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密教文化 Vol. 1986 No. 155 005桧垣 巧「祖先崇拝に関する調査研究――島根県八束郡美保関町雲津と和歌山県西牟婁郡すさみ町小泊の比較・分析―― PL110-L70」

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密 教 文 化

祖先崇拝 に関す る調査研究

-島根 県 八 束 郡 美 保 関 町 雲 津 と和 歌 山 県-西 牟 婁 郡 す さ み 町 小 泊 の 比 較 ・分 析

は じ め に こ の報 告 の うち、 雲 津 の方 は、 一 昨年 日韓 の学 者 合 同 に よ る 日韓 漁 村 社 会 ・経 済 研 究 会(甲 南 女 子 大 学、 益 田庄 三 団長)に よ って 行 な われ た 第三 次 調 査 に 参 加 して調 査 した もの で あ る。 期 日は、 昭 和59年7月8日 か ら15 日まで の8日 間 行 な わ れ、 私 の調 査 の補 助 要 員 と して、 大 阪 大 学 人 間科 学 料 ・文 化 人 類学 専 攻4回 生 ・桧 垣 龍 樹(私 の息 子)、 高 野 山 大 学 ・社 会 学 専 攻3回 生 ・星 野 篤 隆 の2名 が参 加 して い る。 一方、 小 泊 の方 は、 同年 同 月25日 よ り翌 月1日 に か け て、 高 野 山 大 学 社 会学 専 攻3・4回 生 を 中 心 に、 私 を含 めて21人 の 参 加 に よ っ て 行 な われ た。 参 加 者 の姓 名、 調 査 分 担 は次 の よ うで あ る。

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さて、 両 部 落 の調 査 と も、主 目的 は祖 先 崇 拝 に関 す る意 識調 査 に お か れ、 私 の こ の報 告 は、 両者 の比 較 ・分 析 が主 眼 で あ る。 日本 の祖 先 崇 拝 に 関 す る実 態 調 査 の報 告 と して は、 これ ま で に 幾 つ も あ るが、 い ず れ か とい えば、 民 俗 学 者 に よ る もの が多 く、社 会 学 者 に よ る も のが 少 な い よ うで あ る。 後 者 につ い て、 私 の 見 聞 の及 ぶ範 囲 内 で い えば、D・ド ー ア、 前 田 卓、 R・J・スミ ス に よ る調 査 研 究 が お も な もの で は な い か と思 うが、 そ れ ほ ど多 い も の で は な い。 今 回 の私 の2地 区 の調 査 は、 す で に行 な われ た 他 の社 会 学 者 のそれ を 念 頭 に お きな が らも、 私 が独 自 に作 製 した質 問項 目に よ って な され て い る。 一 方 の雲 津 は、 農 漁 業 県 島根 県 の僻 村 で あ り、半 漁 ・半 サ ラ(サ ラ リー生 活 者 が 半 分)の 集 落 で あ り、僻 地 集 落 の タ イ プ と して は 数少 な い もの で あ 祖 先 崇 拝 に 関 す る 調 査 研 究

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美 保 関 町

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密 教 文 化 る。 他 方 の小 泊 は、 和 歌 山 県 紀 南 地 方 の純 漁業 集 落 で あ り、 同県 下 で は最 西 南 部 に近 い。 私 の今 後 の研 究 の方 向 と して は、 祖 先 崇拝 に関 す る調 査 を 続 け て、 内地 の諸 地 方 ご とに 地 域 性 に よ って それ が どの よ うに変 容 す る も ので あ る か を 探 って み た い。 それ に よ って、 日本 の祖 先 崇拝 の地 域 的 な類 型 化 の可 能 性 を模 索 しな が ら、 そ の 基 本型 と もい うべ き も のを掘 り起 こ し てみ た い と思 って い る。 そ の た め に は、 これ ま で に行 な って きた 沖 縄 と韓 国 の祖 先 崇 拝 に 関す る私 の実 態 調 査 を踏 ま え、 内地 のそ れ を加 え て3者 の比 較 ・分 析 を 行 な い た い。 なお、 韓 国 の祖 先 崇拝 が多 大 の影 響 を受 け た 旧 中 国 のそ れ を 文 献 上 で 調 べ、 次 いで、 グ ローバ ル な ス ケー ル で祖 先 崇 拝 に関 す る 文 献 に も 当 た りた い と思 って い る。 さ て、 今 回 の雲 津 ・小 泊 両 部 落 の祖 先 崇拝 に関 す る調 査 報 告 で は、 私 が 作 製 した 質 問 項 目 の妥 当 性 のい か ん を 探 り、まず 実 態 報 告 の モ ノグ ラフ を ま とめて、今 後 の 自分 自身 の研 究 の た め の ステ ツ プに した い と ころ で あ る。 そ の意 味 で は、 両 地 区 の祖 先 崇 拝 に 関す る調 査 結 果 の比 較 ・分 析 とい うテ ー マを 付 けた も の の、 比 較 よ りもむ しろ分 析 の方 に力 点 が あ る。 I雲 津 の 概 況 (イ)雲 津 の 歴 史 雲津 は、 島根 県 内 島根 半 島 の先 端 部 に近 く日本 海 に面 して位 置 し、 半 島 先 端 部 の美 保 関 と とも に、 歴 史 の古 い 集 落(43世 帯)で あ る。 行 政 的 に は、 島根 県 八 束 郡 美 保 関 町 に属 す るが、 美 保 関 と と もに、「国 引 き神 話」「国 譲 り神 話 」 のふ る さ とにふ さわ し く、集 落部 の近 辺 には 古 墳、 塚 の類 が 多 く、 曲玉 ・銅 器 な ど の 出土 品 も多 数 発 見 され て い る。 と くに、 村 人 の好 意 に よ って 部 落 の領 海 を 海 岸 線 に沿 って動 力 船 で案 内 して も ら った とき、 奇 岩 や 奥 の深 い 洞 穴 が 幾 つ か あ り、神 話 の 「ふ る さ と」 の思 い を 深 く した。 米 子 出 身 で、 明 治28年 に 雲 津 分教 場 に着 任 して、17年 間教 鞭 を 執 りな が (1) ら雲津 の 歴 史 を研 究 した 山 田 賀 太 郎 は、 『出 雲 風 土 記 』 に 出 て くる 「久 毛

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等 」 を 雲津 に比 定 して い る。 同風 土 記 に は、 そ の頃 の現 美 保 関 町 域 に あ る ち く み 港 津 と して、 久 毛等 ・七 類 ・千 酌 の3っ を あ げ、 久 毛 等 につ い て は、「久 毛 等 浦 広一 百 歩、 自東 行 西 十船 可 泊 」 の記 事 が あ る とい う。雲 津 の港 は、 外 洋(日 本 海)か ら内 外2湾 の深 ま った 位 置 に あ り、東 西 百 歩(現 在 約60メ ー トル)、 十 船(帆 船)が 寄 泊 可 能 とい うのは、 ま さに現 在 の集 落 部 内 湾 の状 況 を ぴ った りい い あ て て い る。 天 然 の良港 を な す 雲津 は、 海 上40海 里 を距 て た 隠岐 島 と美 保 関、 境 港 と の 中 継地 点 と して、 ま た、 日本 海 沿 岸 を航 行 す る船 の風 待 港 と して機 能 し (2) た。 そ の た め、 先 の山 田 賀太 郎 も、「海 運 業 最 も盛 ん に して 千 石 船 と称 す る も の48隻 を 有 した 」 時 期 が あ っ た とい う。事 実、 私 が 調 査 に 訪 れ た 家 で も、2軒 の家 で か って 先 祖 が 千 石 船 を 所 有 して い た と語 って い た。 雲 津 の 海 運 業 の最 盛 時 を 特 定 す る こ とは で きな い が、 山 田 は そ の 時 期 を 室 町 時 代 前 期(1400年 頃)に 比 定 して い る。 そ の頃、 海 運業 に よ る 雲 津 の 繁 栄 を象 徴 す る よ うに、 世 帯 数 も百 戸 以 上 に ふ くれ あ が っ た模 様 で あ る。 あ と の と こ ろ で も述 べ る よ うに、 雲津 の農 林 漁 業 だ け を も っ て、 百 戸 とい う世 帯 を ま か な うこ とは とて もで き な い か ら、海 運 業 の隆 盛 を 想 定 しな い わ け に は (3) い か な い。 雲津 の戸 数 は 明 治36年8月 現 在 で43戸、240人、 同44年8月 現 在 で42戸、250人 で あ り、こ の あた りが人 口な い し戸 数 の扶 養 限 度 とみ て よ い。 雲 津 の古 老 も、 い つ の頃 な のか、 雲 津 は 美 保 関 と と も に繁 栄 した 頃、 「関(美 保 関)が 良 い か や 雲 津 が よい か、 ど うせ 住 む な ら関 が 良い」と歌 われ た と語 っ て い る。 な お、 か の天 仁 の 乱(1108)に は、 隠 岐 に 流 され た八 幡 太郎 義 家 の嫡 男 義 親 は、 追 討 の平 正 盛 の 軍 と こ こを拠 点 に戦 って戦 死 して い る。 雲 津 の集 落 部 の入 口に あ た る あ た りに浄 土 宗 覚 源 寺 が あ り、 そ の 向 か っ て 右 横 に 田 舎 には 不 似 合 な 立 派 な 塚 とそ れ に並 ぶ 小 さ な墓 が あ るが、 これ は義 親 と家 臣 の墓 で あ ろ う と い われ て い る。 現 在 も5月5日(以 前 は5月4日)に は、子 供 行 事 と して 「要 害 さん」(要 害 祭)が 行 な われ て い る。 子 供 達 は東 西2つ の 山 に源 平 に分 かれ て 登 り、陣 を 作 って 旗幟 を 立 て て、 ご馳 走 を食 祖 先 崇 拝 に 関 す る 調 査 研 究

