江戸上下飛脚屋と木原店
藤村潤一郎
一江戸日本橋
・江戸上下飛脚屋とは江戸六組飛脚崖'即ち通日雇の事である。江戸上下飛脚屋関係の史料をみていて、「木原店」
と言う言欝気になった。・つぎに大空五年に要目嘉関連警「五十年聖に,四代目柳家小さん老警して,
明治九年頃の想い出がある。即ちた■■九段下に串良の滑りがあって'上の方の席から下町へ廻るにはこの事へのろのが便利で'あすこから日本橋の木だ々・原店まで大急ぎでやらせて二銭'1文も余計にやろうもんならお辞儀の百万遍もするんだが'当時私たちにはそかんな事へのるなんて事は夢のような話で'席から席へ尻をからげて一生懸命駈け担っては話していました。(2)とみる。大正五年刊'垂兄市日本橋区役所編纂「日本橋区史」をみると'・
通四十町慶長八年を以て開くところ'此より以南金杉橋に至る迄を称して通町と宇っ。又中通りに対して大
通りとも呼ぶ。里俗東の新道を木原店と云ひ、西の新道を稲荷新道といふ。木原店は往時町割の時'木工預木原
内匠の居住せんよりの名にして'稲荷新道は'鹿児島稲荷の中洞ありLを以ての名なりと云ふ。
七あり'各町里俗小名大概には「木原店通一丁月末新道」とある。明和六己丑年刊・志村弥次兵衛蔵板「詣新
江戸上下飛脚良と木原店(藤村)六九
史料館研究紀要第1五号七〇(補1)掲江戸安見図」.の第五には日本橋南1町目の東側に「キハラタナ」とあり、安永四年末秋菊月刊'書林青文字昆次郎(補2)兵衛'美濃昆平七「縄瑚日本橋南絵図」には同所に「木原店」とある。長久三亥年再刻'尾張星清七警取畝臥抑朋(補3)(3)日本橋南之絵図」には嵐一丁日新道に「木原店」とある。明治三年序,同三四年刊,平出撃1郎「東京風俗志」中
の巻第八章「飯食及び料理店」に飲食店、り料理店として.1はちL,なし.1く、著るさは、日本橋木原店にして'左右両側'殆ど飲食店のみにして'何れも美味の評高かり'俗に稀して'食LやうどはJ>しょくLやうL)んみLDL
傷通、また食傷新道といふ。(4)とあり'大正三年刊、夏目瀬石「こころ」下十七には
一はらだな,̲せ奥さんは私に対する御礼に何か御馳走すると云って'木原店という寄席のある狭い横丁へ私を連れ込みました。■ノ一り横丁も狭いが'飯を食わせる家も狭いものでした。
‑と飲食店のある責にふれ・大正四年序,永井荷風「日雫駄言霊散策.bAq)に,「勿箕の住民の階級職業にしゆふ.\LJJLJな.ていさいにはんはしぎはAはらだなの^なみもんどう.し上くLやうよ.って路地は種々異った髄裁をなしてゐる。日本橋際の木原店は軒並飲食店の行燈が出てゐる虎から今だに食傷‑,ん言(6)
新道の名がついてゐる」とし飲食店街として知られている。なお木原店を「きわらだな」と呼ぶ場合もあった。
二宿屋的性格
木原店には右の飲食店街ではない面がある。宝暦11巳年頃と推定される「天正入京年J延事元子年迄六組飛脚邑旧(‑)記弐冊之内日本橋組」には延事元年二月に品川から小田原の間で小揚取悪党が徒党して妨害する事が問題になっ
た時に'日本橋壱町目木原店米邑久右街門が去夏に同様の経験を述べている。彼は日本橋通壱丁目米屋久右街門と後
記きれてお‑'江戸中の上下飛脚星六組が東海道での小拐取の狼籍取締の御触流を飼い、東海道五拾三駅間尾の協力
を求めた際には願人の一人となっている︒その際に同年四月には五拾三次頼之状五三通︑五拾三次印形取壱通を持っ
て往来したのは﹁木原庖越前屋八兵衛方旅人伝兵衛と申者﹂であった︒
また四月に品川で悪者が出現する噂に対して︑江戸の六組は大名が御暇で出立する時期のため︑木原信久右衛門宅
に各組五︑六人宛が集合して対策会議を聞いており︑五月四日には﹁大坂相模屋市兵衛︑木原庖堺屋小右衛門方ュ罷
在候処︑赤坂︑神田︑ー本芝ぷ七︑八人小右衛門方江容︑市兵衛預ヶ︑則預り証文取置﹂とある︒相模屋が何者か不明
