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デ・ペリエとナヴアール女王 −

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(1)

ⅠⅠⅠ,Pl¢iade.1967.

J.Derrida:DelagrammatologiらParis,1967、

Cb・Porset:Avertissement et Remarque del

¢dition critlq・ue del

Essaisur

l origine deslangues.

上記の諸研究を紹介したものとして,日本語では次のようなものがある。

竹内成明 ルソーの学問批判(桑原武夫編ルソー論集,岩波書店,1970).

/ト林幸彦 ルソー『言語起源論』翻訳の解説,現代思潮社,1970.

2)言語・その解体と創造(その3)展望1971年10月号p.163.

3)(茅Starobinskiり、−J・Rousseau.La transparence etl obs亡肛1e,Chap.V

et VI,Paris.1971(20占d.),

4)Ibid・p.115.

5)Emile,1ivreII,0.C.,tOmeIV.p.404,Pl¢iade.

6)Emiユe,1ivreI,p.285.

7)Ibid・p.298.

8)Ibid・p.299.

9)Emile,1ivreII,p、358.

10)Emilら1ivreIII,p.447.

11)Ibid・p.454.

12)この幼少年時代の相異に,エミールの後半生とルソーの後半生の違いをみる

ことができる。ルソーはエミール的な生活を実生活の面でも実践しようとするが前 半生の違いにより実現できない。ともに「孤独者」(Solitaire)として生きるのであ るけれど,ルソーの場合はつねに社会と確執をかもすかたちでしか孤独であり得な いのに,エミールは,社会に対決することなく孤独である。『不平等起源論』,『エ ミール』,『告白』比較について内田義彦『社会認識の歩み』(岩波新着,1971)第

2部第3章参照。

13)この点については後述。

14)Emile,1ivreI,p.267.

15)J・Derrida:Dela grammatologie.

16)Emile,1ivreII,p.358.

17)Ibid・p.357.

18)Emile,1ivreIV,p.645.

19)Dial喝ueSIII,0・C・,tOmeI,p.930.

20)R・Derathさ:Le rationnalisme deJ・」.Rousseau,Paris,1948.

21)EITlile,Pr¢hce,p.241.

P・Burgelin:La Philosophie delexistence deJ.−J.Rousseau,Paris,1952.

22)Emile,1ivreIII,p.477、

23)Emile,1ivre V,p.658.

24)(訪Lettres Nos1771,1772,1777et1780・C・C・(¢d・kigh)tome X.

25)(訪Contrat Social,2e Partie,Chap.IV.

26)Discours surles sciences etles arts,p.17・

27)Emile,1ivreI,p.250.

なお,本文に引用した訳文は,既訳を参照さしていただいた。

74

デ・ペリエとナヴアール女王

−Fキュンパルム・ムンディ』の謎の解明のために

山 本 顕 一

軽妙で味わい深い『笑話集』ノ粕淵混灯J故祓扁肌一 朗.ル押比」批正

(1558),および謎の寓意を秘めた『キュンパルム・ムンディ。C如止血踊

A九∽成(1537)の作者として16世紀フランス文学史の一隅にその名を

留めているボナヴアンチエール・デ・ペリエ 

Bonaventure des P

riers

(1510P−1544P)の生涯について知るための手がかりは,ごく僅かしか残 されていをい。今日伝えられる資料は,そのすべてをあげつくしても,せ いぜい以下のようなものである。

1

A

1535

年スイスのヌシャテルで刊行され,後にカルヴァン派の間で 広く用いられたオリグエタン01ivdtan(ト1538)のF仏訳聖書。エα

朗ムJβヴむ之β∫fわαfβJα∫αf√〃fβ且−√ゆねγβ・

この大事業に助手として加わったデ・ペリエは,ヘブライ語,カル デア語,ギリシャ語,ラテン語の固有名詞表の作成に協力し,ラテン 語の序詩2篇を書いた。

B.1536年リヨンで刊行されたェチエンヌ・ドレ Etiennne Dolet

1509

1546

)の『ラテン語注解』α

m

∽β血

rf

J

晦〟α

gJ

α

f

言〃α

g

これは反キリスト教的・合理主義的な白然観がちりばめられている ドレの主著であるが,校正を手伝ったデ・ペリエに対するドレの感謝

の言葉がその中に見出される。

C.『占笈の占鼠』針轡…壷戚㈹dゐP堅甲∫よ去√αf言㈹∫,乃0〃∫β祝gβ∽β乃古

曲√β∫

f

β♪

r

β∫β乃

f

β

d

〃乃ゐ〟かズズガ抗汀∽ めα〟∫∫言滋∫α〟加∫

a

ひβ乃ゎ び∂

gr

β庇わ〟′β∫

C

β〟打ヴ祝言∫

0

花王クが∫ゐ∫,√抑卯∫ゐ♪α

r

〟αむ如∫∫肌

0

椚¢γ♂∫,花αょが滋

7

rJ

α

r

g

g

′滋√Ⅳね言

rg

ゐ加転地∫加

gJ

ぬク打払α托

g

75

(2)

