イヴァン雷帝 とクール プスキー公の往復書簡試訳 (Ⅰ)
粟生沢 猛 夫
(Ⅰ) イヴァン雷帝がクールプスキーに宛てた第一の書簡 ( 第一詳細版) ( 承前)
この頃 まで に汝 らの頭 目で あ るか の犬 ア レクセ イ ・ア ダー シェ フが わが帝 国 の宮殿 に仕 え る よ うにな って い た。 わが若年 の頃彼 が いか に して露 払 の 身 か ら 成 り上 が ったのか , わ た しは知 らな い。 われ らは高官 らの間 に上述 の如 き裏切 行 為 の あ るの を知 ったの で, この者 を塵 芥 の なか か ら引 き上 げ, ま った き忠義 を期待 して,彼 を高官 らと並 ぶ地 位 につ けたの で あ る
。一 体 わ れ らが彼 に, い や彼 の み な らず彼 の一 族 全体 に与 え なか った名誉 や富 が あ るだ ろ うか . ′これ に た い しわ た しは いか な る誠 実 な奉 公 を彼 か ら得 た で あ ろ うか。 ( 1 ) さ らに続 けて 述 べ よ う。 わ た しはその後 シ リヴェ‑ ス トル司祭 をわが霊 の導 き と魂 の救 済 の た め に受 けいれ た。 ( 2) 彼 が主 の玉 座 の傍 に立 つ者 と して, 己 が霊 魂 を正 し く保 つ で あ ろ う と期 待 して の こ とで あ っ た。 だ が彼 は天 使 と と もに主 の玉 座 の傍
‑ そ こで は天使 らが うや うや しく身 を屈 めん と願 い, ま た世 の救 いの ため に
( 1) 「 塵芥」のなかか ら引き上 げられたというアレクセイ ・フヨー ドロヴィチ ・アダー シェフは実は地方 (コス トロマ‑)士族 1 0 ) , T = E L の出であるo彼の父7 * ‑ i ̲ 蒜 ドル ・グリ ゴー リエヴイチ ・アダーシェフは 1 5 48 年 侍従官 となり ,15 53 年 には 貴族 となった。
アレクセイの方 は 1 5 47 年寝殿官,1 555 年には侍従官 となったにすぎないが,ツァ‑リ の信頼厚 く , 「 選抜会議」の指導的人物の一人 として改革政策を遂行 した。また嘆願 庁の長官でもあった。彼の兄弟 ダニールに雷帝は直接言及 していないが,彼 も 1 559 年
に侍従官 とな り,軍事指導者 として活躍 した。
( 2) シリヴェ‑ス トルについては本稿 (Ⅰ) ‑1 2 8 頁,症( 3 3 ) を参照.おそ らくはノヴゴ ロ ド生れの彼がモスクワにやってきてブラゴヴェ‑シテェンスキ‑寺院司祭 となった ( 府主教マカ‑ リーの力添えで)のは,15 42 年か ら 15 47 年 にかけてのことであった。
1 5 47 年頃か らツァーリの帰依 をうけ,影響力を強めていった。
〔1 01 〕
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いつ も神 の子 羊 が犠牲 と して捧 げ られ, しか もなお [この犠性 は] 決 して尽 き る ことが ない‑ に立 つ とい う聖職 者 の誓 い と按手 の礼 に違 反 した
。彼 は肉 の 身 で あ りなが ら, 自 らの手 でセ ラフ イム ( 3) の奉仕 を行 うにふ さわ しき者 と され た。 と ころが彼 は校滑 に もこれ らをすべ て蔑 ろに し, ただ初 めの うちだ け,神 の書物 に従 って正 しく歩 むふ りを したの であ る。 わ た しは神 の書物 に,善 き教 師 には迷 うことな く服 従 すべ きで あ ると記 され てい るの を知 り,彼 に霊 の助 言 を求 めて 自 らの意志 で聴 き従 ったの で ある。決 して無知 ゆえ にそ う したの で は なか った。 だが彼 は祭 司エ リの よ うに ( 4) 権 力 に有頂 天 とな り,俗 人 と同様 に徒 党 を組 み だ した。 その後 われ らはロ シア府主 教 区のすべ ての大主教 と主教 , ま た聖 な る全 教 会 会 議 を召集 し, ( 5) その席 上 神 の祈 り人 な るわが父全 ル ー シの府 主教 マ カー リー ( 6) の前 に, われ らが若 年 の頃 な した こと, す なわ ち汝 ら貴族 に わ た しが下 した失寵 につ いて, また汝 ら貴族 のわれ らにた いす る反抗 と過誤 に つ いて, これ らすべ ての事柄 につ いて, 自 ら赦 しを乞 うたの で ある。 またわれ らは汝 らわが貴族 と全 人民 の犯 した過 誤 を赦 し,今後 一切 これ を想 起 しな い こ とに した。か く して われ らは汝 らをすべ て善 き民 とみ なす ことに したの で あ る
