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「地主王政と人口移動一国際比較」

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No.37 明星大学社会学研究紀要 ACarch 2017

《研究ノート》

「地主王政と人口移動一国際比較」

下 平 好 博

目次 はじめに

1.矢内原忠雄の慧眼

2.飯沼二郎の農業革命論と地主王政論 3.地主王政下での人口移動一国際比較 4.人口移動の抑制とファシズム おわりに

はじめに

 本稿は、筆者が昨年本紀要に寄稿した研究ノ

ト、「産業化理論からみた日本の近代化プロ セスの特質」の続編である。そこでの暫定的な 結論は、戦前における国内人口移動の抑制、ま た戦後における国内人口移動の爆発が、明治以 降の日本の近代化プロセスを特徴づける重要な 鍵であるというものであった(下平、2016)。

 わが国では、サイモン・クズネッッがいうと ころの近代経済成長が1880年代後半以降に始ま るが、イエ・イデオロギー、イエ制度の存在に よって家族の民主化が大幅に遅れた結果、通常 近代経済成長とともに始まるはずの農村・都市 間の人口移動が大きく抑制されることとなっ た。そして、この人口移動の抑制は、職業間で の社会移動を阻害するとともに、農村・都市間、

の所得格差を拡大して、戦前の日本社会を著し い格差社会に据え置くことにつながった。

 この状況を一変させたのは、1955年に始まる 人口移動の爆発である。戦後、新憲法の誕生と

民法の改正によってイエ制度が廃止され、農村 から都市への人口移動が解禁されると、都市工 業部門への無制限労働供給が可能となったため に、いわゆる高度経済成長時代が始まった。そ して、このような人ロボーナスを享受できる高 度経済成長は農村から都市への無制限労働供給 が途切れる1970年代前半まで続き、その間、社 会移動のチャンスは大幅に広がり、また高度経 済成長によって得られる潤沢な資金を財源に社 会保障制度が拡充されたことで、所得分配の平 等化が進んだ。したがって、戦後の高度経済成 長期における日本の社会システムは、戦前のそ れとは対照的な特徴を持っていたのであり、ま たそのような急激な変化を促した原因のひとっ が戦後の人口移動の爆発にあったことはまちが

いない。

 ところで、わが国よりもいち早く近代化を行 ったヨーロッパ諸国においても、事情は同じで あろうか?すなわち、人口移動の大きさが社会 システムの性格を特徴づける重要な鍵を握って いたのか?また、これらの国々の人口移動の規

(2)

模は日本のそれを上回っていたのだろうか?本 稿では、日本との比較において、それらの点を 明らかにしたい。さらに、人口移動が何らかの 原因で阻害された場合、そのことは政治的民主 化の停滞を招き、ひいてはファシズムの台頭に つながるのかどうかも検討したい。

1.矢内原忠雄の慧眼

 戦後間もない時期に東京大学総長を務めた矢 内原忠雄は、本稿と同じような問題意識から戦 前の日本社会をふりかえり、その問題点を次の

ように指摘している。

 「一国の資本主義化が自然の順序に従って行 われる場合は、産業革命に先立って農業革命が 行われる。農業生産関係の資本主義化に伴うて 農業人口に分解が起こり、土地より遊離した農 民は都市に集中するとともに、一方では国外移 住を計り、これによって国内人口の再分布が行 われ、農村と都市の均衡の取れた資本主義化が 成しとげられる。然るに日本の場合は資本主義 的後進国が外部の刺戟によって資本主義を植え 付けられた関係上、農業革命を待たずして産業 革命が行われ、従って農村人口の近代的分解が 容易に行われなかった。その或る者は離村して 都市の資本主義的工業に吸収され、或る者は契 約移民としてハワイ、ペルー、カリフォルニア 等に往ったが、ヨーロッパ諸国の移民が渡米し たのに比べれば、日本人の海外移民は不利な事 情の下にあって、大なる発展をとげなかった。

かくして半封建的生産関係の下に潜在的過剰人 口が農村に堆積したことが、日本の農村の近代 化をおくらせた一つの原因であったと思われ

る。」(矢内原、1964、415頁)

 ここでの重要な論点は、

①わが国が農業革命を経ずに産業革命を行った  こと、

②その結果、農村人口の近代的分解が進まず、

 農村から都市への国内人口移動が阻害された  こと、

③また、ヨーロッパ諸国のように、農村の過剰  人口を海外移民として放出する機会にも恵ま  れなかったこと、

④そして、農村がそのような潜在的な過剰人口  を抱え続けたことで、農村の近代化が遅れ、

 そのことがさらにファシズムを生み出す原因  のひとつになったことである。

 わが国の近代化プロセスにおいて農業革命が 欠落していたというのは事実であろうか?この 点については、農業経済学者の飯沼二郎が気候 風土と農業技術との関係について触れたうえ で、農業革命が地域によって異なる展開を辿る ことを示した克明な実証研究を行っている。そ こで次節では、ヨーロッパ諸国と同様に、わが 国でも産業革命に並行して独自の農業革命があ ったとする飯沼二郎の説を紹介することにした いo