roダゐ仇班α言,∫gげ血∫陥r加,∫・J・,1537・

この『パンクグリュエル占笠』の流れをくむ諷刺詩は,ナヴアール 女王への献詞がつけられ,表題が示すように人を喰った変名のもとで 発表されたが,後の1544年のデ・ペリエの作品集にあらためて収録 されている。

D.『マロの友人弟子達のサゴン派攻撃詩集』上g∫ゐc重ん∫g′αmね滋

〟αγロ

f

√〃励βぶ喝

0

〃,上α肋β′β

rfg

β‖

g

肌α戯

gr

β〝

f

J

Paris

J

Morin

1537

・)中の

2

篇の詩 

a

)ノ車

oJ

f

β♪

0

α

r

r

β

f

α∂∫β〝

g CO

J

γβ助

go

〝,

クα

r

ヱわ〃α〃β血

rg

ぴα

J

どょ由仁ゐα∽∂γβゐ

J

α点呼〃β滋〟ゎびα

rrg

b

)月払∫鹿

m

β

0

乃α〃β血げβα滋β

0

鹿

m

坤なγα∽∽仇

これらは,当時のフランス最大の詩人クレマン・マロ 

Cl ment

Marot

1496

1544

)の名声をそねんだカトリック側の詩人フランソ

ア・サゴン

Fran

Ois Sagon

(?一?)が,

1536

年,国外追放中のマロ の異端を糾弾したことに端を発する,いわゆるサゴン論争において,

デ・ペリエがマロ弁護の先頭に立ったことを示すものである。なお,

1537

6

24

日にデ・ペリエがナヴアール女王マルグリット

Marguerite deNavarre

1492

1549

)につき従ってサン・クルーの 王宮にいたことが,相手方のサゴンの詩の記述からうかがい知られる。

E

1537

年末から

1538

年初頭にかけての『キュンパルム・ムンディ』

qm占αJ〟m A九〃成gね♪α琴0言∫,√0乃gg〃α〃fヴαα如βiαJ呼Jβ∫タロβ古i曾〟β∫J

♪rJα〃f盲ヴ祝β∫パ頑wⅧりぬ壷町(Paris,J・Morin,1537,et Lyon,

B

Bonnyn

1538

・)の出版,およびそれに続くこの書の異端告発と裁

判の記録。

1538

7

19

日には,ソルポンヌの神学者達が,この書に閲し,

「信仰上の明きらか夜過誤は認められをいが,有事危険な内容を持つ ゆえ,発禁処分に付されるべきである。」

2

)との裁決を下した。ただし 匿名出版のこの本の著者に関しては,事件の全記録を通じて,一度も その名前があげられていをい。

F.1538年7月31日付の新教徒アンドレ・ゼベデ Andr¢ Zさbed e

(卜?)の手紙。

この中で『キュンパルム・ムンディ』の作者は,「かつてはオリグ エタンの聖書仏訳に協力したのに,今ではエピクロスの教えをフラン スに広めることのみを目指している」と非難されている。

G.ナヴアール女王の財務官ジャン・フロテJean Frott

(ト1565)

76

の1541年10月の記録。

それによれば,この年のナヴアール女王の職月名簿からその名がな ぜか落されていたデ・ペリエに,1541年度の秘書としての俸給110 リーグルが,後から支給されている。

H.ギヨーム・ボステル Guillaume Postel(1510−1581)の『コー

ラン研究。dん♂rα乃ブ∫β〟J曙f∫助ん∽βJf gfβひα′鮮血αrむm r♂肝〃r威αβ

J蕗gr,古刀ヴα∂滋cαJα∽言ねf言∂祝∫ロγ占よ(肋血ねwわ冊壷珊如MわⅦ血加 Pal・is,1543.