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密 教 文 化 べ て 終 日を過 ご して い る。 な お、 覚 源 寺 の 向か って 左 側 に観 音堂 が あ る が、 こ のお 堂 の建 築 材 料 に は船 材 が 使 わ れ て い る と こ ろか ら、 お そ ら くこ の観 音 堂 は 海 運 業 に よ る遭 難 者 の慰 霊 のた め に 造 られ た の で あ ろ う。そ れ には、 そ うい え そ うな根 拠 が あ る。 集 落 部 の北方 の海 に面 して7-8メ ー トル の小 高 い 丘 が あ り、 こ こが 雲 津 の村 人 の共 同墓 地 に あ て られ て い る。 こ の共 同 墓地 は、 集 落 のは ずれ とい うの で は な く、 明 か に 集 落 部 に と り こまれ た か た ち にな っ てい る。 と ころ が、 この共 同墓 地 に比 べ る と面 積 に して4分 の1く らい だ ろ う か、 観 音 堂 の 向 かつ て 左 側 に それ で もか な り広 い墓 地 が あ る。 墓 石 に して 百 もあ る だ ろ うか。 村 人 に尋 ね る と、 そ こは海 の遭 難 者 の墓 地 だ とい う。 海 難 に あ っ た死 者 と、一 般 の死 者 の墓 地 とを別 々 に造 って あ る こ とに つ い て は、2つ の理 由 が考 え られ る。1つ は、 雲津 出身 の胴 子 で あ る と よそ か ら雲 津 に寄 留 して い た綱 子 で あ る と にか か わ らず、 海 難 者 の墓 地 を と くに 一 般 か ら区別 した とい うこ とで あ る。2っ は、 そ の こ と とは 別 に、 雲津 の 海 運 業 の盛 時 に、 主 と して よそ か ら移 住 して綱 子 とな っ た人 達 の 死 体 を こ こ に埋 葬 した こ とで あ る。 共 同 墓 地 の方 が よ く掃 除 が行 き届 き、 大 半 の墓 に供 花 が 手 向 け られ て い た のに 対 して、 こち らの墓 地 の方 は な か ば うち捨 て られ た よ うな印 象 を 受 けた のは、 あ る い は後 者 の墓 地 で あ る せ い か も知 れ な い。 (4) 山 田 に よ る と、雲 津 の海 運業 は、 「其 後 老 朽 破 船 等 にて 其 業(海 運業) 衰 うる に至 て は、 他 所 他 人 の船 に 乗 り組 み、 徳 川 氏 の世 に 至 て は 松 江候 (島 根 県)の 御 手 船 は 此 浦 人 の請 負 の如 く、鳥 取 侯 の御 手 船 に も乗 組 み た る 者 多 か りしが、 種 々 の事 情 と世 の変 遷 に伴 うて 船 夫 も減 じ(て い っ た の だ とい う。 さて、 上 に 述 べ た海 運 業 に よ る開 放 性 とは 別 に、 海 運業 衰 微 後 の 雲津 は 陸 路 に よる 限 り、極 め て 閉 鎖 的 な村 落 で あ った。 とい うのは、 古 来、 雲 津 の陸路 の便 宜 は極 め て 悪 く、近 隣 村 との通 交 は こ との ほ か 困 難 だ っ た か ら もろ くい で あ る。 雲津 は東 南部 を美 保 関 と接 し、西 は 日本 海 岸沿 い に諸 喰、 南 は境

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水 道 沿 い の 長浜 と境 を接 して い る。 それ ぞれ、 関道 が約7km、 諸 喰道 約4 km、 長 浜 道 約4kmで あ る。 山 田 は 明治 末 期 の3道 の様 子 を 次 の よ うに述 べ て い る。 (5) 「陸 路 は3あ れ ど も、交 通 不 便 の地 とて 悪 道 のみ な り。 な か んず く諸 喰 道 の 如 きは、 険 悪 に して 殆 ど渓 間 を 伝 うの思 い あ り。長 浜 道 も不 良 の道 なれ ど も、境 に 通 ず る要 路 に して や や通 行 の人 も多 く、時 々修繕 を加 え られ、 殊 に 明 治35年 に は 新 道 を 改修 してや や 里道 の体 裁 とな れ り。関道 も亦 不 良 の道 に して、 里 道 と して 見難 し」 と。 こ の山 田 に よ る道 路 事 情 の記 述 につ い て、 明 治後 期 の時 点 に お い て、 雲 津 の村 人 た ち に は、 美 保 関 よ りも境(港)と の通 行 の方 が生 活 上 で重 要 な 関 係 を も って い た ら しい こ とに注 目 して お き たい。 雲 津 の古 老(70歳)も、 「子 供 の頃、父親 が と った 魚 は、母 と子 供 の私 とが 背 負 って、 片 道3里(12 km)の 境 港 ま で 売 りに 行 って い た。 あ の 頃 は、 行 商 以 外 に、 村 人 が よそ に 出 る こ とは ほ とん どな か った 」 と語 っ て い る。 現 在 の境 水道 大 橋 が 完 成 した のが 昭 和47年 の こ とだ か ら、 そ の頃、 境 港 へ 魚 の 行商 に行 く主 婦 ら と して は、 雲 津 か ら長 浜 へ 出 て境 水 道 沿 い に字 井 ま で 歩 き、 そ こか ら渡 し 舟 に乗 って 行 っ て い た。 (口)雲 津 の 現 況 雲 津 で は、 南 部 山 間 部 に水 源 を もつ 雲 津 川 が、 北 方 に 向 か っ て2つ に分 流 して 集 落 部 に入 り、河 口部 で そ れ が 再 び 合 流 して 内湾 に注 い で い る。 集 落 は4つ の小 字 で 構 成 され て い るが、 そ の うち3つ の小 字 が塊 村 部 を な し て い る。 す な わ ち、 集 落 部 の中 央 に あ って、 雲 津 川 の2つ の分 流 に狭 まれ た三 角 洲 が 中 の島(12世 帯)、 そ の東 部 を 東 小 路(14世 帯)と い い、 こ こ に 知 恩 院 系 に 属す る海 渓 山覚 源 寺 が あ る。 寺 は 毎 日主 婦 が 交 代 で 掃 除 を して い る の で、 本 堂 に は 塵1つ な い が、10年 ほ ど前 か ら無 住 とな って い る。 中 の 島 の西 方 が西 小 路(11世 帯)で あ る が、3つ の 小字 は 集 って1団 塊 を な して い る ので、 小 字 とい って も実 は、 集 落 部 の中 央 部 ・東 部 ・西 部 とい う ほ どの意 味 しか もた な い。 西 小 路 に だ けは、 屋 敷 畑 が点 在 して、 老 夫 婦 の 祖 先 崇 拝 に 関 す る 調 査 研 究

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密 教 文 化 自家 菜 園 に な って い る。 それ に対 して、 塊 村 部 の 北 の端 の雲 津 川 河 口か ら東 行 す る こ と約60メ ー トル、 そ こで第4の 小 字 向 う 口(7世 帯)の 南 口に達 す る。 この小 字 の家 々 は、 そ こ か ら北 へ 約80メ ー トル 北 方 にあ る 氏神 社 諏 訪 神 社 に 向 か っ て点 在 して い る。 雲 津 川 の河 口か ら向 う口に至 る海 岸 沿 い の道 路 の南 沿 い に高 さ7-8メ ー トル の岡 が あ って、 こ こが雲 津 の共 同墓 地 に な って い る。 雲 津 のす べ て の家 々に は、 釜 屋 ・田 中屋 ・下 角 屋 ・豆 腐 屋 ・米 屋 とい った 家 号 が つ い て お り、村 人 らは お 互 い に屋 号 を も って 呼 び合 って い る。 ほ とん どの墓 石 に は、 墓 碑 の 右 肩部 分 に屋 号 が記 され て い る の が 特 徴 で あ る。 墓 碑 は い ずれ も思 い の ほ か立 派 な も ので、 しか も よ く掃 除 が 行 き 届 い て お り、多 くの新 しい墓 碑 に は花 が供 え られ て い る。 雲津 の老 夫 婦 達 は、 墓 詣 りに は こ との ほ か熱 心 で あ る こ とが うか が われ た。 雲津 の村 人 達 のパ ー ス ナ リテ ィー が、 個 人 主義 的 で理 屈 っ ぽ い とい う こ とにつ い て は、 近 隣 村 の人 達 の間 で も定 評 が あ る。 私 が隣 りの美 保 関 の村 人 か ら聞 い た雲 津 人 評 で も、 「あ そ この村 人 の気 質 は 極 め て ユ ニー クで、一 種 の独 立 国 だ。 自己 主 張 が 強 く、譲 り合 い の気 持 がな い。 部 落 の寄 合 の席 で も、 一 々挙 手 して 発 言 を 求 め る とい う変 りよ うだ」 と の こ とで あ った。 こ の こ とに関 連 して、 雲 津 の古 老 は、 昔 か ら雲 津 や 近 隣 村 で い わ れ て い る次 の よ うな 言 葉 を 紹 介 して くれ た。 雲 津 ヤ ケヤ ケ(「 や け くそ 」 の意) 長 浜 カ ン タ カ ン タ(カ ンタ は 「あ な た 」 の意) 諸 喰 バ ー ア ー バ(「 あ き れ た、 お ま え) 法 田 の コナ シ ャ(お ま え) 七 類 のオ ラ ン ド(自 分)で 夜 が 明 け た 上 に あ げ られ た5っ の村 落 は、 いず れ も美 保 関 町 内 の村 々 で あ り、長 浜 以 外 は す べ て 雲津 の西 方 に あ って 日本 海 に面 した 半 農半 漁 村 で あ る。 島 根 半 島 の 日本 海 側 に は、 沿 岸 の4つ の村 を東 西 に結 ぶ道 路 が な い の で、 昔 か ら相 互 の 交流 は極 め て 乏 しか った。 そ の た め、 現 在 で も、隣 村 へ 行 くに は

