2009年度 早稲田大学 文学部 一般入試 「日本史」に関する考察 【指摘箇所】 〔Ⅳ〕次の文を読んで、問に答えなさい。 17世紀後半に入ると、徐々に制度や法令を基準とする A 政治に変わっていった。その具体策が集中的に現れるのはb 4代将軍家綱 の治世である。 〔問〕 3 下線bに関連する記述として、間違っているものを1つ選び、マーク解答用紙の該当する 記号をマークしなさい。 ア 宗門改めの制度が広く実施されるようになった。 イ 由井正雪らの幕府転覆計画事件が発覚した。 ウ キリスト教の禁止は続行した。 エ オランダ商館長が海外情報を幕府に提出した。 オ 日本史の通史『本朝通鑑』が完成した。 【考察】 本設問は イ を正解とする出題です。出題そのものに不備はなく、貴校に非はありません。しかし、多くの 高校教科書では、由井正雪の乱(慶安の変)を4代将軍家綱の治世中のこととして扱われていま す。慶安の変は将軍空位の時期であるにもかかわらず、日本史の教科書としては最も採択率の 高い山川出版社の『詳説日本史』においても、徳川家綱が4代将軍に就任してからの出来事と して記載されています。つまり、これらの教科書にしたがって本設問を解くと、正解に辿り着 けないことになります。誤記の原因は教科書執筆者の歴史誤認によるものだと思われますが、 多くの高校では教育課程で検定済教科書を使用しています。イを選択した受験生に対して救済 措置は講じられないのでしょうか。なお、本設問は予備校によって発表する解答例が異なりま すので、正解を公表するべきではないでしょうか。
以下は慶安の変の経過です。 1651年4月20日 徳川家光死去。直後に由井正雪らが幕府転覆、浪人救済を企てる。 1651年7月23日 数人の訴人よって計画が露見。 老中松平信綱へは奥村八左衛門らの密告によって計画が伝えられた。 1651年7月26日 由井正雪ら自害。 1651年8月18日 徳川家綱、征夷大将軍に就任。 慶安の変の概要 1651年4月、武断政治により幕藩体制を強化してきた将軍徳川家光が死去し、後継が11歳(数え 年)の家綱になることを知った由井正雪は幕府転覆を計画しましたが、未遂に終わり、事件が 収拾したことで同年8月に家綱が将軍に就任しました。由井正雪の計画、事件の発覚、由井正 雪らの自害、いずれも将軍空位の時期です。 【設問の検証】 4代徳川家綱の治世【1651年8月~1680年5月】 →徳川家綱は慶安4年8月18日に将軍に就任し、延宝8年5月8日に没した。 ア 宗門改めの制度が広く実施されるようになった。【1664年】 →幕府は寛文4年に諸藩に対して専任の宗門改役人の設置と毎年宗門改を実施することを命 じた。 イ 由井正雪らの幕府転覆計画事件が発覚した。【1651年7月】 →慶安4年7月に奥村八左衛門らの密告によって由井正雪らの計画が発覚した。家綱の将軍就 任は同年8月であり、事件が発覚したときは将軍家綱の治世ではなく将軍空位の時期であり、 本設問においてはイが正解となる。 ウ キリスト教の禁止は続行した。【1612年以降幕末まで存続。1873年高札撤廃】 →1613年には金地院崇伝の起草による禁教令が全国に発せられ、家綱治世を含め幕末まで継 続した。 エ オランダ商館長が海外情報を幕府に提出した。【1641年以降毎年】 →寛永18年(1641)にオランダ風説書の提出が幕命によって義務付けられ、幕末まで継続した 。
