長崎大学教育学部人文科学研究報告 第40号 23〜40(1990)
『顕揚聖教論』における有神論批判
―「成無常品」第14偈を中心に―
早 島 理
ここに云う「有神論」とは,絶対存在者である自在神(主宰神1§vara)がその自在力に よって万物を形成し創造したとする理論である。この世界があるいはこの宇宙が唯一の絶 対者によって創造されたとする考えは,インド思想においては古くウパニシャッドにさか のぼり,その絶対者がBrahmaや16varaの名称をもって呼ばれて来たことは周知の如く である。他方,工期ウパニシャッドの中心的課題である実体的自我すなわちアートマンを 否定し,その当初から無神論の立場を取り続けてきたインド仏教が有神論批判を繰返して 来たことは云うまでもない。それどころかインド思想のなかで異端とされる仏教による有 神論批判が,実はいわゆる六派哲学などのインド哲学正統派における神の存在証明の議論 くり を促してきたとさえ指摘されているのである。
このインド仏教による有神論批判の対象となった神格はISvara(自在天,あるいはMahe§vara 大自在天,摩醸首羅,マケイシュラ)であり,その有神論は尊祐説(Issaranimmana−hetu−vada
=16vara−nirmapa−hetu−vada),自在等作者論(16vara−adLkartて一vada)などと称されている こともまたよく知られている。これまでの諸研究によればインド仏教におけるこの有神論 批判の流れはおおまかに三種に大別されよう。一つは初期仏教に属するもので,例えば『梵 網経B勉伽碗伽鳩α』の「六十二見」中に見られる「一部常住一部無常論」,阿含の諸経 典に散見される「尊早耳」や」翫伽々αs%伽吻における「自在局所造説(lssarakutta)」な どである。第二はNagarjunaのr中論』やr十二門論』, Aryadevaのr四百論』,
Bhavavivekaの『般若灯下釈』あるいはSantidevaの『入菩提行論』などに展開される有 神論批判で,中観学派に属するものである。第三は後期の仏教哲学者によるもので,論理 学的に有神論の問題を追求するところにその特色が窺える。具体的にはDharmakfrti,
く ラ Santarak§ita, Kamala甜aなどの諸論書に見られる有神論批判である。あるいはこの有神
論批判が(1)倫理的あるいは人間の自由意志の視点からなされるものと,(2)論理学的あるい くヨラ は論争学的視点からなされるものに大別されることもすでに指摘されている。
これらの諸論書に展開される有神論批判の考察は先学の諸論孜に譲る。ここでは視点を
変えて,Asahga造とされるr顕揚聖教論』第四章「成無常品」における有神論批判の考
察を試みるのが小稿の目的である。有神論批判というインド哲学全般にわたる高度に形而
上学的な問題解明のための,ささやかながら一資料を提供するものである。また初期の喩
この 伽行学派における有神論批判研究の緒ともなれば幸いである。
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早 島 理
『顕揚聖教論』「成無常品」の構成内容が,四聖諦の苦諦を無常・苦・空・無我として 順次に観察する際の,無常の遍知としてなされること,その中心テーマは諸行無常を諸行 刹那滅として確i黙することであり,その理論的根拠として三性説が説かれていること,無 常法の立証は(a)刹那滅論と(b)常住法の否定とから成り立っていること,などは既に論じた
くらう
如くであり,ここでの再論は避けたい。本稿の主題である「有神論批判」は無常法を立証 する(b)常住法の否定において論述される。この常住法の否定は①我の常住性の否定,②自 在の常住性の否定,③自性の常住性の否定,④極微の常住性の否定,⑤畳の常住性の否定 から成るが,有神論批判が②自在の常住性の否定に対応することは言を待たないであろう。
く コ この有神論批判は以下のように展開される。
[1]復た次に亦た自在は野性常住にして能く世間を生ずること無し。何を以ての故に。
頚に曰く。
(1)功能有ること無きが故に,(2)摂・不摂に相違す[るが故に]
(3)有用と及び無用と,(4)因と為るとは過失を成ず。(ka.14)
論じて曰く。
(1) [汝]所計の自在,功能有りて世間を出生すること無し。所以は何ん。
①苦し此の自在の世を生じる功能,因縁有ること無くして自然に有らば,汝何ぞ 一切世間は因無くして自ら有ると許さざるや。
②若し此の功能は業を因と為さば,何ぞ一切世間は業を以て因と為すと信受せざ るや。
くり
③若し此の功能は求方便を以て因と為して生ぜば,何ぞ一切の世間は自らの功力 を以て因と為し生を得ると信受せざるや。
(2)又た①若し自在は世間の所摂にして世間に堕在し而も能く一切世間を生ずと言は ば,回れ則ち道理に相違す。 一
②若し此の自在は世間の摂に非ざれば,是れ則ち解脱にして解脱の法[を有する 自在]が能く世間を生ずるは道理に鷹ぜず。
