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10),T=EL (Ⅰ)

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(1)

イヴァン雷帝 とクール プスキー公の往復書簡試訳 (Ⅰ)

粟生沢 猛 夫

(Ⅰ) イヴァン雷帝がクールプスキーに宛てた第一の書簡 ( 第一詳細版) ( 承前)

この頃 まで に汝 らの頭 目で あ るか の犬 ア レクセ イ ・ア ダー シェ フが わが帝 国 の宮殿 に仕 え る よ うにな って い た。 わが若年 の頃彼 が いか に して露 払 の 身 か ら 成 り上 が ったのか , わ た しは知 らな い。 われ らは高官 らの間 に上述 の如 き裏切 行 為 の あ るの を知 ったの で, この者 を塵 芥 の なか か ら引 き上 げ, ま った き忠義 を期待 して,彼 を高官 らと並 ぶ地 位 につ けたの で あ る

一 体 わ れ らが彼 に, い や彼 の み な らず彼 の一 族 全体 に与 え なか った名誉 や富 が あ るだ ろ うか . ′これ に た い しわ た しは いか な る誠 実 な奉 公 を彼 か ら得 た で あ ろ うか。 ( 1 ) さ らに続 けて 述 べ よ う。 わ た しはその後 シ リヴェ‑ ス トル司祭 をわが霊 の導 き と魂 の救 済 の た め に受 けいれ た。 ( 2) 彼 が主 の玉 座 の傍 に立 つ者 と して, 己 が霊 魂 を正 し く保 つ で あ ろ う と期 待 して の こ とで あ っ た。 だ が彼 は天 使 と と もに主 の玉 座 の傍

‑ そ こで は天使 らが うや うや しく身 を屈 めん と願 い, ま た世 の救 いの ため に

( 1) 「 塵芥」のなかか ら引き上 げられたというアレクセイ ・フヨー ドロヴィチ ・アダー シェフは実は地方 (コス トロマ‑)士族 1 0 ) , T = E L の出であるo彼の父7 * ‑ i ̲ 蒜 ドル ・グリ ゴー リエヴイチ ・アダーシェフは 1 5 48 年 侍従官 となり ,15 53 年 には 貴族 となった。

アレクセイの方 は 1 5 47 年寝殿官,1 555 年には侍従官 となったにすぎないが,ツァ‑リ の信頼厚 く , 「 選抜会議」の指導的人物の一人 として改革政策を遂行 した。また嘆願 庁の長官でもあった。彼の兄弟 ダニールに雷帝は直接言及 していないが,彼 も 1 559 年

に侍従官 とな り,軍事指導者 として活躍 した。

( 2) シリヴェ‑ス トルについては本稿 (Ⅰ) ‑1 2 8 頁,症( 3 3 ) を参照.おそ らくはノヴゴ ロ ド生れの彼がモスクワにやってきてブラゴヴェ‑シテェンスキ‑寺院司祭 となった ( 府主教マカ‑ リーの力添えで)のは,15 42 年か ら 15 47 年 にかけてのことであった。

1 5 47 年頃か らツァーリの帰依 をうけ,影響力を強めていった。

〔1 01 〕

(2)

102 人 文 研 究 第7 3 輯

いつ も神 の子 羊 が犠牲 と して捧 げ られ, しか もなお [この犠性 は] 決 して尽 き る ことが ない‑ に立 つ とい う聖職 者 の誓 い と按手 の礼 に違 反 した

彼 は肉 の 身 で あ りなが ら, 自 らの手 でセ ラフ イム ( 3) の奉仕 を行 うにふ さわ しき者 と され た。 と ころが彼 は校滑 に もこれ らをすべ て蔑 ろに し, ただ初 めの うちだ け,神 の書物 に従 って正 しく歩 むふ りを したの であ る。 わ た しは神 の書物 に,善 き教 師 には迷 うことな く服 従 すべ きで あ ると記 され てい るの を知 り,彼 に霊 の助 言 を求 めて 自 らの意志 で聴 き従 ったの で ある。決 して無知 ゆえ にそ う したの で は なか った。 だが彼 は祭 司エ リの よ うに ( 4) 権 力 に有頂 天 とな り,俗 人 と同様 に徒 党 を組 み だ した。 その後 われ らはロ シア府主 教 区のすべ ての大主教 と主教 , ま た聖 な る全 教 会 会 議 を召集 し, ( 5) その席 上 神 の祈 り人 な るわが父全 ル ー シの府 主教 マ カー リー ( 6) の前 に, われ らが若 年 の頃 な した こと, す なわ ち汝 ら貴族 に わ た しが下 した失寵 につ いて, また汝 ら貴族 のわれ らにた いす る反抗 と過誤 に つ いて, これ らすべ ての事柄 につ いて, 自 ら赦 しを乞 うたの で ある。 またわれ らは汝 らわが貴族 と全 人民 の犯 した過 誤 を赦 し,今後 一切 これ を想 起 しな い こ とに した。か く して われ らは汝 らをすべ て善 き民 とみ なす ことに したの で あ る

だが汝 らは己が以前 の校滑 な慣 習 を捨 てず再 び旧習 に舞 い戻 り,誠意 を もっ てで はな く校滑 な助言 を もってわれ らに仕 え始 め た。万事 を誠実 にで はな く,

よ しみ

悪 意 を もって行 った。 か く して シ リヴェ‑ ス トル 司祭 とア レクセ イも 誼 を通 はかり こと

じ, われ らを分 別 な き者 と考 え,密 か に 謀 略 をめ ぐ ら し始 め た

この よ うに して彼 らは霊魂 につ いてで はな く,俗事 につ いて相談 を始 め, また汝 ら貴族 全 員 を徐 々 に不服 従 へ と導 き, わが権 力 を奪 って ( 7) 反抗 へ と駆 りたて た。彼 らは

( 3) ヤーウェに奉仕する六つの翼をもつ天使。

( 4) 本稿 (Ⅰ) ‑1 3 9 頁参照。

( 5 ) おそらく 1 5 4 9 年 2 月の教会会議のこと。このときツァJ )は高位聖職者や高位高官 を前に ,3 0‑4 0 年代の政治の混乱の責任 を貴族 らに帰 し,諸問題を平和裡に解決する ことを命 じたうえで,恩赦を約束 した。

( 6 ) ロシア府主教 ( 1 5 4 2‑1 5 6 3) イヴァン四世をツァJ )として戴冠 させ ( 1 5 4 7 年) , カザ ン征討を提唱するなど,需帝の専制権力甲強化に努め,そのイデオロギー的支柱 となった。他方新たに 5 0 人もの聖人を列聖させ,雷帝の教会財産 ( 所領)制限策に反 対するなど,ロシア教会の精神的 ・物質的強化をもはかった。

( 7 ) 原文 は 「わが権力を汝 らから奪って」とある . c BaC は c HaC の誤 りかO

(3)

イヴァン雷帝 とクール プスキー公の往復書簡試訳 ( Ⅱ) 1 0 3

汝 ら を 名 誉 に お い て わ れ ら に 劣 る と こ ろ な き 者 と し, さ ら に 下 層 の

ジエチ ・ポヤ‑ルスヰエ

小 貴 族 を名 誉 に お い て 汝 ら と並 ぶ 者 と な した の で あ る。 この よ う に して 彼 らの 悪 事 は徐 々 に増 し加 わ り, か くて汝 らに も世 襲 領 や 町 や村 が分 配 され始 め た。 そ れ は わ が祖 父 な る大 君 〔イ ヴ ァ ン三 世 〕 の命 に よ っ て汝 らか ら没 収 さ れ た世 襲 領 地 で あ り, わ れ らか ら奪 って他 人 に与 え て は な らぬ もの で あ る。 そ れ を彼 らは資 格 も・ な い の に, あ たか も風 の 吹 くま に ま に方 々 に分 配 し, わ が祖 父 の 法 に反 した の で あ る。 ( 8) この よ う に して彼 らは 多 くの者 共 を 自陣 営 に ひ き

シンクリト つ け た 。 そ の後 彼 ら は一 味 の ドミ トリー ・クル リヤー チ ェ フ公 を わ が 会 議 に 引 き入 れ た 。( 9) 彼 は荻 滑 に も霊 の 導 き の た め と偽 っ て わ れ ら に接 近 し, これ を 行 うの も魂 の た め で あ って ,邪 念 か らで は な い と言 うの で あ っ た。 か くて彼 ら は一 味 と と も に会 議 を悪 党 の集 会 と し,彼 らの追 随 者 の 占 め な い地 位 は一 つ も な か っ た ほ ど で あ る。 彼 らは この よ うに して 万 事 に お い て そ の望 み を達 した の で あ る。 そ の後 彼 らは そ の仲 間 た ち と と も に, わ れ らが父 祖 か ら受 けつ い だ権 力 を奪 い取 っ た 。 汝 らは わ れ らの恩 寵 の ゆ え に貴 族 と され て お りな が ら,‑ これ に よ り [さ らに] 名 誉 と高 い地 位 を得 て尊 敬 され ん と望 ん だ の で あ る。 か く し て これ らす べ て が 汝 らの手 中 に帰 し, わ れ らに は何 も残 され な か っ た。 万 事 が 汝 らの意 の ま ま に行 わ れ , 誰 もが思 う通 りに振 舞 っ た。 そ れ か ら互 い の友 誼 を 通 じて そ の地 位 を固 め , 全 権 力 を意 の ま ま に し, わ れ らの意 向 は一 切 きか ず ,