ボステルはこの中で,不信心を公然と唱える憎むべき書物の一つと して『キュンパルム・ムンディ』をあげている。

以上はデ・ペリエの生前に記されたものである。われわれは次の資料に たり,デ・ペリエが1544年には死んでいることを知る。

Ⅰ.『故ボナヴアンチュール・デ・ペリエ作品集』二Recueildes(Eu−

vres de fbu Bonaventure Des Periers,Vallet de Chambre de Treschrestienne Princesse Marguerite de France,Royne de Navarre,Lyon,Jean de Tournes,1544.

この遺稿集は,デ・ペリエの友人で,彼と同じくナヴアール女王の 秘書をつとめたアントワーヌ・デェ・ムーランAntoine du Moulin

(1510ト1551?)の手によって編まれ,プラトンの『リュシス』の仏 訳と,長短あわせて約80篇の詩とから成り立っている。8月31日付 の序文には,デ・ペリエの死の前後の事情が簡単に述べられてしモる0

以下はデ・ペリエの死後のものである。

J.詩人としてのデ・ペリエの才能を高く評価している,トマ・セビ

エThomas Sさbillet(1512−1589),ジャック・ベルチエ・デュ・マ ンJacques Peletier du Mans(1517−1582),ギヨーム・デ・ゾー テルGuillaumes des Autels(1529−1581)の証言。3)

K.ジャン・カルヴァンJean Calvin(1509−1564)の『積きを論

ず。Trait占des Scandales,Gen主ve,1550.

この中でカルダァンは,ラブレーヤドレ達と並べて,デ・ペリエを キリスト教の敵ときめつけている。

77

(3)

L.デ・ペリエの死後15年ばかりたって出版された『笑話集』Nou−

velles Recreations etJoyeux Devis de

u Bonaventure Des Periers

Valet de chambre dela Royne de Navarre

Lyon

R

Grarづon,1558.

M

.アンリ・エチエンヌ 

HenriEstienne

1531

1598

)の『ヘロド トス弁護。

Apologie pourH rodote

Lyon

1566

この中では,『キュンパルム・ムンディ』という唾棄すべき書物の 著者デ・ペリエが,絶望のあまり腹に短刀をつき刺して自殺した顛末 が述べられている。

これですべてである。

4

われわれはデ・ペリエの生年も没年も知ることができない。

5

)彼の生涯 で最も重要な出来事の一つ,ナヴアール女王の秘書就任に関しても,詳し いいきさつは一切記録に残されていない。今日伝わっている

1536

年の女 王の職員名薄にも,

1539

年のそれにも,十数名並んでいる

Valetsdecham

bres

の中に,デ・ペリエの名は見出されない。

6

)女王の書き残したものの 中にも,彼の名はただの一度も現われをい。

上にあげた資料からもうかがわれるように,デ・ペリエは,

1530

年代 後半から

40

年代前半にかけて,学識豊かをユマニストあるいは,マロ派 の詩人として,当時フランス・ルネサンス文化が最も美しく開花していた リヨンの町を中心に活動していたと思われるが,当然彼と何らかの交渉が あってしかるべき文人達は,ことデ・ペリエに関するかぎり,一致して口を つぐんでいるように思われる。『キュンパルム・ムンディ』研究史上画期 的な論文を発表した高名な歴史家リェシアン・フェーグル

Lucien Febvre

は,あらゆる資料を渉猟したあげく,ニコテ・ブルボン

NicolasIiourbon

(1503−1549?),ジャン・ゲィザジェJean Visagier(?−1542)といった 当時の学壇・文壇の消息通も,フランソア・ラブレー

Fran

OisRabelais

(1494?−1553),モーリス・セーヴMaurice Scとve(1501ト1560?)とい った詩人や作家達も誰一人としてデ・ペリエについて語っていないのを発 見し,7)《1 封range silence en v占ritd,1e prodi由eux silence pour qul

connaitlesmoeurs de ces hommes

‥.》

8

)と嘆じたのであった。

結局,デ・ペリエの生涯を跡づけるためには,

1544

年の作品集に収め られている彼が自分自身を語った詩を辛がかりにする以外に方法はない。

だがそれらの詩には,ただ一篇の例外を除いては,制作の時期を明示する

78

いかなる記述もみあたらないのである。

ところでこのようにデ・ペリエの生産を探ることに,はたしていかをる 意味があるのであろうか?かつてこの世に生をうけ,それぞれ束の間の 人生を生きて歴史の彼方へ消え去った無数の人間達の中で,ある作家の生 産がとりたてて後代の研究の対象になるとすれば,それは彼が,すべてを 呑みつくすあの無慈悲な時の流れに逆らって今日まで生きのびてきた作品 を書き残したからにほか濠らをい。