(3)又た①若し自在の須むるは,用有るが故に,諸の世間を生ずるは,世間を生ずる 用を離れては成ぜざれば,眠れ則ち自在が此の須むる用に於て自在有ること無きは,
自ら過失と成る。
②若し此の自在が世間を生ずると錐も須むる所無くば,鷹に一切世間を化生すべ からず。或は,此の自在には顛狂愚夫の過の如き有り。
(4)又た此の自在の世間を生ずるは,①唯だ自在のみを因と為して諸の世間を生ずと 為すや,亦た②更に其の余の因を待つと為すや。
①若し唯だ自在の膣のみを因と為さば,自在の膣の本来常に有るが如く世間も亦 た爾りて,鷹に更に生ずべからず。
②若し亦た少しく其の余の因を待たば,此の所待の因は,②一1.若し因有るこ と無くば,一切世間も亦た鷹に是の如くあるべし。②一2.若し余の因の有らば,
世間も亦た爾りて余の因より生じ,何ぞ自在を須めんや。
『顕揚聖教論』における有神論批判一「成無常品」第14偶を中心に一
25故に自在を立つるに多くの過失有り。
このようにr顕揚聖教論』は唯一絶対の自在神がその自在力でこの世界を創造したとす る有神論を,(1)世界創造の能力がないから,(2)創造者である自在神と被創造物である世界 との包摂関係に矛盾があるから,(3)世界を創造する目的と(4)原因とに誤謬があるから,以 上の四点から批判し否定するのである。
(1)最初は自在神に備わっているとされる世界創造の能力は原因を有するのか(②,
③)あるいは無因なのか(①)という選択肢である。具体的には自在神に備わって いるとされる世界創造の能力が,
①もし原因を有せずして自ずと存在するならば,同様にこの世界もまた原因を有 せずして自ずと存在するはずである。
②もしこの世界創造の能力が自在神の世界創造という作用を原因とするならば,
同様にこの世界もまた世界創造の能力によるのではなく,世界創造の作用による はずである。
ご ラ
③もしこの世界創造の能力が(能力とは別の)世界創造の手段によるというなら ば,同様にこの世界も自らの創造の手段によって自ら生起するはずである。いず れの場合も世界創造の能力はあり得ないことになる。
(2)次の議論は,創造者である自在神と被創造物である世界との関係である。
もし両者が①包摂関係にあるならば,同一レベルの一方が他方を生じることになり,
不合理である。
逆に②両者が無関係ならば,繋がりのない両者に創造被創造の関係はあり得ないは ずである。
(3)第三の議論は,自在神が世界を創造する目的についてである。
もし自在神の世界創造に①目的があるとすれば,自在神はその目的に拘束されるこ とになり,自在神はその目的に関して自在ではないことになる。つまり「自在」神 ではなくなる。
②もし目的がないならば,目的がなくしかも世界を創造することは不合理である。
かくしてともに誤謬がつきまとうことになる。
(4)最後の議論は自在神が世界を創造する原因についてである。
①もし自在神自体が世界創造の原因ならば,自在神が自ら常に存在する如くに世 界も永遠に存続することになり,新たに世界を創造する必要はなくなる。
② もし自在神自体とは別な原因を必要とするとしても,②一1.自在神以外にそ のような原因は見当たらないならば,この世界にもまた別な原因は見当たらない し,②一2.自在神以外に別な原因があるならば,この世界もそれを原因とする ことになり,自在神は原因ではなくなる。つまり自在神がこの世界を創造したこ とにはならない。いずれの場合も誤謬がつきまとうことになる。
以上のように自在神による世界創造説に本来的に付随する論理的誤謬を四種の観点から
追求することにより,有神論を批判否定しているといえよう。
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早 島 理
さて,上述の『顕揚聖教論』「成無常品」に展開される有神論批判の中心となる第14偶 が,『喩伽論』「有尋有伺等三地」の「自在等作者論16vara−adi−kartて一vada」の議論中に「喘 柁南uddana」として現れることを,我われは既に承知している。 r喩目論』のこの「自在 し
等作者論」を見てみよう。
[2]自在等作者論
<1>有神論者の主張
自在等作者論とは何か。「例えばまた,この世界で沙門であれ婆羅門であれある人 が」云々と詳細に先に説かれている如くである。何であれ普通一般の人が知覚経験す るものはすべて自在神による化作を原因とするものである,あるいは別な[神的]人 格者による手作[による創造]を原因とするものである,というような[考え]であ る。すなわち自在神などによる不均等原因論者(1§vara−adi−vi§ama−hetu−vadin;一因 馬弓論)である。
[問]如何なる理由でかような見解を有し,かよ、うに論じるのか。[答]教証と理 エ
証とによってである。教証は上述の如くである。
実証は如何なるものか。「例えばまた,この世界で,ある理論家は」云々と先に説 かれている如くである。原因についてもしくは結果について望まざる行動を起こして しまうことが見られるからである。すなわち,ある人々は原因の時分に「私は浮[行]