( 8) シリヴェ‑ス トルとアダーシェフが国有地 を 「 風の吹 くまにまに」分配 したとい う 非難が何 を指 しているのか特定することは困難である。1 55 0 年のモスクワ近郊 におけ るいわゆる 「 100 0人の小貴族 にたいする封地の授与」は ( か りに実現 されたと して も) ツァ‑ リ権 力の強化 につ ながるものであ り,ツ ァー リにより非難 される理由はない。

いわゆる 「 貴族支配期」 の土地政策の責任 を 「 選抜会議」 に押 しつ けようと したこと も考 え られる.あるいはまた, ツァJ )の許可 な くして諸公の世襲領 を修道院へ寄進 することを禁 じた15 51 年 5 月1 1日の有名な勅令 にたいする違反 をツァー リが答 めたの か もしれない。

( 9) ドミ トリー ・イヴァノヴィチ ・クル リャ‑チェ70分領諸公 (オボ レンスキ‑諸公 )

の一員。イヴァン幼少の頃 シューイスキー家 に一味 し , 1 5 43 年 にはツァー リの寵臣 ヴォ

ロンツオーフ追 い落 と しに参画 した ( 本稿 ( Ⅰ) ‑1 5 4 貢参照 ) 。 シリヴェ‑ス トル,

アダー シェフらと協力関係 に入 ったのは,彼が貴族 となった 15 49 年頃であろう 。155 3

年 に雷帝が病床 に臥 したとき,彼 は幼 い皇子 デ イミー トリーに最 も遅 れて宣誓 した者

の一人であった。1 5 62 年 アダーシェフ らとともに失寵 を蒙 り,妻子 とともに出家せ し

め られた。その後間 もな くツァー リの命令で殺 された。

(4)

10 4 人 文 研 究 第 7 3 輯

あたか もわれ らなど存荏 せぬかの如 くに, 自身 と助言者 らの意 向で万事 を執 り 行 い裁 断 した。 たとえわれ らが善 き提言 をな して も,彼 らはそれ を一切必要 な こととはみな さず,逆 に不必要 な ことで もそれ を行 い,反抗 的で,醜悪 な こと を申 し立 てて は,すべ てが善事 だと言 って行 ったので ある . ′

以上 の ように外面的 に も内面的 に も,些純 なとるに足 らぬ事柄 において も, また敢 えて言 うが食物 や睡眠 に関 して も,万事 われ ら自身の意志 に よる ことな く,彼 らの思 う通 りに行 われ た。われ らはあたか も幼児 の ままでいるかの よう で あった

は た して成 人 で あ りなが ら幼 児 で あ る ことを望 まなか っ たか らと いって,理性 に逆 らうことになるの だろ うか。事情 はその後 も変 らなか った。

当時 われ らが彼 〔シ リヴェ‑ス トル〕 の もっともつ ま らぬ助言者 の一人 に反対 の意見 を言 わな けれ ばな らな くなると, それ は汝 の悪魔 の中傷 の書状 に記 され ている ように,不敬 な ことの ようにみな され た。逆 に彼 の助言者 の うちの もっ ともつ ま らぬ者 がぅわれ らにたい し主人 や兄弟 にたいす る ようにで はな く,もっ とも小 さな者 にたいす るかの如 くに猛 り狂 って不遜 な言葉 を吐 きつ けたと して も, それ はすべ て敬慶 な ことの ようにみな された。われ らにたい し少 しで も耳 を傾 け,穏 やか な態度 でのぞむ者 が あれ ば, その者 には激 しい苦難 と迫害 が加 え られ た

逆 にわれ らを慣 らせ ,何 とか して抑圧 を加 え ようとす る者 には,富 と栄光 と名誉 とが与 え られ たO も しされ る, が ままに耐 えていなか ったな ら, わ が霊 には滅 びが,王 国 には荒廃 が もた らされ たであろ う. /この ようにわれ らは 激 しい迫害 と抑圧 の下 におかれていた。 彼 らの悪行 は 日毎 に,それ どころか時 々 刻 々甚 だ しくな ってい った。われ らに逆 らう者 が増 え,従順 で温和 な者 は減 っ ていった

当時輝 ける正教 とはこの ような もので あった . /われ らが 日々の生 活 において,旅 の途上 で,休息 の最 中 に,教会 での礼拝 中 に, その他 日常 のあ ら ゆる事柄 に際 して蒙 った迫害 と抑圧 とを,誰 が事細 か に数 えあげる ことがで き るだろ うか。当時 われ らを取囲 む状況 は この ような ものであった

彼 らはそれ が神 のためであると主張 した。 わが霊魂 のためにか くの如 き抑圧 を加 え るの で あって,決 して邪念 か らで はないと言 うので あった。

われ らが神 の思 し召 しによ り,正教 キ リス ト教世界 防衛 の ため全正教 キ リス

(5)

イヴァン雷帝とク‑ルプスキー公の往復書簡試訳 ( Ⅱ) 1 0 5 卜教 徒軍 の十 字 架 の旗 を掲 げて,神 を知 らぬ カザ ンの異教 徒 を征討 すべ く進 撃 した と き も同様 で あ っ た。 ( 1 0 ) ゎ れ らは神 の 計 り知 れ な い恩 寵 に よ り異 教 徒 に た い し勝利 を博 し,全正 教 キ リス ト教 徒 軍 とと もに無事 帰還 した。汝 が殉 教者 と 呼 ん だ者 た ちが この と きわ た しに示 した善意 につ いて,一 体 ど う言 え ば いいの で あ ろ うか。彼 らはわ た しをあ たか も捕虜 の よ うに船 に乗 せ , わず か ばか りの 手 勢 をつ けた だ けで,神 を知 らぬ邪 教 徒 の地 の只 中 を連 れ だ したの で あ った . ′

も しい と高 き と ころに い ます全 能 の神 の右手 が卑 しきわが身 を守 られ なか っ た な ら, わが生 命 は必 ず や奪 われ て い たで あ ろ う。汝 が弁 護 しよ うと した者 らの われ らに たいす る善 意 とはか くの如 き もの で あ った。 われ らの霊魂 を異 邦 人 の 手 に渡 そ うと躍 起 にな る ことが , われ らの た め に生命 を擁 つ ことだ とい うの で あ る . ′ ( ll)

われ らが帝都 モ ス ク ワに到着 した と き もま た同様 で あ った。 この とき神 の憐 れ みが われ らの上 に増 し加 わ り,われ らに世 嗣 が生 れ た。わが子 デ イ ミー トリー で あ る 。( 12) だが ほ どな く してわれ らは人 の世 の常 なが ら病 にかか り, ひ ど く衰 弱 して しま った

その とき汝 が善意 の人 々 と呼 ん だ妻 らが シ リヴェ‑ ス トル司 祭 や汝 らの頭 目ア レクセ イ ・ア ダー シェ フと と もに, さなが ら酔漢 の如 くにわ れ らに坂 旗 を ひるが え した 。( 13) 彼 らはわれ らを もはや死 ん だ もの と思 い, わ が 父 とわれ らにた い しわが子 以外 に他 の君主 を求 め な い, と 自 ら十 字 架 にか けて 誓 って い たに もか か わ らず ,、われ らの恩寵 と己の霊 魂 の 〔 救 い〕 を忘 れ て, わ

( 1 0 ) 1 5 52 年の ことである。

( l l ) イヴァンの以上の如き記述を根拠に一部の史家は,彼はカザ ン遠征 に不承不承従軍 し,作戦そのものにおいてもほとんど意味のある役割 を果たさなかった,とする見解 を表明 したが,これは明 らかに誤 りである。ここではカザ ン征討後の帰還の時期と方 法が問題 になっているにすぎない。イヴァンがカザ ン遠征に 「 情熱」 を燃や していた ことにはほとんど疑いがない。これはクールブスキ‑自身がその 『 モスクワ大公の歴 ,史』で証言する通 りであるO彼 は同書で,イヴァンがカザ ン征討後,翌年の春まで現 地に留まるよう説得するクー) i , プスキーらを斥 けて,妻の兄弟 ら ( ザハ リン家)の助 言に従って急ぎ帰国 したことを伝えているが,むしろ上の記述はクールプスキーの こ の証言と関連するだろう。

( 1 2 ) 1 5 52 年1 0 月のことである。本稿 (Ⅰ) ‑1 46 頁,症 ( 1 04 ) を参照。

( 1 3 ) 1 5 53 年のツァーリ擢病の際の皇子への宣誓拒否事件。ツァ‑リはこれを深刻な 「 反

逆」 と考えた.本稿 ( I)一1 3 4 頁,症( 6 0 ) ,1 46 頁 を参照。

(6)

106 人 文 研 究 第 7 3 輯

れ らの遠 縁 の ウ ラ ジー ミル公 を即 位 させ よ う と欲 した。 そ して彼 らは ウ ラ ジ ー ミル公 を即 位 させ た後 ,神 よ り授 か っ た わが幼 な子 をヘ ロデ王 よろ しく殺 害 せ ん と した の で あ っ た。 ( 実 際彼 らが殺 害 しな い と い う こ とが あ ろ うか . ′) と い

