仏領時代に於ける印度支那鉱産事情について
その他のタイトル Some Sketches about the Mining Industries of French Indo‑china
著者 賀屋 俊雄
雑誌名 關西大學經済論集
巻 5
号 2
ページ 133‑164
発行年 1955‑05‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/15762
133
仏領
時代
に於
ける
印度
支那
鉱産
事脩
につ
いて
︵賀
朕︶
印度支那三国︵越南︑老樽︑東補簗︶︑これはつい先頃までは︑仏領印度支那と呼ばれていた地域であるが︑
われわれ日本人の目に大きく映ずるに至ったのは︑極めて︑
唯漠然と印度支那なる地名は耳にしており又其地図も目にとまったこともあったであらうが︑
めて深く脳裡に刻まれたのは︑過る昭和十五年の秋であったらう︒そのときは︑
港を通じて︑莫大な数量に於て︑或は雲南に或は広西省内にむけて所謂援蒋物資が流れ込んだ当時︑
送を遮らんがため︑又仏印側に於ける援助行為を抑圧するがために︑
こと︑又︑広西省境を越えて仏印領内へ︑日本軍団の突入したこと︑これと時を同うして︑海防正面より︑他の一軍団
の上陸が行はれたこと︑ な
いが
︶は
︑
︵こ
れを
平和
進駐
と号
した
︶等
︑
一連の南進行動が行はれたのであった︒
日が
あさ
い︑
没とんどの日本人
賀
これ
が︑
これが初
日華事変のさ中︑仏領印度支那海防
屋
佛領時代に於ける印度支那鎖産事脩について
これ等物資の輸
日本側から送られた援蒋行為監視団の入国した
此時はじめて︑われ
われは︑印度支那なるものの存在を新しく意識したと云つても過言ではあるまい︒此平和進駐なるものに次いで敢行
された南部仏印への進駐は︑弘く世界の耳目を肇動したものであって︑特に﹁アメリカ﹂朝野の感情を痛く剌戟した
結果が︑不幸なる太平洋戦争の因をなすに至ったことはわれわれの忘れ得ない.恨事である︒戦時中此地域は︑日本軍
︵こ
れは
云い
すぎ
かも
知れ
俊
雄
る ︒ こ の前進基地化していたものであるが︑戦局の不利なる展開は︑昭和十九年十月遂に米軍の﹁レイテ﹂島再上陸を見る と
4
なり
︑
このことは延いて︑仏印への上陸が懸念さる
4
に至って︑終戦の年昭和二十年三月八日を期し︑進駐日アキラ本軍は︑突如︑仏領印度支那全土に亘つて砲火によって︑仏印軍全部の武装解除を敢行した︵これを明号作戦と云ふ︶︒
これを契機として︑印度支那三国は︑各々︑独立の宣言を行ひ一方︑安南青年層は︑所謂越南国民党を確立したので
あったが︑次いで︑同年八月日本側に於ける無条件降伏を機として︑此時まで微力ではあったが︑各地に黍動を続け
ていた越南同盟が︑前者と合流して︑爾来﹁胡志明﹂勢力の増大となり︑遂に今次﹁ジュネーヴ﹂会議開催にまで進
展して︑印度支那三国なるものが︑世界の桧舞台に大ぎく其姿を現はすに至ったことは︑あまりにも周知の事柄であ
上記の如く︑此仏領印度支那と云はれた地域は︑太平洋戦争勃発のときまでは︑われわれ日本人のみならず他の主
要国民にとつても︑其視野の外にあったものと考へられる︒事実貿易上の関係から見るも︑此印度支那なるものは︑
其本国仏国との間には︑物資の交流はあったもの4︑此地域と域外他の諸国との間には︑此関係は極めて稀薄であっ
た︒由来仏国は︑交趾支那を領有して以来︑安南ラオス︑カンポジアを自国の保護下において︑これをその殖民地化
して︑本国に対する原料品の供給源とする反面本国に於ての製造商品の捌し口となしたものである︒従って︑仏領印
度支那むけ外国品には高率の関税を賦課することによって︑其輸入を阻止するにつとめたものであるが︑これに対す
る報復として︑諸外国は︑仏印所産の物資買入れを悦ばず︑
仏領時代に於ける印度支那鉱産事楠について︵賀辰︶
ため
に︑
これ等仏印産物は︑大部分︑仏本国に其販路を
見出さざるを得ない事情に立ち到つていたものである︒此関係は下掲の数字によって覗うことが出来よう︒
135
仏領
時代
に於
ける
印度
支那
鉱産
事需
につ
いて
︵賀
腟︶
化殖民地政策が踏襲されていたのであったが︑ 一般日用重要物資は殆んど生産させていなかった︑ 総輸入額︵一︑五六ニ・ー単位百万法ー︶に比し其半ば
総 其 英 独 繭 日 新 中 香 其 仏
悶嘉 属醤
計 他 国 乙 度 本 披 国 港 領 及
︑ 発 四
一 ︑ 奏
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九
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三 九 九 ^ ^ 六 五
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写 ジ ー ^ ョ " ‑ ヨ 匹 四
四
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九 写 六 r¥.‑ = ‑‑ = ‑
七年に於て八九
0
(単位百万法︶であったから︑仏印 四︑亜鉛二︐四︑タングステン鉱四・二等である︒ 会0 戦前平常時に於ける仏領印度支那輸出入統計一九︳呑年︵単位百万法︶一R‑
︱‑
︿年
︵単
位百
万法
︶ 轍 出 轍 入 轍 出 輸 入
一 ︑ 畳
0
一 ︑ 写
︱ ︱ ︱
ll(O ‑
会
︱
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六
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︱
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一 九
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O
