【研究ノート】
近代日本における勉学意欲と教育熱の 形成と生成の歴史(
2)
雨 田 英 一
「家業を失ふの憂なきは勿論、学問さへ成就せば立身出世は身につきたる 者にて悦びも楽みも思ひのまゝになるべければ」(明治6年5月、佐 賀県「就学告諭」)(1)
2. 立身出世主義と教育
日本の近代化を推進した日本人の心情的ないし信条的な起動力として立身 出世主義(以下、立身出世)があげられる。それは、日本の社会的上昇志向 の典型的な形をなした。「近代日本における勉学意欲と教育熱の形成と生成 の歴史(1)」(以下(1)と略す)の1でみた士族の社会的上昇志向も、この 立身出世という心情と信条に強く導かれたものであり、明治新政府が推進す る、競争原理を社会構成原理とする社会への変革過程に適合的な行動様式で あった。
この立身出世には、確かに、冒頭の「就学告諭」に見られるように、開放 的希望的側面があった。しかし同時に閉塞的厭世的な側面もあった。それは 立身出世の深層をなし、絶えずそれに作用し規定していた生存闘争・競争と いう観念が伏在していたためである。近代の競争社会以前から、自然界の不 条理な猛威と人間社会の戦乱にみまわれた人々は日々の生活体験のなかか ら、ひとり他の生物と異なることなく、人間も生存闘争の渦中におかれ、自 然界の淘汰の篩いにかけられていると見なす一方で、他の生物に人為的に自 然淘汰を仕掛けてきた(品種改良)。幕末維新期に「科学」として受容され
た社会ダーウィニズムは、そうした感覚と観念が受け皿となり、より非情な 形で庶民に広がっていったのだろう。
自然は人々を生存競争という篩にかけて優者 ・ 強者を選抜し、劣者・弱者 を排泄している、このような優勝劣敗・適者生存という観念と結びついた競 争観は、この世は終わりのない宿命的な競争の連続であると観念させ、一生 物体としての存在理由が常に問われ続ける、という人生観を形成した。劣 者・不適者は自然から放逐される、これが社会から見放されるという観念と 重なって、立身出世主義に重苦しい、暗い影を落とし、絶望感さえ漂わせた。
こうした重苦しい側面は、資本主義化の進展を背景とした貧民層の拡大、
そして帝国主義列強の植民地争奪の激化のなかで、国内外で人々の前に現出 していった。人々は、ますます、生存競争が世界で支配的であることを身を もって納得せざるを得なかったであろう(2)。それは、明治40(1907)年3月 号の雑誌『成功』の「記者と読者」欄で、雑誌記者が「現今生存競争の激烈 なる」ことをことさら強調して読者の質問に応えていることに、また、明治 43(1910)年9月号の同欄に、「十六歳の貧苦生」なる青年が「生存競争」に 目覚め、明治の競争を生存競争とみなして踏み出そうとしていることに、読 み取ることができよう。
立身出世は様々な形で出版された『出世双六』に明確に示されているよう に、既存の価値序列の梯子を一段でも高く上り詰めることであった。そこに は天運や人脈の力が作用したであろうことは容易に推察することができる。
しかしそれが顧みられることはなく、むしろ、日本社会の特徴とされる序列 主義的志向の強さが競争に反映していったように思われる(3)。
立身出世という言葉が日本の社会で広く承認されるようになったのは明治 維新以降のことである。だが、冒頭に引用した『就学告諭』からも推測でき るように、封建的な身分制社会であった江戸時代にも立身出世という観念は あった。それは、子どもが親元から離れ、勤勉・勤労・倹約などの経済的美 徳を身につけ独立することを意味していた。また、様々な『出世雙六』が示 しているように、それぞれの職業で一人前になること、さらにはより多くの富
と、より高い社会的地位を得ること、いわゆる社会的成功すること、例えば町 人は長者になることを意味していた。そこでは女性も例外ではなかった(4)。
明治に入って、封建的な身分的障壁はとり払われ、私有財産と自由な売買が 認められ、居住・職業・結婚におけるそれぞれの選択の自由が、名目的にであ れ社会的に認められた。このことによって、日本の社会に、経済的価値のみな らず社会的価値̶知識・尊敬・威信・快適・名声・優越・勢力・権力など、人 間の欲望の一切の配分が、各自の能力と努力の結果である業績に基づいてなさ れる時代が到来した。何人にも社会的上昇移動の可能性が開かれ、その意欲を 喚起する客観的な条件が整った。また、次のような事実、すなわち、彼等が生 活する社会は、実は主として旧時の下級武士によって建設されたものであるこ と、しかもその下級武士は今や旧時の低い地位から一躍政府の高官に大出世し た(たとえば太政大臣伊藤博文はもとは農民の伜であった)ということが知れ 渡ると、いよいよ社会的上昇意欲は喚起されたであろう。
こうして、立身出世熱は日本人、とりわけ有為の青年のあいだにひろまっ た。それを示す現象に「立志編」の流行があった。(1)の1で挙げた種々の 学校案内もそうであるが、『西国立志編』(1871年)、『東洋立志編』(1881 年)、『日本立志編』(1888年)などが刊行され、読者を刺激した。「立志」
とは立身出世のことに他ならなかった。
これら単行本に加えて、青少年向け雑誌も発行され、かなりの反響を呼ん だ。たとえばそのなかに、『穎才新誌』という1870年代から80年代にかけ て青少年の間に普及した投書雑誌があった(1872年創刊、発行部数48万、
週刊)。それは雑誌の投稿欄を媒介にした種々の交流・交通を介して、同世 代間で互いに立志熱を呼び起こし合う現象を生んだ。その読者層は、初め大 半は上等小学校の生徒で占められていたが、1881、2年頃から中学校や師範 学校の生徒を中心に小学校教員や地方の下級官吏、巡査、兵士などの、一般 の社会人に広がっていった。立志熱は通学生のみならず就業者にも拡がった のである(5)。
この立志熱は学習意欲を高めた。福沢諭吉の『学間のすすめ』(1872年)
はその点で注目されてきた。この本は1877年までに60万部普及し多くの 読者を有した。そこには「人は生まれながらにして貴賤貧富の別なし、唯学 問を励みて物事を知る者は貴人となり富人となり無学なる者は貧人となり下 人となるなり」とあった。下級武士出身の福沢自身、適塾での徹底した能力 主義的競争を体験し、塾頭に登り詰めていた。
このように、学問の有無如何を貧富のみならず貴賤という人間の品位とも 結びつけて論じ、社会的上昇下落の決定的な手段とみなす学問観は、福沢ら の在野的思想家にのみ見られたのではなかい。冒頭で引用したように、政府 や府県の就学奨励の際にも操り返し用いられた。
日本の社会的上昇志向の典型である立身出世主義は、学問(学校で学ぶこ と)と結合して、近代日本の学習意欲の基本的な性格を形作ったのであっ た。
では、立身出世はどのような内容と性格のものであったろうか。
立身出世は、その成否が、福沢の学問と貴賤観にも見られたように、その 人間の人格的価値、精神的価値の高低と無媒介に繋がると観念されていた。