いにしえ

うの も往 古 の書 物 に次 の よ う に記 され て いー るか らで あ る。 そ れ は世俗 の書 物 で

ツア‑ リ ツア‑ リ ぬか

は あ る が ,書 か れ て い る こ と は正 しい。 「王 は別 の 王 に額 ず か な い。一 方 が死 ね ば,他 方 が 支配 す る 。 」( 1 4 ) ゎ れ らが存 命 中 に己 の 臣民 か ら う け た善 意 が 上 述 の如 くで あ った とす る な らば, わ れ ら亡 き後 は一 体 ど うな る こ とだ ろ う . ′

だが神 の憐 れ み を得 て , この と き もわ れ らは意 識 を と り戻 し,全 き思 考 力 を回 復 した の で,彼 らの謀 略 は水 泡 に帰 した 。( 15) と ころが シ リヴ ェ‑ ス ト) i , 司祭 と ア レクセ イ ・ア ダー シェ フ はそ の後 も悪 巧 み を止 め ず , 〔 わ れ らを〕 一 層 激 し く抑 圧 し, わ れ らに善 意 を抱 く者 らに た い して も様 々 な方 法 で迫 害 を加 え ん と 思 い め ぐ ら した。一 方 ウ ラ ジー ミル公 に た い して は,何 事 で あれ彼 の思 い通 り に計 らい,逆 に わ が皇 妃 アナ ス ター シア に は激 しい憎 悪 を もって対 し,彼 女 を あ らゆ る不 信 仰 な皇 妃 らに比 べ る始 末 で あ っ た 。( 16) い わ ん や わ が子 供 らの こ と を心 にか ける ことな ど一 切 なか ったの で あ る。

( 1 4 ) イヴァンはこれを ,1 5 世紀か らロシアに知 られるようになったセル ビア語版の 『 ア レクサ ン ドル物語』から引用 している。 『 ア レクサ ン ドル物語』 は 16 世紀 には,他の 世俗諸文献 とともに非公認文献 とみなされていたので, イヴァンはわざわざ 「 世俗の 書物ではあるが,‑‑・ 正 しい」 と断わっている。

( 1 5 ) 以上に記 された 1 5 5 3 年の宣誓拒否事件 はいわゆる 『 皇帝の書』の 1 5 5 3 年の項への付 記にとくに詳 しく描かれている。それによると,幼 き皇子 デイミー トリーへの宣誓 を 拒否 して ( その理由としてあげられたのは,デ イミー トリーが即位 した場合,実権 は その母の一族ザハ リン家 に握 られる, というものであった) ,ウラジ‑ ミ) i ,・スタリ ッキー公 を擁立 しようとした者 は,シリヴェ‑ス トル,フョー ドル ・アダーシェフ (ア レクセイ ・アダー シェフではない・ /) , クル リャ‑チェ7,パ レツキー, 7‑ニ コフ らであった。従来研究者の多 くはこの事件 を重視 し,雷帝 と 「 選抜会議」 の関係悪化 の決定的契機 と考 えてきたが , 皇帝の書』 の付記の信慣性 についてはその後疑義 も 出 され,付記の記述が傾向的なものであることが明 らかになってきた。訳者 はこの事 件 そのものを否定する必要 はないと考えているが,雷帝の記述があくまでも当事者の ものであることを忘れるべきではないと思 っている。ここでさしあた り指摘すべきは, 苗帝が上で非難 しているア レクセイ ・アダーシェフは 1 5 5 3 年 には,その父 フ ョー ドル

とは異なってイヴァンを支持する立場 に立 っていたと考え られることである。なおこ

の事件 については, 邦語では石戸谷重郎「イヴァン雷帝 とウラジー ミルニスタリッキー

侯 」( 『 奈良文化女子短大紀要』第 1 5 号,昭和 5 9 年 )を参照のこと。

(7)

イヴァン需帝 とク‑) i , プスキー公の往復書簡試訳 ( ‡) 1 07 さ らに そ の後 昔 か らの裏 切 者 た るか の 犬 ロ ス トフの セ ミ ョ‑ ン公 は, 己 が裏

ドウ‑ マ

切 の 習 い に従 っ て , わ れ らの会 議 〔 の審 議 内容 〕 を リ トワの使 節 パ ン ・ス タニ ス ラ フ ・ダ ヴ ォ イナ とそ の一 行 に洩 ら し, わ れ らとわ が皇 妃 と子 供 らの こ と を

シンクリトストヴオ

悪 し様 に罵 っ た。彼 は わ れ らの 恩 寵 に よ り 議 員 身 分 に取 り立 て られ た の で あ っ て , 決 して 己 の才 知 に よ る もの で は な い。 わ れ らは彼 の悪 事 を探 り出 したが , 彼 に た い す る処 分 は寛 大 に止 め た。 ( 1 7 ) だ が そ の後 シ リ ヴ ェ‑ ス トル司 祭 が汝 ら 悪 しき助 言 者 らと と もに, この 犬 に特 別 の庇 護 を与 え , あ らゆ る便 宜 を計 り始

め た。 そ れ も彼 一 人 で は な く, 彼 の一 族 全 員 に た い して で あ る . か くて これ以 後 す べ て の裏 切 者 が わ が世 の春 を轟 歌 す る こ と に な る 。逆 に わ れ らは この と き 以 来 ひ ど い抑 圧 に苦 しむ こ と に な っ た。そ して汝 も彼 らの仲 間 の一 人 で あ っ た。

汝 らが ク) t 'リヤ ー チ ェ フ と と も に シ ツ キ ー の件 に関 して わ れ らを裁 こ う と した こ と は よ く知 られ て い る。 ( 18)

( 1 6 ) シリヴェ‑ス ト) I ,らのアナスターシアにたいする憎悪 がいかなるものであって, そ の原因が何 であったか は興味深 い問題 であるが不 明である。(これにつ いてはさらに 後述1 0 8 頁参照。)イヴァンは後 に, クー) i , プスキー らが彼女 をビザ ンツのエ ウ ドキア 皇妃 に準 えていると記 している。後述1 35 頁参照。

( 1 7 ) セ ミョン ・ロバ ノ7‑ロス トフスキ‑公のポー ラン ド使節 ドヴォイノとの秘密の接 触 は1 5 53 年夏の ことであったと考 え られる。( 彼 をこの ような行動 に走 らしめた原因 の一つ は 155 3 年の宣誓拒否事件であった。 このとき彼 はシテェニ ヤーチェ7,セ レブ リヤンヌ ィ, プンコ7‑ミク リンスキー公 らとともに反需帝陰謀 に加 わった, と 『 絵 入 り年代記集成』の付記 は伝 えている。) 翌1 5 5 4 年夏彼 は息子 とともに亡命 を企 てるが, 失敗 して しまう。同年秋 ポーラン ドに派遣 されたロシア使節 には,セ ミョン公 に関す

る問い合わせがあった場合,彼 は 「 愚かであるがゆえに動揺 し,すべての外国人 と一 体 となって君主の ことで不適切 な言葉 を吐いた」と答えるよう指令が出ていたという。

彼 は結局反逆罪で死刑 を宣告 されたが,聖職者の執 りな しでベロオーゼロへの流刑 に 減刑 された。

( 1 8 ) シツキーの件 とはおそ らく 『イヴァン第二書簡』中の イヴァン自身の次の言 と関連 がある。すなわちイヴ ァンは述べている。「はた してわた しに何の罪があって, プロ ゾロフスキーの1 5 0 チェチが 〔 汝 らにとってわが〕子 フ ョー ドルよ りも貴重 であった のか。‑‑‑汝 らはシツキ‑とプロゾロフスキ‑ らの件 を裁 くにあたって,いかにわ た しを非難 したのであったか 。 」 ここで はおそ らくヤロスラヴ リ郡 の世襲領主であっ たプロゾロフスキ‑ と シツキーの間の土地 をめ ぐる紛争が問題 となっている。 シツ キ‑はその際皇妃 アナス ター シアとの姻戚 関係 を利用 して (ヴァシー リー ・ア ン ド

レーエ ヴィチ ・シツキーは皇妃 アナス ター シアの姉妹 の一人 と結婚 していた) ,皇子

フ ョー ドル ( 1 55 7 年 に生 れたばか りであった)(とおそ らくはツァー リその人 )を楯

につかったと考え られるo あるいは, プロゾロフスキーの土地が皇子 フ ョー ドルのた

(8)

10 8 人 文 研 究 第 7 3 輯

同様 に ドイ ツ人 に た いす る戦 争 が始 ま っ た と き‑ これ に関 して は後 で詳 し く述 べ よ う‑ シ リヴ ェ ‑ ス トル司祭 は汝 ら助 言 者 と一 緒 にな って この件 で わ れ らを激 しく非 難 した 。( 1 9 ) そ して わ た しと皇 妃 と子 供 らが われ らの罪 ゆ え に病 にか か るや ,彼 らはそれ が すべ て彼 らゆ え に, す な わ ちわ れ らが彼 らに服 従 し なか っ草が ゆ え に起 っ た, と主 張 したの で あ った。 モ ジ ヤ イス クか ら病 身 の ア ナ ス ター シア皇 妃 と と もに帝都 〔 モ ス ク ワ〕 に戻 ろ う と した あ の辛 い旅 を思 い 出 さ ず に お ら れ る だ ろ う か 。 ( 20) た っ た 一 語 の 不 適 切 な 言 葉 の ゆ え で あ っ た . ′ ( 21) 祈 帝 を さ さ げ,聖 地 をめ ぐ り,魂 の救 い と肉体 の健 康 ま た わ が 身 とわ が皇 妃 と子 供 らの全 き安 寧 の た め に聖 所 に寄 進 を行 い,誓 い を たて る こ と‑

