低学年算数授業で起きる3つの場面の考察 −VT Rによる授業分析−
著者 松原 茂
雑誌名 奈良教育大学教育工学センター研究報告
巻 2
ページ 47‑52
発行年 1979‑03‑30
その他のタイトル A Study on Three Phases of Instruction Which Take Place in Arithmetic Class of Lower Grades of Primary School −An Analysis of
Instruction by VTR−
URL http://hdl.handle.net/10105/4671
VTRによる授業分析‑
松原 茂(付属′ト学校)
A Study orl Three Phases of Instruction Which Take Place in Arithmetic Class of Lower Grades of Primary School
‑An Analysis of Instruction by VTR‑
Shigeru Matsubara {A ttached Primary School)
Abstract
In arithmetic class of the lower grades of primary school three phases of instruction take place many times as follows :
(1) Pupils get answers as soon as problems are presented.
(2) Quantity is replaced with concrete matters in problem‑solving.
(3) Pupils calculate each of concrete matters replaced.
Teachers must not ignore pupils'answers in the first phase but accept them. In the second and the third phase, pupjls'reactions have educational meaning for the first grader, but not for the second grader and that is even non‑educational for the latter. It is important for teachers to cor‑
rect instructional process already planned and to devise a plan of developing instruction, not di‑
viding pupils'activities of thinking in both phases.
Key words: Anthmetic phase Educational meaning
I.研究日的
小学校低学年の算数の授業過程では次の3つの場面が起きる。
第1 教師が課題を提示するや,早くも答えが返ってくる。
第2 問題解決に当たって,数量を具体物に置きかえる。
第3 置きかえた具体物の個数を数える。
以上3つの場面は一般に行なわれる授業でごく普通に起き,特に第2,第3の場面はむしろ積 極的に学習過程にとり入れてさえいる。ところが,これらが子どもの思考過程とどうかかわる
かを明らかにし,算数教授のあり方を考察する。
なお,授業の再現にはⅤ・T・Rを用いる。教授学研究ならびに教科教育におけるⅤ・T・
Rの利用法の実践研究の一端ともする。
II.研究方法
授業観察と併行して録画する。後,録画を再生,観察記録も参考にして授業分析を行なう。
III.研究結果と考察
(1)授業の概要
単元名は「たしざんとひきざん」,2年(何十何)+(何)で繰り上がりのあるたし算の授業。
導入時の課題は次のようであった。
池 に あ ひ る が 18 わ お よ い で い ま す 。 そ こ へ 7 わ お よ い で き ま し た 。 あ ひ る は , み ん な で 何 ぼ に な り ま し た か 。
つまり,あひるの数の和を考えさせ,「18+7」の繰り上がりのある計算のしかたを理解させ ようという意図である。
授業者が課題を板書。斉読が終わるや早くも数名の児童が挙手。指名された子は難なく「25 わ」と答えてしまう。授業者はこの課題をもとにみっちり1時間をかけて教えたいところであ
る。
教師「なぜ,25わになるのですか」
児童「18と7で………」
授業者は児童の発言内容を終わりまで開かずに,次の問答となる。
教師「式では,どう書くのですか」
児童「18+7」
教師「18+7が25になるのは,ほんとうかな」
児童「8と7で15」
この間3,4分。話題を一変して第2の場面(具体物に置きかえ)に移る。ノートを出させ,
ノートを「池」に見たせさせ(おもしろい発想),おはじき18こをノートの上にのせさせる。手に おはじきを7個持つように指示。つまり,ノートを「池」,おはじきを「あひる」にして課題の 場面を再構成させる意図である。
次の活動は第3の場面−置きかえたおはじきを数えさせる−になる。
教師「じゃ,そのおはじきを数えてごらん」