そこには、人間たるものは立身出世すべき存在だとする倫理的要求が強く働 いていた。具体的には、立身出世に至るプロセスでの勤勉・勤労・忍耐・倹 約などの美徳に対する賞賛である。また、その裏返しとして、立身出世主義 論者は、貧困や怠惰に対する露わな侮蔑を向けた(6)。
このような、人倫としての立身出世の観念は、それまでの歴史過程で庶民 層に浸透してきた禁欲主義的な通俗道徳〜たとえば報徳教の勤倹力行の倫理
〜や、武士のエ一トスであった「修身斉家治国平天下」という倫理を歴史的 にも社会的にも引き継いでいた。
立身出世は個人の課題であるだけでなく、集団レベルの課題に深く係わっ ていた。立身出世の成否は、当事者ひとりの問題であったというより彼の所 属する「家」の対世間的な問題として強く意識されていたのである。具体的 には、「家」の名誉(家名)や恥という心理となって現われた。とくに士族 には、この恥の心理的発条(たとえば北村透谷の家名挽回)として立身出世
が志向された。
これと強く結びついて「家」意織を形作る倫理「孝」に導かれた。それは、
子どもの親(究極的には「家」・「祖先」)に対する倫理的的義務の観念であ る。すなわち、「身体髪膚これを父母に受く、敢て毀傷せざるは孝の始なり、
身を立て道を行ない、名を後世に現わすは孝の終わり也」(『孝経』)にみられ る「孝」としての立身出世である。儒教の経書『孝経』は、明治維新以降も 学校の教科書として使用された。また、同じ内容が国定教科書に盛り込まれ て、アジア太平洋戦争まで日本の国民を捕らえた。立身出世することは親孝 行の証であり、遠い祖先に対する報恩心情の発現でもあったのである。
「家」意織や「孝」の倫理によって最も強く動機づけられたのは名字を有 した集団であり、その面目を潰された没落士族であった。そして、そうした 意織や倫理は次第に平民の間に浸透していった。この浸透に一役をかったひ とつに、アジア太平洋戦争敗北後も学校の卒業式で唄われ続けた小学唱歌
「あおげば尊し」(1884年)がある。その歌詞には「身をたて名をあげ、や よはげめよ」とある。この歌を唄って、卒業生も在校生も互いに立身出世を 意識し、見送る教員や親や地域社会もそれを願ったのだろう。
立身出世はまた、「錦を飾って故郷にかえる」と謂われたように、「故郷」
という観念や情緒と深く結び着いていた。家族ぐるみではなく単身都会に出 て、故郷との関係を常に意識しながらの競争参加であった。立身出世の途 は、(1)でみたように、出郷、東京遊学から始まった。学生たちはその際、
地方名望家に資力を仰ぎ、同郷の先輩たちの書生となった。そして書生から 秘書官、代議士と出世し、帰郷して墓前報告をするというパターンをとっ た。言うまでもなく、彼らは、中央と郷里の人脈のパイプ役となり、そのこ とによって様々な利益を故郷にもたらした(7)のであった。
このように、立身出世は地縁あるいは血縁と深い係わりをもち、地方名望 家や郷党の利益と強く結び着いていた。立身出世は強い郷党意織・感情を基 盤としていたのである。そしてこの意織・感情は、自然豊かな山川月花や、
家族や親族や幼なじみや、ともに机を並べ遊んだ仲間が今も憩い集う生育地
に対する自然的情愛と重なることによっていっそう強められ、日本固有の
「故郷」観を形成したと謂われる。次に引用する戦前の文部省唱歌「故郷」
(1914年)は、そうした「故郷」を想う心情を唱い、立身出世を志す信条を 確かめ合ったものであった。
1. 兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷 2. 如何にいます父母 恙なしや友がき 雨に風につけても 思いいずる故郷 3. 志を果たして何時の日にか婦らん
山は青き故郷 水は清き故郷
故郷は、都会での立身出世競争に敗れあるいは疲弊したり病に倒れたりし た者が、一時避難し再起を期す場所でもあり、その意味で立身出世競争の調 整弁の機能を果たした。具体的には都市部の労働力の調整弁でもあった。
以上、見てきたように立身出世主義は単に、当事者ひとりの成功という動 機に支えられていたのではなく、「家」や「故郷」といった集団の成功動機 に強く導かれたものであった。日本の民主化という相で捉えれば、このよう に、個人のインタレストを集団のインタレストに従属する傾何を強く帯びた 社会移動によってすすめられたために、集団的同調的な傾向を強く帯びた、
「出世民主主義」(8)といわれる政治文化を生んだ。
3. 政府の小学校就学奨励策
明治新政府は近代化を西欧の近代的知識・技術を移植することで推し進め た。そして、この西欧の知識・技術を国民に伝授する機能を担うものとして 学校教育を重視し、その建設・普及・整備を進めた。国民意識の涵養(天皇 制国家の臣民)とともに、人材育成の場として学校の機能が注目されたの だった。
併行して政府は、この学齢期の子どもを就学させる政策を次々に打ち出し た。明治5年、政府は「学事奨励に関する被迎出書」(『学制序文』1872)を
布告した。そのなかで国民に対して、学問は個人の幸福・栄達に必要不可欠 のものであること、人たるものは必ず学問をなさねばならないこと、とくに 親は子どもの就学に対して倫理的責任を負わねばならないことを強調した。
それは、個人の立身出世のための学問という、前述した福沢の個人主義的、
功利主義的学問観と同じ立場からの就学奨励であった。
だが、このような説諭でも、士族層や社会的地位の髙い富裕層は別とし て、大多数の国民からは、学校に対する積極的姿勢を引き出せなかった。む しろ、多数を占める農民たちのなかには、政府が建てた学校に敵意をむき出 しにするものか少なくなかった。
明治政府の教育政策に呼応して、あるいはそれを先取りして積極的に就学 した大部分は、既述した士族層であった(彼らが学んだ藩校の仕組みと作法 は近代学校と親和性があった)。次いで、医者、僧侶、神官、富商、富農た ちの旧中間層であった。かれらは職業上、社会の進展に応じた知識・技術を 必要としたし、また、学校教育に適応しやすい文化的条件も備えていた。勉 学の意味や構えや作法を心得ていたのである。さらに、経済的資力にも恵ま れていた。また彼らは、伝達すべく職業や生産手段を遺産として子どもによ り有利な条件で継承させるには、子どもが学校を通して知識・技術を更新あ るいは新たに取得することがより有利・有益だと見なしていた。しかし、彼 らとて、後述するように、エリート・コースの最初の段階である公立中学校 で、士族の競争相手として登場してくるのは1890年代以降である。
では、何故、大多数の国民は就学に対して消極的あるいは拒否的な態度を とったのであろうか。