。だが汝 らは己が以前 の校滑 な慣 習 を捨 てず再 び旧習 に舞 い戻 り,誠意 を もっ てで はな く校滑 な助言 を もってわれ らに仕 え始 め た。万事 を誠実 にで はな く,
よ しみ
悪 意 を もって行 った。 か く して シ リヴェ‑ ス トル 司祭 とア レクセ イも 誼 を通 はかり こと
じ, われ らを分 別 な き者 と考 え,密 か に 謀 略 をめ ぐ ら し始 め た
。この よ うに して彼 らは霊魂 につ いてで はな く,俗事 につ いて相談 を始 め, また汝 ら貴族 全 員 を徐 々 に不服 従 へ と導 き, わが権 力 を奪 って ( 7) 反抗 へ と駆 りたて た。彼 らは
( 3) ヤーウェに奉仕する六つの翼をもつ天使。
( 4) 本稿 (Ⅰ) ‑1 3 9 頁参照。
( 5 ) おそらく 1 5 4 9 年 2 月の教会会議のこと。このときツァJ )は高位聖職者や高位高官 を前に ,3 0‑4 0 年代の政治の混乱の責任 を貴族 らに帰 し,諸問題を平和裡に解決する ことを命 じたうえで,恩赦を約束 した。
( 6 ) ロシア府主教 ( 1 5 4 2‑1 5 6 3) イヴァン四世をツァJ )として戴冠 させ ( 1 5 4 7 年) , カザ ン征討を提唱するなど,需帝の専制権力甲強化に努め,そのイデオロギー的支柱 となった。他方新たに 5 0 人もの聖人を列聖させ,雷帝の教会財産 ( 所領)制限策に反 対するなど,ロシア教会の精神的 ・物質的強化をもはかった。
( 7 ) 原文 は 「わが権力を汝 らから奪って」とある . c BaC は c HaC の誤 りかO
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汝 ら を 名 誉 に お い て わ れ ら に 劣 る と こ ろ な き 者 と し, さ ら に 下 層 の
ジエチ ・ポヤ‑ルスヰエ
小 貴 族 を名 誉 に お い て 汝 ら と並 ぶ 者 と な した の で あ る。 この よ う に して 彼 らの 悪 事 は徐 々 に増 し加 わ り, か くて汝 らに も世 襲 領 や 町 や村 が分 配 され始 め た。 そ れ は わ が祖 父 な る大 君 〔イ ヴ ァ ン三 世 〕 の命 に よ っ て汝 らか ら没 収 さ れ た世 襲 領 地 で あ り, わ れ らか ら奪 って他 人 に与 え て は な らぬ もの で あ る。 そ れ を彼 らは資 格 も・ な い の に, あ たか も風 の 吹 くま に ま に方 々 に分 配 し, わ が祖 父 の 法 に反 した の で あ る。 ( 8) この よ う に して彼 らは 多 くの者 共 を 自陣 営 に ひ き
シンクリト つ け た 。 そ の後 彼 ら は一 味 の ドミ トリー ・クル リヤー チ ェ フ公 を わ が 会 議 に 引 き入 れ た 。( 9) 彼 は荻 滑 に も霊 の 導 き の た め と偽 っ て わ れ ら に接 近 し, これ を 行 うの も魂 の た め で あ って ,邪 念 か らで は な い と言 うの で あ っ た。 か くて彼 ら は一 味 と と も に会 議 を悪 党 の集 会 と し,彼 らの追 随 者 の 占 め な い地 位 は一 つ も な か っ た ほ ど で あ る。 彼 らは この よ うに して 万 事 に お い て そ の望 み を達 した の で あ る。 そ の後 彼 らは そ の仲 間 た ち と と も に, わ れ らが父 祖 か ら受 けつ い だ権 力 を奪 い取 っ た 。 汝 らは わ れ らの恩 寵 の ゆ え に貴 族 と され て お りな が ら,‑ これ に よ り [さ らに] 名 誉 と高 い地 位 を得 て尊 敬 され ん と望 ん だ の で あ る。 か く し て これ らす べ て が 汝 らの手 中 に帰 し, わ れ らに は何 も残 され な か っ た。 万 事 が 汝 らの意 の ま ま に行 わ れ , 誰 もが思 う通 りに振 舞 っ た。 そ れ か ら互 い の友 誼 を 通 じて そ の地 位 を固 め , 全 権 力 を意 の ま ま に し, わ れ らの意 向 は一 切 きか ず ,
