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陵墓治定信憑性の判断基準

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陵墓治定信憑性の判断基準

著者 北 康宏

雑誌名 人文學

号 181

ページ 1‑21

発行年 2007‑11‑20

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011301

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陵 墓 治 定 信 憑 性 の 判 断 基 準

北 康 宏

はじめに

日本古代の天皇陵には古墳時代に畿内で造営された巨大古墳の大多数が含まれるが︑一般の古墳とは違って宮内庁

の厳しい管理のもとに置かれ︑考古学研究が深く踏み込み得ない領域をなしている︒しかし発掘がもし可能になった

としても︑その被葬者を確定するのは容易なことではない︒一般に古代陵墓には墓誌が伴わないうえに︑多くの古墳

が中世以降に城郭への改変を受け︑徹底した盗掘の被害を受けており︑さらには幕末の文久以来の修陵を受けてお

さるあでらかいならなばれけなれ討︑式現状の墳丘型そ検のものから再︒

古墳の被葬者の多くは︑すでに古代律令国家が陵墓管理を始めた段階で不明になっていた︒一方︑現在の被葬者推

定は幕末から明治期にかけて行なわれたもので︑その際に参照されたのは古代の法制史料﹃延喜式﹄である︒被葬者

問題に限っていえば︑墓誌など積極的に被葬者を語る遺物が出土しない限りその認定は難しく︑考古学からの知見の

みならず︑文献史学から古代における陵墓治定の実態について検討することもまた不可欠となる︒結局︑この﹃延喜

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陵墓治定信憑性の判断基準

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式﹄という史料の性格如何が問題となるわけである︒筆者は以前︑﹃延喜式﹄の陵墓記事に関する基礎的研究を行な

ったが

かめの基準を文献史学らるわかる限りで整理し︑たす︑え本稿ではそれを踏まて断陵墓治定の信憑性を判さ

らに実例としていくつかの陵墓治定の抱える問題を取り上げてみたいと思う︒

一︑山陵治定の信憑性││陵戸・守戸の設置状況から││

被葬者を推定する際に用いられる最も基本的な史料は︑﹃古事記﹄﹃日本書紀﹄︑および﹃延喜式﹄諸陵寮式に掲載

された陵墓歴名である︒とはいえ記紀の記事は具体的な所在地を確定するにはあまりに曖昧で︑個々の古墳との対応

関係を把握するとなると﹃延喜式﹄に頼らざるを得ない︒しかし﹃延喜式﹄が奏進されたのは延長五年︵九二七︶︑

施行されたのはさらに下った康保四年︵九六七︶のことだから︑従来は漠然と十世紀前半の史料︑五世紀の巨大古墳

の時代からいえば四百年以上も後の史料だとして︑ともすれば軽視されがちであったのである︒

しかし別稿で論じたように︑そこにはより古い時期に作成された原史料が含まれている︒職員令

1 9

諸陵司条︑ 諸陵司︒正一人︑掌陵霊︑喪葬・凶礼︑諸陵及陵戸名籍事︒佑一人︑令史一人︑土部十人︑掌賛相・凶礼︒員

外臨時取充︒使部十人︑直丁一人︒

にみえる﹁諸陵および陵戸の名籍﹂︑すなわち律令国家により編纂された陵墓のリストに遡る︒﹃延喜式﹄の歴名は︑

これにそれ以後の追加を書き加えたものである︒

﹃延喜式﹄には所在の郡までが明記されているのみならず兆域記載もあるため︑墳丘の大きさや形状︑主軸の方位 陵墓治定信憑性の判断基準

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に関する貴重な情報源となる︒事実︑幕末明治に陵墓治定が行なわれた際に最も重要な手がかりとされたのも前述の

ように﹃延喜式﹄であった︒これを信用した上で︑まず所在する郡の領域から候補となる古墳を限定し︑さらに兆域

を参考にして﹁それに入りうる大きさの墳丘をもち﹂かつ﹁それだけの兆域のために占有されうる土地が存在する﹂

立地であることなどから絞り込み︑さらに地名考証や伝承収集によって確定していったのであろう︒したがって︑天

皇陵古墳の治定の真偽が云々される場合には︑次の二つの点を明確に分けて考える必要がある︒

漓 幕末明治期の治定に誤りがあった場合︒

﹃延喜式﹄の記載と実在の古墳とを照応する際に誤りが発生した

場合︒

令国家の陵墓治に定誤りがある場合律︒﹃自延喜式﹄の記載体合に誤りがあった場︒

突き詰めれば︑問題は古代国家の作成した陵墓リストがどの程度信用に足るものか︑というところに行き着く︒

では︑このリストはどういう事情で作成されたのだろうか︒陵墓の歴史にとって律令国家の陵墓政策は大きな画期

をなすものであった︒持統三年︵六八九︶に浄御原令が施行されると︑その編目に存在したことが推定される喪葬令

先皇陵条によって︑はじめて先皇陵の公的守衛原則が規定される︒先皇陵の一系的な公的守衛管理システムの創始で

ある

﹄であって︑﹃令集解古も記の﹁即位天皇以外はのる︒関こうした政策は陵墓にすする伝統的な意識を破壊み

な墓と称せ﹂という言葉に象徴されるように古くから尊重されてきた陵墓であっても先皇の陵でないものは公的管理

の枠外におかれ︑皇族葬地に関する資料も切り捨てられることになった︒これは陵墓観の根本的な変化だといってよ

い︒

このような理念に基づく治定作業・公的管理の台帳として作られたのが先皇陵リストである︒しかし︑従来はこの

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時期の治定の成果を軽視し︑﹁帝紀﹂の山陵記載のみをオリジナルの史料とみなす考え方が通説的であった︒白石太

