本稿で取り扱う「高原」は、国際的な避暑地軽井沢を舞 台とした川端の連作群
一である。 日本近代文学においては、 しばしば文化の理想郷としてイメージされてきた軽井沢で あるが、川端が描いたのは日中戦争が影を落とす戦時下の 軽井沢であった。
し か し、 こ の 特 徴 的 な 舞 台 設 定 と は 裏 腹 に、 「 高 原 」 は これまで研究対象とされることの少なかったテクストでも ある。本稿では、同時代の文脈を参照しつつ「高原」のテ クストに内包された諸問題の発見を試みる。また、同時代 状況が作品に与えた影響、およびそれが左右した作品の行 方を探ることによって、他の軽井沢文学とは一風変わった 雰囲気を持つ「高原」の特徴を描出したい。 一 避 暑 地 と し て の 軽 井 沢 の 始 ま り は、 明 治 一 九 年 に 遡 る。 この年、カナダ生まれの宣教師アレキサンダー ・ クロフト ・ ショーが軽井沢を訪れると、それを嚆矢として次々に宣教 師たちの別荘が建てられた。以降、軽井沢は国際的な避暑 地として発展し、多くの政治家や駐日大使などが夏を過ご す聖地とされていく。これが近代軽井沢の黎明期である。 その後、大正二年には「軽井沢避暑団」が発足し、軽井 沢の自治に影響力を持つようになった。この避暑団は英米 の宣教師が中心の団体であるため、特に風俗面での規制を 設け、清浄な軽井沢を守ることに尽力。こうした清浄性の 上に、軽井沢のイメージは立ち上がった。
小 松 史 生 子
二に よ れ ば、 軽 井 沢 は「 リ ゾ ー ト 地 開 発 の 一 大 橋 諒 也 川端康成研究
︱︱同時代における「高原」の様相・軽井沢の時空より ︱ ︱
方で、学問の地としても拓かれる」場所であり、それゆえ に「室生犀星、堀辰雄、立原道造、川端康成、正宗白鳥と いった作家達に愛され」 、「彼らの文学がしばしば軽井沢を 舞台に描かれることから、いっそう軽井沢に文化の理想郷 を夢想するイメージの回路が、一九二○~三〇年代にかけ て固定し普及する」と説明されている。
ここに挙げられている作家で言えば、堀辰雄などが虚構 の軽井沢を描いた代表例であろう。昭和一一年から書き出 さ れ、 一 三 年 に 単 行 本 が 発 売 さ れ た 堀 の『 風 立 ち ぬ 』 は、 軽井沢のサナトリウムで過ごす恋人たちの小説である。そ れはまさしく清浄な避暑地の物語であり、 「文化の理想郷」 と い っ た よ う な 軽 井 沢 イ メ ー ジ を 喚 起 さ せ る も の で は な かったか。堀の描いた軽井沢について、柴田翔は以下のよ うに指摘する。
堀辰雄の軽井沢なり富士見、追分の魅力は、それが 現実の軽井沢その他の土地を舞台にしていながら、し かし同時に、 確固とした虚構の世界となっている とい うところにある。
三〔傍線部は引用者。以下同じ〕
つまり文学者の描く軽井沢とは、必ずしも現実の軽井沢 を精巧に再現したものではなく、むしろ虚構性の強いもの であった。清浄な避暑地というイメージを後ろ盾としなが ら書かれたこれらの文学は、同時代の評言では「軽井沢も の」 「軽井沢文学」などと呼ばれている。
では、そのような状況下で川端が「高原」に描き出した 戦時下の軽井沢とは、一体どのようなものだったのか。
昭和一二年に日中戦争が勃発すると軽井沢から宣教師の 引き揚げが始まり、 避暑地にも戦争状況が前景化してくる。 翌一三年には日独防共協定の影響によりヒトラー・ユーゲ ン ト が 来 軽。 こ れ は 同 年 八 月 二 四 日 付 の『 東 京 朝 日 新 聞 』 において「軽井沢ナチス一色」という見出しで報じられて いる。また、連合国との緊張が高まる昭和一六年には英米 人の別荘は没収され、撤退する英米宣教師たちに代わって ドイツ人が増加。軽井沢は、英米蘭領を抜け出した枢軸国 側の避難所のような様相を呈することになった。
川端はこうした軽井沢の現実を題材として「高原」連作 の執筆を開始。テクストには昭和一二年の支那事変、とり わけ第二次上海事変などの話題が書き込まれているが、三 年に亘る執筆期間を設けながら作中の時間は一二年の夏か ら 進 ま な い。 川 端 自 身、 「 こ の 作 品 の「 時 」 は 一 夏 に 限 つ た つ も り で あ る 」 と 語 っ て お り
四、 昭 和 一 三 年 以 降 の 軽 井 沢は描かれないのだ。この「高原」が当時どのような反応 を受けたかについて、松本和也の先行研究がある。
確かに量的には、第一作「高原」に多く日中戦争の
モチーフが書きこまれている。ただし、その後の四作 品においても、 第一作の舞台は引き継がれており、 (中 略)通奏低音よろしく日中戦争のモチーフは書きつづ けられている。従って、小説表現に即して考える限り 日 中 戦 争( 事 変 ) と い う 論 点 は、 「 高 原 」 連 作 す べ て の同時代受容において、捨象されずに 読みとられても
0000000よかった