( 8) シリヴェ‑ス トルとアダーシェフが国有地 を 「 風の吹 くまにまに」分配 したとい う 非難が何 を指 しているのか特定することは困難である。1 55 0 年のモスクワ近郊 におけ るいわゆる 「 100 0人の小貴族 にたいする封地の授与」は ( か りに実現 されたと して も) ツァ‑ リ権 力の強化 につ ながるものであ り,ツ ァー リにより非難 される理由はない。
いわゆる 「 貴族支配期」 の土地政策の責任 を 「 選抜会議」 に押 しつ けようと したこと も考 え られる.あるいはまた, ツァJ )の許可 な くして諸公の世襲領 を修道院へ寄進 することを禁 じた15 51 年 5 月1 1日の有名な勅令 にたいする違反 をツァー リが答 めたの か もしれない。
( 9) ドミ トリー ・イヴァノヴィチ ・クル リャ‑チェ70分領諸公 (オボ レンスキ‑諸公 )
の一員。イヴァン幼少の頃 シューイスキー家 に一味 し , 1 5 43 年 にはツァー リの寵臣 ヴォ
ロンツオーフ追 い落 と しに参画 した ( 本稿 ( Ⅰ) ‑1 5 4 貢参照 ) 。 シリヴェ‑ス トル,
アダー シェフらと協力関係 に入 ったのは,彼が貴族 となった 15 49 年頃であろう 。155 3
年 に雷帝が病床 に臥 したとき,彼 は幼 い皇子 デ イミー トリーに最 も遅 れて宣誓 した者
の一人であった。1 5 62 年 アダーシェフ らとともに失寵 を蒙 り,妻子 とともに出家せ し
め られた。その後間 もな くツァー リの命令で殺 された。
10 4 人 文 研 究 第 7 3 輯
あたか もわれ らなど存荏 せぬかの如 くに, 自身 と助言者 らの意 向で万事 を執 り 行 い裁 断 した。 たとえわれ らが善 き提言 をな して も,彼 らはそれ を一切必要 な こととはみな さず,逆 に不必要 な ことで もそれ を行 い,反抗 的で,醜悪 な こと を申 し立 てて は,すべ てが善事 だと言 って行 ったので ある . ′
以上 の ように外面的 に も内面的 に も,些純 なとるに足 らぬ事柄 において も, また敢 えて言 うが食物 や睡眠 に関 して も,万事 われ ら自身の意志 に よる ことな く,彼 らの思 う通 りに行 われ た。われ らはあたか も幼児 の ままでいるかの よう で あった
。は た して成 人 で あ りなが ら幼 児 で あ る ことを望 まなか っ たか らと いって,理性 に逆 らうことになるの だろ うか。事情 はその後 も変 らなか った。
当時 われ らが彼 〔シ リヴェ‑ス トル〕 の もっともつ ま らぬ助言者 の一人 に反対 の意見 を言 わな けれ ばな らな くなると, それ は汝 の悪魔 の中傷 の書状 に記 され ている ように,不敬 な ことの ようにみな され た。逆 に彼 の助言者 の うちの もっ ともつ ま らぬ者 がぅわれ らにたい し主人 や兄弟 にたいす る ようにで はな く,もっ とも小 さな者 にたいす るかの如 くに猛 り狂 って不遜 な言葉 を吐 きつ けたと して も, それ はすべ て敬慶 な ことの ようにみな された。われ らにたい し少 しで も耳 を傾 け,穏 やか な態度 でのぞむ者 が あれ ば, その者 には激 しい苦難 と迫害 が加 え られ た
。逆 にわれ らを慣 らせ ,何 とか して抑圧 を加 え ようとす る者 には,富 と栄光 と名誉 とが与 え られ たO も しされ る, が ままに耐 えていなか ったな ら, わ が霊 には滅 びが,王 国 には荒廃 が もた らされ たであろ う. /この ようにわれ らは 激 しい迫害 と抑圧 の下 におかれていた。 彼 らの悪行 は 日毎 に,それ どころか時 々 刻 々甚 だ しくな ってい った。われ らに逆 らう者 が増 え,従順 で温和 な者 は減 っ ていった