一郎氏は︑﹁記紀﹂と﹃延喜式﹄の山陵リストとを比較検討されて︑後者が前者を基礎にしていることを明らかに

し︑結局信用に足る史料は記紀の原史料である﹁帝紀﹂の山陵記事のみであると推断された

しかし︑このような見方は慎重ではあるが文献の立場から見れば武断であろう︒というのも︑第一に︑﹁帝紀﹂の

構成は天皇歴代を基準とする点で一系系譜の観念に貫かれており︑遡れば五世紀の稲荷山鉄剣の銘文にも確認される

ものではあるが︑あくまで政治的な地位継承の﹁日継﹂であって︑山陵記事も旧来の日嗣の奏上の際に語り継がれた

情報にすぎなかったと考えられる︒他方︑七世紀以前に古墳に対する永続的な祭祀が行なわれた痕跡はない︒先皇陵

に対する公的管理と恒例祭祀とは律令国家の陵墓政策によって創始されたといってよい

︒まず︑山陵記事が個々の

古墳に即して意識されていたかどうかが疑問である︒具体的にいえば︑五世紀の仁徳・履中・反正天皇の陵に比定さ

れている百舌鳥の三山陵についても︑﹃日本書紀﹄では﹁百舌鳥野陵﹂﹁百舌鳥耳原陵﹂﹁耳原陵﹂と︑﹃古事記﹄では

﹁毛受之耳原﹂﹁毛受﹂﹁毛受野﹂とあるのみで︑不統一な個別表記で︑相互の位置関係が不明である︒それに対し

て陵墓歴名では﹁百舌鳥耳原中

陵﹂﹁百舌鳥耳原南 !

陵﹂﹁百舌鳥耳原北 !

置れ位の互相者三︑てさ陵付が角方にた新と﹂ !

関係が明確に確定されている︒記紀の記載を踏まえて律令国家が治定した結果であろう︒また第二に︑持統三年に開

始された律令国家の治定作業は相当の手間をかけて慎重に進められたようで︑後述するように完了するのに元明朝の

後半までかかっている︒その成果には︑当時ならまだ残っていたであろう﹁帝紀﹂以外の断片的な関係諸資料や口

伝︑さらには在地における伝承など︑貴重な情報が集約されている可能性がある︒欠史八代の頃のものはいざ知ら

ず︑大王家が他氏族から傑出した地位を獲得した時期以降︑少なくとも雄略朝頃以降の陵については︑中央による一 陵墓治定信憑性の判断基準

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律の管理がなされておらずとも各地域においてその存在が簡単に忘れ去られたとは考えにくい︒︵ただし︑陵戸にさ