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一 端 南 下 して境 水 道 沿 い を走 る国 道 に出 て、 そ こか ら西(東)行 して北 上 す る とい う迂 回 路 を 通 らね ば な らな い。 交通 事 情 も悪 く、5つ の村 々は そ れ ぞれ 閉 鎖 的 な ので、 お のお の独特 の方 言 を発 達 させ て い る。 そ のな か に あ っ て、 雲 津 に つ い て、 「ヤ ケ ヤ ケ」 とい う 村 人 の気 質 の特 徴 に通 ず る 方 言 が あ げ られ て い る。 雲津 の村 人 達 は、 個 人 主 義 的 で 理 屈 っ ぽ く、 自己主 張 が 強 い の で、 お 互 い に 「や け くそ 」 な こ とを い って い る よ うな 言 葉 の応 酬 を しあ った ので あ ろ う。 次 に、 雲津 の村 人 達 の生 業 に つ い て記 して お こ う。(調 査 拒 否3) こ の表 か ら まず 知 られ る こ とは、 夫 妻 と も会 社 員 が 非 常 に多 い こ とで あ る。 世 帯 主 の職 業 で 漁 業 と答 え た 者 の大 半 は、 自前 の船 を 持 った 漁 業 者 で は な く、境 港 市 の 捲 網漁 船 に乗 る船 員 で あ る。 妻 に主 業 を漁 業 と答 えた 者 が9人 い る の は、 境 港 市 の漁 業 関 係 の会 社 の従 業 員 の こ とか と思 われ る。 雲 津 の村 人 達 の個 人 主 義 ・合 理 主 義 は、 海 運 業 隆 盛 の昔 か らの伝 統 で あ る と して も、 こ のサ ラ リー生 活 者 が 多 い こ とが、 そ の傾 向を い っ そ う助 長 し て い る で あ ろ うこ と も確 か で あ る。 次 に、 雲津 の職 業 で 注 目す べ き こ とは、 民宿 業 者 が世 帯 主、 妻 を 合 せ て 7世 帯 あ る こ とで あ る。 この調 査 結 果 に は 出 な か った が、 実 際 は 民 宿 業 を 営 む家 は10軒 あ り、美 保 関 町 内22部 落 の うち、 同 規 模 の もの の 中 で は民 宿 が 最 も多 い 村 落 で あ る。 民 宿 を 営 む 家 々は す べ て 漁 船 を所 有 して い て、 泊 り客 のた め の副食 の 魚 類 につ い て は 自営 漁 業 に よ って ま かな っ て い る。 民 宿 に 来 る 観 光 客 は、 当 初 は 釣 り客、 海 水 浴 客 を 中 心 に夏 場 が 中 心 で あ った が、 近 年 は新 年 宴 会 の客 も利 用 す る よ うに な り、 年 間 を 通 して 観 光 客 が あ る よ うに な っ て き つ つ あ る。 祖 先 崇 拝 に 関 す る 調 査 研 究

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密 教 文 化 雲 津 の家庭 で は、 夫 妻 合 せ て29人 が サ ラ リー マ ン生 活 を 営 んで お り、 ま た、 美 保 関 町 内 の部 落 の規 模 を 考 えれ ば、 民 宿 を経 営 す る家 の比 率 も最 も 高 い。 畑 仕事 は 完全 に 老 人達 の手 に委 ね られ、 働 け る老 人 のい な い 家 々 の 畑 は 耕 作 が放 棄 され て い る。 夫 妻 の勤 め先 は、 す べ て 境 水 道 を 距 て た鳥 取 県 側 の 境 港 市 の水 産 物 加工 工 場 で あ り、勤 め人 た ちは、 そ の 日 の副 食 は も ちろ ん、 野 菜 ま で も、 境 市 の店 で買 って 帰 る こ とが 多 い。 そ のた め、 過 半 の家 々 で は、 村 に住 居 を 置 き な が らも、 実 質 的 には 都 市 部 のサ ラ リー マ ン と変 わ りの な い生 活 を して い る。 <漁 業> 雲 津 漁 協 は、 昭 和39年 に美 保 関 漁 協 と合 併、 現 在 は そ の支 所 とな り、漁 協 正 組 合 員 は18人、 準 組 合 員 は16人(一 説 で は24人)で あ る。 正 組 合 員 の うち、 民 宿 の経 営 者 が10人、 渡 船 業 者 が2人 だ か ら、雲 津 の漁 業 は 不 振 で あ る。 現 在 行 な わ れ て い る漁 業 と して は、 各3人 で行 な っ て い る傘 網 が2 統、 漁 獲 は サ ワ ラ とブ リで、1統 で年 間水 揚 げ は300万 円て い どで あ る。 ほか に、 サ ザ エ の建 網 の認 可 権 を 持 つ者 が17人 い るが、 実 働 して い る の は 7-8統 との こ とで あ る。 ま た、 何 年 か前 か ら、比 較 的 若 い 年 齢 層 の有 志 14.5人 で 水産 研 究 会 が つ くられ、 ア ワ ビの試 験 養 殖 が 行 わ れ て い る。 民 宿 の経 営 者 は、 来 客 の副 食 用 に 一本 釣 りを行 な うが、 漁 業 の専 従 者 は 皆 無 に 近 い。 正、 準 両 組 員 が 所 有 す る 規模 別漁 船数 は次 の よ うで あ る。 美 保 関 漁 協 で 聞 い た の と、私 達 の調 査 結 果 との 間 に か な りズ レが あ る ので、 念 の た め両 方 を掲 げ て お く。 私 達 の調 べ で は、4隻 所 有 す る家1世 帯、3隻 と2隻 所 有 す る 家 が 各 一 世 帯 あ った か ら、 それ ら重複 分 を 差 引 く と、43世 帯 の うち35世 帯(81.4%) が何 らか の漁 船 を 所 有 してい る こ とに な る。 この点 か らい う と、漁 業 は 不

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振 とは い え、 雲 津 は漁 村 として の面 目を 保持 して い る。 次 に、 美 保 関 漁 協 で と らえ てい る過 去5年 間 にお け る雲 津 の漁 獲 水 揚 金 額 は 次 の よ うで あ る。 水 揚 金額 は所 有 漁 船数 に 比 べ て 驚 くほ ど少 な く、 これ で は水 揚 げ の よ い5ト ン級漁 船1-2隻 分 の金 額 に しか な らな い。 雲津 は美 保 関 漁 協 に 入 って お りな が ら、漁 獲物 は 境 港 市 へ通 勤 す る人 に こ とづ け て 同 市 の漁 市 場 に運 んで 販 売 して も ら う とい う偏 則 的 な こ とを して い る。 普 通 な ら、 本 部 の美 保 関 漁 協 の運 搬 車 が来 て毎 日の漁 獲 を 受 け とる とこ ろ だ が、 水 揚 げ が あ ま りに も 過 少 ゆ え それ も こな い。 そ のた め、 美 保 関漁 協 本 部 の方 で も、 雲 津 の実 際 の水 揚 金 額 の実 体 を っ か み か ね て い る。 <農 業> 藩 制 時 代 に お け る現 美 保 関 町 内 のお もだ った 諸 村 の課 税 石 高 は下 の よ う で あ る。 美 保 関 新 田2石 福 浦40石 雲 津 浦 新 田5石 諸 喰 浦17石 七 類 浦110石 片 江浦230石 菅 浦210石 北 浦370石 千酌 浦380石 笠 浦20石 森 山 村130石 下 宇 部 尾 村220石 (『 町 勢 要 覧・美保 関 町・1984』 よ り) これ で み る と、藩 制期 の現 美 保 関 町 内で は、 森 山 村 と下 宇 部 尾 村 の2村 を 除 い て、 他 はす べ て 半 農 半 漁 村 で あ った こ とが 知 られ る。 同時 に、 雲津 浦 は、 美 保 関 町 と と も に、 耕 地 に恵 まれ ず、 農 業 を め ぐる土 地 環 境 は極 め て厳 しい も のだ った こ と も分 か る。 山 田 賀太 郎 に よ る と、 明 治末 年 に お い て、 雲 津 は半 農 半 漁 村 で あ り、 男 祖 先 崇 拝 に 関 す る 調 査 研 究

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密 教 文 化 子 は漁 業、 女 子 は農業 に従 事 して お り、 お もな農 産 物 は麦、 蚕、 豆、甘 藷、 黍 で あ り、米 は わず か で あ っ た。 林 業 は用 材 薪 材 で あ り、そ の販 売 先 は境 港 が お もで あ った。 戦 後、 昭 和40年 頃 まで は、 過 半 の家 々で10aて い ど の水 田 を 耕 作 し、 米 を ほ ぼ 自給 す る こ とが で きて い た。 そ れ が 現 在 で は、 あ との と ころ で 述 べ る よ うに、 青 壮 年 労 働 力 の ほ とん どが 境 港 市 の水 産 加 工 団地 へ勤 め る よ う に な っ た の で、 米 作 は40a、10aを 耕 作す る2軒 だ け とな っ た。 そ の た め 休 耕 地 も多 く、農 業 とい え ば、 老 夫 婦 が 自家 菜 園 て い どを行 な うにす ぎ な くな っ て い る。 ほ か に、5-6世 帯 が椎 茸 栽 培 を行 な っ て い る が、 自家 消 費 分 てい どを 作 る の が多 く、農 協 に 出荷 してい る も の は2軒 だ けで あ る。 次 に、 私 達 の調 査 結 果 に よ っ て、 耕 地 ・山 林 の規 模 別所 有 世 帯 数 を のせ て お く。 <耕 地> <山 林> 山林 もそ うだ とい え るが、 と くに耕 地 の所 有 規 模 は極 め て零 細 で あ り、 農 業 だ けに 頼 って は とて も生 活 が 成 り立 ち えな い こ とが 知 られ よ う。 <雲 津 の半 サ ラ化> 戦 前 の雲 津 は、 半 農 半 漁 村 で あ った が、 な か で も漁 業 は、 現 金 収 入 面 と 副 食 用 に お い て 重要 で あ り、 日本 海 とい う豊 漁 場 を 控 えて 盛 ん で あ った。 と くに、 旧暦5月 頃 か ら12月 頃 ま で 組合 漁 業(村 網)と して 行 な われ た鰯 の地 曳網 は、 生 計維 持 上 重要 な位 置 を 占め て い た。 鰯 網漁 は 宝 暦 年 間(17 51-1763)よ り行 な われ 始 め た とい われ、 明 治 末年 に は、 中 網 組 ・古 網 組 の2組 に分 かれ て行 な われ て い た。 そ の ほ か に も さま ざま な漁 法 が行 な わ