0000のだ。
五右の論によれば、 「高原」連作すべてに日中戦争のモチー フが書き込まれているにも関わらず、徐々に時局的な視点 が排除され、軽井沢の美や川端自身の執筆技量に着目した 同 時 代 評 が 増 加 し て い く と 言 及 さ れ て い る。 や は り「 時 」 が問題であろう。
森 山 啓 が「 本 年 度 の 小 説 」( 『 文 芸 』 昭 和 一 二 年 一 二 月 ) において 「芹澤光治
ママ氏の 「この秋の記録」 をはじめ、 (中 略)川端康成氏の軽井沢もの「風土記」まで際物に反する 性質をもつに拘はらず、現代の国内生活の様相描写の一端 において戦時に触れてゐる」と述べているように、 「高原」 はそもそも時局性の強い作品として書き出されながら、作 中の「時」が進まなかったがために時局性を失ったテクス トでもあるのだ。
結局、川端はヒトラー・ユーゲント来訪に代表される昭 和一三年以降の軽井沢を描こうとはせず、昭和一四年一二 月の執筆分「樅の家」を最後に「高原」の筆を止めた。 ここで引き合いに出したいのが、昭和一〇年代の川端を 語 る 上 で 外 せ な い 作 品「 雪 国 」 で あ る。 昭 和 一 〇 年 か ら 一二年にかけて書き継がれた 「島村もの」 とされる連作は、 昭和一二年に「雪国」として単行本化された。これが、い わゆる戦前版の「雪国」だ。 こ の 発 表 後、 「 雪 国 」 は 戦 時 下 で も 読 ま れ 続 け、 名 作 と して評価されることになる。昭和二二年までに加筆された も の を 含 む 戦 後 版「 雪 国 」 の あ と が き
六を 見 る と、 川 端 自 身も「雪国」の人気を認識していたことが窺える。
私の作品のうちでこの「雪国」は多くの愛読者を持 つた方だが、日本の国の外で日本人に読まれた時に懐 郷の情を一入そそるらしいといふことを戦争中に知つ た。これは私の自覚を深めた。
ま た、 こ れ と ほ ぼ 同 時 期 に 書 か れ た 川 端 の 随 筆「 哀 愁 」 (『社会』昭和二二年一〇月)には、以下のような記述も見 受けられる。
そのころ私は異境にある軍人から逆に慰問の手紙を 受 け 取 る こ と が 少 な く な か つ た。 ( 中 略 ) そ の 人 達 は 偶然私の作品を読み、郷愁にとらへられ、私に感謝と
好意とを伝へてきたものであつた。私の作品は日本を 思はせるらしいのである。
共 通 す る の は、 「 雪 国 」 を 含 む 川 端 の 作 品 が 日 本 を 想 起 さ せ る も の と し て 読 ま れ て い る 点 だ。 李 明 喜
七の 指 摘 に も あ る が、 「 雪 国 」 は 温 泉 場 が 描 か れ て い る こ と か ら も「 故 国日本を思い出させる装置として機能し」たとされる。川 端が日本の美を描写した作家としてイメージされやすいの は、こうした作品の効果に拠るところが大きいだろう。
森 山 啓 は「 本 年 度 の 小 説 」( 『 文 芸 』 昭 和 一 二 年 一 二 月 ) の中で、 「雪国」を次のように評している。
川 端 康 成 氏 の「 雪 国 」、 尾 崎 士 郎 氏 の「 人 生 劇 場 」、 石川淳氏の「普賢」 、(中略)等、賞を受けた作品はい づれも政治的なものは回避した文学であつた。
こ こ か ら は、 「 雪 国 」 が 非 政 治 的、 非 時 局 的 な 作 品 と し て 読 ま れ た こ と が 推 察 で き る。 「 故 国 日 本 を 思 い 出 さ せ る 装置として機能」するためには、現実の戦時下日本とは切 り離された幻想の純日本的空間で進行する物語が必要とさ れたのだ。
さ て、 一 方 で「 高 原 」 は ど う で あ ろ う か。 「 高 原 」 連 作 の 発 表 時 期 は 昭 和 一 二 年 か ら 一 四 年 に か け て で あ り、 「 雪 国」連作の書かれた時期と隣接している。どちらも特定の トポスに着目した作品でありながら、両者の評価は大きく 異なっている。この差異を生み出した要因には、時局とい うものが大きく関わっていよう。 そもそも、 白系ロシア人が登場する 「雪国」 が本当に 「政 治的なものは回避した文学」であるかどうかは怪しい。も し そ う で あ る な ら ば、 島 村 に「 あ ん た ど こ か ら 来 ま し た 」 と問われて答えに迷うロシア女の物売りは、作中から排除 されるはずである。 つまり、 ここで問題となるのは「雪国」の本質ではなく、 「 雪 国 」 が 同 時 代 に お け る ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 高 ま り や 外 地 への出征という社会情勢を背景として評価されたという状 況だ。純日本的なイメージを想起させるトポス(=越後湯 沢)を舞台とした「雪国」は、戦時下の日本人が帯びてい た愛国精神に適合しうる作品であった。同時代の読者が希 求する純日本イメージに適っていたのである。 そ れ と は 対 照 的 に、 「 高 原 」 の 舞 台 で あ る 軽 井 沢 は 異 国 風な雰囲気の色濃い土地となっている。近代に入ってから 外国人によって開かれた避暑地であり、作中でも「四十ヵ 国程の人種が雑居」すると語られる軽井沢は、時代の求め る純日本的なトポスではなかった。 政治色がより強くなる昭和一三年以降の軽井沢を川端が 描 け な か っ た こ と に は、 「 高 原 」 が 純 日 本 的 な も の を 求 め