しかし作品はそれ自体一つの完結した世界であり,それに内在する力に よって我々の心を動かすのだとすれば,作者の実生活をその細部にいたる まで追跡しようとすることは,完全に無意味とはいわないまでも,作品の 本質の解明にとっては二義的な重要性しか持たないとも考えられよう。

たとえば,デ・ペリエの作とされている『笑話集』の持つ魅力を味わい 楽しむためには,その真の作者がデ・ペリエであろうとなかろう9)と一向 に差しつかえないであろうことは,一時代前に善かれた『新百話』Cb〝g

朗〝〃β〟打J帖αぴβ〃錯や『結婚十五の楽しみ。¢〟f柁Zgノ吻g∫壷肋rg喝βが,

作者不詳のまま今日でも愛読されていることからもうかがい知られよう。

だが,ことが『キュンパルム・ムンディ』に関するとなると,事情は少 し異なってくるのである。

《古き昔の楽しくもおどけたる四篇の詩的対話》 と銘打たれたこの八折 版64ページの小さな作品の文体に関しては,古来すべての評家が一致し て賞讃の言葉をおくってきた。

《Al 占poque otlilpar叫notrelitt占rature ne possddait rien

d,un style ausslpur et d,un ton aussid占1icat・》10)

《D

abord,ilfhit丘gure de chefこd oeuvre dela prose丘an与alSe

えson epoque‥・Une prose vive,alerte)Subtile,pleine degrace

SanS mOllesse,et quidavance semble annoncerla XVIIIe

siとcle.》11)

《Dans toutela prose丘an与aise dela Renaissance,On COnnait

79

(4)

peu d aussijolis textes quele Cymbalum Mundi・》12)

だが,その内容をめぐってはこれまでさまざまな論議が戦わされなが ら,今日なお定説を見るに至らず,「謎の書」とLてのヴェールはいまだ 完全にはがされてい凌い。いずれにせよ,今世紀に入ってからでも,ルフ

ラン A.Le丘・anC,ビュッソン H.Busson,ベッカー Ph.A.おecker,

ドラリュエル L Delaruelle,フエーゲル,ソーニエ V.−L.Saulnier13)

といった静々たる学者遠を激しい論戦の中にまきこんだこの善が,フラン ス16世紀の思想史,文学史上決して見逃がすことのでき覆い作品である ことだけは間違いないところであろう。

この「四篇の対話」に軋 Thomas du Clevierより PierreTryocan

に宛てられた書簡体の序文がつけられ,この書がラテン語からの翻訳であ ることが述べられている。

第一の対話は,神々の使者メルクリウス Mercure が天帝ユピテル

Jupiterの命を受けて,未来の予言を記した「運命の書」を新たに製本し

直すべくアテネの町(=リヨン)に降りて来る情景から始まる。メルクリ ウスが居酒屋に入ると,そこで二人の泥棒に本をすり替えられる。

第二の対話で,メルクリウスは円戯場に立ち寄る。その砂場では,かつ て彼自身が粉々に砕いて撒き散らしたといわれる賢者の石pierre p恒lo−

SOphaleの破片を血眼になって探しまわり,互いにいさかい合っている哲

学者達の婆がみられる。

第三の対話に出て来るメルクリウスは,ユピテルの本が盗まれたことを 知り,途方にくれている。そこへクピドCupidoがやって来て「運命の 書」が人間達によって悪用されていると告げる。クピドはいたずら半分に 心の冷たい乙女に突然激しい恋心を燃え立たせる。メルクリウスも気ばら しに呪文を唱えて通りかかった馬に口をきかせてみる。すると属は人間の 残虐さを告発し始める。

第四の対話にはもはやメルクリウスは出て来ない。登場するのは人語を 解し話す隠れた能力を持つ二匹の犬,ヒエラクl、−ルHylactorとパン ファグスPamphagusで,前者が思い切って人前で自分の秘密をしゃべ ってしまいたいというのに対し,後者はそんを無益を試みをなんとか思い 止まらせようと努力する。

80

以上の筋書は一見たわいもないものである。せいぜい読み取られるの は,神々あるいは動物遠の日を通して眺められた,すべて軽卒で騒々しい 人間世界の諷刺といったところであろう。