︱ ‑ ︑ 酋 ︱ ︱
一 ︑
0芸 依之観之︑仏領印度支那より仏国及其属領へむけて輸出されたものは︑其金額に於て︑仏印総輸出額
物を主とし鉱産物︑林産物等の原料品であった︒
九三七年の統計によれば︑米穀五八二︵単位百万法︶
生ゴム一〇八︑玉蜀黍四五五︑石炭二四︑錫︱ニ・
これに対し︑仏本国よりする仏印の輸入額は一九三
を越えている︒仏本国よりの輸入品は︑主として工業製品︑即ち綿布類︑金属製品︑雑貨︑化学製品等であった︒仏
本国のとった殖民地政策は仏印を以て︑其製品の捌かし場所となしたものであるが故に︑仏印領内に於ては︑セメン
ト︑亜鉛︑亜片精製の如き現地産原料を利用する工業以外には︑
其大部分は本国よりの輸入によらしめたが如き状態であった︒
他方︑輸出入貿易に於て我国との関係を見るに︑第二次大戦の勃発を見た一九四一年の頃までは︑旧態依然たる同
ついで起った状況の変化に促されて︑従来本国よりの輸入にまった物
資の如きは︑我国よりのそれに置換せらる
4
に至ったのである︒第二次大戦勃発前に於ける我国との貿易関係を見る の大半を占めている︒これを内容的に見れば︑農産ため
︑
印よりの輸入額の約半数であって︑
次ぎに︑我国より仏印への輸出関係を見るに︑其総額は︑仏 これを仏印総輸入額に対比すれば︑僅々其三乃至五形程度にすぎぬ︒我国との貿 易関係が当時に於ていかに稀薄であったかがうかゞはれるのである︒
第二次大戦勃発迄に︑仏領印度支那へ仕向けられた日本商品は︑主として関税の低率であった陶磁器︑生糸︑絹人
絹織
物︑
アスファルト︑馬鈴薯︑濫青炭等であって︑其品目併びに価額に於ても極めて局限されていたものである︒
仏領印度支那は︑本国との連繋が絶ち切られ︑
領内生産物資の販路を国外に求むるの要に迫られたと共に︑
を︑何れかの国より求むるの止むなきに至ったのである︒絃に於てか︑昭和十五年中継続して行はれた︑ しかし第二次大戦の勃発によって︑
国内消費にあてらるべき諸物資の獲得も︑
日仏印経済
これ
経済的に孤立の状態に陥ったが
総 其 玉 漆 珪 鉄 米 塩 生 無 及
マ
ン砂 ガ 穀
ン
鉱
七 ベ ︱ ︱ 茎 匹
10
蜀 計 他 黍
一 ︑ 一 蛮
〇^
{ 0
仏印より日本への輸出︵単位一万法︶
一九
癸年
一九
︱︱
︱七
年
︱ ︱ ‑ ︱
‑K
四 四
︑
0畳
︱︱
‑︑
香一
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0︱ ︱
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に左の如きものがある︒
l在 ︱
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匹 ︑ 一 茎
一 ︑ ︱
︱ ︱ 九
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11
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醤
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︱ ︱ ︱
‑
{K
写^ ︑ 七
0四 り出したからであり︑又︑ 乃至一〇疹程度にすぎなかった︒表中︑鉄鉱の輸出額が年を追
仏領時代に於ける印度支那鉱産事惜について︵賀屋︶
上記︑仏領印度支那より日本への輸出は︑仏印総輸出額の五 つて増加を示しているのは︑当時に於ける我国の生産拡充計劃
の波に乗って︑現地に於て︑我台湾拓殖会社が鉄鉱山開発に乗
を見るに至ったのは︑ 一九三八年に於て︑俄然︑漆の輸出
日華事変によって︑従来中国奥地よりな された供給の杜絶により︑其供給源を仏印に求めざるを得なく
なった事情に起因する︒
四
137
仏領時代に於ける印度支那鉱産事情について︵賀屋︶
五
関係調整を目的とする︑所謂'﹁東京会談﹂の成果として︑我国商社も︑仏印輸入組合への加入が許さる4
こと
4な
っ
て︑我国有力貿易商社のこれに加入を見ること4
なった︒これら新規加入組合員として︑我国有力十社が現地に支店
・出張所を開設して本邦産綿布其他雑貨の販売に努力を払ふこと4
なったのである︒さりながら︑戦局の不利なる進
展は︑船腹の窮乏を招来して︑当初の期待が裏切られ︑日本商品の輸入は漸減の状態に陥ったものであり︑又仏印よ
りする日本への積出しも︑船腹の窮乏はもとより︑海上輸送途上に於ける敵襲等の理由よりして拠棄の止むなきに立 ち至ったものである︒仏印市場開拓の目的を以て設置された我有力商社の支店出張所等も結局︑進駐軍の指導下に軍 用必要物資の調達︑木造船の建造︑飛行場の建設︑其他土木工事に従事する等により︑終戦に至る迄の期間を糊塗す るの止むなきに陥ったものも存在した如くであった︒以下戦前戦時を通じて︑我国工業者が︑特に深い関心をむけた
ところの仏印鉱産資源に関して︑有用鉱物の賦存状態需給其他の概況を説述して見たい︒
記 幻
我国工業界に於て︑最も馴染の深いものとしては︑鴻基︵ホンゲイ︶炭を以て代表される東京無煙炭を挙げることが出
来る︒戦前我物動計劃に於ては年間写
] { 0
万噸の輸入が計上されていたものであった︒其主要用途ほ︑︑骸炭製造の
配合炭として使用されたものである︒無煙炭としての品質は︑極めて優秀であって︑八五
00
乃至九
000
カロリーに値するものもある︒ある炭坑所産のものは︑灰分三疹と云ふ純良に近いものも存在した︒鴻基地帯の無煙炭は︑極
東に於て︑これに匹敵する良種は見出し得ずとせられているものであって︑国際貿易上重きをなしている品種である︒
たゞこれに代はるものとしては華国北部勃海湾に面する一地点に於て見出されるものありとは云はれているが︑其品 質は到底鴻基炭のそれに及ばないとせられている︒仏国をして︑東京安南に対し垂涎おく能はざらしめ︑遂に︑これ
無
煙 炭
.
→ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑
此地方産炭の一般的品質を代表するものとして︑東京炭鉱会社採炭の平均組織を挙ぐれば︑次の如くである︒
此無煙炭田の位置と炭層賦存状態を見るに︑此﹁ホンゲイ﹂
揮 分 八
% ー
l
︱ 劣
灰 分 三
% 七 弧 炭 素 分 八 六 劣 八 八 痴 硫 黄 分 一 劣 以 下
熱量七︑八
0
八︑三 乃至
00
カロリー0
田は総称して﹁カンエン﹂
岸に沿ふて東西にはしる第一ドンチュー︵ぜ
n g ‑ t
r i e u
)
山脈第ニドンチュー山脈に沿ふて集中している︒中心地点であ
る鴻基以東の炭坑は比較的低い丘陵上に於て露天堀方法によって採堀されているものもあり︑又︑海岸附近の低地に
於て露天堀又は坑道堀によって稼行されているのも見出される︒鴻基以西の主要炭坑は︑かなり瞼峻なる第ニドンチ
ュー山嶽の中腹︑又は︑頂上に向つて斜坑を穿つものもあり︑又︑深く地下に堅坑を掘穿して採堀しているものもあ
る︒概して云へば︑東部は露天堀︑西部は坑道堀稼行に移行している︒
現在迄に稼行せられたものは﹁セト︒ハゴード﹂附近に於て尽きるのではあるが此炭田の西端を延長した線上約一五
0
キロメートルの地点太原に近き地点に﹁ファンメ﹂炭坑なるものがある︑に重畳して摺曲状態に於て存在する︵印度支那牛島に於ては︑有煙点は︑此﹁ファンメ﹂炭坑及び安南中部の一地点に於て発見
せら
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のみ
であ
って
︑当
時に
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他に
有煙
炭層
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と云
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た︶
︒
発
又別に︑広安炭田に平行して︑北方︑広 を領有するに至らしめた動機は︑実に此良種にして豊富なる無煙炭田の存在にあったと云はれている︒
︵鴻
某又
ほ康
海︶
炭
を以て代表さる
4
無煙炭田は︑遠く華南広西省境﹁モンカイ﹂附近より︑東京湾海岸に沿ふて西南に走り﹁セト︒ハゴード﹂に至る東西約一
00
キロメートル南北
三
0
キロメートルの広家を有する地帯を占むるものであって︑鴻基湾に面する下竜︵ハロン︶湾を中心として両翼に弓形をなして展開する鉱床の連続である︒此炭
︵広安︶炭田と称せられるものであって︑
仏領
時代
に於
ける
印度
支那
鉱産
事愉
につ
いて
︵賀
屋︶
戦前稼行状態にあった各炭鉱の所在個所は︑海
この炭坑には︑有煙炭と無煙炭層が交互
六
1:39
仏領
時代
に於
ける
印度
支那
鉱産
事愉
につ
いて
︵賀
屋︶
右表によって見らる
4
が如
く︑
一九
嚢年
一九
癸年
‑R
‑
︱
‑P年 表に噴出したとき︑其高熱が作用してこれに接触した石炭層の揮発分が悉く発散して︑鴻基炭に見らる
4
が如き純良 立して異観を呈する様は所謂南画を初彿せしむるものがある︑或る学者の云ふところによれば︑これ等石灰岩層が地 に接近して併行する石灰岩山彙の存在である︒此特徴は︑広安炭田に於て極めて顕著であって一山又一山突として屹 北両地点に於て東西に走る褐炭脈に狭まれて存在する︒しかして︑ 北安南に接近して﹁ニンピン﹂市北方に︑東西に延長して褐炭層が存在する︒即ち︑広安炭田なるものほ︑ 西省境に近き︵諒山︶﹁ランソン﹂附近﹁ロクビン﹂なる地点に︑又︑広安炭田の南方に︑広安炭田に於ける無煙炭の理蔵盤は︑
いる︒而して︑太平洋戦争前即ち正常状態であった当時の産出量は次の如き統計によって示されている︒
産 出 董
一 ︑ 茜
0︑
写
00逃
l-‘ 一写 0
、000~ ―-、二益、 000~
七
﹁D
﹂級炭種が相当量を占めていたもの4如くであった︒轍 出 謙
一 ︑ 器 九
︑ 五
00
逃︵
日本
向
一 ︑ 六 翌
︑ 写
00
逃︵
日本
向
一 ︑ 匿 一
‑00
逃︵
日本
向
これも此炭田に平行して︑
これ等炭田に見られる特徴としては︑