る読者の欲望、あるいは時代の要請に対応できなくなった ことが原因の一つとして考えられるのではないか。それは 今日における「高原」というテクストの埋没性とも深く関 わっているように思われる。
二
ここまで、テクストを取り巻く昭和一〇年代の大まかな 時 代 状 況 を 見 て き た が、 「 高 原 」 や「 雪 国 」 に 描 か れ る ト ポスにはある共通点が潜む。それは、軽井沢にせよ越後湯 沢にせよ、東京に代表される近代都市とは対照的な土地で あるという点だ。つまりは「地方」である。これは同時代 文脈において、何を意味するのであろうか。
昭 和 一 〇 年 代、 戦 時 下 日 本 で は「 地 方 」 お よ び「 故 郷 」 というものへの関心が高まっていた。日本の大陸進出に伴 い、文壇で「故郷」というキーワードが注目されるように なったのである。例えば、 昭和一一年には「新風土記叢書」 といったシリーズ本が発売されているが、これは作家たち に 自 分 の 故 郷 に つ い て 紹 介 し て も ら う 企 画
八で あ っ た。 そ の前年である昭和一〇年には、風土の観点から民族性や文 化を考察した和辻哲郎『風土』も刊行されており、大陸へ の移民や出征が叫ばれる当時において、 日本という「故郷」 への眼差しが強くなったことはこれらの出版状況からも見 えてくる。それは戦争へ向かう国家と不可分なものとして の「故郷」であり、帝国のナショナリズムを浸透させてい く役目も担っていた。軽井沢や越後湯沢を含む「地方」と い う 概 念 は、 「 故 郷 」 に 内 包 さ れ た も の と し て 考 え る こ と ができるだろう。 このような「地方」への着目は、文壇に限った話ではな い。当時、大衆の間では交通網の発達によるツーリズムの 流行があったことを大原祐治が指摘している。
さらにこの時期には、 「時刻表」 や「地図」 のみならず、 観光を奨励するべく鉄道省が刊行する書物 ︱︱ ほぼ毎 年改訂される『鉄道旅行案内』や一九二九年から三六 年にかけて刊行された『日本案内記』全八巻など ︱︱ が、そうしたツーリズムを増幅させてもいた。
九知識人たちの「故郷」熱が盛り上がる一方で、大衆間に もこうしたブームが見られたことは興味深い。無論、ツー リズムの隆盛とナショナリズム志向は全てが同質の問題で はないのだが、昭和一〇年代前後にあって「地方」へ意識 を向ける機会が増えていたことは確かであろう。
こうした状況下で、川端は信濃についての作品群を書き 始 め る。 「 高 原 」 も 信 濃 作 品 群 の 一 つ と し て 位 置 づ け ら れ るものだが、信濃の伝承や郷土を描いた「牧歌」などとは
違 い、 「 高 原 」 の 舞 台 と な る 軽 井 沢 は 日 本 古 来 の 歴 史 が イ メージされる土地ではない。昭和一〇年代初期における川 端の執筆活動は「地方」という文脈でその一側面を捉える ことができるが、信濃という「地方」の中でも異国人雑居 の軽井沢 ︱︱ 近代日本人の「故郷」になりえない土地(そ し て 人 工 的 に 象 ら れ た 自 然 ) ︱︱ を 連 作 で 描 い た こ と は、 注目に値することではないか。
一〇川端は「高原」の執筆に当たり、 虚構の軽井沢ではなく、 現実に即した時局的な軽井沢を選択した。しかし、川端は 刻一刻と移り変わる戦時下の軽井沢を描き切れず、同時に 「 故 郷 」 た り え な い 舞 台 設 定 は 時 代 の 求 め る 作 風 か ら 逸 脱 し、 「 高 原 」 は 途 絶 し て い く の で あ る。 そ れ こ そ が、 日 本 古来の自然が残るトポスを描くことで「故郷」を思わせる 作品として成立した「雪国」との最大の相違点であろう。
た だ し、 「 高 原 」 は 決 し て「 故 郷 」 と い う 問 題 を 無 視 し た作品ではない。作中、主人公の須田は「世界中が混血児 ばかりになったらどうですか」と語るが、世界中に混血児 が溢れるということは、民族の「故郷」が拡散するという こ と で も あ る は ず だ。 つ ま り「 高 原 」 と は、 誰 の「 故 郷 」 でもない軽井沢を描く一方で、一つの土地やイメージに統 合されない「故郷」を考えたテクストでもあったのではな いか。この数年後、川端が「五族協和」を掲げた満州国に 大きな関心を寄せるのも、外地へ拡散した「故郷」と無関 係ではないだろう。 三