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(7) れ た が、 山 田賀 太 郎 編 『雲 津 誌 ・全 』 に 詳 し く のせ られ て い る ので こ こで は 省 略 す る。 戦後、 鰯 網 は い ち早 く復 活 され、 古網 ・中網 両 組 に よ っ て昭 和30年 く ら い ま で操 業 され た。 そ のほ か、 昭 和20年 代 に は、 イ カ の一 本 釣 り や 火 網 (四 つ張 り網)に よ って、 ア ジや サバ な ども沢 山 とれ て い た。 しか し、漁 業 の最 盛 期 は 昭和25.6年 頃 で あ り、 そ の あ とは急 速 に衰 微 して い く。 (8) それ とい うの は、 戦 後 九 州 方 面 を中 心 に爆 発 的 な勢 い で 起 こ った 捲 網 船 団 が山 陰沖 ま で漁 場 を求 め て進 出 して きた か らで あ る。 捲 網 船 団が お も に ね らっ た の は ア ジ ・サバ で あ り、沖 合 を 一 網 打 尽 に さ らえた の で、 手 押 し 船 に よ る雲 津 の漁 師 と して は、 い か ん とも な しえ なか った。 そ の うち、 境 港 市 を 中 心 と して地 元 の捲 網 船 団 が組 織 され て活 動 し始 め る と、不 漁 を 嘆 い て い た雲 津 の漁 師 の相 当数 は、 そ れ に船 員 として 雇 わ れ て 働 くこ とに な る。 昭 和30年 代 に な る と、雲 津 で と り残 され た 漁 師 達 は、 先 細 りの漁 業 を な お も続 ける か、 それ と も京 阪 神方 面 に職 を 求 めて 出稼 ぎに行 くべ きか の選 択 を 強 い られ た。 地 元 に 残 った漁 師 達 の一部 は、 手持 ち の漁 船 を利 用 して 民宿 の経 営 に踏 み切 り、昭 和41年 に は、 民宿 は6軒 とな った。 他 の漁 師 達 は、 雲津 で は か つ て、 鳥取 県 で も比較 的早 く、 明 治40年 頃 か ら ワ カ メ養 殖 を手 が け た経 験 が あ っ た の を生 か して、 昭和40年 頃 か ら ワカ メ 養殖 を 始 め て い る。 これ は か な り好 成 績 を収 め、 盛 時 に は14.5人 の 養殖 業 者 を 見 る こ とに な る。 しか し、 ワカ メ 養殖 は 天候 に支 配 され や す い上 に、 市 況 も不 安 定 とあ っ て、 それ もや が て行 きづ ま っ て廃 業 す る。 そ の間、 鳥 取 県 側 の境 港 市 で は、 昭 和44年 に水 産 加 工 団地 を 造成、 同46 年 に4企 業・1協 業 施 設 が進 出 した の を皮 切 りに、 企 業 進 出 が あ い っ い だ。 そ れ に よ って、 女 子 従 業 員 を 主 体 に、 労 働 力需 要 が高 ま る こ とに な っ た。 漁 業 不 振 のな か で、 な お 地 元 に残 って い た漁 師 と、 同 じ く先 行 き の な い 農 業 以 外 に働 き場 のな か った 主 婦 達 は、 労 働 力 需 要 に応 募 した わ け で あ る。 雲 津 の男 女 に、 境 港 市 の水産 加 工 団 地 内 の共 和 冷 蔵、 共 和 加 工、 北 陽 祖 先 崇 拝 に 関 す る 調 査 研 究

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密 教 文 化 冷 蔵 な どの工 場 に勤 め る サ ラ リー生 活 者 が 多 い のは この た め で あ る。 か く て 雲津 は、 半 漁 半 サ ラ の集 落 とな る。 最 後 に、 私 た ち の調 査 結 果 か ら、雲 津 の世 帯 の年 間所 得 を 掲 げ て お く。 雲 津 の世 帯 の年 間所 得 は250-600万 円 の層 が24人(72.7%)と 厚 く、平 均 で 約400万 円 とな り、こ の報 告 で 比 較す る小 泊 に比 べ て か な り 所 得 が 多 い。 一 般 的 に い って も、僻 地 の集 落 と して は高 所 得 で あ り、半 漁 半 サ ラ集 落 の本 領 が うか が われ る。 雲 津 の村 人 達 の個 人 主 義 ・合 理 主 義 の 傾 向は、 この都 市 の勤 労者 世 帯 並 み の所 得 水 準 の高 さ とも無 関 係 で は な い で あ ろ う。 II小 泊 の 概 況 (イ)す さみ 町 の 概 況 小 泊 は、 和 歌 山県 の 西 南 端 に近 く、本 州 の最 南 端 に あ た る 串 本 町 と温 泉 郷 白浜 町 との 中 間 に あ って、 す さみ町 に 所 属 す る81世 帯 の 漁 業 集 落 で あ る。 す さみ町 は、 紀 南 地 方 に あ って 太 平 洋 に 面 し、 昭和55年 の 国 勢 調 査 に よ っ て、2,417世 帯、10,704人 を も って 構 成 され て い る。 太 平 洋 の黒 潮 が 沖合 を 流 れ、 全 町 面 積 の93%が 森 林 を も って お お われ、 町 内 に4か 所 の温 泉 を 所 有 す る とあ って、 農 林 業 ・漁 業 ・観光 が町 の主 な産 業 で あ る。 国 鉄 和 歌 山 駅 か ら急 行 で 約2時 間 半、 大 阪駅 か らだ と、 同 じ く急 行 で 約 4時 間15分 を 要 し、い わば 関 西 の辺 境 位置 に あ る とい え よ う。 ち な み に、 国 鉄 紀 西 線 が 田辺 市 か らす さみ 町 ま で 開通 す る の が昭 和11年、 一 方、 国 道 42号 線 が す さみ 町 ま で 延 長 され た の は、 昭和36-8年 の こ とで あ る。 昭 和 52年11月、 湯 浅-田辺-串本-新 宮 を経 て三 重 県 亀 山 市 に 至 る紀 伊 半 島 一

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周 の高 速道 路 の建 設 が、 国 の第3次 全 国 総 合 計 画 の 中 に織 りこ まれ は した が、 緊 縮 財 政 の折 か ら、 そ の実 現 は 当分 望 め そ うも な い。 次 に、 す さみ 町 の沿 革 にっ い て 記 して お く。す さみ 町 の中 心 街 区 は、 旧 周 参 見 村 域 に属 す る 区域 で、 町 役 場 の あ る堀 池 地 区を 中 心 として、 それ に 連 な る 石 橋 ・本 城 ・堀 切 ・山 崎 ・平 松 な どで あ る。 石 橋 地 区 に あ る す さみ 小 学 校 の敷 地 内 に は、 近 世 に 入 って、 紀州 藩 に よ って 南 紀伊162村、8,370 戸 を管 轄 した 代 官所 の遺 跡 が あ る。 それ 以前 に は、 こ の地 は戦 国 時 代 の 豪 族 周 参 見氏 が釆 配 を振 る っ た こ とも あ る の だ が、 それ を さ らに遡 る とな る (9) と、 「我 が 町 は 往 古 い ずれ の時 代 に、 な に び とに よ って 開 か れ た か 判 らな い 」 とい うこ とにな る。 地 域 で は、 明 治22年 の町 村 制 施 行 時、 小 泊 村 を 吸 収 合 併 して 旧 周 参 見 村 が誕 生 す る。 そ のあ と、大 正13年 に は、 町 制 を 施 い て 周 参 見 町 とな る。 戦 後、 昭 和30年3月、 隣 接す る三 舞 村 大 字 太 間川 を 周 参 見 町 に編 入す る と と も に、 大 都 河 ・佐 本 両 村 を合 併、 新 しい町 名 を漢 字 か ら平 仮名 のす さみ 町 とす る。 次 い で、 昭 和31年4月 に は、 町 内大 字 大 鎌 を境 界 変 更 に よ って 江 住 村 に割 譲 す る が、 同34年3月 には、 そ の江 住 村 を合 併 して今 日 に至 って い る。 か って のす さみ 町域 で は、全 町 の9割 以 上 を 山林 に お お われ て、昭 和26年 頃 ま で は、 山 村 部 を 中 心 に 随分 林 業 ・炭 焼業 も盛 ん で あ った。 現在 のす さ み町 は、 産 業 的 に は3本 の柱 に よ って 支 え られ て い る。 一 つ は 農業 で あ り、温 暖多 湿 の気 候 を利 用 して、 レタ ス を 中 心 に、 ニ ン ニ ク ・イ ン ゲ ン豆 な どを 栽 培 して京 阪神 の市 場 に 出荷 して い る。2つ は、 観 光事 業 で あ る。 町 内 に は4、5か 所 ほ ど温 泉 が あ る の だ が、 近 くの 白 浜 ・椿 な どの温 泉 に 客 を と られ て、 こ の方 面 は あ ま り振 る わ な い。 しか し、 旧 周参 見町 域 の海 水 浴 場 と、 関 西 有 数 の釣 り場 と して の 「す さみ 磯 」 は、 夏 場 を 中心 と し て、 日帰 り、宿 泊 客 を 相 当 集 め て い る。 な お、 す さみ町 は大 阪 府 の寝 屋 川 市 と姉 妹 都 市 とな って お り、 す さみ の海 水 浴 場 近 くに、 寝 屋 川 市 民 が 買 い とっ た マ ンシ ョン も建 て られ て い る。 祖 先 崇 拝 に 関 す る 調 査 研 究

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密 教 文 化 第3は 漁 業 で あ る。 漁 業 集 落 小 泊 と の関係 で、 す さみ 町 の漁 業 にっ い て は少 し詳 し く述 べ て お きた い。 先 程、 す さみ町 の沿 革 の とこ ろで 述 べ た の だ が、 こ の町 は 旧周 参 見町 が 南 に 海 岸部 に沿 って連 な る諸 村 を 合 併 して つ くられ て い る ので、 国 鉄 紀 西 線 の駅 で み て も、北 か ら周 参 見、 見老 津、 江 住、 和 深 の4駅 を 擁 し、 太 平 洋 に 面 して長 い海 岸 線 を も って い る。 そ の た め、 す さみ 町 漁 業 協 同 組 合 で は、 す さみ港 を合 せ て、見 老 津、 江 住、 里野、 口和 深、 江 須 之 川 の6漁 港 の水産 物 を集 荷 して い る。 小 泊 は 旧周 参 見町 の 平 松 地 区 とと も に ほぼ 同 じ漁 法 に よる漁 業 に従 事 して い る ので あ る が、 他 の漁 港 はそ れ ぞ れ 漁 法 の異 な った漁 業 を行 な って い る。 さ て、 紀 州 藩 に よ る積 極 的 な漁 業政 策 もあ っ て、 黒 潮 に よ る豊 漁 場 を 控 え た和 歌 山 の漁 業 は 全 国 的 にみ て もな か な か盛 んで あ った。 た だ、 和 歌 山 県 のす さみ 町 を含 めた 南 西 海 岸 は、 田 辺 市 か ら串本 町 に か け て海 岸 線 の起 伏 に乏 し く、良 港 に恵 まれ な い た めに 「枯 木 灘 」 と称 され て き た。 こ の海 岸 線 は、 か な り強 風 の多 い とこ ろで、 「す さみ 町 」のす さみ の原 意 は、 海 が 「荒 れ す さぶ」と こ ろ か ら生 じた とす る 説 もあ る。 そ う した避 難 港 の な い 海 岸 線 の なか に あ って、 小 泊 と周 参 見 の両 港 は、 沖 合 に浮 か ぶ 稲 積 島が 防 波 提 の役 目を 果 た した こ とか ら風 待 港 と して、 ま た、 漁 港 と して の利 点 も もっ て いた こ とに な る。 (ロ)小 泊 の概 況 調 査 の対 象 地 小 泊 に つ い て は、 歴 史 の 古 い漁 業 集 落 で あ る ら しい とい う こ とを 除 い て、 そ の成 立 起 源 は よ く分 か らな い。 村 の古 老 は、 こ の地 の伝 あ さ ら 承 と して、 自分 達 の先 祖 は 小 泊 の 西方 に あ た る 「朝 来 」 か ら来 た と も い う。『す さみ 町 誌 』には、 小 泊 は 古 くは 「御 泊 」 と書 い た とい い、 小 泊 お よ (10) び そ の西 方 沖 合 に ある 稲 積 島 につ い て、 神 武 天 皇 が 東 征 に あ た って 小 泊 に宿 泊 し、稲 積 島か ら米 な ど の食 糧 品 を積 み こ ん だ とす る伝 説 を のせ て い (11) る。 小 泊 の地 名 が 初 め て 文 献 に登 場 す る の は、 鎌 倉 時 代 の天 福 元 年(1233) の 「為 清 田 畠 下 人 去文 」(『鎌 倉遺 文 』 所 収 ・紀 伊 小 山 文 書)と い う徴税 文 書 に よ って で あ る。

