71
,
近 世 北 関 東 農 村 にお け る隷 属 農 民 の 存 在 形 態 と そ の 自立 過 程
常 陸 国 真壁 町 周 辺 の事 例
長 谷 川 伸 三
1問 題の所在
ll隷 属農民の存在形態 一 下谷貝村の場合一
皿 隷属農民の存在状況 一 塙世村 と本木村の場合一 IV隷 属農民の 自立闘争 一一塙世村分郷の場合一 Vむ すびにかえて
1問 題 の 所 在
近 世 幕 藩 体 制社 会 は,基 本 的 に は 幕 藩 領 主権 力が 封 建 的 土 地所 有 の も とで の 自立 を達成 した小 農 民 経 営 を基 盤 に,彼 らを村 落共 同 体 単 位 に支 配 ・掌 握 して成 立 して い る と理 解 す る こ とが で き る。 た しか に か か る封建 小 農 の多 く は,本 百姓 と して一 定 の 田畑 ・屋 敷 の所 持 を認 め られ,年 貢納 入 の義 務 を 負 うと と もに,村 落 共 同体 の基 本 的 な構 成 員 と しての一 定 の発 言権 を獲 得 して いた。
しか し,こ の よ うな 体 制 が幕 藩 体 制社 会 の 発 足 と同時 に成 立 した わ け で は な く,ま たす べ ての 農 民 が 小 農 自立 を達 成 し,本 百 姓 身 分 を獲 得 した の で も なか った。 実 際 の村 落 共 同 体 に は,こ とに 近 世前 半 期 や 後 進 的 な地 域 に お い ては,零 細 な 石 高所 持 しか 実 現 しえず,一 人 前 の百 姓 に 扱 わ れ なか った水
ふ だ い
呑 ・無 高百 姓 や,有 力 農 民 へ の 隷 属関 係 か ら 脱 しえな い ま まの 譜 代 ・屋 敷
ま えじ けほ 弓 か ど
者 ・前 地 ・家 抱 ・門 の 者 な ど と よば れ る隷 属 農民 の存 在 が み られ た。
こ こで は後 者 の隷 属 農民 の存 在 に 焦 点 を あ て て,か か る農 民 が近 世 前 半 期
に い か な る存 在 形 態 を な し,ま た近 世 後 半 期 に か け て,い か な る経 過 を た ど って 自立 を達 成 しよ う と した か を 明 らか に し,隷 属 農民 の存 在 を も視 野 に い れ た 上 で,幕 藩 体制社 会 の性 格,な かで もそ の基 盤 を なす 近 世 村 落 共 同 体 の 性 格 に接 近 してみ た い。
北 関東 農村 に おけ る隷 属 農民 の分 析 に 関 して は,さ しあ た り次 の二 つ の論 文 に 注 目 した い。 そ れ は 深 谷 克 己 「野州 農 村 に お け る下層 隷 属 農民 一r前 地 』 の存 在 形 態 一 」(r栃 木県 史研 究 』1号)と 秋 本典 夫 「従 属 農民 の解 放
を め ぐる近 世 封 建 権 力 と村 落共 同体 一 承 応 〜 元禄 期 に おけ る北 関 東 下 野 の 場 合 一 」(『宇 都 宮 大 学 教養 部 研 究 報 告 』4号1部)で あ る。 前者 は幕 藩 体 制 下 に お け る農 民 諸 階 層 の隷 属 の多 様 性 と諸 形 態 を,野 州 農 村 に 広 範 に 見 ら れ る 「前 地 」 農 民 の性 格 を 分析 す る こ とに よって,具 体的 に 明 らか に しよ う と して い る。 まず 「前 地 」 の 多様 な存 在 形 態 の 分析 か ら,彼 等 が 幕藩 体制 の 確 立 期 に形 成 され,再 生 産 され る こ とを 明 らか にす る と と もに,彼 等 の 自立 と解放 の基 本 的 な方 向が 百姓 化 で あ る と し,そ の具 体的 な条 件 を 解 明 して い る。 近 世 の隷 属 農 民 を 中 世 の遺 制 と して把 握 しよ うとす る方 法 を 克 服 して い る点 を積 極 的 に 評 価 した い。
後者 は近 世 村 落 共 同 体 の構 成 員 た りえ な い 農民 と して,身 分 階層 の 固定 化 に よ る従 属 農 民 と,社 会 的 ・経 済 的 な支配 ・隷 属関 係 に よる隷 属 農民 の存 在 と両者 の性 格 の違 い を 明 らか に して い る。 こ とに 野 州農 村 で は,承 応 〜 寛 文 期 検地 が か か る隷 属 農民 を 「前 地 」 と して 固 定 化 した こ と,そ れ 以 後元 禄 期 前 後 にか け て,従 属 農 民 の 「直 百 姓 」 化,お よび隷 属 農 民 の地 位 向上 の 闘争 が,領 主 権 力 と村 落共 同 体 の 固 い枠 に 衝 突 しな が ら展 開 され た こ とを 明 らか に して い る。 従 属 ・隷 属 農民 の性 格 を,村 落共 同体 や 封 建 権 力 との かか わ り のな かで 把 握 してい る点 は示 唆 的 で あ る。
本稿 は前 述 の隷 属 農民 の実 態 を,常 陸 国 真壁 郡 の うち,真 壁 町(町 屋 村)
周 辺 の数 か 村(現 在 の 真壁 町 お よび 大和 村,近 世 で は 笠 間 藩 領 お よび 旗 本
領)に 事 例 を も とめ て検 討 した もので あ る。 史 料的 制 約 と筆 者 の 能 力 の限 界
に よ り,か か る隷 属 農民 の成 立過 程 を明 らか に しえず,た だ そ の存 在 形 態 と
近世北関東農村におけ る隷属農民の存在形態 とその自立過程
73自立過 程 の一 端 を示 しえ た にす ぎない 。 な お 関係 史科 の一 部 は,『 茨 城 県 史 料 ・近 世社 会 経 済 編1』(1971年 刊)に 収 録 され て お り,長 倉保 氏他 に よる 解 説 に は教 え られ る点 が 多 い ので,ぜ ひ 参 照 され た い。
笠 間 藩 領 に おけ る隷 属 農民 の性 格 に 関 して は,18世 紀 半 ば に 同藩士 高 橋 左 助 義方 が書 い た 『地 方要 集一 地 方 名 目一 』 とい う地 方 書 に 当代 の解 説 が
(1)
見 られ る の で,関 連 す る箇 条 を 引 用 して み よ う。
カ ホ ウ
「一 家 抱 先 祖 よ り持 高 の 内 を家 来 に分 け譲 り,検 地 の節 水 帳 に 肩 書 に何 右 衛 門誰 と記 し置 候 て,年 貢 は 主 人 方 え請 け,主 人 よ り上 納 仕 候 を 家抱 と申候 。 笠 間 に 而 は 門 の前 と申候。 壱 騎 の百 姓 よ り少 し賎 申候 。 家 抱 と は少 替 り候 所 に御 座候 。
一一 壱 騎 前 村 毎 に相 違 は 御 座候 得 共 ,先 持 高 四 石 以上 を壱 騎 役 と申候 。 村 方 に而 夫伝 馬 に前 銭等 割 合 も壱騎 よ り割 仕 候。 其 外水 呑 百 姓 等 は 銭役
等 と申候 て相 勤 申候 。 」
まず 隷 属 農 民 の 例 と して 「家 抱」 を あ げ,先 祖 の農民 が家 来 に 分 地 し,検 地 帳上 に分 付 け記 載 され,主 人 を通 して年 貢 を納 入 す る農民 と規 定 し,笠 間 藩 領 で は 「門 の 前」 と称 し,「 壱 騎前 」 の 百姓 に 対 す る もの で あ る と指 摘 し
か ど
て い る。 こ こで は 「門 百姓 」 に通 じる名 称 が だ され て お り,ま た 領 主 権 力 の 農民 支 配 との関 係 もあ る程 度 示 され て い るが,主 人 と家抱 ・門 の前 との隷 属 関 係 の 内 容 な どは,小 作 関係 が予 想 され る他 は あ ま り明確 で は な い。
皿 隷属 農 民 の存 在 形 態 下 谷 貝村 の 場 合
や とだ
下谷 貝村 は,真 壁 の西 方約4キ ロの雑 木林 の低 台 地 と畑 と浅 い谷 田が 起 伏 す る平場 の村 で あ る。 村高 は1302石 余で,う ち 田方645石,畑 方626石 と や や畑 が ちで あ り,支 配 は数 給 の旗 本 領 に わ かれ て いた。
この村 の500石 分 の 名 主 を勤 め て い た市 村 五 郎右 衛 門 家 は,現 在 で も真 壁
●
(1)大 和村勝 田貞 家文 書.
