資本制生産と公企業の形成についての理論的考察(
二)
その他のタイトル A Theoretical Approach on the Capitalist Production and the Formation of Public Enterprise (II)
著者 寺尾 晃洋
雑誌名 關西大學商學論集
巻 8
号 6
ページ 543‑563
発行年 1964‑02‑29
URL http://hdl.handle.net/10112/00021613
資本制生産と公企業の形成についての理論的考察
ところで独占段階においても競争は決してなくならない︒むしろ独占的競争がこの段階の特徴となる︒とくに世 2
独占的競争と衰退産業部門
w~ ][ 2 独占資本主義における不均等発展と衰退産業部門 独占以前の資本主義における公企業の形成と推転
独占形成過程における産業諸部門⁝⁝︵以上前号︶
独占
的競
争と
衰退
産業
部門
⁝⁝
⁝⁝
・・
・︵
以下
本号
︶
全般的危機の諸条件と国有化の形成
最近の国家独占資本主義論争と国有化の評価について ー I I ー 内
容 理論的考察
ロ︵
寺尾
︶
(二)
五九
寺 尾 晃 洋
資本制生産と公企業の形成についての
544
口︵
寺尾
︶
界市場においては競争が激化する︒
個々の資本家は︑同じ部門の大多数の企業で使用されているものにくらべて︑改善された機械や生産方式をとり
いれて︑平均水準よりも高い労働生産性をえようと努める︒この結果かれは商品の個別的価値をその社会的価値よ
りも低くすることができ︑﹁特別剰余価値﹂
( 1 1
超過利潤︶をえる︒独占段階においても独占的競争が存在し︑
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
この中で競争力を保持しておくためには︑生産の集積・優れた生産条件を保持しておかねばならない︒このことは
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
独占的支配の基礎である︒独占的協定の存在それ自体こうした生産的基礎を前提にしているのであり︑言い換えれ
ばいくつかの資本の長期にわたる頑強な競争戦の結果︑かれらのあいだに形成された経済的力関係の具象化︑表出
日︑さて独占的大資本は資本的優位によって新生産技術をいちはやく導入し特別剰余価値を追求する︒この場合
新生産技術萌入のためには資本の必要最低量が増大しているので︑その導入は性とんど独占的大資本に限られる︒
当然同似的規模の他の独占体は︑蓄積率もほぼ同似的なところから︑急速にこの新生産技術をとりいれていくであ
らうが︑普及にいたる過程では最初新生産技術導入に成功した独占体はしばらく特別剰余価値を専有する︒やがて
その普及によって他の諸独占体も特別剰余価値を享受することが可能になる︒というのは独占以前の段階では新生
産技術のかかる普及は社会的価値の低減を通じて特別剰余価値を消滅させるのにたいし︑独占段階では新生産技術
の普及が独占体の間だけに限られているため︑社会的価値の低減が新技術の普及過程に対応して起ってこないとい皿ういわば独占段階固有の条件によって︑独占体間における特別剰余価値の固定化の現象が生じたのである︒
ただ今の場合社会的価値がすぐさま新技術の普及につれて低減していかないという状況の下に議論を進めている
︑︑
︑
のであるが︑こういう場合は集中度が小さく︑小規模経営が広範に残存しているような産業部門についてまさしく に外ならないのである︒ 資本制生産と公企業の形成についての理論的考察
六〇
資本
制生
産と
公企
業の
形成
につ
いて
の理
論的
考察
け︑だがしかしかならずしもそのような場合ばかりとは限らない︒この場合でも集中度が次第に高まり︑当該部
門の中位の生産条件の所在が独占体のところにあるということも起りうる︒われわれはたとえばわが国における板
ガラス製造部門にみるような極めて集中度の高いいくつかの部門をみることができる︒このような場合この部門の
諸独占体の個別的価値が大体社会的価値になってくるので︑新技術の普及過程が進行するにつれて現実に社会的価
値は低減してくる︒だが独占段階の特徴として価格競争はみられないところから︑独占価格として価格は維然硬直
したままである︒したがって新生産技術の普及による社会的価値の変化に対応した価格の変化がないので︑普及の
完了にもかかわらずその部門の全独占体が等しく超過利瀾を取得することになる︒かかる超過利潤はもはや特別
剰余価値とよぶことはできない︒本質的に収奪利潤︵譲渡利潤︶の性格をもったものである︒だがそれは新しい生