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この部 落 の 草分 けは 稲葉 家 で あ り、 また は 同家 と近 い 親 戚関 係 に あ っ た 浜 田家 と の両 家 で あ った と もい われ る。 現 在 の小 泊 は81世 帯 で あ る が、 そ の うち稲 葉 姓 が11世 帯、 浜 田姓 が20世 帯 で あ る。 他 姓 を名 の る家 々 も両 家 か らの分 かれ が多 い とい う。稲 葉 ・浜 田 の両 本 家 とも、 藩 制 時 代 か ら大 正 末 年 に か け て、 各 々胴 子30人 近 くを した が え る船 主 ・網 主 家 だ っ た。 小 泊 の漁 家 は、 舟可子 と して両 家 のい ず れ か に 分 属 す る とい う時 代 が 長 く続 い た わ けで あ る。 現 在 は、3-5ト ン級 の小 型 漁 船 が主 力 で あ り、 カ ツオ ・マ グ ロを 求 め て、 船 団 を 組 ん で 長 崎 県 の 五 島沖、 対 馬 沖 まで 出漁 した り、他 の 船 団 は 房 総半 島 沖 か ら三 陸 沖 ま で 出漁 す る こ とも あ る。 お もな漁 法 は、 周 参 見 の 「ケ ンケ ン船 」 と して全 国的 に も知 られ て お り、擬 似 餌 漁 法 に よ る1本 釣 で あ る。 周 参 見 の ケ ン ケ ン船 の担 い 手 は、 小 泊 の漁 民 と、 小 泊 か ら約500 メ ー トル 南 の平 松 の漁 民 で あ る。 平 松 に は、 周 参 見港 とす さみ 漁 業 協 同 組 合 が あ り、周 参 見 と口和 深、 見 老 津、 江 須 之 川、 江 住、 里 野6漁 港 の水 産 物 は す べ て こ こ に水 揚 げ され て い る。 ち な み に、 昭 和58年 度 に お け るす さみ漁 協 の水 揚 金 額 は、6漁 港 分 合 せ て9億2,612万3,432円 で あ り、 そ の うち、 平 松 と小 泊 とを合 せ た 周 参 見漁 港 分 が1億9,800万 円で あ る。平 松 と小 泊 の両 漁 民 は、 距 離 的 に近 く、 とも に漁 業 集 落 な の で、 す で に述 べ た よ うに、 一 緒 に船 団 を組 ん で 遠 距 離 ま で 出 漁 す る仲 で あ る。 しか し、な ぜ だ か 理 由は 分 か らな い が、 両 地 区 間 の 通 婚 関 係 は ほ とん どな い。 さて、 小 泊 は7班 に分 か れ て お り、各 班 の世 帯 数 は1班12、2班11、3 班11、4班12、5班11、6班12、7班12、 計81世 帯 で あ る。 次 に、 国 勢 調 査 の結 果 か ら近 年 の小 泊 の人 口動 態 を追 っ て お こ う。 これ で み る と、 こ の とこ ろ、 小 泊 部 落 で は 世 帯 数 で 微 増、 人 口で微 減 の 祖 先 崇 拝 に 関 す る 調 査 研 究

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密 教 文 化 傾 向 に あ る とい え よ う。 次 に、 小 泊 に お け る世 帯 主 夫 妻 の職 業 は 下 の よ うで あ る。(81世 帯 中調 査 世 帯64) 小 泊 には 未 婚 そ の他 の理 由で 妻 のな い世 帯主 が3人 い る ので、 妻61人 中 パ ー トを 含 めた 有 職 者24人 で あ る。 これ で み る と、小 泊 は 世 帯 主64人 中53 人、82.896が 漁 業 で あ り、典 型 的 な純 漁 村 で あ る。 雲 津 の夫 妻 の職 業 と比 較 して い え る こ とは、 純 漁村 ら し く妻 に無 職 な い し専業 主 婦 が 多 い こ とで あ る。 な お、 夫 妻 に 農 林 業 にた ず さわ る者 が少 数 なが らあ る ので、 田 ・畑 ・山 林 の規 模 別所 有 世 帯 数 を み て お こ う。 <田> <畑> <山 林> 上 の表 か ら知 られ る よ うに、 小 泊 の耕 地 ・山林 の規 模 は雲 津 に輪 を か け て零 細 で あ り、 また 所 有 世 帯 数 も少 な い。 畑 に至 っ ては、0.1a(約3坪) に始 ま っ て1∼2aと い うの が多 い。 紀州 藩 に よ る漁 業 の奨 励 も あ って、 農 耕 に よ る生 活 のて だ て を欠 いた 小 泊 の漁 民達 は、 昔 か ら海 一 本 に か け る 気 風 が お のず か ら強 か っ た よ うで あ る。 小 泊 の草 分 け と 目され る稲 葉 ・浜 田両 本 家 は、 天 保 年 間(1830∼1843) 以 来、 小 泊 を2分 す る 船主 ・網 元 で あ った。 それ ぞれ 大 船 と30人 に近 い

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胴 子 を 揃 え、 春 か ら秋 に か けて 黒 潮 に 乗 って 回遊 す る カ ッオ ・カ ジ キ マ グ ロな どを追 って 沖合 漁 業 を営 ん で き た。 胴 子 の雇 用、 漁 労 につ い て は船 頭 制 が と られ、 賃 金形 態 は 歩合 制 を 織 り こん だ前 貸 制 で あ った。 小 泊 の あ る 老 漁 夫 は往 時 を 回 想 して、 「あ の頃 は金 で 縛 られ て働 か され て い た。盆 と正 月 の2回 前 金 が 支給 され た が、 生 活 は 苦 しか っ た」 と述 べ て い る。 沖 合 漁 業 の シ ー ズ ン ・オ フに は、 船頭 の指 揮 ・統 制下 に他 の漁 業 地 帯 へ 出稼 ぎに 行 って い た。 この伝 統 的 な網 元 制度 は大 正 末 年 まで 続 け られ る が、 あ る老 漁 夫 は、 あ の 頃 の両 網 元 の年 間水 揚 げ は、 当時 の金 で700∼1,000万 円 く ら い だ っ た と述 べ て い る。 一 方、 明治 中期 以 降 に は、 耕 地 に恵 まれ ず 生 産 環 境 が 窮 迫 して い る紀 州 沿 岸 民 に は、 ひ たす ら外 洋 に活 路 を求 め て進 出 して行 っ た人 々 が多 い。 小 泊 で も、 若 い 頃 か ら中年 に か け て、 濠 洲 の木 曜 島や ブ イ リ ピ ン、 シ ン ガポ ー ルへ 出稼 ぎ に行 っ た経 験 を もつ 者 も何 人 かい る。 当 時、 木 曜 島で 潜 水 漁 を3年 や れ ば 家 が建 てれ る と もい われ、2、3男 層 を 中 心 に人 気 が あ った よ うで あ り、事 実 そ の夢 を実 現 した人 も い る。 古 老 の稲 葉 三 郎 氏(72歳) の ば あい、 木 曜 島で 数 年 問 働 き、 そ の資 金 を も とに昭 和10年 頃 船 主 ・網 元 に な った 人 で あ る。 さて、 他 方、 伝 統 的 な 網 元 制 度 を 崩 壊 させ た のは、 そ の後、 周 参 見村 の 漁 業 で 中 心 的 な 役 割 を 果 た す よ うにな る 「けん けん 船 」 の出 現 で あ っ た。 「けん けん 船」と は、 田並(現 串本 町)の 小 野 七 之 助 が 明 治41年(1908) ハ ワイ の出 稼 ぎか ら帰 り、当 時 ハ ワイ で 行 な わ れ て い た 帆 船 漁 法 を 改 善 し た も の とい う。そ れ を 平 松 の奥 野 庄 之 助、 上 山 仁 蔵 らが 伝 授 を 受 け、 当地 の 先 駆 者 とな った。 これ は、周 参 見地 区 の 貧 しい漁 師 た ち に とっ て は、ま さ に福 音 で あ った。 前 金 制 度 に 縛 られ て働 い た り、細 々 と 日銭 稼 ぎを して い た漁 夫 た ちに と って、 自分 が 稼 い だ 金 が 自分 の収 入 に な る ので あ る。 そ の た め、 ケ ン ケ ン船漁 法 は た ち ま ちに して 周 参 見 の漁 師 た ち の間 に普 及 して い き、 それ に つれ て、 伝 統 的 な 網 元 制 度 が 崩 壊 して い く こ とに な った。 ち な み に ケ ン ケ ン漁 法 とい うの は、 擬 似 餌 に潜 行 板 を組 み合 せ、 船 を 一 定 の 祖 先 崇 拝 に 関 す る 調 査 研 究

