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と そ の 文化 的 影 響 に 関 す る紋 合 的研 究

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ドイ ツ露 草 革 愈 以 降 の 年 清 改 革 運 動

そ の 文化 的 影 響 に 関 す る紋 合 的研 究

(課題番号)11610526

平成11年度 〜 平成 13年度科学研究費補助金(基盤研究(C)(2))研究成果報告書

平成144

研究代表者 : 副島 美 由紀

(小樽商科大学 言語セ ンター)

(2)

この研究は、平成11年度 〜 平成13年度の科学研究費補助金(基盤研究(C)(2))を受けて行 われたものである。なお、研究組織、研究代表者、研究経費等は以下の とお りであ り、次 項以降が 「研究成果」の報告である。

研究組織」

研究代表者 : 副島 美 由紀 (小樽商科大学 言語セ ンター)

交付決定額 (配分額) (金額単位 :千円)

直接経費 間接経費 合計

平成11年度 700 0 7(0

平成12年度 900T O 9()0

研究発表:学会誌等」

1.副島 美 由紀 :

「モダニズムが夢見たユー トピア :ドイツ田園都市建設の歴史(2)一労働者コロニー の建設」、小樽商科大学 「人文研究」第97輯(135160頁)(1999)

2.副島 美 由紀 :

「モダニズムが夢見たユー トピア :ドイツ田園都市建設の歴史(3)‑E・ハ ワー ドに 先ん じた ドイツの田園都市構想」、小樽商科大学 「人文研究」第 100輯(179‑209 頁)(2000)

3.副島 美 由紀 :

モダニズムが夢見 たユー トピア :ドイ ツ田園都市建設の歴史(4)‑ へ レラウの誕 生‑」、小樽商科大学 「人文研究」第103 (153‑173)(2002)

研究成果による工業所有権の出願 ・取得状況」

な し

‑2‑

(3)

研究成果」

日次

1.研究の 目標 と内容

2.ドイツ世紀転換期 の生活改革運動 2‑1.背景

22.菜食主義運動 2‑3.菜食主義運動 24.禁酒運動 2‑5.裸体運動 2‑6.芸術教育運動 2.7.土地改革 と入植運動 2.8.田園都市構想

9.ドイツ田園都市協会 の誕生 3.住宅改革の歴史

2.労働者住宅の F'発見'' 31.住宅改革運動の課患

3̲3.ベル リンの労働者住宅 1 3‑4.イギ リスの前例

35.ドイツの代表的労働者コロニー 3̲5̲1.ミュールハ ウゼ ン

3̲52.クル ップ ・コロニー 5̲3̲グ ミンダース ドルフ 3‑6.コロニ‑ と生活改革運動

4.E・ハワー ドに先ん じた ドイツの田園都市構想 4‑1.社会改革者テオ ドール ・フリッチュと土地改革論 4‑2. ̀̀未来都市''の様相

4‑3.理想都市計画の系譜

4‑4. ̀̀未来都市" と反ユー トピア ・反ユダヤ主義 4‑5.田園都市構想か ら国家構想へ

5. 田園都市へ レラウの誕生 5‑1. ̀̀へ レラウの子供 たち"

2.カール ・シュ ミッ トと ドレスデ ン ・クラフ ト工芸工房 53.へ レラウの始 ま り

4.ダル ク71‑ズ学校 とヘ レラウの芸術教育 5‑5.芸術家コロニー

5‑6. へ レラウの試練 6.今後の研究計画

(4)

1.研究の目標 と内容

「ドイツ産業革命以降の生活改革運動 とその文化的影響に関する総合的研究」は、 ドイ ツ近代史、特に文化史の研究分野に属するものである。ドイツ近代の文化史研究 と言うと、