 また、わが国の農村人口の近代的分解が進ま なかったという指摘はどの程度まで正しいのだ ろうか?明治維新から終戦時までわが国は、農 家戸数が550万戸、農業人口が1400万人の水準 をほぼ一定に保ってきたといわれ、そのことを もって農村人口の自然増加を越えて農村人口の 近代的分解は進まなかった、とされている。加 えて、満州事変以降に進む満蒙開拓団による組 織的な海外移民が始まるまで、海外移民の動き はヨーロッパ諸国のそれと比べるときわめて散 発的なものにとどまった。そこで第3節では、

人口の自然増加、国内人口移動、海外移民の動 きに国ごとにどのような特徴があるのかを歴史 データを使って検証することにしたい。

 最後に、人口移動が抑えられることで生じる 農村の過剰人口の存在が、政治的民主化にいか なる影響を及ぼすのかという興味深い問題があ

(3)

March 2017 「地主王政と人口移動一国際比較」

る。第4節ではこの問題を取り上げることとし、

近代経済成長の途中でファシズムへ大きく逸脱 した歴史をもつドイツと日本の両国について、

その背景にいかなる事情があったのかを解明し

たい。

2.飯沼二郎の農業革命論と地主王政論

(1)飯沼二郎の農業革命論

 和辻哲郎は名著『風土』(1935年)のなかで、

「風土」を「ある土地の気候、気象、地質、地味、

地形、景観などの総称」と定義したうえで、そ の「風土」の違いに基いて世界の各地域を「モ ンスーン」(インド、東南アジア、束アジア)「砂 漠」(中近東)「牧場」(ヨーロッパ)の3つに 分け、これらの3類型ごとにそれぞれ異なる文 化が誕生したことを明らかにしている(和辻、

1935)。しかし、和辻の風土論は、歴史性より も空間性を重視し、たとえ自然環境が一定不変 であっても、歴史的瓜土は人間の主体的な働き かけによって常に変化していくという視点を欠

59一 落していたために、その後、「風土決定論」あ るいは「風土宿命論」という烙印を押されるこ ととなった。

 このような反省に立って、和辻の「静態的な 風土論」を「動態的な風土論」として発展させ たのが、飯沼二郎の農業革命論である(飯沼、

1967、1985)。飯沼は、フランスの気象学者ド・

マントンヌの乾燥指数(1=R/(T+10) 1:

乾燥指数、R:一定期間の積算降雨量、 T:同 期間の平均気温)を手掛かりにして、その年 指数と夏指数(6−8月)を軸に、北半球の地 域を図1に示した4つの地域に分けている。

 第一地域は、年指数20以下、夏指数5以下の 極端な乾燥地域であり、灌概なくして農業を行 うことが難しい地域である。このような地域で は、夏作物の栽培が不可能なので、耕地が春か ら秋まで休閑されるその期間に、乾燥地用の型 による浅耕を繰り返すことによって地中の水分 を保持し、地中の水分をたよりに10月ごろに冬 作物(主に小麦)をまく、いわゆる「休閑保水 農業」が発展した。西南アジア、地中海南部、

ソ連南部がこれに該当する。

図1 マルトンヌの乾燥指数

(4)

 第二地域は、年指数20以上、夏指数5以下の 同じく冬雨地帯である。地中海北部がこれに当 たるが、第一地域に比べて年指数が高いため、

より安定的な「休閑保水農業」が可能となる。

 第三地域は、年指数20以下、夏指数5以上の 地域であり、パンジャブ地方、中国華北部がこ れに該当する。この地域は年指数20以下の乾燥 地域であるが、夏作物の栽培が可能である点に おいて、第一地域、第二地域と大きく異なる。

したがって、夏作物の播種直前および収穫直後 に、乾燥地用の黎による耕起が行われることに 加え、雨の多い夏作物の栽培期間中は鍬による 保水作業が繰り返される、「中耕保水農業」が 発展した。

