天 白 詞 と 甲 州 依 田 家
藤村潤一
郎
甲斐国山梨郡下井尻村(現山梨市下井尻)の依田家について研究していると'文苔の他にも史料があることに気付
いてきた。
依田家と下井尻村周辺の地形'家臣'墓所'社寺'石遺物'聞取りなどである。(1)依臥家文雷をみていると家屋の建築'所持地の字名へ寄進物の所在などが記るされており'これらの関係物が存在(2)していることに気付きながら'確認していない物が多い。同村の井尻家文苔についても事情は変らない。
つぎに下井尻地区は次第に市街地化しているが'天白岡など依田家の退物の外に'各種の造物が残っている。元禄
・正徳期の青面金剛の庚申塔'嘉永期の道祖神などがそれである。庚申塔は素人なので不屈は残るが、この時期の庚
申信仰関係の文宙はまだみていないので'退物で文苔の欠を補‑ことができる。天白岡は逆に'文容で気付いて退物
を確認した。
文書と退物聖体化して近世の依田家と下粁尻村の生活を再現できればよいが・実際には文書から出てくる問題だ ]
天白岡と甲州依田家(藤村)
史料館研究紀要第四号
けでも
処
理きし
れない。
ここ
で は 下 井
尻村天白の
同につい史て
料紹介を行ななお‑。
天白を
考える
手懸州て'甲のとしり
天岡を紹介白し'
併せ各地天両所在についふれにすての白のてるこるもと。
一州甲
下井 尻 村の 天白 嗣 (3 )
依田
家
文書の
宝
永五
年「(下
井 尻 村
絵図
)」には'小
高い岡の
上に
岡があり'
背 後 に 樹
木が
茂てっ
いる
所
がある0
「
てん
ばく
」と
横に書いそ岡てあるのの。
北側には昆敷
歩書いが'家臣は画かれいないてあるてと。
西側には
家
星を
画
いてあり'
北
側は小
物成林である。
東側は
恐らく
林であろ‑0
(4
)
こ の
「てん
ば和二七尻秀宅」につい昭年刊「下部町誌」は下井尻御経塚「下井相畑依長地て'て'の田内く日とし
に『
充朗んさ
』と
称
する
御
塚があるこ・
れも
経
塚でて,家ではあ同っ
薯貯の
蔵庫を
造為1部を掘た所,るっ
河原
石
一 に
文字づ書れ径四五程石数土等様かた糎の経文が多出た。構築年代一切不明でが'経筒な土ない模ゝあるも出しどし で
ある
」てとし
いる。
こ こ に
記るさ
れてい依長秀は依家文書依家(本家)は依長秀家依分家称る田田の田でない田では田ているとし。。 同
家には
文書は
全残本分家ていない依田の関係は次くのっ。
属通図でのあるり。
「長伯(助之進)
経長‑長宗‑長継‑長安‑「矩長寛永一八延宝二正徳元I元禄)
0
1宝暦八‑明和元‑佐内=長英享保二〇‑宝暦二‑茂短‑喬長‑長点‑(略)1番八
偶語元は畑聖○ほ崇二(本家)
‑長英(1藤太・周兵衛)I長祐‑長革‑(略)‑長秀
娼虹二ほ瑚ulRは枇鯛九(分家)(5)現在の依田本家では'長安を御先祖として意識している。
本・分家の仏壇には'表面の上部に家紋の揚羽の蝶'下部に依田佐太夫経長'与右荷門長宗'宗兵荷長継'民部長
安へ帯刀矩長の各夫妻の居士・大姉号の戒名を列記Lt誤両にその残年月'俗名を列記した'全く同株の位牌があ
る。この事からすると矩長は御先祖意識を持っていたのではないだろ‑か。
近世には矩長以後の依田本家は帯刀を襲名Lt長英以後の依田分家は一藤太か周兵術の名を使用している。
なお依田家は'源氏で信州依田氏の出と称している。
さて依田分家に赴くと'確かに天白両があり'同家では臣数神として扱っているよ‑である。
両は同家宅地の西側ほぼ中央にありへ外部から直接行くことはできない.岡は南面して低い岡の上にある。岡の西
側は直ちに石垣で用水路があり'北東側は低い傾斜面で畑地に続く'南側には少しはなれて石垣が東西に走り'西は
石垣が少し高くなって前述の用水路に至る。両と石垣は石段で連らなり'石段と石垣の間は少し平地があり'石垣は
この部分丈け低くなって'南の畑地に降りることができる。
天白同と甲州依田家(藤村)
史料飾研究紀要第四号四
(6)石垣が東西に走っているのは
、
村全体にみられる風景である。
草保九年「村鑑明細帳」によると、
下非尻村は東西三四〇間,南北四四六間の村で全体に平地であるがへ未申向に少し片下りの地形である.そして南北の高さは三七五
〜
四〇五メートルで、約三〇メI‑ル北が高い.このため主に東西に石垣が作‑られている。勿論南北にも仕切って石垣が存在する。
第
第
5
図 天白同国 第4
回天白両北東後部園前の 段石垣石に至平地左右は約六〇ルのセチのであるンメるりート。'低石垣約七〇ルはいが、前畑は高所がのセンチのなていのをあメよよくるこりりっ‑ー。第l述
3
図についべは三枚石並べ高約10ル左右てるのをさセンチでとらメート'、 '
た図である。は東側面第四は北東後部示す。第五東部少上方かみ岡心図のを図は南た神を中としらし'はいそれ第二五写真概略再構成れた第二正面第三なで凶のにをい凶は図よさ南り〜
