平和から戦いの日々へ
緑の学園にアンゼラスの鐘が鳴る 長崎医科大学の敷地は︑北側の丘に基礎教室各科の建物が本館を挟むようにして南北にほぼ三列に
並び︑各教室を結ぶ屋外の通路は細長い板石が縦二列に敷きつめられていた︒校内の随所には樹齢を
くす
重ねた樟が植えられ︑それが並木をつくり︑街の騒音を防いで静かな環境を作っていたさ二ページ
図参
照)
︒
うっ蒼とした森の中に教室が点在している観があり︑強い夏日にもむしろ涼しかった︒正 門からの石畳は︑雨上りの朝などはキラキラと輝き︑木立を通して浦上天主堂の尖塔が望まれた︒学 生たちは皆この恵
まれた環境にひたり︑歴史豊かな学窓の雰囲気に満足していた
︒
基礎の教室群をさらに
北東にゆけば︑附属薬学専門部の標識があり︑右に折れて桜のトンネルを抜 けると薬学
専
門部の校舎があった
︒
北側にはクロ
l
バ生い繁る広いグラウンドがあり︑塀の向こうの 小川をへだて
て東洋一
といわれた浦上天主堂の美しい塔がみえた︒この天主堂は明治二十八年(一八
九
五)
︑主任司祭フレノ神父の設計と信者の奉仕により
三O
年かかって完成した石
︒つくりの壮麗な建
.
ー.
(上)階段教室での臨床講義 (下)大学のグラウンドと浦上天主堂
20 物であった
︒
煉瓦の赤い屋根の二つの尖塔からアンゼラスの鐘が鳴りひびき︑信者が頭上に白布をか
︑ざして出入りする情景は一幅の絵を思わせた︒
まだ医大になる前の医学専門学校時代の話だが︑当時は一番東側の並びに学生寄宿舎が建っていた︒
その寄宿舎前の草原を歩くと東へ向かって樟の森の中へ続く坂道に出る︒その坂道をしばらく登ると
頂上が広場になっている緑の丘の上に出る︒その広場には西洋医学発祥の地の記念として医学校当時
の木造二階建ての洋館が移築されていた︒
ぐ び じ ん
この丘に登るには︑まず麓のヒナゲシ(虞美人草)咲き乱れる草原を通るので︑誰いうとなくこの
み ち ろ
丘のことを﹁虞美人草の路の丘﹂と呼ぶようになり︑それがつづまって﹁ぐび路が丘﹂となり︑さら に﹁グビロヶ丘﹂という名称として定着したという︒記念すべき洋館の方は︑惜しいことに昭和五年
(一
九三
O )
七月︑長崎地方を襲った暴風雨で倒壊した︒
昭和に入って︑講座が増えるにつれて建物の増築が進み︑附属病院の鉄筋コンクリート三階建の改 築工事も行われた︒三菱造船所と並んで
M医大
H
は長崎っ子の自慢のタネになっていた︒街を歩く学 生の角帽姿は若い娘たちの憧れの的でもあり︑どこの料亭でも
H医大
U
の先生と聞けば下にも置かぬ
もてなしであったという︒
医大本館の二階から南を望むと︑小さな谷一つをへだてて附属病院の各診療科の病棟群︑講堂がず
こ ん ぴ ら
らりと並んでいる︒東側は金比羅山(三六六メートル)の山すそに続いており︑木造の看護婦寄宿舎 が麓に接して建っている︒汽縫庫からは二本の巨大な煙突が天空に突き出していた︒
金比羅山の方へ小道を登ると間もなく︑穴弘法に着く︒幅の狭い洞くつで︑奥に弘法大師が杷られ ていて︑入口には参詣人が憩うための茶屈がある︒原爆で負傷した医大関係者︑一般人の多くがここ で傷ついた身を横たえ︑そのまま息絶えたところだ︒残余の者はさらに金比羅山を越えて避難してい ったのである︒
破局への道 昭
和 十 二 年
(一
九三七)︑日本と当時の中華民国との聞の戦 争状態が表面化するとともに︑平和な空気は長崎からも医大か らも次第に失われていった︒そして︑昭和十六年(一九四二 十二月︑太平洋戦争突入後は︑大学教職員の召集︑出征が急速
に増え︑各教室とも教官︑技官の著しい不足を来すようになっ
ひど
た︒
戦局がすすむにつれ人員不足はますます酷くなり︑多くの
教室では︑教授︑助教授︑講師︑助手︑副手のうち︑教授のみ︑
教授︑助教授のみ在籍というように若手教官の不在に苦しんで
いた
︒
研究資材︑研究用動物︑薬品などの入手も困難になって
きた ︒
その
一方で︑国の要請により医科系学生の増募がつづき︑昭
和 十 四 年
(九三一
九)には臨時附属医学専門部が設置され︑同
十七年には東亜風土病研究所が発足した︒
戦局は悪化の
一 途 をたどり︑米空軍機による長崎市への空襲 も小規模ながら回数が増え︑昭和二十年(
一九四五)八月一日
22
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長崎医科大学の基礎キャンパス全景 附属病院全景
長崎医科大学の本館(基礎キャンパス)正面
には附属病院も白昼に空襲を受けるに至った
︒
屋上にペンキで大きく赤十字のマ
l
クが画かれていた にもかかわらずである
︒
しかし︑大学では空襲警報発令を除いては警戒警報下でも講義︑診療実習は 寸暇を惜しむかのように続けられた
︒
始業午前八時︑終業午後五時︑夏休み返上の強行スケジュール
であった ︒
つのお角尾晋学長(東京帝大卒︑五十二歳)は︑東京出張帰途の八月七日︑原爆投下直後の広島市をリュッ クサックを背に徒歩で通過した
︒翌
八日︑学長は全教職員︑学生を前に広島市の惨状を報告し︑新型 爆弾であり︑地上に何物も残さぬ想像を絶する破壊力をもつこと︑しかも地上に爆弾でうがたれた大 破口が見られぬことから︑落下傘で投下されたとの噂があることなどを伝えた
︒
しかし︑多くの者に とってその新型爆弾を現実にイメージすることは容易でなく︑まして最善の防御策など知り得べくも
なかった ︒
新しい緊張が皆の頬をこわばらせ︑明日以降への不安感はかくしょうもなかった
︒
八月八日の夜は︑断続するサイレンの無気味な警報音の中で更けていった
︒
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