これまで主にヴァイマール時代の文化を中心に行われてきたが、そのヴァイマール文化を 準備 した とも言える生活改革運動に関 してはこれ までほとん ど学問的に論 じられたことが ない。 というのも ドイツ文化史の研究は従来芸術および政治の次元をあま り離れることな く行われてきたか らである。 しか し文化史はもっと下部構造 と近い領域の問題 に関 しても 論 じられ る必要がある。ドイツの生活改革運動は、19世紀後半に急激 に進行 した産業革命 によって生 じた社会の歪みを是正する試みであ り、それは住宅改革、土地改革、田園都市 運動、菜食主義運動、裸体運動、芸術教育運動、衣服改革、女性運動等々の様 々な社会改 革運動を総括的に含んでいる。それは近代 を迎える過渡的な試練の過程で起 こったものだ が、その理念の源流は実はヨーロッパの伝統的なユー トピア思想にあるOよってこれ らの 生活改革運動の歴史を全般的に研究することによ り、ルネサンス時代か ら始ま りヴァイマ ール時代のモダニズムへ と至るヨーロッパ、特に ドイツの社会改革思想の脈流について考 察することが本研究の 目標である。具体的な研究 内容に関 して言えば、 1)まず ドイツに おける生活改革運動の様々を紹介すること、 2)その中心的課題である住宅改革の歴史に 焦点を当て ること、 3)さ らにあ らゆる生惰改革運動の理念が結実する場所 と言われた田 園都市建設運動を検証することが必要であった。 よって以下では、その3点を中心 とした 研究成果の紹介を行っている。

2.ドイツ世紀転換財の生活改革運動 2‑1.背景

イギ リスよ り約半世紀遅れて産業革命が始 まった ドイツは、19世紀の半ばに急激な経済 成長期 を迎えた。それに伴い多 くの社会問題が発生 したが、特に深刻な問題 となったのが 人口の農村離脱 と都市への流入である。人 口の自然増及び行政 区改正の結果 も影響 して、

19世紀半ばか ら後半にかけて ドイツ国内では都市人口の急激な増加が起 きている。ある統 計によると、人口10万を超える ドイ ツの大都市数は1850年の 2か ら1904年の41l た全人口に占める大都市人口の割合は 1871年の4,80/.か ら1910年には21,3%に増加 して いるO‑方人口2干以下の地域に住む住民は1871年の64%か ら1910年には40%に減少 し、

2人口の流入 したベル リンでは1907年の住民 中、ベル リン生まれの者は40,5%に過 ぎなか った という。 3都市は構造改革 を必要 としていたが、邦国の王都か重商主義の都でもない限 り町はほぼ中世時代のままで、それ らの都市でも公共建築物の整備に比べて住宅建築は大

IKrabbe,WolfgangR,GesellschaftsanderungdurchLebensreform ・G6ttingen,1974,p・16・

2Linse,tnrich,OkopaxundAn archie.M血chen,1986,p.14f. ,

3ibid・,p・15・

‑4‑

(5)

きく立ち後れていた。急激な地価の高騰を反映 して4大都市には 〃賃貸兵舎刀と呼ばれ る高 層の粗悪な団地アパー トが多 く出現するようになるOこれ らの住居は狭い上に下宿人を置 かな くては支払いが国華なほど家賃が高 く、1880年のベル リンでは22%の住居に下宿人や 同居人が居た という。一つの部屋に 6人以上が寝起 きすることも珍 しいことではなかった。

5

"賃貸兵舎/Jァパートの内部(1908)

ベルリンのアパート(1900頃)

国の経済発展 と中産階級の成長の裏側で "大衆貧窮"が進行 していた。人口の流出 した 農村部では十分な労働市場 を提供する経済活動が困難になる一方で、大都市では過密人口 による都市間題が深刻化 してゆ く。不衛生で劣悪な住環境 と食生活の変化による疾病が増l 加 し、犯罪率の上昇や性道徳の低下など、労働者階級の "粗暴化"も顕著になって くる。

都市には "水頭症"〝文化 のペス ト腺種""牢獄"といった汚名が着せ られ、 6大都市嫌悪の 風潮は工業化批判や工業化 を推進 した学問に対する批判 と結びつき、文化ペシ ミズム とな って社会全体に鉱がっていった。