と下館 を結 ぶ 県 道 に 面 して,樹 木 に お おわ れ た 広 大 な屋 敷構 え を 見 せ て い る。 この屋 敷構 え の なか に は,主 人 の 家屋 の 他 に,明 治 初 年 まで は か な りの 屋 敷 者 と よば れ る隷 属 農民 の住 居 が あ った とい われ,現 在 で も住居 跡 や古 井 戸 が残 っ て い る。 また延 宝 期 以 来 の 人 別 帳 ・宗 門人 別 帳 が伝 え られ て お り,
そ の 内容 か ら 多 数 の隷 属農 民 を 含 ん だ 村 落 構 成 を 明 らか に す る こ とが で き る。
〔 第1表 〕 延宝4年(1676)下 谷貝村の階層別家族構成
〔 持高40石 以上 下人保有2戸 〕
名 前 持高 瞬 隊 族 男 女 劃 下人 男 女 剣 馬 家族
名主 五郎右ヱ門 名主清右ヱ門
小 計 平 均
石.合 86.577 71.250
157.827 78.914
1=﹂84
126 63
532 523
7631378 4020173
1055 52;52.5
116515411
15825.5275.5
〇一5
1041
1015 57.5
〔持 高20〜40石 下 人 保 有6戸 〕
市郎右ヱ門 善 兵 衛 名主五右 ヱ門 次 左 ヱ 門 長 右 ヱ 門 清 左 ヱ 門
小 計 平 均
30.580 29.895 28.332 26.008 23.224 20.000
158.039 26.340
522062内∠‑う611
87 14。5
6ζ﹂67・4・弓﹀ 324・4,22U
3りδ弓∠2﹂∩∠う白
331518 5.52.53
3
146113
8ウδワ﹂214.
9ワ・!032ラ・
5425263 94.24.30,5
744.332
221﹂111 366へ∠.3
8うδ
〔持 高15〜20石 下 人 保 有7戸 〕
長 左 ヱ 門 次郎右 ヱ門 徳 右 ヱ 門 藤 兵 衛 太郎右 ヱ門 仁 左 ヱ 門 喜 左 ヱ 門
小 計 平 均
19.460 18.939 18.694 17.939 17.778 15.137 15.000
122.947 17.564
10821671121
75 10.7
ワ・8/0くσQ!4・6 4丁凸∠∩﹂10ピ∂2ワδ 3630/423
552530 7.93.64.3
4,凸∠2月1ら∠21 31120!0
111ζゾ舟∠11 2325322
1112111
20128 2.91.71.1
819 1.12.7
近世 北関東農村 におけ る隷属農民 の存 在形態 とそ の 自立過程
〔 持 高15〜20石 下 人な し1戸 〕
75
仁 右 ヱ 門116・98・14i422 121
〔持 高10〜15石 下 人 保 有13戸 〕 以 下 略 記
小 計 平 均
164.149 12.858
106 8.2
7233372 5.52.52.80.2
3416171 2.61.21.30.1
1327 12.1
〔持 高10〜15石 下 人 な し18戸 〕 小 計1216.648
平 均12.036
108 6
10850535 62.82.90.3
1635 0.91.9
〔持 高5〜10石 下 人 保 有8戸 〕
小 計 平 均
64.462 8.058
17
5.9
3317151 4.12.11.90.1
1477 1.80.90.9
10門∠1
Ωりー
〔持 高5〜10石 下 人 な し42戸 〕
小 計 平 均
311.665 7.421
174 4.1
17488779 4.42.11.80.2
2567 0.61,6
〔持 高0〜5石 下 人 保 有1戸 〕
勘 ヱ 門i4・12116i53・
1101Zl
〔持 高0〜5石 下 人 な し14戸 〕
小 計 平 均
57.763 4.126
03fO.4
6030273 4.32.11。90.2
519 0。41.4
合 計(112戸) 平 均
1274.601 11.380
793 7.1
55426826620 4.92.42。40.2
23911211215 2.1110.1
95225 0.82
(史料)真 壁町市村浩 家文 書,延 宝4年 「真壁下谷 貝村 人別反 別家数 馬数帳」
第1表 は,延 宝4年(1676)の 「人 別 反 別 家 数 馬数 帳」 を 整理 した もので あ る。r茨 城 県 史料 ・近 世 社 会 経 済編1』 に は,同 年 の 「下谷 貝 村 人 別 帳 」 が 紹 介 され て い るが(P.92),後 者 は 朝 比奈 六 右 衛 門知 行500石 分 の人 馴 帳 で あ る のに対 し,前 者 は 山 田清 太 夫 知 行802石 分 を 含 む 全 村 にわ た っ て お り,か つ 田畑面 積 や家 数 の記 載 もあ るの で,こ こで は前 者 を 分析 す る こ とに した 。
第1表 は,各 百姓 の持 高 と 下人 の有 無 に基 づ い て 表 示 してあ る。 まず40
石 以 上 層 の2戸 は,と もに 名 主 で,多 数 の 下 人 を 抱 え て い る。 下 人 の な か に 童 を 含 み,ま た80石 前 後 の 持 高 や 馬 ・家 数 か ら判 断 して も,こ れ らの 下 人 の か な りの 部 分 は,家 族 を構 成 す る隷 属 農 民 で あ る こ とが 推 測 さ れ よ う。 な お 名 主 五 郎 右 衛 門 の 持 高86石 余 の 内 容 は,田4町1反1畝,畑6町9反8
畝,屋 敷3反2畝,合 計11町4反1畝 で あ り,同 じ く清 右 衛 門 の 持 高71石 余 の 内 容 は,田3町5反3畝,畑5町5反5畝,屋 敷4反8畝,合 計9町5 反6畝 で あ る。
つ ぎ に20〜40石 層 の6戸 は,い ず れ もか な りの 下 人 を 抱 え て お り,こ の 層 の な か に も,家 族 を構 成 す る隷 属 農 民 を 従 え て い る も の が 存 在 す る と思 わ れ る。15〜20石 層 は 下 人 保 有7戸 に 対 し,下 人 な し1戸 で,下 人 数 も・ 一 部 を 除 い て 数 人 で あ り,20〜25石 前 後 の 持 高 が,隷 属 農 民 の 保 有 ・非 保 有 の 境 界 線 とみ な し う る。10〜15石 層 に な る と,下 人 な しの 戸 数 が 下 人 保 有 戸 数 を 上 回 り,10石 未 満 層 で は,下 人 な しの戸 数 が 圧 倒 的 に 多 くな っ て い る。
む しろ こ の 層 に は,そ の 零 細 な 持 高 か ら判 断 して,村 内 の 中 ・上 層 農 民 へ 下 人 労 働 力 を 供 給 して い る農 民 が,か な り含 まれ て い る と見 られ る。
天 和3年(1683)の 「下 谷 貝 村 宗 門 御 改 一 札 」 は,「 毎 年 邪 蘇i宗門 御 改, 弥 以 当 年 も村 中 大 小 之 百 姓 井 妻 子 ・下 人 等 迄,其 出所 吟 味 仕,老 若 男 女 当 歳 生 れ 子 迄,此 帳 面 に 付 け 落 し ・付 け 損 無 御 座 候 」 と い う 前 書 を もつ,全 村
ゆラ
(旗 本 二給)に わ た る 詳 細 な 宗 門人 別 帳 で あ る。 記 載 され て い る百 姓112戸 (門 前百 姓3戸 を除 く)を,家 族構 成 と下 人 保 有 に 基 づ い て整 理 す る と 次 の よ うに な る。
1家 族 を構 成 す る 屋 敷 者 ・譜 代百 姓 を 保 有 す る家12戸(う ち 複 合的 家 族2戸)
皿 家 族 を構 成 しな い 屋敷 者 ・譜 代 百 姓 を 保 有 す る家10戸(う ち 同上0 戸)
皿 年 季 下 人 を 保 有す る家34戸(う ち 同上4戸)
N年 季 下 人 を保 有 しな い家56戸(う ち同 上10戸)
(2)真 壁町 市村浩家文 書.