児童「いち,に,さん,‥ ,にじゅうご」
さらに念がはいる。
教師「みんないっしょに数えましょう。ひとつ,ふたつ,みっつ,‥…‥‥。みんなで25わで すね」
この間,置きかえの指示,その範例(黒板で),児童が置きかえる活動,数えて確かめる活動 などで20分が経過する。このあと,授業は改めて「8と7」が繰り上がっていく考察へと発展,
終末の活動へと続いた。
したがって,この授業の前半は次のように整理することができる。
課 題 の 提 示
場 面 に 見 合 つ 立 式
置 きか えに よる具体的 な場面構 成
数 え る こ と に よ る 和 の 確 か め
●児童の即答に対する教師の対応のしかた
●立式と,置きかえによる場面の再構成との関連
・「置きかえること」の意義
・「数えさせること」について
問題点を上の右にまとめた。以下,これらについて考察する。
(2)児童の即答に対する教師の対応のしかた
低学年の教室では児童の答えがボンボンと飛び出す。高学年の教室とは対照的である。なぜ か。児童を即答へとかr)立てる原因は2つある。
第1は提示する課題の内容による。低学年に出される課題の多くは現実的操作を反映したも のである。「8こあげると,のこl)はいくらか」とか「7わおよいできた」など実際的行為であ る「あつめる」「取り除く」操作が内容となる。これらの課題では「問い」があろうが,なか ろうが和や差を出したくさせる構造になっている。これが児童をして即答へとかり立てる。
第2は子どもの心理に関係する。結論や操作が終わると言外したくなるものである。高学年 のように友だちに笑われるのではないか,あの子が発言しないととてもわたしの番ではなど,
学級社会のある種の秩序ができている高学年の学級とは質的に違う。発言によって起きるであ ろうあれこれの事態などを考慮しなくてよい社会なのである。
教師はどうか。導入早々に返ってくる児童の正しい答えは必ずしも歓迎しない。まだ正答を 得ていない児童を置きざりにできない事情,一時限をかけて理解に導く手立てを用意している ことからも,早々の正答を無視するか,軽くあしらって予定した展開を進めるのが普通である。
本授業でも「式はどうかくのか」「ほんとうに25になるのか」と軽くいなすだけで,早やぼや と次の「置きかえ」による課題場面の再構成へと進めている。
児童の即答に対する教師の軽視はどんな意味をもつか。発言の尊重とか,愛情の問題とかで はなく教授・学習の問題として考える。即答に対する軽視は学習過程からすると異なる次のフ レームに移行させるということにはかならない。これは単なる時間的な移行ではなく,児童の 思考過程上に起こす質的な移行・転換を意味する。
児童は課題を提示されるや,解決のための多様な思考活動を始める。解決の巧拙はあれ心の 燃焼を経て何がしかの解決を得る。だからこそ心内のことを外に出したいのだ。それをそのま
まにして教師が立案した予定の学習活動へと移ることは,児童の一連の心の燃焼を断ち切り,
児童の論理を排して教師の論理へ無理やりひきづりこむことを意味する。児童はこれまでの思 考の流れを変え,心的体制を立てなおすことを余儀なくさせられることになる。
本授業の指導過程く課題の提示〉く場面に見合う立式〉く置きかえ〉く数えて確める〉の案は確 かによい構成ではあるが,立案する時点での望ましい指導過程と,授業に入ってからの過程と はきびしく区別されなくてはならない。
教師は学習過程を考える際,「易から難へ」あるいは「単純なものから複雑なものへ」あるい は「数学的に論理正しく筋が通るもの」などとあれこれ考えて立案する。ところが,その案の もとで展開する授業を,例えば「論理的思考を伸ばす」授業であると考えたり,「思考力を伸ば す」にふさわしい授業だと考えてはならない。
教師は課題提示後早々に返ってくる正答を恐れたり,またあとの展開のためには都合の悪い 事態であるとは思ってはならない。歓迎すべき事態だと思ってよい。
児童は正しい答を表明している。早速,それについて話し合わせたり,否定したり,質疑を 出し合わさせたり。そのような場面自体こそ論理的思考を伸ばす場面であり,思考力を伸ばす 場面であろう。例えば本時では次のように運ぶことができる。
教師「はおう。25。ううん,よくわかったね」
教師「○○さん,かしこいね。そうだ,25わだ」
まずはめてやればよい。相槌を打ってやる。教師のこの発言で満足するし,また,正解でな い児童は思考を修正し出すに違いない。さらに「なぜ」を自問する子も出るであろう。
教師「そうかな,25わかな。先生は23ばだと思う」
違った答えをいうなどの演出をしてもよい。なぜならこんな発言をしようものなら低学年の 教室は騒然となる。
児童「先生はずるい」
児童「先生はうそをついている」
児童は目の色を変えて教師に向かってくるはずである。このような騒然さ(教師への反論)
こそ論理的思考を伸ばす場そのものである。
教師「○○くん。そんなにいうなら,なぜ25わになるか,お話してごらん」
と,今度は教師が児童に切りこんでいけばよい。児童は何とかして自分の考えを伝えたいと考 えを陳述するに違いない。接続詞「だから」とか「しかし」とか,「したがって」を用いさせる 授業が必ずしも論理的思考を伸ばす授業ではない。
(3)個数を物に置きかえさせることの意義