を実践しよう」と[願いつつも実際は]望まざる行動をし,悪行さえもなすのである。
あるいは「善趣である天界で天人に生まれよう」と[願いつつも実際は望まざる行動 をし,]結果の時分に悪趣に生まれるのである。「楽を享受しよう」と[願いつつも実 際は]他ならぬ苦を享受するのである。それ故,人々は次の如くに考えるのである。
「[この世界のコもろもろの存在には,誰か,作者,創造者,変化をなす者,父であ く の
る自在神あるいは他の何者かが存在する」と。
〈2>喩伽行学派の反論
彼[の論者]は次の如くに問われるべきである。すなわち囁柁南に云う。
(1)[創造]能力がありえないから,(2)包摂・非包摂の観点で矛盾するから,(3)
有目的・無目的の点で,また(4)原因と云う点で誤謬があるから[,自在等作者 論は不合理である]。
(1)自在神にそなわっている,化作により[創造する]能力,その[能力]はいった ほ
い①[創造]行為に専念することを因とすると君は主張するのか,あるいは②無因 である[と君は主張する]のか。
①もしその[能力]が[創造]行為に専念することを因とする[と君が主張する]
ならば,その[能力]は[創造]行為に専念することを因とし,[他方]世界は [創造行為に専念することを因と]しないことになり,不合理である。
②もし無因である[と君が主張する]ならば,その[創造能力]は無因で,[他 方]世界は[無因では]なく,不合理である。
(2) [あるいはコ自在神は,①世界に包摂されていると君は主張するのか,あるいは
r顕揚聖教論』における有神論批判一「成無常品」第14偶を中心に一 27 く
②包摂されていない[と君は主張する]のか。
①もし世界に包摂されている[と君が主張する]ならば,世界と同質[の自在神]
が世界を創造することになり,不合理である。
②包摂されていない[と君が主張する]ならば,それならば[世界から]離脱し た者(世界と無関係の者)が世界を創造することになり,不合理である。
(3) [あるいは,自在神は]①目的をもって[この世界を]創造すると,君は主張す るのか,あるいは②目的なくして[この世界を創造すると,君は主張するの]
ヨ
か。
①もし[自在神は]目的をもって[この世界を創造すると,君が主張する]なら ば,そうならば,その目的について自在でない者が世界の創造者であることは不 合理である。
②もし[自在神は]目的なくして[この世界を創造すると,君が主張する]なら ば,[自在神が]無目的のものならば,そうならば[自在神に世界を創造する]
目的はなく,しかも[自在神が世界を]創造することは不合理である。
(4)[あるいは,自在神による]世界創造(or創造された世界)は①自在神を因とす ると君は主張するのか,あるいは②別な主要なものを因とすると主張するのか。
①もし自在者のみを因とする[と君が主張する]ならば,そうならば,自在神が 存する時は世界創造があり,世界創造がある時は自在神が存することになる。し たがって世界創造が[同時に存在する]自在神を因とすることは不合理である。
②もし[この世界創造はコこれ[自在神]とは別な主要なものを因とする[と君 が主張する]ならば,そうならば②一1.[世界を創造しようという]意欲のみ
を因とするのか,あるいは②一2.[世界創造の]意欲を除いて,その[意欲]
とは別な主要なものを因とするのか。
もし②一1.その[世界創造の]意欲[のみ]を因とするならば,その意欲は,
さらにまた,②一1−1.自在神のみを因とするのか,はたまた②一1−2.そ の[自在神]とは別な主要なものを因とするのか。
もし[この世界創造の意欲が]②一1−1.自在神のみを因とするならば,自 随神が存する時は意欲があり,意欲がある時は自在神が存することになる。した がって,常に世界創造があることになってしまう。
もし[この世界創造の意欲が]②一1−2.その[自在神]とは別な主要なも のを因とするならば,この[ような因]は見当たらない。この[自在神とは別な 主要な世界創造の因]について自在でない者が世界の自在神であることは不合理 である。
以上のような理由で,(1)[創造]能力からしても,(2)包摂・非包摂からしても,(3)
有目的・無目的からしても,(4)因のあり方からしても,不合理である。それゆえこの
[自在神などの世界創造者の]理論もまた正しく立てられたものではない。
先ず『顕揚聖教論』「成無常品」第14偶と『喩伽論』の咀柁南とを比較してみよう。
[1a]頒日
28 早 島 理
功能無有畑 掻耳掻相違
有用及無用 為因成過失 (『顕揚聖教論』549c)
[2a]喘柁南日
功能耳環性 撮不擾相違 有用及無用 為因成過失
[2b] uddanarh
(1)samarthyasambhavad,(2)
(3) sani§prayojanatve,pi (4)
(『:喩伽論』309b)
antarbhavabhavavirodhatah.