そのひとつは、教育内容上の問題にあった。すなわち、明治政府が国民の 子どもに就学させようとした学校は、主として西欧近代の知識・技術を伝授 しようとしたものであり、それらは未だに前近代社会のなかで生活する民衆 にとっては直接、必要とするもではなかった。彼らの生活の必要に応じた教 育内容であれば、もっと積極的な姿勢を引き出せたはずであった。事実、民 衆の要求に即したカリキュラムを準備した家塾ゃ寺子屋には、近代学校か建
設されつつあった時期でも多くの子どもが通っていた。
第2は経済的な問題であった。「学制」発布から1900年まで、授業料は 受益者負担の原則に基づき、その他の必要経費と合わせて自弁とされ徴収さ れていた。大多数の民衆はこのような経済的負担に耐え得なかった。この経 済的問題が就学に対する阻害要因となっていたことは、就学率の高い地域が 概して関東・近畿・東海などの、商品生産力の高い地域であったことにも示 されている。
第3に、2と関連して、労働力上の問題があった。当時は農業社会であ り、その労働力は子どもを含めた家族全員であった。この労働力の一員であ る子どもを学校に通わせることは、ただちに家族の労働力の減少を意味し、
家族の死活に関わることさえあった。大切な労働力を奪われるという危惧の 念は、徴兵制の施行によって家の大黒柱を徴用される(「血税」)ことと相 俟って、民衆の生活を脅かすものとして反発を呼んだのである。
これらの三つの要因にくわえて、長い歴史のなかで再生産されてきた身分 意識(分限意識)が様々な形で作用していた。それは向上意欲を身分文化の 再生産という枠内に彼等を封じ込め、新たな世界への飛躍を阻んでいた。
以上のような諸要因が民衆の中に複合的に作用して、政府が目指した教育 の普及は容易ではなかった。そればかり政府の重税や徴兵への反発と連動し て、彼らは学校を焼き打ちする集団的暴力的反抗の挙に出たのであった(9)。 だが、政府はこのような民衆の抵抗に腕をこまねいてはいなかった。一方 では民衆個々の欲望や面子を刺激し、他方では国家の権威を背景にして民衆 のナショナリズムに訴えた。このような政府の学事奨励策は、陰に陽に、ア メとムチによる就学への強引な誘導策の観を呈した。その歴史は、自発的な 学習意欲の発掘史というよりは、むしろ強硬な勉学意欲の形成史であった。
次に、その歴史を概観してみよう(10)。
先ず政府は「就学告輸」で啓蒙し説得していった。その基調は、ほぼ「学 事奨励に関する被仰出書」と同じであった。
すなわち、第1に、学校の教育内容は民衆の日常生活に有益で実用的な
ものであることを強調した。個々人の生活と幸福との強い関連を指摘したの であった。
第2に、教育の機会における四民平等、四民共学を強調した。それは民 衆の平等に対する要求に応じたものであった。そして学問の成績如何によっ て、誰にでも平等に立身出世の可能性が開かれていることを強調した。
第3に、上の1と2が個人的レベルで世俗的功利性を刺激したのに対し て、国家的民族的な危機感や自負心に訴えた。これは、明治国家がおかれて いた対外的危機的状況に裏付けられていた。
以上のように、一身から一国のそれぞれの盛衰と存亡にかかわる重大な事 柄として就学が説諭されたのであった。
しかし、このような説諭で、前述したような生活状況下にある民衆の学校 教育に対するの敵対心や警戒心を解きほごすことはできなかった。そこで政 府は、次に述べるように、組織的な強行策を講じたのである。それは、就学 督励策あるいは就学督促策と呼ばれたものであった。
たとえば政府は、まず、子どもの就学は親一人の問題でなく、他の親たち が互いに監視し誘導しあう義務を負うものであり、それに対する親の「抵 抗」を「条理なし」と断じた。親相互の義務を強調した上で、その地域の指 導者、戸長や役場や警察そして一般の父兄に相合議させ、村ぐるみ町ぐるみ で子どもの就学状況を監視させた。警察権力が公然と行使されたところも あった。
このような相互監視、相互誘導そして国家権力の行使という、言わば外的 な督促策を断行する一方で、父母や子どもの自尊心や名誉心や差恥心を刺激 する、内面に訴える督促策も講じられた。
たとえば、就学牌や就学章やフラフの制度がそれである。就学牌や就学章 は、就学児童にその証として身に付けさせたものであった。就学者と不就学 者の違いが一見して分かる仕掛けであった。これによって、不就学の子ども やその家族が名誉心や自尊心をひどく傷つけられたであろうことは容易に想 像されよう。政府は、このように作用すれば就学率が上がるだろうと策を
練ったのである。
フラフの制度は、学区の地域集団の名誉心や郷党意織に訴える仕掛けで あった。就学率があるレベルに達した学校とそうでない学校が一見して分か るように、相違う旗をそれぞれに揚げさせた。これによって、前述した村ぐ るみ町ぐるみの督励策はいっそう強化された。
上のような心理的操作の手段の他に、民衆のもっとも深刻な経済的問題の 解決を通して、就学の客観的条件を整える試みもなされた。たとえば、タバ コ代等の節約で私的生活領域の合理化を促す形で、あるいはまた、諸々の習 俗、たとえば五節句のお祝いや祭りごとの費用の削減、ときには廃止が強要 される形でなされた。また、「学田」を作ってその収益を学費に当てること、
学費支払いの代わりに子どもに学校の労役を勤めさせること、農繁期には授 業を休みにすること、あるいはまた、民衆の生活と縁遠い体育や音楽等の時 間は早退を可とすること等々、さまざまな策が講じられた。
しかし、以上のような強行策や経済的な改善策によっても就学率は向上し なかった。とくに女子の場合には就学率は芳しくなかった。そもそも女性に は学問は不要であり、むしろかえって彼女たちに不幸をもたらす、という偏 見と差別が社会を支配していた。こうした状況のもとで、就学督促の強行策 は見直され、地域の状況や民度に応じた―たとえば就学期間の短縮や教育内 容の簡素化など―学校教育の改革が進められることになった。
しかしこれにも失敗した。そして就学督促策は、文部省→地方官→官選の 学務委員というラインを軸にして一段と組織的になされるようになり、また 学籍簿を作成するなどして、厳密になっていった。
ところで、学校内には、競争心を刺激して学習意欲を喚起し高める等級 制・試験制度があった。
この制度は1872年から1900年まで続いた。それは教育課程を一定の序 列のもとに配列して階級(グレイド)に分かち、学習者はその階級を学力試 験の評価に基づいて昇りつめるという制度であった。試験の成績によって飛 び級や落第があり、それは当然のこととされていた。つまり、能力主義・成
績主義の原則が徹底的に貫かれていたのである(夏目漱石や幸徳秋水の飛び 級は有名)。このように、学習の成果が進級や卒業や飛び級・落第と直接結 び付いた等級制は、学習者に競争心を呼び起こし学習意欲を喚起した。また この制度と併行して行われた、試験の成績による席次決定や優秀者に対する 賞の授与や学校対抗の試験競争の行事などは、学習者当人の競争心・学習意 欲だけでなく、教師や父母の教育熱をも高めた。そのために、学校が試験中 心的な点取り競争の場と化すほどであった。この様な弊害か広まるにつれ て、また国民意識の涵養を重視する立場から、次第に、この等級制・試験制 度に対して多くの批判が向けられるようになり、学級制がとられる。それは 集団主義的性格を強く帯び、級長は成績優等者で修身と連動した操行査定評 価の高い者が就いた。