。。、天同概第一通全わ測量白の略図は図のであ体にたを行なていないので正確でるるりっ。畑
▲l
史料館研究紀要第四号六その中心と思われる所に'直方体の石の上に木製の神殿型小河があるのが個である.的は個の直後、個の内部北限
に自然石を縦にして建ててある。
咽は石塔で、個の西外側'的と同じ位の位置にある。直方体の基礎の上に'反花がありへつぎに上部が四角錐をな
している直方体の四角柱がある。塔の正面に「奉順礼当国秩父坂東西国札所」'右側に「湯殿山大日如来」へ左側に
「南無観世音菩薩」、裏面に「享保七壬昇天二月吾日下非尻村依田氏」と刻んである。
釦は個の北列より少し後'すぐ東外側にある。直方体の石の上に石塔がある。石塔の正面には基部に'「依田周兵
衛建之」と右から左に横に刻んである。その上部に帯の如きものを駅えし、頭に狐か狼か犬の如き動物の頭部が乗‑
かかっている女神像が浮彫されている。背面は荒彫の俵で'上部に行く程正面に近づけて薄くなっている。左右は平
面で'右側に「明治三午載如月」と刻んである。
鯛Sは個の南列と殆ど同位置、東外側に並らんでいる。自然石を二つ重ねたものである。これは昭和四三年調査時
の位置である。同四五年には鯛の下の石を除き'他は凋左側に放り出されている。
物は胸の東側で、少し後の位置にある。直方体の石の上に、上部がゆるい四角錐をなす直方体の角柱が乗ってい
る。石塔の正面には「奉唱光明真言三百万遍諸隣成就祈所隣主源長英」'右側に「南無遍照金剛千時天明丁未九
、▲
.(:.T・.鮒J.;:・・・〜'∵㌧
第
6
図 光明真言党字図(拓本)
T t f L t ヽ煙 ・ ‑ 長 さ 室 琶 才
空≧ 一iI■^ t g i t 一 か
細 執 脚 竃遠;如紳くゐY由
童 讃第8
回 依 田分家附近 図03)
7
回依田分家附近因伽天白両と甲州依田家(藤村)、月 第 音祥日」'左側に第六因に示す兜字二三字の光明真言'裏面には二行に「以我功徳力如来如持力'及以法界力普供養而住
」と刻んである。この石塔は昭和四三年調査時には前年の台風で下の土砂がゆるみ'東側の畑に倒れていたが'修綬さ
れたもので'その際に軸物が移動したのではあるまいか。
さてこれらの意味を考える前に'天白岡の景観の変遷を述べ
る。現在は㈱燈寵の所に椿と他に一本の木がある。岡の背後の果樹はまだ大きくはない。笹が生えてはいるが'大略露
天といえる。宝永五年と現在の間ではど‑だったろ‑か。(7)
第七'八図は文政九年依田民部長貞「東下林絵図正下書」に
よるもので'第七図は正徳元年検地の際の経論を示し'第八
図はそれに文政九年時の関係部分を張紙して示し'依田分家の概略が知られる
バなお上部に一部示されている家臣は依田本家である。
天白岡は樹木が茂り北に竹薮が続いている。岡の前に鳥居があり'久家の塀は天白岡東脇に至
るからへ外部から直接参(8)詣できる。
なお第七図の上林弐畝弐拾歩嘉兵術縄請地に天白神と
史料館研究紀要第四号八(9)が'第八図の岡は中林壱反弐畝弐拾四歩嘉兵衛縄請地に当る。この点について依田民部茂矩「東下モ林絵図」では'
上林弐畝弐拾歩の地に矧と二基の石燈寵があって樹木が岡を覆い'東側には竹薮がある。そして中林壱反弐畝弐拾四
歩の地に鳥居がある。これと現在の地形から'みて'天白岡は移動し七のではなく'第八図の合せ方の誤りと考えたヽ○):
この現在は消滅している鳥居については'井尻家文書の文化元年「見聞記録帳」に'「表銘ハ不写文化八未年之
春天白大明神前鳥井建立瞬主周兵衛大工林蔵'久蔵'仲看南門'勘之丞建柱之上はそ木其外へ年号其外大工名
等記を見受供」とある。一分家の長祐の建立であろ‑0
以止の膏を前提として'ノ刻まれている文言などについてみると'簸ず
㈲〜
Sの石は何んらかの礎石で二部は鳥居のものだろう。
つぎに石燈寵柳にある依田周兵術源長英は分家の長英である。この燈寵に関連して'下井尻村の氏神である誉田別
神社白幡大明神の拝殿前にlは、基壇が二段の直方体である同型式の石燈寵がある。右側の燈寵の脚正面には「永代常
夜燈」'右側面に「依田与右南門」'左側面に.「安永三年甲午二月願主依田帯刀」'裏面に「依田周兵衛」と刻まれ
ている。左側の燈寵の脚正面に.「奉納大広前」'右側面に「天明八成甲歳十1月曹且」'左側面に「際主井尻亀曹」'
裏面灯「井尻仙蔵」と刻んである。この石燈寵は依田へ井尻両家の本分家が協力して建立したものであるが'様式'
字体からみて'天白岡の燈寵もこれと臥時期に建立されたと推測される。
宝管三年に建立された石段鯛の脇胸にある依田民部源長安とは'長英の祖父である。彼は宝暦八年鞍であるから'
晩年の仕事といえる。
姻㈹咽の石材も'宝暦三年に石段と共に作製されたと推測される。姻佃は前面を整えるためであるが'胸の右端は