hetutve doSasambhavat〃(YBh p.144)
[2b]をもとに[2a]と[1a]とを比べると(ともに亀卜訳),両者ともに[2 b](もしくは[2b]に準じた偶碩)からの訳出であることは明らかである。つまり『顕 揚聖教論』「成無常品」は『喩伽論』「有業有半等野地」の艦柁南を自らの偶頒として取り 込み,それに「成無常品」における有神論批判の意図に従って注釈を施したと理解されよ
う。この点に留意しつつ,『喩伽論』における有神論批判を見てみよう。
ところで上記[2]の引用から明かなように,『開戦論』における有神論批判は,〈1>
対論者が主張する有神論と〈2>喩伽行学派からの批判・反論からなること,さらにその
〈1> 有神論の根拠は経証と理証とからなり,また〈2> 喩伽行学派からの批判の要約と して上記の艦甲南が掲げられていることが解かる。したがってr顕揚聖教論』「成無常品」
は『喩伽論』「有尋有壁等三男」における有神論者の主張は自明なものとして省略し,囁 境南を継承して自らの有神論批判を展開したと見なすことができよう。ここでは『喩伽論』
における陳述の順序にしたがって先ず「対論者が主張する有神論」の考察から始める。
四
さて,上述のように国別と理証とに基づいて対論者は有神論を主張するのであるが,そ の経証は,「例えばまた,この世界で沙門であれ婆羅門であれ,ある人が云々」とある経 典の冒頭を引用するのみに止まる。これのみではこの経証のもととなった阿含そのものを 同定することは困難である。すぐ続く理証で有神論者は次のように主張する。
この世界で善行を実践しようと決心し,善行の積み重ねによって天界の天人に転生しよ うと願いながらも,実際には思っても見なかった悪行をもなしてしまい,次の生では悪趣 に転落してしまう。心地良い思いをしょうと願いながら,結果として不愉快な経験をして しまう。このように,行為主体である人間の願望や意図にもかかわらず,それらとは別な 結果を甘受せざるをえない現実に直面するとき,人間の願望や意図と現実の結果との間に 介入し働いている,作者,創造者,自在神などの絶対者の意志の存在を認めざるをえない。
それ故作者,創造者,自在神などの絶対者は実在する,と。
ここでは,いわば道徳的・倫理的視点から,あるいは人間の自由意志の問題として創造 く 神の存在が要請されており,このような立場から有神論が主張されているといえよう。こ ほ う のように理証の内容を理解して,再び経証に立ち戻りたい。
上述の定型句とこの理証の内容とを考慮するとき,既に[山口 60]に明確iに論じられ
ているように,我々は例えば降雪に説かれる「尊祐説」を想起することができよう。ちな
『顕揚聖教論』における有神論批判一「成無常品」第14偶を中心に一 29
みにr喩伽論』の経証の引用とそれに続く部分とr中阿含業相応品度経第三』の対応を見 てみよう。
[2c] yathapihaikatya耳Srama尊。 va brahma尋。 va veti vistare耳a p血・vavat l yat kificid ayalh puru§apudgala耳pratisarhvedayate sarva血tad驚varanirma尊ahetukarh va puru−
Santaranirma尊ahetukalh vety evamadi/(YBh p.144)
[2d] 堅甲有一或沙門或婆羅門 起如是見立如是論。凡戦世間所有士夫補特伽羅所期 彼一切,解明自在変化戸田,或余丈夫変化為因。(r喩伽論』vol.7,309a)
[3コ santi bhikkhabe eke sama耳abrahma耳a evalhvadino evalhditthino, yalh kiicaya血 purisapuggalo patisarhvedeti su㎞alh va dukkhalh va adukkhamasukhalh va sabba㎡1 く
tarh issaranimmanahetαti.…………
[3a] 比丘たちよ,このうち,沙門であれ,婆羅門であれ,子たちは次のように説き,
次のように見るのである。何であれ世間一般の人々が知覚経験するものは,楽であれ,
苦であれ,不苦三楽であれ,それはすべて自在者の化作を原因とするものであると。