これを正確に知る由もないが︑十一億乃至十二億逃ならんかと推定せられて
日本向け輸出は︑全輸出量の五割を占めていたのであって︑
も重要なる顧客であったのである︒日本に次いでは中国であったが︑
良種であったに反し︑中国香港むけのものは﹁
C
﹂ なる無煙炭を成生したものならんかと︒日本への輸出品種は﹁A﹂
次に︑広安無煙炭の仏印領内に於ける消費状態は左表によってこれを察することが出来る︒
芸 ^ ︑
00 0/ ll '
召 一 ︑
00 0/ ll ︑
︿0
八 ︑
00 0/ ll︑
中国
向
中国
向
中国
向
‑ = ︷ ︑
00 0/ fl )
︳ 吾 ︑
000
逃 ︶
= 吾 ︑
000
聰︶
これ等南
これ等炭脈
日本は仏印無煙炭の最
﹁
B
﹂級に属する優\ \ \ \ ー
坑等である︒戦争直前に於ては︑ 島鉱区︑次いで﹁モンヅオン﹂ 戦前の平常時に於ての仏印領内に於ける消費炭は︑輸入﹁ピッチ﹂を配合して
煉炭を製造し又は輸入濫青炭を配合してコークスを製造して︑鉄道用炭又は工場
用燃料或は家庭厨房用に供せられたものである︒由来︑印度支那半島に於ては︑
燃料鉱物は︑北部に偏在して︑南部には其産出を見ない︑従って︑戦前正常時に於ては︑北部の燃料炭を南部に供給
して︑南部に於ける過剰米が北部に補給せられていたものであるが︑太平洋戦時中南北縦貫鉄道が︑米軍の爆撃によ
つて︑破壊せられて︑此物資交流関係は失はれて仕舞った︒そのため︑北部に於ては米価の急騰を招来し︑細民は餓
に泣き︑南部交趾支那に於ては︑燃料の欠乏によって発電用に籾を燃料として使用したが如き異常な事態が出現した
と云
ふ︒
広安炭田に於ける各鉱区の配置状態を見るに︑
︶である︒此会社は一八八八年の創立にか
4
り︑資本金三八︑四00
︑
︵に
思
c i e t
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F r a n
i . : a
1 s e
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h a
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s d
e T
o n
k i
n
0 00
法であって︑此地域に於ける︑仏国炭鉱会社中最故参のものである︒鉱区としては︑最東端の﹁ケバオ﹂
( k e b
a o )
カンフア
( C
a m
p h
a )
坑 ︑
﹁ドンチュー﹂山脈に属するものと︑西方︑
あって︑坑夫五
000
人が採炭に従事したものであって︑坑夫の労佑時間一日九時間午前午後四時間半づ4
であ
り︑
戦前に於ける賃銀は最低男一日
0
・三
0
ピアストル︑女0
・ニ六ピアストルの割であった︒採堀された石炭は︑ープル﹂によって山下に卸されて︑貨車積によって﹁カンファー﹂港へ輸送される︒其出炭量は一九三六年に於て︑
一九三五年 一九三六年 一九三七年 五
0 1
︱ ‑
︑
000
逃
五 六
0︑0
00
聴
六九
0︑OO
O!
ll
( m
a n
d y
a w
o n
g )
坑 ︑
広安炭田随一の炭鉱会社として︑
広安炭田の西端第二﹁ドンチュー﹂山脈に存在する﹁マオケ﹂
( m
a o
k e
)
﹁カンファー﹂坑が︑最主力をなしていたものであって︑露天堀一口︑坑道堀ニロ
仏領時代に於ける印度支那鉱産事脩について︵賀屋︶
先づ挙ぐ可きは︑
八
﹁ ケ
所謂第 東京炭鉱会社
﹁ホ
ンゲ
イ﹂
( H
o n
g a
y )
坑等
︑
141
仏領
時代
に於
ける
印度
支那
鉱産
事糖
につ
いて
︵賀
屋︶
同会社総産出量一︑二三八︑五一五眩に対し九五一︑三
0
九聴であった︒東京炭鉱会社所有鉱区の東方部に於て産出するものは︑すぺて︑﹁カンファー﹂坑西方十粁にある﹁カンフア﹂港に於て船積されるのである︒此港は東京炭鉱会社専
.用のものであって︑繋船岸壁三ケ所設置されてあるが︑大型船の場合は二隻を限度とする︑
可能
であ
る︑
﹁カンフア﹂港は︑外海に通じ干満いづれの場合に於ても大洋航行船の出入に支障がない︒第一
チュー﹂山脈の西方鉱区としては︑﹁ハツー﹂
(H
a , T
ou
)
湾
( B a i
e d
'A
lo
ng
)
! d .
