行政裁量とその正当化
ーカナダ行政法学からの視点をふまえてー
高 木 康 一
一︑はじめに
二︑行政行為における裁量の意味
三︑カナダ行政法学からの視点
四︑﹁正当化のための手続参加﹂の可能性
一、
ヘじめに
︵1︶ 選挙によって選出された議員が立法をなし︑これを行政が﹁誠実に執行﹂し︑それに対して裁判所が審査すると
いう単純な構図が成り立つ限りで︑﹁行政裁量﹂に関する問題は生じない︒しかし実際のところ︑現代社会におい
て︑このような権力分立観が通用することの方が少ない︒行政法学において﹁行政裁量﹂に関する研究は︑比較法
も含め膨大である︒本稿では︑行政行為において﹁行政裁量﹂が語られるとき︑何が含意されているかを改めて検
行政裁量とその正当化 ︵都法四十九ー二︶ 二八五
二八六
討した上で︑それがどのような帰結をもたらし︑かつ︑正当化されうるか︑また︑何ゆえ正当化が必要なのかを論
じることにする︒
二︑行政行為における裁量の意味
ー ドゥオーキン教授の言う三つの裁量概念
﹁裁量﹂について︑ロナルド・ドゥオーキン教授は︑三つの概念を提起する︒
第一は︑﹁弱い意味の裁量﹂であり︑権限を有する⁝機関が設定した規準があり︑これを裁定者︵碧o旨○巨︶が適
用しなければならないときに︑⁝機械的には適用できず︑判断が必要とされるものを指す﹇O司o完巨心︒OO◎ c︒㌣c︒心︒⁝
ドゥオーキント︒OO心︒心︒べ1心︒Q︒﹈︒
二つ目の概念も︑﹁弱い意味の裁量﹂に区分されるが︑それは別の意味でそう呼ばれる︒これは︑ある裁定者に
最終的な決定権限があり︑他の裁定者はこれを再検討したり覆したりすることができないという意味である︒この
裁量概念は︑ある裁定者の判断ないしその結果とった行動を再検討する者が存在しないことを特徴として備える
﹇O妻自苔心oOO9ωN⁝ドゥオーキン心︒OO心o心oQ︒﹂︒
第一︑第二の意味と区別されるのが︑最後の︑﹁強い意味の裁量﹂である︒この裁量概念は︑ある問題に関して︑
権限を有する者が制定した規準に裁定者が単に拘束されるわけではないことを意味する︒第一の意味の裁量が︑漠
然として適用しにくい規準の適用の仕方にかかわる議論であり︑第二の意味の裁量が︑規準適用の最終的権限を有
するのは誰かについての議論であるのと異なり︑規準の範囲と︑規準が統制しようとする裁定について検討がなさ
れる冒司自苔NOOぷc︒b︒⁝ドゥォーキンN⇔O押N°︒﹈︒第三の意味の強い裁量は︑特定の権限によって与えられる規
準が︑裁定者を拘束しないというものである﹇°§﹃§°・°・⁝ドゥオーキント・°°㌫﹈・この意味の裁量が行
政裁量に認められないのは当然である︒
2 法規範における準則と原理
法規範における準則︵巨Φ︶は︑特定の結論を導出すべく適用者に命令することを意味し︑これに対して法規範
における原理︵廿日6菅o︶は︑結論を=疋方向に導く仕方で作用する﹇O妻9苔b︒OO◎c︒0ーω◎ドゥオーキンNOO心︒
c。
aB [︒︒ω⁝長谷部心︒OO◎吟ー㎝﹂︒第一の意味の裁量は︑法規範における準則と原理の区分に対応する︒第一の意味と第
二の意味の裁量を組み合わせると︑日本における古典的裁量学説の用いる︑覇東行為と裁量行為の区分︑さらに裁
量行為の法規裁量︵覇束裁量︶と便宜裁量︵自由裁量︶との区分に対応する︒
行政裁量とその正当化 ︵都法四十九ー二︶ 二八七
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3 日本における古典的裁量区分とドゥオーキン教授の裁量概念
①轟東行為︵第丁第二の意味の裁量の不在︶
覇東行為は︑﹁法律が行政機関に⁝政策的・行政的判断の余地を与えず︑厳格に法律による拘束を行っている﹂
場合を指す﹇藤田心︒OO◎㊤ひ﹈︒こうした表現は︑﹁法規範が準則に該当する場合は︑璃東行為に当たる﹂と言い換え