19世紀後半に始 まった ドイツの生活改革運動(Lebensrefom bewegungen)はそのような背 景のもと、 1880年頃か ら社会的広が りを見せるようになる.それは住宅改革、土地改革、

入植運動、菜食主義、 自然療法、裸体運動、芸術教育運動、禁酒運動、衣服改革、女性運 動、婚姻生活改革、表現ダンスな ど様 々な状況改善の試みの総称で、その共通の目標は、

農村に人口を還元 して産業革命以前にあった とぎれ る社会的調和を取 り戻 し、 自然 と結び ついた生活を送 ることによ り産業の機械化によって低下 した人間の価値 を回復することで あった。

そ してこれ らの様々な生活改革思想が最 も確実かつ有益に結実する場所 として、後に田園 都市の構想が生 まれ ることになるが、まず以下において、代表的な生活改革運動の中か ら 菜食主義運動、禁酒運動、裸体運動、芸術教育運動、土地改革運動、そ して入植運動を紹 介 し、その連関を把撞 しなが ら田園都市運動への流れを追ってみたい。

2‑2.菜食主義運動

41860年代から90年代にかけてのベルリンの地価は30倍にもなっている.Krabbe,ibid.,p.17

5ibid"p・21fl

6ibid・,p・14f・;Fritsch,Theodor,DieStadtderZukunft・Leipzig,1896,p・5・

(6)

菜食主義は生活改革運動の中でも最 も古い歴史を持つ ものである。西洋においてヴェジ ク リアンの祖 と呼ばれているのは実は数学者のピタゴラス(A.D.580500)で、彼の菜食の 思想は古代エジプ トの宗教 とゾロアスター教の影響下にあると言われている。"ピタゴラ スの教え(pythagoraismus/pytahgoraischeLehre)"とい う言葉は1850年代 に'VegetariamismHと い う用語が定着するまで α菜食主義"と同義であった。 7近代の菜食主義は、食生活の変化 による疾患克服のための食養成 という側面 も当然持ち合わせてはいるが、その理念は古代 の菜食主義 と同様宗教に根 ざ してお り、17、1名世紀のプロテスタン ト宗派が厳格な聖書解 釈によって楽園追放以前の菜食生活を再発見 したことに始まっているO菜食主義は次第に アングロサクソンの文化圏、特にセヴンスデイ ・ア ドヴェンテイス トや長老派、クェ‑カ ー教徒等の間で広 まっていった。最初の菜食主義協会がイギ リスに誕生 したのは1糾7年で、

長老派の生理学者 シルヴェスター ・グラハム(SylvesterGraham )が創案 したグラハム ・ブレ ッ ドやセ ヴンスデイ ・ア ドヴェンテ イスの医学博士ジョン .バーヴェイ ・ケロッグ(John HaJVeyKellogg)によるシ リアル食品等、この頃の産物である健康食品は少な くない.『生活 改革による社会変革GesellschaRsanderungdurchLebensreform』(1974)の著者、クラツベによ ると、 ピタゴラス時代の菜食主義 と近代の菜食主義の相違点は倫理的基準に加 えて栄養学 的な観点が備わっているか どうかにあるのではな く、時代の要請によって組織的運動にな

り得たか どうかにあるとい う。8 1

ドイツにおける菜食主義運動の特徴は、牽引役 となったのが3月革命の闘士達であった ことである。ル ソーの影響 を強 く受けたグスタフ ・フォン ・シュ トル‑ ヴェ(Gustavvon Struve,18051870)やフランクフル ト憲法制定会議の民主派議貞だったエ ドゥアル ト ・パル ツアー(EduardBaltzer,1814‑1887)等で、彼等は1848年の革命挫折の後、生活改革に政治活 動の代替物を求めた と言われてお り、 9それぞれ菜食主義協会を設立 し、著作活動10を通 し て菜食主義理論の確立に努めた。特に ドイツ菜食主義運動最大の理論家であ り自由教会派 の牧師でもあったパルツアーは、人類が果実を主食 とすべ く創造された という教義を説 き、

