笠置山地、木津川上流流域の農山村月瀬村と高山ダ ム
著者 西田 和夫
雑誌名 奈良学芸大学紀要. 人文・社会科学
巻 11
ページ 41‑64
発行年 1963‑02‑28
その他のタイトル Tsukigase‑Mura, an Agricultural Village iu the Mountain District of Kasagi, Drained by the River Nabari, and the Takayama Dam.
URL http://hdl.handle.net/10105/3496
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笠置山地、木津川上流流域の 農山村月瀬村と高山ダム
西 田 和 夫
(う 序 説
昭和31年度の総合調査(1)同32年度の奈良県企画室の調査(2)同36年度の県議会の調査(3)同年度の 文部省科学研究費による数回にわたる現地調査により、奈良県添上郡月瀬村と高山ダムにつきそ の概要を述べると以下のようである。
(注1) 名勝月ケ寂、名勝月淑編纂委員会、昭和32年11月3日発行
(注2) 高山堰堤建設に伴う水没補償対策調査報告書(月瀬村)奈艮県 昭和33年3月
(注3) 高山ダム建設に伴う代替宅地調査報告書 一月激村一 奈良県議会総合開発特別委員会委員長 吉川久一 昭和36年12月
京阪神の大動脈である淀川を上流にたどると宇治川、木津川、桂川に分かれる。このうち主流 の宇治川は日本一の売琶湖を水源にし、木津川は京都府から奈良県、三重県にぬけ、五月川、名 張川、宇陀川となり、また伊賀川にも分かれる。桂川は保津川、大堰川とつながっている。宇治、
木津、桂の三つの川は京都府綴喜郡八幡町で 合流し、淀川となって大阪に流れている。
淀川の集水域は、こうして滋賀、京都、大 阪、奈良、三重など5府県にまたがり7,300 km2、近畿の約1左にも達する。
宇治川のみなもと琵琶湖は、水のはけ[]が 宇治川に通じる瀬田地峡一か所しかなく、大 雨が降っても、いったん琵琶湖に貯水され る。このように「天然の貯水池」琵彗湖にまも られていながらも、淀川は昔からたびたび氾 濫した。流域が早くから開けた所だけに水害 を防ぐ苦心が重ねられたが、その重点が下流 の大阪をまもることに置かれたため、上流 の琵琶湖岸と下流とは常に利害が対立した。
大雨が降ると茸琶湖の水位が上がり沿岸は水 びたしとなる。しかも永が下がるのに、時に は一か月以上もかかることが屡々であった。
明治以後になって、新しい科学技術で「南郷 洗堰」が造られ(明治35年−1902−起工、
2年後に完成)また堤防補強工事が行われて 淀川水系のダム建設計画図
淀川下流の水害は漸減した。しかし堤防が切れかけたことは幾度もあり、このままでは何時大洪 水が起こるとも限らない。これを防ぐために宇治、木津の二つの川に四つのダムを造って貯水 し、淀川の流れを調節することになった。
そこで先ず宇治川に「天ヶ瀬ダム」が造られることになり、昭和35年から工事が始められた。
このダムは京都府と滋賀県の境にある天ヶ瀬に造られ、高さ73m、長さ254mのアーチ型ダムで 38年9月に完成すると2,600万トンの水をたたえる。長さ150km、幅150mの細長い貯水池が生ま れ、これで洪水を防ぐと共に、最大出力9.2万kwの新発電所もでき、京都府の一部に飲料水も供 給される。
一方、木津川上流には高山ダム(京都府)さらに宇陀川ダム(奈良県)青蓮寺ダム(三重県)
が造られ、既着工の宇治川天ヶ瀬ダム、南郷洗堰と併せて洪水調節を行うことになった。高山ダ ムが完成するのは昭和41年、このダムで梅の名所として知られる「月ヶ瀬梅林」も殆んどが湖底 に沈むことになった。ほかのダムはまだ調査の段階で、完成までに10年はかかる見通しである。
淀川の水源地方は、こうしていつの時代も京阪神の発展のために大きな役割を果しつづけてい る。本論では「高山ダム」に関係して、奈良県添上郡月瀬村地域の生活の実態を明らかにすると 共に、殊に同ダムによる水没地域についての研究をその主冒的とする。
⇔ 高山ダム建設計画の概要
昭和28年9月近畿地方を襲った台風13号により淀川水系の驚異的な洪水の結果、この対策とし て支用木津川水系名張川に築造される高山ダムは、淀川流域の洪水調節に欠くべからざるものと なった。即ちこの台風をみるまでは計画洪水量6,950m3ノS(淀川三川合流点における観測)に対 し約500m㌶/S程度の余裕をみて洪水対策がなされていたのであるが、この未曽有の大降雨による 水量は8,650mごりS(淀川三川合流点における観測)となり、淀川治水計画は焦眉の急となり、建 設大臣より淀川水系改修基本計画を河川審議会に諮問され、昭和29年9月第一回河川審議会総会 が開催され、引続いて同技術部会で検討された結果、宇治川筋に天ヶ瀬グム、木津川水系におい ては名張川筋に高山ダムをそれぞれ築造すると共に、更に本川の治水対策の万全を期するため、
上流における伊賀川改修、宇陀川ダム、桂川改修についても本計画を基本として調査を行い具体 的計画を立案することになった。
こうした総合計画の一環として造られる高山ダムは、その堰堤の位置を月瀬村より約5km下流 の京都府相楽郡南山城村高山に設置され、その湛水により被害を受ける地域は、京都府南山城 村、奈艮県月瀬村及び山添村、並びに三重県上野市治田と3府県にまたがるものである。当時ダ ムの高さは63m(標高131m)の計画であったが、去る昭和34年9月の台風15号(伊勢湾台風)の 出水は、名張川水系において従来の計画流量を著しく上廻り、淀川枚方で7,200m3/Sの大洪水と なったので、計画の再検討に迫られ、近畿地方建設局においては昭和35年より奈良市に高山ダム 調査事務所を置き調査検討を重ねた結果、前計画より更に高さを4m増して67m(標高135m)の 計画最高水位とし、改修基本計画に定められた対象高水のほか、木津川主体洪水に対する洪水調 節を可能にし、併せて発電、水道及び農業用水の補給をはかることになった。
本事業の効果は次のようである。