わ れ らは こ う願 っ たが ,汝 らの校 滑 な策 略 に よ りその機 会 はま った く与 え られ なか った。 あの と きに は わ れ らの健 康 の ため医者 の治 療 を う け る ことな ど考 え

られ も しな か っ た の だ。

この よ うにわれ らは大 い な る悲 嘆 の う ち に あ っ た。汝 らが人 間 に あ る ま じき 方 法 で わ れ らに課 した この よ うな重 荷 は われ らに は耐 え が たか っ た。 そ れ ゆ え わ れ らはか の犬 ア レクセ イ ・ア ダー シェ フ と彼 の助 言 者 全 員 の裏 切 行 為 を調 査 し,わが 怒 りを彼 に顕 わ した。だが それ も寛 大 にで あ っ た。す な わ ち 〔 彼 らを〕

死 罪 にで はな く, 各 地 へ の流刑 に処 した の で あ る

( 22) 他 方 シ リヴ ェ‑ ス トル司 めにツァー リによって没収 され, この件 に関 しシツキーがフヨ‑ ドルを支持 したと推 測する者 もいる。いずれにせよ本書簡の記述か ら判断するならば,クールプスキーは

ク) i ,リヤーチェフとともにプロゾロフスキ‑の側 についていたと考え られる。

( 1 9 ) リヴォニア戦争 ( 1 5 58‑1 58 3)が始 まったときのことである.ここで言われている 衝突 は外交路線 をめぐるものであると考 えられるが, これたっいては後述注( 4 6 ) ,( 4 7 ) を 参照。

初 1 559 年10 月需帝一家がモジャイスクにあったとき,彼の下にリヴォニアによる休戦 ( 1 559 年 5 月 ‑1 1月の 6 ヶ月間の休戦 )条約違反の知 らせが入 った。(この条約 はお そ らくアダー シェフや シリヴェ‑ス トル らの献策 で結 ばれたものであった。)ツァ‑

リは道路事情がよくないにもかかわらず,急速モスクワへむけ出立 しなければな らな かった。その帰路,雷帝の告発 によると,皇妃の病 は悪化 し ( 翌年亡 くなっ)たので あった。

¢1 ) ここはおそらくアナスターシアにたいするシリヴェ‑ス ト) L ,らの憎悪の原因に関わ

る記述だと思 われるが, このおそ らくはアナスターシアの 「 一語の不適切 な言葉」が

何 であったのかは不明である。フェンネルやシュテ‑ リンはここを 「 一語の小 さな言

葉のゆえに彼 らは彼女 を無価値な女 とみな した」 と訳 している。

(9)

イヴァン雷帝 とクールプスキー公の往復書簡試訳 ( Ⅰ) 1 0 9 祭 は己が助言者 らが遠 ざけ られ たの を知 るや,それ を理 由 に自 ら進 んで隠遁 し て しまった。 われ らは彼 を祝福 して去 らせ たが, それ は 〔自 ら〕恥 じる ところ があ ったか らで はない。彼 がわれ らに常 に仕 えなが ら悪 を働 き,己が校滑 な習 いか らわれ らを軽 ん じた ことで; この世 で はな くかの世 において,神 の子羊 の 前 で裁 きがな され る ように と望 んだか らで ある 。( 23 ) かの世 で は, わた しが霊 と 肉において彼 にいか に苦 しめ られ たか につ いて,裁 きが得 られ る もの と期待 し ている。 それ ゆえわ た しは彼 の子供 も今 日に至 るまで平穏 の うちに過 ごす こと がで きるよう許 した。 ( 24) ただわれ らの面前 に現れ ることは禁 じられた。一体誰 が汝 の ように愚か に も司祭 に服従 すべ きだ, などと主張 す るであろ うか。 この ような主張 をす るの も,汝 らが教師 にいか に従 うべ きか に関す るキ リス ト教 の 修道 院規定 をまった く理解 していないか らだ。汝 ら自身耳 が鈍 くなってお り, 未熟 なために教師 を必要 と している。汝 らは固い食物 で はな く,乳 を必要 と し

てい るの だ。だか らこそ この ように主張 す るのだ。 ( 25) この ゆえに こそわ た しは 上 に述 べ た ように, シ リヴェ‑ス トル司祭 にいか なる危害 も加 えなか ったので ある。わが支配下 にある俗人 に関 して は, われ らは彼 らの裏切行為 に応 じて処 分 した。最初 われ らは何人 も死罪 に処 す ことはなか った。彼 らの徒 党 に加 わ ら

なか ったすべ ての者 には彼 らか ら離 れているよう,将来 とも彼 らに近づ くこと

¢2 ) 「 選抜会議」の主要 メ㌢バ ーの失脚 は 60 年代初頭の ことである。ア レクセイ ・アダー シェフは 1 560 年夏 リヴォニアに派遣 され,その後 ヴィリヤ ン (フェリン)奪取後 その 軍司令官の一人 に任命 された。彼 はさらにユー リエ フ ( 現 タル トゥ)に流 され,間 も な く死亡 した。 クールプスキーはその 『 歴史』 で上の一連の過程 を ( 少 くともフェリ ンへの任命以降を)ツ ァー リによるア レクセイの処罰 ととらえている。彼 の死 は,クー ルプスキーによれば 「 熱病」 によるものであったが,需帝 はこれを自殺 と疑 い,調査 を命 じている.ア レクセイの兄弟 ダニールも数年後処刑 された。またクル リヤーチェ フは 1 56 2 年末家族 とともに出家せ しめ られ,後 に処刑 された。 クールブスキ‑自身の

「 失脚」 については,そもそも彼 が失脚 したのかどうか も含 めて議論のあるところで あるが ,1 56 2 年 8 月のネヴェ リの敗戦 ,15 63 年 3 月のユー リエ フへの派遣 などが彼の 運命 における転機 であったことは間違 いない。

¢ 3 ) クールプスキーの 『 歴史』 によればシリヴェース トルは白海の ソロヴェツキ‑修道 院 に流 された。

e4 ) アンテ‑ ミ‑という名の子 であったが不詳。

e5 ) へブ) i ,5 :ll‑1 2 .原文では 「 主張する」 の主語 は三人称単数 になっているが,上

の如 く理解 した。

(10)

1 1 0 73輯

の ないよ うに命 じた。 この禁令 を出 して後, われ らは十字架 に接 吻 して これ を 確 認 した。 だが汝 が殉教者 と呼 ん だ者 た ちとその一党 はわが禁令 に従 わず,十 字架 の誓 いを破 り,裏切者 との関係 を断 たなか った。 それのみ な らず彼 らは, 裏切 者 らが以前 の地位 に復 帰 し, われ らにたい し一層悪 質 な陰謀 を企 て ること がで きる ようにと彼 らに加勢 し, あ りとあ らゆる策略 をめ ぐら し始 めた。 さ ら に彼 らの悪意 は抑 えが た く,理性 も頑 である ことが明 らか にな ったので,罪 あ る者 らはその罪状 に応 じて然 るべ き裁 きをうけたのである

この こと,つ ま り 汝 らの意志 に従 わ なか った ことが,汝の考 えで は 「 悟 りなが ら理性 に逆 らう者

となって いる」 ことになるので あろ うか。だが汝 ら自身黄金 の わずかな輝 きに 揺 れ動 く宣誓違反者 の定 ま らぬ良心 をもっている。それ ゆえ汝 らはわれ らに も 同様 の ことを推奨 しようと してい る。 だか らわた しは こう言 お う。 ああ これ は ユ ダの呪 われ た欲望 で はないか . ′神 よ, わが霊 と全正教 キ リス ト教徒 をこの欲 望 よ り守 り給 え jユ ダが黄金 の ためにキ リス トを裏切 った ように,汝 らもこの 世 の楽 しみの ため に正教 キ リス ト教 と己の君主 であるわれ らを裏切 り, 己が霊 の ことを忘 れて,十字架 の宣誓 を破 ったのである。

それ 〔 処刑〕 が教会 で行 われ たと汝 は言 うが, それ は嘘である。 またすでに 記 したよ うに,彼 らは己の罪 ゆえ にその罪状 に応 じて処罰 され たので あって, 汝 が言 うようにで はない。汝 は裏切者 と姦通者 を殉教者 と呼 び,彼 らの血 を勝 利 の聖 な る血 と, またわれ らに反抗 した者 を強者 と呼 んだが, それ は正 しくな