産技術を基礎としてあらたに諸独占体にもたらされえたところのものである︒したがってこの生産力の変化と無関
係に巨大な生産の集積︑および集中を基礎として独占的支配によってえらるべき﹁収奪利潤﹂とは一応範疇的には
区別さるべきである︒独占資本主義下における固有の利瀾カテゴリーとしていわゆる﹁独占的超過利潤﹂がもちだ
問されねばならない所以がここにある︒
これらの二つの場合では︑独占的支配の大きさ︑さらにそれを追求していけば生産と資本の集中がそれぞれの部
門でどの程度進行しているか︑したがってそれぞれの部門における独占・非独占のどの部分に社会的平均的な生産
条件がおかれているかといった問題から︑その相違がみちびかれているのである︒いずれの場合でも︑新しい生
産技術の導入を基礎とし︑そして独占的支配とそれにもとづき独占価格の硬直性が保持できているということが︑
このような独占利潤範疇を成立させているということを認識することが重要である︒ あ
ては
まる
︒
口︵
寺尾
︶
六
546
ロ︵
寺尾
︶
国︑言うまでもなく独占利潤を構成する契機はこれにとどまらず︑今問題にした生産技術的変化にかかわらず独
占体の取得するところの先に触れた﹁収奪利潤﹂部分︵譲渡利瀾︶が存在する︒むしろそのことが体制的特徴をな
しているようにみえる︒しかしこの場合もそれが許されるのは独占体の巨大な集積と集中が確立されているからで
ある︒この集積と集中を基礎にして独占的支配を保持できるためには︑独占的体制の下でも競争が排除されない以
上︑絶えざる生産的優位性による裏づけが必要である︒競争には部門内競争と部門間競争があるが︑この生産性を
あげることの必要性はすでにみたようにこの部門内競争の過程についてはもちろんのことであるが︑それは部門間
競争についてもいえるという点に留意しなければならない︒
この問題をもう少しくわしくみてみよう︒集中が高度に進み︑数社によって支配された寡占状態の諸部門の場
合︑新生産方法の導入によってえられた特別剰余価値が固定化することはないからといって︑もはやそうした生産
性をあげるということ自体不必要になっていくといえるだらうか︒私はそうは思わない︒確かに部門間競争の過程
︑︑
︑
で収奪利測を獲得していくためには︑資本量の大きさが問題になる︒充用資本量の一定の大きさが資本参入を困難
にし︑これによって独占価格の保持が可能となり︑独占利測の主要な部分がえられていることは事実である︒ここ
からより小さな資本は1たとえそれが事実上大資本の部類に属し︑一定の範囲で独占的地位を保持しておろうと
︑︑
︑︑
もIより大きな資本の収奪にたいし相対的に不利となってくる︒そこで前者は︑それが大資本である限り︑同一
部門のみならず他部門のより大きな資本量を有する諸大資本にたいして︑国︑その資本量の相対的不足からくる蓄
積率の劣勢を利潤率を高める技術的諸手段の導入によって埋め合わし︑高い蓄積率を実現しようと努めるようにな
る︒また︑岡︑同じく資本において相対的に劣勢な若干の企業を合併することにより︑資本の集中によって対抗し
ようと努める︒このようにしてここにおいても資本の集積と集中が高度に展開し︑資本量において他部門の独占体
資本
制生
産と
公企
業の
形成
につ
いて
の理
論的
考察
六
資本
制生
産と
公企
業の
形成
につ
いて
の理
論的
考察
を完全に且つ長期間にわたって排除することはできぬ︒またなるほど︑技術的改良によって生産費を低減し且つ利
潤を増加するという可能性は︑改革を促す作用をする︒しかし︑独占に特有な停滞および額廃への傾向は︑依然と
一定の期間においては︑他の傾向に打勝つして作用し︑且つ︑個々の産業部門においては︑個々の国においては︑
⑳︒
のである﹂ここに示されているように︑他面では独占体は︑日︑独占価格を設定して独占利潤の極大化をはかる
︑︑
︑︑
べく生産制限に訴える︒また︑口︑有機的構成の高度化にみちびく労働節約的な生産方法に反作用して︑それによ この点についてレーニンは言っている︒資本主義下の独占は︑
決し
て︑
きる
︒
六
と拮抗する状態になれば︑さらに資本量を拡大しより大きな収奪利潤の分け前をえていくためには︑相対的に蓄積
率を高くするような生産性をあげる諸方法が改めてまた必要になってくるのである︒蓄積率は利潤率が等しければ
資本量の大きいもの仕ど大きいのであるが︑いまや資本量において拮抗しうる状態になれば利潤率そのものに影
響を与える諸手段の導入が蓄積率を高める所以であり︑したがってこれによって資本量もまた増大することができ