ることができる︒これは︑第一の意味の裁量が存在しないことを意味する︒この場合は当然︑裁判所は︑当該行政
行為を審査しうる︒したがって︑第二の意味の裁量もまた︑存在しない︒
②法規裁量︵第一の意味の裁量の存在・第二の意味の裁量の不在︶
法規範における準則の解釈で案件が処理されることは少ない︒たいてい法は︑﹁行政機関に包括的な授権を行い︑
行動を行政機関の政策的・行政的判断に委ねて﹂おり﹇藤田心︒OO◎Φ㎝﹈︑﹁行政活動が法令によって一義的に拘束さ
れていない﹂﹇芝池b︒OO◎Φ゜︒﹈からである︒この場合の法規範は原理に該当し︑第一の意味の裁量に帰着する︒そ
のうち︑当該行為に裁判所の審査が及ぶ場合︑すなわちある行政行為に第二の意味の裁量が無い場合が法規裁量に
あたる︒法規裁量は︑裁判所による違法行為との判断に服するからである﹇田中﹂Φ恕一一べ 9﹈︒
③便宜裁量︵第一の意味・第二の意味の裁量の存在︶
原理の解釈11裁量行為とされたもののうち︑裁判所が﹁行政庁の当不当の判断に委ね︑かつ︑その判断の最終性
を認めようとする﹂﹇田中一⑩べ古一一べ﹈ものが便宜裁量である︒ここでは︑違法・適法の審査が及ばず︑当不当の
判断のみが可能とされるが︑後者は裁判所の行う役割ではない︒したがって︑終局的判断権は行政に帰属するため︑
第二の意味の裁量も存在する︒
古典的学説の説く裁量区分はしかし︑すでにして実定法の規定上︑その貫徹が難しい︒例えば︑便宜裁量にして
も︑裁判所は﹁原則として︵裁量権の限界を超え又は濫用にわたるときは別︶﹂﹇田中一q⊃べ古一嵩﹈︑行政の判断を
尊重すべきものとされているに過ぎないからである︒そしてこのことは︑行政事件訴訟法三〇条の制定によって裏
づけられている︒また︑判例の動向も︑便宜裁量として説かれたところからは距離を保っているように1少なく
とも外観上は1思われる︒ ︵3︶ たとえば︑神戸税関事件で最高裁は︑公務員の懲戒は﹁平素から庁内の事情に通暁し︑部下職員の指揮監督の衝 ︵4︶ にあたる者の裁量に任せる﹂こと︑そして﹁懲戒処分を行うかどうか︑懲戒処分を行うときにいかなる処分を選ぶ
かは︑懲戒権者の裁量に任されているものと解すべ︵ぎとする・ここで述べられていることの前提にあるのは・
﹁懲戒権者は︑⁝諸般の事情を考慮して︑懲戒処分をすべきかどうか︑また︑懲戒処分をする場合にいかなる処分 ︵6︶ を選択すべきか︑を決定することができる﹂ということである︒したがって︑この文脈で最高裁が﹁裁量﹂として
イメージしているのは︑ドゥオーキン教授の言う第一の意味の弱い裁量である︒
それでは︑第二の意味の弱い裁量の方はどうであろうか︒同判決で最高裁は︑﹁懲戒権者が右の裁量権の行使と
してした懲戒処分は︑それが社会観念上著しく妥当を欠いて裁量権を付与した目的を逸脱し︑これを濫用したと認
められる場合でない限り︑その裁量権の範囲内にあるものとしてこ遅法となら毘﹂と判断している・裁判所は・
違法との判断を下す場合があることを宣言しているのであり︑第二の意味の弱い裁量を行政裁量としては認めてい
いない︒
行政裁量とその正当化 ︵都法四十九ー二︶ 二八九
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もっとも︑﹁行政行為が適法である限り第二の意味の裁量がある﹂と言えるかもしれない︒しかし︑この表現は︑
ミスリーデイングである︒適法な行為の具体的内容に対し当不当の判断を行うこと︑また︑適法行為とされた裁定
内容に対し︑よりよい代替案を提示することは︑そもそも裁判所の権限でないのは当然のことであり︑これをあえ
て裁量と呼ぶ必要はないからである︒本来的にこの意味の裁量が認められるのは︑衆議院の解散が問題になった事 ︵8︶ 件ではあるが︑苫米地判決のように︑﹁現実に行われた衆議院の解散が︑その依拠する憲法の条章について適用を