ィ、洪水調節 高山ダムは、調節容量35,400,000mSをもって計画高水流量3,175m3/S(上流 の宇陀川、青蓮寺両ダムで調節後の流量)に対し、1,300m3/Sの一定量放流の調節を行い、ピー
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クを過ぎてから1,800m3/Sまで放流し、南郷洗堰、天ヶ瀬ダムと併せ、淀川の高水流量が6,950 m3/S以下になるように洪水調節を行う。
ロ、発電(検討中) ダム下流約3kmの木津川左岸に発電所を建設し、最大出力18,000KW、
年間発生電力量76.530MWHの発電を行う。
ハ、水道用水補給 阪神工業地帯の発展に伴い、緊急に必要とされる水量は20m3/Sといわ れているが、このうち高山ダムでは5.Oma/Sを補給する。このため高山ダムにおける必要容量 は、夏期9,200,000m3、冬期17,600,000In3となる。
なお、上流の宇陀川ダム、青蓮寺ダムにおいても夫々1.7m3/S及び2.3mりSの補給が可能とな る。
ニ、農業用水補給 現在、木津川筋より取水している農地は約3,300haで、この潅漑所要水 量と目される6,600,000m3の70%にあたる4,600,000m3を高山ダムで、2,000,000mBを青蓮寺ダ ムで確保する。
貯水池、ダム等の計画概要は表1の通りである。
表1:高山ダ ム及び貯水池等諸元
河 川 名l 淀川水系名張川l ダ 位 置1京都府相楽郡南山城村
集 水 面 積l 615km2
貯 水 池
地
式l重力式コンクリートダム(検討中)
質】黒 雲 母 花 崗 岩
堤 可景品志晶まで
地 林
4.6ha
1.2ha
笠置山地、木津川上流流域の農山村月搬村と高山ダム(西田)
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⇔ 水没村一月瀬村−の実態
(1)位置及び地形、地質、気候
月瀬村の位置は、近畿地方の中央部のやや東よりに当り、奈良県と三重県、京都府の境、昔の 大和、伊賀、山城三国の境に位し、古く梅樹の多い村は三国にまたがっていたが、その最も多い 中心月瀬村は行政上奈艮県(旧大和国)に属している。即ち奈良県の最北東隅を占め旧添上郡と
してほ最東端の村で、村の北東の一部は三重県上野市と京都府相楽郡南山城村との間に入り込ん でいる。奈良県の北東部を占める大和高原は奈良盆地と伊賀盆地の問の地塁をなす高原性の地形 をなし、本村はこの高原の北東端を占めているものであり、その他気候風土や人文現象等いずれ も奈良盆地より大和高原を経て伊賀盆地に漸移する地帯に当っているのはこの位置がその主因を なすものであるということができる。
本村の西方は奈良市邑地町に、南は山辺郡山添村に接している。県政の中心奈良市とは直線で 20kmの距離にあり、東方上野市の中心地までは8kmの近距離にある。北方南山城村の中心大河 原へは7km、関西本線月瀬口駅へは5kmで鉄道への最短距離にある。関西本線のこの付近から 南方を見ると高原性の山地が波状をなして見えるが、その南方近くの山峡を中心に本村が横たわ っているのである。なお、大和高原の南方から南西方にかけては高原が広く分布しその周辺の中 心地名張市、榛原町、桜井市、天理市等は10〜25kmもあり、経済交通関係も前述の諸地よりは 稀薄である。
本村の形状は東西に長く約8km、南北に短く約6kmで特に五月川の流れる中央部付近はくびれ て「ひさご形」となり、北から南山城村南から山添村が深くくい入って長狭部は僅か1kmに過ぎ ない。村の北東部五月川の東「川東」と呼んでいる地域には石打、尾山、長引の3大字があり、
一方村の南西部川の西を「川西」と呼び、嵩、月瀬、桃春野の3大字から成っている。(大字嵩 は明治29年波多野村から分村し本村に合併したのであるが、それ以前の本村は東西に全く二分し 五月川の中で8字形に東西両地区が接する稀形をなしていた。)この本村の奈良県北東端に偏在
した位置と特殊な形状は種々の社会的政治的の諸問題の要因となる傾向がある。
本村の面積は21.36km2で、奈良県の山間村としてはほぼ中位であったが、近年の町村合併が 進むと共に面積の小さい村に入ることになった。村政の中心は村の中央よりはやや東寄りの大字 尾山にあり、役場のほか中、小学校、郵便局、農業協同組合事務所などがある。
本村付近の地形の特色は一般高原と異り、本村付近のみ高原地形の中を五月川(下流木津誹上 上流名張川)が大峡谷をなして流れることである。上流部は伊賀盆地南部名張市付近で諸支流を 集めて名張川が北流して大和高原の北東に食い入り、本村付近で最もするどく高原をⅤ字形に侵 蝕して川底は100〜120m両岸上は250〜330m比高150〜200mの峡谷を作る。この峡谷を中心に天 下の名勝月瀬梅林があり風光明媚であるのはこの地形によるのである。こうして五月川は本村を 東より西に横断し桃春野で北折して京都府に入り下流は木津川となって京都盆地に流出する。従 って本村は五月川のⅤ字形の峡流により二分され、北東部と南西部は共に高原状をなし、主な集 落、耕地はこの高原を利用して発達しているのが特色である。〔写真1参照〕
大和高原の地質は大部分は花崗岩の変質した片状花崗岩が多く、北東部の本村付近には純粋の 花崗岩がある。高原の北部中央(本村の南西部に近く)の神野山は角閃斑励岩(変斑励岩)より 成る残丘で隆起準平原の高原面に三角形の山頂を出し地形に一変化を与えている。〔写真2参照〕
大字石打付近は第三紀層に属し粘土質壌土で田畑の大部分は土地肥沃であるが山林は廃地多く、
禿山点々として桧経木の林状を呈し、、他は概ね花崗岩に属し、尾山、長引は粘土質で田畑山林と も一部分を除き肥沃でない。嵩、月瀬、桃春野は砂質壌土で耕作は容易であるが概して肥沃では ない。しかし山林はよく肥り竹木が繁茂している。
本村の気候は近畿中央部の特性である「内陸性気候」を示すが、その位置地形の関係から、高 原の影響をうけ奈良、伊賀両盆地よりもやや気温は低く、降水量は比較的に多く、年平均13.