面する鴻基港
(H
on
ga
y)
より船積される︑同港には︑重量逃六
000
逃級貨物船二隻に対する繋船岸壁を有しており︑七逃揚げの移動式起重機二基の設置がある︑
する︒東端﹁カンフア﹂港間の距離は約三〇粁である︒鴻基港に於ける荷役は︑後述の理由によって︑満船積込は不
能である︑従って︑斯る場合︑鴻基港に於て本船の下積のみを行って︑本船を﹁カンフア﹂港に回送して︑上積を完
了するのである︒
﹁カ
ンフ
ア﹂
的不利なる条件は︑此二港を利用することによって克服し得るのは︑東京炭鉱会社のみの有する特権である︒東京炭
鉱会社出炭の日本むけ積出しは専ら三井物産会社の扱ふところであった︒而して︑所謂鴻基炭なる名称は︑本港より
︵勿
論カ
ンフ
ァー
積出
し分
も包
含さ
る
4が︶積出しの無煙炭のみに使用せらる
4
名称であって︑等しく︑広安炭田出炭のものも︑東京炭鉱会社の手を経ざるものは︑此名称を使用し得ない結果を生ずる︒従って︑鴻基港に隣接する﹁クルベ﹂
港より積出しさる
4
︑同系統の炭層よりの出炭も﹁鴻基炭﹂の名称を使用して販売することは︑権利侵害の疑義ありとせられ︑これらに対しては︑ ﹁ホンゲイ﹂両港共東京炭鉱会社の専用であって︑下竜湾に於ける船積に対する地理
﹁西鴻基炭﹂なる名称が用いられた例がある︒現在此地方は北部越南の地区に属して
﹁胡志明﹂の権力下にある︑最近得たる情報によれば︑東京炭鉱会社は︑約ニケ年前に於ては︑年間五
0
万乃至六〇﹁ハ
ラム
﹂
一日
一︑
二
00
乃至
一︑
九
五
00
聴の積込能力を有
(H
a‑
La
m)
坑等があるが︑これ等の出炭は︑下竜 ﹁
ドン
一日積込量云00/︱
10 00
逃
1
東 京 炭 鉱 会 社 鉱 区2
ドンチュー炭鉱会社鉱区3 アロンドンダン会社鉱区
iii
と︒
凡 イ 列 鉄 道
殖 民 道 路
5 毎 港
S I < iOK 1 5 1 <
20K おk仏領時代に於ける印度支那鉱産事楠について︵賀屋︶
10
る ︒ にかけられて各﹁サイズ﹂に締分せられる︒ るものがあり穏やかならざる空気に包まれているとのことである︒ 万逃の出炭を維持していたと云ふことであるが︑最近該地方仏人関係炭鉱のみならず他事業主脳部追放の気配濃厚な
次ぎに挙ぐべきは︑第ニドンチュー山脈に﹁クローチルト︑ルイーズ﹂鉱区﹁フランソワーズ﹂
を有する﹁ドンチュー﹂炭鉱会社合
a
S gi et e
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C h a
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o n
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g e
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D o n
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T r
i e
u )
である︒此会社は︑
一九一六年の創立に係り︑資本金二八︑
0
0
0 000
法を以て開始された近代的設備の完備し︑た大規模炭坑である︒其出炭量は︑広安炭田全出炭量の約ニ︱彩を占め︑最盛時には︑ ﹁エレーヌ﹂鉱区東京炭鉱会社に次
日産
約二
︑
000
聴であった﹁クロチルド﹂坑一坑であった︑本坑は坑道堀であって︑八
00
米掘進し
て︑
横に
一︑
00
0
米づ
4
ニタロに掘り入れ採堀したものであると云ふ︑本坑に於て水平線以下を採堀するときは炭量無尽蔵なりと称せられている︒採堀された石炭は︑坑外に搬出せられて︑
( U
o n
g
Bi)迄搬出され︑此処に於て水洗されて︑六粁の距離を隔つる﹁ルドン港﹂
於て大洋船に船積されるのである︒
( P o r
t R e
d o . n
)
へ搬出され︑此処に
ルドン港は大海に通ずる﹁ダハック﹂河の一角に位する港であって︑千潮時に於
ても︑二十六
/{
乃至八J択の水深を有し︑河口の浅所も満潮時に於て二五択以上となるを以て︑七
000 000
噸級の大型船も満船して自由に出入することが出来る︑港内は大型船四隻の同時碇泊可能である︑孵取りによって各船同
時に一日一
000
乃至一五0
0
噸の荷役が可能である︒本坑も﹁胡﹂軍の活躍により稼行が妨げられ︑現在に於ては再起不能の状態にまで荒廃に帰しているとのことであ
﹁ドンチュー﹂炭鉱の出炭の日本むけ一手販売は︑当時に於ける岩井商店であった︒ と云ふ︒戦前採堀されつヽあったものは︑ ぐ大会社であって︑
仏領時代に於ける印度支那鉱産事愉について︵賀屋︶