る︒かかる意味において︑新生産方法を導入して生産性をあげ︑特別剰余価値をあげていくということは部門内競
争についてのみいえる問題ではなく︑部門間競争を考磁にいれてもでてくる問題であるといえるのである︒
このように生産的優位性を保持するための新生産方法の導入は︑日︑これが普及しおわるまで独占体に特別剰余
価値を専有させ他者よりも有利な地位を享受させる︒口︑その普及にともない価格硬直性を介して特有の超過利潤
を全独占体にもたらす︒日︑市場支配の拡大強化をもたらす生産的基礎を強固にすることができる︒したがって独
︑︑
︑︑
︑
占的競争の下においては︑諸独占体は不断に技術的革新にせまられざるをえない一面をもっているということがで
﹁な
るほ
ど︑
︑︑
︑
ところがそれは独占の一面であって︑他面では独占は腐敗性という反面をもち︑両者は複雑にからみあっていろ︒
世界市場における自巾競争
は︵
寺尾
︶
S48
資本制生産と公企業の形成についての理論的考察口︵寺尾︶
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑ 皿
る利潤率低下を防ぐため︑資本節約的な生産方法を志向する︒
これらは有機的構成の高度化にともなう利潤率の傾向的低下を独占によってくいとめることからもたらされる生
産力にたいする必然的悪である︒独占資本主義の生産関係はこのようなかたちで生産力の発展を全部的に容れえな︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑くなったといってよい︒これらの手段に訴えなければ当然利潤率は下る︒これらの手段をとることによって起こる︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑生産力の疎外に︑独占的競争を媒介とした独占段階における衰退部門形成の根本的な理由がある︒このような過程
がただちに国有化を結果するものではないが︑次節でみるように国有化につらなっていくところの衰退部門の形成
過程というものは独占資本主義の本性からでてきたということができる︒また全般的危機もこうした生産関係が生
産力の発展を阻害するにいたった独占資本主義の本質的な問題の所産であり︑後にみるごとく国有化が全般的危機
を契機として出てきたというのはここにおいて符合すると言わねばならない︒
さてこの衰退部門形成のプロセスを次にみていこう︒
生産制限は操業度を悪化させ︑したがってコスト高に導くことによって利淵率への圧迫となるという面をもって
いる
︒
これは資本蓄積率を低下させるが︑前述の資本節約的傾向と共に次の問題をひきおこす︒すなわち生産的な
投資機会の縮小︑また非独占部門の不振を招くことによって︑独占段階に固有の生産と消費の矛盾を深め︑ここか
︑︑
︑︑
ら市場問題の尖鋭化が生ずるのである︒しかもこのことは全般的危機の深化と密接に結びついている︒かくて不況
の深化︑好況の不安定化が導かれてくるのである︒
︑︑
︑︑
︑
そこで競争︑とくに国際間の競争の激化から企業合理化が日程にのぽってくる︒元来独占体の生産制限において
は︑優良部分のみを稼動し︑傘下の劣悪部分をあるいは遊休化し︑あるいはそこへの投資を抑制する︒結局独占体
は一方では優れた生産体制を推進しつつ︑他方ではコストの負担となる施設を遊休化し︑全体として生産制限によ
六四
註閥マルクス﹃資本論﹂長谷部訳︵青木文庫版︶︑⑧五三五l
八ペ
ージ
︑⑨
二六
八ペ
ージ
参照
︒
︑︑
︑︑
︑︑
︑
⑮ここでは﹁独占的剰余価値﹂論を主張される白杉庄一郎教授の理論構成への評価と関連などの問題がおこってくるが︑さ
しあ
たり
今こ
の問
題に
深入
りす
るこ
とは
ここ
では
でき
ない
︒た
だわ
れわ
れは
︑そ
の全
理論
構成
はと
もか
く︑
教授
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産論
的
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論の
意図
は方
向と
して
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と考
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︒ま
た︑
私見
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うな
︱つ
のケ