だがこの書は刊行後ただちに禁書となり,わずかに焼失をまぬがれた

3

部が王室図書館その他の蔵書の奥深くしまいこまれたまま,悪書としての 風評のみが高まるばかりであった。したがって

18

世紀初頭あらたにこの 本が翻刻されたとき,ヴォルテール

Voltaire

をはじめとする当時の読書 人達は,期待していた過激思想をそこに読み取ることができず,当惑した ものであった。しかし19世紀に入ってある好事家14)が序文に出て来る2 人の人名Thomas du Clevier,Pierre Tryocanのアナグラムを,それ

ぞれThomasincr

dule(不信心者トマ),Pierre croyant(信者ピエー

ル)と解いてみせ,またシャルル・ノディエCharles Nodier15)が熱烈な デ・ペリエ礼讃諭を発表して以来,この作品は新たに人々の注目をびきは じめ,『キュンパルム・ムンディ』の謎解きが流行したのであった。こ うした動きの頂点に立つのが詳しい注釈のついた『キュンパルム』の新 版を出したフランク F.Frankで,彼はこの書の一言半句にいたるまで アリエージョンを探し求め,結局作者はメルクリウスの婆のもとに神の子 牛リストを嘲弄するもので,「『キュンパルム』は反福音書である」(《Le

q∽∂αJ〟椚eSt un Cbね〜Ⅳ一助α喝言Jg》16))と断じた。

20世紀に入ってからも,ルフラン,ビュッソンなどは大体この線にそっ

てデ・ペリエを無神論者ないしは自由思想の先駆者とみなした。またフ ェーグルは,あまりにも時代に先行Lすぎるデ・ペリエのキリスト教否定 の思想を解き明す鍵として,2世紀のローマの哲学者ケルススCelsusの キリスト教批判の書『真の言葉。瓜∫m肌=椚迂〟融Ⅳん∫d両鯨∽∫の影響 を指摘した。17)

これに対しベッカーやドラリュエル達は,デ・ペリエの批判はキリスト 教の教義にまで及ぶものではをく,邪心なく『キュンパルム』を読み返せ ば,そこには当時の世相の諷刺しか読み取られない筈であると反論した。

ところが,第二次世界大戦後,ソーニエが『キュンパルム・ムンディ』

には無神論どころか,真の福音主義思想がみられるという新説を発表した ため,18)デ・ペリエの思想研究は急に方向を転換することになった。ソー ニエは晩年のラブレーヤマルグリット・ド・ナヴアールにみられる非宣教 的なびそゃかな福音主義を指してエジュキスム h占suchisme と名づけた が,デ・ペリエがこの『キュンパルム』で説く立場もまたこのエジュキス

81

(5)

ムにほかならず,この作品の中で諷刺されているメルクリウスは,実は無 益な弁舌の代表者夜のだというのである。

1958

年にこの作品の新ら

L

レ一校 訂版

19

)を出したナース 

P

H

Nurse

はこのソーニエ説に全面的に賛成し ているし,最近考えられる限りの資料を駆使して詳細をきわめるデ・ペリ エ研究を著したソッツイ 

L

Sozzi20

)も,ソーニエ説に軍配を上げてい て,目下のところ学界はこのソーニエ説に支配されている観がある。

21

)し かしこの説に対する批判も見られないわけではない。ビュッソンは,その 主著の1957年の再版でこの新説を一笑に付しているし,22)ナイトハルト

D.Neidhart もソーニエ説に完全に加担するものではなさそうである。23)

とにかくこのようにいまだその評価が一定Lないためか,あるいはいわ ゆる世の良識にとってその内容があまりにもうさん臭く思われるせいか,

このつつましく謎を秘めた作品は,これまでその解釈をめぐって研究者達 の莫大なエネルギーが費ゃされたにもかかわらず,今日なお文学史上落ち つかない日蔭の位置しか与えられていないように思われるのである。

さて,問題は『キュンパルム・ムンディ』における作者と作品の関係で あった。

作品自体が諷刺的対話という真意のつかみにくいジャンルを選び,ラテ ン語からの翻訳という虚構を用い,アナグラムをふんだんに使う,という ふうにさまざまな手段を用いて白からを萄晦し,読者に多様な解釈を許そ うとするかに見えるこの『キュンパルム』のようを場合,それでもなおそ の中に盛りこまれているのがある一つの意図,ある特定の主張であると考 えられるとすれば,それを解明するための手がかりを,作品そのものの内 部にばかりでなく,そうした意図なり主張なりを自己の思想の一部として 胸に抱いていた作者自身の生き方や,彼の残した他の作品の中にも見出そ うと試みることは,ある意味では当然のことといえるであろう。

