遺跡はさらに古い時代 のデータを提供し、遺跡出土の遺物は彼らの生活を具体的な物から直接的に推測させる資料となる。
アブダビ文化遺産局歴史環境部長モハマッド・アメル・ニャディ氏は、アブダビ首長国内の砂漠に残る遺跡を 保護し記録する方針を2007年に打ち出した。歴史環境部考古学部門長のワリッド・ヤシン氏と佐々木は、砂漠 内に移牧民の伝統的な生活跡や歴史を示す陶磁器やガラスなどの遺物が残ると推定した。それらを発見し保護す ることは砂漠の文化遺産として意義あることと考えた。ニヤデイ氏、ワリッド氏、佐々木達夫、佐々木花江は2008 年1月、アラインで会い、砂漠の遺跡調査について打ち合わせを行った。
現地調査の開始
金沢大学とアブダビ文化遺産局の第1回砂漠遺跡共同現地調査は2008年4月末から5月前半に実施された。
調査参力晴は佐々木達夫~佐々木花江、モハメッド・アメル・ニャディ、ワリッド・ヤシン、考古学部門のジャ ベル・アルメリ、アリ・エルメグバリ、アハメッド・エノレハジ、ディアエッデイン・タワルベ、ハマダン・ア ル・ラシッディ、モハメッド・アル・ダヘリである。道のない砂の砂漠を車で走るのは技術的に難しく、砂漠の 運転に慣れた現地の方々に運転手を頼んだ。アブダビ文化遺産局歴史環境部文化景観部門長マーク・ピーチも調 査に参加し、これまでの砂漠遺跡のデータ、地形図などを提供され、遺跡出土の魚骨と動物骨の鑑定も実施中で ある。バキット・サイード・マンスーリは砂漠で発見した遺跡まで我々を案内した。調査に関わった多くの方々
に感謝6
今回の調査は、アラビア半島東南部の砂漠においてイスラーム時代生活遺跡を新たに発見し記録することにな った。遺跡で採集された異なる時代の多種類の陶磁器は、物資の流通と運搬、砂漠の生活方法、ラクダの交易ル ートなどの変遷を考える資料となる。砂丘の砂面に散舌ける陶磁器片は砂漠の移牧民の居住痕跡である。遺物の 散布は多くの場合、連綿と連なる砂丘の窪地、あるいは窪地に近い斜面下方部に見られる。しかし、希には砂丘 の頂部で魚骨を発見する場合もある。それは強い風によって吹き飛ばされてきたのかもしれない。アラブ首長国 連邦の赤い砂丘はアラビア半島に広がるアルハリ砂漠の北縁部にあたる。今回調査でアブダビ首長国に広がる砂 漠内の遺跡の状態を知り、いくつかの遺跡を発見することができた。
砂漠の生活
季節的にあるいは移牧で半定住する人々が砂漠のなかに、小さなオアシスに、さらには-つの井戸のある地点 に最近まで居住していた。ベドウィンはラクダとともに砂漠を移動し、ナツメヤシが小さなオアシスに植えられ、
そうした場所は今、砂丘の砂面に陶磁器片や魚や動物の骨が散乱している場所となっているのだろう。移牧の民 やベドウィンにとって、さらにオアシスに住む人々にとっても、季節的な移動は生活の一部であり一般的なこと であった。彼らは冬に砂漠に生える草をラクダに与え、夏にオアシスでナツメヤシの実を収穫し、男達は冬に海
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岸に行き漁労と真珠採取する間、女達はオアシスに留まる。季節的に砂漠と海岸を行き来する生活は一般j的なも のであり、人々は砂漠でラクダに餌を与える季節、海で魚を捕る季節、真珠を採取する季節など、場所を変えな がら季節生活が繰り広げられた。
砂漠で生活した人々が煮炊き、飲食、食事作り、食)|GI保存などの日常生活で使用した陶磁器は今、破片となっ て砂漠の砂面に残されている。油、バター、ナツメヤシジュース、蜂蜜などをオマーンのバハラ産などの褐iidl陶 器瓶に保存し、塩演け魚や乾燥魚は土器壷に保管したという。土器クッキングポットは米、野菜、その他の食べ 物を煮るのに用いた。鉢は粉を握れるなど食事の準備に使った。碗や皿・盤は食べ物やデーツを盛るのに用いた。
大壷はや瓶はチーズを作り、食べ物や水を貯蔵するのに用いた。回転石臼は米や麦を粉にするのに用いた。こう した砂漠の遺跡出土品は砂漠の民の生活を伝える歴史的な事実である。砂漠の考古学遺物はアラビア半島の人々 の文化遺産である。しかも基本的な日常生活で用いられた陶磁器は、アラブ首長国連邦の農業や漁業を営んだ海 岸の人々と同じ種類と組み合わせであった。こうした考古学的な歴史的事実は砂漠の民の生活についての新たに 発見された研究成果である。
調査した砂漠の遺跡・位置、環境、採集品.