令嬢も神聖な美しさであつた。髪がたうもろこしの 毛の枯れたやうに汚く、そのほかにはあまり混血児ら しいところはないが、 瞼の切れの鋭い眼、 少し高い鼻、 うひうひしい歯、さうして日本風な肌の色の頬に、な んとも言ひやうなく地上離れした光があつた。
右の引用は、第五作「樅の家」に登場する混血児を描写 した本文である。須田が日仏の血を引く令嬢に惹かれる場 面であるが、考察に当たってまずは「混血」をめぐる同時 代状況について言及する必要があろう。
どの磁場を持っていたのだろうか。 (一九三九年)という発表時期において、 「混血」はどれほ かれるのは「樅の家」のみとなっている。この昭和一四年 「 高 原 」 連 作 に は 多 数 の 外 国 人 が 登 場 す る が、 混 血 児 が 描 「 樅 の 家 」 は 昭 和 一 四 年 一 二 月、 『 公 論 』 に 発 表 さ れ た。
同 年 に 発 表 さ れ た 石 川 淳「 白 描 」 や 金 史 良「 光 の 中 に 」 といった小説を例に挙げながら、山口俊雄は次のように分 析している。
両作品が発表された一九三九年は、日中戦争三年目 の総動員体制下、厳しい言論統制の中でのことであっ た。したがって、いずれの作品も、言葉を奪われた状 況 の 中 で の 韜 晦 と い う 性 格 を 帯 び ざ る を 得 ず、 〈 混 血 児〉の起用は、両義性・多義性の「活用」のためだっ たと見ることができるのである。
一一石川淳の「白描」は日本とユダヤの混血児を中心とした 物語であり、金史良の「光の中に」は日本と朝鮮の混血児 が主役となる。どちらの混血児も、政治陣営を意識した想 像力が働くような「混血」である点は興味深い。何より重 要 な の は、 「 混 血 」 と い う 属 性 が 様 々 な 要 素 を 内 包 し て い る と い う こ と と、 作 家 た ち が そ う し た「 両 義 性・ 多 義 性 」 に着目していたという状況であろう。
この前年の昭和一三年には、中里恒子「乗合馬車」が芥 川賞を受賞するが、 これも混血児を描いた作品である。 「混 血」というテーマは、この時期の文壇にも一つのトレンド として根付いていた様子が見て取れる。
ま た、 「 血 統 」 へ の 関 心 が 高 ま っ た こ と は 日 本 国 内 の 情 勢だけで説明がつくものではなく、その背景には戦争の影 響で輸入された思想も関わっている。
当時、ドイツ文学者の高橋健二によって、同盟国であっ たナチス・ドイツのイデオロギーが日本国内に紹介されて いた。これについて、関楠生の解説を引用しておく。昭和 一四年の状況についての言及である。
こ の 年 四 月 に は、 「 ヒ ト ラ ー の 東 方 政 策 」( 『 革 新 』 所 載 ) が 発 表 さ れ る。 ( 中 略 ) ヒ ト ラ ー の 意 図 を、 高 橋は是認し、 肯定的に紹介、 解説する。つづいて五月、 エ ッ セ イ「 血 と 土 に 基 づ く 新 文 化 」 が、 『 読 売 新 聞 』 に寄稿される。
一二ナ チ ス の 人 種 政 策 ス ロ ー ガ ン「 血 と 土 」
一三が 日 本 に 流 入したことも、文壇で「血統」の問題が扱われやすかった 一要因だったと判断できよう。作中で須田が発する「世界 の文明国のうちで、何国人が一番純血であり、何国人が一 番 混 血 な の だ ら う か 」 と い う 台 詞 に も、 「 血 統 」 に ま つ わ る同時代状況が見え隠れする。
こうした指摘は先行研究にも見られ、山口俊雄は「樅の 家」 とほぼ同時期に書かれた石川淳の 「白描」 について、 「作 中であからさまに作動させられている〈血の論理〉そして 〈 風 土 の 論 理 〉 が、 日 本 が 一 九 三 六 年 十 一 月 に 防 共 協 定 を 結んだ相手国であるナチス・ドイツの人種政策の標語「血 と 土 Blut und Boden 」 に 対 応 し て い る こ と は 見 易 い 」
一四と述べている。これは「血と土」というキーワードが「血 統」の問題だけでなく、日本国内における「故郷」への注
目とも重なりうることを示した証左であろう。
以上を念頭に置くと、 「地方」に位置する軽井沢を描き、 「 混 血 」 の 問 題 を 染 み 込 ま せ た「 高 原 」 も ま た、 昭 和 一 〇 年代に文壇を席巻した「故郷」や「血統」という時代の雰 囲 気 を 存 分 に 呼 吸 し て 紡 が れ た テ ク ス ト で あ る と 言 え よ う。