自然 との調和 という観点か らあ らゆる殺生 を禁 じて家畜を使用 しない農業 と動物愛護 を奨 励 した。精神 と魂の器である肉体をいかに して清浄に保つか という問題だった菜食主義は、

次第に自然環境を視野に入れた世界観的な広が りを持つようになる。パルツアーの教えに よれば菜食主義 とは個々人の内面において 自然 との近縁性を高める抽象的なユー トピアで あると同時に社会的な改革でもあ り、菜食主義者達はこの運動があ らゆる生活改革の中で 最 も高次で徹底 した段階であるという自負を持っていたllその後パル ツアーの影響 を受 け、菜食 と動物保護 による生態平和の福音を説 く説教師達が現れるようになる。『新 しい信

7Baumgartner,Judith,Em幻lrungSrefbrm‑An twortauflndustrialisierungund Ernahrun gswandel.Frankfurta.M.,1992,p.93.

8Krabbe,ibid"p.51.

9ibid.,p.57;Baumgartner,ibid.,p.94.

10]al2;er,Eduard,DienattirlicheLebensweise,4Bde.,Nordhausen,1867‑1872.

Struve,Gustavvon,Pflan2;enkost:dieGrundlageeinerneuenWeltanschauung, Stuttgart,1869.

llErabbe,ibid.,p.48.

‑6‑

(7)

P euerGlaube)』(1895)を出版 し、H・ヘ ッセに影響を与えたと言われている12シュヴァ

‑ベンの思索家クリスティアン ・ヴァ‑グナ‑(Christian Wagner)や、モ ンテ ・ヴェ リタの アウ トサイダー的求道者ダス ト グレーザー(GustoGraser,1879‑1958)13等、"自然食運動の 使徒(Kohlrabi‑Apostel)"と呼ばれ る探求者達である。また、当時はいわゆる "疑似宗教の インフレ時代"で もあった。東洋思想やカバ ラの影響を受けた神智学やゾロアスター教の 再興運動であったマズダ教等も菜食 ・禁酒 ・動物愛護を奨励 してお り、入管学のR・シュ タイナー も穀物を中心 とした食事 と環境平和的農業 を推進 しようとしていた。 14

人間 らしい理性的な生活 と自然の法則に即 した経済活動の探求は、当時影響力を持 って いたダーヴイニズムとも矛盾 しないものだった。菜食主義は反近代主義者のみな らず進歩 主義者達 にも受け入れ られ るようにな り、 1892年には 「ドイツ菜食主義 同盟P eutscher vegetarierbund)」が個々の地方組織をまとめて全 ドイツ的組織 となる。その翌年スイスに誕 生 した菜食主義者の入植協 同組合 「ハイムガルテ ン」や、ベル リン郊外にできた ドイツ最 初の入植運動 「果樹 園コロニ‑ ・エデ ン」、またシュタイナーやヘ ッセ等が集 ったアスコー ナのモンテ ・ヴェ リタ、フ リー ドリヒスハ‑ゲンの文学サークルか ら生まれた 「新共 同体 p eueGemeinschaft)」等はみな菜食主義を信条 としていた。そ して後述するように、「ドイ ツ田園都市協会」は主にこの 「新共 同体」の理想主義者達によって創設され るのである。

第一次大戦後は しか し多 くの生活改革運動が影響力を失い、菜食主義運動 も下火になっ てゆ く。エデンとモ ンテ ・ヴェリタを除 くと当時のコロニーはすべて1920年頃までに経営 難による破綻を迎えた。が、革命時の民主派が推進 した菜食主義運動はそもそもロマ ン主 義 と革新的な敬度主義 とい う二つの ドイツ的伝統 に立脚 したものであ り、地上における千 年王国的ヴィジョンの世俗化された形態はその後 も様々な形で顕れることになる。例えば 指導者待望の心理は 〃自然食運動の使徒"達によって第一次世界大戦 を越えて担われてい 、 15菜食主義運動は70年代に入って新たなエコロジー運動 として再生する。また、革新 的な理想の実現に向かう ドイツ的伝統の力を、我 々は現在 も 「緑の党」のようなオールタ