い。汝 はまたわが変節者 らを軍 司令官 と呼 び,彼 らがわが ため に行 った善行 と

犠牲 的行為 につ いて語 るが,事 の真相 はすで に記 した如 くこと ごと く明 らか に

な っている。汝 もこれ を根 も葉 もないことだ とは言 うまい。彼 らの裏切 は全世

界 に知 れ わたって いるか らだ。 も しお望 みな ら,汝 は蛮人 か らこれ を聞 くこと

もで きよう。 またわが国で交易 し,外交使節 の一員 と して訪 れ る者 の うちにこ

れ らの悪行 の 目撃 者 を見 出す こともで きよう。 だが これ も過去 の ことだ。今 日

汝 の一味 は皆 あ らん限 りの富 と自由 を享受 し, ますます豊 かになっている。彼

らの過去 の悪事 が問題 に され る ことはな く,彼 らが以前手 にいれた財産 と名誉

はそのままになっている。

(11)

イヴァン雷帝 とクール ブスキ‑公の往復書簡試訳 (Ⅱ) 111 さ らに何 があったであろうか。汝 らは教会 にたい し立 ちあが り,非道 の限 り をつ くしてわれ らを迫害 し続 けた。キ リス ト教徒 の迫害 と抹殺 のため, あ らゆ る手段 で異教徒 を結集 し,われ らにけ しか けようと した。すでに述 べ たとお り, 汝 らは人間 に怒 りをむ ける ことによって神 に戦 いを挑 み,教会 を荒 らしている の だ 。( 26) 迫 害 に関 して は神 の使 徒パ ウロが次 の ように述 べ てい る 。 「 兄 弟 たち よ,一 も しわた しが今 なお割礼 を宣べ伝 えていたな ら,今 だに迫害 され ることが あ るだろ うか。 〔も しそ う していたな ら〕十字架 のつ まず きはな くなっていた で あろ う。 だが これ を扇動 しよ うとい う者 は ; 取 り除 かれ て しまえ ば よいの だ . ′ 」( 27) 当時十字 架 の代 わ り・ に割礼 が求 め られていたとすれば,今 日汝 らには 君主 の支配 に代 わ って,己の勝手 気優 な支配 が必要 なのであろ う。 だが今 〔 汝 らには〕 自由が あるで はないか。 それなのになぜ,今 なお迫害 を止 め ようと し ないのだ ろうか。

汝 はわた しが療病人の良心 を もち,悟 りなが らも逆 らう者 となっている, と 考 えた。 だがその意味 は以上 に詳 しく述 べ られ た ことか ら汝 には十分 に明 らに な っただろ うO‑体神 を知 らぬ民 につ いて汝 が語 るところは何 であろ う。汝 自 身 己が悪魔 の欲望 に匹敵 す るもの を世界 中の ど こに も見つ ける ことがで きない で あろう

また汝 が強者 ,軍司令官 ,殉教者 と呼 んだ者 たちが真実 どう形容 す べ き存在 であったのか も,すべ て明 らかである。彼 らは汝 が述 べ るような者 で はな い。 む しろ彼 らは トロヤ の裏切 者 ア ンテ ノール とア イネアース に似 てい る 。( 28) 汝 は多 くを担造 し,偽 っている

彼 らの善行 と犠牲 的行 為 につ いて もす で に述 べ られ た。彼 らの中傷 と背信 は全世界 に知 れわたっている。

わた しは光 を闇 に変 え ようと しているので はない。甘 きを苦 いと言 い くるめ て いるので もない。 だが下僕 が支配 す るのが光 であろうか。甘 いことで あろう か。神 か ら授 か った君主 の支配 が闇で,苦 きことなのであろうか。 これ につ い

( 姻 本稿 ( Ⅰ)11 22 頁 。

C z 7 ) ガラテヤ 5 :l l‑1 2 。

¢8 ) トロヤの英雄 アイネアースと賢者 ア ンテノールは 「トロヤ伝説」の後代の版 では祖 国の裏切者 とされている。 ロシアでは 1 6 世紀初頭 に 『トロヤの歴史』 の (ラテン語 よ

りの)翻訳が現われた。

(12)

1 1 2 人 文 研 究 第 7 3 輯

て はすで に言葉 を尽 くして述 べ ておいた。汝 は己が悪 魔 の書状 の なか で様 々 な 表 現 を用 いて はい るが,実 はただ一 つ の ことを書 いて いるにす ぎない。下僕 が 君 主 を差 しおいて支配 す る ことを汝 は称 えて いるの だ。 これ にたい しわ た しは 人 々 を真 理 と光 に導 こ うと懸命 に努 めて いる。三位一体 にお いて称 え られ る唯 一 の真 の神 と この神 か ら授 け られ た君主 を,彼 らが認 識 す る ことので きるよ う にで あ る。また帝 国 を崩壊 に至 ら しめる内戦 と頑 な生 活 を止 め る よ うにで ある。

はた して悪 を断 ち,善 を行 うことが苦 き闇 なの で あろ うか。 これ こそが甘 き光 で はない だろ うか。臣民 が ツ ァー リに服 従 しないので あれ ば, 内戦 が止 む こと は決 して ない

だが 自分 の ため に奪 い取 る こと, これ こそが悪 で あろ う . ′汝 は 自 ら何 が甘 くて光 なのか,何 が苦 くて闇 なのか を弁 えず に,他 人 を教 えて いる。

それ と も善行 を止 め, 内戦 と不 従順 に よって悪 を働 くことが甘 き光 なの であ ろ うか。 だが これ が光 で はな く闇,甘 いので はな く苦 いので あ る ことは誰 の眼 に も明 らか だ。

わが臣民 が われ らの前 に犯 した罪過 と彼 らの憤 怒 につ いて. これ までル ー シ の支配者 は誰 か らも問 い質 され る ことはなか った。彼 らは臣民 を恵 む も罰 す る も自由で あ り, 臣民 との紛 争 で何 ものか に裁 か れ る こと もなか った。 ここで彼 らの罪 につ いて語 るべ きで あるか も しれ ない

だが それ につ いて はす で に記 さ れ た。汝 は空 しき ことを口走 るギ リシア人 の ように,死 すべ き人間 を 〔 キ リス ト教徒 の〕 指導 者 と呼 んで い る

ギ リシア人 はアポ ロ, デ イオス, ( 29) ゼ ウスや 他 の多 くの醜悪 きわ ま りない人 間 ど もを神 と して い るの で あ る。だが神学者 と 呼 ばれ る グ レゴ リオス はその著 述 の なか で厳 か に次の ように記 して いる 。( 30)

¢9 ) デイオス (J l H血 )はゼウスのことか。ここでは別の存荏と解 されている。

( 3 0 ) 以下の引用はナツイアンツのグレゴリオス ( 3 2 9 /3 3 0‑3 8 9 / 3 9 0) の説教からのもの。

(Fe n ne l l ,1 07‑ 1 08;St a hl i n,1 53‑ 1 54;ne p e m CH a3 9 5 を参照 ) , ここでは次

のようなギ リシア神話中の神々 (とその故事 )に言及されている。ゼウスの誕生の次

第とクレタにおける養育,フリギアにおけるレア‑‑キュベ レー崇拝,ディオニュソ

スの誕生‑セメレ‑の懐胎 と胎児のゼウスの太腿への縫いこみ,アテ‑ナ‑のゼウス

の頭からの誕生,テーパイにおけるディオニュソス崇拝。マケ ドニア (ラケダイモン

の誤 りか)の若者 らが崇拝 したというのはアルテ ミスのことと思われる。さらに地下

の冥界の女神へカテ一, レバデイアの神託所で名高い英雄 トロポーニオス,エジプ ト

の神イシスとオシリスの名が見える。

(13)

イヴァン雷帝とクー) i / プスキー公の往復書簡試訳 ( Ⅱ) 1 1 3

「ク レタの裁定者 に して迫害者 デ イオス 〔 ゼ ウス〕の誕生 や隠匿 は偽 りである。

神 〔 ゼ ウス〕 の泣 き声 を,子 を憎 む父神 〔 クロノス〕 に聞かれない ようにと若 者 たちがあげた声 も,騒音 や武装 しての踊 りも‑ というの も石 が呑 み込 まれ たの に,幼児が泣 き叫 んだな ら,それ は災 いとなるか らだ‑ 同様 に存在 しな かった

また レア‑をめ ぐって人 びとが狂 ったようになって行 ったフ リギアの 去勢 や笛 ふき,拍手 も事実 ではない。デ ィオニュ ソスとその月足 らずの誕生 も, 以前 〔 ゼ ウスの〕頭がそ うであったの と同様 に, この とき傷 め られ た太腿 も存 在 しない。彼 を崇拝す るテーパ イ人の狂気 もセメ レ‑が懇願 せ る雷霞 も,女神 に栄光 を帰せん と してわが身 を傷つ けて苛 んだマケ ドニアの若者 たちも存在 し ない。ヘ カテ‑の陰 うつ な恐 ろ しき姿 はどこにあるのか。 トロポーニオスの各 地 で行 われたという拝礼 と神託 はどこにあるのか。オ シリスの苦痛 も,エ ジプ ト人が尊 ぶ他 の災難 も, イシスの恥辱 も存 しないのだ。 これ らの神 々には常 に それぞれ特別の犠牲が捧 げ られ,特別 の祝祭 がある。 だがいずれに も共通 す る のは皆邪神 だ ということだ。善行 を通 じて造物主 に栄光 と誉 を帰せ んがために あたうる限 り神 に似せて創 られ た者 が,内なる人 を貴 り食 い,滅 ぼ し尽 すあ ら ゆる情欲 に身 を任 せるのは悪 しきことである