た だ し、 「 高 原 」 に お け る 混 血 児 が 全 て こ う し た 文 脈 だ け で 捉 え ら れ る と は 考 え に く い。 何 故 な ら ば、 「 樅 の 家 」 で描かれる混血児は日仏の混血であり、ユダヤあるいは朝 鮮との混血とは事情が異なるためである。ナチスに迫害さ れたユダヤの「血」や帝国日本の植民地となっていた朝鮮 の「血」は強い政治性を喚起するものであるが、この日仏 混血児はどのように考えるべきなのか。
村 上 仁 美 の 言 に よ れ ば、 「 こ の 昭 和 初 期 と い う 時 代 は 1933(昭和8)年に映画「巴里祭」が封切られ、シャ ンソン(もっとも当時では「フランス小唄」などと呼ばれ ていた)やレビューが流行するなどフランス文化が盛んな 時代であった」
一五とされている。
また、菊村紀彦は「巴里祭」を始めとするフランス映画 が 流 行 し た 当 時 に つ い て、 「 ニ ッ ポ ン の 人 が、 や や 敵 性 国 家に近かったアメリカ映画より、遠い国、芸術の都、あこ がれの巴里といった感情を持ったのもわかるような気がし ま す 」
一六と 回 想 し て お り、 フ ラ ン ス 文 化 に は 政 治 性 と い う 文 脈 が あ ま り 見 出 さ れ て い な か っ た こ と が 読 み 取 れ る。 むしろ戦時下における大衆娯楽といった観が強い。 川端もフランス文化には敏感であった。昭和四年から五 年にかけて執筆された「浅草紅団」の中でも、フランス文 化の混入した浅草を 「一九三〇年型の浅草」 と評している。
これらを踏まえた上で 「高原」 の混血児を考えてみたい。
羽 鳥 一 英 は「 高 原 」 に つ い て、 「 中 心 に あ る の は、 混 血 の美少女への、いかにも川端的なすべてを忘れたような感 覚的憧憬、 そして、 この世界にすべて人種差別がなくなり、 混 血 の 世 界 が 現 出 し た ら、 と い う 夢 が 語 ら れ て い る。 本 質 的 な コ ス モ ポ リ タ ニ ズ ム と い っ て い い 」
一七と 述 べ る が、 この「すべてを忘れたような感覚的憧憬」を可能としてい るのがフランスの「血」なのではないか。日仏混血児とい うキャラクターは、フランスという国が想起させる同時代 イ メ ー ジ を 考 慮 し た 上 で の 演 出 だ と 判 断 で き る の で あ る。 主人公の須田は、一度目の結婚に失敗した心の隙間を「空 想的なもので充たしているようなところもある」 男であり、 フランスの象徴性が彼の空想癖を刺激するのは不思議では ない。
また、フランスとの混血児を設定することで、朝鮮やユ ダヤとの混血では避けられない政治的な文脈を忌避するこ と も 可 能 に な る。 ゆ え に、 「 す べ て を 忘 れ た よ う な 感 覚 的 憧 憬 」 を 読 み 取 ら れ、 「 本 質 的 な コ ス モ ポ リ タ ニ ズ ム 」 に
繋がる見方がされるのだ。
ただし、 これが真に「すべてを忘れたような感覚的憧憬」 であるかどうかには疑問が残る。川端は混血児を 「美しい」 と評す一方で、その描写を細かく見ていくと、須田が美を 感じているのは「日本風な肌の色の頬」であるし、そもそ も髪を除いては「あまり混血児らしいところはない」らし い。その上、フランスの「血」が強く出ている髪について は 「たうもろこしの毛の枯れたように汚く」 と語っている。 須田の価値観はむしろ「日本風」の方に主軸が置かれ、フ ランスの要素はあくまでそれを補佐するものとして機能し ているのではないか。この在り方は「本質的なコスモポリ タニズム」とまでは言えないようである。
こうした点に着目すると、フランスの要素が単なる憧憬 としてのみ捉えられていたというのは論を急ぎ過ぎるもの だろう。フランスとの混血は芸術や自由のイメージを強調 する一方で、異国の「血」に日本的なものを幻視するには 格好の題材になり得たのではないか。混ざり合う「血」が 日本の要素を更に高めるという明らかな空想 ︱︱ こうした 在り方を須田に見ることも、解釈としては可能であろう。
四 「
高 原 」 に 現 れ る「 血 」 の 問 題 は、 混 血 児 の 場 面 だ け に 留まらない。テクスト全体を貫いて語られる須田の結婚と いう話題も、 「血」 の問題に収斂されるべき物語要素だろう。
作中、戦時下にも関わらず軽井沢で陽気に過ごす避暑客 について、須田の姉は「そりやあ皆さん、根なしなんだも の 」 と 指 摘 し、 「 根 の あ る 人 も 根 を 切 つ 」 て 軽 井 沢 へ 来 て いると語る。時局に煩わされず、こうした生活を謳歌する 人間について言及した興味深い同時代評がある。堀辰雄の 「風立ちぬ」についての評言であるが、引用しておく。
「死のかげの谷」堀辰雄 こ ん な に も 特 殊 で 選 ば れ た 生 活、 ( 中 略 ) 今 の 世 の 闘へる人々にとつてどんなつながりがあらう。世の読 者たるものは、この事をハッキリと認識した上で、こ の清純な客観視する余裕を持たねばならぬ。それを持 ち得ない者は、所詮この作者と同じく 社会的無用人 で ある。