れたくないなど民衆側がそのデメリットを強く意識した場合は︑虚偽の申告がされることもあったかもしれない︒︶

では︑﹃延喜式﹄の陵墓歴名から得られる被葬者の情報には︑如何ほどの信憑性があるのだろうか︒同歴名は︑﹃弘

仁式﹄﹃貞観式﹄﹃延喜式﹄段階で︑律令国家の作成した陵墓歴名に︑それ以降の陵墓をそれぞれの時期の陵墓観に基

づく基準に従って順次増補しているものであるから

的いよてえ考といなはり誤に本︑基はに事記墓陵の分部加追︒

問題はそれ以前の︑とりわけ七世紀以前の山陵記事の信憑性である︒

律令国家は︑職員令

1 9

に︑まず天皇陵と定認されうるものを選めるたれ諸陵司条に規定さたす﹁祭陵霊﹂を実行択

して一定の兆域を設定する︒そして陵戸・守戸を置いて︑立ち入りや埋葬・放牧・樵木を禁じたのである︒養老喪葬

令1には︑

凡先皇陵︑置陵戸守︒非陵戸守者︑十年一替︒兆域内︑不葬埋及耕牧樵採

とある︒この公的守衛規定を﹃日本書紀﹄持統天皇五年︵六九一︶十月乙巳条の詔︑

乙巳︑詔曰︑凡先皇陵戸者︑置五戸以上︒自余王等有功者︑置三戸︒若陵戸不足︑以百姓充︒免其徭 役︒三年一替︒

と比較すると︑持統五年制では﹁凡そ先皇の陵戸は︑⁝﹂と先皇陵に陵戸を設置することを前提として︑設置陵戸の

具体的戸数︑﹁自余王等有功者﹂という例外的な陵戸設置対象とその戸数︑陵戸不足の場合の処置を指示した追加法

令の体裁をとっていることがわかる︒逆にいえばこの規定は養老令・大宝令の起源をなす持統三年の浄御原令文を踏

まえたものだと考えられるのであり︑浄御原令文は︑

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凡先皇陵︑置陵戸守︒兆域内︑不葬埋及耕牧樵採

と復元される︒つまり浄御原令では守衛戸には特定戸を固定的に充てる陵戸として設置することのみを規定してお

り︑持統五年制でもその原則は守られ︑一般戸からの設定はあくまで陵戸不足の場合のみの例外規定となっている︒

しかし持統五年制と比較すると︑養老令規定では﹁若陵戸不足︑以百姓充︒免其徭役︒﹂の部分が﹁非陵戸

守者︑﹂と書き換えられており︑特殊例外的な方式から一般的な方式へと変化していることがわかる︒このこと

は︑交代年期にも明確に現れている︒すなわち持統五年制の﹁三年一替﹂が造籍・班田のサイクルである﹁六年﹂と

の擦り合わせを意識して設定された数字であるのに対し︑養老令制では﹁十年一替﹂となり︑済崩し的に守衛戸にし

てしまおうという意図が垣間見られるのである︒

この政策変化は具体的な陵戸設置状況からも確認されるとともに︑その時期をより具体的に確定することが可能で

ある︒陵墓歴名の七世紀頃から八世紀頃までの山陵の陵戸・守戸設置状況に注目しよう︒

︵前略︶

磯長山田陵西

押坂内陵 西

大坂磯長陵西

越智崗上陵 西

!

遠陵 陵墓治定信憑性の判断基準

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山科陵西

右一近陵

檜隈大内陵西

同大内陵

真弓丘陵西

檜前安占岡上陵西

奈保山東陵西

奈保山西陵西

佐保山西陵西

佐保山南陵西

佐保山東陵西

︵後略︶

ここから確認されることは︑公的守衛が制度的に開始された持統朝から遡って近年の諸山陵とその後の文武天皇陵

まで︑すなわち斉明天皇陵から文武天皇陵までの範囲には︑陵戸がきちんと設置されているのに対して︑元明天皇陵

以降はすべて守戸となり︑陵戸が全く設置されなくなるという現象である︒元明朝前後には陵戸設置策が実質的に放

棄されていることがわかる︒これは先に見た令規定の改正と大筋で対応するものである︒

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そのような目で見ると︑持統朝以降の陵戸設置の過程において︑その所在が確定できた山陵から順次陵戸を設置し