︱ 二
0
ミリまでの大塊は︑自動式粉砕機採炭は軽便鉄道貨車によって十三粁の距離にある山下﹁オンビー﹂
U心
仏領時代に於ける印度支那鉱産事愉について︵賀屋︶
上記二炭坑に次ぐ仏国会社としては︑﹁アロンドンダン﹂炭鉱会社( L
a s
gi e t e d e s
C a
r b
o n
n a
g e
A l
o n
g e
t D
o n
g ‑
D a
n g
)
で
ある︑前記二社に比し其創立新らしく一九二四年資本金︱‑︑
000
︑000
法を以て開始されたものである︑其位置は︑下竜湾最奥部の﹁クルベ﹂港西岸に隣接する地区に主鉱区を有する︑地下一
00
米掘り下げられた竪坑があっ
あり﹁ポタ﹂殆んど無しとのことである︑戦前平常時に於て︑ て︑坑内一八
0
人︑地上二00
人の人夫を使用していた︑炭質は硬質優良であって粉炭七
0
彩︑塊炭三〇彩の割合で日産一七〇聰より二
00
逃程度であったと云ふ︒出炭
は︑坑所より直ちに﹁クルベ﹂港にむけ孵を以て搬出する︒
此炭坑も﹁胡﹂軍勢力下に於て︑稼行捗々しからず︑最近は荒廃に帰し出炭なしとのことである︒
上記三社の外︑仏人経営の炭坑として︑﹁クルベ﹂港東岸︑東京炭鉱会社鉱区に接近し露天堀﹁ネプチューン﹂鉱
区なるものがあり又︑第ニドンチュー山脈の山腹に坑道堀方法を以てする﹁シャッャ﹂
( C
h a
e
ぽ︶鉱区︑平地堅坑堀方法による﹁コーケン﹂坑等が存在する︑これ等の外︑安南現地人の所有鉱区に対し邦人が出資して採炭を計劃したも
のも存在したが戦局の不利なる進展によりて所期の目的を達し得なかったものの如くである︒広安炭田全体を通じて
鉱区数は約百二十箇所を算する︒
次に附記すべきは︑東京炭鉱会社︑﹁ドンチュー﹂炭鉱会社の如く自己の専用に属する積込み設備を有する炭鉱は
別として︑爾余の諸炭鉱出炭の本船積込み事情である︒既述の如く︑東京炭鉱会社は﹁ホンゲイ﹂﹁カンフア﹂の両港
に自己専用に属する積込設備を有する︑又﹁ルド.ン﹂港には﹁ドンチュー﹂炭鉱会社専用の諸設備がある︑しかるに︑
その他群小諸炭鉱は自己に専らなる港頭設備を有していない︑其出炭の大洋航行船への荷役には︑必然的に︑鴻基港
に隣接する﹁クルベ﹂港
( P o r
C t
o u
r b
e t
)
を使用するより他に途がない︒此﹁クルベ﹂港なるものは︑下竜港最奥部
140
4
に足る錨地を有するにすぎない︑業はすべて孵による沖積である︒
事情が存在する︒このことは︑東京湾の特異なる一現象として︑潮の干満が一日唯一回しか起らない︑
満 に存在する極めて狭少なる小湾であって︑四周より小河の淡水が流入する︑重量噸七
000
噸級の貨物船二隻を容るしかも港頭には船積を目的とする何等の設備も存在しない︑従って本船の積込作
﹁四舶口四ウインチ﹂装備の大洋航行船に対し一日五
00
睦程度が所謂
C.Q.
D.
︵Cu s t o
m a r y
Q
u i
c k
D e
s p a t
c h )
積込量であるとせられている︒本邦商社が﹁クルベ﹂港渡しF.o.B条件によって
無煙炭の買付けを行ふ場合には︑買主側が︑其傭船を此港へ回航することが一般の慣習であるがため﹁クルベ﹂港荷
役能力の低位にあることは︑他の三港︵ホンゲイ︑カンフア︑ルドン︶を積取港とする場合に比して︑著しき条件上の不
利が存在することを銘記せねばならない︒此不利益は︑営に︑積込能力の低位にあることのみではなく︑他に特殊の
しかも︑其千
満差は大潮時に於て三米突にも達することにある︒加之︑数日の間隔をおいて︑最千潮時に於て千満の運動が停止す
る︑この現象を死潮
( 1 3
o r t e
a u )
と称へる︑斯くの如き状態は三治四日間の長きに亘つて継続する場合がある︒而して︑
外海より﹁クルベ﹂港に到達するがためには︑下竜湾を最短距離に於て一直線に進航することは許されない︑湾内の
﹁ア
ン
水深は空船状態に於てすら七
000
噸級船舶の通過に充分でない︒従って︑下竜湾口より針路を右にとつて︑リヱット﹂水道
( P a s
, Hs e
e n r i
e t t e
)
を通過して迂回針路をとることが常道である︑しかるにこの﹁アンリエット﹂水道
の北端に︑約二
00
メートルの距離に亘つて一連の浅瀬が存在する︑其水深は︑干潮時に於て公称三・八
0
米︵
実際
ホ深
四・
ニ
0米と云はれる︶であって︑七︑
0
0
噸級大洋航行船が空船状態に於て通過することは可能であるが︑
0
船状態に於ての通過は不可能である︒従って﹁クルベ﹂港に於ての積込量は︑傭船契約に定められた碇泊日数満了に
先きだって︑此水路を通過し得る吃水を限度とする炭量である︒而して︑
仏領
時代
に於
ける