 一方、年指数20以上、夏指数5以上の第四地 域は、湿潤な地帯である。この地域は夏作物の 栽培が可能であると同時に、雑草の繁茂に苦し められる地域である。このため、雑草の除去が 農業の成功の鍵を握っているといえよう。しか し、飯沼によれば、その除草方法には二通りの やり方があり、たとえば、夏指数が5から11の 範囲にとどまる北ヨーロッパでは、冬作物→夏 作物→休閑を三年ごとに繰り返す三圃式の休閑 期間中に湿潤地用の黎で深耕・反転することで 除草が行われてきた。これに対し、夏指数が9 から108と繁茂の程度が格段に高い東南アジ ァ・東アジアでは、夏作物の栽培期間中に鍬に よる除草が繰り返されてきた、という。飯沼は 前者の方法を「休耕除草農業」、また後者の方 法を「中耕除草農業」と名付けている(飯沼、

1985)。

 このように、乾燥指数の異なるそれぞれの風 土のなかで、①「休耕保水農業」、②「中耕保 水農業」、③「休耕除草農業」、④「中耕除草農 業」という4つのタイプの農業が発展したとみ ることができる。

 それでは、産業革命と並行して起きたとされ

る農業革命は、タイプの異なるこれらの農業の なかでそれぞれどのような経路を辿ったのであ ろうか?

 飯沼は、「農業革命」を「農作業体系(地力 維持体系)そのものの変革、したがって農村社 会そのものの変革によってもたらされる、農業 生産力の飛躍的な発展プロセス」と定義する(飯 沼、1967、156頁)。すなわち、たんに農業技術 体系の変革だけでなく、それを有効に活用でき る農村の社会構造の変革なくして農業革命は達 成できないとみる。そこで以下ではまず、農業 技術体系にいかなる変革があるとき農業革命が 起きるのかを検討し、次にそれを可能とする農 村社会構造の変革に言及することとしたい。

 ところで、この農業技術体系だけに限っても、

それは休耕農業と中耕農業とでそれぞれ異なる 独自の発展経路を辿った。農業の労働生産性は、

次式に示したように、①土地生産性と②農民一 人当たりの耕地面積の2つの成分に分解できる。

(AP/LF)=(AP/L)×(L/LF)

農業の労働生産性   土地生産性 農民1人当たりの耕地面積

(AP:農業生産量 L:耕地面積 LF:

農業労働人口)

 飯沼によれば、文字通り土地を休耕させるこ とで地力を回復できる「休耕農業」が、土地生 産性の改善よりもむしろ、農民1人当たりの耕 地面積を増やすことで生産力を高めてきたのに 対し、土地を休耕させると雑草が繁茂しかえっ て地力が低下してしまう「中耕農業」では逆に、

経営規模を拡大するのではなく、できるだけ多 くの労働力を農業に投入して土地生産性を高め る方法が採られてきたという。飯沼は、前者の やり方を「労働粗放化」、また後者のやり方を「労 働集約化」と名付けている。そして、農業革命

もまた、この異なる発展経路の延長線上にそれ

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A4arch 2017 「地主王政と人口移動一国際比較」

それ展開したとみる。

 まず、「休耕除草農業」が支配する北ヨーロ ッパでは、農業革命とは改良三圃式農法から輪 栽式農法への転換を意味した。この変化は、イ ギリスでは18世紀末から19世紀中ごろにかけ て、またドイツ、フランスでは19世紀初めから 19世紀末にかけて起きたとされている。

 中世ヨーロッパで広く普及した、春まき穀 物・秋まき穀物・休閑地を組み合わせた三圃式 農業はわれわれにもなじみがあるが、ここでい う改良三圃式農法とは、従来の休閑地に家畜を 放牧するのをやめて人為的に牧草を栽培するこ とで始まった農業である。三圃式から改良三圃 式への変化は、イギリスでは17世紀から18世紀 中ごろにかけて、またドイツ、フランスでは18 世紀中ごろから19世紀にかけて起きている。そ のメリットは、冬の家畜飼料が乏しかった時代 に、家畜の多くを秋の終わりに屠殺しなければ ならず、そうすることで翌春堆肥が得られなく なるという中世農業の悪循環を断ち切ることに あった。

 さらに、農業革命を引き起こした改良三圃式 から輪栽式への転換は、春まき穀物と秋まき穀 物との間に根菜類の栽培を取り入れる形で進ん だ。すなわち、春まき穀物(オオムギ)、根菜 類(カブ)、秋まき穀物(コムギ)、牧草類(ク ローバー)という四圃式がそれによって可能に なったのである。根菜類は地力を維持し、また 牧草類も地力を増進することから、地力の消耗 がこれによって防止されるとともに、耕地に多 量の家畜飼料を作ることができるようになった ことで、家畜を放牧するのではなく、一年中舎 育することができるようになった。