[このように述べる]彼り所に私は赴いて次のように説くのである。長老たちよ,君 たちは本当に次のように説き,次のように見るのか。何であれ世間一般の人々が知覚 経験するものは,楽であれ,苦であれ,四苦不楽であれ,それはすべて自在者の二二 を原因とするものであると。もし彼たちが私の質問に「そのとうりです。」と答える ならば,私は彼たちに次のように説くのである。
それならば,長老たちよ,自在神の化作を原因として[君たちは]殺生をなす者と なりましょう。………自在神の旧作を原因として[君たちは]邪な見解の人と なりましょう。さらに比丘たちよ,自在神の化作[による世界創造]を真実なるもの として[執着する者には]「これは実践すべきである。」,「これは実践すべきではない。」
という意欲や努力は存在しない。それ故,実践すべきと実践すべからざるとについて,
まことに確かに了解していない場合には,失念して護るべきのないありかたをしてい く ラ
る者が,各自に沙門であると称することは理由のないことである。
[3b] 復有沙門梵志 如是見如是説。謂人所為一切皆因尊祐造。………
於中押有沙門梵志 如是見如是説。士人所為一切罪因尊祐造者。町内往彼到已即問。
諸賢,實如是見如是説。謂人所為一切皆因子祐造耶。彼答言爾。筆管語学。若如是者,
諸賢等皆是殺生所以者何。以其一切皆因尊祐造故。如是諸賢,皆是不與取邪婬妄言乃 至邪見所以者何。門門一切皆因州祐造故。諸賢,若一切皆因尊祐造。見如真者。於内 因堅作以不作。都無欲無方便。諸賢,若於作以不作不知如真者。便失正念無闇智則無 く
可以教。如沙門法。如是説者乃可以理伏彼沙門梵志。
定型句の例として参考までにγ励罐80を引用する。
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〔4] idha pan ekacco sama耳。 va bramaηo va evalhvadi hoti evarhditthi, yalh ki血。岳 yalh purisapuggalo patisalhvedeti sukhalh va dukkhalh va aduk㎞amasukharh va sab一 てエお
balfl talh issaranimmanahet貢ti.
これらを比較検討すると,r喩伽論』で述べられている有神論と『中阿含業相応品度経 第三』のそれとのあいだに,(ア)定型句の類似性,(イ)原因としての人間の意志や行為と結果
としての苦や楽などの知覚経験とのあいだの関連性を問題にしている点,換言すれば人間 の自由意志を問題にしている点で,共通性が見出されるのである。このことは『喩伽論』
が『中阿含業相応品度経第三』を直接経証としたとは云えないまでも,少なくとも諸阿含 経典に展開される「尊祐説」などの有神論批判を継承していることを物語るものである。
さてこのように原因としての人間の意志や行為と結果としての苦や楽などの知覚経験と のあいだの不統一性を根拠に対論者が有神論を主張するのにたいして,喩伽行学派は如何 ような立場から批判し反論するのであろうか。『顕揚聖教論』「成無常品」の第14偶が『喩 伽論』の混晶南を引用したものであることからも理解されるように,『喩伽論』における 有神論批判は,『顕揚聖教論』同様,(1)唯一絶対の自在神には世界創造の能力がないから,
(2)創造者である自在神と被創造物である世界との包摂関係に矛盾があるから,(3)世界を創 ぐ ラ 湿する目的と(4)原因とに誤謬があるから,という四点からなされている。両論書の有神論
批判の対応関係は以下の如くである。(次頁参照)
この対応表からも明かなように,両論書における有神論批判の議論はほぼ対応関係にあ ることが解る。r晶晶論』(1)一①のrkarmayogahetuka」とr顕揚聖教論』「畑鼠因,求 方便為因」の対応関係(註(9)参照)と,(4)一②でr喩伽論』が因として「自在者の意欲 iccha」に明言しているのに比して『顕揚聖教論』が因一般の有無を議論していることを 除けば,両者ともほぼ同一の展開を示している。つまり『喩伽論』の有神論批判を『顕揚 聖教論』が踏襲したといえよう。我われの資料では,両論書とも自在神による世界創造を 理論的もしくは論争的に追求してその誤謬を指摘するのみである。別な視点からの批判,
すなわち倫理的もしくは人間の自由意志を問題にした批判を示す資料を現時点で両論書に
見出せないことを遺憾とする。
『顕揚聖教論』における有神論批判一「成無常品」第14偶を中心に一 31
『喩伽論』 『顕揚聖教論』
(1)samarthya …一一一一一一…………一…一…一… (1)功能無有