誤つたが故に︑法律上無効であるかどうか︑これを行うにつき憲法上必要とせられる内閣の助言と承認に蝦疵があ ︵9︶ つたが故に無効であるかどうかのごときことは裁判所の審査権に服しないものと解すべきで﹂あり︑﹁直接国家統
治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟となり︑これに対する有効無
効の判断が法律上可能である場合であっても︑かかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり︑その判断は主権者た
る国民に対して政治的責任を負うところの政府︑国会等の政治部門の判断に委され︑最終的には国民の政治判断に ︵10︶ ︵11︶ 委ねられているものと解すべき﹂であって︑﹁ひとしく裁判所の審査権の外﹂にあるような場合を指すものと思わ
れる︒むろん︑行政行為にこのような形態は存在しない︒
上位の権威である立法内容が︑法準則として一義的に意味を確定できる形態ではない場合︑すなわち開かれた構
造をもった法原理として規定されている場合に︑それを解釈する余地を指して行政裁量と呼ばれることがある﹇芝
池NOO◎Φ゜︒⁝宇賀心︒OO◎N°︒b︒﹂︒しかし︑筆者にはこのような捉え方もまた︑ミスリーディングに見える︒ドウ
オーキン教授が言うように︑﹁明確な準則が適用できない場合に︑判断という意味の裁量が用いられるという命題
は︑トートロジーである﹂冒司o﹃苔心︒OOぷω合ドゥオーキン心︒OOb︒ω巳︒あらゆる法原理には解釈の余地があり︑
同じような立場にあり︑同じような能力をもった者の間でもその解釈に違いが生じることがある︒これをあえて裁
︵12︶ 量と呼ぶ必要があるとは言い難いからである︒
また︑第一の弱い意味の裁量と第二の弱い意味の裁量の関係であるが︑第一の意味の裁量の存在が︑直ちに第二 ︵13︶ の意味の裁量の存在に帰着し︑裁判所の審査が及ばないという論理関係﹇宇賀心︒OO◎心︒°︒c︒﹈は存在しない︒したが
って︑現代の行政法が﹁行政裁量﹂を課題とする際に︑第一の意味の弱い裁量だけを強調してもさほどの意味はな ︵14︶ く︑また︑第二の意味の弱い裁量の存在を指摘するわけでもないことになる︒
行政裁量をめぐる最近の議論は︑裁量の有無というよりはむしろ︑一義的に意味を確定できない法規定の解釈と
適用を︑どのような密度で裁判所が審査するかということに関心が移っている﹇塩野心︒OO◎巳⑩ー﹂心︒⇔﹂︒そして行
政裁量の中心的関心は︑かつてのように司法審査を排除することではなく︑﹁司法審査を制限する機能﹂﹇山下心︒OO◎
心。
黶K︒﹈を備えていることに向けられている︒
行政行為における裁量の問題を︑ドゥオーキン教授の言う第一の弱い意味︑つまり行政に与えられた法規範にお
ける原理の解釈の余地︑および︑これに対する裁判所の審査が︑行政行為の尊重ないしは行政行為に対する敬譲を
示すかたちでなされることだと解すると︑問題は︑何ゆえ裁判所の審査が行政に対する尊重や敬譲をもっての応答
たるべきか︑そしてその程度が問題になる︒裁判所が行政に対して示す尊重・敬譲に関する議論としては︑カナダ
行政法学が示唆に富む視点を示してくれる︒
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三︑カナダ行政法学からの視点
1 行政裁量行使と裁判所
カナダの裁判所は伝統的に︑合衆国のロックナー時代と同様の意味で︑保守的だと考えられていた︒これに対し
て︑行政国家の担い手となる行政の方は︑より進歩的政策の実現者だと受け止められていた︒したがって︑裁判所