 このことは、飼育頭数の拡大ならびにjfll肥生 産の拡大を意味し、ヨーロッパ農業の生産力を 飛躍的に拡大することにつながった。そして、

これこそがヨーロッパにおける農業革命にほか

61一 ならなかった。

 一方、飯沼は、「中耕除草農業」という特徴 を持つ日本農業においても明治期に農業革命が あったとしている。農業生産力が「家畜の糞尿」

に依存し、家畜飼料の入手方法の改善を通じて、

三圃式、改良三圃式、輪栽式農業へと発展した ヨーロッパの休耕農業とは対照的に、農業生産 力が除草のための耕起技術により多く依存する

日本の中耕農業では、いかなる農機具を使って 耕起するかによって肥効が大きく左右されるこ

とになる。

 飯沼によれば、日本農業の耕起技術は、「木 鍬の時代」(紀元前四世紀一10世紀)、「長床黎 の時代」(10世紀一16世紀)、「金鍬の時代」(16 世紀一19世紀)と発展してきたが、明治20年代 から30年代に西日本から東日本に広がった「無 床黎、短床黎」による牛馬耕の普及、いわゆる

「福岡農法」の普及こそが日本に農業革命を引 き起こしたと述べている。

 明治期の殖産興業政策によって工業化が始ま ると、農産物、とりわけ米への需要が急増して、

水田における深耕多肥の農業技術が必要とな り、乾田において牛馬を使って黎による深耕を 行っていた「福岡農法」が全国的に注目される ようになった。

 ただし、この「福岡農法」の全国的な普及は、

経営規模の拡大という形をとらず、むしろ日本 農業の労働集約度をいっそう高める方向に進ん だ。すなわち、乾田における牛馬耕と並んで、

二毛作、アゼ豆、間作、混作が普及していった のである。

(2)飯沼二郎の地主王政論

 ところで、農業革命は新しい農業技術の導入 だけでなく、農村社会構造の変革があってはじ めて実現されるものである。たとえば飯沼は、

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イギリスの農業革命を「①産業革命による農産 物需要の急増に対応するために、②当時、ノー フォーク地方に行われていた新農法(ノーフォ

ク農法)が、③囲い込み法によって創り出さ れた囲い込み地のなかに普及していく過程」と 定義している(飯沼、1985、578頁)。また同じ く、日本の農業革命を「①産業革命による農産 物需要の急増に対応するために、②当時、福岡 地方に行われていた新農法(福岡農法)が、③ 耕地整理法により創り出された乾田のなかに普 及することによって、農業生産力が急速に高ま った過程」と定義する(飯沼、1985、579頁)。

 ここでの重要なポイントは、それぞれの国の 農村社会構造を大きく変えた市民革命以降の土

地制度改革と、産業革命が農業革命に与えた影 響である。飯沼はこの点を捉えるために、「地 主王政」という新しい歴史概念を提示する(飯

7召、 1964)。

 一般にわれわれは、市民革命とともに封建制 度が終わり、いきなりブルジョァジーの時代を 迎えたと考えがちだが、封建制は土地に基礎を おく体制であったがゆえに、市民革命の主要な 課題のひとつは土地制度改革にあり、それは市 民革命によって私的所有権を手に入れた地主層 の利益に沿って解決されることとなった。した がって、封建制から資本制への移行期には必ず 過渡期があり、その過渡期は、地主制の成立と ともにはじまり、地主支配体制の崩壊とともに 表1

イギリス フランス ドイツ 日本

1638清教徒革命 1660王政復古

    ↓

産業革命      絶対王政下での

(1760−1830)       イギリス農法の導入(1760−)

   ↓       1789−99

ノーフォーク農法の普及  フランス革命  絶対王政下での

(18世紀末一)=農業革命  ↓     産業輩命の胎動(1780−)

  ↓      産業革命 1832議会改革      (178g−1860)

    i

小農の本格的廉村の開始

地主王政

(1638−1832)

194年

1870普.仏戦争の敗北

(第2のブルジョア革命)

        Vt      1918ドイツ11月革命

(ブルジョア革命)

     ↓

 産.業革命  (1888−1920)

       1

(ワイマール体制の成立)稿岡農法の普及

(第2のブルジョア革命)  (1888−)

        =頗業革命

       ↓

        1945敗戦

     (第2のブルジョア革命)

       ↓       小殿の木格的離村の[}f]9fi

地主王政     地主王政

(1789−1870)     (1848−1918)

81年 70年

地主王政

(1868−1945)

77年

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ECarch 2017 「地主王政と人口移動一国際比較」