オ 日本史の通史『本朝通鑑』が完成した。【1670年】 →林鵞峯らによって寛文10年6月に成立した。 【教科書の記述】 以下は徳川家綱が将軍になった後に慶安の変が起こったとする教科書の記述です。 ◇『詳説日本史改訂版』(山川出版社) 1651(慶安4)年4月に3代将軍徳川家光が死去し、子の徳川家綱が11歳で4代将軍になった。すで に幕府機構は整備され、会津藩主で叔父の保科正之や譜代大名も幼少の将軍家綱を支え、社会 秩序が安定しつつあった。平和が続くなかで重要な政治課題となったのは、戦乱を待望する牢 人や、秩序におさまらない「かぶき者」の対策であった。同年7月に兵学者由井(比)正雪の乱( 慶安の変)がおこると、幕府は大名の末期養子の禁止を緩和し、牢人の増加を防ぐ一方、江戸 に住む牢人とともにかぶき者の取締りを強化した。 ◇『新日本史改訂版』(山川出版社) 1651(慶安4)年4月に将軍家光が死去し、わずか11歳の家綱が4代将軍となった。これを好機と した由井正雪らによる幕府への反乱計画が発覚した(慶安事件)。 ◇『高校日本史B新訂版』(実教出版) 1651(慶安4)年、家綱が11歳の若さで将軍職をつぐと、代替わりの政情不安をつき、兵学者由 井正雪が牢人らを集めて幕府転覆をはかろうとしたが、事前に発覚した(慶安事件)。 ◇『高等学校日本史B改訂版』(清水書院) 1651(慶安4)年、3代将軍家光が死去し、家綱が4代将軍になった直後におきた由井正雪の乱(慶 安の変)は、そうした牢人の不満を利用した倒幕計画であった。 ◇『高等学校最新日本史』(明成社) 文治政治への転機となったのは、慶安四年(一六五一)、家光が死去し、幼少の家綱が将軍に就 任した直後におこった由井正雪の陰謀であった(慶安の変)。
【参考文献】 ◇『日本歴史大事典』(小学館) 慶安事件:1651年(慶安4)7月に発覚した浪人らによる幕政批判の騒擾事件。由井正雪の乱、慶 安の変ともいう。関ヶ原の戦やその後の大名改易によって多数の浪人が発生する一方、元和偃 武以後、ことに寛永期(1624~44)になると諸大名家では家臣の召し抱えを控えるようになり、 その結果、浪人が巷にあふれるようになった。51年4月20日、三代将軍家光が死去するが、そ の法会等が一段落した7月9日に三河国刈谷の城主松平定政が旗本の救済を求めて領地を返上し 遁世する事件が起こった。幕府は、同17日、この一件を定政狂気として領地を召し上げること で処理した。こうしたなか江戸で軍学者として名声を得ていた由井正雪は、丸橋忠弥・金井半 兵衛・熊谷市郎兵衛らと謀り、浪人救済を掲げ江戸、駿府、京、大坂で相次いで騒動を起こす ことを計画。その内容は、正雪は駿府に下り久能山に収められた家康の遺金を奪取し、江戸で は7月29日に煙硝蔵に火をかけ、登城する御三家や老中の屋敷に矢・鉄炮を射かけ、江戸を混 乱に陥れ、また京、大坂でも騒動を引き起こそうとするものであった。しかし奥村八左衛門、 田代次郎右衛門、林理左衛門、御弓師藤四郎らの密告によって計画が幕府の知るところとなっ た。後日のことであるが、訴人した者たちは加増を受けたり御家人に取り立てられたり相応の 褒美を得た。7月23日に江戸での蜂起を担当していた丸橋忠弥とこの計画に加担していた煙硝 蔵下奉行河原十郎兵衛とが捕縛された。その前日に江戸を発った正雪は25日に駿府に着き梅屋 を宿にとった。一方幕府は、新番頭の駒井親昌を駿府に派遣し正雪捕縛を駿府城代・駿府町奉 行らに指示した。正雪らの居所はすぐさま駿府役人の知るところとなり、26日の朝、駿府町奉 行の手の者が宿を取り囲んだ。