近世北関東農村におけ る隷属農民の存在形態 とその自立過程
77第1表 に み た 延 宝4年 の 場 合 に は 知 り得 なか った 家 族構 成 と下人 の性 格 が,こ こで は 明確 に な って い る。 延 宝4年 の場 合 と対 比 して,1は20石 以 上 の上 層 農 民 に 相 当 し,皿 は15〜20石 の下 人 保 有 農民 に,皿 は5〜15石 の 下人 保 有 農 民 に,Nは0〜15石 の下 人 非保 有 農 民 に相 当す る。 そ れ ぞ れ の 階 層 の戸 数 もほ ぼ対 応 してい る。
なお 複 合的 家 族 とは,主 人 の家 で親 と長 子 以 外 の夫 婦 を含 む 家 族 で,た と えば 当 主 の 弟夫 婦,当 主の 次 三 男 の夫 婦 な どを 含 む もの で あ る。 しか し,上 記 以 外 に 傍 系 親 族 と して,叔 父 や 従 弟 な どの 夫婦 を含 む ものは 見 あ た らな
い。 また 家族 を構 成 しない屋 敷 者 ・譜 代百 姓 は,再 生産 され る可 能 性 の 少 な い ものな の で,い ず れ は 皿の 一般 下人 の保 有 へ 移 行 す る もの と考 え られ る。
ここで は,1の 家 族 を 構 成す る 屋 敷 者 ・譜 代 百 姓 を 保 有 す る家 を 検討 し て,有 力 農民 と隷 属 農 民 との 関 係 を 明 らか に した い。1に 属す る12戸 の う ち,名 主 五郎 右 衛 門 家 と同 じ く亀 之 助(延 宝4年 の 清右 衛 門)家 の2戸 は, 多 数 の屋 敷 者 ・譜 代 下 人 ・一 般 下 人 を抱 えて お り,特 異 な存 在 で あ るが,ま
》 そ の家 族.下 人 構 成 を 略記 してみ よ う.数 字 は年 令,「 」 嫁 族 を示 し
て い る 。
五 郎 右 衛 門46女 房33男 子25女 房19男 孫1母70弟33女 子4 (以 上8人)
年 季 下 人 一 男(当 村)22男(他 村)23男(他 村)20男(他 村)16男(他 村)18男(他 村)18男(他 村)10女(他 村)47女(当 村)29女(当 村)26女(当 村)29女(当 村)16女(不 明)18女(他 村)12女(当 村)25男(当 村)16(以 上16人)
年 季 者 一 「次 兵 衛(当 村)32女 房26男 子7」(以 上1家 族 ・3人) 譜 代 者(独 身)下 男27下 男8下 女67下 女43(以 上4人)
譜 代 者 一 「市 左 衛 門48女 房43女 子18男 子4」 「与 惣 兵 衛53女 房55」
「瀬 兵 衛33女 房32男 子3」 「長 八29女 房29男 子15」 「清 兵 衛49 女 房48男 孫5」 「長 兵 衛46女 房43男 子22女 孫2」(以 上6家 族 ・
19人)
屋 敷 者 一 「三 左 衛 門39女 房32女 子15男 子8女 子5」 「又 左 衛 門35 女 房27親80女 房67男 子5」 「吉 兵 衛80女 房72女 孫8」 「六 兵 衛 72女 房65男 子21女 子34後 家 娘13姉 力73」 「市 兵 衛52女 房39
男 子27女 房20女 子18男 子13」 「伝 兵 衛40女 房36母81男 子12」
「長 作42母69男 子10」 「与 吉45女 房44男 子11」 「三 右 衛 門63男 、
子28男 子36女 房30女 孫12男 子36女 房24男 孫7男 孫2」
(以 上9家 族 ・44人)総 計94人
亀 之 助16母43(以 上2人)
年 季 者 一 下 女(不 明)30下 女(他 村)25下 女(不 明)14下 女(当 村)一 下 女(当 村)34下 女(当 村)12下 男(当 村)41下 男(当 村)31下 男(当
村)35下 女(不 明)30(以 上10人)
譜 代 者(独 身)一 下 女44下 女18下 男21下 男29下 男12下 男 一(以 上6人)
譜 代 者 一 「作 右 衛 門66女 房53男 子27同 女 房24女 孫7男 孫8男 孫 3」 「久 左 衛 門52女 房44女 子17男 子13男 子8」 「吉 兵 衛40女 房34 男 子10男 子5」(以 上3家 族 ・16人)
屋 敷 者 一 「久 右 衛 門59女 房50男 子23男 子 一 」 「六 左 衛 門74女 房64 長 兵 衛28同 女 房22男 孫3」 「喜 兵 衛64女 房50男 子37同 女 房38 男 孫11男 孫6男 子 力28」 「吉 左 衛 門55女 房47男 子15」 「弥 蔵79 女 房67」 「五 郎 兵 衛53女 房53男 子20女 子24男 子13」 「武 兵 衛51 女 房50男 子6女 子7」(以 上7家 族 ・30人)総 計64人
以上 に見 られ る よ うに,五 郎 右 衛 門 家 は 実 に16家 族 を 含む86人 の 下 人 ・ 隷 属 農 民 を従 え て お り,亀 之助 家 も10家 族 を含 む62人 の下 人 ・隷 属 農民 を
従 えて い る。 家 族 を構 成 す る譜 代 百姓 と屋 敷 者 との違 い は,後 者 が 独 立 した 屋 敷 を所 持 し,一 定 の 耕地 を分 与 され て い て,主 人 へ の従 属度 が よ り低 い も の と考 え られ る。 例 えば 延 宝4年 の五 郎右 衛 門 家 の家 数 は10戸 で,天 和3 年 の 同家 の屋 敷 者 は9家 族 で あ る。 また 屋敷 者 の方 が概 して家 族数 が 多 い。
これ に対 して 譜 代百 姓 は,主 人 の屋 敷地 の 一 角 に 小屋 住 み して いた と見 ら れ,主 人 へ の従 属 度 も よ り高 か った と考 え られ る。
従 っ て農業 経 営 の上 か らも,屋 敷者 は主 人 か ら分 与 され た土 地 にみ あ うだ
け の賦 役 労 働 を 提供 す る,い わ ゆ る名 田小 作 を行 な う程 度 の 自立 を達 成 して
い た で あ ろ う。 主 人 の 家 は,譜 代 ・年 季 の下 人(家 族構 成 を もつ 者 を 含 め
て)の 労働 力 を動 員 して大 規 模 な農 業 経 営 を行 な い,部 分 的 に 屋 敷者 の賦 役
労 働 を も って補 充 してい た の で あ る。 か か る農 業経 営 は,こ の地 域 で は ほ ぼ
近世北関東農村におけ る隷属農民の存在形態 とその自立過程
7918世 紀 前 半 期(元 禄 〜延 享 ・寛 延 期)ま で 維 持 され,そ れ を 可 能 に した の は,多 数 の隷 属 農 民 の保 有 と,そ れ を 支 え た 土 豪的 百 姓 の系 譜 に基 づ く大 土 地 所 持 と,村 落 に対 す る名 主 と しての特 権 的 な地 位 で あ った。
1に 属 す る残 り10戸 に関 して は,多 少 の 家 族 ・下 人 数 の 規模 の違 いが あ るので,比 較 的 多人 数 の家 と少 人 数 の 家 の二 例 を示 して み よ う。
善 兵 衛(延 宝4年 持 高29.9石)48女 房43男 子22同 女 房21女 孫2妹 響 54同 女 房(妹)43
下 男(年 季 他 村)18下 女(年 季 他 村)24下 女(年 季 当 村)13下 女(年 季 他 村)43
譜 代 者 一 下 女6「 下 男 六 右 衛 門34女 房28母61弟17男 子10女 子4」
屋 敷 者 一 「太 兵 衛31女 房27女 子3」 「長 右 衛 門5ブ 女 房56」
(以 上 家 族7人,下 人4人,譜 代 老7人,屋 敷 者5人,計23人)
太 郎 右 衛 門(延 宝4年 持 高17.8石)43女 房43男 子16男 子10父 親73同 女 房60
下 男(譜 代)33下 男(譜 代)18下 女(年 季 当 村 力)35 屋 敷 者 一 「新 兵 衛65女 房55」
(以 上 家 族6人,下 人3人,屋 敷 者2人,計11人)
いず れ も名 田地 主経 営 に 準ず る比較 的 小 さな もの とい え よ う。 皿,皿 の大 部 分 とyは,い うまで もな く小 農民 経 営 で あ る。 こ とにWに 属 す る農民 の う ちか な りの部 分 は,零 細 な 持 高 の た め,家 族 の一 部 を年 季 下 人 と して,村 の 内 外 の上 層 農 民 に放 出 せ ねば 再 生 産 が 不 可 能 で あ った。 以 上 が 小 農民 経 営 が 全 面 的 に展 開 す る前 夜 の村 落構 成 で あ り,比 較 的 後 進 的 な 北 関 東 の平 野 部 の
農村 で は,17世 紀 後半(寛 文 〜 元 禄 期)に は一 般 的 な姿 だ った の で あ る。
第2表 は,上 に 見 た 延 宝 ・天和 期 の村 落 構 成,こ とrc‑一部 有 力 農 民 の支 配 下 に 存 在 す る多 数 の隷 属 農民 が,そ の 後 ど うい う経 過 を た どった か を 見 るた め に 作成 した もので あ る。
天和3年(1683)に は,家 族 を構 成 す る譜 代 百姓 ・屋 敷 者 だ け で も,実 に
42家 族 ・178人 が,12戸 の有 力 農 民 の 支配 下 に あ った。 これ に対 して,元 禄
15年(1702)に は,屋 敷 者 主4戸 が154人 の屋 敷 者 を抱 え,延 享2年(1745) .