不就学者に学校への関心と学習意欲を呼び起こす働きをなしたものに、次 の様な学校行事があった。
政府は日本の近代化を推進するために国民形成を重要課題としていたが、
それは天皇制国家の構成員としての臣民形成という形で推し進められた。そ の臣民形成策の一環として、明治中期以降、小学校にも御真影や教育勅語を 中核とする儀式が組織されていった。この儀式には教員や生徒だけでなく、
地域の行政官や学事関係者や生徒の父母さらにはその親類縁者や地域住民一 般も参加すべきものとされていた。そしてこの儀式とセットに運動会や展覧 会、幻燈会が催された。また、参加した子どもには、当時希少な茶菓が配ら れた(1891年「小学校祝祭日儀式規定」)。政府はこのことによって学校に 対する地域住民の関心を引きだし、あるいはまた不就学児童に就学を促した のである。
たとえば運動会は父母を交えた学校対抗、地域対抗の運動会であった。こ うした運動会は地域住民の連帯と団結を強化しただけでなく、郷党間の競争 を促し、前述した就学督励策を補完・強化した。また、不就学の子どもは在 学児童の興ずる運動会を直接観ることによって、学校に対する興味と関心を 呼び起こされた。さらに、余興で模型の敵艦船を焼き払うなどの模擬戦争か
演じられるようになると、運動会は、ナショナリズム高揚の格好の場とな り、国威発揚のための勉強・学問という観念を普及させていった。最初の本 格的な対外的戦争(日清戦争)での日本の勝利は、この国威発揚のための勉 強・学問という観念を急速に広め、停滞していた就学率の向上の大きな契機 となったと謂われている。
就学率は1890年代に入って上昇し始めた。この上昇の背景にはいま述べ たナショナリズムの高揚もあったが、最大の要因は国内における社会的、経 済的な大変貌であった。すなわち、産業革命とともに企業熱が勃興し、資本 制生産が急速に発展し、工場労働者の需要が高まった。このような変貌に よって、社会は少なくとも尋常小学校修了程度の学力をもった労働者を必要 とするようになった。民衆はこの時期から学校で得られる知識や技術の有用 性に目を向け始め、子どもの就学を促し始めたのである。
産業化の進展は就学率を着実に向上させていった。1902年には90%を越 えた。1907年に義務教育期間は6年に延長されたが、それでも1909年には 98%台に達した。こうした就学率の向上は、授業料の廃止(1900年)や、
70%を越えた(1899年)頃から作用し始めた、取り残されまいとする心理 が作用していたと見ることができる。
4. 「学歴主義」の形成
(1) 官界
明治初期には多種多様な立身出世のルート(学校も含めて)が存在した。
しかし、1880年代中葉に森有礼文相によって構築された学校体系は、それ 以降の日本の学校体系の原型をなしたと同時に、立身出世のルートを一元的 に支配することとなった。
その学校体系は、唯一の大学である帝国大学を頂点として、その下にそこ に接続する高等中学校(5校設置、実質的に帝国大学進学の唯一のルート)、
更にこの下に尋常中学校(1府県1校)、そして小学校を配置したピラミッ ド型の学校階梯であった(11)。
この学校体系の基本的な性格は、先ず第一に官立であったということにあ る。それは頂点の帝国大学が国家の必要と要求に応ずる学問ならびに教育を なす機関と規定されたことに端的に示されていた。
第2に、官僚を養成し選抜するための装置であったということである。
そもそも、この学校体系の構築は、1885年内閣制度の発足と併行して、即 ち日本における近代官僚制度の整備とセットに進められたものであった。
1887年、官吏任用の資格基準が明示されて、それまでの地縁や血縁による 情実任用の途が断たれ、能力主義による任用に改められた。だが、帝国大学 の卒業生に対しては大幅な特権が与えられていた。1893年の文官任用令及 び文官試験規則で、帝大卒といえども高等文官試験に合格しなければならな くなったが、予備試験は法科は免除された。こうして帝国大学は実質的にパ ワー・エリートである官僚への通路を独占してゆくことになる。森が構築し た、帝国大学を頂点とする学校体系は近代官僚の養成と選抜の機能を果たす べく期待されていたのである。
上のような基本的な性格を有する学校体系の創設は官界の労働市場と学校 を無媒介に結合するものであった。それは近代日本特有の学校と社会生活と りわけ職業生活との繋がり具合を、国家制度として定型化したものであっ た。これを「学歴主義」と呼んでいる。したがって森によって先ず、日本の 官界において「学歴主義」が形成されたと見なすことができる。
官界は上からの中央集権化という日本の近代化の性格上、その地位や役割 を高く評価されて金銭的報酬も社会的権威も高かった。官界の価値は1880 年代に入って急騰し、多くの有為の青年がこの官途を目指して東京遊学をし た。このような遊学熱と動きが益々帝国大学の価値を高めた。それだけに森 が構築した学校体系は立身出世を志す青年とその親や故郷の人々に大きな影 響を与えた。すなわち彼等は立身出世の為には必ず学校を経由せねばならな いこと、しかもそれは他でもない尋常中学校→高等学校→帝国大学という、
森が創設・整備したエリートの進学ルートを一段一段昇りつめねばならない ことを受け入れさせられたのである。そして同時にその学校体系を基準とし
て学校を「正規」と「規定外」に、また進学ルートについても「正系」と
「傍系」に分けて考えるように導かれた。こうして「学歴主義」の形成と並 行して、どのレベル(正規か否か)のどの学校を出たかによって将来の社会 的、職業的地位が決定されると考える、日本の「学歴主義」意識が発酵し始 めた。そしてそれは「正系」の進学コースを歩むことが単に学力の高さを意 味するだけでなく同時に倫理的な「品性」の高潔さをも意味するという観念 を伴っていた(12)。
(2) 中学校の入試競争と勤労青年
1900年代は中等教育の拡張期であった。中等学校進学率は明治後期には 8.8%、10%と上昇し、大正9年には15%、アジア太平洋戦争敗戦時は42% に達していた。
ここではそのうちの中学校について見てみよう。
中学校はこの1900年代に学校数、学生数ともに2倍に増加した。そし て、三番め四番めの府県立中学校が設立された。