①karmayogahetuka \、 //①無有因縁自然有 ②ahetuka 一/ 、\、 、一②業為因
もみヘヘ ロ \{
・・…③求方便為因
(2)antarbhavabhava 一一一………一一一……… (2)囁・不囁
①antarbh貢ta ……一一一…………一…一一 ①世間所掻
②anantarbh亘ta ……一………一一一…一一……… ②非世間掻
(3)sani§prayojana …一…………一…一一一一一一一…… (3)有用・無用
①saprayojana ……一…一……一……一一一 ①須有用 ②ni§prayolana …一一…一………一……一一一一一 ②無所須
(4)hetu ……一…一一…一一…一一一 (4)為因
①1§varahetuka 一一一一……一一一…一一… ①唯自在為因
②tadanyopadanahetuka…一一一一一一一一一一一一一…一……一…一一一 ②為亦更待其絵因
②一1icchahetuka ②一1(所待因)無有因 ②一1−116varahetuka ②一2 有鯨因 ②一1−2 tadanyopadanahetuka
②一2 tadanyopadanahetuka
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五
今一度『三斜論』の有神論をふりかえってみたい。有神論者は原因である人間の意志や 行為と結果である輪廻転生した世界や苦や楽などの知覚経験とのあいだの矛盾や不統一性 を解消し,合理的に説明するために自在神の存在を主張する。換言すれば極めて道徳的倫 理的立場から有神論を展開しているのである。ところが『下階論』はこれらの論点に何ら 答えることなく,ただ論理的誤謬もしくは論争学的な不備を指摘するのみの反論を展開し ているといえよう。同論書を継承した『顕揚聖教論』についても同様な指摘ができる。こ のことは,同じく人間の自由意志の視点からの批判・反論を展開している阿含経典の有神 論批判や,人間の自由意志の論点と論理的誤謬との両視点からの批判・反論を展開する中 観学派の諸論書における有神論批判([山「] 60],[宮坂 84]参照)と際立った対照を 見せているといえよう。また『喩伽論』やr顕揚聖教論』における有神論批判の四論点の うち後半の二論点が後代の中観学派や論理学派の諸論書に受け継がれていることも明かに なった(註⑬,⑭,⑮,⑲参照)。これらを考慮しつつ,喩伽行学派の他の論書における 有神論批判の考察を次将の課題としてこの小稿を終ることにしたい。
(平成元年度文部省科学研究費,一般研究。による研究成果の一部)
註 記
『喩伽論』,『顕揚聖教論』の有神論批判解読に際し,桂紹隆氏(広島大学),沖和史氏(京都種智院大学),
毛利俊英氏(龍谷大学)から貴重なご教示ご助言を頂いた。また資料収集にあたり毛利俊英氏,張本研吾君
(九大院生)の手を煩わせた。ともに記して感謝の意を表する次第である。
本稿を草するにあたり以下の諸論孜を参照した。有神論関係の詳細な文献紹介は[広瀬
[狩野 87]などに詳しい。必要に応じて参照されたい。
80],[宮坂 84コ,
[宇井 58]
[山口 60]
[宇井 65]
[金倉 65]
[田村 71]
[STCHERBATSKY 75]
[渡辺 77]
[田村 79]
[広瀬 80コ
宇井伯壽:「計自在等作者論」,r喩伽論研究』(岩波 1958,再 1979)pp.256〜258 山口益:「中観仏教における有神論の批判」,鈴木博士頚壽記念r仏教と文化』(1960,r山 口益仏教学文集 下』春秋社 1973 再録)
宇井伯壽:「一分常住論の四見」,r印度哲学研究第三』(岩波 1968)pp.219〜236 金倉圓照訳:『悟りへの道』(平楽寺書店 1965)pp.196〜198
田村智淳:「プラジュナーカラマティの有神論批判」,『南都仏教』No.27(1971)
Th. STCHERBATSKY, A BUDDHIST PH且OSOPHER ON MONOTHEISM , R41E1〜S OF盟STα辺児B241α(y (CULCUTTA 1969, REPR,1975)
PP.1〜10
渡辺重朗:「仏教論理学派の破神論」,r玉城博士還暦記念論集・仏の研究』(春秋社 1977)
pp.581〜586
田村智淳:「最高神の考察」,昭和53年度科学研究費補助金総合研究(a)研究報告r八世紀に おける仏教と他学派との対立と交渉』(1979)pp.1〜13『