。当時輝 ける正教 とはこの ような もので あった . /われ らが 日々の生 活 において,旅 の途上 で,休息 の最 中 に,教会 での礼拝 中 に, その他 日常 のあ ら ゆる事柄 に際 して蒙 った迫害 と抑圧 とを,誰 が事細 か に数 えあげる ことがで き るだろ うか。当時 われ らを取囲 む状況 は この ような ものであった
。彼 らはそれ が神 のためであると主張 した。 わが霊魂 のためにか くの如 き抑圧 を加 え るの で あって,決 して邪念 か らで はないと言 うので あった。
われ らが神 の思 し召 しによ り,正教 キ リス ト教世界 防衛 の ため全正教 キ リス
イヴァン雷帝とク‑ルプスキー公の往復書簡試訳 ( Ⅱ) 1 0 5 卜教 徒軍 の十 字 架 の旗 を掲 げて,神 を知 らぬ カザ ンの異教 徒 を征討 すべ く進 撃 した と き も同様 で あ っ た。 ( 1 0 ) ゎ れ らは神 の 計 り知 れ な い恩 寵 に よ り異 教 徒 に た い し勝利 を博 し,全正 教 キ リス ト教 徒 軍 とと もに無事 帰還 した。汝 が殉 教者 と 呼 ん だ者 た ちが この と きわ た しに示 した善意 につ いて,一 体 ど う言 え ば いいの で あ ろ うか。彼 らはわ た しをあ たか も捕虜 の よ うに船 に乗 せ , わず か ばか りの 手 勢 をつ けた だ けで,神 を知 らぬ邪 教 徒 の地 の只 中 を連 れ だ したの で あ った . ′
も しい と高 き と ころに い ます全 能 の神 の右手 が卑 しきわが身 を守 られ なか っ た な ら, わが生 命 は必 ず や奪 われ て い たで あ ろ う。汝 が弁 護 しよ うと した者 らの われ らに たいす る善 意 とはか くの如 き もの で あ った。 われ らの霊魂 を異 邦 人 の 手 に渡 そ うと躍 起 にな る ことが , われ らの た め に生命 を擁 つ ことだ とい うの で あ る . ′ ( ll)
われ らが帝都 モ ス ク ワに到着 した と き もま た同様 で あ った。 この とき神 の憐 れ みが われ らの上 に増 し加 わ り,われ らに世 嗣 が生 れ た。わが子 デ イ ミー トリー で あ る 。( 12) だが ほ どな く してわれ らは人 の世 の常 なが ら病 にかか り, ひ ど く衰 弱 して しま った
。その とき汝 が善意 の人 々 と呼 ん だ妻 らが シ リヴェ‑ ス トル司 祭 や汝 らの頭 目ア レクセ イ ・ア ダー シェ フと と もに, さなが ら酔漢 の如 くにわ れ らに坂 旗 を ひるが え した 。( 13) 彼 らはわれ らを もはや死 ん だ もの と思 い, わ が 父 とわれ らにた い しわが子 以外 に他 の君主 を求 め な い, と 自 ら十 字 架 にか けて 誓 って い たに もか か わ らず ,、われ らの恩寵 と己の霊 魂 の 〔 救 い〕 を忘 れ て, わ
( 1 0 ) 1 5 52 年の ことである。
( l l ) イヴァンの以上の如き記述を根拠に一部の史家は,彼はカザ ン遠征 に不承不承従軍 し,作戦そのものにおいてもほとんど意味のある役割 を果たさなかった,とする見解 を表明 したが,これは明 らかに誤 りである。ここではカザ ン征討後の帰還の時期と方 法が問題 になっているにすぎない。イヴァンがカザ ン遠征に 「 情熱」 を燃や していた ことにはほとんど疑いがない。これはクールブスキ‑自身がその 『 モスクワ大公の歴 ,史』で証言する通 りであるO彼 は同書で,イヴァンがカザ ン征討後,翌年の春まで現 地に留まるよう説得するクー) i , プスキーらを斥 けて,妻の兄弟 ら ( ザハ リン家)の助 言に従って急ぎ帰国 したことを伝えているが,むしろ上の記述はクールプスキーの こ の証言と関連するだろう。
( 1 2 ) 1 5 52 年1 0 月のことである。本稿 (Ⅰ) ‑1 46 頁,症 ( 1 04 ) を参照。
( 1 3 ) 1 5 53 年のツァーリ擢病の際の皇子への宣誓拒否事件。ツァ‑リはこれを深刻な 「 反
逆」 と考えた.本稿 ( I)一1 3 4 頁,症( 6 0 ) ,1 46 頁 を参照。