に は 屋 敷 者 主5戸 が,屋 敷 者29戸 ・94人 を 抱 え,明 和3年(1766)に は 屋 敷 者 主 が4戸 が,屋 敷 者20戸 ・47人 を 抱 え る とい う よ うに,屋 敷 者 の戸 数 ・人 数 は 漸 減 して い る。 しか し,19世 紀 に 入 っ て も 屋 敷 者 の 存 在 自体 は
消 滅 せ ず,例 え ば 寛 政12年(1800)に は,屋 敷 者 主4戸 に 対 し,屋 敷 者IZ 戸 ・47人,文 政9年(1826)に は,屋 敷 者 主2戸 に 対 し,屋 敷 者9戸 ・38
〔第2表 〕 元 禄15年 〜 慶 応4年,下 谷 貝 村 の 身 分 別 戸 数 ・家 族 数 (1)元 禄15年(1702)
降 瀦 主 屋敷者 一般百姓 門前百姓 山伏 寺院
戸
下 下 男 女 計
十昌ニロ数
男 女
出 奉 公 男
同 同 女 計
4 7 7 14 8 9
*17 1 0 1
不 明 77 77
*154
50 116 109 225 22 10 32 2 0 2
344.8 1212
戸数6 僧侶5
下男1
(注)*屋 敷者主下人 と屋敷 者 の性別 は不 明につ き推定 に よる.
(2)延 享2年(1745)
陣 敷駐 屋敷者 一般百姓 門前百姓 山伏 寺院
戸 数
男 女 計 内15〜60才
下 男
下 女
計 内15〜60才 出 奉 公 男
同 女
同 計
5 10 15 25 16 11 11
*29 21
29 49 39
**94 56
101 3651773095164・98811 3831陶1101 ‑﹁∠‑っ03 ノ09
数 侶 戸 僧
下男2
(注)*性 別 ・年 令 不 明 の7人 を 含 む.:F・+同 じ く 不 明 の6人 を 含 む.
近世 北 関東農村 におけ る隷属 農民 の存在形態 とそ の 自立 過程
(3)明 和3年(1766)
81
降 敷者主 屋瀦 一般 百 姓 門 前百姓 修験 ,寺 院
戸 数
男 女 計 内15〜60才
下 男
下 女
計
40883101111 682047294・8981
男女計公奉
2038296747出同同 22574101 10750
数 侶 男 戸 僧 下
1224・2
(4)寛 政12年(1800)
} 屋敷者主 屋敷者 一般百 姓 門前百 姓 寺院
戸 数
男 女 計 内15〜60才
4・10151121 つ層34701224圏りδ
33 65 41 106 71
11よ121
戸数6 僧侶3
下男0
(5)文 政9年(1826)
1 屋敷者主 屋敷者 一 般百姓 門前百姓 寺院
戸 数
男 女 計 内15〜60才
2ウ﹂52Q11 Qノー漏70◎‑乙2132
26 67 53 120 75
0
0
戸 数6 僧侶1
下男0
(6)慶 応4年(1868)
1 屋敷者主 屋敷者 一般百姓 門前百姓 寺院
数才男女計60男女計〜介
15戸内厄同同 304・4.7・112曾1 ∠0651∠Q1131
39 126 115 241 148 1 3 4
0
0
戸数6 僧侶2
下 男2
く史料)真 壁町 市村 浩家交 書 各年 度 ・下谷 貝村宗門人別改 帳 。
人,幕 末 の慶応4年(1868)で さえ,屋 敷者 主3戸 に 対 し,屋 敷老6戸 ピ31 人 が 存 在 して い る。
む しろ門前 百 姓 や 下 人 の減 少 ・消滅 の方 が 早 く,元 禄15年 の下 人49人, 延 享2年 の下 人39人 に対 し,明 和3年 に は 下 人2人 に 減 少 し,こ の年 は逆 に 出奉 公9人 が 目だ って い る。 但 しそ の3分 の2は 村 内 へ の出 奉 公 で あ り, 宗 門人 別 帳 の上 で の 下人 の 消滅 は,譜 代 下 人 の 消 滅 を 反 映 して い るに して
も,雇 傭 関 係 の 消滅 を意 味 して は い な い。 門前 百姓 も 元 禄15年 の3戸 ・8 人 か ら,寛 政12年 の1戸 ・2人 に な り,以 後 は姿 を 消 して い る。
次 に 屋 敷者 主 の最 高に 位 置 す る名 主五 郎右 衛 門家 に つ い て,同 家 の屋 敷 者 の戸 数 ・人数 の 変化 を見 てみ よ う。
元 禄15年 戸 数 不 明 男46人 女48人 他 に 下 人5人
延 享2年17戸 男35人 女21人 他 に 下 男5人,下 女6人
明 和3年10戸 男20人 女17人
寛 政12年4戸 男9人 女10人
文 政9年4戸 男9人 女10人
慶 応4年3戸 男9人 女9人
元 禄 期 か ら明和 期 にか け ての 急 速 な 減 少 が 目だつ が,こ れ は 内 容的 に は屋 敷 者 の 自立 の 傾 向 を反 映 した もの で あ ろ う。 但 し村 内の 一 般 百姓 も減 少 の傾 向 を見 せ てい るので,屋 敷 者 や 譜 代 下 人 が村 内 で 百姓 に 取 立 て られ る可 能 性 は少 な く,屋 敷者 主 へ の従 属 を 絶 つ こ とは,村 外 流 出を 意 味 して い た。 そ れ だ け に 村 内に と ど ま る限 りは,屋 敷 者 とい う身 分 か ら脱 出 す る こ とは 困難 で
あ った ので あ る。
しか し,少 な くと も明和 期 以 降 の 屋敷 者 は,身 分 的 差 別 と形 式 化 した 主 従
関 係 を除 け ば,ほ とん ど他 の百 姓 とか わ らな い地 位 を確 立 して きて い る もの
と思 わ れ る。 領 主側 も,す で に 天和 の 宗 門改 に 際 して,譜 代 百姓 ・屋 敷 者 の
個 別 人 身 的 な 把 握 の 方 向 を 示 して お り,延 享 期 以降 の 宗 門人 別 帳 に お いて
も,誰 の屋 敷 者 とい う記 載 を別 に す れ ば,他 の農 民 と同様 に記 載 し,掌 握 し
近世北関東農村におけ る隷属農民の存在形態 とその自立過程
83て い る 。
明和3年 に年 寄 市 郎 布衛 門 は,屋 敷 老 武右 衛 門(3人 家 族)を 抱 え て いた 。 同家 は寛 政12年 に は 良三 の代 に な り(養 母 と二 人暮 し),屋 敷 者 は常 助 の 代 (6人 家 族)に な って い る。 と ころが 文 政9年 に は,主 人 の家 が 断 絶 して し まい,常 助(6人 家 族)は 主人 の ひ ない 屋 敷 者 に な っ て い る。 た だ し慶 応4 年 に は市 郎 右 衛 門 家 は 再 建 され て お り(市 郎 左衛 門,6人 家 族),常 助 の枠
友蔵(7人 家 族)は あ い か わ らず 屋 敷者 に とど まっ て い る。 この事 例 は,屋 敷者 が 農 業 経 営 の 面 で もほぼ 自立 を達 成 し,実 質 的 に は 主 人 の家 とは独 立 し て再 生 産 を 実 現 しな が ら,身 分 的 な従 属 の枠 か らの離 脱 を許 され な い姿 を 示
して い る。
下 谷 貝村 に関 して は,こ れ らめ 譜 代百 姓 お よび屋 敷 者 と主人 や領 主 との関 係,農 業 経 営 の あ り方,さ らに 彼 らの 自立 闘争 を うか が え る史 料 は,現 在 の と ころ 見 出 せ な い。 明 治初 年 に な って,五 郎 右 衛 門家 の 屋 敷構 え のな か に 居 住 して い た屋 敷 者 の子 孫 が,村 方へ 出 て独 立 した とい う話 を 聞 くだ け で あ
る。
皿 隷 属 農 民 の 存 在 状 況 一 塙 世 村 と 本 木 村 の 場 合 一
当地 域 に おけ る隷 属 農民 の存 在 形 態 は,前 記 の 下谷 貝 村 の事 例 で ほ ぼ 明 確i に な った。 しか し,彼 等 と領 主 や 他 の農 民 との 関 係等 の具 体 的 なあ り方 は, 史 料 的 制約 に よ りあ ま り明 らか に な しえ な い。 また多 くの 村 々で は,整 備 さ れ た 宗 門人 別 帳 や 五 人組 帳 が 残 され てい る近 世 後半 期 に は,す でに 屋 敷 者 ・ 門 百姓 や 譜 代 下 人 な どの隷 属 農 民 の姿 は 消滅 して い る。 ここで は二,三 の断 片 的 な事 例 を通 して,隷 属 農 民 の具 体 的 な あ り方 に接近 して み た い。
真壁 町 の西 方1.5キ ロの塙 世 村 は,近 世 の 後半 期 で は 笠 間 藩 領 で あ り,高
620石 の畑 が ち の村 で あ る。 同 村 の名主 榎 戸 太 郎 左衛 門 家 は,真 壁 氏 の 旧臣
の系 譜 を有 す る土 豪 的百 姓 で あ り,近 世 前 半 期 に はか な りの隷 属農 民 を支 配
して い たに 相違 ない。 しか し,近 世 後半 期 に お い ては,宗 門 人別 帳 等 に は そ
の よ うな事 実 は 見 られ な い。 つ ぎに示 す事 例 に お い ては,同 家 が か っ て譜 代
下人 を 抱 え て い た こ と,そ の 自立 以 後 も 機 会 のあ る ご とに 恩 恵 を ほ ど こ し て,旧 来 の 主従 関 係 の一 部 を 存続 させ よ うと して い る ことが うか が え る。