終わる。そして、市民革命以前のこの過渡期を 飯沼は「絶対王政」と名付け、また市民革命以 後の過渡期を「地主王政」と名付けた(飯沼、

1964)。

 表1は、イギリス、フランス、ドイツ、日本 の4力国について、市民革命以後の地主王政の 期間がどの程度の長さであったのかをそれぞれ 比較したものである。イギリスの場合、1638年 の清教徒革命から地主層の政治への影響力が低 下する1832年の議会改革に至るまで、地主王政 は実に194年間にも及んだ。またフランスでも、

1789年のフランス革命から1870年の普仏戦争敗 北に至るまで地主王政は81年間続いている。

 一方、ドイツは1848年の三月革命から第一次 世界大戦の敗戦によって生じた1918年の十一月 革命まで、その期間は70年ときわめて短い。ま

63一 たわが国も、1868年の明治維新を市民革命とし て捉えれば、1945年の敗戦まで地主王政の期間 は77年と比較的に短いことがわかる(注1)。

 また図2は、上記の4力国について国税収入 に占める土地税(地租)のシェアの推移をみた ものである。これをみると、市民革命直後に土 地税(地租)のシェアが高く、地主階級が近代 部門で働くブルジョア階級や労働者階級よりも 国税に大きく貢献している様子がうかがえる。

したがって、市民革命後しばらくの間、地主階 級は近代部門で働くブルジョア階級や労働者階 級よりも国政に対して大きな発言権をもってい たといえよう(注2)。

 ところで、地主王政期間の違いは、これらの 国々の市民革命後の土地制度改革にいかなる影 響を及ぼしたのだろうか?ここでは、イギリス

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 1878  1888  1898  1908  1918  1928  1935  1945  1955  1965  1975  1984    1883  1893  1903  1913  1923  1930  1940  1950  1960  1970  1980 資料出所:日本については『国税庁統計年報君第100回記念号』表1−2より     ヨーロッパ各国については、ペーター・フローラ編

    竹岡敬温監訳(1985)『ヨーロッパ歴史統計一国家・経済・社会1815−1975上巻』

    (原書房)第7章 政府収入、中央政府の税収より        図2一① 国税構成比の推移(日本)

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と日本についてその影響を簡単にみておきたい。

 イギリスの場合、18世紀に起きた第二次囲い 込み運動が中世的な三圃式農業の下で不可欠な 存在であった共有地の破壊をもたらし、団体主 義的な農村のあり方を一変させ、大農や借地農 中心の資本主義的な農場経営を生み出したとさ れている。また、18世紀に州ごとに成立した一 連の囲い込み法(1727−1760年)は、イギリス に農業革命を惹き起こすノーフォーク農法をイ ギリス全土に普及させるうえでの重要な触媒に なったといわれている。

 だが、18世紀の第二次囲い込み運動が直ちに 小農業者を駆逐したかといえば、けっしてそう ではない。イギリス農業が機械化される1830年 代まではむしろ、囲い込みに伴うノーフォーク 農法の普及はかえって農業の労働集約化を招 き、農村の雇用機会を拡大することにつながっ

た。

 しかしながら、イギリスにおいて地主王政が

崩れる1830年代以降、都市において工場制的生 産方式が確立され、これによって農村家内工業 が徹底的に破壊されると、またイギリス全土に 鉄道網が整備されると、大量の農民離村現象が 現出するようになった。

 また、これらの動きと併せ、産業革命による 工作機械技術の発展によって条播機を使ったカ ブ栽培が広く普及するようになると、再び農村 労働の粗放化が進み、土地生産性よりもむしろ 経営規模の拡大を求める動きが顕著になったと いわれている。

 一方、日本についてはどうであろうか?明治 維新直後の地租改正(1873年)によって、土地 の私的所有権がみとめられたことで、近代的な 地主制度が確立される。そして、地租はこれま での物納から金納に変わったため、米価が騰貴 し、基準地価が据え置かれる限りにおいて、物 価上昇は地租の実質的な引き下げにつながり、

地主層の取り分を徐々に増やしていった。

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 また、1882年に始まった松方デフレ政策によ って農村の生活困窮化が一気に進むと、中小地 主や自作農が没落し、その結果小作層が激増し たため、ここに巨大地主制が誕生することとな った。実は、上述の福岡農法が西日本から東日 本へ普及した時期も、巨大地主制が出現したこ の時期とほぼ重なっていた。そして、無床黎・

短小黎による牛馬耕を特徴とする福岡農法の導 入は、水田の乾田化と整形化が大前提であった ために、これらの巨大地主階級の強い政治的な 影響力のもとで耕地整理法(1899年)が成立す ることとなる。

 ただし、わが国における農業革命の進行はた だちにイギリスのような大量離村現象を生み出

したわけではない。日本の農業革命は、上述し たように、経営規模の一方的な拡大という形を

とらず、二毛作、アゼ豆、間作、混作といった 労働集約化の方向にも進んだため、ともすれば 農村は過剰労働力を抱え込む危険性を孕んでい たのである。

3.地主王政下での人口移動一国際比較  次に、飯沼の地主王政論を参考にしながら、

地主王政期の人口移動について国際比較を試み

たい。

(1)海外移民の規模をいかに測定するか?