ていくという傾向が確認される︒その意味で︑実在が曖昧で︑かつ多くの古墳が乱立する三輪山周辺など奈良盆地南

部に存在すると記紀が語る︑神武天皇以降欠史八代の天皇陵を確定することは︑最も困難な作業であっただろう︒事

実︑陵墓歴名の該当箇所をみると︑一系系譜的意識からして最も重要なはずの初代神武天皇の山陵ですら︑陵戸では

なく守戸の設置である︒神武以降の欠史八代の天皇陵はすべて守戸なのである︒

逆に陵戸が置かれている六世紀以前の山陵に注目すると︑垂仁天皇陵︵陵戸二烟︑守戸三烟︶︑景行天皇陵︵陵戸

一烟︶︑仲哀天皇陵︵陵戸一烟︑守戸四烟︶︑応神天皇陵︵陵戸二烟︑守戸三烟︶︑仁徳天皇陵︵陵戸五烟︶︑履中天皇

陵︵陵戸五烟︶︑反正天皇陵︵陵戸五烟︶︑允恭天皇︵陵戸一烟︑守戸四烟︶︑雄略天皇︵陵戸四烟︶︑清寧天皇︵陵戸

四烟︶︑顕宗天皇︵陵戸一烟︑守戸三烟︶︑安閑天皇︵陵戸一烟︑守戸二烟︶︑欽明天皇︵陵戸五烟︶︑という状況であ

る︒

もちろん陵戸が定数通りに置けなかった場合に︑守戸をもって後々補足していくということは行なわれたであろ

う︒断片的な実例だが︑﹃続日本紀﹄霊亀元年︵七一五︶夏四月庚申条には︑垂仁陵に﹁守陵三戸﹂︑安康陵に﹁四

戸﹂を宛てた記事がある︒これを歴名と比較すると︑陵戸が二烟しか置かれていなかった垂仁陵に新たに守戸三戸が

追加されたこと︑陵戸が全く置かれていなかった安閑陵に新たに守戸四戸を設置されたことを意味していると思われ

る︒このように個別の事情で陵戸が五烟充足できず︑守戸によって順次追加されたものがあったことは想像される

が︑そのことを差し引いてもなお︑陵戸が置かれている諸山陵には一定の傾向を読み取ることができるであろう︒

即ち︑

漓比︑記紀巨情報のみで較う的簡単に特定の古墳ににのよ百大な古墳がるび立つ並舌の三山陵に代表され鳥 性基断判の陵憑信定治墓準

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絞り込めるもの︑

滷候のもいなどんとほが補の地他ていてし立孤に的域︑

澆像伝のそ︑し有を物被人な名著が者葬承

がはっきりとした形で伝えられていたであろうものである︒

以上の治定の過程をまとめると次のようになる︒先皇陵の公的守衛原則が浄御原令で規定され︑持統五年に陵戸設

置の方針が固まると︑記紀の山陵記事を利用しつつ治定作業が開始された︒比較的に比定が簡単であった諸陵には順

次陵戸を設置していったが︑すべての山陵の比定が容易に進むわけではなかった︒元明朝になり︑文武天皇の埋葬が

終焉し︑陵戸五烟が設置されて暫くした頃には︑治定作業は次第に行き詰まりを迎えていた︒そうしたなかで︑実行

が目指されていた毎年十二月恒例の陵霊祭祀である荷前常幣を早急に開始すべく︑神武陵や欠史八代の陵など確定で

きずに残されていた諸山陵を最終段階で次々に治定して︑例外規定であった守戸設置を││訂正が可能だという意味も

あって││積極的に採用した︒陵墓の名籍を管理し陵霊を祭ることを掌る諸陵司が格上げされて諸陵寮となったのは

天平元年︵七二九︶八月のことであり︑まさにここに陵墓治定は辛うじて完了し︑おそらくこの年から荷前常幣が開

始されたと推定される︒

このような律令国家による陵墓治定の沿革に鑑みる時︑七世紀以前の山陵のうち陵戸が設置されているものは比較

的治定が順調に進んだものといえるのであって︑逆に守戸しか置かれていないものは何らかの事情でその治定が遅れ

たもので︑概してその被葬者の確定には曖昧さが残ったと判断することができるのである︒

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二︑天皇陵古墳固有の遺構

古代の陵墓関係の史料を読み解いていると︑天皇陵固有の遺構の存在から天皇陵古墳であると推定することができ

る場合があることに気づく︒これによって前に述べた幕末明治期の治定に誤りがあった場合︑即ち﹃延喜式﹄の記載

と実在の古墳とを照応する際に誤りが発生した場合の修正が可能である︒ただし律令国家の治定がそもそも間違って

いる場合は問題外で︑出土遺物等から背反する結論が得られる場合があることにも注意しておく必要がある︒以下︑

三つの基準を指摘しておく︒

第一︒律令国家は前に掲げた養老喪葬令1にみえるように︑天皇陵と認定された古墳に対しては一定の兆域を設定

し︑陵戸・守戸を設置してその中への立ち入りや埋葬・放牧・樵木を禁じた︒このような視覚的な威厳と先皇の霊が

宿るという新たな象徴的機能とを与えようという古墳に対して︑律令国家が丁重な修陵整備を加えたことは想像に難

くない︒天皇陵には︑古墳が造営された時期の遺構とは別に︑その公的管理が開始される持統三年︵六八九︶から八

世紀初頭の天平初年にかけての修陵の痕跡が確認される可能性が高いわけである︒

第二︒諸陵寮式には︑

凡陵墓側近有原野︑寮仰守戸并移所在国司共相知焼除

という規定があって︑兆域内の側近原野は焼き払ってきれいに整備するよう︑守戸と国司とに命じている︒さらに同

式に︑ 陵墓治定信憑性の判断基準

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凡諸陵墓者︑毎年二月十日差遣官人巡検︒仍当月一日︑録名申省︒其兆域垣溝若有損壊者︑令守戸修 理︑専当官人巡加検校

とあり︑兆域の周りには垣がめぐらされ︑溝も掘られていたことが知られる︒しかも毎年二月十日には中央から官人

が派遣され厳正なチェックが加えられるのである︒さらに﹃朝野群載﹄第八別奏に収められている康和二年︵一一〇

〇︶七月十七日付の諸陵寮解に注目しよう︒

諸陵寮

特蒙天裁︑被下宣旨於五ヶ国︑停止国司収公︑且給官使︑任官省符︑条里坪付人□□要劇 陵戸田作人等︑募権勢避地子状︒

陵墓所在︒

山城国卅四所大和国五十七所河内国十五所和泉国四所

摂津廿紀伊国一所近江国一所 右︑謹検案内︑被始置陵墓之後︑年代尚矣︒兆域・東西南北・陵戸・要劇等田︑具見格式︒而近代之 吏︑背制令悉収公︒陵戸田之地︑已以減少︒只随国司之所一レ行︑不陵戸之地利︒因之︑兆域垣溝︑无

久修造︒牛馬狐狼︑有日牧棲︒抑五ヶ国中︑和泉国二箇所陵墓者︑是神代履中仁徳反正三帝山陵︑垂仁天皇

第三皇子右大臣船守

□□以往全无公収藤︒有信・良兼二原前□鳥墓也︒号之百舌山墳陵︒而件陵戸田︑代 之吏︑恣以収公︒論之︑政途理可然乎︒但至于山陵兆域陵戸并要劇田者︑神社仏寺権門勢家︑不

妨之由︑度々官符厳制稠畳︒作人縦雖愚暗︑国宰何乖憲法︒倩案事情︑苅伐山陵草木

!