4OC、最高20.40C、最低7.40Cとなり、降水量は年1,684.5mm、月平均140.4mmとなっている。
殆んど毎年8月下旬から10月上旬の問に2〜3回風水害というよりも豪雨に見舞われ、桃春野、川 原地方の一部の家屋が床下浸水することあり、また耕地通路等多数の被害をもたらしている。最 近当地方最大の風水害は昭和28年8月14日〜15日の東近畿を襲った豪雨と同年9月25日の13号台 風と共に西日本を襲った豪雨、さらに昭和36年9月16日の第二室戸台風にも大きな被害があっ た。28年の風水害を契機として淀川治水計画、その一環として高山ダムの計画が樹てられたこと は冒頭に述べた通りである。
(2)沿 革
本村は現在石打、尾山、長引、嵩、月瀬、桃春野の6大字よりなり江戸時代には長引を永引 村、月瀬を月日村、桃春野を下出村と称し享保の頃は郡山藩主松平氏に正保の頃は同港本田氏 に、また大津代官所に、天和2年播州姫路代官所左野氏に、宝暦2年には再び大津代官所に、享 和元年再び郡山藩校平氏の所領となる。
明治4年廃藩郡山県と改められ同年12月奈良県と改称、明治9年4月奈良県を廃せられ堺県に 属し、更に明治14年2月大阪府に合併せられ、同20年再び奈良県を置かれた。同21年町村制実施 に当り石打外4大字を以て1村とし、29年更に大字嵩を合併して今日に至る。
(3)道路及び交通
本村内の主要遠路は3県道、その延長14km。県道津〜奈良線は村を東西に縦貫し、東は上野市 へ西は奈良市に通じ、大字尾山より岐れて県道月瀬〜今山線が国鉄月瀬口駅に通じ2級国道163 号線に連絡している。また大字桃香野から岐れて五月川沿いに県道月瀬〜大河原線があり国鉄大 河原駅に通じ2級国道163号線に連絡している。主要物資の搬出入はすべて上記3線によってい るが、何れも曲折多く幅員狭小のため産業の発展を阻害している。近接都市との交通はすべてバ スに依存しているが、その回数も多い路線で4往復程度である。奈良市との関係は奈良月瀬33.5 km、2時間を要し、バスも1日2往復あるのみで奈良との交流は少なく、主要生産物は主として県 外の上野市に搬出され、日常生活物資も同市に依存しているところが多い。
表2:道路密度比較表(幅員4m以上)
(4)土地及び人 口
本村の大字別土地面積、人口の推移と現況、産業別就業者数は以下の諸図表の通りである。
表7:水 没 土 地
計
(注1) 宅地は建坪のみで付属地を含まず。
(注2) 梅林は、畑の中に含まれている面積である。
(6)産 業
本村の生業は一般に農業を主に、林業を副とする。高原面上山間の水田、畑地耕作の外、茶の 栽培が盛んで製茶はこの地域の特産物となっている。また果樹中で梅は月瀬梅林より烏梅として 京都へ送り紅の原料としたもの、化学染料の輸入と共に廃り梅樹も減じたが、近年再び増植して 観光と梅干製産にされる。柿の栽培も多い。その他小豆、菜豆、きうりは冷涼気候に順応し抑制 栽培をしている。山地は森林となり用材伐採、薪炭製造などが盛んに行われている。
1.農 業
本村は一般に高原状をなし、村のほぼ中央を五月川が南東から北西に走って本村を「川東」と
「川西」に分けている。川東では川の支谷の発達がやや著しく、石打の長谷川の本支流に沿って 樹枝状に永田の集積的地域をみる。これに対し桃春野を中心とする川西には水田の分積的分布を みる。土質は川東が粘土質で
あるに対し川西は砂質が卓越 し、このため例えば米の反収 は川東が優位を示している。
ただしその管理には粘土質の 所では多くの労力を必要とす
る、。
本村の耕地面積は表8のよ うで昭和35年現在336.2ha、
田が全耕地の56.4%、畑は 43.6%である。ともに地形の
表8:耕地面積(昭和35.10.1・現在)
戸i ha
石 打
尾 山 長 引 嵩 月 漱 桃香野 合 計
54.9 17.9 32.0
0 1 6 5
8 9 7 9
1 5 R
ll U
2 3 7 3 7 8 2 0 7 5 5 7 0 4 0 0 3 0 0 0 4 2 5 0 3 1 4 51 1 5
2 3 2 9 1 5 2
9 5 6 3 7 4 6
2 1 1 7
4.91 0
3 つ ュ 0
3
1
∴、、:
関係上階段状耕地に属し、特に川西において棚田の景観が著しい。従って耕地の形状も面積も区 々であり、このことは農業経営の各方面に影響を及ぼし、特に機械化の発達を阻害することが大 きい。
次に水田は隣接高原上の各村と同様すべて一毛作であって大和高原の水田の特色をよく現わし ている。しかし土質の関係上川東では冬期水田に水を湛えるが、川西では「うちぼし」と称して 冬期に田を打って乾燥させるのが一般である。なお一帯の階段状水田は畑地への変更も容易なた
め、西瓜や読菜等の畑作が行われている。〔写真3参照〕
畑地は普通畑の外に茶、桑、果樹を合せた特殊畑が70.Ohaあって、特殊煩率は47.5%を示して いる。中でも茶煩の率は高くて特殊佃の75.2%を占め、大和高原北部、特に旧添上郡山問各村と
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並び茶業の盛んなことを現わしている。耕地の所有関係は農家経済や経営内容にも影響する所が大きいのは勿論のこと農業の近代化と も密接な関係がある。戦前昭和10年には自作209戸、小作203戸であったものが農地改革の結果 現在では自作334戸、小作は僅か16戸、その他自小作73戸、小自作25戸となっている。なお、調 査票により大字別にみると長引と嵩は小作が皆無となっている。
表9:経営規模別農家数 営農形態は表9のどとく零細で
ある。1.Oha未満のものが341戸で 0・1−0・3halO・3−0・5halo・5〜1・Oha巨・0〜1・5hall・5〜2・Oha 総戸数の74.5%を占め、2lm以上
216戸 111戸】6戸 は皆無である。このように経営規 模が零細であるため隣接各村へ出 作りが行われる。然しこれに対し て他村よりの大作も若干あって、耕作関係は複雑な様相をみせている。なお、零細化を緩和させ る方針として余剰労力による副業兼業の発達や農業経営の集約化が行われるのである。
表10:分類別農家数 表11:家畜飼養頭数 専業農家 薫蒸劉 遠望
211戸l136戸[111戸 農家の専兼別は表10の通り で、専農211戸46.1%に対し 兼農は247戸53.9%の高率を 占める。兼業では第一種兼農 が過半の55.1%となり、結局 専農もしくは農を主とする第 一種兼農が高率を占めるの で、これを通して本村の農業 の特色を伺うことができる。
次に出稼者、他産業従事者も 相当数あり、村内の製造業や 上野市などの都市に出るもの 多く、人口の動きは可成り激 しいことが認められる。
家畜の飼養頭数は表11のよ うで、川東の石打が特に乳牛、
嵩
計
表12:主要農作物収穫高
種
名l石 打 水 稲麦 いも類 豆 類 茶 乾 西 瓜 桃 茂 菜
長 引l 嵩
kg kgl kg. kgj kg[ kg
229,429j134,028・92,484,141,505:65,8171200,8531764,116 33,478
136,617 1,467 3,071 263,200 127,400
58 芸;芸i34・885
1
〕 −、Il‥
6,390;27,853
397! 45 1
12,138,22,531
、
37,000l74,000
誓,1㌢予当?,誓三,讐聖当_聖,54?