岡 沢 秀 虎「 文 芸 時 評 三 月 の 小 説 総 評 」( 『 早 稲 田 文 学 』 昭和一三年四月)より引用したものであるが、ここでは時 局をはね付けたような 「特殊で選ばれた生活」 に対して、 「今 の世の闘へる人々にとつてどんなつながりがあらう」と冷 ややかに語られている。更に、そのような生活者を「社会 的無用人」と切り捨て、読者にもその価値観を要求してい
る 点 は 見 逃 せ な い。 何 よ り、 こ の 価 値 観 に 即 し て 言 え ば、 須田もまた「社会的無用人」に他ならないのである。
須田は一度目の結婚に失敗し、前妻との間には子供も居 なかった。その上、徴兵検査では「第一乙」でありながら ま だ 出 征 し て い な い。 姉 の 世 話 で 洋 子 と の 縁 談 が 持 ち 上 が っ て い る が、 現 状 で は「 根 な し 」 の 一 人 で し か な い の だ。 と す れ ば、 「 高 原 」 に お け る 結 婚 の 問 題 は 極 め て 重 要 で、それはつまり須田が家庭を持ち、戦時下において国家 が奨励した家制度に収まることができるかどうか ︱︱ すな わち「社会的無用人」を脱することができるかどうかとい う岐路でもある。
で は、 須 田 は 果 た し て 結 婚 に 到 達 で き た の で あ ろ う か。 テクストを順に見ていきたい。
須田は当初、縁談の相手として交際する洋子に対し「こ の人と結婚したら、どんな風な家庭生活をすることになる のか、見当がつかぬのだつた」と語る。洋子が「短いパン ツにソツクス」で会いに来るような、当世風の女性である ことが須田を戸惑わせていた。するとここで、更に須田を 驚愕させる女性が登場する。洋子の友人である桂子だ。
新婚にも関わらず、桂子は夫が出征するとオートバイを 飛ばして軽井沢へやって来る。そのことを洋子の口から聞 い た 須 田 は「 あ つ け に 取 ら れ 」 て、 「 さ う い ふ 女 も い る の かと今更らしく驚く」 わけだが、 それは須田がいわゆる 「モ ダ ン ガ ー ル 」
一八風 な 女 性 に 対 し て 免 疫 が な い た め で も あ ろう。桂子は当時としては珍しい恋愛結婚をしており、相 手の家柄が良くないことを渋る家族に「二年も三年もねば つて、たうとう押し通し」た女性である。既に日中戦争が 始まっている作中の時間軸において、彼女は時代にそぐわ ない少数派の女性だったはずだ。 この「モダンガール」的な桂子と、縁談相手の洋子が友 人関係にあることから、須田は洋子のことも「自分と時代 の ち が ふ、 手 の と ど き か ね る 令 嬢 」 と 思 い、 「 つ つ ま し く 夫の出征を見送る日本の女とは、同じ国の娘とは思へぬ程 ちがふのであるか」と不可解さを抱く。しかし、須田は常 に洋子との結婚に消極的なわけではない。
もしものことがあつた後で、このやうに美しい女の 肉体で須田を思ひ出してくれたらといふことは、生命 の溢れた空想だつた。
また、 別れた妻には子供がなかつたのだから、今洋 子をつかまへなければ、自分の子孫をこの世に残して おくといふことは、遂に出来ないかもしれぬ。
須田は、自らが出征するかも知れないことを意識した途 端、洋子に「急に強い愛情が湧き上つて来」る。洋子の美 しい肉体に自分の記憶を託すこと ︱︱ つまり自らの子孫を
残したいという欲求に駆られるのである。洋子に対して一 抹 の 不 安 を 抱 え な が ら も、 「 ど う し て も 二 十 一 二 と し か 見 えぬ若々しさ」に惹かれて、 須田は結婚を望み始めるのだ。
だが須田の求婚に対し、洋子の反応は曖昧である。
いのよ。 」 「 で も、 自 信 が な い の。 お 姉 さ ま の 注 文、 む づ か し 「姉がなにを言つたんです。
」
う。 」 「 須 田 さ ん の 生 活 を 変 へ な け れ ば い け な い ん で せ 生活を変えるとはどういうことであろうか。同時代状況 としては、若松伸哉が「当時の日本〈革新〉のための文壇 に お け る〈 健 康 〉 言 説 の 発 信 」
一九を 指 摘 し て い る。 日 中 戦争二年目の昭和一三年は「本格的な戦争を完遂するため に国内体制の〈革新〉が大きく叫ばれ」た時期であり、 「こ れらの動きは、 文学においてはその内実を埋める〈健康性〉 を求める声となって表出してくる」とされる。