デ・ペリエの思想を考える場合,特に彼が秘書valet de chambre と して仕えたマルグリット・ド・ナヴアールとの関係が重要な意味を持って 来る。フランソア1世の王姉として直接国政に関与したほか,フランス・

ルネサンス期最大の文芸の庇護者として,頑迷な旧体制側から迫暮された 多くの思想家や文学者に暖かい救いの手をさしのべたこの穂高い女性は,

白からも『ェブタメロン』や数々の詩篇を書き残し,それらの中で始終か わることなく福音主義的な熱烈なキリスト教信仰を告白し続けた。したが

82

って,もしデ・ペリエが,ソーニエ達の説くように最後まで福音主義の立 場を棄てなかったとすれば,この二人の主従の間には,終始親密な関係が 保たれたことであろう。だが,もし『キュンパルム』に秘められているの が,キリスト教の教義に対する根本的な疑いであったとすれば,マルグリ ット・ド・ナヴアールも最後までデ・ペリエの面倒を見つづけることはで きなかったかも知れない。寛大な心を持ち,さまざまを立場の人間の世話 をした彼女とても,すべての人間を庇護したわけではなかった。完全にキ リスト教の信仰を棄ててしまった者に対しては,彼女が最後には厳しい態 度で接したことは,シャルル・ド・サント・マルト Charles de Sainte−

Marthe(1512−1555)の行なった女王の追悼演説の次の一節からもうか

がい知れよう。

《Elle avoit entretenu et support占de son bien,SOn ayde,Sa

hveur

Sa graCe

plusieurs personnages quleStOient suspectzles

unsd avoirviol占nostrereligion,1esautresdel avoirmesprlSee‥.

● ′

Mais ceuls quln,estoient de Dieu‥・Ceuls de quila doctrine

estoit doctrineinspir e des D占mons,une doctrineimple,SaCri−

1egue‥・apreS queleur avoit monstr占1eur fゝulte)apr主s que trとs humainementles avoit voulu remettre au chemin de verit占,

S ils ne vouloient se recognoistre et amender,.‥incontinentles

deschassoit de samaison,de sa fゝmille)et de sa compagnle・》24)

ところで先にも見てきたように,デ・ペリエの生涯を少しでも詳しく知 るためにわれわれに残された最後の資料は,彼が自己について語っている 詩篇である。

1544

年の遺稿集に日を通すと,苦境を女主人に向って訴える といったおもむきの詩がいくつも見つかる。

これらの詩を手がかりにして

19

世紀末にはじめてまとまったデ・ペリ エの伝記を書いたシュヌゲィエール

A

Chenevi

re

は,たとえば次のよ うな詩句に注目して,『キュンパルム・ムンディ』刊行直後にデ・ペリエ がナヴアール女王の不興を買った時期があったと推定した。

25

Princesse pure autant que colombelle

Je me conf

sse estre envers toy rebelle

83

(6)

Je te fii5tOrt,que ne te rendzle tien.瓢)

(鳩の如くに純潔な女王様

貴女に対し反逆を行なったことを認めます。

貴女のもの(であるこの私)をお返ししないのは間違いです。)

Tu as trouv占un enquesteur de mesme Pour t)enqu占rir de moy,tOn malfaicteur・27)

(ともかく貴女はお見つけになりました,

この悪人の私めを取り調べる調査官を。)

しかしこのシュヌヴィエールの着目は,さらに綿密を手続きをふまえ,

一つ一つの詩をあらゆる角度から検討し,それらにできるだけ正確な位置 づけを与えながらデ・ペリエの生涯を跡づけようと試みたベッカーの精致 な研究によって簡単に否定されてしまった。ベッカーによれば,これらの 詩はいずれも,デ・ペリエがナヴアール女王から将来の秘書採用をほのめ かされながらアルバイトの仕事を与えられていた1536年の前半に,早く 正式採用になりたくて何とか彼女に取り入ろうと色々な手管を弄しながら 書いたものであり,わざと用いられた「反逆者」rebelle,「悪人」ma旭ic−

teur という穏かならぬ語句も,「調査官」enqueteur にひっかけて,あ

たかも自分で罪人であるかのようにみせかけるためのものである。その罪 状というのは,別な詩の中で,《Le malf瓦icteur quiles rimes mal

払ict‥.》 と説明されるように,詩才の不足のことにほかならず,彼はそ れをへり下って弁明しているに過ぎをいのである。28)ベッカーはシュヌダ イエールが犯した同じような誤りをいくつか指摘した後で,これらすべて の詩は,デ・ペリエの秘書正式採用への努力を示すものでしかなく,それ らを彼の生涯の彼の情況との関わりに置いて考えようとする試みは,テキ ストの単語の意味を一つ一つ正確に把握しながら読んで行く場合,みな失 敗に終るはずだ,ときめつけている。