だが神 々を情欲の奨励者 と して 立 て,罪過 の責任 を回避せん とするのみな らず,む しろそれが己の崇拝 する神 の業 で あ り,神 が責任 をとるだろうと考 え ることも大 いに誤 っている 。 」 ギ リ

シア人の忌むべ き行為 は他 にも沢山ある。彼 らの神 右 まその情欲 ゆえに,す 年

わち淫蕩 ,憤怒,放縦 ,淫欲 ゆえに崇拝 されている。彼 らの うちの誰かが何 ら

かの情欲 の虜 とな ったとき,彼 は己の情欲 にふ さわ しい神 々 を選 び, それ を信

仰 したのである。淫蕩 にはヘ ラク レス,憎悪 と敵意 にはクロ ノス,憤怒 と殺人

にはア‑ レース,楽器 を手 に歌 う踊 るの大騒 ぎにはデ ィオニ ュソス という具合

である

他 に も様 々な神 々が 情欲 ゆえに崇拝 された。汝 も己が欲望 において こ

れ らの者 によ く似 ている。汝 は朽つべ き人間 をあえて指導者 と呼 び,栄光 を畏

れず,大胆 に も誹誇 している。 ギ リシア人が己の情欲 にふ さわ しい神 々を崇拝

す るの と同様 に,汝 も己の裏切行為 にふ さわ しく裏切者 を称 えている。彼 らの

隠れた情欲が神 と して崇拝 されているの と同様 に,汝 らの秘密の裏切 も正義 と

(14)

1 1 4 人 文 研 究 第 73 輯

考 え られてい る。 これ にたい しわれ らキ リス ト教徒 は三位一体 の神 と称 え られ るわれ らの イエ ス ・キ リス トを信 じている。使徒パ ウロが語 る通 りである。「わ れ らには新 しき契約 の仲介者 ,キ リス トが あ られ る。彼 は天 にあって大 いなる 者 の御座 の右 に座 し, われ らの肉の幕 を取 り除 き,常 にわれ らを教 え,進 んで 彼 らか ら苦 しみ を受 け,己が新 しき契約 を血 にて浄 め られ たの で あ る 。 」 ( 31)

様 にキ リス トも福音書 のなかで こう述 べている。「 汝 らは教師 とよばれ ている

だが汝 らの教 師 は一 人, キ リス トで ある 。 」 ( 32) ゎれ らキ リス ト教徒 は三位 一体 の神 こそが守 護者 で あることを知 っている

われ らはこの神 をわれ らの神 イエ ス ・キ リス トを介 して認識 す るに至 った。 われ らはまた神 なるキ リス トの母 と なる栄誉 を与 え られ たいと も浄 き聖母 が,キ リス ト教徒 の執 りな し手 で ある こ とを知 ってい る。さらに天 の全軍勢 と大天使 や天使 らもわれ らの守護者 である。

それ は大天使 ミハ イ‑ル ( 33) がモ ーセ とヌ ンの子 ヨシュアお よび全 イス ラエ ル の守護者 であ っ・ たの と同様 で ある

大天使 ミハ イ‑ル はまた,新 しき恩寵 の信

ツアーリ

仰 の念 において並ぶ者 なきキ リス ト教徒 の皇帝 コンス タンテ イヌス にとって も 守護者 であった。その姿 は見 えなか ったが,軍勢 を導 き,敵 をすべ て打 ち破 り,

ツア‑ リ

それ以後今 日に至 るまですべ ての敬神 の皇帝 たちに加勢 しているの である。か くてわれ らには ミハ イ‑ルや ガヴ リールその他すべての肉 にあ らざる霊的力 が 守護者 と してつ いて いる。 さらにわれ らには預 言者 ,使徒 ,僧正 ,殉教者 ,一 団の尊 師 たち,憤悔聴 聞僧 ,男女 の無言僧 ら神 への祈両者 がいる。以上 が われ らキ リス ト教徒 の守護者 で ある。 これにたい し朽つ べ き人 間の ことを一体 いか に して守護者 と呼 び うるのか, わた しには分 らない。単 にわが臣民 にその よう な資格 が ない とい うのではない

われ らツ ァー リです ら守護者 と呼 ばれ るべ き で はないのだ

とい うの もたとえわれ らが黄金 と真珠 の ち りばめ られた緋抱 を 纏 って いると して も, われ らは朽 つ べ き身 であ り,人 と して弱 い存在 で あるか 剛 へブル 8 :1 , 9 :2 0,2 2,1 0:2 0,1 2:2 4

( 3 2 ) マタイ 23: 1 0 ( ただし聖書の如 く 「 呼ばれてはならない」ではない。否定の Heが 欠如 している。)

( 3 3 ) 天の軍勢を率いる大天使。後に出てくるガヴリール ( ガブリエル)が啓示の天使 ( 天

の御便)であるのにたいし,サタンとの闘争における神の勢力を示 している。

(15)

イヴァン雷帝 とクールプスキー公の往復書簡試訳 ( Ⅰ) 1 1 5

らだ。だが汝 は朽つべ き背信 的人間 を守護者 と呼んで恥 じることがない。主 な る神 はこれ につ いて聖 なる福音書 のなかで, 「 人の間で尊 ばれ る者 は,神 の前 では忌 み嫌 われ る 」( 34) と述べている。 ところが汝 は背信的で朽つべ き人間 に人 間的栄誉 を与 えたのみな らず,神の栄光 をも帰 している. ′汝 はギ リシア人の如 くに理性 を失 って狂暴化 し, さなが ら悪魔 の ようだ。ギ リシア人が己の神 々を 崇拝 したのと同様 に,汝 も己の情欲 の命ず るまま朽 つべ き背信的人間 を選 び出 し,彼 らを称 えているのだ . ′ある者 は神 々の栄光 の ためにわれ とわが身 を切 り きざみ, あ らゆる方法 で己 を苦 しめている。また他 の者 は神 々に倣 ってあ らゆ る情欲 に耽 っている。神の僕 グ レゴ リオスが 「 見 よ,彼 らは醜悪 を崇 め,狂暴 を信仰 した」 と述 べ る通 りである 。( 35 ) これ は汝の場合 にもあてはまる。彼 らが 汚れた神 々に従 っ 〔 て滅 び〕 た如 く,汝 もまた己の友 たる裏切者 らと苦難 を共 に し,滅ぶべ きである。ギ リシア人 が不当 にも汚 れた人間 を神 々と呼んだ如 く に,汝 もまた朽つべ き人間 を不当 にも殉教者 と呼ぶ。だか ら汝 も己の殉教者 の 祭 日には身 を切 りき ざみ, 自ら苦 しみ,踊 り,楽器 を手 に歌 うべ きであろ う。

ギ リシア人 と同様 に汝 も行 うべ きなのだ。彼 らが苦 しんだ如 くに,汝 もまた己 が殉教者 の祭 日に苦 しむべ きなのだ . ′

汝 はまた次の ように書 いて きた。 これ らの 「 指導者 はわれ らの父祖が臣従 し て いた騎 れる国々を打 ち砕 き,汝の前 に万事 につ け服従せ しめた」 と。 こう言

えるの はカザ ン帝国 に関 してだけである。だが ダジタルハ ン 〔 アス トラハ ン〕

の場合 はちが う。汝 らは戦 闘 に参加 しなかったのみな らず, 〔 遠征 を〕考 え よ うと も しなか ったのである

( 36) すでに触 れ られたかの戦場 の勇気 につ いては, わた しはもう一度 その愚か さを明 らかに したいと思 う。一体汝 はなぜそれ ほど 倣然 と香 り高 ぶ っているのだろう

汝 らの祖先,汝 らの父 や伯父 らの場合 はど うであっただろうか。彼 らは何 と賢 く,勇気 に満 ち,思 いや りがあった ことだ

帥 ル カ 1 6:15

( 3 5 ) 上記( 3 0 ) と同 じ説教か らの引用か.

帥 カザ ン攻略は 155 2 年。アス トラハ ンは 15 56 年寄帝の軍 によって抵抗 な しに占領 され

た。雷帝の側近が アス トラハ ン征討計画に反対 したかのような記述 はここだけの もの

である。 ダジタルハ ンは,ハ ジータルハ ン (タタール語のアス トラハ ン)の変形か。

(16)

116 人 文 研 究 第7 3 輯

ろ う

汝 らの勇気 や知 恵 は彼 らの夢 の幻 にす ら及 ばな い。 これ らの勇敢 で賢明 なる者 た ちは誰 に強制 され たわ けで もな くただ 自 らの意志 で,戦 闘の勇気 と熱 意 を もって 〔 出征 した〕。汝 らが強制 され て出征 し, しか も泣 き言 を言 ったの とは大 ちが いである。 だが この ような勇気 ある人 々 も,われ らが成人 す るまで の 1 3 年 間, キ リス ト教 徒 を蛮 人 の手 か ら守 り通 す こと はで きなか ったの で あ る . ′ ( 37) 使徒パ ウロの言葉 を借 りて言 お う。 「 わ た しも汝 らの ように愚 か さを誇 ろ う

汝 らが無理 にそ うさせ たのだ。汝 らは愚 か に も暴 力 を受 けいれて いる。

誰 かが汝 らを食 らい,顔 を叩 き,大威張 りして も,〔 汝 らは じっと忍んでいる。 〕 わ た しは腹立 た しい思 いで こう述 べ ている 。 」 ( 38) 誰 で も,当時正教徒 らが ク リ