広瀬智一:「阿毘達磨灯論釈における驚varaの批判」,『東北印度学仏教学会論集』vo1.7,
(1980)
『顕揚聖教論』における有神論批判一「成無常品」第14偶を中心に一 33
[村上 81]
[広瀬 82コ
[宮坂 83]
[宮坂 84]
[木村 84]
[狩野 87]
[狩野 89]
村上真完:「世界創造神の証明とその批判」,東北大学日本文化研究所編『神観念の比較文 化論的研究』(講談社 1981),pp.539〜588
広瀬智一:「自在神にかかわる解脱と救済の問題」,『東北印度学仏教学会論集』vol.9,1982 宮坂宥勝:「チベット経蔵に伝える破神論の梵文資料」,同『インド古典論 上』(筑摩 1983)
pp.162〜178
宮坂宥勝:「有神論批判」,講座・大乗仏教 9『認識論と論理学』(春秋社 1984)pp.255
〜291
木村誠司:「後期仏教における有神論批判について」,『駒沢大学仏教学部論集』No.15,
pp.60〜72
狩野恭:「主宰神の存在論証とkevalavyatirekihetu」,『インド思想史研究』No.5,1987 狩野恭:rI§varaの存在論証とpuru§aの存在論証」, rインド思想史研究』No.6,1989,11
(1) [宮坂 84]p.257参照。
(2) [山口 60],[宮坂 84],[木村 84]など参照。このような区分にたいする批判として[広瀬 80]
〔序〕を見られたい。
(3) [田村 71]〔序〕参照。
(4)インド哲学全般におよぶ「有神論批判」の議論に,全くの門外漢である筆者が立ち入るのには躊躇い の気持が強い。ただ本稿で取り扱う『顕揚聖教論』「成無常品」第14偶とこれに対応する『喩伽論』「有 尋有半等三地」の「自在等作者論16vara−adi−kartζ一vada」が,[宇井 58]を除き,有神論批判の資料と してあまり論じられていないこと,[宇井 58]もサソスクリヅトテキストやチベット訳を考慮してい ないことなどを鑑み,有神論批判の一資料を提供する意味でこの稿を草するものである。本稿末に [APPENDIX]として『再婚論』における「自在等作者論1§vara−adi−karh:一vada」のサンスクリットーチ ベットの対照校訂テキストを掲げるのも同様の意図からである。
(5)拙稿「無常と刹那」(『南都仏教』No.59,1988,3)及び「刹那滅と常住説批判」(長崎大学教育学部
『人文科学研究年報』No.39,1989,6)参照。(6)大正31,『顕揚聖教論』vo1.14,549 c.
(7)この(1)一③「求方便」の内容は定かではない。後出のr喩伽論』「有尋有半等三地」では「業方便;
karmayoga;las dang mal byor」であり,r顕揚聖教論』の(1)一②「業」,(1)一③「求方便」がr喩伽論』
と対応するならば「業一karma」,「求方便一yoga」となろう。この場合yogaはprayogaの意と理解さ れる。しかし自在神批判の他の文献に,世界創造の原因として自在神の「業」は論じられるが,「求方 便」の用例はなさそうである。また「求方便」が文字どおり自在神が「手段・方便を希求する」ことを 意味するのか,あるいは他の意味なのかは不明である。ここでは仮に「世界創造の手段」とした。なお 後出註⑪参照。
(8)大正30,『飛脚論』voL 7,309a〜c,γOG24C4RAB∬㎜(ed. by V.Bhattacharya, Calcutta 1957,以
下YBh)pp.144〜145, Tib. P.84b 5〜85b 5,D.72b 6〜73b 6.このBhattacharya版の校訂は疑問の 個所もあり,漢訳,チベット訳を参照しつつ訂正を試みた。本稿末[APPENDIX]を参照されたい。
五三註(4)でも述べたように,[宇井 58]は漢訳によりr喩伽論』の有神論批判を考察している。
(9)巨額については後出註⑯参照。
⑩ このような有神論者の主張については,[田村 71]「有神論者の主張」,[宮坂 84]「三 主宰神の
存在証明」,[狩野 87]などを参照されたい。
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早 島