森によってその原型を造られた官僚養成・選抜機構としての学校ルートに のるには、まず「正規」の中学校に入学することが先決であった。すでに 1890年代の後期にはこの「正規」の進学ルートに志願者が殺到し入試競争 は激しさを増していた。その競争率は平均でほぼ2倍弱であったが、中学 校の量的な拡大にともなって有名中学を上位とする中学校の階層化がすすん だ。その有名中学の一つであった東京府立第一中学校の競争倍率は、1910 年代、6ないし9倍という高さであった。このような中学進学をめぐる競争 は、まだ一部の背年たち(入学者は1897年前後で該当年齢の約3%)の問 題であったが、そのために小学校の高学年の教育がその受験準備のための場 と化すことも見られるようになった。すなわち小学校が学歴獲得競争に少し ずつ巻き込まれるようになってきたのである。
そのことの戦時下での様子はすでに触れた加藤周一の回想に示されてい た。昭和2(1927)年、この競争を抑制するために入試改革が行われたほど、
それは国家的問題になっていた。
ところで中学校へ進学したのはどの階層であったろうか。この点に就いて 一部(1)でも触れたが、ここで概親すると、1890年代前半までは士族層が 過半数を占めていたが、それ以降は逆転し、平民層が次第に台頭していっ た。平民と言っても地主層や自営商工業主などのいわゆる旧中間層の子弟で あった。1900年代後半になると、これらの旧中間層の相対的減少に対して、
事務員などの新中問層が増大して行く。その増加の背景には、工業化・大衆 社会化の進展があった。彼等は次世代に遺し伝える自立的な家業や資産をも たなかったために、子弟の教育に熱心にならざるを得なかったのである。こ の新中間層に対して旧中間層は、自立的な家業と資産に恵まれていたため、
彼等が彼等の子どもに期待したのは、その身分文化の再生産にとどまりがち であり、教育要求は、進学校としての中学校というよりはむしろ、中等、高 等の実業学校に向けられて、それらの学校の隆盛を見た。
1900年代から1910年代にかけて、青年の間に成功熱がひろまった。この 成功ブームのオピニオン・リーダー的役割を担った雑誌に『成功』」(1902 年から1914年)がある。
この『成功』の読者は、小学生・中学生・実業学校生・専門学校生・高等 学校生・師範学校生そして各種の教員養成所の生徒など広汎な学校の生徒に わたっていた。さらに就業者の読者も数多く存在していた。小僧・丁稚・見 習い・奉公人・店員・教員・兵士・職工・会社員・農民・漁民・小俗吏・巡 査・郵便局員・大工・薬剤師・事務員・鉄道員・僧侶・銀行員・看守・看護 婦等々、多様な職種にひろがっていた。このような読者層のひろがりはこの 時期、つまり明治末期から大正にかけて、立身出世はたんにエリートの途を 歩む少数の青年たちの関心事ではなく、広汎な青年の関心事となってきてい たことを示している(13)。
ところでこの「成功」ブームのなかで「中学講義録」の広告が頻繁に見ら れた。その広告は貧しい青年たちに立身出世を鼓吹するものであり、また、
学習意欲を呼び起こすものであった。そこで、以下に中学講義録周辺の問題
に触れておきたい(14)。
講義録の広告文「篩に残された人は、漸々立身出世して成功者となるが、
一度この篩で落された人は一生落伍者として失敗に終わらなければならな ぬ。」(15)というように、社会ダーウィニズム的競争観によって立身出世競争 の深刻さ重大さを示し、中学を巡る競争を中学講義録で如何に乗り切るか、
人生勝利の分岐点であるかのごとく、しきりに宣伝していた。
中学講義録は正規の中学校に通うことなく、独学でそれと同等の学力を得 られるとした通信教育制度であった。大多数の者が初等教育を受ける時代に あって、中等教育の価値は一般民衆にとっても次第に認織されるようにな り、それへの進学欲求は高まっていた。とりわけ中学校への進学は立身出世 を志す青年の共通の要求であった。かといって彼らが、さらに上級学校に進 学するために中学入学を望んだわけでは必ずしもなかった。彼等がそれを望 んだのは次のような社会的背景があったからである。
たとえば鉄道省や逓信省の職制は、下から傭人→雇員→鉄道手→判任官→
高等官と昇っていく職階制であったが、それは同時に身分制度でもあった。
すなわちそれば職位や昇進や給与・昇給の違いを意味しただけではなく、人 格的な支配関係をも意味したのである。これに加えてその身分制度の職位は 学歴とダイレクトに結びついていた。小学校卒業者は傭人、中等教育終了者 ば雇員や鉄道手であり、一生その身分で終わることが少なくなかった。しか し、その上位にある判任官は、制度としては小学校卒業者でも普通文官試験 をパスしさえすれば誰でもなることができた。要はこの試験をパスできる学 力すなわち中学校卒業者と同等の学力を身につけさえすればよかったのであ る。したがってこの試験の存在は、中学進学を断念せざるを得なかった貧し い―これが大多数の理由―青年たちにも、立身出世の望みを繋ぎとめておく ものであった。彼等にとって必要なことはこの試験にパスする学力すなわち 中学校卒業者と同等の学力を身につけることだった。中学講義録はこうした 青年達の要求に見事に応えるものであったのである。
中学護義録の発行社はまた受講者に種々の特典、たとえば発行社内の図書
館の自由閲覧、学資の貸与、特定の大学への無試験入学などを準備し、立身 出世の門戸を開いていた。だが、中学の全課程を、働きながら、しかも正規 の期間よりも短い期間で修得することは殆ど不可能であった。たとえ修得し 得たとしても、講義録による学力はそれだけでは社会から認められなかっ た。認められるためには、中学卒業と同等の学力を有することを認定する、
文部省による検定試験、すなわち専門学校入学者検定試験にパスしなければ ならなかった。しかしこの試験合格は極めて困難であった。けれども、この 中学講義録の全盛時代は1930年代まで続いた。このことは、一つでも上位 の身分に立身出世するためには学歴が必要不可欠であるという認織が広範に 広まっていたこと、そして、進学の途を閉ざされてもなお、立身出世や学習 意欲を充たそうともがいていた青年たちが如何に多く存在していたか、これ らのことを端的に示していよう。
(3) 実業界
1904〜1905年の日露戦争前後から日本は、官吏や軍人の社会から次第に ブルジョアの社会へと移行しはじめる。そしてこれと併行して、立身出世は 官吏や軍人だけでなく実業家になることをも意味していく(16)。
官吏や軍人として立身出世しようとした青年たちは、それを国家的価値の 実現に繋がるもの見なしていたが、ここに登場した実業家志望の青年たちも 同じ意識であった。すなわち彼等は富国のための実業発展と捉え、立身出世 を志していたのである。この傾向は第一次大戦を契機として飛躍的に発展し た資本主義経済を背景に、ますます顕著になっていった。
この実業界に大学卒業の新入の定期採用が定着し始めたのは1917年ごろ であった。それ以前、各社は中学の卒業生を練習生として採用し彼等を社内 で教育して幹部社員に当てていた。これと併行して大学卒を少しずつ採用し ていた。そして、この大卒社員が職場で発言権を増し(とくに技術革新の進 んだ分野で顕著であった)、さらに企業経営の近代化にとって大卒社員が重 要な人材と見なされるようになると、大卒新入採用は広範になされるように