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れ らの遠 縁 の ウ ラ ジー ミル公 を即 位 させ よ う と欲 した。 そ して彼 らは ウ ラ ジ ー ミル公 を即 位 させ た後 ,神 よ り授 か っ た わが幼 な子 をヘ ロデ王 よろ しく殺 害 せ ん と した の で あ っ た。 ( 実 際彼 らが殺 害 しな い と い う こ とが あ ろ うか . ′) と い
いにしえ
うの も往 古 の書 物 に次 の よ う に記 され て いー るか らで あ る。 そ れ は世俗 の書 物 で
ツア‑ リ ツア‑ リ ぬか
は あ る が ,書 か れ て い る こ と は正 しい。 「王 は別 の 王 に額 ず か な い。一 方 が死 ね ば,他 方 が 支配 す る 。 」( 1 4 ) ゎ れ らが存 命 中 に己 の 臣民 か ら う け た善 意 が 上 述 の如 くで あ った とす る な らば, わ れ ら亡 き後 は一 体 ど うな る こ とだ ろ う . ′
だが神 の憐 れ み を得 て , この と き もわ れ らは意 識 を と り戻 し,全 き思 考 力 を回 復 した の で,彼 らの謀 略 は水 泡 に帰 した 。( 15) と ころが シ リヴ ェ‑ ス ト) i , 司祭 と ア レクセ イ ・ア ダー シェ フ はそ の後 も悪 巧 み を止 め ず , 〔 わ れ らを〕 一 層 激 し く抑 圧 し, わ れ らに善 意 を抱 く者 らに た い して も様 々 な方 法 で迫 害 を加 え ん と 思 い め ぐ ら した。一 方 ウ ラ ジー ミル公 に た い して は,何 事 で あれ彼 の思 い通 り に計 らい,逆 に わ が皇 妃 アナ ス ター シア に は激 しい憎 悪 を もって対 し,彼 女 を あ らゆ る不 信 仰 な皇 妃 らに比 べ る始 末 で あ っ た 。( 16) い わ ん や わ が子 供 らの こ と を心 にか ける ことな ど一 切 なか ったの で あ る。
( 1 4 ) イヴァンはこれを ,1 5 世紀か らロシアに知 られるようになったセル ビア語版の 『 ア レクサ ン ドル物語』から引用 している。 『 ア レクサ ン ドル物語』 は 16 世紀 には,他の 世俗諸文献 とともに非公認文献 とみなされていたので, イヴァンはわざわざ 「 世俗の 書物ではあるが,‑‑・ 正 しい」 と断わっている。
( 1 5 ) 以上に記 された 1 5 5 3 年の宣誓拒否事件 はいわゆる 『 皇帝の書』の 1 5 5 3 年の項への付 記にとくに詳 しく描かれている。それによると,幼 き皇子 デイミー トリーへの宣誓 を 拒否 して ( その理由としてあげられたのは,デ イミー トリーが即位 した場合,実権 は その母の一族ザハ リン家 に握 られる, というものであった) ,ウラジ‑ ミ) i ,・スタリ ッキー公 を擁立 しようとした者 は,シリヴェ‑ス トル,フョー ドル ・アダーシェフ (ア レクセイ ・アダー シェフではない・ /) , クル リャ‑チェ7,パ レツキー, 7‑ニ コフ らであった。従来研究者の多 くはこの事件 を重視 し,雷帝 と 「 選抜会議」 の関係悪化 の決定的契機 と考 えてきたが , 『 皇帝の書』 の付記の信慣性 についてはその後疑義 も 出 され,付記の記述が傾向的なものであることが明 らかになってきた。訳者 はこの事 件 そのものを否定する必要 はないと考えているが,雷帝の記述があくまでも当事者の ものであることを忘れるべきではないと思 っている。ここでさしあた り指摘すべきは, 苗帝が上で非難 しているア レクセイ ・アダーシェフは 1 5 5 3 年 には,その父 フ ョー ドル
とは異なってイヴァンを支持する立場 に立 っていたと考え られることである。なおこ
の事件 については, 邦語では石戸谷重郎「イヴァン雷帝 とウラジー ミルニスタリッキー
侯 」( 『 奈良文化女子短大紀要』第 1 5 号,昭和 5 9 年 )を参照のこと。
イヴァン需帝 とク‑) i , プスキー公の往復書簡試訳 ( ‡) 1 07 さ らに そ の後 昔 か らの裏 切 者 た るか の 犬 ロ ス トフの セ ミ ョ‑ ン公 は, 己 が裏
ドウ‑ マ