印度
支那
鉱産
事猜
につ
いて
︵賀
屋︶
﹁クルベ﹂港に於て積込未了のため生じた
一 四
1.47
称 へ
る ︶
仏領時代に於ける印度支那鉱産事惜について︵賀辰︶
余積は︑港外約四海里沖合の﹁ノア﹂︵栗︶島附近に本船を転錨して︑本船の﹁クルベ﹂港より﹁ノア﹂島に至るに要する転錨時間併びに四海里沖合に於てする孵による沖荷役には多大の時間的空費を生ずる︑すべてが︑滞船料に影響を与へるものである︒ある商社は︑船による送炭から生ずる時間的空費を省くがために︑下竜湾内の島嶼中のあるものに貯炭所の設置を計劃したものもあるが︑此地区は︑風光明媚を以て知らる4
個所であって︑風致地区として指定せられあるを以て認可の見込なしとして揃棄された一例がある︒鴻基港積取りの場合に於ても﹁死潮﹂による不利益︑
上生ずる積込量の制約等の不利益は存在するが︑外海へ通ずる﹁カンフア﹂港使用の自由によって︑
又︑同地方の特徴としての干満の差異大なること
4
︑クルペ港頭に貯炭場を有する炭鉱経営者も存在するが︑
貯へ得ざる経営者にとつては坑所より舷側へ直接孵船によって送炭する必要がある︑此場合︑坑所が﹁クルベ﹂港周
辺にあるときは︑干潮時に於ては︑孵船底が砂地に膠着して︑送炭不可能となる︑
が如き場合は︑無為に本船の碇泊を強いらる
4
こと
4
なり︑碇泊日数計算に不利なる影響を与へる原因となる︒鴻基地方無煙炭積取りに関して考慮さるべき事項の一っとして挙ぐべきことは︑此地方に於ける労力事情である︒
石炭積込にあたる労動者は︑
の季
節に
は︑
一斉に業を休んで︑長きは︑ 回避することが出来る︒
死潮の存在は︑港内沖積作業の促進を妨ぐること大である︒
しからざるものもある︒港頭に一船積込に足る丈けの炭量を
これ等地方に土着の農民が主であって︑
一ヶ
月に
亘つ
て︑
一 五
﹁ク
ル
彼等は所謂旧暦正月︵これを土語で﹁テート﹂と クルベ港頭より﹁ノア﹂島に孵﹁アンリヱット﹂浅瀬通過の必要
これ等の不利は
死潮状態が数日に亘つて継続する
はたらかない︑従つて此時期に於ける廻船は莫
大なる損失にさらされる危険性がある︒此理由によってか︑年末年初に於て積取り船の殺到が目撃されるが︑ 其積込みを継続完了すること4なるのである︒
べ﹂港内の錨地はニケ所存在するにすぎない︑従って荷役は先着順によること加慣習であるがため︑大型船の廻船に
は此点に関する極めて慎重なる考慮と︑予め︑他炭鉱炭積取船入港予定の調査を必要とする︒
次ぎに︑印度支那北部は五月より九月に至る期間は雨期に属する︑
し八月の候に於て︑四
00
乃至五
0
0
︑︑︑リメートルの雨量を示し︑九月まで継続する︑此間荷役能力は必然的に低下する︑降雨劇しき場合には荷役不能の事態も発生する︑
る
4
場合︑此降雨期に於ては海中に流出する虞れもあり︑炭鉱経営者側に於ても︑港頭の露天貯炭はその最も忌避するところである︒
東京炭買付け条件は現地積込港
F・O. B
である︒本邦買主側は︑自己の船舶又は傭船を積込港に廻船する︑本船甲板上への積込と船内荷繰り︵船綸内に投入したる粉炭を左右平均にならすこと︑これを
T r
i a
g e
と云ふ︶作業に要せられる
費用は︑炭鉱業者側の負担である︒傭船契約上︑碇泊期間に制限ある場合にして︑夜間作業を必要とするときは︑此
種特殊費用は︑買主側の負担である︒傭船契約に於ける荷役期間の起算時は︑本船着港投錨の瞬間である︒﹁クルベ﹂
港積込の場合は︑孵船による沖積であって︑約一屯の炭量を容れるに足る鉄製罐を使用して︑本船の起重機を利用し
て積込が行はれる︒本船積込炭量の決定は︑水線が満船吃水線に到達したとき︑其船舶の公称重量噸数より︑満船時
に於ける本船の残炭︑残水︑
而して︑炭鉱業者との売買契約上の引渡数量は︑ 五月に於て二
00
乃至三
00
︑︑
リメ
ート
ル︑
七
日本向け無煙炭は主として粉炭であるがため︑港頭に貯炭さ
﹁パラスト﹂及び所謂﹁コンスタント﹂重量を控除して得たる数字を以てする︒
上記の如くして得たる船積数量より︑約定の百分率︵たとへば二劣
租度の︶水分引きが許容される︒斯くして船積数量の決定を見たるとき︑
券が署名されて︑船舶業者側の﹁ヱヂヱント﹂に交附される︒これを﹁手仕舞﹂と称する︒これと同時に︑傭船契約
仏領
時代
に於
ける
印度
支那
鉱産
事楠
につ
いて
︵賀
屋︶
本船甲板上に於て︑船長によって︑船荷証
一 六
14(}"
仏領
時代
に於
ける
印度
支那
鉱産
事惜
.に
つい
て︵
賀屋
︶
鉄 鉱 資 源
輸入が望ましい︒ 数量によって決定さる
4
こと
4
なったと云ふ︒.は︑此地帯は無煙炭の産地ではあるが︑
一 七
︵太原︶に於て稼行を開始せしめたのが其嘴
.