ナテイヴ運動に窺 うことができるのである。

2‑3.禁酒運動

後述するような "大都市脱出"や菜食主義のようなイデオロギー変革を伴わず して生活 改善を可能 にする方法 として、禁酒運動は重要な生活改革運動の‑つであったO原理吋な 源は菜食主義 と同 じく清教徒吋禁欲主義にあ り、 1§26年ボス トンでの節酒協会設立以来、

運動はプロテスタン ト圏内を中心 としたヨーロッパに拡大 していった。教会主導型であっ た当初の運動に代わって学問的見地に基づいた近代的禁酒主義が登場 して きたのは、飲酒

12Lhse,ibid・,p・63

13Linse,Urlich,BarW igeProiTeten:Er16serderzwanzigerJahre.Berlin,1983,p・68ff・

14Baumgartner,ibid・,p・74,91

15Linse,Urlich,BarW igeProfTeten二Er16serderzwanzlgerJahre.Berlin,1983・

Hesse,Hermam,DieMorgenlandfihrl,inHermannHesse,GesammelteWerke,Bd.8,Frahkfurta M.1970.

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の習慣が産業化社会の諸問題 を反映 して変化 していった1880年代半ばのことである。当時 アルコール受容の中心が以前の火酒か ら瓶入 りピールに移 り、 ビールの消費量が半世紀の 聞ほぼ3倍 に増加するという変化が起 きていた。醸造業の大規模化が大量消費を可能に し、

北 ドイツ同盟における職業の 自由化によって酒場の数 とリキュール類 の消費量 も同時に増 えている。 16社会には代替 となる娯楽が少な く、労働者にとって酒場以外に社交の場 を兄 いだすことは困難であった。アルコール問題は大都市間題 とも密接に結びついていたので あ る。 ドイ ツにお け る近代 的禁 酒運 動 の 中心 とな った団体、 「ドイ ツ暴 飲 対策 協会 (Deutscher Verein gegen den MiJ3brauch geistiger Getranke)」、 「青 十 字 節 酒 協 会 (MaDigkeitsvereindesBlauenKrelReS)」、「国際禁酒協会 ドイ ツ支部(hternational Orderof GoodTemplars)」等は、以下のような国民経済上 ・公衆衛生上の4つの見地か ら、禁酒 ・ 節酒運動を展開 してゆ く。

1. 生理学的見地 :飲酒は体質の弱体化をもた らす。

2.人種主義的衛生学的見地 :飲酒は遺伝的疾患をもたらす。

3.国民経済的見地 :健康で屈強な国民のみが国際的競争に勝 ち得 る。

4.心理学的見地 :飲酒を しない者の方が、生活 と労働に対 して建設的である。 17

ドイツにおけるダーヴイニズムの提唱者であるエルンス ト へ ヅケル(EmstHaeckel)も所 属 していた 「ドイツ暴飲対策協会」は、教育、栄養問題、住宅問題等、その他の生活改革 の分野 と関連 した節酒啓蒙活動を行い、アルコール中毒矯正施設や娯楽施設の建設 といっ、

た淘実的なプログラムによ り持続的な禁酒の定着を狙った。1902年、協会は下部組織 にあ たる 「ドイツ居酒屋改革協会 peutscherVerein鈷 Gasthausrefbm )」を設立 し、娯楽施設を 公有化 してその領域か らアルコールを遠ざけ、喫茶店やアルコールを置かない飲食店 を増 や し、 さらには都市に図書室や談話室を設置するな どの運動を展開 している。 18この頃か らドイツにおける禁酒運動は労働運動や社会民主主義運動、芸術教育運動や青年運動等 と 関わる広が りを持つようになるのである。