が行政のとる行為に敬譲を示すことは︑行政による正義の実現という現代的要請に即した改革志向に合致するもの
であり︑反対に︑司法がそこに介入することは︑社会的・経済的転換を担う国家の施策を阻むような︑守旧派の思
考に値するものとみなされた﹇o力oc︒°・日碧q田oo口卜︒OOべα゜︒心︒占゜︒ω﹈︒こうした流れの背景には︑二〇世紀に入りカナ
ダにも訪れた福祉国家観がある︒伝統的な︑時に形式主義︵﹂ぴ自芦Q︒日︶と批判される権力分立観の見直しが︑ひ
いては︑司法と行政の役割の見直しにつながることになった﹇一∪望N⑦旨但已o︒心oOONり吟︽⑩1︽OO﹈︒ ︵15︶ しかし︑一九八二年以降のカナダ憲章時代に入り︑裁判所は進歩的な見解を︑行政府はおろか︑とりわけ近年は︑
立法府すらをしのぐ勢いで発している︒それでもなお︑行政裁量に対する判断にともなう問題は残る︒それは︑日
本における議論と同様︑福祉国家として必要とされる判断など︑裁判所が行政裁量に対する判断を正面から行いづ
らいという問題を含むからである﹇﹇︶ぺNm﹃旨知已c力心oOON心Φ一ー︽Φ心o﹈︒
カナダ行政法においては︑法と行政裁量を区分する見方が︑一九七〇年代後半ころまでには確立した︒そこでの
主要な関心は︑法的問題と︑準司法的決定や行政決定︵置∋巨゜︒胃巴守o創Φo芭o白︶を含む行政裁量をいかに構造化す
るかであった︒つまりは︑裁判所が司法審査をもって介入しうる法的問題と︑それができない後者をいかに区分す
るかが︑カナダ行政法の主要な課題の一つであった︒この区分は︑司法の介入が許される非裁量問題と︑それが認 ︵16︶ められない裁量問題としても扱われる︒そして裁判所は︑法に基づく行政による決定には︑実体にも手続にも審査
を行うが︑行政裁量上の決定︵合゜︒自①9冨目q①6巨05︶には介入を拒むスタンスをとるようになる︒そこでは︑裁
判所は︑形式主義的権力分立観をとり︑非司法的作用︑つまり行政作用ないしは裁量作用への介入は自ら不当なも
のだと考えた﹇○曽江Φ﹃心︒OO◎Φ吟OlΦ吟﹂﹂︒
もう一つの課題は︑英米法圏に見られる︑行政審判所の役割についてである︒これは︑﹁事実認定と法律問題の ︵17︶ 区分論﹂にも対応する問題である﹇高橋 一⑩㊤叉 ゜︒±﹂︒カナダ行政法に関して言えば︑行政審判所の行う判断を︑
裁判所が全く審査できないという考えは︑連邦最高裁の判例上も学説上もすでに放棄されている﹇○知註隅心︒OO古Φc︒
1忠﹈︒ ︵18︶ 法.裁量二分論は︑一九七九年の連邦最高裁判決以降︵CUPE事件︶︑若干の修正が試みられる︒最高裁は︑
実体と手続を区分し︑従来は︑司法審査が及ばないとされた行政裁量にも手続面での審査が及ぶことを確認した︒
その結果︑裁量権限を行使する判断者には︑手続上の責務が課されることになる︒この後の判例の展開は︑少しず
つ裁量と非裁量の区分をあいまいにしていくが︑それでもなお︑二分論は残される︒
そして︑裁量・非裁量の厳格な二分論がもはや維持し得ないとの認識が示されたのが︑様々な論点に関して︑現
在のカナダ行政法に最も大きな影響を与えている一九九九年の㎏§ミ<○臼↓§§Q§註鯉ミ∀sO泣烏○§ぎ§9さ⇔ぎ− ︵19︶ §S§§さ 判決である︒それによれば︑﹁﹃裁量﹄決定か﹃非裁量﹄決定かという厳格な二分論を提示することは
不正確である︒大部分の行政決定は︑意思決定︵△Φ○巨︒⇒日①巨o︒︶の多くの側面と関連する暗示的な裁量行使をと
行政裁量とその正当化 ︵都法四十九ー二︶ 二九三
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もなう︒⁝ さらには︑︹法の︺解釈と裁量行使の間で安易な区分がなされるものでもない︒法規定︵冨oq巴己゜窃︶
の解釈には︑法律上の間隙を明らかにし︑それを埋め︑また︑種々の選択肢の中から選択を行う重要な裁量が含ま ︵20︶ れるからである﹂︒