だが︑木原庖の越前屋︑堺屋には宿としての性格がある︒乙れは人宿としてのものかもしれないが︒なお宝暦一O民
年にも五海道御触流を願出ているが︑木原庖八兵衛は大行事を勤めている︒
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つぎに寛政二年と推定される﹁天明七未年より党政二成年迄六組飛脚屋旧記弐冊之内日本橋組﹂には︑天明九年
正月付︑御奉行所宛︑上下飛脚屋惣代願人六人の願書弁仕様書六組之名前控共がある︒仲間名前書の内で日本橋組の
木原庖関係は
︽日
本婦
︼
同所木原広三郎右衛門広
岡広
屋佐治兵衛
︑越
前屋
孫右
衛門
越 前 屋 八 兵 衛 いせ匡清兵衛
伊賀屋久右衛門
の五軒がある︒前述の米屋久右衛門は日本橋川瀬石町太郎兵衛庖︑堺屋小右衛門は日本橋南壱丁目小兵衛庖に移転
して
いる
︒
{ 9}
また寛政元年酉五月︑世話人荒井氏﹁江戸六組日雇頭仲間印鑑﹂の日本橋組に
米 同 庖 同 腐 同
江戸上下飛脚屋と木原広(藤村) 席
七
史料館研究紀要第1五号 木藁店三郎左禰門店米屋佐次兵衛⑳(原文は住所、人名は別行である)
同所同店
同所同店
同所同店
同所同店 越前昆孫右衛門◎
越前星八兵衛⑳
伊勢臣清兵衛田
伊賀尾久右衛門⑳
とあり'木藁店(きわらだな)と言う場合もあったがわかる。なおこの三郎左衝門店が正しいと考えられる。
さらに寛政九年巳九月メ同十午六月こ至「東海道駅々問屋衆出府割増御厨こ付仲間絵府荷物応対之一件六右衛門(10).滞府」には'会符荷物の取扱いについて東海道各宿問屋の代表である大津、草津両宿問屋と江戸の定飛脚問屋梅屋佐(ll)着荷門'大坂星茂兵衛との交渉が記るされている。
即ち六右衛門は寛政九年九月一五日に大坂から江戸に向った。到着後に彼は病身であ‑'店には火煙もなく騒々し
い9.で木原店いくや方に引込った。この六右衛門と.jj恐らく大坂の三度飛脚問屋韓国昆十右衛門から江戸の定飛脚問(12)足幅星佐右衛門に赴いた代番飛脚若狭昆六右衛門ではあるまいか。韓国星と場屋は組合であり'相仕以上の関係で同(13)1経営であ鳶
六右衛門は「はこね、戸塚'芋幹'大幹等迄も手段を以、木原店へ引寄度、毎々酒飯等もてなし交‑も厚く成供へ
ハ'彼衆中も罷出侯序には立寄'茶淀も被給供様相成供」とあ‑、木原店を根城にして社交を重ねている。(14)っぎに「此方飛脚忠兵衛'当時山師。成」りとある。この息兵衛が代番飛脚加嶋星息兵衛かは明ちかでないb彼瀬.10月に江戸に下って1石橋辺の肴星に逗留していたが'旋能代等がかかるので木原店久右衛門方に止宿を蹴ったが
出来なかった。それで時々いかやに来て計らずも六右街門に出逢ったとある。これで木原店とは日本横木藁店三郎左
衛門店伊賀屋久右衛門の事であり'前記いくやは誤写であろう。
・年末かJLO翌寛政10年正月にかけて病身の六右衛門は木原店お栄の親切により旅先の苦労に耐えており、伊賀屋お
栄は書状を写たりしている。また正月には大幹宿岸俵次郎'芋幹宿辻六右衛門と「扱是迄逗留中六右衛門心安く焼
華木原店へ毎々釆供か'俵次郎ハ酒、辻氏ハめLt両人酒版Il大分たおれ申焼串It供へ共」とあり'木原店で接待
を重ねていN?.その結果1種の協定が成立したが'その間の六右衛門の経費の内で支出分をみるとtH「冬中道中衆
毎度木原店へ兄へ被申、酒肴代賄方♂払有之侯分」には金餌の記載がない。臼「正二月中右同断」に七貫入古文とあ
り'臼六右衛門の二月二〇日から翌二月一〇日迄の約八〇日の逗留中の絶えまない客接待の「豆腐其外調物ハ悉払
供得共'塩噂薪炭等失墜余内として」木原店久右衛門に金壱両弐分tEI六右衛門の介抱'客あしらい其外一切の心配
に対する心付として木原店お栄に金壱雨竜歩'回「息兵衛'清兵衛両人無地旧冬中内々聞合tI迫候儀有之、此手筋よ
‑音信有」‑'両人が旋宿払方などに差支えており'六右衛門一首で過した金があり'具体的には審けない金が金六