54,037】318,186
59霊呂i15:霊
111雷
296,000]148,000174,000
山羊などの飼養多く、その他各大字に各種の家畜が飼養せられて いる。
本村の主要農作物収穫高は表12のごとくで米麦以外は概して自給性作物であるが、茶をはじめ 小豆や菜豆、きうりは本村の冷涼気候を利用した作物で、川東地区の西瓜〔写真4参照〕桃な どと共に大体商品作物としての価値が高く、農家経済上重要な意義をもっていると考えられる。
勿論自給作物である米麦にしても相当量商品化されている。その他の農作物も相当量商品化され ており、本村の農業は自給的商業ということができる。その上栽培方法についても種々工夫がな
され、二毛作、三毛作あるいは立体的な集約経営が行われている所に本村の農業の特色がある。
茶 本村は大和茶の主産地である奈良県北東部の山辺郡と奈良市、天理市の標高300〜500mの 山岳丘陵地霜の一部に当っており、一般に気候土質地形などの自然条件が茶に通している。気温 は年平均14〜15.50C(本村は13.40C)雨量は1,500mmを越え(本村は1,685mm)土質は主とし て砂質壌土で土層が深く排水良好で、一方地形は傾斜が多く茶樹の生育に最適とされている。ま た産地は主に高台の寒冷地苗で山間の渓流に沿って日照時間が比較的少く雲霧が多いので、せん 茶は良質、特に香気と味が優れており、一方栽培地は四面山に囲まれ燃料と茶園の敷革が豊富と いう茶業経営に有利な条件を具備している。〔写真5参照〕
茶の労力についてみると、茶つみは主として女、製茶は主に男の労力によっている。茶つみ及 び茶師は村内はもとより隣村山添村、旧柳生村、上野市の旧村等より来るものが多数で労力の不 足を補っているのである。古くは都介野、東里等の山辺郡各村、奈良盆地三宅村あたりからも大 村したが、昭和初年機械の出現と共に茶師も茶つみ女の出塚も自然に消滅したようである。
現在製茶はすべて機械もみとなっており、最近まで水車を用いていた桃番野の2戸も今は電力 によっている。個人の工場で自家製茶をするものが圧倒的に多く、共同工場によるものは桃春野 の21戸4工場がある。しかし共同の場合も機械を共同で使うということで、各戸別に茶を精製す る仕組みである。販売の方法は自家製茶のものは個人販売とし、共同製茶の場合は個人販売、共 同販売あるいは組合に委託する等種々の方法がある。なお、茶畑規模の小さいものは製茶を他の 家に依頼し、あるいは生業のままで売る場合もある。
表13:昭和32年度茶生産高 表14:製茶工場調 生産者 戸 数
設 備
招 ユ3516060⊥ヽロ
三日
135l l,649i 437
生産高 貫
236,020 ユ17,900 55,590 21,950 70,940 3,100 505,500
大字別の茶生産高、製茶工場孟問は表13、14のごとくで桃春野、月瀬、嵩の川西3大字に製茶の 盛んなことを伺うことができる。
果 樹 川西地域の茶業に対して本村の川東地域、即ち石打、尾山、長引3大字には果樹栽培 が行われる。粘土質の土壌がこれに適するようで、現在は桃74戸521畝、散在282本、柿17戸99畝 散在1,054本である。柿は従来よりの富有柿を中心とし、桃は最近の開墾により拡張せられたも の。更にぶどう、梨等の栽培も開墾により拡張中である。特に先進地の見学も行われており、桃 は三重県亀山市、ぶどうは山梨県の甲州ぶどうについての研究を行っている。長引に本拠をおく
「十九日会」等の推進によるところが多い。将来期して待つべきものがあると考えられる。
梅 果樹としての梅は現在41戸224畝、散在606本にすぎず自給的作物であるが、吉野郡旧賀名 生村等より梅実を買入れて梅酒をつくり、甘露梅(しそまき)に加工して当地のみやげ物とする ものが尾山に2戸ある。〔写真6参照〕観梅李には更に2戸、合せて4戸がこれを行っている。梅
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果製産ならびに加工状況は表15の通りである。
表15:梅果製産ならびに加工状況調
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これに対して明治初年まで需用の盛んで あった烏梅がある。その由来は実に古く 月瀬梅林と共に始まるとせられる。その 製法は在来種の野梅の完熟して落ちたも のを6月下旬(2番茶の前の頃)に拾い 集める。これを策にひろげかねて用意し ておいた鍋墨をこれにかけてまめす。こ れを竹のすだれに並べ、前庭に掘った室 で炭火の上に小麦殻をくすべて蒸す。その後毎日太陽にあてて乾燥させ、充分乾くとむしろに移
して更に乾燥させると出来上りである。これを出荷するには上等の一枚むしろを1リ、にして太い純 でくくり匁をつける。1俵につき15〜6貫はいる。米1俵の目方に当る。2俵を1駄とし馬で2 俵ずつ笠置へ運び、その後は舟で京都へ出した。西陣織の紅花(染料)として、また口紅として 売出したのである。その品質は実に全国に比類がないとせられた。しかし明治初年から外来文化 の輸入に伴い紅花を製するにも化学的の染料(唐紅等)を用いるようになり、烏梅に比べると価 格も頗る安いので自然烏梅の需用は減少し市価も一時に下落したので明治末年には全くみられな いようになった。
2.林 業
本村の山林は私有林が殆んどを占め山林面積 1,757baのうち針葉樹20%、広葉樹60%、混合 樹林20%で、林産物は村民経済の重要部門を占 めるため、最近特に道路の開発、造林計画によ る樹種転換および瘡悪林地の改良を行い、山林 経営の合理化と共に椎茸栽培の増殖をはかって いる。
水没山林の樹種別面積及び蓄積量は表16の通 りである。
3.水産業
五月川の清流には鮎、鰹、うなぎ其の他の淡 水魚が豊富で、特に渓流に住む関係から其の香 味特に優良で、毎年150kg(約40,000尾)の稚
表16:水没山林樹種別面積及蓄積量標高130、135m
種 計
標高130m以下
嵩
60.0: 760!133.011,686
鮎を放流し、漁業組合が管理している。
表17:昭和32年度漁獲量及放流量 昭和32年度の漁獲量及び放流量は表17のごとくなっ
魚 種
あ ゆ う な ぎ こ い