ミアとカザ ンの蛮人 に手 ひど く痛 めつ け られ た ことを知 ってい る。国土 の半分 が荒廃 して しまったほどである。 だが やがてわれ らは神 の御加護 をえて,蛮人 に戦 いを挑 み始 めた。われ らは最初 己の軍司令官 セ ミョン ・イヴ ァノヴ ィチ ・

ミク リンスキー公 とその同輩 をカザ ンの地 に差 しむ けたが, ( 39) その とき汝 らは 皆 , あたか もわれ らが彼 を任務 のためで はな く,罰 しようと して恥辱 の うちに 派遣 したかの如 くに言 い立 てたので あった。 だが軍務 を不興 とと りちがえるの が勇気 なのであろ うか。それで騎 れ る国々 を征服 す る ことがで きるのだろ うか。

強制的 にではな く自発的 に出征 していたとすれ ば,一体幾 たびカザ ンの地 へ遠 征 を行 うことが で きただろうか 。( 40) 汝 らはいつ で も困難 な旅 に出 るかの ように ( 3 7 ) 雷帝 は ここで彼 の幼少期 ( 誕生 か ら貴族 支配 の終悪時 までない しは父 ヴ ァシ‑ リー

三 世没後新 たな攻勢 に出 る 15 45 年 までの 13 年 間 )にお ける対 カザ ン ( 及 び ク リ ミア)・

タタール闘争 の不首尾 につ いて想起 している。 この時期 モ ス クワ国家 の東 ・南 方 国境 地帯 はほとん ど毎年 タタールの侵入 に悩 ま され ていた。

㈹ Ⅱコ リン ト 1 2: ll, l l:20‑21

( 3 9 ) 雷 帝政 府 に よる最 初 の カザ ン遠 征 は 1 5 45 年 C.班 .プ ンコ7‑ミク リンスキ ー, イ ヴ ァン ・シェ レメ‑チ ェフ, ダヴ ィ ド ・パ レツキーの指揮下 に行 われ た。 これ は一定 程 度 の成 功 を収 め, カザ ンにお ける親 モ ス ク ワ派 の力 を強 めた。 ( サ フ ァ ・ギ レイ汗 の追 放 と翌年 の親 モ スー ク ワ派 シャフ ・ア リの即位 。) ミク リンスキー公 が実 際 に雷帝 の寵 を失 ったか ど うか は確 め られ ない。

( 4 0 ) 第二 の遠征 ( 15 47‑1 5 48 年 )は不成功 に終 った。サ フ ァ ・ギ レイはすでに復 帰 して

いた。彼 の残 ( 1 5 49 )後 カザ ンで は親 ク リ ミア派 の クチ ャク汗 が実権 を握 る。 これ に

対 す るモス クワ側 の遠征 ( 1 5 49‑155 0) も失敗 で あった 。15 51 年 カザ ン攻撃 の基 地 と

な るべ きス ヴ イヤ シク要塞 が築 かれ,翌年新 たに大規模 な遠征 が組織 され, カザ ンは

モ ス クワ軍 の手 に落 ちた。

(17)

イヴァン雷帝とクールプスキー公の往復書簡試訳 (Ⅱ) 117 不 承不承 出か けたの だ ・ ′神 が われ らに恵 み を垂 れ, かの蛮族 をキ リス ト萄徒 の 手 に渡 され た とき も,汝 らはわれ らと共 に彼 らと戦 うこと を望 まず, われ らの 下 に は汝 らが忌避 した ため に15 000 以 上 の者 が出頭 しなか ったので あ る 。( 41 ) 汝 らはハ ンガ リーの ヤ ー ノシュ ( 42) の如 く愚 に もつ か ぬ言葉 で民 衆 を惑 わ し,戟 闘 を回避 させ た。‑ それ で どの ように して騎 れ る国 々 を打 ち破 る とい うので あろ

うか。かの地 に滞在 中 も汝 らはたえず有害 な進言 をな し,武 器弾薬 頬 が水 中 に 沈 むや, ( 43) 三 日留 まっただ けで帰 国 を望 んだので あ った . /汝 らは長 期 の対 陣 中 好機 を じっと待 つ ことには常 に反対 し, 己が生命 を惜 しむで もな く戦 いに勝 と うとす るので もな く, ただただ迅速 に勝利 す るか さもな くば敗北 す るか して, 速 やか に帰 国す る ことのみ を考 えてい た。 この ように汝 らが急遮帰 国 したため に多 くの有為 な戦士 が置 き去 りに され,後 にキ リス ト教徒 の血 が大 量 に流 され る こととな った。 ま さに町 を落 とそ うとい う時 に も, も しわ た しが汝 らを制 止 しなか ったな ら,汝 らは好機 も待 たず に攻撃 を始 めて,正教徒 の軍 勢 を徒 に滅 ぼす と ころで あったの であ る。 また神 の憐 れ み に よ り町 を奪 取 した後 も,汝 ら は秩序 の回復 に努 め る ど ころか,略奪 に走 ったので あ った . ′はた して汝 が愚 か に も自慢 す る騎 れ る国 々の征服 とは この よ うな もの であ ったの だろ うか。実 際 の と ころそれ は一言 の称 賛 の言葉 に も値 しない。 なぜ な ら汝 らは皆 自発 的 で は な く, あ たか も奴隷 の如 く強制 され て, しか も不 平 を言 いなが ら, これ を行 っ たか らだ。称 賛 に値 す るとすれ ば, それ は自 らの意志 で 自発 的 に戦 った場合 で あ る。確 か に汝 らは これ らの国 々 をわれ らに服 従 せ しめた。 だが それ も 7年以 上 にわ た って わが国家 とこれ らの国 々の間 に激戦 が続 いた後 の ことで あったの

だ . ′ ( 44)

㈹ 1 5 5 2 年の遠征には 1 2‑1 5 万の兵が参加 した。このときノヴゴロ ドの多くの勤務人階 級‑軍人が出陣せずに,後にツァ‑リの命で対地を没収されたことが知 られている

.

おそらくそういう軍役忌避者が 1 5 0 0 0 人 もいたと雷帝は考えたのであろう。

( 4 2 ) ヤーノシュ ・サボヤィ。 トランシルヴァニア公,ハ ンガリー王 ( 在位1 5 2 6‑1 5 4 0) 0 彼はハブスブルグ家からモハ‑チの敗戦 ( 1 5 2 6 )の責任を問われ, トルコへの内通者, 裏切者と非難された。

( 4 3 ) カザン攻城が始まって間もない 9 月 2 4‑2 5 日,嵐のためヴォ) i , ガ川が荒れ騒 ぎ,ロ

シア側の多数の船舶が沈没 した。

(18)

11 8 人 文 研 究 第 73輯

さて ア レクセ イ と汝 ら犬 ど もの支配 が終 るや , これ らの 国 々 は万 事 にお い て

わ が 国家 に従 う よ うに な り,今 や 3 万 人 以 上 の戦 士 が正 教 に加 勢 す る に至 って い る

( 45) 汝 らが騎 れ る国 々 を打 ち破 り, われ らに服 従 せ しめ た次第 は以 上 の如 くで あ る。 同様 に正 教 に た いす るわ れ らの思 案 と配 慮 も以 上 に記 され た 。汝 ら が悪 意 か ら考 えつ い た と ころ に よれ ば, それ は理 性 に逆 らう もの だ と い うが ,

これ につ いて も以 上 の如 くで あ る

だが カザ ンに関 して は これ まで と しよ う。

次 に ク リ ミア と 〔 南 方 の〕荒 野 につ い て言 え ば,こ こはか つ て野 獣 の住 処 で あ っ た が , そ の後 町 が建 て られ ,村 が設 け られ た

だ が ドニ ェ プル や ドン地 方 で の 汝 らの勝 利 と は一 体 何 で あ った の だ ろ う。 キ リス ト教 徒 に どれ だ けの損 失 と破 滅 を もた ら した こ と だ ろ う。 しか も敵 に はか す り傷 一 つ 与 え られ な か っ た の だ . ′イ ヴ ァ ン ・シェ レメ ‑ チ ェ フの こと は ど う言 え ば い いの か 。正 教 キ リス ト 教 徒 に あ の よ うな災 難 が ふ りか か っ たの は汝 らの悪 しき助 言 の ゆえ で あ り, わ れ らの望 む と ころ で はな か った。 汝 らの善 意 の奉 公 と はか くの如 くで あ り,汝 らが騎 れ る国 々 を打 ち破 り,服 従 せ しめ たの も,上 に示 した如 く行 わ れ たの で あ る

( 46)

㈹ 7 年以上 というのは,雷帝政府の カザ ン遠征 が始 まった1 5 45 年か らカザ ン攻略が なった1 5 52 年 までをさすとも考え られるが, イヴァン自身が後述するところか ら考え 合わせると,む しろカザ ン攻略後1 557 年頃まで続 いたタタール人の反 ロシア闘争の こ とをさしたものと考えた方が よいように思われる。 この場合 イヴァンは, クールプス キー らがカザ ン征討 に熱意 を示 さなかっただけでな く,攻略後 におけるカザ ン支配の 早期確立 を妨 げたことで も非難 しているということになる。( 後述注 ( 7 3 ) を参照 )とこ ろで以上の如 きイヴァンの クールプスキー批判が当っているかどうかは甚 だ疑問であ る。とくにクールプスキー らが帰国のみを念 じていたとする非難は問題である。む し ろイヴァンの方が これを望み,カザ ン攻略後の 9 日目 ( 10 月 1 1日)には, カザ ン支配 を確実 にするために翌春 までは留 まるようにという側近 らの懇願 をふ りきって,帰国