社会民主党の代表 として1919年オース トリア首相に、さらに後年は連邦大統領になるカ ール ・レナ‑(KarlRenner,1870‑1950)、1905年に誕生 したプロレタ リア的旅行クラブ 「自 然友の会 PieNatLH%eunde)」の創立メンバーであるが、後年 この運動を回顧 して次のよう に語っている。「プロレタ リアは(…)自然か らも締め出されていた。(‥.)夜は外気も入 らず寒 もささないあば ら屋に押 し込め られ、昼は産業監督官の 日もめったに届かない工場や作業 場に集められるプロレタ リアが、途 中の休憩時間に頼みにするもの といえば、居酒屋の小 部屋であ り、アルコール という慰めだった。プロレタ リアにとっては 自然を、つま り力 と 美の無尽蔵の源泉 を持つ 自然を、人間の精神によって徐々に秘密を暴かれて きた驚 くべ き 法則を持つ 自然を、奪い返すことも重要なことたったのだ」 ‑9ァルコールを手にする代わ りに 「自然の中に出てゆ く」ことを労働者 に勧奨 した 「自然友 の会」の自然への信頼 を裏 打ちしていたのは、ブルジョワ的なヴァンダーフォーゲルや民族的な郷土保護運動におけ

16Baun gartner,ibid・,p・98f

17Krabbe,ibid・,p・38・

1gibid.,p.41ff;Baum gah er,ibid・,p100・

‑8‑

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るような新 ロマ ン主義 よ りもむ しろ世俗化 され たダー ヴイニズムの進歩思想 だった。 レナ

‑は社会民主主義 の観点か ら、多種多様 な プロレタ リア文化 団体 の擁護者 とな る。

青年層のための啓蒙活 動 を展 開 したのは 「国際禁酒協会」であ る。 20社会制度 として の アルコール消費に着 冒した この団体 は、青年組織 を形成 して若年層 を早 くか ら啓蒙 するこ とでアル コール依 存の潜在 的可能性 を最小限に止 め ようとした。1888年以来労働者や手工 業者、学生や高校生 に対 す る活動 を行 い、1914年 には1800の支部 に6万の会 員、600の青 年組織に3万の会員 を有 し、 ドイ ツ最大の禁酒運 動団体 とな ってい る。後述す る芸術教育 運動の雑誌 「芸術 の番人(Kunstwart)」及びその活動 団体 である 「デ ュー ラー 同盟」 も禁酒 を支持 していた。

田園都市のアル コール対策は 「ドイ ツ田園都市協会」のプログラムにはっき りと明示 さ れてい るoイギ リス式一戸建 て住宅の建設は換気や採光 に気 を配 った住 宅改善 を可能 に し、

各戸に設置 され た庭 は余暇 を 自宅で過 ごす可能性 を生み、情操面での生活改善 に役立つは ずであった。酒場 の数 を制限 して飲酒 を抑制 し、 コ ンサー トホールや図書館 の建設に よっ て芸術 教育 を行 うこ ともその重要 な 目標 の一つであった。 21現に 田園都 市へ レラウに居酒 屋 と呼ばれ得 るものは一件 しかない。

2‑4.裸体運動 .

裸体運 動は1854年、スイスの 自然療法 医アル ノル ト ・リク リ(AmoldRikli)が 自分 の療 養施設 に設 けた 日光浴場 か ら派生 した と言われて い る。以降、 自然療法及び菜食主義 の広 ま りと共 に 日光 ・空気浴場 も流行 し、 同時 に裸体運 動 も社会 に広 まっていった。それ は健 康上の運動であ ると同時に肉体的な ものに対す る過少評価や蓋恥心 を克服 して 肉体 と精神 の調和 の とれた発達 を 目指 す社会運動でもあ り、その理念は当然 ヴァンダー フォーゲルの ような青年運動や表現ダ ンス運動等 と通底 す るものであ る。