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とし
て把
握し
た場
合で
も︑
教授
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別剌
余価
値の
固定
化は
現実
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ては
かな
り一
般的
にみ
られ
るケ
ース
であ
るよ
うに
思う
︒
る ︒
資本制生産と公企業の形成についての理論的考察は︵寺尾︶
六五
る独占的効果をはかっていると言ってよい︒かかる形は独占的支配にもとずく生産制限の体制と独占的競争にとも
ずく競争力の保持との矛盾を解決して独占利潤率の極大化をはかる方法であった︒だが不況に転化し︑それが深刻
化すると︑優良部門にも操短が不可避となり︑また競争条件の相違に応じて事態は極めて不均等に展開する︒不況
は帝国主義段階において激化した国際間の不均等発展によって︑ある国では︑たとえば第一次大戦後のイギリスの
ように︑事態は極めて悪化する︒ここに至って企業合理化は︑一方では独占的結合の強化i集中lに︑他方で四は雇用労働者の整理と傘下劣悪部分の整理にむけられる︒すなわちいわゆる資本係数の低い投資への志向がつよま四り︑資本の回収期間の長い限界収益率の低い投資の回避ないし停滞が生じる︒
このような過程から前節でのべたところの収益性を圧迫する独占体制の内的諸契機ー固定資本巨大部門
11
原料
︑︑︑︑︑︑︑︑
・輸送部門などー│が問題となってくる︒こうした諸部門は合理化過程の中でとりのこされ︑技術的にも遅れ︑次
⑳ ︑︑︑︑︑︑︑︑第に衰退していく︒そして再生産構造におけるポトル・ネックを構成するようになるのである︒これは︑帝国主
義段階における不均等発展の法則の︱つのあらわれ1部門間不均等̲ー'であり︑ことに国際的な面においては自
乗してあらわれるのであって︑帝国主義の寄生性と腐朽性の表現である︒このような傾向は新しい国有化を準備す
550
⑱産業経済研究会編﹁日本の産業と独占資本︑上巻﹄︵大月書店︶︑一︱ページ参照︒
︑︑
︑︑
︑︑
闘この点については高須賀義博氏の労作︵同氏﹁独占的超過利潤について﹂﹁経済研究﹂︑第十四巻第二号︶に負うところ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑̀が大きい︒ただし氏は3新生産方法の導入から普及完了にいたる超過利潤
11
﹁独占資本の取得する単なる超過利潤﹂と︑
︑︑
︑︑
︑︑
︑
R︑新生産方法の普及完了後の超過利潤
11
﹁独占的超過利潤﹂とにこの導入によって新しく獲得した超過利潤を分けて考え
ているが︑これらを﹁導入から普及完了にいたる期間とその後の期間とに分けて考察する﹂という分け方にはあいまいな点
がある︒問題は社会的価値の変化の有無︑すなわちこれに作用する要因として中位的生産条件の所在にある︒Rの場合指摘
されている﹁単なる超過利潤﹂ー決して﹁単なる﹂でなく独占的範疇と思うがーは︑新生産方法が独占体間に普及しおわっ
ても︑中位的な生産条件が非独占企業の位置にいまだとどまっているような一定の産業部門の場合︵おおむね︑集中度が低
い場合︶︑中位企業にまでそれが普及していく条件がなければ︑この単なる超過利謂︵実は﹁独占的剰余価値﹂︶は実体的
基礎をもったものとして存在しつづける︒新生産方法が独占・非独占をふくめたその産業部門の全域に普及しおわることを
普及完了と氏が考えて1この場合は当然社会的価値は下り特別剰余価値としての実体的基礎がなくなり﹁単なる超過利潤﹂
も消滅するからー︑社会的価値が下るまでということをこういう表現であらわされているのかもしれない︒独占体間で新生
産技術を独占しており︑しかも中位の生産条件が非独占のところにあるという状態がかわらないため︑この技術導入と普及
によっても社会的価値そのものが低減しないような部門内部の生産力配置が存在するということが﹁単なる超過利潤﹂を諸
独占体において存続︑固定させているのである以上︑こういう点に触れないで期間というような契機にRと⑤の区別が生じ
る根攘を求められるのは︑私からみれば適切でないと思う︒また⑥においても︑新生産方法の﹁普及完了後﹂でなくても︑
普及過程ですでに社会的価値が低減しはじめるような部門内部の生産力配置があれば1集中が非常にすすみ︑諸独占休の
生産力水準で社会的価値が規制されているような場合ーー︑独占価格政策︵価格の硬直︶を媒介として以前の﹁単なる超過
利潤﹂は氏の﹁独占的超過利潤﹂範疇へと社会的価値の低減に並行して転化していくと考えられる︒