すっぽん 雑 魚 合 計放流量l,漁獲高単価l 計 ている。
莞jl,芸莞
0, 200
2,。記l8。。誹
01 8012,000;160,000
1出霊40!7,680
300;1,800,000 l4,120,000
4.鉱工業
本村川東地域は伊賀の北東部から西部にかけて発達 する古琵琶湖層群下部の延長で、亜炭層を挟んで「伊 賀爽炭層」と称せられ伊賀含亜炭地に当り、この地層 は粘土をも含んでいる。これらの亜炭と粘土の採掘が 大字石打領の北端で行われ、粘土は直接または乾燥粉
砕して阪神工業地帯に送られるほか、大字長引にはこの粘土を利用する炊事用脱櫨の製造工場が ある。〔写真7参照〕更に本村の家内工業として古い伝統をもつ麻織が長引で営まれ、最近15年来 発達した帯締つくりが川東3大字で行われている。
5.商業 と 商圏
本村は純農山村であるので商業はみるべきものは少い。昭和31年の商業調査によると、個人商 店としては各種商品小売業が石打に2戸、尾Lh、長引に各1戸あり、これはデパート式のもので 文字通り各種の商品を販売している。その他尾山には煙草及び鮮魚小売業1戸、桃春野には各種 食料品小売業、乾物及び煙草小売業、洋品雑貨及び小間物小売業が各1戸ある。全村で8戸で、
表18:商業従事者数
業計それぞれ大字の中心部に店舗を構えている。〔写真8参照〕商業従事者数は表18の 通りである。法人組織のものとしては尾 山に月瀬村農業協同組合購買部がある。
ここでは農業用肥飼料、農機具、燃料、
酒調味料、その他本村産を中心とする茶 の小売を行っている。
次に本村の商圏を昭和30年7月に上野 市が行った商圏調査についてみる。この 調査は上野市を中心とす
る半径20km圏内の地域 表19:上野市で買物をした地区別商品別世帯数(かっこ内購買率)
につき行われたもので、
奈良県に関しては月瀬村
を初めとして表19の6村 東 山 に及んでいる。
表19についてみると本
月 瀬
村は波多野村と並んで上 柳 生 野市で買物をする戸数が 波多野 最多数を占め、しかも購
買率即ち本村の。各商品に
豊 原
ついての総購買世帯数 東 里 中、上野市での購買世帯数が占める率の合計は最 多数となっていて、本村 が上野市と密接な関係を もっている こ とが伺え る。更に本村について各 商品別にみると、せとも のガラス類、荒物金物類、
洋服等の購入世帯数が多 く、購買率の大なるもの は自転車その他の車輌、
葉副豊あ急漂矧景品
22
(4.1)
化粧品 医薬品
(15.5)
19 11 5)
(3こi:!(4去i:上!:
(3.4)l(52.8)l(53.5)l(46.2)
151 1031 6
(3.1)l(6.6)l(12.6)l(8.6)
21】 7
(2・7)巨1・0)
詔i萎;雲 学用品本、文房具
221 1041 22
(4.8)(25.6)(6.1)
274 337 303
(36.7)(62.3)(65.6)
、29 127 37
(4.1)(21.5)(7.5)
472 455 340
(50.0)(57.2)(58.5)
57 148 80
(7.8)(25.6)(14.6)
7
(1.5)
(2ぷ】(9.宗
自転車
車 輪
計
笠置山地、木津川上流流域の農山村月漁村と高山ダム(西田)
53
せとものガラス類、荒物金物類、玩具等となっている。
なお、本調査により月瀬村から上野市へ出る場合に利用する方法をみると、バスが74.7%で圧 倒的に多く、次いで自転車が19.6%を示している。また上野市へ出る場合の便、不便について は、候が78.9%、不便が9.6%、「何とも思わない」が11.5%となっている。また映画演劇の観 覧については、地元が34.9%であるに対して上野市は45.1%、奈良市12.7%、大阪市4.7%、名 古屋市1.6%、神戸市1.0%となっている。
以上によってみるように、本村は商圏の上でも上野市と密接な関係をもつことを知るのであ る。
(7)集 落 1.集落の立地
五月川はⅤ字形をなし大和高原を下刻していて川底は一般に狭くて一般農家の発展を見ず、何 れの集落も主として高原面に発達し水田、畑地等も高原に多く農業経営条件に適する所に立地を 見ている。川東の石打、尾山、長引は伊賀盆地に近く交通経済関係も特に上野市との関係が密接 である。水没の川西3大字嵩、月瀬、桃春野は大和高原の南西部へそのまま続くためその地方と の関係が深く、地味の関係で茶、森林等が川東よりは盛んである。
2.水没集落の現況
嵩 本大字は本村の「‡]央五月川の南岸を占め明治29年南隣山辺郡山添村(当時波多野村)より 分れ本村に編入した集落である。その位置経済交通等本村と関係が深かった理由によるものであ る。嵩は五月川より約150mの急斜面を上り南面する高原上に主なる集落があり、33戸中19戸が ここに分布している。元東方上流2.5kmの旧波多野村遅瀬からこの地に分れ住んだといわれ、親 類関係が多く現在でも約半数以上相互に縁故がある。高原上の本村(ほんむら)に対し五月川原 の嵩領にある集落は「嵩川原」と呼ばれ近年その数を増し15戸となっている。
高原上の19戸中1戸のみが俸給生活者で、他は農業を営み1戸平均約7反を耕作、田と畑の割 合は4対6で水田は全部一毛作、反収も山田で少く1.8〜2.0着位である。畑は8割まで茶園でそ
の面積3町7反、土性が茶の育成に適し月瀬、桃春野と共に製茶の盛んな地域である。茶楠の頃 は隣村旧波多野村から約30人の茶摘女を雇う盛況である。山林は1戸約7反、杉桧の用材林と松雑 木の薪炭材料林とより成っている。松林には松茸の特産もある。
嵩川原の集落を見るに当り、月瀬橋を挟む両岸梅樹多き県道筋に発達した月瀬(南岸嵩川原と 続くもの)尾山、長引(以上北岸)の川原集落を合せて考察する。図示のように全部で33戸とな
り、大字の地域別にすると北岸尾山憮1、長引 頒10、南岸嵩領15、月瀬領7となる。出身地別 では嵩より出たもの6で一番多く、長引5、尾 山4、月瀬4、桃香野3、石打1となり地元村内で 実に23戸を占め、その他は上野、大阪、吉野各 2、波多野、奈良、三重県、京都府各1という各 地からの寄合世帯であり、居住は主として明 治中期の県道開通後次第に来往した出垣内の性 質を示しでいる。更に職業別には料飲店2、旅 館、百貨店、菓子店、呉服商、魚行商、材木 商、自転車商、理髪店、クリーニング各1で各