こうした流れにおいて︑カナダ行政法における行政裁量の主要な関心は︑いくつかに分節することができる︒そ
のうちの大きな傾向の一つは︑裁判所における審査基準に焦点を当てるものである︒法解釈・適用の多義性︑およ
び裁判所が行政に示す尊重や敬譲︑そしてそこに含まれる問題を克服するための裁判所における審査基準に関する ︵21︶ 議論が一方の極にある︒他方の極は︑行政裁量の手続的統制に関する議論である︒英米法系に属するカナダ行政法
は︑むろん︑この点に関する議論も活発である︒以下で扱うのは︑後者の議論の系譜に属する︒
裁量・非裁量二分論とならび別の観点からなされる二分論が︑実体・手続審査に関する二分論である︒上述のよ
うに︑裁量の行使に対して裁判所が統制を行わないとの見方が主たる時代には︑実体においても手続においても裁
判所は審査を行うことを拒んできた︒しかし︑カナダ連邦最高裁判所は︑すでにして一九七九年に︑行政上の意思 ︵22︶ 決定︵曽巨巨m胃①9008巨o〒旨知巨σq︶においても手続の公正の義務が排除されないことを示していた︒そして︑
﹁過去三〇年以上にわたるカナダ行政法の主要な発展を集結し﹂︑﹁以後数十年にわたる個人と国家の法的関係の基
礎の構築に資する﹂冒笥Φ旨き゜︒NOO古巳とされたロ毘円判決において︑行政上の決定における手続的公正が認め
︵23︶ られた︒
手続的公正の要請はしかし︑日本における議論においてもしばしば指摘されるように︑それ単独で行政裁量に関 ︵24︶ する諸問題を解決するツールになるとは言い難い︒というのも︑手続の審査は裁判所の敬譲を解放するものではな
く︑ある行政行為に対する審査項目が追加されるに過ぎないとも言いうるからである︒裁判所が手続に関する審査
を行う際は︑実体の審査に比べて厳密になすべきという帰結が自動的に用意されているわけではない︒ここでは依
然として︑裁判所が行政に対して示す敬譲の理由は取り除かれていない︒
そこで近年︑カナダ行政法において︑興味深い見解が示されている︒﹁対話﹂︵合巴ooa器︶や﹁参加﹂︵窟邑巳吉−
﹇ざ5︶というコンセプトが一九九〇年代の後半ころからカナダ公法学のキーワードになりつつある︒その一例が︑ ︵25︶ 裁判所による法律の違憲審査の正当性に関する議論で見られる︒公権力行使の正当化を︑﹁対話﹂や﹁参加﹂によ
って裏づけようとする試みは︑市民の政治参加にリンクし︑終局的には︑デモクラシーにつながる︒
2 ﹁権利としての手続参加﹂と﹁正当化のための手続参加﹂
手続的公正の内容としては一般に︑告知・聴聞・代理人の参加・情報開示・証拠提示・反問・理由提示などが挙
げられる﹇﹈﹈蔓碧け騨5巳c力OQooo巨心oOO心o∨﹂べ㎝ー﹂oo一﹂︒
上述したロ爵2事件でルルーデューベ︵巳=Φ已﹃O日ー﹈∪巴巳9⑳︶判事が書いた全員一致の見解によれば︑﹁手続上の公
正の義務に含まれる参加権︵冒﹃註○甘巴o目晶宮゜︒︶の目的は︑決定から影響を受ける人々が自らの見解や証拠を完
全に提出し︑そしてそれらを意思形成者︵qΦo巨o〒日呉Φ﹃︶がしっかり考慮する機会を備えて︑なされる決定︑そ
の制定法上・制度上のコンテクスト︑そして社会的コンテクストにふさわしい公正かつ開かれた手続を用いて行政 ︵26︶ 上の決定がなされるようにすること﹂である︒
ここでは﹁参加権﹂という用語が用いられているが︑その内実は︑従来の手続的保障を意味するものであり︑何
行政裁量とその正当化 ︵都法四十九ー二︶ 二九五
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らかの特別の意味が与えられているものではないと思われる︒判決において︑手続的公正の意義は︑決定の影響を