u r o
﹁発展程度のいちじるしくことなった独占を一括的にとりあつかう﹂ことを不当とされ︑﹁独占の部門間での発展不均等
︑︑
︑︑
︑
の承認ということが︑独占理論にとっての出発点でなければならない﹂と言われる田口芳明氏の発想法にたいしては︑私は
その限りにおいて賛成である︒氏は﹁独占的刺余価値の第一形態﹂と﹁独占的剰余価値の第二形態﹂を分けておられるが︑
前者は私が日でのべたところであり︑後者は口でのべた問題である︒﹁第一形態﹂の形成過程は氏の言われるとおりであ 資本制生産と公企業の形成についての理論的考察
は︵
寺尾
︶
六六
資本制生産と公企業の形成についての理論的考察 る︒ただ部門間競争を前提にした場合︑新生産方法は普及しこの﹁第一形態﹂は消滅するといわれるが︑そうした場合でも必要資本量が大となればなるほど︑他部門からの資本流入についての障害も大きくなり︑新生産方法の部門内一般化もそれほど容易ではないであらう︒しかし漸次部門内で独占が支配的となってくると︑この﹁第一形態﹂としては超過利潤は存在できなくなり︑﹁第二形態﹂なる実体的基碓がない超過利潤に転化していくはずである︒しかるに氏は﹁第二形態﹂を﹁強められた労働﹂の拡張解釈によって実体的基礎を与えているが︑この点は了解できない︒︵同氏﹁﹃独占的剰余価値﹂説の再構成﹂市大︑﹁経済学雑誌﹂︑第四十七巻第三号︒︶
⑲マルクス﹃資本論﹄︑訳⑨三五七ページ参照︒
⑳レーニン﹃帝国主義﹄︑長谷部訳︵岩波文庫版︶一四三l
四ペ
ージ
︒
訓星川順一﹁利潤率低落の法則について﹂︵﹁市大論集﹂︑創刊号︑昭和三五年四月︶︒同﹁生産と資本の集積・集中︑独
占﹂宇佐美︑宇高︑島北︿編﹃・マルクス経済学講座2﹄︑︵第二章︶参照︒
四企業合理化の一環として資本の集中が強行的になされるが︑この場合競争企業が集中される場合と生産段階の継起的企業
が集中される場合がある︒フォゲルシュタインは後者を統合
I nt e g ra t i on
とよんでいる︒そしてこれにみちびく原因につい
て︑まず技術的諸原因として︑a︑品質保証をうるための半製品の自家生産
b
︑部分労働の時間的相関性︑C︑化学工業
などにみられる生産技術的関連性︑d︑中間生産物の運送不可能︑をあげさらに技術外的諸理由として資本の利用と独占体︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑の原料確保︑とくに後者をあげている︒そして統合を困難ならしめる原因の第一に生産規模の最適限度の相異をあげてい
る︵フォゲルシュタイン︑前掲書︑第二章第四節︶︒この最後の点は重要な意味をもつ︒たいていの場合資本の利用など
の観点から︑組織上必要な限界︑最適規模の限界を越えて統合がなされている︒統合内部の売手たる企業の最適規模という
畿点からみて︑同じ内部の買手たる企業の需要が極めて少ない場合が多く︑このことは統合を事実上不合理なもの︑コスト
高なものにする︒とくにわずかな需要にたいしてでも一定の大きさもった固定資本投資を技術的に必要とする場合︑こうい
うことが言えよう︒まして不況時は原料部門については価値が下る傾向があるので︑統合によるコスト高が一面的にクロー
ズ・アップされがちである︒このような事情は分化
Di ff er en zi er un g
へ作用する︒したがって企業合理化過程にはこの統合
と分化の両作用が複雑にからみあって働いていると言える︒
悶奥村茂次﹁独占資本主義の蓄積と再生産﹂︵前掲﹃マルクス経済学講座2﹄所収︶︑一五ニページ︒
は︵
寺尾
︶
六七 一
七二
l
一七
三ペ
ー
552
果をまっとうできない︒したがって衰退化はつづく︒
口︵
寺尾
︶
ジ参
照︒
⑳イ
ギリ
スで
は︑
石炭
・鉄
道・
造船
など
の諸
産業
は一
九二
九年
大恐
慌発
生時
の生
産・
輸送
実績
を︱
︱
‑ 0 年
代を
通じ
て︑
いや
そ
れ以
降も
長く
回復
する
こと
はで
きな
かっ
た︒
一九
二九
年と
一九
三九
年を
比較
する
と︑
石炭
生産
は二
五七
・九
百万
トン
←二
三
一・
三百
万ト
ン︑
鉄道
によ
る石
炭コ
ーク
スそ
の他
の鉱
物の
輸送
二七
三百
万ト
ン←
二三
七百
万ト
ン︑
船舶
進水
トン
数一
六五
0
千総
トン
←一
01
︱千
総ト
ン︒
(L on do n
&
Ca mb ri dg e
Bulletin•No.26.
Th e T im es Re vi ew of I nd u s tr y , J u n e,
1958.)