なった。そしてこの結果、世間に「大学を出なければ立身出世はできない」
というムードが広まった。この時期に興った専門学校の大学昇格運動はそう した社会的背景を一因としていた。1918年の大学令によって、それまで帝 国大学(5校)に限られていた大学は一挙に40余の数に膨張する。この結 果、大卒のサラリーマンは激増した。そして彼等は新たな中間層を形成し、
この時期以降、日本の社会において、教育熱を高め、教育水準を押し上げる 主要な勢力となっていく。
1920年代は、また、日本のサラリーマン制度、労務管理制度が出来上 がった時期でもあった。その制度の基本的な性格は、官界の労務管理制度と 同様にやはり身分制度であった。たとえば、住友系では、補助社員(雇人)
―四等社員―三等社員―二等社員―一等社員(役つき)、東京電燈では、技 手補―書記補―技手―書記―主事補―技師補―技師―主事―理事(課長クラ ス)、王子製紙では、準雇員→雇員→準社員→平社員→主事→参事という職 位の序列は前述した鉄道省や逓信省の職制(親任官―勅任官―判任官―雇員
―雇人…)の、すなわち官界からの直輸入であった。しかも官界と同様にこ の身分制度は学歴とダイレクトに結びついていた。王子製紙の場合で見る と、大卒は準社員として採用され、そこで半年か一年を過ごすと社員に昇格 した。これに対して中学や実業学校の卒業生はその下の雇員か準雇員として 採用され、「まずくすると大半の年月をその身分で終わってしまう。準社員 から社員になる道は閉ざされているわけではないが、それには気の遠くなる ほどの年月を要するのである。」しかも一生その職位で終わる場合が少なく なかった。このような身分制的な職階制は同時に、給与体系や制度〜初任 給、昇給、ボーナスそして退職金〜と相関関係にあった。またその給与制度 の中で、各々の職位内における年功序列の賃金体系もこの時期に出来上がっ た(17)。
こうして、実業界におても学歴̶年功的労務管理制度が採用されて、ここ に官界に次いで実業界において「学歴主義」が形成された。それは、官界と 同様に、実業界が彼等の必要とする人材の獲得に当たって、彼等自身で独自
にその養成機関を発達させることなく、その機能を学校に代行させたことの 帰結であった。
官界と実業界において、それらの労働市場と学校のダイレクトな結合に よって形成された「学歴主義」は、国民の教育関心をより高い学歴獲得競争 へと導き、教育要求を高めることになった。大学進学者は年々増加し、
1920年代に、この時期の慢性的な不景気も要因となって、大学卒のインフ レーションがおこった。そしてその結果、「正統系」を上位とした大学の階 層性が明瞭な形で国民の前に照らし出されてくるようになり、一部の有名大 学をめぐる進学競争はますます激しいものとなっていった(18)。1922年7月 5日、朝日新聞の社説で、「小学校は中学の、中学は高校の予備校化する」
「大学のための教育」という風潮や、入学試験制度、教育の画一主義を排除 し、「ただ無意味に大学に行くことを名誉と思い、詰め込み主義の教育の結 果、学校を終わる頃には疲れ果て、その上実際的でないため、この年々増加 するものは高等遊民である」と指摘されていた(19)。
ところで、上のような実業界における「学歴主義」の形成は、その産物と して、大学に学生に対して就職を紹介したり相談にのったりする機関を設置 させた。その機関は今日の大学においても存続している。それが設けられた 時期は1920年前後の大卒者の就職難の時代であった。日本で、職業案内や 指導そして紹介をする公的な機関が独自に発達しなかったこともその設置の 大きな要因となっていた。21世紀の今日に於ても、とりわけ私立大学はこ の職業案内・紹介にかなりの力を入れていることは周知の通りである。ちな みに、大学と企業が入社試験は卒業後に行う等の就職協定を結んだのは、
1920年代の末頃からであった。
義務教育段階でこのような面での学校の役割が重視され、法的根拠を示さ れるようになったのは1941年のことである。この時期、日本は、決戦を前 にしてその要請に基づき、労働力の合理的な配分を重要な課題としていた。
こうした背景のもとで小学校段階で職業指導がなされるようになったのであ るが、その役割はアジア太平洋戦争後の義務教育においても引き継がれ、上
級学校への進路指導として重要な位置を占めている。義務教育段階において も労働市場とのダイレクトな結合がなされて、学校は高等教育機関から初等 教育機関まで全て「学歴主義」のなかに組み込まれることになった。
ところで、戦前の日本で小学生は、学校で、学習に向けてどのように動機 づけられていたのであろうか。この点について、1904年からアジア太平洋戦 争まで使用されていた国定修身教科書を素材に触れておこう。この修身は、
小学校において、他のあらゆる教科を統合する要の役割を担う筆頭教科で あった。
学習の動機づけは、個人、家、社会、国家のそれぞれの生活レベルに応じ てなされていた。総じて、その内容は、すでにみた士族の立身出世主義的な 学問観と動機とほぼ同じものであった。たとえば「孝」や「家」による動機 づけは、士族のそれを適用する形でなされたと言える。換言すれば士族の倫 理が国民一般の倫理として普及されていたのである。
ただし次のような特徴も見られた。そのひとつは、どのような悪条件のも とでも学習は持続せねばならないとしきりに強調されていたことである。そ れは、日本の勤倹力行型の人間の典型ともいうべき二宮金次郎を手本とする 形でなされた。この二宮金次郎の精神は、日本社会のすみずみに(植民地ま でも)浸透して、日本入の信条や行動様式に測り知れない程の影響を与えた と思われる。この精神の普及には修身やそれと連動した操行査定だけでな く、彼の銅像や次に掲げる唱歌も用いられた。
一、 あしたに起きて、山に柴刈り、草鞍つくりて、夜は更くるまで、
路ゆくひまも、書を放たず、あわれ、いじらし、この子、誰が子ぞ。
二、 勤倹カ行、農理をさとり、世に報徳の、教えをつたえ、
荒れ地拓きて、民を救いし、功績のあとぞ、二の宮神社 (1902年)
もう一つの特徴は、時期を下るにしたがって国家主義的傾向が支配的とな り、国家の為の学習という学習観が強調されていったことである。そこで は、「孝」や「家」など、全ての価値は国家という一元的価値によって統合 され秩序づけられていた。そして、その国家とは天皇の国家であった。「臣
民」はアプリオリに措定された天皇の恩に報いるために、すなわち天皇の国 家の繁栄のために勉学に励まねばならないとされ、天皇制国家への忠誠心、
忠君愛国の愛国心が喚起された。
おわりに:「学歴主義」の浸透〜戦後〜