両壱分弐朱、閃六右衛門滞府中近入用が金壱両弐分となっている。
Hについては」ハ右衛門は大坂で路用として金三両壱分弐朱'在府中迫として金壱両弐分弐朱を給せられているの
で'前者分に当るかもしれない。木原店が旅宿兼料理星としての面を示してお‑t.清兵衛が何者かは知らないが'息
兵衛は完全に最初から別動隊として行動している事がわかる。
三雇才領
寛政二成二月付、江戸の定飛脚間星である嶋昆佐右街門、和泉産甚兵衛'大坂昆茂兵衛'山田昆八左街門'伏見良(15)五兵衛'京昆弥兵衛の「仲間定下召」には'登り早飛脚について
江戸上下飛脚良と木原店(藤村)
史料頗研究紀要第1五号七四
1選り早飛脚之儀は中間1統月行司方へ荷物持寄侯而飛脚差立侯事'銘々極之飛脚順々こ為差畳可申侯、若無人之
節は京都メ下‑早飛脚之者相雇差萱可申侯
(16)とあり'同じ‑定飛脚問屋仲間の寛政二成年三月「定」には
1早飛脚之儀1ケ月凡拾八人宛為差登申侯二付'仲間六軒メ順々二三人宛可差出侯'銘々飛脚不足こ侯ハ、近江屋
飛脚其当家江相雇侯而差出シ可申侯、右早飛脚内々三両金銀持畳侯ハ,以来其老決而相雇申間数侯
篭る。‑にみ‑江‑天明翠辰=月序,同四甲辰年刊・(瑠館序「警羽二重大釘・J)巻之=.〜,文化七年庚午冬霜月序'同八辛未正月刊、優々館主人序「新京羽二重大全」巻三ノ下に'五戸早飛脚仕立所、高倉通(19)姉小路上ル町,近江喜平次(袷)とある人物で・安永六年丁酉初夏'陰山三聖ハ衛序「盟難波丸綱目」下之二,
及ぶその天明版t等和元年苧酉二月改正版に江戸飛脚屋として'.かわや丁'近江昆喜平次とあるのは京都の出店で
鳶。(S)なお天明七年'安井宗二成胤「家声録」によると'大坂の三度飛脚問屋浮国産十右衛門と江戸昆源左衛門が談合し
て1この近江星に対抗して大坂の早飛脚星柳屋嘉兵衛を作っている。
・この寛政期の登り早飛脚に木原店が若干関係する。ここでは行諭に必要な範囲で早飛脚について嶋屋のも切と推測(21)溝る寛政式年亥十二月三天弥,近事、柳屋,錘二付前豊1件畳番」,寛政三亥とし「近江屋出空陸に
より記るす。I:天明五年巳六月付'定飛脚問屋仲間行司大坂昆茂兵僑'伏見屋五兵僑宛の京都近江重曹平次'江戸平野屋要蔵「1.
札之事」にはると'天明二年二月九日出登り早飛脚が江戸定飛脚問昆仲間の定法を洩Ltので(問題の飛脚二人から
登り早飛脚請負方を取上げ、近江星が下って詫たが、江戸出店を改めて平野星要歳とLtこれを近江屋が後見する事
にした。.
当時の請負証文は天明三年卯八月二五日付では京都近江昆喜平次から江戸九軒飛脚問屋仲間中宛であ‑∵それに仁
平他三二人の江戸九軒飛脚問屋御仲間中様'京都近江昆喜平次殿宛の奥容連印がついている。
一つ+溝に寛政元年の請負証文は次の通りである。
請負申匿証文之事
∵一各方♂御仕出被成候登り早便御荷物、諸御用物等御大切之品々'此度大搾宿迄私方之飛脚之者共江御渡為御登
被下僕二付'我等請負申処宍正也、尤御荷物品々帳面手板引合被成供tE、飛脚之者江御渡被下値こ語取申侯上
ノは、1式我等請負工御座候得は、飛脚之者不堵等は勿論'雷如何様之義有之快共、我等引誇候間'紛失之品々
.急皮相弁、御判物等難弁品々は我等何方迄も罷出急度申訳御詫仕、各方江少も御苦労掛申間数供、且又飛脚之
者共道中大切二心ヲ付'出情仕早着仕侯様為相勤可申侯'先達而差出置侯飛脚遊印共外証文通急皮相守可申
侯'右飛脚之者御銘々江御雇被成'金銀荷物其外大切之品々御渡為御重被成候共'私方飛脚之儀候得は前文同
様私請負申侯、私方飛脚迫イ被下侯内は御証文永グ御用可被下侯'為後日の而如件
京都
寛政元年酉九月近江見事平治。定飛脚
御問昆中
本文請負証文之通無相違急度為相守可申侯'尤近江星喜平次店之儀一式我等共引請居中候得は'万々一間違之儀
御座候共我等共♂本文之通急度取計、早速将明可申侯'為其致奥印侯以上
江戸上下飛脚良と木原店(藤村)七五