帝国主義段階においては資本主義の基本矛盾は最高度に達する︒ここにおいて独占体制︵金融寡頭制︶を国家権︑︑︑︑︑︑︑︑力をもって補強せんとするところに国家独占資本主義が成立する︒帝国主義段階の矛盾は︑日︑金融寡頭制とプロ
レタリアート︵資本と労働︶との矛盾︑口︑独占体および帝国主義列強相互間の矛盾︑国︑帝国主義と植民地・従
属国との矛盾︑に集約される︒これらの諸矛盾がはげしくなり︑社会主義への体制的変革がさしせまってきた状況︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑が資本主義の全般的危機であるが︑危機の激化にづれて︑
諸傾向│ー他方では帝国主義戦争がひきおこされてくる︒しかもこの両者は結びあっている︒
さて国有化
na ti on al iz at io n
は国家の介入の一手段であって︑危機によってみちびきいれられたのである︒
本来この段階における特定部門の前述のごとき衰退化は独占利潤への圧迫となるのみならず︑独占的結合の弱点
である︒だがそうだからと言って直ちに国有化されるものではない︒というのは︑日︑国有化は政治的に私的所有
の不要を暴露するものであり︑また︑け︑経済的に国有化に訴える以前に労働者にたいする労働強化などの手段に
よって利潤を引き上げる途が残されているからである︒しかしこれは労働者階級の組織的抵抗を増大させ︑その効
資本
制生
産と
公企
業の
形成
につ
いて
の理
論的
考察
一方では国家の介入がはかられ—|国家独占資本主義的
皿 全 般 的 危 機 の 諸 条 件 と 国 有 化 の 形 成
六八
資本
制生
産と
公企
業の
形成
につ
いて
の理
論的
考察
六九
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
結局全般的危機の激化
(3
上に︑そしてとくに社会主義が体制化してくると︑はじめて﹁窮地に陥った民業を国家ぃの手で救済するため﹂・﹁どれか或る産業部門における破産に瀕した百万長者たちの︑収益を増加し且つ確実にす
図るため﹂に﹁国家的独占﹂を受け入れざるをえなくなってくるのである︒この場合も単に国内的な契機をみるだけ
では不十分であり︑国際的な不均等発展の中でみていかねばならない︒すなわち国有化は帝国主義相互間ならびに
帝国主義と植民地・従属国の矛盾との関連において展開する︒このような諸矛盾の深刻化︑つまり植民地をめぐる
帝国主義諸列強の斗争︑植民地などの独立によって︑一方では旧植民地諸国での国家資本主義の発展がみられるか
たわら︑他方では帝国主義の支配体制を維持するため︑その経済的基礎としての衰退産業部門の近代化ー一部の
独占体のための一部の独占体の犠牲においてーが︑あるいはその資本救済が︑国有化において推進される︒
さらに戦争政策は危機における帝国主義の常とう手段であって︑戦争の準備と遂行によって︑独占体による組織
化は国家の経済管理・経済統制として経済の全域に及ぶ︒こうした戦争経済の過程において軍軍十工業や各種の統制
・調整機構の国営がすすめられるのである︒ことに近代戦は生産力の旭大な破壊をともなう︒したがってその復興
の緊急性が国有化の︱つの推進力となる︒
これらは国家独占資本主義の一環としての国有化の︑しかもその最も原初的な契機であったが︑帝国主義段階の
諸矛盾の深化は経済的社会的不均衡の是正を多面的に要求するのであって︑このため一連の国家独占資本主義的諸方策、すなわち需要構造への介入ーー財政・金融を通じてー—、国家投資をふくむ独占への信用補強、経済管理(
11
経済の部分的組織化︶︑社会保障・失業救済といった社会的諸矛盾の調整︑あるいは援助基金のような国際的機
構をふくんださまざまな国家の経済への介入と共に︑国有化はこれらと密接な関連をもってきわめて多面的な展開
をみせるのである︒ことにそれは全般的危機の第二段階と言われる第二次大戦後において著しい︒だがそれらは全
口︵
寺尾
︶
554
察を加えることにしたい︒
レー
ニン
﹃帝
国主
義﹄
︑長
谷部
訳︵
岩波
文庫
版︶
︑
レー
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︑同
上︑
五五
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口︵
寺尾
︶
般的危機の深化にたいする独占体制︵金融寡頭制︶の対応形態であるという点をわれわれはまず確認しておかなけ
ればならない︒
10
五ペ
ージ
︒
国有化をふくむ国家独占資本主義の諸問題の理論的性格について最近までヴァルガ論争︑スターリン論文をめぐ
って数多くの論議がなされてきた︒この間におけるヴァルガ批判者や﹁従属﹂を規定したスクーリン論文の基謂
は明らかに﹁危機説﹂に立っていた︒しかしこれらの影響の下にあらわれた国家独占資本主義論においては︑日︑b 危機の理解があまりに政治的にのみ理解されていたし︑また︑口︑従属を強調するところから労働運動の観点から岡国有化政策の積極的評価が位置づけにくいといった問題があった︒
ところがこれにたいして最近にいたる構造改革の思潮は経済主義的であり︑また国有化をその一環とする国家の
経済への介入の秋極的評価という点においてまことに対照的極端を示している︒かかる思考方式は政治主義への一山つの反撥という意味はあるが︑世界的規模での戦後における技術的革新を基礎とした相対的安定の理論的反映であ