In allen diesen Gedichten est als von seiner Verwendung als Bemilhugen um eine re酢1rechte erfblgreichen Au喝ang Seiner

84

von nichts anderem die Rede Abschreiber und von seinen Anstellung undschliesslichvom

Bewerbung;‥・Kein einzlgeS

Gedicht weist aur eine andere Situation;unS jede Ausdeutung aursp鋸ere Erhhrungen)die man versucht h叫伝11t haltlosin sich zusafnmen

SObald man den Wortsinn des Textes scharr zu erfゝssen sucht.29)

したがってベッカーは,もちろん『キュンパルム』出版後にデ・ペリエ とナヴアール女王の間にいかなる摩擦も生じなかったと考えるのである。

このベッカーのシュヌゲィエール批判は,今日なにびとも否定し得ない 説得力を持つものと認められている。

Onignore tout de cette pr tendue brouille passag主re dela reine et de son secr占taire:P.A.Becker a d molice roman,en

COnteStantla date attribu占e pourl,誼i鮎r)par Cheneviとre)え Certaines poさsies de Des P占riers・30)

Becker)apreS aVOir d封ruit avec de tr主s bons argument51a thとse de Cheneviとre sur une pr封endue dぬveur de Des P riers auprとs dela reine‥・31)

ベッカーによれば,デ・ペリエとナヴアール女王との関係は,およそ次 のようにをる。32)1535年から1536年初頭にかけてドレの仕事を手伝った デ・ペリエは,ある女主人に仕えていたが(¢・出・Lacour,Ⅰ・142),

1536年1月よりリヨンに滞在していたマルグリット・ド・ナヴアールに,

友人のアントワーヌ・デュ・ムーランを介していくつかの宗教詩を捧げる

(id.156)。また2月から4月ごろにかけてのある祭日に,彼女の姿を教 会で初めて遠くからみかける(id・130,147)。彼の詩才は女王に認めら れ,まだ直接女王と会見する前から,彼女の詩を浄書する仕事を仰せつか る(id・141,172)。この最初の試みの成功に勢を得て,彼は次々と宗教 的内容の詩を書いて女王に献呈する(id・146)。彼の願いは彼女の秘書に 採用されることであるが,彼女は心よくそれを承諾する(id・166)。だが すぐというわけには行かず,びとまづ秘書候補者として登録されることに なる。デ・ペリエはかくして将来の生活が保障され,大いに満足する。だ が与えられる仕事が多すぎて,自分の詩は書けなくなる(id・148)。さて 次の段階として,正式の任命を請願しに,女王の前に出頑する必要があっ

85

(7)

たが,生来の内気のためなかなかそれができない(

id

139

)。しかしとも かく思い切って女王の前に姿を現して自分の願望をのべる(

id

150

)。こ のころ彼は一つ早まったことをした。任命も間近だと判断して,これまで 仕えてきた女主人の家を出てしまったのである(

id

141

142

)。だが正式 の採用通知はなかなか来在い。デ・ペリエは目的達成のため,あらゆる技 巧を用いて,女王に讃美と嘆願の言葉を書き送る(

id

152

154

156

157

158

)。結局

1536

年夏にはマルグリット・ド・ナヴアールの秘書に任 ぜられるが,定員外のポストで,正式の職員名薄にはまだ名前はのせられ ない。

1536

8

月に起った玉大子の毒殺事件に際し,彼は宮廷人として 哀悼の帝を書く(

id

107sq

.)。

1537

年春の職員名薄の書き変えの際に,

デ・ペリエは正式に名簿を記入してくれと嘆願する(id・153)。だがその 結果については何も分らない。

1537

6

月にはナヴアール女王とともにサ ン・クルーに滞在している。この年の夏から秋にかけて,彼はフォンテー ヌブローにいて,悪疫にかかる(id.73,149,154,155)。このころから デ・ペリエの足跡はたどりにくくなる。『キュンパルム・ムンディ』裁判 事件のころは,ピレネー山中のナヴアール女王の宮廷にかくまわれていた らしい。1539年5月には,女王と共にリヨンに来ている(id・54)。だが,