 飯沼は、地主王政下では人口移動が大きく抑 制されるとしている。その理由は、ブルジョア ジーによる産業資本が拾頭するまで、農村家内

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187218821892190219121922193219421952196219721982199220022012

資料出所:日本については、内閣統計局『帝国統計年鑑』(1873−1890年)、および厚生労働省     統計情報部r人口動態統計」(1900年以降)、総務省統計局『国勢調査』より     ヨーロッパ各国については、ペーター・フローラ編

    竹岡敬温監訳(1987)『ヨーロッパ歴史統計一国家・経済・社会1815−1975下巻』

    (原書房)第1章 人口増加より

         図3一① 日本の人口動態

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180318131823183318431853186318731883189319031913192319331943195319631973         図3一③ ドイツの人口動態

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自然増加率

社会増加率

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「地主王政と人口移動一国際比較」 69一

180318131823183318431853186318731883189319031913192319331943195319631973        図3一⑥ アイルランドの人口動態

(ofo。)

  30.00

20.00

10.00

.00

1000

20.00

180318131823183318431853186318731883189319031913192319331943195319631973         図3一⑦オランダの人口動態

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工業が存続するからであり、また、地主階級は 農村に余剰の労働力を抱え込むことで、農場経 営において低賃金労働を利用できることにあ

る。したがって、地主王政の崩壊によって地主 特権が廃止され、また農村家内工業が崩壊しな いと、小農の本格的な離村は起きないとする。

 イギリスの場合、上述したように、小農の本 格的な離村は地主王政が崩壊した1830年代以降 に起きた。もしこれと同じことがフランス、ド イッ、日本でも起きたとすれば、フランスでは 1870年代以降に、またドイツでは1920年代以降 に、そして日本では1945年以降にそれぞれ大量 の農民離村現象が起きたはずである。

 この仮説が正しいかどうかを検証するために ここではまず、主要国の人口増加率、自然増加 率、社会増加率をそれぞれ調べることからはじ めたい。なお、人口増加率=自然増加率+社会 増加率である。また、自然増加率は人口1000人 当たりの粗出生率から粗死亡率を控除すること で求めることができる。したがって、粗出生率 と粗死亡率のデータがあり、人口増加率のデー タが手に入れることができれば、自然増加率と 社会増加率を自動的に求めることができる。

 図3は、このようにして計算した主要国の自 然増加率と社会増加率の推移をみたものであ る。国レベルでみた場合、産業革命によって工 業化に着手した国では、多産多死社会から多産 少死社会への転換によって「人口爆発」に直面 するのが普通であり、自然増加率は必ずプラス

となる。また、国レベルでみた社会増加率は、

そうした人口増加圧力を解消するために国際人 口移動が出超となっているのが一般的であり、

したがって社会増加率はマイナスとなることが 予想される。

 図3に示したトレンドは大方この予想に従っ ている。しかし、つぶさにみると、国による違

いもプ(きい。

 ひとつのパターンは、自然増加率が高いにも かかわらず、海外移民による人口の社会減がそ れほど大きくはないケースである。イギリス、

ドイツ、日本がこれに該当するが、これらの国々 では人口の増加圧力を海外移民だけでなく、国 内の人口移動によって解消したことが考えられ る。とくに日本の場合、海外移民の発生は昭和 初期まできわめて散発的にすぎず、1931年の満 州事変以降、満蒙開拓団という形で組織的な海 外移民が行われるまで、人口増加圧力を海外に 逃す選択肢はほとんどなかったとみることがで

きよう。

 ふたつめは、自然増加率がきわめて低く、し たがって海外移民を発生させる余地がなかった 国である。フランスがこれに当たるが、フラン スでは他の西ヨーロッパ諸国に比べて人口転換 が1世紀早く始まったといわれ、19世紀にはす でに人口の自然増加圧力から解放されていた。

したがって、海外移民を生み出す必然性は低く、

また、工業化に伴って発生する農村から都市へ の国内人口移動も、しばしば農村人口それ自体 の減少を伴うケースがあったといわれている。

 みっつめは、自然増加率は大きいが、海外移 民による人口の社会減少がそれを上回る規模で 起きた国である。アイルランドならびにスウェ

デンがこれに該当する。これらの国はいずれ もヨーロッパの後発工業国であり、19世紀にし ばしばヨーロッパを襲った深刻な農業恐慌が海 外移民を数多く発生させたと考えられる。

(2)国内人口移動の規模をいかに測定するか?