つ ぎに要 旨を示 す 訴 状 は,村 内 の百 姓 甚 十 郎 の土 地 質 入 れ を め ぐる名 主太 郎 左 衛 門'と組頭 弥 三 郎 の争 いに 際 して,宝 暦12年(1762)10月 に 太 郎 左 衛 門
く ラ
よ り笠 間 藩 真 壁 役所 へ提 出 され た 「乍恐 以書 付,御 内訴 申上 候 覚 」 で あ る。
① 当村 の百姓甚十 郎の祖 父長助 は,父 太郎左衛 門の 「普代之下 人」で あ ったが, 長助 の父が 病死 した際,長 助の願い に よ り解放 し百 姓に取立 てた。折か ら当村 相給 の旗本 秋山氏領 に伝 兵衛 とい う極 貧の百姓がい たが,持 山 を全 部質入れ して病死 し た のち,長 助が 金を他か ら借入れ て これ らの質地 を受戻 し,伝 兵衛の後家 の老後 を み る約束で 相続 した。 これ らの受戻 した質地 の元利 金が 多額 にな った ので,長 助は 父太 郎左衛門 に 頼み こんで 秋山氏領 の 畑 を質入れ し,3両 を 無利足 の条 件で 借入 れ,さ らに質地は孫 の甚十郎 に至 るまで三代 の間作徳 して きた。父太郎 左衛門は他 に4両3分 を無利 足で 長助 に貸 し,同 人の所持地 を担 保 と して書入れ させ て きた。
これ らの貸金は,長 助が 本百姓 と して存続す ることが 目的 なので,父 太郎左衛 門は あえて取 立て よ うとは しなか った し,自 分 もこれ を取立 てて甚十郎 を潰す よ うな意 志は ない。
② 長 助が 父太郎 左衛門へ 書入れた畑 を,孫 の甚十 郎 は困窮の あ ま り当村 組頭弥三 郎へ 書入れ,1両2分 を借用 し,ま た秋 山氏領の うちで も地所2筆 を弥 三郎へ 書入 れ,2分 を借用 した。当年春,甚 十 郎は両 者の借 金を返済で きないた め,弥 三郎 に 証文 の書替 えを求め られて,3両2朱 の質地証文 に書替 え,質 地 は弥三郎方で 作徳 す る条 件に した ことが,よ うや くこの秋 にな って 自分 の耳 に達 した。 当方 へ の書入 れ地が 無断で 質入れ され たのに驚 き,証 文 の裏判 を行 な った名主元右 衛門 と地主甚 十 郎へ 申 し入れ た ところ,名 主か らは 当方 への書入れ地で あ る ことを知 らず失 礼 し たので,弥 三 郎へ は よく申 し聞か せ る とのあい さつが あ った。 しか し,弥 三 郎 よ り は何 の応答 もな いため,直 接彼 の所 へ お もむ き,甚 十 郎の祖父長助が譜 代下人で あ ったため,自 分 の父が多大 の貸金を与 えたのに対 し,後 か ら弥三 郎に高利で 苦 しめ られ るのは気 の毒 で ・ あ る と申 し入れた 。 と もか く弥三 郎は甚十 郎が彼 の組下 百姓で あ るに もかかわ らず,太 郎左衛門 の譜代下 人の末で あ るこ とも知 らず,ま た依然 と
して 自分 に何 の応答 もせず,組 頭 として も無責任す ぎ る。
.要 す る に太 郎 左 衛 門 の要 求 は,甚 十 郎 への 恩 恵 が 弥三 郎 に よ って無 に され るの を おそ れ て い るの で あ る。 従 って 彼 は,弥 三 郎 が 甚 十郎 よ り取 上 げ た 質
(3)真 壁 町 榎 戸 淳 一 家 文 書.
近世北関東農村 におけ る隷属農民の存在形態 とその自立過程
85地 を返 す こ とに よって,弥 三 郎 が うけ る損 金 を肩 代 り して も よい とまで 言 っ て い る。 名 主 と して村 落 共 同体 内で の優 位 を保 持 す るに は,旧 来 の主 従 関 係 の一 部 を存続 させ る こ とは,不 可 欠 の条件 だ った ので あ る。 この訴 訟 の結 果 は ど うな った か 不 明 で あ るが,18世 紀 半 ば に 塙世 村 で も,隷 属 農 民 の影 は か な り濃 か った ことが理 解 され よ う。
真 壁 町 の北 方5.2キPtの 本 木 村 は,近 世 の後 半 期 では 笠 間藩 領 で あ り,高 1140石 の やや 畑 が ち の 村 で あ る。 本木 村 の場 合 は,明 和9年(1872)以 降 の人 別 五 人組 帳 が 残存 し,村 内農 民 の家 族構 成 を詳 細 に 知 り うるが,明 和9
くの
年 段 階 で は もは や 譜 代 下人 な どの隷 属 農 民 は み られ な い。 しか し,近 世 前 半 期 に は,村 内 の有 力 農 民 が か な りの隷 属 農民 を抱 え てい た こ とは否 定 で きな
い 。
た とえば,元 禄15年(1702)12月 に,当 村 の 勝 田喜 兵 衛 家 は,前 述 の塙 世 村 の 名主 榎 戸 太 郎 左 衛 門家 よ り聾 養 子 を 迎 え て い るが,こ の聾 は 持参 金 と
ともに,2人 の家 来(譜 代 下人)を 連 れ て きて い る。 そ の証 文 を次 に か かげ
くの
て お く 。
「 相 定 申 手形 之 事
一・ 成 田三 郎 兵 衛 殿 仲人 二而 ,金 五 拾 両 持 参 洋男弐 人 召連,貴 殿 子 息 忠 二 郎 を聲 二 も らい 申候,我 等 諸 式 隠居 諸 共 二不 残渡 シ申筈 二相 定 申候,自 今 以 後我 等 男子 出来 申候 共,諸 式 田畑 之 内少 もわけ 申間 敷 候,万 一 悪 縁 二罷成 候 ババ,右 持参 金 家来 弐 人 之 金 共 二急 度 返 合可 申候,為 其 一 札イ 乃 如件,
元 禄十 五 年 午十 二 月
本 木 村 勝 田 喜 兵 衛 同 善 兵 衛 下 小 幡村 長 岡作 右 衛 門
(4)大 和 村 勝 田 貞 家 交 書,明 和9年 「五 人 組 御 改 帳 」,r茨 城 県 史 料 ・近 世 社 会 経 済 編1』P.95所 収.
(5)大 和 村 勝 田 貞 家 文 書.
榎戸太郎左衛 門殿
成 田 三 郎 兵 衛 殿
」享和2年(1802)3月,本 木村 の 百姓 十 蔵 は,み ず か ら家来 百 姓 の子 と名 乗 って,次 に要 旨を示 す 願 書 「乍恐 以書 付,奉 願 上 候 」 を藩 の代 官 に提 出 し
くの
て い る 。
、
① 私 の親弥助は七 郎左衛門 の家 来であ ったが,50年 以 前(延 享2年)七 郎左衛門 の退 転 の際,同 人 の田畑 を処分 した残 り12石 余を,主 人 の茶 の湯回 向のため に所 持 し,百 姓 に取立 て られ た。 しか し,悪 田畑 のため相続が 困難にな り,村 よ り毎年 1両 の年 貢弁納 の援 助 を うけて きた。 その後,私 の代 にな り村 方 よ りの年 貢弁納 は 打切 られたが,か わ りに村方定夫 役を勤め て,そ の給 金で年 貢の不 足分 を補 うこと に して きたが,し だ いに 困窮 して相 続が 困難にな ってい る。
② と ころが七郎左 衛門 の親類 の団六は,日 ごろ私 を家来 同様に取扱 ってい る。 ξ た私が 七郎左衛 門の跡式 を相 続 したい と再 三団六 に願 い出て も,自 分 の判断で は き め られない とい うし,団 六が 七郎左 衛門 よ り引受 けた 田畑 を私が 預か りたい と申 し 入 れて も.そ れ もで きな い とい うので,困 惑 してい る。
③ 私 は当年40才 で かつ独 身なので,適 当な養 子 を引入れ たい と心が けてい るが, 団六 は私 を見下 して,主 人七郎左衛 門の跡式 の相 続を望 まないので あ ろ う。 しか し, 私が 養 子の引入れ に失 敗 して,相 続が不 可能になれば,主 人 の茶 の湯 回 向 もかな え られず 残念で あ る。幸 い団六 には三男が い るので,そ の者に七郎左衛 門 の跡式 を相 続 させ るか,さ もなければ 私に相続 を許 し,村 方並 合いの取扱 いを して くれ るか, いずれか の方 法で主 人 の跡式を無事存 続 させてほ しい。
この十蔵 の願 い の背 後 に は,次 の よ うな事 情 が あ った。 延 享2年(1745) に 本 木 村 内 を二 分 す るほ どの村 方騒 動 が あ り,戦 国 期 の 真壁 氏 の 旧臣 で 土 着
した 勝 田喜右 衛 門 と,同 じく真 崎 七 郎 左衛 門 の二 人 の名 主 が 激 しく対 立 し, 村 内 の百 姓 も主 に七 郎 左 衛 門 側 に た っ て争 った。 藩 権 力 の 介 入 に よ り双 方 越 度 と され,喜 右 衛 門 は 自害 に 追 込 まれ,七 郎 左 衛 門 は欠所 を 命 じ られ た。 こ の騒 動 の原 困 は,村 内 の 山林 支 配 をめ ぐる一 部 有 力 農 民 と一 般 農 民間 の対 立 に よ る もの ら しく,当 面 は有 力 農 民 同志 の対 立 と して激 発 した ので あ る。
この事 件 を機 会 に藩 権 力が 介 入 し,近 世初 頭 以来,村 落 に 君臨 して い た有
(6)大 和村勝 田貞家文 書.