この言及通り、戦争という現実に直面した日本人が健康 性や、あるいは生活の革新というものを求めるのは必然と 言えよう。とするならば、須田が洋子の若々しい肉体(= 健康な肉体)に惹かれ、子孫を残すべく結婚を決意したこ とも、 当時におけるリアリズム的思考と見ることができる。 し か し、 洋 子 は 須 田 の「 生 活 を 変 へ な け れ ば い け な い 」 ことに自信がないと語り、縁談を保留する。須田にとって の 生 活 の 革 新 が ど の よ う な も の か は 想 像 の 域 を 出 な い が、 時代に求められた人生設計に向かうのは確実だろう。すな わち、健康な人と結婚し、家庭を持ち、子供を作って、須 田自身も出征する ︱︱ といったような当時の国民モデルに 近付くということである。この場合、洋子もまた家制度に 迎合していくことが求められるはずだ。 だ が、 洋 子 は 自 信 の な さ を 理 由 に こ れ を 避 け た。 結 果、 二人の縁談はおそらく成り立たないであろうことを示唆し な が ら、 物 語 は 未 完 の ま ま 幕 を 閉 じ る。 「 混 血 の 令 嬢 と 並 べて見て、 洋子があはれになつたのも、 面白いことだつた」 という最後の場面における須田の語りは、洋子の健康性を 希求するような時局性に立脚した 「純血」 結婚を離れて、 「混 血」の令嬢に対して膨らむ思いの方を価値づけている。つ まり、 須田のリアリズムは敗れたのだ。彼は結局「根なし」 のまま、空想の世界に誘われていく。 同時代に適合しようとしながら、現実の生活においては 「社会的無用人」を脱せない人物の姿がそこにはある。 五
須田のような「根なし」の人々を受け入れる作中の軽井
沢は、 この時点では時局性を猶予された空間とされている。 そ し て 川 端 は「 高 原 」 の 時 間 軸 を 昭 和 一 二 年 の 夏 に 限 り、 翌年以降、政治的に変容していく軽井沢(=もはや猶予さ れない空間)を描かなかった。このことについて、テクス トの最後に当たる混血児の場面からもう一度考えたい。空 想に誘われる須田の在り方は、どこへ向かうものなのかを 見極めておく必要があろう。
夏ばかりでなく、軽井沢ばかりでなく、世界中到る ところが、年中かういふ風にあらゆる人種の自由な雑 居であるならば、 世界はいまより平和であらうかとは、 一応空想されることだつた。
右の本文引用のように、須田は様々な人種が雑居する世 界 を 空 想 し、 そ れ が 世 界 平 和 の 礎 と な る こ と を 考 え て い る。すでに引用した羽鳥一英の論において「本質的なコス モポリタニズム」と捉えられている部分であるが、これは 時局に対してどのような位置づけをするべき空想なのだろ うか。
本 稿 で 説 明 し て き た 通 り、 「 高 原 」 が 執 筆 さ れ た の は 昭 和一二年から一四年にかけてのことで、日中戦争を契機と して日本が大陸への進出を加速させる時期である。そこに は無論、日本人による植民地支配という構図が存在するの だが、そうした同時代状況と見比べると須田の空想は非現 実的で、 時局に批判的な思想と取れてしまうかも知れない。
しかし先述した通り、須田は同時代のリアリズムも持ち 合わせた人間であり、彼の空想を単純に戦争批判と結びつ けることはできない。更に言えば、こうした世界平和の考 え方は、当時の日本が大陸政策のスローガンとして使用し ていた 「八紘一宇」 に近いものでもある。昭和初期のジャー ナリストである清水芳太郎は「八紘一宇といふ事は、世界 が 一 家 族 の 如 く 睦 み 合 ふ こ と で あ る 」
二〇と 説 明 し て お り、 それはアジア解放という大義名分を表す単語として認知さ れていた。
須田は 「四十ヵ国程の人種が雑居」 する軽井沢を見て、 「世 界中到るところが、年中かういふ風にあらゆる人種の自由 な雑居であるならば、世界はいまより平和であらうか」と 空想しているが、このような考え方は同時代のスローガン に合致するものではないだろうか。もちろん、それだけを 理由に須田が戦争を奨励しているという極端な解釈をする つもりは毛頭ないが、羽鳥一英の「この世界にすべて人種 差別がなくなり混血の世界が現出したら、という夢が語ら れている」という言及における須田の「夢」は、日中戦争 の大義名分と通底する危うさを持っているとも言えよう。
結婚の失敗を予期し、洋子ではなく混血児の方に価値を 見出していく須田の在り方は、時局に適合できないような
人物像を示していながら、一方では時局に寄り添ってしま うような側面も潜めている。次第に政治性が色濃くなる軽 井沢と同じように、須田もまた時局からは逃れられない。
川端が描かなかった昭和一三年以降の軽井沢は、須田や 洋子のような 「根なし」 の避暑客を表象する場ではなくなっ ていく。テクストに描かれた時局の問題は日を追うごとに 大きくなり、やがては軽井沢というトポスも「根なし」の 避 暑 客 た ち も 変 容 を 余 儀 な く さ れ、 「 高 原 」 と い う 作 品 自 体を立ち行かなくさせてしまうのだ。