 次に、国内人口移動に話を進めたい。しかし、

これを正確に計測することはきわめて難しい。

というのも、一口に国内人口移動といっても、

近隣の市町村間の短距離移動と、県をまたがる 遠距離移動との2つがあり、これらを明確に区

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ACarch 2017 「地主王政と人口移動一国際比較」

別することが難しいからである。一般に、産業 革命以降の国内人口移動は、まず境界を接する 市町村間の近距離移動として始まり、地主王政 が崩れ農村家内工業が崩壊するとともに、鉄道 網が整備されてはじめて本格的な遠距離移動が 始まったといわれている。したがって、各国に ついてこの転換点がいつであったのかを見極め ることが重要である。

 なお、国内人口移動の規模を正確に計測でき ないにせよ、それを間接的に把握するいくつか の方法がある。ひとつの方法は、国内人口移動 を「農民層の分解過程」として捉え、人口規模 の小さな町村で生活する人々の割合がいかに変 化したのかを探る方法である。もう一つの方法 は逆に、国内人口移動を「都市の成長プロセス」

71一 として捉え、人口規模の大きな都市に生活する 国民の割合がどのように変化していったのかを みる方法である。

 図4と図5は、日本とヨーロッパの主要国に ついて両比率の推移をそれぞれみたものであ る。ここから明らかなことは、日本の農村解体 スピード、また都市成長スピードがヨーロッパ 主要国と比べて急であることである。ただし、

日本の場合、明治、昭和、平成と過去三度行わ れた市町村大合併の影響がそこに色濃く反映さ れているのかもしれない(注3)。

 ところで、ヨーロッパにおいて産業化が始ま った19世紀は、国勢調査の始まった世紀でもあ る。したがって、いくつかの国についてはそれ らのデータを利用して、国内人口移動の概要を

(%)

100.00

80.00

60.00

40.00

20.00

.00

の町村に

     180018201940185518a5187518851S9519051915192519351945195519651975198519952005

資料出所:日本にっいては、総務省統計局f国勢調査』より     ヨーロッパ各国については、ペーター・フローラ編

    竹岡敬温監訳(1987)rヨーロッパ歴史統計一国家・経済・社会1815−1975下巻』

    (原書房)第3章 都市と都市化より

      図4 農村解体スピード

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(%)

100.00

80.00

60.00 

   

4。.。。

   

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都市に

     18⊂X)182018401855186518751885189519051915192519351945195519651975198519952005 資料出所:日本については、総務省統計局『国勢調査』より

    ヨーロッパ各国については、ペーター・フローラ編

    竹岡敬温監訳(1987)『ヨーロッパ歴史統計一国家・経済・社会1815−1975下巻』

    (原書房)第3章 都市と都市化より

      図5 都市成長スピード

知ることができる。ここでは、イギリス、フラ ンス、ドイツ、日本の4力国について、国勢調 査などから知りうる国内人口移動の概要をみて おきたい。

(3)イギリスの国内人口移動

 イギリスで国勢調査が始まったのは1801年か らであるが、国勢調査から地域別の人口社会増 加率を推計するためには、地域ごとの粗出生率

と粗死亡率をそれぞれ手に入れる必要がある。

国勢調査が実施されるまでは、それらに関する データはもっぱら教区への出生・死亡届から推 計していたが、イギリスでは1837年に住民登録 法が制定され、これ以後、より正確な出生・死

亡統計が手に入るようになった。したがって、

国勢調査を使って地域ごとの人口成長率を割り 出し、そこから地域ごとの自然成長率を控除し て人口の社会増減率を求めることは1841年の国 勢調査から可能になったといえる。

 この方法で国内人口移動を調べたもっとも精 巧な研究は、Friedlander=Roshier(1966)で ある。彼らは、10年ごとに行われたイギリスの 国勢調査データを使って、1851年から1951年ま での100年間における県ごとの国内人口移動の パターンを次の5つに分類している。

 第一のパターンは、19世紀の後半に国内人口 移動によって人口を失った後、20世紀に入って から逆に国内人口移動によって人口を増やした 県である。これには、図6に示したように、北

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March 2017    「地主王政と人口移動一国際比較」