近世北関東農村におけ る隷属農民の存在形態 とその自立過程
87力 農 民 の勢 力 を掘 崩 した。 一 部 有 力 農 民 の 支配 下 に残 存 してい た隷 属 農 民 ・ 譜代 下人 が,こ れ 以 後 急速 に解 放 され,遅 ま きな が ら も 自立 の 道 を歩 み 始 め た の で あ る。 しか し,自 立 の道 を歩 み始 め た隷 属 農 民 の 将来 は,必 ず しも容 易 な もので は なか った。 た とえば 前 述 の十 蔵 は,主 人七 郎左 衛 門 の欠所 ・退 転 後50年 た って も,い まだ 一人 前 の百 姓 と しての 基 盤 を確 立 しえず,も と の主 人 の親類 に 気 を つか い,ま た 主人 の茶 の湯 回 向を理 由 に,一 人 前 の 百姓
と して の保障 を藩 権 力に 求 め ざ るを え なか った ので あ る。
延 享2年 の村 方 騒 動 に よっ て苦 境 に た た され た 名 主勝 田喜 右 衛 門は,前 述 の元 禄 期 の 勝 田喜兵 衛 の子 孫 で あ る。 当家 の系 図 に は,隷 属 農 民 の存 在 に つ い て,注 目す べ き記 事 が 散 見 され る。 この 「勝 田氏系 図」は 天保6年(1835) に完 成 し,同 家 が笠 間 藩 に 提 出 した もの の控 えで あ るが,近 世 の事 項 に 関 し
て は,他 の関 係 史料 と比 較 して も信 用 し うる 内容 を も って い る。
二 代 目勝 田源 兵 衛 重 宗 は,「 慶 長 年 中 名 主役 初 り,譜 代 拾 壱 軒,持 高三 百 石 」,う ち185石 余 を子 息4人 に 分 与 して い る。 なお 「谷 部 山先 祖 よ り所 持 仕来 申候」 と もあ る。 三 代 目 喜兵 衛 は,「 名 主 役 相 勤候,分 家 配 分 残,慶 安 三御 検 地 高九 拾 石 余,谷 部 山所 持」 とあ り,弟 初 代 権左 衛 門(の ちの勝 田市 郎 左衛 門 ・善 兵 衛 家)は,「 分 地 五 拾 石 余,譜 代 壱 軒 分 ル」 とあ る。 四代 目 源 兵衛 重 光 は,「 名 主役 相 勤 メ持 高 百 石 余,谷 部 山 先 祖 よ り所 持 仕 来 リ候 処, 元 禄年 中御 林 二相 成 申候」 とあ り,五 代 目喜 兵衛 重 綱 は,「 名 主役 相勤 持 高 百 石 余」 とあ る。 そ の養 子 忠 次 郎重 村 は,「 実 父塙 世 村榎 戸 太 郎左 衛 門子 ニ テ饗 也,持 高 百 石 余,名 主 役 相 勤 申候 」 とあ るが,こ れ は 前 述 の元 禄15年 に家 来2人 を つ れ て聾 に きた者 の こ とで あ る。
七 代 目喜 兵衛,後 に喜 右 衛 門 重 救 は,「 名 主役 勤,持 高 百 石 余,此 頃 譜 代 者 六 軒,新 右 衛 門 ・源 四郎 ・次 兵 衛 ・弥 左衛 門 ・安 兵 衛 ・七 郎 兵衛 」 とあ る。
この喜 右 衛 門 こそ,前 述 の延 享2年 の村 方 騒 動 の 当事 者 で,同 年4月 に 悲 痛 な遺 書 を残 して 没 して い る。 つ いで 喜右 衛 門 の長 男,喜 兵 衛,後 源 兵 衛 因 信 は,「 名 主役 勤 メ持 高 九 拾三 石 余,内 四石 四 斗 余,譜 代七 平 二遣 ス,七 石 弐
⑦ 大和村勝田貞家文書
斗余,同 半 七 二遣 ス,七 石三 斗五 升 余,同 源 四 郎 二遣 ス,五 石弐 斗 六升,同 紋 助 二遣 ス,〆 参 拾 四 石余,安 永 年 中譜 代 四 人之 者 二遣 シ,村 御 百 姓 二取 立
申候 」 とあ る。 以上 が 「勝 田氏系 図」 にみ られ る隷 属 農民 に関 す る記 事 のす べ て で あ る。
要 す るに,勝 田家 は 近 世 初頭 に真 壁 氏 の 旧臣 と して 本木 村 に 土 着 す る と と もに,300石 の持 高 を もち,譜 代 百 姓11軒 を従 え た 土 豪 的 百 姓 と して,村 落 に 君 臨 してい た の で あ る。 以後 順 次,持 高 を分 与 して 血 縁 家 族 を 分 家 さ せ,そ の間 に 譜代 百 姓 を も分 与 して,延 享 期 に は持 高100石 余,譜 代 百 姓6 軒 に 減 少 してい た。 延 享2年 の村 方 騒動 に よる打 撃 に よ って,そ れ 以前 か ら
の名 田地 主 的 な 農業 経 営 の破 綻 とあ い ま って,譜 代 下 人 を 全面 的 に解 放 す る に至 った ので あ る。 最終 的 に は,安 永年 中 に持 高93石 余 の うち,24石 を譜 代 百 姓4軒 に 分 与 して村 方 百 姓 に 取 立 て て,譜 代 百 姓 との隷属 関 係 を一 応 た
ち き って い る。
勝 田家 の場 合,以 上 に み られ る譜 代 百姓 は,主 人 の家 とは別 個 に家 屋 と家 族 を もつ 農民 で あ り,領 主 の支 配 や 村 落 の構 成 の面 で主 人 に隷 属 して い た も
ので あ る。 勝 田家 が 譜代 百 姓 を全 面 的 に 解放 す る前 後 の農 業経 営 の形 態 につ い て は,別 稿 で 触 れ て おい た が,同 ゆ 家 の持 高(寛 延4年 に62.5石)の 約8 割 を譜 代 な い し元 譜代 の 農民 に 小 作 させ,年 貢 負担 を も転 嫁 し,か つ 彼 らの 労働 力 を残 りの手 作 り分 に投 入 して,名 田地 主 的 農業 経 営 を 行 な って い た。
しか し,小 農経 営 に よる効 果的 な労 働 力 の燃焼 の趨 勢 と,隷 属 農 民 の 最終 的 な 自立 の要 求に は 抗 しえず,多 少 の主 従 的 関 係 を恩 恵 的 に 残 しつ つ,譜 代百 姓 の解放 を 行 な った。 以 後 の勝 田家 の農 業 経 営 は,雇 傭 労 働 に よる地 主 手作
りを 中 心 に,元 譜 代 百 姓 を含 む一 般 農民 へ の小 作地 貸 付 け に転 じてい る。
しか し,勝 田家 か ら解 放 され,自 立 を認 め られ た 元 譜代 た ち のた どった道 は,決 して平 坦 な もの で は なか った。18世 紀 半 ぼか ら 関 東 農 村 を ま き こん だ 荒 廃 現 象 は,ま ず 零 細 な農 民経 営 の没 落 のか た ち を と って あ らわれ,自 立
(8)拙 稿 「近 世後 期北 関東農村 の構造一 関東農村 の荒廃 をめ ぐって一 」(『史学
雑誌 』81編9号),
近世北関東農村における隷属農民の存在形態 とその自立過程
89した ば か りで 強 固 な経 済 的 基 盤 を もた な い元 譜 代 た ちは,た ち まち没 落 の危 機 に 直画 させ られ た。 事実,本 木 村 で 明和9年(1772)〜 天 明3年(1783)
に 潰 れ 百姓 とな る もの13戸 の うち,1戸 は 延 享 期 まで 勝 田家 の譜 代 で あ っ た 安 兵 衛 で あ り,2戸 は安 永年 中 に 同家 の譜代 か ら百 姓 に 取 立 て られ た も の で あ る。
IV隷 属 農 民 の 自立 闘 争 一 塙世 村 分郷 の場 合
前 述 の 塙 世 村 は,笠 間 藩 領620石 と分 郷130石 に 二 分 され て お り,分 郷 の 領 主 は か な り変 動 が あ った が,ほ ぼ 二,三 名 の旗 本 で あ った 。