受ける個人が︑自分の関係する事例について︑必要な情報や見解を﹁完全かつ公平に提示する﹂ことや︑自らの権 ︵27︶ 利や利益に影響を及ぼす決定が︑公平で不偏的な仕方でなされる機会を求めることに置かれているからである︒ま
た︑ここで説かれた手続的公正は︑行政決定一般に適用されるわけではなく︑法令の規定や問題となる権利などに ︵28︶ よって判断されるのであり︑つまり﹁文脈の認識に依拠している﹂︒
このような従来の手続的公正に関する議論を︑相当に斬新な視点からとらえ直すのがカルティエ教授である︒彼
女は︑﹁対話としての裁量﹂というコンセプトで行政裁量に関する議論を展開する︒
彼女が行政裁量において﹁対話﹂を持ち込むのは︑手続の段階においてである︒つまり︑最終的な決定に至る過
程に︑﹁対話﹂を組み込む︒それは大きく二つの次元から構成される︒まず︑主体当事者たちは︑自らの置かれた
状況を確認するために︑相手方の位置づけを知る必要がある︒ここでなされる﹁対話﹂を行う﹁コミュニケーショ
ン﹂主体は︑決定を下す行政と︑その決定から影響を受ける私人である︒私人の側は︑自らの状況を詳説し︑自ら
の特別の位置づけを相手に伝える︒これに対して︑決定を行う行政の側は︑情報を提示することや聴聞の実施が求
められる﹇○③詳﹂①﹃ 心oOOO Φ心吟ー⑦吟α W﹈︒この第一の観点は︑あえて強調するまでもなく︑通常の手続的権利からもた
らされるものである︒これを﹁権利としての手続参加﹂と呼ぶことにしたい︒
これに対してもう一つの次元の方は︑ユニークである︒この次元においては︑行政による裁量行使の規準となる
規範や価値の存在が重要視される︒当事者たちは︑この価値・規範に基づいて熟慮するために︑それぞれが置かれ
た特定の状況から一歩踏み出ることが求められる︒そこは︑自らの利益の追求の場ではなくなる︒法が行政に裁量
を委ねているということは︑この法は特定の状況を規律すべき規範を︑完全なかたちで予め確立しているわけでは
ないことを意味する︒したがって︑決定者の側には選択の余地が残されている︒判断に至る過程においてむろん︑
行政は︑その特性として備える能力を発揮する余地が認められる︒しかしこれは︑一方的に行政が規範を確立した
り︑価値を表現する場として用いられるべきではない︒法が与えたこの空間は︑規範確立や価値表現に参加するあ
らゆる当事者のコミュニケーションの場として確保されなければならないのである﹇○§醇心︒OOぷΦ冷﹈︒この第
二の次元を﹁正当化のための手続参加﹂と名づけることにする︒
筆者は︑ここに彼女の見解のエッセンスがあると考える︒
通常︑法が裁量を与えると言った場合︑我々の認識は立法から行政へ︑そしてその後︑司法における判断という
︵29︶ 推移をたどる︒しかしカルティエ教授によれば︑﹁関連する個人を決定者とともに規範の同定と価値の表現プロセ
スに関与させることによって︑対話アプローチは︑司法と行政︵①×Φ6巨くΦ︶のヘゲモニーを断絶させる協働事業
を示すものとなる﹂﹇○③﹃古﹂①﹃心りOOα Φ﹄oo ︸﹈︒
従来の議論において﹁行政裁量﹂は︑デモクラシーに敵対するものとみなされることが通常である︒しかし︑
﹁対話としての裁量﹂の導入は︑デモクラシーに合致するのみならず︑行政の決定の民主的性格をむしろ強めるこ
とができる﹇○餌邑2心︒OOぷO㎝巳︒
﹁対話としての裁量﹂というコンセプトから導かれる﹁対話﹂は︑市民の﹁参加﹂とならび﹁公的責任﹂を生み
出す︒裁量権行使が妥当だとされるためには︑個人が︑自らの状況を規律することになる規範の決定に参加するこ
とを条件とする︒そして裁量決定プロセスがすでに行われた﹁対話﹂︑制定法の枠組み︑公共の利益に応答したも
のであるべきとの要請を課すことによって︑﹁対話としての裁量﹂から公的責任が生じる︒この二つの要素をもた