低学年の数指導といっても,1年の扱いと2年の扱いとは全く質の違った方法でなされなく てはならない。
低学年の数指導では物の個数を数字に置きかえたり,逆に数字を示してそれを物(物の個数)
に置きかえさせることが多い。教師もこれらの操作を数理解のためのかかせぬ活動と理解して いる。1年の数入門期の指導ではもっときめの細かい指導がなされる。
● 個数を問題にした具体的な場面を持ちこんだ学習場面の設定
● 物の集まりと数唱との結合
● 物の集まり,数唱,数字の相互関係を問題とする学習場面の設定
● 具体物,半具体物,数字の上での諸操作など,一時限,一時限のどれをとってみても数を 抽象するための営みで,このような授業に接するにつけて「子どもをして物から数を如何に抽 象させるか悪戦苦斗している教師」の姿をそこに見る。置きかえの操作は実に数を抽象させる
ための苦心の末あみ出した方途の一つである。
子どもの数行動と教育の周辺をもう少し考えてみる。
子どもの数活動と言語活動とは分けて考えなければならない。子どもはことばとしての数(
数詞)をもつが,それに相応する数観念は伴わない。数詞は言えても数は知らないと言われる ゆえんである。子どもの数行動は物を繰り返し操作することから始まる。知覚上の物(個数)
の相異が数観念発達の基磯となる。ところが文化の中にいる子どもたちは数詞は噌詞するが,
確とした数観念が伴わない。そこで数教育の第一歩として数詞と物との1対1の対応を意図的 にとり上げる。
では、物と数詞との1対1の対応さえさせていれば十分かといえば,これはまたそんなに簡 単なものではない。「いち,に,さん,‥‥‥…」と唱えて最後の数詞が集合の大きさであること の理解にも次のような認識が伴わなくてはならない。
1)「数える」(物と数詞との対応)のは時間的継起であるのに対して,最後の数詞を物の集 合の大きさととらえるためには物の同時性に転化しなければならない。
2)集合の個々の要素を単位量として,つまり単位の概念 3)単位が集まって全体が構成されていることの認識 4)全体は部分と部分で構成されていることの認識
5)全体を意識しながら,部分への意識をもつことと,その逆の見方の認識
1年の授業における物,数,数字をつなぐ悪戦苦斗は実に上のような認識を得させるための 営みである。
ところが2年ではどうか。2年では数を数として操作させるところに1年と質のちがった授 業が営まれなくてはならない。1年は物との交渉がなければ数が抽象できないために物を媒介 としての扱いを1年間も続けたのである。2年では,今度は逆に数を如何に物から切り離して いくべきか,実在との交渉を立ち切る方向に数教育を移行しなければならない。
新しい計算−(+何)+(何)の計算一を理解させるためにはもちろん何がしかの指導の手 立ては必要である。しかし,「あひる」を「おはじき」に置きかえさせることはいらない。また,
物に置きかえることで新しい困った事態「物をひとつひとつ数えさせる」が起きる。この点に ついてはあとでふれる。
何がしかの指導の手立ては割愛するとして,要するに1年ではいかに具体から抽象へ歩ませ るか,そのためにはいかなる教具を持ちこむか,そしていかに教えるかが指導理念であった。
ところがこの理念がいつまでも続けば反教育にしかならない。2年以降は,いかに教具から離 すか,どこまで具体にもどらせるかを指導理念としなければならない。
(4)「いくつあるか数えてごらん」の発問の意義
1年の子どもが物の個数を数え,確かめていく姿はほほえましい。かれらはある課題に対し て念頭操作でもって物の個数(集合の大きさ)を求めてくる。これを,さて念頭操作の結果通 りになっているのか,なっていないのか自らの判断に基づいて「数えて確かめる」ことには十
分な教育的意義がある。けれども2年においては,好ましい活動とはいえない。
数の理解にはいくつかの段階がある。数えて25を理解する段階もあれば,「10が2つとあと5 が25である」という理解,「5と5の積である」といった理解の段階もある。児童がこれまでに 学習した数の理解をよりどころにして新しい課題に立ち向かわせることが望ましい数教育であ
ってみれば,本授業では次の′由二注意をはらって取り扱わねばならない。
1)1年で学習させた「20までの数」の扱いを考慮に入れること
2)同じく,基数+基数で和が10を越える場合−つまり加法九九−の考え方を反映させ るような扱い
3)「100までの数」の扱いを考慮に入れること
授業の後半が主に上のような点を考慮してなされていることからすると,「あひる」を「おは じき」に置きかえ、「おはじきを数える」操作には
1)本時の主目標である「くり上がる操作」が含まれていなく,単なる検証の手段でしかな い。
2)1)のことから,後半の学習と続かない。
さらに
3)1年当初の数えて数を知る段階への逆もどりである。
などの点から何ら本授業にとって意義ある活動であるとはいえない。しかも,この活動を入れ ることによって「17+8の和が25である」ことをこれまでの数の理解を駆使して説明しないで はおれない児童の学習意識を喪失させることにつながる。ということは,導入当初の解決の意 欲を後半まで持ち越させることができず,授業は展開なされているが児童の思考活動は寸断,
個々別々な思考活動をすることを強いていることを意味する