アジア太平洋戦争後の日本は、「教育爆発の時代」といわれるほどの、教 育の著しい普及をみた。
義務教育は戦前すでに100%に近い就学率であったが、戦後その年限が9年 間に延長されてもなお下がることはなかった。新制高等学校においては進学率 の急激な上昇がみられた。その普及は戦前のマス段階を遙かに上回りユニバー サル段階に達した。また高等教育機関進学者も急増し、戦前のエリート段階を 越えて大衆化の時代に入り、今、高学歴社会の問題に直面している。
では、このような教育熱を沸騰させ学習意欲を生み出した、あるいは生み 出しつつあった要因は何であったろうか。
戦前の立身出世主義は、戦後の民主化と高度の経済成長のなかで次第に後 退していった。戦前の官界や実業界での身分制的な労務管理制度も、戦後、
個人の基本的人権が保証され尊重され、社会組織が民主化されると、もはや 権力を得、権威を張ることの切実さも失われていく。身分組織や身分意識の 解体は、さらに産業化の進展、とりわけ1960年代の経済の高度成長によっ て促された。身分意識の根強い農村社会は解体し、大量の労働者を都市へ流 出させた。また大量の新中間層を生みだし、国民の経済生活が一定程度平準 化し、国民の間に中流意識が蔓延した。民主化と産業化の潮流は家族主義や 国家主義を否定し、個人主義を国民に浸透させ、同時に「孝」や「家名」の 基盤である「家」そのものをも解体しつつある。
では、第二次太戦後の教育熱と学習意欲を産み出したエネルギーは何で あったろうか。
それは新たな競争意識を伴った生活安定志向であると考えられる。戦後、
大量の工場労働者群や新中間層が産出された。だが、彼等と彼等の家族には
将来の生活の保証はなにひとつない。そのために彼等がまず志向するのは将 来の生活の安定性の確保であった。このためには確率の高い条件をできるだ け多く整えることが望まれる。けれども彼等はただたんにこの様な生活の安 定性の確保だけを追い求めているだけではない。そもそも生活の安定性の確 保自体競争を伴うものであるが、それと連動して、彼等には他人よりも一つ でも高いランクの生活様式を、という生活様式をめぐる競争心理が作用して いた(20)。それは日本も国民の世間並み志向の現れとも、また序列主義的な 思考様式・行動様式の現れともみなされるが、このような生活様式を巡る競 争意識と連動した生活安定志向が、立身出世主義の後退と入れ替わりに国民 の間に広がったのである。その志向には、立身出世主義にみられた権力や権 威の追求ではなく、金銭に対する執着が支配的位置を占めていた。この様な 傾向は1970年代のオイル・ショックによる経済的な不景気が興って以降、
ますます顕著になっている。
上のような安定志向は新中間層を主要な担い手としていた。だが労働者や 農民にもひろがり、また中流意識は、彼等を新中間層の思考様式・行動様式 に同調させていった。すなわち、労働者や農民のなかでそれまで分限意識の もとに抑えられていた進学要求が解き放たれて、彼等も新中間層と共に学校 に対する要求を高めていったのである。そしてそれは、それらの要求を満た しうる教育組織が、戦後の教育の民主的改革に依って整備されていたことに よって勇気づけられていた。
官界や企業の労働市場と学校との関連構造は相も変わらず戦前と同じで あった。その上、大企業は一部の特定の大卒を優先的に採用し、また官界も 事実上、一部の銘柄大学の卒業生に有利であった。この様な状況のために教 育要求はただ単に高度な教育を受けることにではなく、一部の有名大学の学 歴を獲得することに向けられていった。そして前者ではなく後者が国民の学 校教育を受ける主要な動機となっていたのである。
1948年の新制大学の発足によって大学の数は膨張し大卒は戦前の様なエ リート性を喪失した。またその希少価値性をも保持できなくなった。そし
て、1880年代後半にその原型を造られた「正系」の学校群を中心とする有 名大学の価値がふたたび上昇した。こうして一部の銘柄大学を巡る競争が広 範に国民を巻き込んで激化してきたのである。戦後の新制高等学校の創設 は、競争から教育本来の価値を守り実現するために、小学区制、総合制、男 女共学の三つを基本的な原則とするものであったが、政府の政策と相まって 国民の学歴獲得競争の前に解体した(21)。
高等学校はさらに1960年代に、高度経済成長政策の一環として能カ主義 的に再編され、再び戦前のように、進学組の普通高校と就職組の職業校に分 化された。そして職業高校の生徒は大学進学の道を事実狭められた。さらに 高等学校全体が有名進学校(その殆どは戦前の「正系」進学ルートに属して いた)を最上位として階層的に序列化していった。
こうして有名進学校→銘柄大学→官界あるいは大企業という社会的上昇の ルートが次第に定着した。その結果、競争は早い者勝ちの競争の様相を帯 び、際限なく低年齢化し、受験産業の発達と相まって、競争は家族ぐるみの 経済力・文化力を総動員した総力戦の様相を帯びてきた。この様な事態は戦 前、日本に形成された「学歴主義」が戦後の民主化と経済の高度成長を背景 にして大多数の国民に更に深く浸透し(「まなざし」(天野郁夫)としての学 歴主義の作用)、全国民的な学歴獲得競争が繰り広げられるようになった結 果であると捉えることができる。このことは、明治の日本の学校の定型化の 時期に、文相森有礼によって造られた社会的人材の選抜機構としての学校に 全ての国民が吸収されたことをも意味している(22)。
近代の日本で、このように戦前は国家的価値の実現の要請が、戦後は経済 的価値の実現の要求が、それぞれ学校教育を支配しかつ国民が支えた。今日 の教育の自由化はそれに拍車をかけている。日本人の向上心とその学習意 欲・教育熱はそのような学校にもっぱら吸収されてきた。その結果、教師や 親たちの関心が、時の政治や経済の要請とは相対的に独自な、人間の普遍的 な課題すなわちヒューマニズムの形成に向けられることを困難にする環境が 作られたように思われる。『第一次アメリカ教育使節団報告書』で指摘され
た「試験及第第一主義的」志向は解消されていないのである。こうした要因 を背景にして、今日、日本の学校教育は、非行、ドロップ・アウト、いじ め、暴力などの深刻な病理的現象によって、大きく揺さぶられている。そし て今、その改革の試みが多くの人々を動員し様々な形で〜たとえば既存の学 校から相対的に独自のフリー・スクールなど〜模索が続けられている。
以上、明治維新期から1980代まで、概観してきた。そして(1)の「はじ め」に帰れば、ほぼ今日までの概観が出来た感じになる。多くの優れた先行 研究の成果(全てを挙げることはできなかったが)に学び、自分なりに見取 り図を描いてきた。これからは引き続き各論について掘り下げて行きたい。
―註―
(1) 日本精神文化研究所編・日本教育史資料書・第5輯 所収、111頁。
土屋忠雄「就学督促と拒否の時代〜「学制」実施に関する一考察〜」(『教育学 研究 20‒1号』1947年、金子書房)参照。