入兆城内之

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輩︑尚有其罪︒況置陵戸田︑令陵墓︑損破之時︑令守戸修理︒専当官人︑毎月一度可巡検之 由︑式条炳焉︒是則制令設而不行︒人心習而無慎︒為愁之甚︑最在此事︒望請︑天裁︑被宣旨於 五个国︑裁許件条︑将陵墓之厳重︒仍注事状︑謹解︒

康和二年七月十七日正六位上権助藤原

懐次

正六位上行助源

実伊

従五位下行頭藤原

俊清

諸陵寮が﹁近代の吏が陵戸要劇等田を収公してしまい︑減少の一途をたどっている︒また地の利を考慮せずに遠いと

ころに陵戸田を設置してしまうことも多い︒これによって兆域の垣・溝は久しく修造するところがない︒﹂と訴えて

いる︒このことから﹁陵戸田﹂が兆域の垣や溝の修理費用として設定されたものであり︑十一世紀初頭になってもな

お︑五ヶ国に散在する百十二ヶ所︵摂津国の後に﹁一所﹂の文字が欠けていると考えると百十三ヶ所︶の陵墓が諸陵

寮の管轄下にあり︑それを維持しようという努力が続けられていることが知られるのである︒

従って︑かつての兆域の境界部分には八世紀から少なくとも十世紀末くらいまで継続する溝や柵列の遺構が存在し

ているはずである︒また兆域内には焼除された樹木群が存在する可能性もある︒天皇陵古墳の墳丘が発掘されること

は今後も暫くありえないと思うが︑墳丘のみに注意を向けるのではなく︑発掘調査の際には墳丘からかなり隔たった

地点に目配りすることによって︑特定の古墳が天皇陵であるかどうかを絞り込むことが可能となる︒

第三︒山陵には毎年年終に荷前使が中央から発遣された︒その際に︑陵前でどのようなことが行なわれたかを窺わ

せる史料が僅かながら存在する︒藤原師輔の日記﹃九条殿記﹄には天慶八年︵九四五︶十二月二十日の荷前のことが 陵墓治定信憑性の判断基準

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具体的に書き記されている︒

︵前略︶申剋参陵︒酉剋参着︒到御在所之間︑陵戸設盥水也︒盥洗︒而次官共舁立於御前

次着座申事由︒両段再拝︒次官随拝之︒内豎大舎人共出幣物︑置於棚上︒以松 焼之︒事畢︑戌剋還家︒給酒食於権随身等︒次亦給禄︒︵後略︶

この日の山陵参拝は夕方から行なわれている︒御在所︵墳丘︶のそばに至るに際しては︑陵戸があらかじめ準備して

おいた水の入った盥でまず清めをする︒続いて幣物を御前において舁き立つ︒そして長官・次官らは座について︑宣

命をあげ両段再拝し︑内豎・大舎人が幣を棚の上に置いて松の葉を用いて幣物を焼くのである︒

また︑三条実房の日記﹃愚昧記﹄の仁安三年︵一一六八︶四月三十日の高倉天皇即位告文使の記事には︑

卅日︑天晴︒今日御即位由可山陵之︒︵中略︶於尊勝寺︑前騎馬侍四人︑相具︒即参向山 科山陵︒令陵預︒頃之出来︒予問云︑参御山歟︑将此鳥居歟︒答云︑此鳥居下令候也︒行成云︑

故殿為荷前使参之時︑御此鳥居下也︒平相公云︑入此鳥居御山 ︒然而︑付両諸也︒陵預儲

手水︒洗手︑預直懸之︒称先例也︒下裾︒取副宣命於笏揖︑着座︒ 又揖︒次再拝︒次読宣 命︒又再拝︒次焼宣命於内︒平相公︑宣命不焼︒懐中可帰也︒我両度勤仕︑皆如此︒藤中納言︑可焼 也︒愚案︑又如此︒仍焼之︒抑︑可詞也︒忘却尤奇恠々々︒酉刻許︑入洛︒

とある

いに候ぜんか︒﹂と問︑鳥﹁此の鳥居の下に候ぜ居の︒預山科山陵に参向して陵に此﹁御山に参るか︑将にし

むなり︒﹂との答えを得たことが書き留められている︒遅くとも十二世紀には山陵に鳥居が設けられており︑異論は

あったようだが︑その鳥居のもとで宣命を焼くという儀式が挙行されたようである︒

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陵墓治定信憑性の判断基準

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こうした儀式が天平元年以来︑毎年陵墓側近で行なわれたのであるから︑おそらく墳丘中軸上の少し離れた位置に