嵩等の川原集落(昭和31.臥調査)
(ノ′ 拍l 呼亙)
景 子
大 字 良 引
嵩等の川原集落
種の商業盛んに、菓子製造、左官、下駄製造、木出し、製材、請負、教員各1あり、役場吏員2、
農は兼業を加え5、トラック運転者1、日雇1、無職4と実に多種多様の職業に分れている。〔写真9参照〕
表20:嵩等の川原集落説明表
業 l 出 旅 館
百 貨 店 農 業 請 負 業
木材運搬業
教 員 無 職
公務員(役場)
無 職 左 官 材 木 商
農、下駄製造
無 職 トラック運転手 無 職 農、日雇、裁縫 呉服商番頭 農、 日 雇 茶商、菓子店 農、 日 雇 日雇、菓子製造 農、理 髪 業
魚 行 商 自 転 重 商
農、日雇、公務員(役場)
料 飲 店 料 飲 店 日 雇
鉱山事務所 不 明クリーニング、養鶏業 農 業
製 材 業
身
地 ]来 往 時 期尾
長 長 音
吉野 山 引 引
村
上 郡
桃 香 野
桃香野一大阪市 京 都(疎開)
桃 香 野 尾 山 長 引 常 長 引 嵩 嵩 嵩
上野市(疎開)
山 添 村 遅 搬
lとl_
llり
桃 香 野 月瀬一一奈良 月 瀬
月瀬ト〜上野市 三重県島ヶ原村 大 阪(疎開)
尾 山 尾 山
県外〜石打
長 引 月 激
尾鷲市一吉野郡十津川村 月 瀬
月 淑
約65年前 55年前 45年前 85年前 25年前 35年前 32年前 20年前 35年余前 55年余前 55年前 55年余前 30年前 25年余前 55年前 20年前 20年前 55年前 55年前 6年前 20年前 95年前 8年前 35年前 20年前 3年前
最 近
3年前 2年前 半年前 4年前 1年前 1年前
尾 長 長
山 引 引 引 引
長 引 長 引
桃香野
尾 山 長 引 嵩 長 引
嵩 嵩 嵩 嵩 嵩 嵩桃香
月
月 月 月 月
長 長 嵩 嵩 嵩 嵩
野 瀬
瀬 海 瀬 瀬 引 引
月 瀬 月 漱
月 瀬 この大字は五月川の南岸嵩と桃春野の中間に位し、五月川より南山添村との境界まで 南北に細長い地域を占めている。集落は川寄りの傾斜地から高原に亘って発達し、河岸に奪える 弁天山の東側の傾斜地に階段状に割合密集して建ち並び、五月川の清流を見下し得る状態をなし ている。
戸数52戸中川原の7戸(前項参照)を除き45戸がここにある。何れも農業を主とし製茶業が盛 んに行われ、早春の観梅期には2旅館が営業をしている。水田面積18.5町、1戸平均僅かに3・5反 で南より入る支流の狭い谷間に小形の田が作られている0高原上の緩斜地は畑が多く約10町歩中
笠置山地、木津川上流流域の農山村月瀬村と高山ダム(西田)
55
勉まで茶畑となっている。茶畑を作る戸数は30戸(1戸平均2反余)で非常に栽培が行届き見事な 茶園を形成し、製茶期には約50人の人手不足を来し隣村山添村から出稼者を受入れている盛況さ である。この集落は水田や山林の外茶業を主とする農業経営をなしている。
桃香野 本大字は川西地方の最西部、本村の西端に位し東の大部分が大字月瀬に続く外、南 は山添村、西は旧柳生村、北は京都府南山城村と境し、北東も五月川を挟んで南山城村領と相対
している。地域は五月川に臨む北東部よりはるかに西及び南に拡がり小起伏のある広い面積を占 めている。水田は約50町歩もあるが全戸数145戸で大部分農業であるため1戸平均約3.5反とな 表21:桃香野川原集落説明表
番号1職 業[出身地!移 転 期[ 備 11農 目
農 日
雇雇
(空家)
魚商、理髪店
農 業
農 業
農日雇、運転手
日 雇 農 業 茶 工 場 か じ や 農 業
農、公務員(大阪市)
(空家)
農 業 診療所及自動車々庫 菓子屋、農、狩猟 菓子、魚商店 集 積倉 庫
農 業 農 業 農 業
農業、製縄業 農業、公務員(役場)
農業、茶商
農 業 百 貨 店
農 業、石 屋
日 雇 農 日 雇
農業、土木請負 公務員(県庁)
農業、製綿
農 日 雇
木炭集荷所
茶 問 屋
下 出 下 出
(下出)
上 出 西 出 脇 谷 上 出
上 出
(上出)
中 村
天井谷
西 出
脇 谷
静岡県
脇 谷 下 出 脇 谷 中 村 下 出 中 村
名張市
下 出 下 出 下 出 脇 谷
脇 谷
昭和26年 大正末期
10年前西方27へ移る 明治時代
明治時代初期 大正年間新築 大正末期 所々移動 古くより居住 古くより居住 古くより居住 大正末期 数年前大阪へ転出 大正末期 戦 後 明治初期 大正中期 昭和初期 昭和初期 昭和10年頃 古くより居住 明治初期 明治初期 大正年間 古くより居住 昭和初期 古くより居住 戦時中 10年前新築 昭和初期
27に移った人の弟、分家 明治初期
古くより居住 1年前 ユ 年前
考
先住者は嵩川原へ 元旅館、百貨店を営む 旅館の東半分、元7に居住 元旅館雪中庵元18に居住 元渡の船頭
元旅館百香館
元下駄屋
茶機械修理のため来る 川原集落中最古 元土木請負業 元診療所 元教員
元3に冒住、戦後移る
下出より一時ろくろ坂に
一番古いといわれる
る。水田の分布を見ると、五月川の本流付近では水田を見ないが支流の谷奥深く耕作され、南西 旧東山村北野に近く4kmの地まで延びている。水温低いため平均反収は1.7石位で殆んど自家食 糧に当てられ僅かに供出する程度である。普通畑は1戸5畝程度であるが、茶畑は平均1反余総
桃香野川原集落︵昭和ご一﹁ハ調査︶ ︵ タ 三 ハ ± 空 也 丁出
桃香野川原集落
面積15町歩に達している。戦後年々新椿が 増し茶園の面積は次第に増加している。55 の製茶場により製造され本村内で最も生産 戸数生産額の多い集落である。山林は約 300町歩と称しこれまた本村第一の林業地 帯で、くぬぎ等の澗葉樹はその50%、松は 25%、杉桧雑木25%の割合で、杉桧の用材 に苧る の他は薪炭に製し主として製茶用とする。