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密 教 文 化 速度 で 走 らせ な が ら、擬 似 餌 を 海 面 下2-3mの とこ ろ で 泳 が せ て、 カ ッオ、 ヨ コワ、 シ ビ マ グ ロを 誘 い 釣 りす る の で あ る。 こ の ケ ン ケ ン船 漁 法 は、 当 初、 平 松 や小 泊 を基 地 と して、 日帰 りの 可能 な 範 囲 で 行 な われ た。 しか し、 戦後 昭和20年 代 の終 りに な る と、早 く も濫 獲 に よ る 漁 獲 の 減 少 が 問 題 に な る と とも に、 漁 期 も2月 か ら5月 頃 ま で に 限 定 され て い た。 そ こで、 地 元 で の漁 期 の シ ー ズ ン ・オ フを 利 用 して、 新 漁場 の 開 拓 の必 要 に迫 られ、 昭和29年 に は5隻 の船 団 に よ って、9月 初 旬 か ら4か 月間 に わ た る対 馬 へ の遠 征 が試 み られ た。 そ の後 は さ らに、 房 総 沖 か ら福 島や 青 森 方 面 に ま で 出漁 す る よ うに な って い る。 今 も、 小 泊 や 平 松 の漁 師 らは、3-5ト ン の小 型 漁 船 に1人 で乗 り組 み、 対 馬 や 房 総 沖 へ 20-30隻 の船 団 を 組 ん で出 漁 を 続 けて は い る が、 もはや か って の よ うな妙 味 も減 って 来 て い る よ うで ある。 次 に、 小 泊 の漁 民 め規 模 別所 有漁 船 隻数 を書 い てお く。 こ の うち、漁 船2隻 を所 有 す る家 が5世 帯 あ り、重 複 分 を差 引 く と52世 帯(81.3%)が 漁 船 を 所 有 して い る こ とに な る。 お そ ら く先 の生 業 調 査 で 出 され た53世 帯 の漁 業 世 帯 す べ て が漁 船 を所 有 して い る とみ て よい。 っ つ い て、 小 泊 の村 人 の年 間所 得 を掲 げ てお く。 村 人 らの平 均 年 間所 得 は、250-300万 円程 度 で 雲 津 よ り下 回 っ て い る。 す さみ町 は、 商 都 大 阪 市 に も比 較 的 近 く、町 内 に温 泉 も4-5個 所 あ る上 に、 京 阪 神 か らの釣 り客 も多 い とこ ろで あ る。 観光 客、 釣 り客、 それ に夏

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場 に は海 水 浴 客 も来 る し、 国道42号 線 に沿 っ て小 泊 トンネ ル を越 え た と こ ろ に 「い こい の村 ・わ か や ま」 もあ る。 なお ま た、 す さみ 町 は大 阪 府 寝 屋 川 市 と姉 妹 都 市 契 約 を結 んで お り、国 民 宿 舎 の あ る海 岸 向 うには、 寝 屋 川 市 民 の セ カ ン ド ・ハ ウス と して の マ ン シ ョン も あ る。 これ らを 合 せ る と、 す さみ 町 全 体 で は、 日帰 り、宿 泊 客 両方 含 め て、 年 間約30万 人 の観 光客 が あ る とい う。 しか し、 これ ら来 訪 者 は、 小 泊 か らみ る と彼 方 の提 防上 に釣 り客 の姿 が 望 見 され る 以 外、 村 人 達 の生 活 に な ん の ざわ め き も与 え て は い な い。 漁 民 達 は、 対 馬 や房 総 沖 に 出漁 す る とき 以外 は、 そ の 日獲 れ た魚 を 隣 りの平 松 に あ る漁 協 に水 揚 げ して、 小 泊 の港 ま で帰 る とい う生 活 を く り 返 して い る。 た だ、 下 に も示 す よ うに、 小 泊 の漁 民 らの 通 婚 圏 は か な り広 い。 これ で み る と、 「妻 な し」の3人 を 除 い て、 夫 で は61人 中52人(85.2%) が小 泊 出 身 者 で 占 め られ て い る の に対 して、 妻 で は12人(18.5%)と5分 の1に 満 た な い。 た だ、 妻 の 出 身地 で は、 す さみ 町 内 と西 牟婁 郡 内合 せ て 31人(47.7%)と 約 半 数 に達 して い る。 同 じ漁 民 で あ りな が ら、 なぜ だ か 隣 りの平 松 地 区 との通 婚 関 係 は ほ とん どな い。 な お、 村 人 達 の い う と ころ で は、 現 す さみ 町 や 西 牟 婁 郡 内 の交 通 不 便 で労 働 の激 しい山 村 部 の娘 た ち は、 昔 か ら街 道 筋 に あた る 旧周 参 見 村 へ の婚 出 を希 望 す る者 が多 か っ た そ うで あ る。 両 部 落 の祖 先 崇 拝 に 関 す る意 識 調査 の結 果 と分 析 雲 津 の世 帯 数は44、 うち高 齢 の た め調 査 不 能1、 調 査 拒否3、 計4世 帯 が 調 査 不 能 で あ っ た。 そ の結 果、 回 答 数 は40、 有 効 回 答 率 は91.8%で あ 祖 先 崇 拝 に 関 す る 調 査 研 究

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密 教 文 化 る。 それ に対 して小 泊 で は、 世 帯 数81、 うち高 齢 のた め 調 査 不 能9、 長 期 不 在4、 調 査 拒 否4、 計17世 帯 が調 査 不 能 とな った。 そ の た め、 回 答 数 は 64、 有 効 回 答 数 は79.0%と な った。 小 泊 に高 齢 のた め の調 査 不 能 が9人 も あ った のは、 た ん に高 齢 のた め とい うだ けで な く、 こ こ が純 粋 の漁 業 集 落 で あ り、概 して学 歴 が 半 漁 半 サ ラ の雲 津 よ り低 い とい うこ と も関 係 して い るで あ ろ う。 次 に、 私 は 回 答 者 と して 両 部 落 と も世 帯主 を期 待 した の で あ る が、 雲津 の方 は、 私 を 含 め て3人 の調 査 員 が実 質1日 半 で全 世 帯 を 回 らね ば な らな い とい う事 情 の た め、 そ の期 待 を実 現 す る こ とがで きな か っ た。 下 に、 回 答者 の続 柄 を の せ て お く。 小 泊 で は、 約80%の 世 帯 主 の回 答 が え られ た のに対 して、 雲 津 で は、 妻、 母、 娘 とい うのが 計15人(37.5%)、 世 帯主 は わず か に半 数 を 上 回 る 52.5%に す ぎな か った。 さて、 両 部 落 の祖 先 崇 拝 に 関 す る意 識 調査 で、 用 意 され た 質 問数 は30個 で あ る。 質 問 の内 訳 は 次 の よ うで あ る。 I祖 先 崇 拝 関 係(イ)霊 魂観4 (ロ)先祖 観7 (ハ)仏壇 の礼 拝8 位 牌2 法 要3 II神 ・仏 関 係(イ)神 棚 の礼 拝4 (ロ)神・仏 関 係2 私 の主 要 な 関 心 は、 い うまで もな く祖 先 崇 拝 の方 に あ り、神 ・仏 関 係 に 関 す る6問 は い わ ば 付 随 的 な も ので ある。

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ひ きつ づ き、 両 部 落 の祖 先 崇 拝 に関 す る意 識 調 査 の結 果 を 順 次 に掲 げ、 雲 津、 小 泊 両 部 落 の 村 人 達 の意 識 の比 較 ・分 析 を 行 な って い くこ とにす る。 I祖 先 崇 拝 関 係 (イ)霊 魂 観 問1ひ とが死 ぬ と霊 魂 が残 る と思 うか。 ど ち ら も半 数 以 上 の人 達 が、 死 後 に お け る霊 魂 の残 留 を 信 じて い る の だ が、 雲 津 の方 に 高 い。 そ れ は、 女 性 の 回 答 者 の比 率 が 高 い こ と と、墓 地 が 集 落 内 の間近 に あ る こ とが 関 係 して い る と 思 う。小 泊 の方 は、 約7割 の 家 々 の墓 地 が1.6キ ロほ ど離れ た 臨済 宗 万福 寺 の境 内 に あ り、残 りはそ れ 以上 に 離れ た浄 土 宗 そ の 他 の寺 院 の境 内 に あ る。 万 福 寺 の住 職 の話 に よ る と小 泊 の漁 師 の家 々 で は よ く墓 詣 りを して い る との こ とだ った。 あ る学 者 は、 死後 に お け る霊 魂 残 留 観 は祖 先 崇 拝 が 成 立 す る基 本 的 な 要 件 で あ る と して い る が、 必 ず しも そ う とは い え な い。 とい うのは、 死 後 霊 魂 が残 らな い と信 じて い る か ら とい っ て、 先 祖 祭 り、 盆 行事 を しな い 日本 人 は 少 ない だ ろ うか らで あ る。 なお、 霊 魂 が残 る とす る 見 解 に っ い て も、 なん らか の意 味 で 客 体 的 な も の として 残 る と考 え る立 場 と、主 観 的 な 意 識 上 の事 実 と して そ う答 え るそ れ とが あ りえ よ う。 た だ、 この設 問 に よ っ て、 先祖 の存 在 を 人 々が どれ ほ ど身 近 に感 じて い る か につ い て、 大 体 の傾 向 を知 る こ とは で きる と思 う。 問2、 先 祖 の霊 は ふ だ ん ど こに い る と思 い ます か。 祖 先 崇 拝 に 関 す る 調 査 研 究

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密 教 文 化 (雲津で、 「墓」 と 「仏壇」をダブって答 えた者が7名。 小泊の 「その他」の5名 は、「心 の うちにあ る(な ど) 両 部 落 と も答 え は多 様 とな った が、 な ん とい って も 「墓 」 と 「仏 壇 」 に 集 中 して い る。 双方 を 合 せ る と、 雲津 部 落 で39人(重 複7人 を 含 む)、83 %、 小 泊 で37人、57.8%と な る。 両 部 落 とも海 に面 し、 農 業 の比 重 が少 な い 関 係 もあ って か、 祖 霊 の居 場 所 を 「山 の上(と み る意 見 は 小 泊 に た だ1 人 い た だ け で あ る。 柳 田 国 男以 来、 多 くの民俗 学者 に よ って 信 じ られ て き て い る祖 霊 の山 上 住 所 説 は、 死体 を 山 中 に遺 棄 した り、埋 葬 した りす る習 慣 が あ っ た地 方 か、 あ る い は特 別 に霊 山 視 され た村 落 部 に あ った に す ぎな い の で は な い か とい う疑 問 も生 じて きそ うで あ る。 さて、 こ の回 答 で も、 小 泊 に比 べ て 雲 津 の村 人 に祖 霊 が墓 地 に い る とす る考 え が2倍 も多 い が、 こ の こ と も共 同 墓地 が極 め て近 くに あ る こ とが 関 係 が あ ろ う。す で にふ れ た よ うに、 雲 津 の墓 地 は掃 除 が よ くい き届 い て お り、多 くの墓 に新 しい 花 が供 え られ て い る。 こ とに老 人 達 の 中 に は、 毎 日 日課 の よ うに して墓 参 して い る者 が 少 な くな い よ うで あ る。 多 くの 村 人 達 に とっ て は、 墓 は祖 霊 が住 む第 二 の家 と観 念 され て い る とも思 われ た。 問3、 お 盆 に は先 祖 の霊 は家 に帰 って くる と思 い ます か。 両 部 落 と も85%以 上 の人 達 が、お 盆時 の祖 霊 の帰 宅 を 信 じて い る。こ の数 字 は、 死 後 に お け る霊 魂 の残 留 を 信 ず る人達 の人 数 を大 き く上 回 って い る こ とに注 意 して お こ う。 た だ、 盆 行 事 のよ うな宗 教(的)行 事 に あ って は、