八世紀から十世紀ころの焼かれた幣物などを伴う祭祀遺跡︑さらには平安後期の鳥居の遺構などが現れるはずであ

る︒これまた墳丘に立ち入らなくとも調査しうるものである︒

近年の陵墓研究で大きく注目されるようになってきたのは近世の修陵である︒しかし私はそれに加えて︑古代にお

ける修陵遺跡や山陵祭祀の遺跡にも注意を向けるべきだと考えるものである︒目配りさえしておけば︑今後そうした

遺跡が確認されるかもしれないからである︒

三︑具体的実例

以上の考察をふまえて︑やや複雑な事情を有する陵墓について若干の問題点を個別に整理しておきたい︒

︵1︶崇峻陵

延喜諸陵寮式の崇峻陵の記事は次の如くである︒

倉梯岡陵

﹁陵地并びに陵戸無し﹂と記されている︒律令国家が各天皇陵を恣意的に仮託していたとすれば︑ありえないことで

あって︑十市郡にある特定の古墳にもっともらしく治定できたはずである︒律令国家による治定は︑記紀の記事や在

地の伝承などに忠実に行なわれたようである︒治定の時点で崇峻陵の所在地が不明であった︑否︑存在しなかったか

らこのように記されたのだろう︒﹃日本書紀﹄には︑ 陵墓治定信憑性の判断基準

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︵崇峻天皇五年︶十一月癸卯朔乙巳︒馬子宿祢詐於群臣曰︑今日進東国之調︒乃使東漢直駒于天皇︒ 或本云︑東漢直駒東漢直磐井子也︒是日︑葬天皇于倉梯岡陵︒︵後略︶

とあり︑崇峻天皇はその倉梯岡宮で︑東国の調を受ける日だと欺かれ︑出御したところを暗殺されたのである︒即日

埋葬されたことになっており︑葬られた陵の名は不思議なことに崇峻の宮の名と一致している︒おそらく陵墓歴名の

作成者は該当すべき古墳が宮と同じ場所に存在したということで︑﹁倉梯岡陵﹂と書き記したのではないだろう︒も

しそうならば﹁陵地無し﹂と書かないはずだからである︒事件の真相は﹁崇峻天皇は退位を求められて他所に幽閉さ

れ︑表向きはその宮を戒厳状態にしたうえで宮の地に葬り終わったと公表した﹂というあたりにあるのではないだろ

うか︒こう考えてくると︑法隆寺に近接する藤ノ木古墳が︑中世以来﹁みささぎ﹂の名で呼ばれ︑延宝七年︵一六七

九︶の古文書には﹁崇峻天皇御廟﹂として記されている事実も︑一概には切り捨てられなくなる

︒ともあれ︑陵墓

歴名は﹃日本書紀﹄の記事を踏まえて陵名を記した上で︑正直にその不在を明記しているのである︒

︵2︶神功皇后陵

被葬者の固有名が曖昧になったり︑同一地域に複数の山陵が近接して存在したりしたために︑混乱が発生すること

もあった︒また︑当時は未だ漢風諡号は存在せず︑宮号か和風諡号で被葬者が認識されていたから︑和風諡号等に類

似性が認められる天皇の陵相互に治定ミスもしくは混乱が発生しうる︒こうなると︑当時は墳丘型式や埴輪の編年な

どを学問的に捉える知識などないからお手上げとなる︒これと関連する事例としては︑著名な承和十年︵八四三︶の

神功皇后陵と成務天皇陵との混乱事件をあげることができる︒

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陵墓治定信憑性の判断基準

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︵四月︶己夘︒使参議従四位上藤原朝臣助・掃部頭従五位下坂上大宿祢正野等︑奉楯列北南二山陵︒依

去三月十八日有奇異︑捜檢図録︑有二楯列山陵︒北則神功皇后之陵︑倭名大足姫命皇后︑南則成務天皇之 陵︑倭名稚足彦天皇︒世人相伝︑以南陵神功皇后之陵︒偏依是口伝︑毎神功皇后之祟空謝成務天 皇陵︒先年縁神功皇后之祟︑所作弓剱之数︑誤進於成務天皇陵

今日の奈良盆地北部の佐紀︵盾列︶古墳群での出来事である︒神功陵に献るべき幣物を使者が誤って成務陵に献って

しまっていたのである︒その原因は安易に口伝に従って北を成務陵︑南を神功陵とみなしたためだとされている︒し

かし改めて図録を調べなおしてみると︑北が神功陵で南が成務陵であることがわかったので︑陳謝と幣物奉献が行な

われたという︒この混乱の背景には如何なる状況が想定されるのだろうか︒諸陵寮式には︑

狹城盾列池後陵西

狹城盾列池上陵西

とみえる︒近接する同じ狹城盾列陵であり︑かつ両被葬者の倭名つまり和風諡号が﹁稚足彦﹂﹁大足姫﹂と類似して

いたために混乱をきたしたというのである︒これは九世紀の臨時奉幣の際に起こった出来事ではあるが︑遡って律令

国家による陵墓治定の際にもこのような口伝などの伝承を取り入れる段階での混乱が起こりえたことは十分に考えら

れることである︒

そもそも神功皇后陵の決定自体が十分な根拠のあるものではなかった︒﹁帝紀﹂の痕跡を残すかもしれない﹃古事

記﹄の当該記事をみると︑他の天皇の葬地記事が本文中に﹁御陵在︵地名︶也︒﹂という形式で書かれているのに対 陵墓治定信憑性の判断基準

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し︑神功陵は異質で︑細字双行で﹁葬于狭城楯列陵也︒﹂と書かれている︒恐らく神功皇后は本来天皇歴代には入