そ し て、 「 故 郷 」 の 拡 散 や 人 種 雑 居 の 問 題 を 提 起 し た 川 端 の 視 線 は、 信 濃 作 品 群 の 執 筆 を 経 て 満 州 国 へ 向 け ら れ る こ と に な る。 昭 和 一 〇 年 代 前 半 に 信 濃 を 書 き 続 け た 後、 一 〇 年 代 後 半 の 川 端 が 好 ん で 満 州 と 様 々 な 関 わ り を 持 っ た の は 先 行 研 究
二一の 示 す 通 り だ。 未 完 に 終 わ っ た「 高 原 」 や「牧歌」の続きは、 異国人雑居の外地 ︱︱ 新たな「故郷」 ︱︱ へと求められたのである。それはおそらく、須田が抱 いた「空想」の行方でもあった。
六
昭和一〇年代という激動の時代に名作「雪国」と時期を 同じくして書かれた「高原」は、多くの同時代的な問題を 孕んだテクストである。その大まかな概要については今回 示した通りであるが、より詳細に見ていくには、昭和一〇 年代の文壇との関連を更に探る必要があろう。 「
旅 先 作 家 」 と 呼 ば れ た 川 端 の 作 品 に お い て、 そ こ に 描 かれるトポスが時空の中でいかなる意味を持つのか。それ は「高原」に限らず、川端文学をまなざすためには研究上 の意味ある一点ではあるまいかと思われる次第である。
注記 川端康成作品の引用文は原則として三七巻本『川端康成全集』(新潮社・昭和五六~五九年)を底本とした。引用箇所の旧字体は全て新字体に改め、仮名遣いは原文通りとし、ルビは省略した。また、文中の傍線は断りがない限り引用者による。
一 初出はそれぞれ左記の通り。
「高原」『文芸春秋』(昭和一二年一一月)
「風土記」『改造』(昭和一二年一一月)
「高原」『日本評論』(昭和一三年一二月)
「初秋高原」『改造』(昭和一四年一〇月)
「樅の家」『公論』(昭和一四年一二月)
二小松史生子編『軽井沢と避暑コレクション・モダン都市文化 として収録される。 『川端康成選集』第九巻(改造社・昭和一四年)において『高原』
第
52巻』
(ゆまに書房・平成二一年)八〇五頁
三 柴田翔「軽井沢と死のにおい︱︱堀辰雄の作品をめぐって」堀辰雄『風立ちぬ・美しい村・麦藁帽子』(角川文庫・昭和四三年)四
六 文学』(明治書院・平成二七年四月) 五松本和也「川端康成「高原」連作の同時代受容分析」『国語と国 年二月) 「 第九巻あとがき」『川端康成選集第九巻』(改造社・昭和一四
「あとがき」
『雪国』(創元社・昭和二三年一二月)七 李明喜「川端康成と西川博士の「温泉報国」︱︱雑誌『温泉』にみる『雪国』の同時代的言説」『名古屋大学国語国文学』(平成二三年一一月)によれば、国家的な温泉利用が推奨された戦時下において、「雪国」は日本を想起させる「温泉文学」として読まれたと分析されている。八 紅野敏郎「「新風土記叢書」とその周辺」『文学』(昭和五八年一〇月)参照九 大原祐治『文学的記憶・一九四〇年前後︱︱昭和期文学と戦争の記憶』(翰林書房・平成一八年)一五一頁一〇 堀内京「川端康成の信濃︱︱信濃に「故郷」を見る試み」『千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書』(千葉大学大学院人文社会科学研究科・平成二八年二月)において、川端は「牧歌」や「高原」の執筆を通して信濃に「故郷」を見ようとしていたことが指摘されている。一一 山口俊雄「戦中小説における混血表象︱︱石川淳「白描」・金史良「光の中に」を中心に」(山口俊雄編『日本近代文学と戦争︱︱「十五年戦争」期の文学を通じて』(三弥井書店・平成二四年))一二 関楠生『ドイツ文学者の蹉跌︱︱ナチスの波にさらわれた教養人』(中央公論新社・平成一九年)九九、一〇〇頁一三 民族主義的なイデオロギーの一つ。文化的な継承を意味する 民族の「血」と、祖国を意味する「土」の二つの要素に着目したものである。ナチスの台頭と共に広く普及し、差別的な人種政策の標語として使用された。一四 一一に同じ一五 村上仁美「戦前の日本におけるフランス印象派音楽のイメージ形成:文学者・評論家の言説を中心に」『表現文化研究』(神戸大学表現文化研究会・平成一五年一一月)一六 菊村紀彦『ニッポン・シャンソンの歴史』(雄山閣・平成元年七月)一四七頁一七 羽鳥一英「昭和十年代文学と川端」『国文学 解釈と教材の研究』(学灯社・昭和四五年二月)一八 増田美子編『日本服飾史』(東京堂出版・平成二五年)によれば、モダンガールとは日本では大正末期から昭和初期に現れた「経済的・精神的自立や男女平等の意識を抱き、古いモラルや束縛から逃れ、自由な生き方を求める」女性たちとされる。一九 若松伸哉「再生の季節︱︱太宰治「富嶽百景」と表現主体の再生」『日本近代文学』(日本近代文学会・平成二三年五月)二〇 清水芳太郎「建国」(平凡社・昭和一四年)二六五頁二一 川端と満州の関係を考察した先行研究としては、李聖傑「川端康成と旧満州について︱︱一九四一年の旧満州紀行を中心に︱︱」『民際︱︱知と文化』(鼎書房・平成二五年九月)や、奥出健「川端康成︱︱戦時下満洲の旅をめぐって︱︱」『國學院雜誌』(國學院大學綜合企画部・平成一六年一一月)などが挙げられる。