固ると考えられる︒このような相対的安定は第一次大戦後にも同様な理由の下におこり︑労働運動の中に修正主義的
傾向をひき起したことは衆知のところである︒こうした歴史的経験にかんがみ︑すでに論じつくされた感はあるが
とくに国有化が構造改革の核心的な部分にふれる問題であるので︑
注山
仰
w
最 近 の 国 家 独 占 資 本 主 義 論 争 と 国 有 化 の 評 価 に つ い て
資本制生産と公企業の形成についての理論的考察
ここで国有化の評価を中心にして若干簡単な考
七〇
スは
︑
資本制生産と公企業の形成についての浬論的考察
ある程度の組織化を意味しているという側面を︑すなわちエンゲルスの言葉では﹁﹃トラスト﹄︑
口︵
寺尾
︶
株式会社においてはそれが平和的な資本の社会的集中形態であるという側而を︑
七
﹁社
会化
説﹂
﹃資本論﹄第三巻第五編第二十七章皿﹁株式会社の形成﹂の項にある︑株式会社ーー独占││国家の干渉の誘発︑
固
という有名な箇所をとりあげ︑﹁資本がその本来的な私的形態を社会的形態に脱皮することにより︑発展する生産
⑲
カの要求に適応する姿﹂であると評価している︒また﹃空想から科学へ﹄における︑株式会社ー独占ー国有︑とい
仰
うエンゲルスの定式をとりあげ︑﹁資本による生産の社会的性質の承認形態﹂であるとのべている︒結局同じこと
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑⑬
であって︑氏の別の表現を借りれば生産力の発展に対応した﹁生産関係のよりすすんだ社会化形態﹂であり︑そし て﹁国家独占資本主義とは資本主義のワクのなかにおいて最高度に社会化された生産諸関係の総体﹂であるとい さてここで決定的に問題になる点は生産関係の社会化形態という一側而からのみ国家独占資本主義がつかまれて
いるということである︒
エンゲルスの定式でエンゲルスが言わんとするところは︑たしかに︑社会的生産と資本主
︑︑
︑ 義的領有との不調和がますます明瞭に現われてくるが︑結局は歴史の発展過程においては生産力の発展はこれに照
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑ 応した生産関係の変革をなしとげるという歴史的展望である︒このような法則は社会的変革をまって完全に遂行さ
れるのであるが︑
日常的な経済過程でも﹁生産力の社会的性質の部分的承認﹂という形でこの法則が働きかけてい
つまり生産の統制 また独占においてはそれが
らを顕在化しているのであり︑エンゲルスはそのかたち︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
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︑
︑
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︑
︑
︑
︑ 会的所有︵決して私的所有の排除ではない︶への展開というかたちで跡づけているのである︒
したがってエンゲル ろとエンゲルスは言っているのである︒その限りであくまで
であって︑制約されたかたちで法則自身自
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
あるいはその側面を個人的所有から結合資本家による杜
﹁部
分的
﹂
゜{
ノ いわゆる 囮
﹁生
産関
係論
﹂
あるいは
︑︑
︑︑
︑ のわが国における代表的な主張者の一人である今井則義氏は︑
556
口︵
寺尾
︶
を目的とする合同体﹂といった角度をとりあげているのである︒また国有についても︑いわゆるビスマルク的国有︑︑︑︑︑︑︑化をはずして︑﹁大規模な交通通信機関﹂といった経済的に不可避となったもののみに限定している︒すなわち﹁
生産手段又は交通機関が成長して株式会社では実際管理されないようになったとき﹂︵傍点筆者︶︑あるいは﹁生産
︑︑
︑
及び交通の大機関は︑最初は株式会社によって︑次にはトラストによって︑次には国家によって領有せられる﹂︵
傍点筆者︶という彼の文章にみられるのは︑大きくなると
11
生産力が発達すると︑こうした社会的組織が対応して
現れてくるということだけである︒決してそれが国有化を生むとはいってない︒繰り返すが︑注意さるべきことは
︑︑
︑︑
︑
あくまでこれらが﹁部分的承認﹂
I i 部分的反映であるということであり︑したがってその裏がえしとして﹁国家が
生産力の所有をその手に収めれば収める程⁝・・・資本関係は止揚されず︑むしろ頂点にまで駆り立てられる﹂という
︑︑
︑︑
側面があるという点である︒つまり資本制生産がつづく限り基本矛盾は部分的にしろ解決されておらず︑ただ部分︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑的に生産力にたいする適応の側面が株式会社ー独占ー国有という中に姿を現わしていると彼は言っているだけであ
る︒だから全存在としての株式会社︑独占そして国有のそれぞれがいかにして生まれてこざるをえなかったかは︑
この雄大な歴史的展望を両いた﹃空想から科学へ﹄のあの文章からは具体的に出てこないのである︒
﹃資本論﹄第三巻第五篇第二十七章の前掲記述にしろ︑個人企業←株式会社の論理が資本量との関連においての
べてあるにすぎない︒そしてこれに関連して独占︑国家の干渉が書かれているのであるが︑株式会社が資本制生産