っておらず︑その山陵も﹁帝紀﹂に記されていなかったと考えられる︒また奈良時代の史料には︑神功陵が特別に重

要視された実例は見あたらず︑外交に関する奉幣でも天智陵や応神陵が注目されていた︒他の天皇陵とは違って治定

を行なった段階から既に手元には積極的な情報もなく︑在地の伝承を主たる頼りにするしかなかったのであろう︒同

じく﹁女性の古墳﹂の伝承を持ち︑隣接する位置を占める佐紀陵山古墳に﹁陵山﹂の字が冠せられている事実は︑律

令国家の治定に基づく﹁五社神古墳

神功皇后陵︑佐紀陵山

日葉酢媛墓﹂とは逆に︑﹁五社神古墳

日葉酢媛墓︑ 佐紀陵山

神功皇后陵﹂という口伝が在地に根強く残り続けたことを暗示しているのではないだろうか︒

︵3︶継体陵││太田茶臼山古墳と今城塚古墳││

宮内庁が継体陵とする茨木市の太田茶臼山古墳は治定ミスであり︑高槻市所在の今城塚古墳こそが継体天皇の真陵

であるというのが現在の通説である︒太田茶臼山古墳に対する疑問は古くからくすぶっていたもので︑その所在地は

島下郡であり︑﹃延喜式﹄が継体陵の所在地とする嶋上郡に合わないのである︒また墳丘の型式︑埴輪などの断片遺

物などからも実年代に合わないという疑問が提出されていた︒そして近年の今城塚古墳の本格的な発掘調査によっ

て︑ほぼ問題は解決したとの観を呈している

しかし︑果たして本当にこれで問題は解決したといえるのだろうか︒太田茶臼山古墳をめぐる問題││その被葬者

はだれなのか︑大王陵級の巨大古墳がなぜこの地域に二つもあるのか︑││が解決されてこそ決着がついたといえる

のではないか︒どうもこの﹁どちらが真陵か﹂という問題設定自体が盲点になっているように思われる︒

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陵墓治定信憑性の判断基準

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延喜諸陵寮式には︑確かに島上郡に所在すると書いてある︒しかし︑それが律令国家による陵墓治定により作成さ

れたリストだという観点から見直すと︑問題は複雑な様相を呈してくる︒治定の典拠とされた古い原史料には︑﹃古

事記﹄にみられるように嶋上・嶋下の分割以前の名称で﹁三島の藍野に在り︒﹂と伝えられていたにすぎないからで

ある︒また陵戸・守戸の設置状況に注目すると︑三島地域で治定され得る目ぼしい古墳は二つしかなく︑ましてや六

世紀の話だから︑ある程度の絞込みさえすれば決定はさほど難しくなかったはずである︒にもかかわらず︑ここには

守戸しか設置されていない︒治定が遅れているのである︒この点︑先の百舌鳥三陵とは対照的である︒その判定に検

陵使は何らかの困難を覚えたのであろう︒在地の伝承を集めてみても決着がつかなかったのは︑どちらにも山陵であ

るというそれなりの根拠があったからではないだろうか︒

そのような眼で︑初心に帰って継体天皇の崩御とその前後の事情を考えてみると︑周知のようにそこには﹁継体・

欽明朝の内乱﹂とも称される厄介な政治情況が存したことが想起されるのである

︒また﹃日本書紀﹄の安閑天皇元

年閏十二月壬午条に見える三島県主飯粒からの﹁上御野︑下御野︑上桑原︑下桑原︑并せて竹村の地﹂の奉献記事も

重要である︒これは安威川の上流地域で︑今日の太田茶臼山古墳の北西部一帯の耳原︑桑原にあたる︒﹃日本書紀﹄

の屯倉関係記事が安閑紀に集約されていることを差し引けば︑継体朝にその大兄であった勾大兄皇子が獲得した新た

な政治拠点であった可能性もある︒結論から言うと︑継体天皇の寿墓としてこの地に造営されたのが太田茶臼山古墳

であり︑自らの即位と絡めて継体の殯儀礼と葬送とを取りしきったのが勾大兄︑即ち安閑天皇だったと考えることは

できないだろうか︒

しかし継体天皇と五世紀の王統を継承する手白髪皇女との間に生まれた欽明天皇を奉じる蘇我稲目は︑欽明こそが 陵墓治定信憑性の判断基準

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正統な日嗣であり︑地方豪族出身の目子媛所生の安閑・宣化は中継ぎのすぎないと考えていた︒そこで欽明天皇の即