集落は本地区の北東五月川に近く南東面し た傾斜地に東より下出、中村、上出、西出 の諸垣内あり下出が古いと称せられている。〔写真10参照〕その南のたけん谷に沿い脇谷、天井 谷の2垣内あり、本流の県道に沿って川原の集落がある。川原集落は図表に示すように交通便利 な条件で旧集落より分家して出て来た人々が多く居住している。明治以後新しく建設した点嵩 川原と相似型で、古くから農業を営んでいるものもあるが商業等を営む者も比較的多く、定住し ないで移動性を持っている者もあり、これらは皆出垣内の特色を示すものである。
3.社会慣行と文化水準
a.社会慣行 この地方は昔から相互扶助の自主的組織として与力(よりき)制度を確立して いる。この制度はいわば同族の本家、分家の組織のようなものであり、一般に「縁者は一代与力 は末代」といわれているほど強固な結合関係をもち、今日に至るまで社会生活の上で大きな役割 を果している。木村で与力という言葉を使っているのは石打、長引で、尾山、桃春野では同族共 同体を一統の名で呼んでおり、嵩、月瀬では組と呼んでいる。一統の中で誰の与力は何某という
ように互に与力関係を結んでおり、分家が分れるに従って歴史的に自然に決って行くのである。
与力は冠婚葬祭などの場合に万事その家の面倒をみるわけで、紛争が起った場合などは当事者 の与力同志が話合い折衝してその解決に当り、その決定には異議なく従わなければならない慣習 になっている。即ち部落生活の上においてこの制度は極めて有意義なものとされている。なお、
与力は同族の代表としての資格と責任をもち、土地売買、借金等の場合にも重要な証人となるこ ともある。
表22:電話、ラジオ、テレビ普及状況 表23:昭和34年度所得状況
(注) 奈良県総務部発行 昭和34年度奈良 県民所得による。
笠置山地、木津川上流流域の農山村月瀬村と高山ダム(西田)
57
b.文化及び生活水準 文化水準の指標として電話、ラジオ、テレビの保有数をみると(表 22)電話は64%、ラジオは72%の高率を示し、テレビも漸く20%に近い。電話は最近急増の傾向 にあり、ラジオ、テレビも漸増の傾向をもっている。
本村における昭和34年度の所得状況は表23の通りである。
画 水没住民の移住対策 1.水没大字の概況
ダム築造に伴う水没家屋は何れも名張川の左岸沿いに集落している。昔は旧街道が奈良より峯 伝いに柳生を経て本村桃香野に入り五月川を渡舟で渡り長引を横切り尾山を経て上野に通じてい た。また水間街道より分岐して本村月瀬に入り急坂を下って現在の月瀬橋を渡舟で渡り、今観梅 道になっている急勾配の大官坂を上り石打で前記奈良一上野街道に合していた関係上、各部落と も峯伝いに集落していたが、明治20〜25年に河岸に県道が新設され月瀬橋が架設された。そして 交通機関の発達により旧道が漸次衰退して行くに従い部落の一部も県道沿いに移住し、その地理 的条件にめぐまれ商業が発達している。
農業は古くから発達していた関係上、左岸沿いには開田開発可能地は殆んどない状態である。
従って土地の価値は極めて高く評価されており、売買による動きは殆んどないり 2.移住地の選定斡旋と宅地造成
水没者中、専業農家は桃春野部落が大半で、他は長引部落の若干戸を除いて、月瀬、嵩両部落 は皆無の状態である。次に商業、その他給料者、日雇の順になっている。移住地の斡旋に当って は、上の状況と水没者の移転に対する意向を考慮してなされなければならない。
農業及び商業またはそれに類する者は概ね現状通り付替道路沿いを希望しており、付各道路建 設については、移住地造成を考え併せて計画しなければならない。現在の県道は名張川を左岸沿 いに標高112〜122mに位し、予定されるダム満水標高は135mで、付替道路は標高140〜145mを 予想される。従って宅地造成は、その道路沿いの桃香野大字より月瀬橋までの2,200m間を予定
している。傾斜は全般的に30度〜35度で、地質は花崗岩系の砂壌土である。
宅地造成のための土地は概ね非水没者が所有している関係上、売買当事者間の話合いは複雑な 問題が予想され、特に当地方は前述の通り土地については宝物的観念をもっているので、村及び 県が強力に斡旋を行う必要があり、これが水没補償交渉の大きな要素でもある。
3.宅地造成に伴う飲料水計画
各水没部落とも川岸にあるため殆んど井戸を利用しているが、新道路沿いに宅地造成をすれば 湧水を期待できないので、桃春野の二又川沿いに≠300mmヒューム管30mを埋没して集永し、櫨 過池に導入し滅菌して浄水の上、容量15t(一日最大給水量の与ら)を配水池に貯水して、これよ
り自然流下にて¢50mm石綿セメント管に配水し、各戸(約70戸)に給水する。
4.水没該当者の移住に対する意向
水没該当者一甘農家は山林田畑等の残存財産の管理経営上、県外及び村外または集団による移住 を希望する者は殆んどなく、現在の居住地付近に代替地を強く要望している。
商業については特に強く新迂路沿いを希望している。その他日雇等職業の安定しない者は縁 者、知人その他の関係により大阪、上野、奈良等村外、県外の希望が多く、集団移住の希望は現 在のところない。
5.水没に伴う残存地の対策
全国で行われている河水統制、発電事業等による水没補償の先例をみても、一筆地で水没線外 の残地についてのみ残地福償が支払われているが、移転に伴うその他伊興存地については補償さ れていない。しかし管理上による損失は当然考えられるべきでないか。勿論この場合残存地の比 率については充分研究の余地がある。また当地方の土地観念より見て、この際移転者の残存地を 水没再建組合を設立し一括購入して、水没見返地にあてることも考えられる。
国 耕地減少による見返り対策
本村内、特に桃香野、月瀬、嵩等川西の水没部落においては、土地取得意欲が極めて強くて取 得は困難であり、また周辺に適当な候補地もなく、隣村(京都府相楽郡南山城村)村有地を買収 して開墾出作しているが、そのうち耕作容易な耕地の大半が水没をまぬがれず、又その他耕地に ついても同様の状況にあり、残存耕地においては農道施設の不備、更に地理的にも悪条件下にあ
り片道1時間半を要する状況で、耕地減少の見返り対策として、残存地の高度利用と出来得る限 りの開墾を進めねばならぬ。
1.開 墾 計 画
月瀬村大字尾山小字井口星山地内の山林5町歩(平均勾配20。−30つを開墾すると共に、これ に通ずる開墾道路として農道ヤケンド線(幅員4m)に接続する延長800m(幅員4m)を新設す る。