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慣 習 に よ る 拘 束 ・支 配 に無 条 件 に動 か され て行 な う場 合 が多 い で あ ろ う。 先 祖 の霊 がお 盆 時 に家 を訪 問す る とい う発 想 は、 主 と して 生 者 の祖 霊 に対 す る愛 慕 ・追 悼 の思 い に発 す る も ので は あ ろ うが、 こ の こ とは 明 か に、 祖 霊 が な お 生 者 の 家 族 の一 員 と して 迎 え られ て い る とみ て よか ろ う。 問4、 「死 ね ば あ の世 で 亡 くな った 親、 子 供、 兄 弟 な どに会 え る」 とい う言 葉 を 聞 き ま す が、 あ な た は ど う思 い ます か。 この 回 答 結 果 のな か に、 私 は 雲 津 の村 人達 の合 理 主 義 の傾 向を み る こ と が で き る と思 う。雲 津 は 山 陰 の僻 村 で あ る に もか か わ らず、 す で にみ た よ うに、 村 戸 の 過 半 が 勤 め人 を 抱 え、また、 民 宿 を 経 営 す る家 の比 率 も高 く、 実 質 的 に は都 市生 活者 と変 りな い意 識 を持 つ 人 々 が多 い。 この こ とは、 ア ン ケ ー ト調 査 や 聞 き と り調 査 を通 して私 の痛 感 した と ころ で あ り、 そ うし た 一 面 が こ の 回答 結 果 に も うか が われ る よ うに思 う。 戦 時 中 に、 経 費 と時 間 を節 約 す るた め に、 法 要 につ い て は部 落 ぐる み の 合 同 法 要 が 全 国 的 に行 なわ れ た ので ある が、 雲 津 で は そ れ が 現 在 も踏 襲 さ れ て い る。 戦 後、 第 二 種 兼 業 の農林 漁 業 家 が ふ え、 所 得水 準 の 向上 にっ れ て部 落 の 連 帯 意 識 が弛 緩 して くる と、 ほ とん どの村 々 で は合 同 法 要 を 廃 棄 して き て い る。 雲 津 で、 今 な お それ が行 な われ て い る とい うのは、 合 同 法 要 の もつ 合 理 性 が村 人 の気 質 に投 ず る とこ ろ が あ っ た か らで は な い か と思 う。 しか し、 だ か ら とい って、 雲 津 の村 人 達 が決 して先 祖 祭 杞 に 無 頓 着 ど こ ろか、 む しろ極 め て熱 心 な ので あ る。 雲 津 の よ うな山 陰 地 方 の僻 村 に あ って は、 生 業 の関 係 で た とえ個 人 主 義 ・合 理 主 義 の傾 向 が強 め られ る と し て も、 そ れ が 都 市 部 のサ ラ リーマ ン世 帯 の よ うに、 先 祖 祭杞 に対 す る 関心 を 滅 弱 させ な い も の の よ うで あ る。 こ うした 雲 津 の村 人 た ち の法 要 熱 心 の 背 景 に は、 小 泊 の大 半 の家 々 が 臨済 宗 の寺 の 壇家 で あ る の に対 して、 雲 津 祖 先 崇 拝 に 関 す る 調 査 研 究

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密 教 文 化 の全 戸 が 浄 土 宗 の寺 のそ れ だ とい うこ と も関係 して い る ので あ ろ うか。 (口)先 祖 観 問5、 お た くには 系 図 が あ りま す か。 両 部 落 と も系 図 が あ る と答 え た 家 々 は、 な に ほ どか 旧 家 な い し本 家 筋 で ある こ とを 自認 す る家 々 で あ ろ う し、先 祖 法 要 に もそれ だ け 熱 心 な ので あ ろ う。純 粋 の漁 業 集落 で あ る小 泊 に比 べ て、 近 年 ま で半 農 半 漁 村 で あ った 雲津 の方 に、 幾 らか 系 図 な い し 家 系 に 対 す る 関心 が深 い こ とが知 られ よ う。 問6、 先 祖 とは次 の どれ を さ し ます か。 (雲津 で 「家をは じめて ひ らいた人」 「始祖以来の家系 のすべての死者(の 重複回 答1人) 当 初 に予 想 して い た よ うに、 先 祖 の概 念 に つ い ては、 考 え方 に か な りの 混 乱 がみ られ る。 こ の こ とは、 日本 人 に共 通 な現 象 だ とい え る と思 う。ま た、 日本 人 の祖 先 崇 拝 は、 旧 中 国や 現 在 の韓 国 に比 べ て、 個 人 が 親 し く接 触 ・見 聞 した 近 親 仏 が 中 心 とな って い る こ とにつ い て は す で に 指 摘 され て い る 通 りで あ る。 こ の近親 仏 を も って 先祖 とみ なす 人 た ち が、 両 部 落 と も 2割 近 くあ る こ とが 注 目 され よ う。 ま た、 両 部 落 と も先 祖 とは、 か つ て多 か った はず の 「始 祖 以 来 の父 系 の家 を継 承 した す べ て の 死者 」 とす る考 え る者 は 乏 し くな り、「始 祖 以 来 の(父 母 双 系 の)家 系 のす べ て の死 者 」 と

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す る考 え方 をす る者 が 多 くな って い る。 問7、 あ なた は 何 代 先 まで の先 祖 の名 前 を ご存 知 で す か。 こ の調 査 結 果 か ら、極 め て 印象 的 な事 実 を 指 摘 す る こ とが で き る。 それ は、 小 泊 の方 は 日本 人 一 般 の傾 向 を代 表 して、 祖 父 母 く らい ま で の近 親 仏 の名 前 を 記 憶 して い る(39人、61%)か、 せ い ぜ い 曽祖 父 母 ま で(53人、 83%)ま で で あ る。 それ に 対 して 雲 津 の方 は、 曽祖 父 ま で名 前 を記 憶 す る 者 が(20人、50%)、 高 祖 父母 以 上 が それ と匹敵 して い る の は、 い さ さか 日本 人 離れ して い るよ うな 印 象 を 受 ける。 私 が 面 接調 査 に 回 っ た家 で も、 始 祖 以来16代 の先 祖 の名 前 をす べ て 口諦 して くれ た 人 が い た。 さて、 こ う した事 実 の背 景 に っ い て堀 り下 げ て み る と、小 泊 の方 で33回 忌 を も っ て 死者 の法 要 を打 ち切 る の に対 して、 雲 津 で は 別 の事 情 が あ る。 雲 津 で は、 初、3、7、13、17、25、33、50の8回 の法 要後、 檀 那 寺 で あ る 長 浜 の浄 土 宗 の寺 か ら の連 絡 に よ って、50回 忌、 百 回 忌、150回 忌、 二 百 回 忌 ま で の法 要 を ほ とん どの家 で 行 な って い る。 旧家 の な か に は、250、 三 百 回 忌 ま で の法 要 を行 な う家 々 もあ る。 村 人 達 は、 そ の年 に先 祖 法 要 の あ る4軒 ほ どで話 し合 い、 共 同 で お供 物 を 準 備 して 合 同法 要 に参 加 す る の が普 通 で あ る。 二 百 回 忌 ま で法 要 を行 な うのが 一 般 とあ って、 毎 年 の法 要 に は、 村 戸 の約 半 数 が合 同法 要 に参 列 し て い る。 過 去 二 百 年 にわ た って、 家 族 のす べ て の死 者 に対 して法 要 を行 な うとい うこ とで あ れ ば、 こ こに 至 って、 経 費 と時 間 の労 を 考 え る な らば、 合 同法 要 とい う法 要 形 式 は 村 人 達 に と って 手 放 し えな い も の とな る理 で あ る。 問8先 祖 を 粗 末 にす る と家 が亡 ぶ と思 い ます か。 祖 先 崇 拝 に 関 す る 調 査 研 究

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密 教 文 化 両 部 落 と も、80%な い しそれ 以 上 の人 た ちが、 祖 先 崇 拝 な い し先 祖 祭 杞 を お ろ そ か にす る と家 が亡 ぶ と答 えて い る。 日本 人 の祖 先 崇 拝 の真 意 は い ま だ に、 純 一 無 雑 な気 持 で先 祖 の平 安 ・冥 福 を 祈 る とい う 目的 のた め で あ る と とも に、 伝 統 的 な 「家 」 また は 家 族 の平 安 ・繁 栄 の た め とい うの が 二 本 の柱 とな る。 も ち ろ ん、 こ の仮 定 は村 落部 に 限 っ て と くに妥 当 す る。 次 に、 こ の設 問 を さ らに 具 体 化 した か た ち で 尋 ね て み る こ とにす る。 問9、 先 祖 は 子 孫(家)の 安全 や 発 展 を守 っ て くれ る と思 い ま す か。 両 部 落 と も、 先 祖 が 子 孫 を 守 っ て くれ て い る とい う意 見 が80%な い しそ れ 以 上 を 占め て い る。 先祖 は 子孫(「 家 」す な わ ち 旧家 族 制 度)の 推 持 ・ 発 展 を 守 って くれ れ ば こそ、 それ に対 して 子 孫 は 先 祖 に 仕 え、 敬 愛 ・尊 重 す る の で あ る。 そ の関 係 は 双務 的 で あ る ので、 も し先祖 を 粗 末 に と り 扱 い、 祭 杞 を怠 る な らば、 先 祖 は子 孫 に 対 して 懲 罰 を 与 え る の で あ る。 多 く の仏 僧 た ち は、 異 口同 音 に こ の こ とを 強 調 して お り、それ に よ って、 仏 教 の宣 伝 普 及 に利 用 して き て い る。 そ のた め、 民 衆 の多 くは、 祖 先 崇 拝 こそ 仏 教 の根 本 で あ るか の よ うに錯 覚 し、私 の知 人 で あ る住 職 も、 「先 祖 を 粗 末 に して い る家 には ど うも よい こ とが な い 」 と語 っ て い る。 問10墓 が 傾 い た り、水 が た ま っ た りす る と先 祖 が た た る とい う意 見 が あ りま す が、 あ な た は 信 じ られ ます か。