図6 国内人口移動のパターン1851−1951

④ 

73一

LgNDON AND

   NORrH    IVOR7H rVESア    %LεS        EAST    SOU7fi EASア

  1 HORTHVMBEfiLAHD   7 LANCASH腕E         I5 ANGLESEV      33 CAMBRIDGE      45 MIDDLESEX   2 CVMもERLAND       8 CHESHIRE      I6 DENBIG}{       54 NORFOLK       46 しONDOH    3 DURHAM       l7 Sl」N了      55 HSJNTMGOOH       47 SURR臼    4 WESTMORLAND       ;B CAERNARVON      36 SUFFOしK       4B KENT   5NOR丁H R⑩|ト}c[YORK]       19 MERIO}{Eτ}{      37 BEDFOR【}       49 SVSSEX

       20MONTGOMERV      38 HERTFORD        之t CARDIGAN      39 ESSEX

NORTH MI◎LAMb  MIDしANB   監V恩鵠鞭        SOVTH  S◎UTH WES 

灘翫1灘駆㌶ジ緒s灘≧−1騨lT

 i4 nORTHAMPTOHsvaRE       R/P〃VGS[6]

      55 CORHWAしし        資料出所:Friedlander=Roshier(1966).p.262より

(18)

ミットランド、南部、南西部のほとんどすべて の県が該当する。そして、19世紀後半にこれら の県からの人口流出先はそのほとんどがロンド ンであった。

 第二のパターンは、19世紀後半に国内人口移 動によって人口を獲得する一方、20世紀を境に 国内人口移動によって人口を失ったケースであ る。これに該当するのは、産業革命によって19 世紀に工業都市として栄えたイングランド北西 部のランカシャー、そして炭鉱で栄えたイング ランド北部のヨークシャー、ウェールズ南部の グラモーガンといった諸県である。またロンド ン県もこれに含まれる。ロンドンは1881当時ま でイングランド東部、南部の諸県から人を集め たが、それ以後は郊外化が進む中でその周辺部 であるサセックス、バークシャー、バッキンガ ムシャー、ハートフォードシャーに人口を奪わ れることとなった。

 第三のパターンは、1851年以来一貫して国内 人口移動によって人口を失った県である。これ にはウェールズ中央部・西部の諸県、ミットラ ンドのスタッフフオードシャー、イングランド 北部のカムバーランドが該当する。

 第四のパターンは逆に、1851年以来一貫して 国内人口移動によって人口を伸ばしてきた県で ある。このグループにはイングランド南東部の すべての諸県ならびにミドルセックス、サーリ

、エセックス、ハンプシャーが含まれる。

 最後に国内人口移動に明確なパターンがみと められない県がある。ウェールズのいくつかの 県、ピアフォードシャー、ワーセスターシャー、

ワーウイックシャー、ダーバイシャー、チェシ ヤー、ノースアンバーランドがこれに該当する。

 ところで、イギリスにおける国内人口移動

(1851−1951年)の規模はどの程度であったの だろうか?またそれは、地主王政時代(1638−

1832年)の国内人口移動と比べて、低下したの

か、あるいは上昇したのであろうか?

 地主王政時代の国内人口移動については、

Deane=Cole(1962)が教区への出生・死亡届 等を利用した各種の人口推計を使いながら地域 別の人口移動を調べている。彼らが調べたのは、

表2に示したように、1701年から1830年までの 地域別人口の自然増加率と社会増減率である。

これをみると、1780年までロンドンを除くイン グランド・ウェールズのあらゆる地域から人口 流出が起きる一方で、ロンドンそれ自体は自然 増加率がマイナスとなっていたことがわかる。

すなわち、公衆衛生状態がきわめて悪かった当 時のロンドンは文字通り「人口の蟻地獄」とな っていたことをこれらの数字は裏付けている。

 他方、1780年以降になると、産業革命の進行 とともに、イングランド北西部の工業都市への 人口移動がはじまり、ランカシャーをはじめと する北西部を中心に人口の社会増が顕著とな る。また、これまで他県からの人口をもっぱら 吸収することで人口を伸ばしていたロンドン が、公衆衛生の改善に伴い、みずからも人口の

自然増を経験するようになった。

 なお、表2に掲げた数字は、自然増加率・社 会増加率ともに年率に換算された数字である。

これをみると、イングランド・ウェールズ全体 で人口の自然増加率がもっとも高まった時期は 1801−30年であり(年率1.43%増)、また人口 の社会増減率がもっとも高まった時期は1781−

1800年であったことがわかる(年率±0.28%)。

 以上の結果を、1851年から1951年までの人口 移動を調べた先ほどのFriedlander・ Roshier

(1966)の研究結果と比較するとどうなるだろ うか?彼らは10年単位でみた県間移動率を計算 しているが、表3に示したように、それは最高 時の1871−81年で8.6%を記録している。この 数字を幾何平均して年率0.83%とすると、飯沼 二郎が指摘するように、イギリスの国内人口移

参照

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