理㈲ 上記註(7)でも少しく触れたように,『喩伽論』のここ(1)samarthyaにあるkarmayogahetukaなる複 合語のkarmayogaがtatpuru§aかdvandvaかは判読し難iい。①karmayoga:m. performance of a work or business, active exertion._(MONIER−WILLIAMS,五&4今日K1〜17」E丼GLZS丑P∫σ
刀リハ1ZLR y),:performance of actions, worldly and religious rites,...(APTE,㎜PRACTκン1L甜NSκRZTEM}LISE加Cπ0蝸R}り及び,②YBhがsacet..。という定型構文のなかでka㎜aと yogaを分類していないことはtatpuruSaの解釈を示す。他方,①チベット語訳はlas dang rna1 byor(gyi rgyu las byung ba)であること(dvandvaの理解),②業(karma)の理論とそれを超越する 三昧(yoga)の威力という考えが,古く佛陀が三昧の力により自己の寿命を新たに産みだす云々という 議論の中に見られること,③r喩伽論』を継承したr顕揚聖教論』が業為因と求方便為因とに分けてい ることなどはdvandvaの理解を支持する。ここでは仮にtatpuru§aの意味に理解した。 dvandvaとす れば,訳出及び『顕揚聖教論』との対応は以下の如くになる。
(1)自在者にそなわっている,変化により[創造する]能力,その[能力コはいったい①[創造〕行 為及び②三昧を因とすると君は主張するのか,あるいは③無因である[と君は主張する]のか。
①,②もしその[能力]が[創造]行為及び三昧を因とする[と君が主張する]ならば,その[能 力]は[創造]行為と三昧とを因とし,[他方]世界は[創造行為及び三昧を因と]しないことに なり,不合理である。
③もし無因である[と君が主張する]ならば,その[創造能力]は無因で,[他方]世界は[無 因では]なく,不合理である。
(1)samarthya 一…一一・…一………・一一一一……一(1)功能無罪 ①karma一 一…...... ,,, ・・①無有因縁自然有 ②yoga−hetuka一、.一.... ,..・…/〜一 一 一②業丁田
③ahetuka ・!!
〜『『9層 一一・B求方便為因
なお[宇井 58]は「業方便」を一語に理解する。同書が「『顕揚聖教論』は解釈を異にする」(pp.257〜258)
と述べるのはこの対応関係の不一致を指すものと思われる。
⑫ [山口 60](p.229)によれば清弁の「般若燈論繹」にも自在神と世界との関係が自体と他との立場 から論じられていると云う。
⑯ 世界創造の目的の有無に関する論議は,Santideva, Bo4雇。αη伽α伽α第P(章ka.126とそれに対する
Prajiakaramatiの注釈Bo4雇。αη伽α飯η.勘勿 々湧([山口 60]p.246,[金倉 65コp.198,[田村 71]p.13,[宮坂 84]「四 中観派の有神論批判」)で論じられる。また[渡辺 77]はSubhaguputa 鳶口紹肋伽甲唄7伽ka.15が,[広瀬 82〕は諏廻欝毎4勿〃如5θ勿8翔加kas.31,32がともにこの問題を 論じていることを教示している。
Oの世界創造に関する自在神の意欲については,前出註㈹同様,Santideva,.Bo4雇。αη伽α孟伽第K章kas.
123,124,Prajiakaramati, Bo4痂。卯ツδθ磁ゆ勉Bz勿ゴ押隈, Subhaguputa,鷺 α勉∂加露8α々δ7鋭δka.19, azプ θαs644肋吻sα励劇α加ka.31などでも論じ「られている。自在神が世界創造の目的や意欲を有するか否か
の議論は喩運行学派以来Sα7ηα∫∫44勿吻Sα吻劇αぬαに至るまで共通の問題であったと思われる。㈹ この経証の問題に関しては[山口 60コ「ニカーヤにおける尊有論とその批判」に詳しい。同じく六 十一二見論を論じる『梵網経』に関しては[宇井 65]参照。この『梵網経』六十二見論については再検 討の必要があろう。r四壁論』における十六異見の再考とともに今後の課題としたい。
⑯・4π8漉勉就職砂α111−61,vd.1,pp.173−4,なお南伝大蔵経はvo1.17, p.280, pp.282−283参照。
㊥ 『中阿習業相応品度経第三』,大正1,435ab。
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O$ V冨∂乃σ宛8σ p.367。