この分 郷 分 の 元禄 期 の人 別 帳 が2冊 現 存 し て い る。 第3表 はそ の うち完 禄 14年(1701)の 人 別 帳 の概 要 を 示 した もの で あ る。20戸 の農 民 の持 高 と家 族構 成 お よび 下 人 の保 有状 況 が 明 らか で あ る。 表 示 され て い る持 高 は 零 細 で あ るが,、 これ は元 禄12年 の人 別 帳 と比較 す る と,相 給 の旗 本 領 の うち,一 知 行 地 分 の持 高 のみ が示 され て い る こ とが わ か る。 従 っ て実 際 に は この約2 倍 の持 高 を所 持 して お り,ま た面 積 も畑 が 大 部 分 の た め,高1石 が約1反3 畝 に相 当 して い る。
家 族 構 成 は,長 男 以外 の子供 や 弟 で既 婚 の もの を 含 む家 が3戸 み られ る他 は,い わゆ る単 婚 小 家 族か そ れ に 準 ず る親 子 二 代 の夫婦 を含 む家 が 多 数 を し め て い る。 下 人 雇傭 の家 は3戸 で,う ち1戸 は譜 代 下 人 を,も うr戸 は年 季 奉 公人 を各1人 保 有 して い る。
残 る1戸 は名 主 吉 兵 衛家 で,こ の家 だ け は 多数 の奉 公 人 と隷 属農 民 を抱 え て い る。 同家 の下 人 は合 計11人 で,そ の うち2人 は譜代 の 下女 で あ る。 残 りは年 季奉 公 人 で,当 村 の 百姓4人,真 壁 郡 内 の もの1人,奥 州 白河 領 の も の4人 とな って い る。 他 に 「門 長」 と よば れ る 隷 属 農 民 を2家 族 抱 え て い る。 ただ し,こ の五 郎兵 衛 ・長 兵 衛 の二 家 族 は,と もに老 令 な い し壮 年 の夫 婦 者 で,子 供 が い ない。
要 す るに,前 述 の下 谷 貝村 と 同様 に,小 規 模 で は あ るが,村 内 の有 力 農
民 一土豪 的 百 姓 の み が,依 然 と して門 長 ・譜代 とい う形 で 隷 属 農 民 を従 え,
〔 第3衰 〕 元禄14年(1701)塙 世村分 郷百姓 の家族構成 お よび下人
1百 姓 名 隔1持 高(石)1 家 族 構 成 お よ び 下 人(年 令)
1
2
七 郎 兵 衛 (組頭)
七郎左衛門
59
68
3716505453
郎 衛 衛 八 衛
四 兵 兵 兵
平 八 才 弥 久
34567・ 63695260535734505149685555
衛 衛 衛 門 衛 蔵 助 衛 衛 衛 門 門 衛 兵 兵 蕊 兵 兵 兵 兵 響 兵 ㈱
作 次 四 六 茂 仁 孫 喜 彦 仁 七 作 吉
891011121314151617181920
1.066
2。311
0.969 0.750 1.552 1.495 2.559
3.325 1.955 0.581 2.308 0.779 0,795 0.567 1。739 1.981 2.680 1.088 2.475 11.932
女 房57「 男 子36嫁33女 孫12女 孫9」 「二 男 31嫁29男 孫5」 「三 男26嫁22」
下 男(譜 代)68
女 房61「 男 子35嫁28女 孫8男 孫5」 「嫁36 男 孫14女 孫7」
下 男43
女 房30男 子5 母42
女 房45男 子9男 子6
母73「 罫38娘22男 子 一 女 子 一 」 「弟44女 房38」
女 房47男 子13二 男9女 子21女 子18 女 房59「 男 子33嫁21」 二 男20
娚44娘21i
鍛1欝 娘簑19」二男241
女 房521 母53弟24娘16 d
瓢 女臨 男擁 二熱 弟蓑1、1
女 房38男 子18女 子151 女 房58男 子(江 戸 奉 公)41
女 房52男 子30二 男26 【
女房48「 男子30嫁28男 孫11女 孫6」 娘i2、i
父76i下 人44下 人40下 人51下 人53下 人40下 人14}
「門 長72同 女65」 「門 長52同 女45」 下 女231 下 女 一 下 女13下 女(譜 代)22下 女(譜 代)131
家数 合20軒 惣人数 合119人(内 男62人 女57人)
(史料)真 壁町榎 戸竹四郎家文 書,元 禄14年 「常陸 国真壁郡 塙世村 人別帳」
そ れ に年 季 奉 公 人 を 加 え て 名 田地 主 的 農 業経 営 を維 持 して い る姿 が 明 らか で
あ る。 また他 の農 民 の多 くは,一 般 の本 百 姓=小 農民 経 営 に 移 行 して お り,
一 部 に は複 合 的大 家 族 の名 ご りを 思 わ せ る もの も存 在 して い る。 お そ ら くこ
近世北関東農村における隷属農民の存在形態 とその自立過程
91の 人別 帳 は,こ の時 期(17世 紀 末 〜18世 紀 初頭)に おけ る この地 域 の典 型 的 な村 落構 成 を示 して い る と思 われ る。
塙 世 村分 郷 の名 主榎 戸 吉兵 衛 家 の住 居 は,中 世 の城 郭 を思 わせ る広 大 な堀 の 内に あ り,字 名 も 「堀 の 内」 と よば れ てい る。 この堀 の内 は 南 方 と西 方 に か な り広 い堀(現 在 は 水 田)を は さんで,源 法寺 ・下 谷 貝 村 方面 の畑 と林 と 集 落 が 起 伏 す る 平 野部 に対 して お り,東 方 と北 方 は 狭 い堀 や 土 塁 を は さ ん で,塙 世 村 の 集落 や 畑 に つ らな り,さ らに 東 方 に桜 川 をへ だ て て 真壁 の町 並 を控 え て い る。 現 在 堀 の 内の な か に は,吉 兵衛 家 の子 孫 の農 家 が一 戸 あ るほ か は,畑 と果樹 園 お よび 林 に な って い るが.こ こに も南 方 と西 方 に二 重 の空 堀 が あ り,ま た か つ て の隷 属 農 民 の住 居 跡 や 古井 戸 が,5〜6戸 分 明確 に残 って い る6以 上 の 点 か ら,関 東 地 方 の 農村 部 に 現 在 も見 うけ られ る,か つ て の土 豪的 百 姓 の屋 敷構 え 一堀 の内 の や や 規模 の大 きい 例 とい え よ う。
榎 戸 吉 兵 衛 家 自体 の 由来 は,戦 国 大 名 真壁 氏 の 旧臣 と して,近 世 初頭 に他 の榎 戸 姓 二 家 と ともに,旧 所 領 の塙 世 村 に土 着 した とい う伝 承 と,そ れ を裏 付 け る数 通 の戦 国 期 の古 文 書 に よって 明 らか で あ る。 天保6年(1835)に 塙 世 村 百姓 吉兵 衛 が,笠 間藩 主 の下 問 に 答 えた 「書 上 」 に は 次 の よ うな記 述 が
(9)
み られ る 。
「一 天 文年 中 よ り元 和 迄 三代 之 間,榎 戸 対 馬 と申て士 に 御 座 候 趣,以 後 は 百 姓 人別 に御 座 候,
一 一 元 禄年 中迄 は家 来 筋 の もの ,弐 拾 竈 程 村 方 に 有 之候 証 拠 御 座 候, 一 右 元禄 之 頃 ,下 男 ・下 女弐 拾 人 位 召抱 候 人 別 之 控御 座 候,
年 数 凡三 百年 余,同 村 住 居 之 様 に 相 見 え 申候,」
以上 の記 述 は,前 述 の人別 帳 や 後 述 の隷 属 農 民 の 自立 闘争 の 経 過 に よっ て,ほ ぼ裏 付 け られ る。
塙 世村 分 郷 の隷 属 農 民 の 自立 闘争 は,元 禄4年(1691)と 安政4年(1857)
(9)真 壁町 榎戸竹四郎家文 書.