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(「その他 」の内訳は、両部 落とも 「気持が よ くない」 「気にな るだけでたた るとは思 わない」 「傾 くと分かればす ぐなおす(な ど) 墓 の手 入 れ を お ろそ か にす る と先 祖 が た た る とす る見 解 は、 有 意 差 を も って 小 泊 に多 い が、 こ こ に も雲 津 の村 人 達 の 「醒 めた(考 え方 が 現 わ れ て い る とい え る か と思 う。両 部 とも、 墓 の手 入 れ を お ろ そ か にす る と、先 祖 のた た りが あ る とす る意 見 が多 い が、 こ の こ とは、 墓 の手 入 れ や 先 祖 祭杷 を 丁 重 に行 な え ば、 先 祖 の加 護 が え られ る とす る考 え方 と裏 腹 の関 係 を な す。 た だひ たす らに、 ま た無 条 件 的 に、 先 祖 のた め に先 祖 の冥 福 を 祈 る と い うこ とに は な らな い も の らしい。 そ のた め、 も し一 家 の不 幸 が あ った り す る と、 そ の不 幸 の理 由を 祈祷 師 を 介 して 先 祖 の誰 の崇 りに よ る も ので あ る か を 占わ せ、 シ ャ ー マ ニ ズ ムを 招 じ入 れ る 機縁 とな りか ね ない。 問11先 祖 は 場 所 は 見 えな い と して も、 招 けば 来 て くれ る ほ ど近 い と こ ろ に い る と思 い ま す か。 (「そ の 他 」 の 内訳 は両 部 落 と も、 「考 えた こ とが な い 」 「招 い て き て も らお う と は 思 わ な い 」 な ど) こ の 質 問 は、 先 の 問4で の 「お 盆 に は 先 祖 の 霊 は 家 に 帰 っ て くる と 思 い ま す か 」 と い う問 い と関 連 が あ る。 問4の 結 果 で は、 雲 津 で85%、 小 泊 で 88%の 人 達 が 「帰 っ て く る 」 と 答 え て い る の だ が、 こ の 質 問 で は、 「そ う 思 う」 と 「遠 くに い て も き て くれ る 」 を 合 せ て、 雲 津 で55.0%、 小 泊 で64 %と 減 少 し て い る。 減 少 の 理 由 と し て は、 祖 霊 は お 盆 に は き っ と家 に 帰 っ 祖 先 崇 拝 に 関 す る 調 査 研 究

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密 教 文 化 て来 る とい う俗信 が一 般 化 して い る の に対 し、 それ を 抽 象 的 な か た ちで 尋 ね た こ とに よ る の で あ ろ う。 この 回答 結 果 は ま た、 平 生 の家 族 員 に よ る仏 壇 へ の礼 拝 に先 祖 が 感 応 し て い て くれ る か ど うか、 ま た、 一 家 の困 難 に あた って 先祖 の加 護 が 期 待 で き る か ど うか とい う問 題 とも関 係 が あ る。 子 孫 と して は、 先 祖 は呼 べ ば答 え て くれ て、 い つ で も こ ち ら の願 い 事 に感 応 して くれ る こ とが 願 わ しい。 (ハ)仏 壇 の礼 拝 問12お た くで は仏 壇 は 拝 まれ ます か。 (両部落 とも重複回答が多いが、重複 の内訳は煩雑 にな るので省略す る) 両 部 落 を 通 して、 命 日、 彼 岸、 盆 に 拝 む人 が少 ない の は、 「毎 日 拝 む」 と答 えた 人 が 記 入 しな か った か らで あ る。 とも に毎 日仏 壇 を 拝 む とす る答 えが大 半 を 占 め て い る の で あ る が、 小 泊 で は晩 に拝 む と答 えた 人 が 多 い の が 目立 つ。 漁 師 の朝 は どこ で も早 い が、 出 漁 前 の あわ た だ し さ の中 を 避 け て、 仕 事 を終 え て帰 っ て か ら拝 む人 が多 い ので あ ろ う。 問13(「 毎 日拝 む」と答 え た人 にS.Q.)そ の とき仏 壇 に何 を供 え ま す か。 「毎 日拝 む 」 と答 え た入 に だ け 回 答 して も ら う予 定 で あ った が、 非 該 当 者 の一 部 も加 っ て い る。 毎 日仏 壇 を拝 む家 で は、 過 半 数 が お茶(水)、 仏 飯 を と りか え、 線 香 を と も して い る とみ て よか ろ う。 問14(毎 日拝 む と答 えた 人 に)仏 壇 の世 話 をす る のは お も に誰 です

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か。 予 想 され た よ うに、 両 部 落 と も、 毎 日仏 壇 に拝 み、 供 え 物 を す る のは 主 婦 と母 の役 目に な っ て い る とみ て よ い。 す な わ ち、 主 人 ・父 は あ ま り関 与 して い な い。 日本 で は平 素 の先 祖 祭 杷 に男 は あ ま り関 与 せ ず、 実 際 の担 い 手 はお お むね 女 性 だ とい っ て よ か ろ う。 問15(毎 日拝 む と答 え た人 に)そ の時 仏 壇 は何 人 で拝 まれ ま す か。 複 数 回 答 は単 純 加 算 して お い た。 こ こ で も、 毎 日仏 壇 を 拝 む のは 主 婦 と 母 が 多 く、主 人 が 少 な い。 問16仏 壇 を 拝 む のは な ぜ で す か。 (雲津 では重複 回答が7入、 小泊に11人) 選 択 肢 に最 後 の 「先 祖 へ の感 謝 」 が欠 落 して お り、 回 答 者 が 「そ の他 」 の とこ ろ に記 入 して い た と ころ か ら補 っ た。 ま さに私 の 落 度 な の で あ る が、 こ の選 択 肢 が は じめ か ら入 って い た ら、 それ を選 ん だ者 が も っ とふ え て い た こ とが予 想 され る。 この結 果 か らす る と、 両 部 落 を通 じて 仏 壇 を拝 む理 由 は、 「先 祖 に感 謝 」 し 「な ぐ さめ る た め」 とい う先 祖 本位 の も の と、 拝 み 手 自身 を含 め た 一家 の現 成 員 の安 全 ・繁 栄 を 願 うもの とが 回 答 の 双 壁 とな って い る。 しか し、 祖 先 崇 拝 に 関 す る 調 査 研 究

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密 教 文 化 考 え て み る と、先 祖 に感 謝 しそ の冥 福 を 祈 る こ と と、一 家 の 安全 と繁 栄 を 期 待 す る気 持 とは、 別 々 の動 機 とい うよ りも隣 り合 せ の こ と と受 け とめ ら れ て い る の か も知 れ な い。 問17よ そ の家 か ら珍 しい食 べ 物 な どを お 土産 に も ら った ら、 ま ず 仏 壇 にお 供 え します か。 (小泊には仏壇 のない家が9戸 あるに もかか わ らず、 「供えない」 「仏壇がない」 とす る回答が4人 しかない。なにか仏壇に代 りうる祭壇が あ るのだろ うか) 両 部 落 と も、「時 々 供 え る(を 合 せ れ ば、85%て い ど の家 々 が 珍 しい も らい物 を まず 仏 壇 に供 え て い る。 戦 前 の 日本 で は、 都 市 部 を も含 め て た い て い の家 で そ う して い た し、 そ うす る こ とが子 供 の躾 上 の重 要 な手 段 とな って い た。 現 在、 都 市 部 の家 々で、 どの程 度 が この仕 来 た りを 守 って い る ので あ ろ うか。 問18お た くで は 家 族 の者 の結 婚 ・出産 ・入試 ・入社 の合 格 な どを 先 祖 に報 告 します か。 両 部 落 で い くらか 相 違 が ある とは い え、 約 半 数 が 先 祖 に報 告 して お り、 「報 告 す る こ ともある」を 加 え る と、 そ の数 は約7割 に な る。 先 祖 は最 も 尊 敬 せ られ るべ き家 族 員 と して の扱 い を受 け、 多 くの家 々で は 口頭 を も っ て報 告 して い る ので あ ろ う。 問19お た くの仏 壇 の奥 正 面 に は仏 画 ・仏 像 が お かれ て い ます か。

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(両部落 とも 「仏壇な し」を除 いたパー センテージ) 小 泊 の約3分 の2の 家 の宗 教 は 臨済 宗 で あ り、残 りは 浄 土 宗 そ の他 で あ る。 そ れ に対 して、 雲 津 で は 全 戸 が 浄 土 宗 で あ る。 両 部 落 と も、 仏 壇 の奥 正 面 に仏 画 ま た は 仏 像(雲 津 に3軒)が あ る家 が 約6割 と多 い。 そ れ らの 家 々 で は先 祖 の霊 ま た は 位牌 を 拝 む と き、 客 観 的 に は 仏 画、 仏 像 を 同 時 に 拝 ん で い る こ とに な り、 この事 実 が 辛 うじて 仏 教 との 関 係 を と り もた せ て い る。 しか し、 ほ とん どの人 た ち に とっ て、 仏 壇 とは先 祖 の 霊 を杷 って あ る とこ ろ な の で あ り、仏 像 ・仏 画 は む しろ添 え もの な の で あ る。 (二)位 牌 問20お た くの仏 壇 に まつ られ て い るす べ て の位 牌 の縁 類 関 係 を教 え て くだ さい。 両 部 落 とも、 仏 壇 に杞 られ て い る す べ て の 位牌 を あ げて くれ て い ない が、 しか し、集 ま っ た結 果 か ら大 体 の傾 向 を 察す る こ とが で きる。 旧 中 国 や 現 在 の韓 国 にお いて、 家 庭 祭 杞 の対 象 とな る の は、 父系 の 四世 代(四 代 祭杞)の 先 祖 に限 られ て い る。 それ に対 して、 両 部 落 の仏 壇 に杞 られ て い る 位牌 が 父 母 双 系 的 で あ る と思 わ れ、 ま た、 子 供、 兄 弟、 伯 叔 父 母、 友 人、 自分 の知 らな い も の と雑 多で あ り、 日本 の一 般 的 な傾 向 を 代表 して い 祖 先 崇 拝 に 関 す る 調 査 研 究

参照

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