裸体運 動の代表 的推 進者 と して挙 げ られ るのは、 ヨハ ネス ・グ ッ トツ アイ ト(Johannes Guttzeit), リヒ ヤル ト ・ウ ンゲ ヴ イ ツタ‑ (Richard Ungewitter),ハ イ ン リヒ ・プ‑ ドア (Heimi ch Pudor), 画 家 の カー ル ・ヴ イル ヘ ル ム ・デ ィー フ ェ ンバ ッハ匹arlWimelm Diefenbach)とその弟子 フィー ドウス伊idus,18681948)等で、特 に裸体 を多 く描 いた フィー ドウスの作 品は有名であ るCが、 これ らの運動家 は実 によ く活字 を利用 して観 念的な啓蒙 活動を行 っていた。中で も重要 なのは雑誌 「力 と美(払 aftundSch6nheit)(1901)の創刊 で あ り、それは 「ドイ ツ理性 的休力増進協会(DeutschenVerein蝕rvem屯nfhgeK6rperzucht)」の ための機 関誌の役割 を果 た した。協会は後 にハ ンブル クや フランクフル トに も支部 を持 ち、

名誉会員 に ドイ ツ参 謀総長 の フォン ・モル トケ を擁 する 「ドイツ身体文化協会(Ⅵ汀einfar K6rperkultur)」 とな る。 22

19Linse,OkopaxundAn aTChie.p150.

20Krabbe,ibid・,p.45f.

21schollmeier,Axel,GartenstadteinDeutschland・Mtinster,1988,p・68・

22ibid・,p・94・

(10)

ヌーディス ト達は多 くが菜食主義者でもあ り、いわゆる "自然食運動の使徒"達であっ た.特に雑誌 「新 しき人間PerneueMensch)」の編集に加わっていたヨハネス ・グットツ ァイ トは菜食主義グループ 「ピタゴラス同盟(Pythagoraerbund)」(1884)を設立 し、「自然の 伝道者Paturprediger)」を自認 していた。チュニカと呼ばれる長衣を身に纏い、新たな倫理 観を説 く予言者然 とした彼等は文学者達の関心を引 く。フィー ドウス と同様 フリー ドリヒ ス ハ ‑ ゲ ン 文 学 サ ー ク ル に 関 わ っ た ゲ ア ハ ル ト ・ハ ウ プ トマ ン(Gerhart Hauptmam,186211946)は、グットツアイ トをモデルに した短編 「使徒PerApostel)(1890) の中で倫理的菜食主義を唱えなが ら日光による裸体の浄化 と解放を信 じる若き宗教家を描 き出 しているo 自らが救世主だという幻想に取 り付かれた求道者のモチーフは、後年 「愚 かなるキ リス ト者エマヌエル ・クヴイン トPerNarrinChristoEmanuelQuint)J(1910)へ と 発展することになる。また、 トーマス ・マンの 「予言者の家で(Beim Propheten)」(1904) 登場するのは好奇心 と暇を持て余 した都会のインテ リ達に救済の教えを説 く尊大な説教師 達だ。 ミュンヒェンのルー ドヴィヒ ・デル レー トO.udwigDerleth)がモデルであると言われ ているこの短編は、当時の "賃貸兵舎"内の狭苦 しい住居の様子 も巧みに描写 している。

同じくマンの 「神の剣(GlaudiusDei)」(1904)や、アスコーナのグス ト・グ レーザーを登場 人物の雛形 とするヘ ッセの 「東方巡礼 (DieMorgenlan曲 叫 )(1932)等、世紀転換期の "イ ンフレ聖者達"や千年王国への憧懐を題材に した文学作品は多い。作家達も 「黙示録的な

1 興奮状態」 23を共有 していたのである。

デ ィー 7 エ ン バ ッハ (1851‑1913)とフ ィー ドウス (1868‑1948) (1888頃)

空気 ・日光 ・太陽浴を/」

7イー ドゥスの素描(1901)

裸 体 主 義 者 の雑 誌 と して 次 に 挙 げ るべ きは、 ハ イ ン リヒ ・プ‑ ドアPeinriCh pudor,1865‑1941)の 「 (DieSch6nheit)」 (1903)である。官能に対する健全な思考の滴蓑 を目的としていたこの雑誌は、ナチスの芸術に関するイデオロギーを準備することになる