の約1世 紀半 へ だ てた 二 つ の事 件 が判 明 して い る。 まず 第 一 の事 件 を,元 禄 4年8月,塙 世 村 吉 兵 衛 が 領 主 の 旗 本菅 谷 八 郎 右 衛 門 に提 出 した 「乍 恐 以 書
(10)
付,御 訴 訟 申上 候 事 」 に よっ てみ て み よ う。
前 述 の堀 の 内 の 主 人 で あ り,分 郷 名 主 の吉 兵 衛 に は,多 数 の家 来 百姓 が い た が,そ の一 部 は堀 の 内 の屋 敷 構 え よ り出 て,村 内 の一 山 とい う所(旗 本 堀 田氏 領 分)へ 移 住 し,他 は 堀 の 内 に と どま って い た。 彼等 は と もに従 来, 主 人 の家 に対 して年 末 に 「大 番」 とい う奉 仕 を行 な う慣 例 が あ り,こ れ に対
して主 人 は,正 月 に 「大 番 振舞 」 とい う接 待 を もっ て酬 い る こ とに な っ て い た。 と ころが両 所 の 家来 百姓 が 申 し合 せ て,前 年 暮 か ら正 月 に か け て,大 番 勤 め も大 番振 舞 も拒 否 した の で あ る。 驚 い た吉 兵 衛 は,一 山 居住 の家来 百 姓 に 関 して は,領 主 の旗 本 堀 田権 右衛 門 を通 じて圧 力 を加 え,茂 田村 役 人 の 仲 介 に よ って,先 規 通 りの奉 仕 を約 束 させ て い る。
一 方 ,主 人 の 屋 敷構 えに と ど ま って いた4人 の 家来 百姓(弥 次 兵 衛 ・甚 蔵 ・市兵 衛 ・太 郎 助)は,大 番 勤 め の みで な く,主 人 の家 の 田植 ・田 うな い 等 の賦 役 労働 を も拒 否 し,村 役 人(笠 間 領 分)の 説 得 も うけ いれ ず に,頑 強 に 抵 抗 して い る。 困惑 した 吉兵 衛 は 自村 の領 主 で あ る旗本 菅 谷 氏 の介 入 を要 請 して い る。 以 上 が 上 記 の文 書 の要 旨で あ る。
堀 の 内 よ り一 山 へ と,主 人 の 直接 監 視 下 よ り逃 れ て い た筈 の農 民 の方 が 比 較 的 簡 単 に屈 伏 した のに対 し,堀 の 内 の主 人の屋 敷構 え に居 住 す る4人 の 方 が,頑 強 な抵 抗 を示 して い る。 思 うに 一 山 へ 移住 した 農 民 は,そ の 移住
くユ
自体 が 自立闘 争 の成 果 で あ って,農 耕 関 係 の賦 役 労 働 よ りす で に 脱 して いた の で,よ り形 式 化 して いた 大番 の 負担 に は 妥 協 した の であ ろ う。 しか し,堀 の 内に残 った家 来 百 姓 た ち に は,自 立 闘争 の 課題 が よ り大 き くの しか か って い た の で は ない だ ろ うか。 弥 次兵 衛 等4人 の 自立 闘争 の結 果 は 明 らか で は な い。 支 配 関 係 の 相違 に も よるか と 思 わ れ るが,前 述 の 元隷12・14年 の 人別
⑩ 真壁町榎戸竹 四郎家文 書,r茨 城 県 史料 ・近世社会経 済編1』p.487所 収.
⑪ この移住 の経過は,後 述 の安政4年 の史料 に より,そ の概要 を知 る ことが で き
る 註 ⑬ の部分参照,
近世北関東農村におけ る隷属農民の存在形態 とその自立過程
0く 3帳 に は,彼 らの名 は 見 あ た らな い ので あ る。
や は り同 じ人 別 帳 に 見 あ た らな いが,堀 の 内 の伝 兵 衛 とい う家 来 百 姓 は, 下 記 の通 り,上 述 の 自立 闘争 に加 わ りなが ら,主 人 と領 主 の圧 力 に屈 して い
(12)
る 。
「 一札之事
一 拙者儀先規 より正月三 日之大番 ,有 来 る例法相勤来 り候処 に,違 背仕 罷有故,堀 田権右衛門様御支配所へ御訴訟被成候 に付呼状参候,就 其組 之内七郎左衛門 ・七郎兵衛両人之頼,光 照院様 へ入寺致御訴 訟仕候,只 今迄何角 と違背仕候段御免被遊候,自 今以後諸事違背仕間敷候,為 其壱 札如件,
元禄五年 申 ノ十月廿三 日
訴 訟人 堀 内・伝 兵 衛 ㊥ 金 さ 七郎左衛 門 ㊥ 組 内
同所 七 郎 兵 衛 ㊥
榎戸吉兵衛様 」
な お,七 郎 左 衛 門 と七 郎 兵 衛 は,元 禄 の 人別 帳 に もみ られ る通 り,塙 世 村 分 郷 の本 百 姓 で あ る。 こ こで は領 主 の 旗 本 が,主 人 側 に 加担 して家 来 百 姓 の
自立 の要 求 を 抑圧 して い る点 に 注 目 して お きたい。
第 二 の安 政4年(1857)の 事 件 の概 要 は,同 年10月 に 塙 世 村 名 主 吉兵 衛 伜 宇 六 郎 よ り,御 地 頭 所(旗 本)役 人 に提 出 した 「乍恐 以書 付,御 歎 願奉 申
く ラ
上 候 」 に よれ ば,次 の通 りで あ る。
宇 六 郎 の主 張 に よれ ば,「 私 方 は 至 て 旧家 に て,往 古 抱 百 姓 廿 人 私構 内 に 有 之候 所,内 拾 四 人 中古 私 所 持 字 一 山 え為 引移,御 上 様 之御 百 姓 に 仕 候 え 共,古 来 之 恩 儀 忘却 不 致,殊 に 私所 持 山 に住 居仕 候 義 に付,抱 百 姓 同様 相心
⑫ 註(iCtに 同 じt『 前 掲 書 』p.487所 収.
・⑬ 註(i◎ に 同 じ
,『 前 掲 書 』p.487所 収.
得 罷 在 候所 」,年 月が た っに つれ て,子 孫 の者 は古 来 の恩 義 を忘 れ,同 家 と た びた び 紛 争 を 起 し,そ の たび に 旧来 の 主従 的 関 係 を確 認 す る証 書 を取 交 わ して きた。 と ころが この た び,一 山 居住 の 百姓 小 三 郎 の伜 寄吉 と仙 助 の養 子 仲蔵 が,旧 来 の事 情 を理 解 した いた め に,そ れ らの証 書 を 拝見 した い と申 し入 れ て きた ので,神 妙 な心 が け と思 い 承 知 して見 せ た とこ ろ,二 人 は い き な りこれ らの証 書 を 持 出 して姿 を く らま して しまっ た。 宇 六 郎 は あわ て て両 人 の親 の所 へ 出か け て交 渉 したが,伜 た ち が 帰 宅 しな い ので らち が あか ず, 翌 日江戸 に 出 かけ て,領 主(旗 本)に 事 情 を 訴 え て,寄 吉 ・仲蔵 両 人 の 召喚 を 要請 した。
要 す るに,こ こに は 元 禄5年 に 自立 闘 争 を行 な って い た一 山居 住 の農 民 た ち の子 孫 の姿 が み られ る。 彼 らは事 実 上,旧 主 人 へ の隷 属 関 係 を ほ ぼ た ち き っ て お り,争 点 は,彼 らの村 落 内 で の地 位 を お びや か し,多 少 とも隷 属 関 係 の存続 を 可 能に す る根 拠=証 書 の処 置 に か か わ って きて い る。
同年11月 に 塙 世 村 名 主 見 習宇 六 郎 と,一 山 居 住 の百 姓5名(証 書 を持 去 った 二 人 の親 を含 む)と の 間 に 取交 わ され た 「為取 替 申済 口証 文 之 事 」 に
(14)
よれ ば,上 記 の紛争 に隣 村 の村 役 人 等 が 仲 介に 入 り,「 此 儀 は,是 迄 吉 兵 衛 構 百 姓 有 之 候 えば,当 筋 御 知 行所 御 人別 え も差 加 へ 候上 は,向 後 譜 代 と唱 候 儀 は 口外 不 致,且 又唯 今 一 山 住 居 仕候 義,以 来 何様 之 義 出来 候 共,立 去 杯
くマ マ ラ
と申事 決 て不 申約 定,又 小 前 四 人 之者 共,元 由緒 も有 之 候 義に 御 座 候 へ ば, 往 古 由緒 書 付 廉 々は忘 却 致 間 敷約 定 」 とい う条 件 で,示 談 させ て い る。
事 実 上 譜 代 下 人 の 身 分 か ら 解放 され,「 其 後 当御 知 行所 御 百 姓 御 人 別 え 差 加 」 え られ て,1世 紀 半 以上 もた った幕 末 に お い て も,彼 らに は 「村 方 に て は 同人 譜 代 之 者 と是迄 相唱 罷 在 候 」 とい う身分 上 の差 別 が つ い て まわ って い た の で あ る。 そ して この事 件 の結 果,よ うや く彼 らは 差 別 的 呼 称 の一 応 の撤 廃 糞か ち とって い るの で あ る。
な お 明治2年(1869)6月 に は,塙 世 村 分 郷 の 旧来 の 名 主 吉兵 衛 を排 除 し
Oゆ 註 ⑩ に 同 じ,『 前 掲 書 』p.488所 収.