らすことから﹁対話としての裁量﹂は︑﹁デモクラシー﹂の一形態として機能することになる﹇○知註隅心︒OOぷΦ㎝O﹈︒
行政裁量とその正当化 ︵都法四十九ー二︶ 二九七
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法は行政だけに裁量行使の規準のための規範確立や価値表現を認めたのではなく︑そのような場を︑行政と私人
が参画するアリーナとしたのだとカルティエ教授は考える︒そこでなされるのが︑﹁コミュニケーション﹂︑したが
ってまた︑﹁対話﹂なのである︒このプロセスは︑﹁熟慮のプロセス﹂とも呼ばれ︑﹁公共の利益﹂と﹁制定法﹂の
二つを基礎的要素として成り立つ︒﹁対話﹂の当事者たちは︑﹁公共の利益﹂の検討によって正当化されない裁量行
使を支持することはできない︒他方︑﹁制定法﹂は︑諸々の指針を民主的に表明したものであって︑この指針は国
家と個人の間のコミュニケーションを形成し︑そこで形成される規範内容や表現される価値に影響を及ぼすもので
ある﹇○知﹃け﹂O﹃心oOOm Φ吟㎝ーΦ心O W﹈︒
裁量行使の規準を作り出すアリーナでは︑﹁公共の利益﹂が求められなければならないため︑各自のもつ善の構
︵30︶
想は排除されると考えられる︒これは規範確立・価値表現という次元に対応している︒そしてもう一方の︑制定法
を重要視することも︑彼女の見解からすれば︑当然のことである︒というのも︑対話とデモクラシーをリンクさせ
るならば︑制定法はデモクラシーの表れとも言いうるものであるから︑この存在を無視し得ないからである︒
こうして見ると︑カルティエ教授は明言しないが︑熟議民主主義︵巳合ぴo田﹇守Φ qΦ∋o︒轟o司︶を意識しているの
ではないかと思われる︒熟議民主主義は︑きわめて単純化すると︑決定そのものではなく︑そのプロセスにおいて
いかなる討議.熟議・熟慮がなされるかに焦点を置くものである︒ソッシン教授が指摘するように︑﹁対話﹂とい
う考えをもちこむことによって︑裁量の行使は︑行政と市民とのコミュニケーションに帰着する︒そしてこのコミ
ュニケーションは︑公共の利益を制定法に移入する立法府から始まるのである﹇°︒o︒︒︒巨心⊃OO靭゜︒︽巳︒対して︑カル
ティエ教授の議論の対象は︑法が行政に委ねた裁量行使の規準となる規範や価値の内容の具体化が︑熟慮のプロセ
スにおいてなされなければならないというものである︒法︵立法︶から行政に投げられた裁量があり︑これに対す
る裁量統制方法を市民と行政が練り上げていくという構成である︒そうすることによって裁量は︑民主的に正当化
される︒ こうしたデモクラシー観を打ち出すと︑しかし︑一つの困難が生じる︒決定が市民の参加に裏づけられるほど︑
民主的性格を強くし︑その結果︑非民主的機関である裁判所をより萎縮させ︑介入することを難しくさせるのでは
ないだろうか︒結局︑デモクラシーを強調すればするほど︑裁量統制に関する争点の出発点に立ち戻ってしまうと
いうジレンマをかかえることになる︒
この点に関してカルティエ教授が裁判所の役割として考えるのは︑適切な﹁対話﹂がなされているかどうかの監
督権限であり︑裁量の規準となる規範はどのようなものであるべきか︑いかに諸価値が表現されるべきか︑何が最
終的な裁量決定たるべきかの判断権限ではない﹇○③註①﹃NOO◎Φ㎝c︒﹂︒彼女は︑﹁対話としての裁量﹂が︑決定者と
その決定の影響を受ける者との協働のプロセスに焦点を置くものだとしながらも︑司法審査の正当性を否定するも
のではないと考えている︒裁判所には︑﹁対話﹂が実際になされることを確保するという監督の役割が与えられる
からである﹇○§毎心︒OOぷΦ芯﹂︒
カルティエ教授は︑﹁対話としての裁量﹂という考え方を導入することによって︑民主的に決定された法が裁量