ムレイNo.1,N23.52,28",E科。38'33,'・
遺跡は2007年12月に地元民によって発見され、同月ワリッド・ヤシンと歴史環境部考古学部門職員が訪れ遺 物を採集した。ワサバAlWhthbaから南に40hnほどに位置する。2008年4月29日、アブダビ文化遺産局歴史環 境部考古学者と佐々木は遺跡を訪れ、5月5日、6日にトレンチ発掘調査を実施した。両次調査で採集された遺 物は分類撮影し、アライン博物館f「庫に保管した。
砂丘は南から北に向かって緩く傾斜し、窪地となり、その北側は急な斜面となり高い砂丘となる。陶磁器片や 骨片が砂丘南|NII斜面下方部分と窪地底面の表面に散乱している。散舌けるii1f2囲は南北54m、東西50mである。
散乱する窪地から見ると、北側と剛Ⅲの砂丘は大きく、10mから15mの高さである。窪地表面の海抜は約80m であり、周辺砂丘の頂部は約100mである。植物はほとんど見られず、木は生えていない。
遺跡の表面に散らばるのは多くの陶磁器小片である。赤い素地の土器片がもっとも多く、施釉陶器の破片も混 じる。土器片はクッキングポットと保存用の瓶壷である。施釉陶器片はイラン産の釉下彩画陶器の鉢が多い。バ ハラ産褐iド''1陶器瓶と鉢の破片がそれに次いでいる。黄釉陶器碗や緑釉陶器碗の破片はきわめて少ない。中国陶磁 器もあり、なかでも福建省染付の19世紀の典型的な輸出品の碗盤が目立つ。中国の20世紀のコーヒー小カップ もある。オランダやイギリスの色絵陶器、梁付陶器の碗鉢皿もある。遺跡に散乱する陶磁器片はイスラーム時代 後期のものが多く、18世紀後半から20世紀に作られた製品が主である。
多くの魚骨片と鱗が砂面に散乱し、砂表面が白く見える。ラクダや山羊の骨も少ないが見られる。ガラスバン グルや青銅リングも少ないが発見された。バハレインで1965年に造られた青銅製コインも1点採集された。ガ ラス容器はきわめて少ない。南側l斜面の中腹N23.52'27",E5ZIo38'33"の地点、遺物の広がる範囲の境界部で土 器盆が1点、砂内から完全な形で採集された。黒粒の混じる特徴的な素地で、アラブ首長国連邦では各地で発見
される種類である。
遺跡はイスラーム時代後期の1家族か数家族で構成されるキャンプサイトあるいは小さ戯;|跡と思われる。遺 跡へ案内してくれた地元民は次のように言う。「窪地の地下2mで水が浦く゜ナツメヤシが以前は生えていた。
マンスール族が百年から130年前に住んでいた。冬、女はここに留まり、男は海岸に漁労と真珠採取のために海
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