正雪をはじめ八人が自害、二人が生け捕られた。その後、逃走 した金井半兵衛ら一類・縁者の探索が行われ、一部の者は自害し多くの者が捕らえられた。8 月10日に丸橋忠弥が品川鈴ヶ森で磔にされたのをはじめ、少なくとも三十数名が処刑された。 ◇『日本史大事典』(平凡社) 慶安事件:1651年(慶安4)7月に発覚した浪人らによる幕政批判の騒擾事件。 徳川家綱:1651年(慶安4)8月18日将軍宣下を受け、11歳で将軍となる。このとき正二位内大臣 に叙任。生来病弱で、家光の死の直後には慶安事件が起こるなど政情不安も招くが、保科正之 や前代からの大老酒井忠勝・老中松平信綱・阿部忠秋らに補佐され、在職29年の間には幕府諸 制度が整備された。 征夷大将軍 ◇『国史大辞典』(吉川弘文館) 慶安事件:慶安4年(1651)7月に露見し未発に終った由比正雪・丸橋忠弥・加藤市郎右衛門・金 井兵衛らを主謀とする牢人の叛乱計画。 ◇『国史大辞典』(吉川弘文館) 宗門改:江戸幕府がキリシタンを摘発するために施行した制度で、はじめは局地的、臨時に行 われキリシタンのみを摘発した。(中略)島原の乱後の寛永17年、幕府は宗門改役を設置して井
之上筑後守政重をこれに任命し直轄地のキリシタン摘発と弾圧を強化した。寛文4年(1664)幕 府はさらに諸藩に対して専任の宗門改役人の設置と毎年宗門改を実施することを命じ、旗本な どの知行地では名主・年寄に毎年五人組の手形を取らせた。これ以後、毎年宗門改帳が各地で 作られたが、その改帳の体裁は宗旨を人別に記載する宗旨人別帳に統一されていき、寛文11年 宗門改帳が法制的に整備された。これ以降、宗旨人別帳の作成が宗門改の中心となったが、宗 門改は長崎・豊後・肥後では特に厳重で絵踏が強制された。このように、寛文以降民衆はすべ て寺請によって寺院に把握され、かつ宗旨人別帳作成を通じて幕藩体制の中に組み込まれたた め、寺院は政治権力の奉仕者となり寺檀関係を成立させたが、仏教の教学面での停滞と僧侶の 世俗化とを招いた。 宗門改役:寛永17年(1640)幕府に設置され大目付井上筑後守政重が就任して万治元年(1658)ま で直轄地におけるキリシタンの検索にあたった。同年大目付北条氏長が任命され、寛文2年(16 62)作事奉行保田宗雪も任じられ、以後大目付と作事奉行各1名がこの任にあたり、寛政4年(17 92)の廃止まで続いた。 宗門人別改帳:寛文5年(1665)になると幕府は諸藩にも宗門改帳の作成を命じ、同11年からは 毎年作成を令した。 ◇『日本史大事典』(平凡社) 宗門改:江戸幕府がキリシタンを禁圧することを標榜して設けた民衆統制・戸籍制度。江戸幕 府は1613年(慶長18)以来、たびたびキリシタン禁教を令し(キリシタン禁制)、キリシタン信徒 の摘発を命じて宗門改が始まった。(中略)島原の乱と鎖国によってキリシタンがほとんど根絶 されると、かえって宗門改は強化された。1640年には幕府に宗門改役が置かれ、64年(寛文4) には諸藩に宗門奉行の設置が命ぜられ、次いで71年には人別帳を作成してこれに宗旨と檀那寺 名を付する宗門人別改帳制度が実施され、宗門改の方法が確立した。このようにして宗門改制 度は寺請制度として確立し、キリシタン禁圧を口実として領民を把握し、身分制度的支配を確 立しようとする戸籍制度の性格を持つものとなり、以後江戸時代全期間を通じて実施された。 宗門人別改帳:宗門人別改帳の一般的成立は遅く71年(寛文11)以降で、この年幕府は、各藩に も宗門人別改帳の作成を命じている。