を行政に委ね︑その裁量行使の規準となる規範や価値の創造プロセスに市民を介在させ︑そこで﹁対話﹂や﹁コミ
ュニケーション﹂がなされるべきことを主張する︒このプロセスは︑熟議民主主義に通ずる︒そして裁判所は︑
﹁対話﹂や﹁コミュニケーション﹂が適正に機能しているかどうかを審査する役割を与えられることによって︑非
民主的機関の介入だとの批判を免れる︒裁判所の役割は︑﹁対話﹂や﹁コミュニケーション﹂といった︑ほかなら
ぬ民主的作用がなされているかどうかのチェック機関として判断を行うことにあるとされ︑民主的とされるための
行政裁量とその正当化 ︵都法四十九ー二︶ 二九九
三〇〇
必要条件を審査するからである︒
ここで求められているのはソッシン教授の指摘するように︑市民の﹁自己統治﹂である︒﹁行政プロセスへの参
加は︑単なる手続的公正ではなく︑民主的生活の根本的礎石とみなされるべきである﹂﹇ωo°・°︒ヨNOO心︒°︒ミ﹂︒
四︑﹁正当化のための手続参加﹂の可能性
行政裁量とは︑法原理の解釈として行政に与えられた余地だとしても︑その判断が法的問題として訴訟になった
際に︑裁判所は︑これに対して敬譲を示すことが頻繁にある︒これにはいくつかの理由が考えられるが︑さしあた
り︑①裁判所には︑行政が有するような高度の専門・技術的判断能力がないこと︑②政治的判断を要する場合には︑
権力分立の観点および政治的闘争回避の観点から裁判所は判断を避けるべきであるということ︑③立法者が法原理
のかたちで立法をなすということは︑その具体的解釈・適用は行政に委ねていることを意味するのであって︑裁判
所は介入するべきではないという︑立法者意思の尊重︑そして後二者と関連して︑④裁判所には民主的基盤がない ︵31︶ ことなどが挙げられよう︒
①の専門・技術的能力に関しては︑すでに多くの指摘があるように︑民事・刑事事件において裁判所は医療訴訟
などで専門的判断を行っている﹇塩野NOO◎一一゜︒﹂こととの整合性が求められる︒また︑専門性や技術性を有する
ことが︑専門性や技術性を正しく使いこなすことを意味するわけではないことは︑近年の薬害訴訟などで明らかに
なっている︒専門・技術的知識に基づき行った判断の妥当性を︑立法府や行政府に主張・立証させ︑その当否を裁
判所が判断すればよいとも言えるし︑さらには︑裁判所に専門・技術的能力がないと言うのであれば︑それに基づ
く立法府や行政府の判断が妥当だとの判断を下す能力もないはずだとする長谷部教授の指摘は示唆に富む﹇長谷部
︵32︶ お⑩P心︒お﹈︒
②については︑すでに述べたように︑政治的闘争からの距離が求められるのは︑苫米地事件に見られるような衆
議院の解散といった高度に政治的判断を要する場合には考えられる︒しかしながら︑行政裁量の文脈で語られる政
治的判断は︑違憲審査におけるいわゆる統治行為論とは相当に様相を異にしている︒もつとも︑政治的判断を要す
る事項にはなるべく裁判所は介入しないということが︑苫米地事件でも言及されたように︑﹁主権者たる国民に対 ︵33︶ し政治責任を負うところの政府・国会等の政治部門の判断﹂に委ねるべきことを根拠とするのであればそれは︑結
局︑裁判所の民主的性格の欠如を指す︒
憲法上︑一定の限界があることを示唆しながらも︑﹁日本国憲法下では︑行政裁量の正当化根拠は立法者の意思
に求める﹂ほかないとする見解は﹇周心︒OO◎にω﹈︑③を強調するものである︒立法者があらゆる事態を想定して
法律で規定することが困難であり︑したがって︑行政は具体的な解釈・適用の段階において適切な選択をなすこと
を命じるのが︑ここで立法者意思とされるものである﹇阿部卜︒OO◎b︒°︒﹈︒立法者意思はしかし︑相当に広範な判断
余地を行政に認めることに加え︑裁判所の審査を抑制することの根拠に用いることができるほど強力なものであろ
︵43︑︶°
・つ・刀