上の碇泊日数の決定も行はれるのである︒最近得たる報導によれば︑戦後の取引に於て︑現地積込炭が陸揚げに際し甚だしき欠斤を生じた事例が頻発したに鑑み︑現今︑東京炭の買付け条件には︑其引渡数量の決定は︑仕向地陸揚げ尚北部印度支那へ廻船する場合︑
これ等無煙炭は船舶焚料炭としては用をなさない︑
絶対に不可能である︑従つて船舶の発航に際しては︑予め往復の航海に要する焚料炭の積込みを行ふことである︒戦
前に於ては航海の途中︑台湾基隆に於て仏印までの所要炭を調達したものであった︑又舶用淡水についても同様であ
﹁クルベ﹂港には上水道の設備なく充分な水量の補給不能である︑従って︑ 船舶業者として留意を要すること
しかも︑有煙炭の入手は
これも予めの調達を必要とする︒
上記東京北部の無煙炭は越南唯一至上の資源である︒其優質であることは既述の通りである︑かつては我国にとり︑
コークス製造配合炭として多量に使用されたものであり製鋼上極めて有用な物資である︑戦後既に若干の輸入が行は
れて
おり
︑
る ︑
又外資割当の公表も行はれたものであって︑何等か︑通商上の協定を調整することによって︑
印度支那半島に於ける資源の一っとして︑本邦事業家の夙に着目したのは鉄鉱及びマンガン鉱であった︒此半島全
域に於て︑鉄鉱床の最も多く見出されるのは東京省北部︑安南中部等であって︑遠く南方﹁カンボチャ﹂に於ては︑
大湖東北及び遁羅湾海岸の島嶼に其鉱床ありとせられているが︑大規模の採堀が行はる4に至ったのは戦前︑台湾拓
殖会社が其子会社印度支那産業会社をして︑東京省中部﹁タイグヱン﹂
矢であった︒大平洋戦勃発前に於ける統計を示せば次の如きものがある︒ より多くの
uo
て︑旧式炉によって﹁ケラ﹂が作られて︑安南王家の武器製造に用いられた時代があったのであるが︑従来此領内に
於ては大規模の採堀と製鉄の業は興されていなかった︒殆んどすぺての鉄鋼品は仏本国からの供給があり︑現地に於
て製鉄の業も興り得る余地はなかったのであった︑唯︑昭和十七/八年の頃︑
︵北山︶に一〇聴炉一基が建設せられ﹁ケバオ﹂鉄鉱石及び附近産
出鉄鉱石を原料として︑銑鉄の生産が試みられつ
4
あったが︑其操業円滑を欠き︑極めて小量の赤鉄銑が海防鉄工所に供給されたに止り︑所期の効果は挙げ得られなかったもの
4
如くであった︒東京省内に於いては︑さきに︑言及した広安炭田の北端﹁ケバオ﹂島に褐鉱々床があり︑既に稼行せられて︑数千
屯に昇る採堀が行はれたが其品位の関係から︑日本側製鉄業者買入れ規格に適合せず﹁カンフア﹂港頭に堆高く貯蔵
されてあるのが見られた︒東京省内に於て︑戦前︑鉄鉱山開発に手を染めたのは︑台湾拓殖会社の子会社であって︑
仏国法に準拠して設立された印度支那産業会社︵前掲︶であった︑其所有鉱区は︑東京省内に三十二鉱区︑安南に十
二鉱区あって︑其最大なものは︑東京中部の太原鉱山である︑鉱種は赤鉄鉱︑褐鉄鉱︑磁鉄鉱又雲母鉄鉱も見出され
る︑日本むけ積出しの行はれた鉱石品位は︑五三劣乃至六三劣であったと云ふ︒坑所よりの搬出には︑三〇聰乃至五
0
聰孵船によって︑河川を利用して︑約五日間の航程を以て︑海防港へ送達して︑太洋航行船への船積が行はれる︒太原鉱山に近接して﹁イヴォンヌ﹂鉱区なるものが存在する︑ て河内の東北方﹁ダプカウ﹂市近郊﹁パクソン﹂
鉄及マンガン鉱総轍出
同右︑日本向け轍
l f l
一九三七年
一五七︑七一六聴
一五六︑九七四聰 一九三八年 八九︑七
0八 逃
八九︑七
0八 聴
仏領
時代
に於
ける
印度
支那
鉱産
事憬
につ
いて
︵賀
屋︶
前述の﹁ドンチュー﹂炭鉱会社関係の鉱区であっ た ︒
安南地方の鉄鉱も極めて小規模に採堀され
此統計によって知り得らる4が如く︑印度支那
地域からの輸出の殆んど全部が日本向けであっ
﹁マイタム﹂なる一安南人の手によっ
一 八
151
仏領
時代
に於
ける
印度
支那
鉱産
事愉
につ
いて
︵賀
屋︶
引き続いての積出しは行はれなかったもの
4
如くである︒ 先ち計劃は挫折した︒前述安南中部﹁ヴィン﹂市附近︑
にあたった邦人商社としては︑岸本商店があり︑
本商店の積出しにか
4
るものは﹁マンガン﹂含有鉱であったがため︑鉄分品位の低率も︑一九
て︑磁鉄鉱を産する︑品位極めて優良であって七
0
形に及ぷものも存在すると云ふ︒鉱量も可成豊富であると云ふ見透しから︑本邦著名鉱山会社の手によって︑稼行が計劃されたことがあったが︑太平洋戦勃発により具体化を見るに
又︑河内西方紅河畔雲南鉄道沿線に﹁ヱンバイ﹂鉄鉱床がある︒戦前︑本邦有力鉱山会社より現地に人を派して実
地調査を行ったことがあるが︑偶々︑同地方に於ける土民の抗仏反乱に妨げられて︑其目的を達成し得なかったと云
ハチン地方には︑褐鉄鉱及マンガン鉱の鉱床が見出される︑此地方に於て︑稼行
また︑﹁力﹂河︵ソンカ︶上流安南人鉱区採堀褐鉄鉱の日本向け積出
しを行った本邦人に横山正脩なる人がある︒此地帯所産の褐鉄鉱品位は辛ふじて五
0
形に過ぎないものであるが︑岸マンガン含有量によって︑
これを補ふて尚余りあったと云う︒横山正脩氏の取扱ひに属したものは品位に於て五
0
彩を梢越えたるものあったとは云へ︑微量の燐分を含有したがため︑﹁トーマス﹂転炉を装備する日本鋼管会社の使用に供する外︑利用の途なく︑
上記各鉄鉱山出鉱の積出しを概観するに︑台拓子会社印度支那産業会社稼行に係る太原鉄鉱は前述の如く国内河川
によって︑海防港に搬出して︑此地に於て本船へ船積せられるcしかるに︑中部安南﹁ヴィン﹂市附近の鉱区所産の
ものは︑其鉱区の所在が﹁力﹂河︵ソンカ︶上流数十粁に亘つて︑点在しているのであるが故に︑河船を利用して︑河
ロ﹁ハイヱン﹂迄搬出せねばならない︑河口へ搬出された鉱石は一旦此河岸へ陸揚げを行ひ︑積込船の来着を待って︑ ふ ︒