24ヵ‑ル ・ハ イ ン リヒ ・シュ トラ ッツ(CarlHeimi ch Strat2:)の 『女性 の人種美 (Die Rassensch6nheitdes Weibes) (1901)や バ ウ ル ・シ ュ ル ツ ェーナ ウ ム ブ ル ク(paul schulzeNaumburg)の 『婦人服の基礎 としての女性の身体文化PieKulturdesweiblichen

23Linse,BarfaBigeProfTeten,p・28・

24副島美由紀 「近代 《病理》のイコノグラフィー」血:小樽商科大学 『人文研究』第91韓,1996, p.189194,

lot

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K6rpersalsGr皿dlagederFrauenKleidung)』(1902)といった著書 を高 く評価 していた0 25その 後プ‑ ドアの思想は肉体の解放 といった側面か ら肉体的な克己による人格形成 といった教 育的側面に重心を移 してい く。 26

1910年、へ レラウの建築 ・芸術監督委員会は、コ ミュニティが推進すべき芸術 としてダ ンスを選び、 リズムと音楽による新たな身体教育プログラムを持っていたダルクローズ学 校を誘致する。この新 しい共同体は恐 らくプ‑ ドアにとって理想的な活動の場であったろ う. へ レラ ウ移 住 後 、 彼 は 「美 」 に 関 わ って い た ブル ー ノ ・タ ン ツマ ン@runo TanzmarLn,1878‑1939)と共に 「ハーケンクロイツ出版社」を設立 し、民族的思想の普及に努 めることになる。 27タンツマンは芸術教育家フェルデイナン ド ・アヴェナ‑ リウスに詩作 を認められて活動を開始 した作家で、やは り民族主義的教育に関心を持っていた。そ して 20年代初めに農業学校を設立 して文字通 り "血 と大地"のイデオローグとなるのである。

28田園都市における人種的対立の種は早 くか ら蒔かれていた。

へ レラウ,ダルクEl‑ズ学校 の 日光浴場

へ レラウの リ トミック体操

第一次世界大戦後、裸体運動p ackkultur)はある種のいかがわ しいイメージを払拭する ためヌーデイズムOIreik6rperkultur)と名前を変えて復活する.そ して公営のスポーツ施設 や体育大学を生み出 してゆ く大きな身体文化の流れに合流 してゆ くのである。その意味で 裸体運動は生活改革運動の中で最 も広範な効果をあげた運動だと言えよう。ハ リー ・ケス ラー伯爵の有名な 日記の中か ら1930年の記述を引用 してみよう。彼はある日外務次官に連 れ られてベル リンの体育大学を見学に行 く。後にベル リン ・オ リンピックを指揮するカー ル ・ディーム博士が1920年に設立 した学校である。その時の印象を彼は次のように記 して いる.「広 々した校内には陽光が燦々と降 り注 ぎ、各種のスポーツの練習に励む殆 ど裸体に 近い若者達の活気がみなぎっていた。その明るい光 と暖か く香 しい空気に包まれての印象 はまさにギ リシャ的であった。仁)裸体、光、空気、そ して誤った蓋恥心や給麗事な しに、

生を、肉体的完全を、感覚を讃える生 き方。現代の若者にあって、肉体が、肉体にまつわ る現実が、 この運動の波に従っている様子は驚嘆すべ きことでもある。今 日の若者達は戦 前の若者達 と歓べ るとなん と美 しいのだろう。人々が裸体で歩 くことを恥ずか しが らな く

25DieSch6nl1eit,18,BaIlqHeft3,p.49;Krabbe,ibid.,p.95.

26h dor,Heimi ch,Erziehmgoh eBticher,in:DieSch6nheit,18・Band,HeR3,p37‑391

27sarfert,Han gJtirgen,Hellerau:DieGartenstadtundK血stlerkolomieDresden,1992,p91.

2台Fasshauer,Michael,DasPhanomenHeuerau:DieGeschichtederGartenstadt.Dresden,1997,p・256・

参照

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