(2) 拙稿「競争と選抜の思想」『近代日本における知の配分と国民統合』(寺崎昌男・
編集委員会、第一法規、1994年6月)及び拙稿「福沢諭吉の「丸裸の競走」と
「人種改良」の思想」『学習院大学 東洋文化研究 2号』(2000年3月)を参 照されたい。
(3) 堀尾輝久は近代日本の能力主義的競争の「日本的特徴」を、一元的な学校体系 とともに、一元的価値のもとでの序列を争う政治文化「同調的競争」(石田雄)、
すなわち「天皇制国家のもとで国民が競うべき価値は、国家目的を最高位とし て一元的に規準化され、官位も軍隊の階級も、天皇との距離で計られた」忠誠 競争という政治文化を挙げ、さらに紡績工場にみられるように出来高順番制と いう独特の制度を生み出した日本の風土を指摘している。また、学問の世界で の序列主義的志向の強さを指摘し、さらに、「成功へ向けてのガムシャラな努 力主義」を「日本的特徴」として挙げている。『教育入門』岩波新書、1989年、
58〜61頁。
(4)「立身始まつ鑑」文化8年、「町人身体商売出世鑑」安永4年。『現代のエスプ リ 立身出世 立身出世〜学歴社会の心情分析』門脇厚司編集・解説、至文 堂、1977年、63頁。
(5) 穎才新誌の読者については前田愛「戯作文学と「当世書生気質」」「明治立身出 世主義の系譜―『西国立志編』から『帰省』まで」『前田愛著作集 2』筑摩書 房、参照。
(6) 勉強を怠ると貧困・憐れなる生活へという説が、「勤労門を出ヅレバ、貧苦窓 ヨリ入ル」「ベンキョウセヨ」では、ナマケテテバカリ イタノデ コンナ アハレナ人ト ナリマシタ センセイノヲシエヲキイテ ベンキョウシテリッ パナ人ニナリマシタ マカヌタネハハエヌ」(国定教科書第3期尋常2年)、「祖 先と家」(同2期尋常6年)「家名ヲを高メヨ」(同2期尋常6年)「伊能忠敬」
の「勤勉」で「家名挽回」など。『教科書大系 修身』参照。
(7) 拙稿「小学区制をめぐる論議」『千葉工業大学研究報告人文編第29号』1992 年2月。
(8) 高畠通敏「出世民主主義」『政治学への道案内』1976年、岩井引融『競争・成 功・出世』1956年、参照。
(9) 寺崎昌男「明治学校史の一断面〜いわゆる『学校紛擾』をめぐって」教育史学 会『日本の教育史学』第14集1971年10月。
(10)前掲土屋忠雄「就学督促と拒否の時代」及び以下を参照。山本信良・今野敏彦
『近代教育の天皇制イデオロギー』『同Ⅰ、Ⅱ』新泉社、1973~77年。
(11)寺崎昌男「日本における近代学校体系の整備と青年の進路」『教育学研究』
1977年9月、佐藤秀夫「学校観の系譜」『教育学研究』1978年6月、参照。
(12)明治末期には、帝大の卒業生が官僚機構の中枢を占めるようになる。山崎春成
「「立身出世」コースの形成」『明治期の経済発展と経済主体』(大阪市立大学経 済研究所狭間源三編)日本評論社、1978年7月、竹内宏・麻生誠編『日本の 学歴社会は変わる』有斐閣、1981年、6–7頁参照。また、軍隊組織における軍 学校を中心とした学歴主義も、国民皆兵(徴兵制)の観点から重要である。
(13)拙稿「近代日本の青年と「成功」・学歴―雑誌『成功』の「記者と読者」欄の 世界―」『学習院大学 文学部研究年報第35輯』1988年3月。
(14)山本明「教養と生きがい 立身出世と中学講義録」『講座比較文化第四巻』
1976年。
(15)竹内洋『増補版 立身出世主義〜近代日本のロマンと欲望〜』(世界思想社、
2005年)より重引、19頁。
(16)坂本藤良『日本雇用史 下』中央経済社、1977年、160–161頁。同『日本経営 教育史 序説』ダイヤモンド社、1964年、参照。
(17)尾崎盛光『日本就職史』、1967年、82–89頁。前掲山崎春成「「立身出世」コー スの形成」参照。
(18)初任給の格差:1925年ごろの、住友では、帝大80円、東京高商、高工、早稲 田理工科70円、地方の高商、早稲田(理工系外)、慶大65円、外語、農大60 円、一般次第45〜50円、中等学校35円、明治末期には、帝大100、一橋60
〜70、早稲田30〜40、(前掲坂本藤良『日本雇用史 下』173–177頁。
(19)前掲尾崎盛光『日本就職史』66頁。
(20)竹内洋『日本人の出世観』学文社、1978年。
(21)前掲拙稿「小学区制をめぐる論議」。
(22) 1997年6月実施「学歴意識に関する調査研究」では、「学歴長期有効論は否定
される傾向にある」との分析結果が報告されている(日本教育社会学会第49 回大会、原田彰等)。
小論を書くにあたって、参照した論文は数限りないが、紙面の都合で以下のも のを記し、併せて感謝したい。
石田雄『日本の政治文化―同調と競争』東京大学出版会、1970年。
川島武宜「立身出世」『展望』1956年9月。
作田啓一「立身出世―上昇志向の戦前パターン」『現代社会心理学8』中山書 店、1959年。
見田宗介「日本人の立身出世主義」『現代日本の心情と論理』筑摩書房、1971 年5月。
岡義武「日露戦争後における新しい世代の成長―明治三八年〜大正三年―(上)
(下)」『思想』1960年3、4月。
神島二郎「近代における日本人の教育観」『思想』1967年12月。
竹内洋『立志苦学出世〜受験生の社会史〜』講談社現代新書、1991年。
久富善之『競争の教育』労働旬報社1993年。
菊池誠司「近代日本における中等教育機会」『教育社会学研究』1967年。
深谷昌志『学歴主義の系譜』黎明書房、1969年。
田村栄一郎『ナショナリズムと教育』東洋館出版、1964年。
R. P. ドーア(松居弘道訳)『学歴社会 新しい文明病』岩波書店、1990年。
天野郁夫『試験の社会史』東京大学出版会、1983年。
同 『学歴の社会史』新潮選書、1992年。
同 『教育と選抜の社会史』ちくま学芸文庫、2006年。
広田照幸『陸軍将校の教育社会史』世織書房、1997年。
E. H. キンモンス著、広田照幸他訳『立身出世の社会史』(The Self-Made Man in Meiji Japanese Thought: from samurai to salary man, 1981.)玉川大学出版 部、1995年。
『中内敏夫著作集』全8巻、藤原書店、1998〜2001年。
佐藤秀夫『教育の文化史』全4巻、阿吽社、2004〜5年。
以上
(本稿は、拙稿「The Desire of Learning and Higher Education」『THE MODERNIZA- TION OF JAPANESE EDUCATION Vol. II Content and Method』(International So- ciety for Educational Information, 1986)として英訳された和文に加筆したものであ る。)
キーワード
勉学意欲、教育熱、立身出世、中学講義録、学歴主義