なお第二開墾候補地として、同村大字長引小字中里谷周辺約17町歩(平均勾配20。、標高250m)
あり、戦前開墾に着手したが、大戦による労力不足と妙味土で土質が悪いため放棄された状態に なっており、地元においてもあまり希望していない。
2.ダム築造による業種転換と副業の見通し
名勝月漸梅漢として一般に好評を得ている観光地が水没するということで、水没者はいうに及 ばず地元村民関係者一同挙って反対を唱えているが、大人造湖の出現により従来と異った観光地 の出現が期待されると共に、観光客誘致施設として欠くべからざる旅館、休憩所、飲食店等の増 加と有料遊覧施設(ボート、遊覧船、テント、バンガロー、釣)と諸種の売店等、賃貸業及び施 設業者の新規営業も大いに期待できる。
なお、味覚観光の出雲鋸こより農家経済に及ぼす影響も大である。また観光客の増加に伴い、土 産物店の増加による梅実を加工した甘露梅ならびに宇治茶に代る月瀬茶の合理的販売等、農産業 の発展も当然予想される。
丙 水没宅地代替地の調査
代替宅地を必要とする現存宅地については、湛水時満水位線135mから2mの余裕をみて標高13 7m以下のものについて、土地台帳と航空写真により調査が行われた。その結果約20,000m2の宅 地とその付属地から構成されている。
次に代替地の可能性のある土地を選出し、更に地元民の意見をも交え、交通の便否、水利、耕 地への距離等、代替地としての条件を種々の方面より検討し、現地踏査を行った結果11か所の適 地を選索した。(図参照)その面積合計45,249m2になるが、傾斜の急な山間部に20,000m男の平
笠置山地、木津川上流流域の農山村月報村と高山ダム(西田)
地を確保し、且つ宅地を造成 する時になって個々の移転者 の希望も予想されるので、費 用の許す範囲で出来得る限り 多くの土地を調査することに したためである。
代替宅地はその大部分が現 在の宅地を付各道路までずり 上げるようになり、宅地の条 件としては現在とあまり変る 所はないであろう。ただ急峻 な山の側面を切り開くのであ るから、防災上擁壁は相当強 固にする必要があり、宅地の 造成に当っては多大の経費を 必要とすることが予想され
る。
旬 月瀬梅渓水没対策と観光計画 1.名勝月瀬梅林の沿革
月瀬の地に梅を多く植えられるに至った起源は南北朝の境にあるといわれ、その頃より紅の原 料として烏梅を製するため次第に保護増植されるに至ったようである。今なお樹齢数百年を経た と思われる老樹が残っている点からも相当早くより盛んに作られたことを実証している。かくて 今より約200年前、江戸時代の宝暦の頃京都の人神沢真鯛の著「翁草」に初めてその事が誌さ れ、下って文政2年(1819)伊勢山田の詩人韓聯玉がこの勝地に遊び詩を作り「月瀬梅花帖」と 名づけて世に公にし、後にこの詩帖に刺戟され津の藤堂藩の儒者斉藤拙堂が天保元年(1835)こ の勝を探り名文よりなる「月瀬記勝」を著してから広く天下に紹介せられるに至った。こうして 文人墨客の各地より杖を引くものが多くなり、明治中頃関西線開通して交通の便開けると共に観 光客も多く来るようになった。
梅樹の分布をみると、古くは肺現川(五月川)の両岸に跨る大和を初め伊賀、山城三国にわた る地域に拡がり、拙堂の月瀬記勝には次の15村をあげている。・即ち石打、尾山、長引、桃春野、
月瀬、嵩、頻瀬(遅瀬)、中峯山、吉田、広瀬、片平(以上奈艮県)、治田、白樫(以上三重県)、
大山(田山)、高尾(以上京都府)であるが特にその中心は本村に属する尾山、長引、桃春野、
月瀬、嵩の地である。梅花の名所は全国に多いが、その地形的に高原上よりこれを侵蝕して流れ る河川の渓谷にわたって分布し山水の勝を兼ねている所は他になく、この点地形的に他と異なる 勝れた特色を持っているのである。
梅樹の数は江戸時代の末10万本と称せられたように多数栽培されていたが、明治に入り化学染 料が輸入され烏梅の需要がなくなると共に梅樹は多く切られるに至った。これを防ぐため明治32 年保勝会が設置され梅樹を植え次第に古の状態に復した。たまたま戦争により再度荒廃したが近 年増樋をはかりつつある。本村の尾山から桃春野まで東西約4km五月川の両岸より高原にかけた 一帯の地が中心をなし、現在の樹数1万と称せられ、かくてこの勝地は昭和の初め文部省の史蹟 名勝天然記念物保存法により「名勝」に指定されるに至ったのである。
2.名勝梅漠としての観光の現況〔写真11参照〕
ィ、地理的にみた観光地
当村への出入は、国鉄関西本線伊賀上野駅と同線月瀬口駅並びに奈良より何れもバスを利用し ている。
伊賀上野駅よりは、上野市まで電車で、同市より三重交通のバスが本村西端桃香野まで連絡し ている。
月瀬口駅よりは、南山城村営のバスが観梅道の入口である尾山に通じている。
奈良よりは、奈良交通のバスが大和高原地帯の一角をS字型の道路を幾度も迂回しながら本村 の月瀬橋まで通じている。
距離及び所要時間は、上野〜桃春野14.0km、55分、月瀬ロー尾山7.5km、30分、奈良〜月瀬 33.5km、110分となっている。
ロ、観梅期における観光状況
当村の梅景ほ全国的に有名であるから、毎年観梅期には多数の観光客が近畿一円より来るが、
交通の関係で三重県上野市方面の客が半数近くを占め、また最近は京阪神方面より自家用車によ る観梅客もみられ、今後道路の発達と共にこれら観梅客は益々増えるものと予想されるが、ダム により梅景が大きく変化するのは惜しまれることである。しかし、これを転機として近代的な観 元施設を作りあげるには、又とない機会でもある。
昭和36年の観梅客の数はほぼ次の通りである。
表24:昭和36年観梅客数(2月25日〜3月25日)
種 別l人 数】 備
合 計[3も誓宍
考
年間利用者を除く
定期バス及臨時増発バス利用者 上野市以東各方面より
上野市よりのタクシー利用者 定期バス及臨時増発バス利用者 奈艮市よりのタクシー利用者 主として自家用車、各方面より
ハ、梅渓保存の現況 梅木梅渓の保存愛護のため明 治32年月瀬保勝会を設立、その 後大正8年これを拡充して財団 法人月瀬梅渓保勝会を設立し今 日に至っている。本会の目的は 次の通りである。
梅林の施肥保護をなすこと 梅苗を増植すること
風致上必要な林木岩石を保存 すること
梅渓付近の荒蕪地に梅樹を植