内部で許された社会的所有︵結合資本家の所有︶であるという点︵これはいまだ全人民的所有ではないが本来の私
的←個人的所有からは一歩社会的な所有に近ずいたものにちがいない︒その限りで一箇の矛盾である︶と同じ次元
のより拡大されたかたちとして︑そういう視角において独占︑国家といったものがとりあげられているのである︒
したがってここでもそれらの存在そのものがどうして出てきたかは何も触れられてはおらない︒むしろこの点につ
資本
制生
産と
公企
業の
形成
につ
いて
の理
論的
考察
七
資本
制生
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業の
形成
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の理
論的
考察
七
いては︑利潤率の傾向的低下の﹁法則の内的諸矛盾の開展﹂︵第三巻第三編第十五章︶のところで︑独占・集中に関
する限り繰り返しのべられているとおりである︒そしてこの点は︑国有化に限ればそれを資本制生産の発展の中で
理論的に把握していこうとする拙稿の中心テーマに外ならない︒
︑︑
︑︑
﹁社会化説﹂の最大の難点は︑それがこのような部分的なマルクスやエンゲルスの把握側面を全面化し︑生産力
の発展に昭応した生産関係の社会化ーこの事象は部分的には当然存在するがーから資本主義の段階的発展が生ずる
ような図式的・機械的把握をおこない︑基本矛盾がいっそう尖鋭化することへの事実上の過少評価に導いた点であ賊
生産関係が生産力の発展に適応する仕方は︑決して生産力の発展によって一方的に生産関係が適応させられると る ︒
いうものではない︒もちろん窮極的には生産力は生産関係を変えていく物資的な力であるが︑生産関係はその私的
性格が変らぬ限り︑利潤追求という自己のペースで生産力に適応していく︒独占が生産力の発展に適応するやり方は生産力の発展を独占の立場から歪めて部分的に承認(反映)するにすぎないのである。長期的な~点では生産力
と生産関係は照応するのであるが︑
斗争しているという点をみのがしてはならない︒
であ
って
︑
その照応にいたる過程では生産力の社会的性格と生産関係の私的性格が不断に
暉マルクスの言うように生産力の発展は自然的過程としてなされる
のではない︒階級斗争の中から生産力の発展がすすめられていく︒絶体的剰余価値の生産にたいする労働階級の抵
抗が機械の採用・相対的剰余価値の生産を生む訳である︒したがって生産力の発展の動力は生産関係の中にあるの
それを進めるのが生産関係であると言えれば︑また逆に抑えるのも生産関係だと言うこともできる訳で問あって︑生産力にたいする生産関係の照応を生産力←生産関係と一方交通に理解すると誤りになる︒﹁社会化説﹂
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
の場合は生産力が生産関係を変えるという面を機械的に考えるものであって︑井汲卓一氏は﹁国家が国有化等を行
口︵
寺尾
︶
558
なうのは︑生産の社会的性格の発展に促迫されてそうなのであって︑国家の階級的性格や公共的性格にもとづくも
のではない︒﹂と言われているが︑上部構造たる国家が土台の階級的性格を反映せざるをえない以上︑誤りと言わざ
るをえない︒もっとも社会化説の諸論者も生産力が生産関係を変えるというだけでなく︑これによっても基本矛盾
は止揚せられず︑危機が深化すると一応言われてはいるが︑このような矛盾の指摘が生産力と生産関係の矛盾とい
うかたちで﹁社会化説﹂の理論構成の中に入りきらず︑生産関係の社会化と矛盾の深化が切り離され二元論的とな
0 0 0
0 り統一されていないのである︒井汲氏はかの﹁部分的承認﹂を目して﹁基本矛盾のさまざまな過渡的解決の諸形
⑳ 態﹂と言い︑今井氏も同趣旨の叙述をしておられるが︑そう言いうるのであれば︑どうして矛盾は深化していると
言えるのだらうか︒この理論上の二元論がいわゆる﹁経済的国家﹂と﹁政治的国家﹂を区別する﹁社会化説﹂の国
家論における二元論に結びついてきているのである︒この経済的国家は︑今井氏によれば︑上部構造としての国家
( 1 1
政 治 的 国 家
︑ に よ っ て 媒 介 さ れ て は い る
?︶が︑結局は経済が政治を制約する︒すなわち氏は次のように言っている︒﹁﹃政治は経済の集中的表現﹄とい
うことは真理である︒上部構造としての国家に︑そのような意志を決定させ︑政策を発動せしめるものは︑終局的
には︑経済的土台における変化である︒すなわち︑生産力の高度化と生産の社会化の発展とが︑その総括としての
国家という形態の多様化や︑生産諸関係のより社会化された形態を要求するにいたってはじめて︑このような意志
仰 四
が決定され︑政策が発動されうるのである︒﹂と︒﹁この経済的国家ないし国家独占資本主義﹂が政治的国家を基礎
きるのであって︑ ここに階級性の基礎があるという︶
( 1 1
要するに結びついてはいる
資本
制生
産と
公企
業の
形成
につ
いて
の理
論的
考察
口︵
寺尾
︶
づけるのだから︑基本矛盾の過渡的解消の諸形態として生産関係の社会化形態が考えられている限り︑そのような
いながらにして社会化
( 1 1
社会主義の物質的基礎としての︶が漸次的に発展していけば主体抜きに政治的国家の﹁構造改革﹂がで
⑳ これでは修正主義的立場と区別ができなくなる︒また杉田正夫氏すらツィーシャンクについて︑
七 四