位儀礼と絡めて新たな継体陵││今城塚古墳││の造営が試みられたのではないだろうか︒

古墳を用いた政治的パフォーマンスは蘇我氏が好んで行なったことである︒著名な事例としては︑蘇我馬子が蘇我

系の妃︑故堅塩媛を欽明天皇の大后に位置付けるために行なったパフォーマンス︑即ち推古天皇二十年︵六一二︶に

行われた堅塩媛の遺体の欽明陵への改葬と大々的な殯儀礼の挙行とをあげることができる︒また︑その四年後の二十

八年十月には︑欽明陵の域外に土を盛って氏ごとに柱を立てさせるという︑二者に対するある種の服属儀礼が行なわ

れている︒また皇極天皇元年︵六四二︶十二月是歳条に蘇我蝦夷が今来の地に雙墓を造り︑大陵小陵と称して自分と

入鹿の墓としたことはあまりにも有名である︒

このように改葬や造墓を政治的なパフォーマンスとして積極的に利用する蘇我氏ならば︑欽明天皇の正統性を保証

するために継体陵の再造営とそちらへの改葬を行なう可能性も十分にあると考えるのである︒

もちろん︑考古学上の成果を軽視して古代史の内乱問題から安易に継体陵問題を解こうとしているのではない︒従

来の通説だけでは︑なぜこの地域に二つの大王陵級の古墳が存在するのか︑太田茶臼山古墳の被葬者はだれになるの

かという問題は解けない︒新池の窯跡は太田茶臼山古墳にも今城塚古墳にも埴輪を供給しているという︒両者が全く

異質な王権もしくは首長によって造営されたとは考えがたい︒墳丘型式からみた年代観については︑例えば法隆寺再

建非再建論争において精緻な建築様式論にもとづく判断が結果的に実年代とずれてしまったように︑財力や政治的立

場によって最新の築造様式を取り入れることができず︑古い工人により古い様式で造営されることもありうる︒ま

た︑太田茶臼山古墳出土の埴輪片が新池遺跡のa群窯のもので五世紀の製作と推定されていることについても︑崩年

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陵墓治定信憑性の判断基準

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はともかく即位年とされる五〇七年そのものに確証があるわけではないし︵そもそも﹃日本書紀﹄と﹃古事記﹄とで

崩年や享年が一致していない︶︑継体即位を契機として新池の窯が開かれ︑寿陵のための埴輪の製作が直ちに開始さ

れたとすれば︑ブレは十年程度に縮まってくる︒このように考えてくると︑太田茶臼山古墳の年代には幾分かの再考

の余地が残されているといえるのである︒大伴金村に支えられた安閑天皇は︑継体天皇を太田茶臼山古墳に葬り皇位

を継承した︒これを嫌った欽明天皇を奉じる蘇我稲目は︑今城塚古墳に継体天皇を改葬し︑欽明天皇の即位儀礼を挙

行させたのではないだろうか︒

おわりに

以上︑文献史学から天皇陵古墳の治定問題についてわかることをまとめてみた︒ここ数年︑宮内庁の厳しい政策に

雪解けが見られ︑漸く陵墓公開が前に進み始めた︒こうした中で改めてその信憑性問題についての整理を試みた︒文

献から具体的な遺跡である天皇陵について明らかにできることなど限られているではないか︑むしろ客観的な実態研

究にとって弊害になるのではないかと考えられるかもしれない︒しかし考古学のみで描けるのは﹁古墳﹂の歴史であ

って︑﹁天皇陵古墳﹂という存在は両者の狭間にある︒文献からいえることを整理し︑そのうえで考古学的な客観的

事実を位置付けていくことが必要なのである︒ 陵墓治定信憑性の判断基準

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注盧

日本史研究会・京都民科歴史部会編﹃﹁陵墓﹂からみた日本史﹄青木書店︑一九九五年︑外池昇﹃幕末・明治期の陵墓﹄

吉川弘文館︑一九九七年︑同﹃天皇陵の近代史﹄吉川弘文館︑二〇〇〇年︑など参照︒

拙稿﹁律令国家陵墓制度の基礎的研究︱﹃延喜諸陵寮式﹄の分析からみた︱﹂︵﹃史林﹄七九︱四︑一九九六年︶︒

ここに﹁一系的﹂と称した﹁一系系譜﹂の観念については︑義江明子﹃日本古代の氏の構造﹄吉川弘文館︑一九八六年︑同

﹃日本古代系譜様式論﹄吉川弘文館︑二〇〇〇年︑参照︒

白石太一郎﹁記・紀および延喜式にみられる陵墓の記載について﹂︵同﹃古墳と古墳群の研究﹄塙書房︑二〇〇〇年︑初出

は一九六九年︶︒

拙稿﹁律令陵墓祭祀の研究﹂︵﹃史学雑誌﹄一〇八︱一一︑一九九九年︶︒

盪拙稿︒ 眄

京都府立総合資料館所蔵﹃愚昧記﹄による︒閲覧させていただいた同館︑翻刻の際にチェックしていただいた同志社大学町

触研究会のメンバーの方々に謝意を表します︒

森浩一・石野博信編﹃藤ノ木古墳とその文化﹄山川出版社︑一九八九年︑一三二頁〜一三三頁に引用された高田良信氏の

研究参照︒

近年の新知見と整理については︑高槻市教育委員会編﹃継体天皇と今城塚古墳﹄吉川弘文館︑一九九七年︑高槻市教育委員

会・高槻市しろあと歴史館編﹃発掘された埴輪群と今城塚古墳︵図録︶﹄二〇〇四年に付された﹁今城塚古墳と継体天皇に

関するおもな文献﹂など参照︒

林屋辰三郎﹁継体・欽明朝の内乱の史的分析﹂︵同﹃古代国家の解体﹄東京大学出版会︑一九五七年︒初出は一九五二年︶︒

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