′の途についたのであった。

鋲5 ) 後の . I )ヴォニア戦争においてシャフ ・ア リの率 いるタタール部隊が重要な役割 を果 た していたことが知 られている。

( 4 6 ) クリミア汗国 との関係 をめ ぐって雷帝とアダーシュ7, シリヴ̲ I : ス トル らとの間

には深刻な対立があった。 クー) i / プスキーがその 『 歴史』 において記 している如 く,

彼 らは対 クリミア積極策 を主張 したが,需帝 は南方国境の外交手段 による安定 を目ざ

し,対 リヴォニア戦に全力を傾注 しようと望 んだ。ここではアダーシェフらの南方で

の積極策が取 るに足 らぬ成果 しか もたらさなかったことを指摘 して,彼 らの外交路線

の破綻 を論証 しようと している。「ドニェプルや ドン地方での勝利」 とは1 55 8‑1 5 59

(19)

イヴァン雷帝 とクール プスキー公の往復書簡試訳 ( Ⅱ) 1 1 9

ドイツの町 々に関 し,汝 はそれ らがわれ らの裏切者 の鋭 き知恵の働 きに よ り, 神 か らわれ らに与 え られ たと言 う。 だが汝 は己の父 なる悪魔 か ら何 と上手 に嘘

をつ きかつ記 す ことを学 んだのであろう . ′ドイツ人 との戦 が始 まったときの こ とを想 い起 すが よい。われ らはわが家臣の ツ ァー リ ・シハ レイとわが貴族 の軍 司令官 ミハ イ‑ル ・ヴ ァシー リエ ヴ イチ ・グ リンスキー公 をその同輩 らとと も に派遣 して, ドイツ人 と戦 わせ た。われ らが シ リヴェ‑ス トル司祭 やア レクセ イや汝 らか ら無礼千万 な言葉 を浴 びせか け られて苦 しん だの は, この と きか ら の ことであ った。 ( 47) その一 つ一 つ を詳 しく描 くことはで きないほどだ / 〔 考 え て もみ るが よい。 〕 われ らにいか な る災難 が起 こった と して も, それ はすべ て ドイツ人 の仕業 だ ったので はないか . /それに もかかわ らず,われ らが汝 らを一 年 の予定 で ドイツの町 々にむ けて派 わ したとき‑ 当時汝 はわが世襲地 ブス コ

フに滞在 していたが, それ もわれ らが送 りこんだわ けで はな く,汝 自身 の都合 での ことで あった‑ われ らはわが貴族 に して軍 司令官 の ピ ョ‑ トル ・イヴ 7

ノヴ ィチ ・シュー イスキー公 と汝 にたい し,七度以上 も使者 を差 しむけた。 だ が汝 らはわずかな手 勢 を率 いて出撃 しただけで, われ らが使者 を通 じて何度 も 催促 しては じめて ,1 5 を越 える町 々を奪 取 したの であった 。( 48) はた して己の知

年 のザ ポ ロ ジェ ・コサ ックのア タマ ン六 ・ヴイシネヴェツキーや ダニール ・ア ダー シェフ (ア レクセイの兄弟 )らの遠征 をさしている.また 1 5 5 5 年 には mB. シェ レメ‑

チ ェフが南方へ派遣 され, クリ ミア軍 と戦 ったが敗れ,彼 自身 も負傷 している。 この ような事情か ら (またクリミアの背後 に控 える トルコとの衝突 を回避 したいという配 慮 もあって) , イヴ ァンはやがて ク リミアと和 を結 び, リヴォニア戦 に全力 をあげて 取組む ことになる。

( 4 7 ) リヴォニア戦争 は 1 5 5 8 年 1 月前 カザ ン汗 シャフ ・ア リと M. B. グリンスキー魔下の ロシア軍 の リヴォニア侵入 によって始 まったO本文中の シハ レイはシャフ ・ア リの こ と。 タタールの汗 をツァー リとするのは中世 ロシア語の通常 の用法である。同年 5 月 には A. バ スマ‑ ノフの指揮 するロシア軍 はナ) t 'ヴァを占領 した.おそ らくすでにこ の頃には戦争の続行 と戦線 の拡大 をめぐって需帝 と 「 選抜会議」 の有力 メンバーとの 間に意見の対立 が生 じていたと思 われる. 。これを雷帝 はシリヴェ‑ス トル らか らの「 無 礼千万 な言葉」 と表現 している。彼 は以下 に ドイツ人 (リヴォニア騎士 団)こそが戦

うべき主要 な敵 であることを論証 しようと している。

( 4 8 ) 1 5 5 8 年 6 月 r I . H. シューイスキーとクール ブスキ‑, ダニール ・アダ丁 シェフ ら の軍 はブス コフを発 して リヴォニアに入 り, ノイシュロス (シ レンスク) , ド) I / パ丁

卜 ( ユー リエ フ)など ( 年代記 によれば 「 20 の町々」)を占領 した。

(20)

120 人 文 研 究 第 73 輯

恵 によるのではな く,われ らの使者 に促 されて は じめて町々を奪取 す るのが, 鋭 き知恵 の働 きなのであろうか。わた しは当時 シリヴェ‑ス トル司祭 とア レク セ イ ・アダー シェフまた汝 ら全員 が, ドイツの町 々をめ ぐって戦争 を行 うべ き ではない と首尾一貫 して反対 したことをよく覚 えている。その結果 デ ンマー ク 王 の牧滑 な提案 により, リヴォニア人 に戦争準備 のために丸丁年 もの余裕 を与

えて しまったのである . ′彼 らは冬 になる前 に攻撃 を しか けてきた 。( 49) か くて ど れ だけの キ リス ト教徒 の民 が殺害 された ことであろう. ′か くの如 くキ リス ト教 徒 の民 を滅 ぼす ことが,汝 らわが裏切者 の働 きまた善行 なのだ . ′その後 われ ら

は汝 らを汝 らの頭 目ア レクセ イと多数の兵 とともに進発 させたが,汝 らは辛 う じて ヴェ リヤ ン 〔 フェ リン〕 を奪 ったのみで, む しろわが民 を多数死 に至 らし め たので あった。 その とき汝 らは り トワ軍 を御化 けに驚 く子供 よろ しく恐 れ

あのの

戦 いたので あった . ′汝 らはわれ らの命令 でパ イ ドゥ方面へ も渋 々前進 した。

だが戦士 らを苦境 に立 たせ ただけで,結局 は何 も得 られなか ったので はなか っ たか . / ( 50) はた して これが知恵 の働 きであろうか。汝 らはこの ように して ドイ ツの堅 固なる町 々を確保 しようと努めたのであろうか。 も し汝 らの悪質 な妨害 がなか った ら,神 の御加護 によ りすでに全 ゲルマニアが正教世界の もの となっ ていたことであろ う。だが汝 らはこのときか らリ トワとゴー トおよび他 の多 く ( 4 9 ) 初戦の大勝利 にもかかわ らず 1 5 5 9 年 に入 るとロシア軍の作戦 は中止 して しまう。同 年 3 月 リヴォニア側の要請 により,デ ンマーク王 ク リスチャン三世 が介入 し,その結 果 6 ヶ月間の休戦 ( 1 5 5 9 年 5 月 ‑l ュ月 )が締結 された。デンマ‑ク王の親書 (「 嘆願状」)

はア レクセイ ・アダー シェフによって ツァー リに取 り次がれたとい う。 この休戦が ダ

ニール ・アダ‑シェフの クリミア遠征 と時 を同 じくしていたことを考 えると,南方 で

の積極路線 を主張するアダーシェフ派がデンマ‑ク王 の 「 絞滑 な提案」 に乗 ったとす

る雷帝の非難 もあなが ち根拠のないものではない。(ロシア軍 は事実上 「 丸一年」積

極的 な軍事行動か ら遠 ざか ることになった。) リヴォニア側 はこの休戦 を最大限 に活

用 して態勢の立 て直 しに努めた。彼 らはまずその名 目的な保護者である神聖 ローマ皇

帝 フェルデ ィナ ン ドの介入 を求め, '皇帝 は 1 5 6 0 年初頭 リヴォニアの件 でモスクワに使

者 を派遣 している 。1 5 5 9 年 8‑ 9 月 には新騎士団長 ケ トラーが南 および中央 リヴォニ

アにたいするポーラン ド王 ジグム ン ト・アウグス トの主権 を認 めて,その対 ロシア戦

への参戦 を求 めた。 (これ以来戦争 は国際化 し, ロシア側 にとって由々 しき事態 にな

る 。) この ような準備 を した上で リヴォニ ア軍 は 1 5 5 9 年 1 0‑1 1月休戦条約が切れ る前

に反撃 に出て くる。 この条約違反の知 らせを得 て富帝一家 はモジャイスクか らモスク

ワ‑急速戻 ることになったのであった。( 前記注 ( 20) を参照 )

参照

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