その後のデ・ペリエの足どりは全くつかめなくをる。ただ彼が女王の不興 を買い,女王のもとを離れた時期があるという説を証拠だてるものは何一 つみあたらない。

33

1541

年に彼がまだ女王に仕えていたことはジャン・フ ロテの記録から明らかである。デ・ペリエの死も病気が原因であって,

『キュンパルム』事件ヤマルグリットととの不仲とは全然関係がないはず である。

34

ベッカーはこのように僅かの資料をもとに綿密を再構成を行をってみせ た。このベッカーの研究以後は,これを越えるデ・ペリエの伝記研究は不 可能とみなされ,ソッツイですらも,こと伝記に関する限り,ベッカー説 に若干の留保とわずかな修正を加えるに止めている。

だが,われわれはこのベッカー説に全幅の信頼を置くことができるであ ろうか?ベッカーはデ・ペリエの書き残した一つ一つの詩篇の年代決定を できるだけ精密に行をったが,それでも次のよう夜批判を免れることはで きをかった。

Toute datation trop pr cise de ces textes rlSque Cependant

d,etre arbitraire‥C,estpourcelaquelareconstructionminutieuse

86

de toutecette p

riode

,ぬ

blie par Becker

nOuS parait parbis

inacceptable.35)

Le travailde M・Beckeresttrとssolgn

…Maisilnef瓦utpas

Oublier… queles vers de Des P riers sont susceptibles de Classements chronologiques divers et non concordants・36)

仮説はあくまで仮説であり,デ・ペリエの詩はどのような仮説をも許す かに見えるのである。

Auvral)tOuteSlespユeCe5deBonave−1turequ,0∫1alほguepeuve】−t

■ヽ

etre cousuesles unes au autres de bien des maniとres di丘這rentes.

′ ●

Et ce que nous savons de sar et de precIS Se r duit え bien peu・37)

それならば,われわれはデ・ペリエの生涯に関して,いくらかでも確実 な手がかりを得ることを永久に諦めなければをらないのであろうか?

ⅠⅤ

諦める前にもう一度われわれ自身の目でデ・ペリエの詩集を読み直して みよう。

1544年の作品集の巻頭には,刊行者デュ・ムーランよりマルグリット・

ド・ナヴアールに宛てられた長い序文がつけられている。そこに善かれて いるのは,デ・ペリエが死ぬ前に自分の作品を女王に献じたいと何度も口 にし,またこの希望がかなえられること確信して疑わなかったこと,その ため彼が自作の整理をしていた最中に死に襲われたこと,38〉デュ・ムーラ ンが友人の才能を惜しんで,その遺志をかなえてやるべく涙ながらに努力 したこと,デ・ペリエの作品も女王の庇護のもとに置かれたならば世の危 険ヤ中傷から安全に守られるであろうこと,そしてこの作品集に収められ たのはデ・ペリエの書き残したものの一部にすぎず,他の作品がマルグリ ット自身の手許や,モンペリエのある知人のところに保管されているはず で,できればデュ・ムーランはそれらをも公刊したいことなどである。39)

作品集における詩の配列は一応ジャンル別になっているように思われ る。現行のテクール版デ・ペリエ作品集第1巻では,最初のプラトンの

87

(8)

『リュシス』の翻訳に続いて,

pp

46

146

が何らかの主題にもとずいて,

あるまとまった内容を歌いこんだ,バラードや書簡詩占

pitres

を含む長詩 群,

pp

147

161

,が生涯の折にふれて書かれたと思われるエピグラム集,

pp

162

165

は二人の女性との間に交された応答歌,

pp

166

169

5

篇のロンドー,そして最後には謝肉祭の光景を

5

5

10

音綴という特

異な韻律にのせて措いた長詩

Cb

柁∫椚β−

Prg

〝α″≠がナヴアール女王に捧げら れて巻を閉じている。

デ・ペリエの伝記と関連づけてわれわれがここで考察の対象としたいの は,主と

L

てこの中のエピグラム群である。その

31

篇の表題を眺めてみ よう。

pages

d

Lacour

Epigrammes…DelaroynedeNavarre‥‥…・ ‥‥‥…147

dJ

α成

c

お(ね∽β ‥       ‥.

147

dβ〟gβ乃Cβrβ∫‥‥‥.…       ..148

De soy mesme et de son maistre Ant・Du Moulin‥‥‥148 AJean de Tournes ‥‥‥‥‥・・・         ‥‥・・・149

A M.1e vicomte du Perche‖‥…‥.        ‥‥‥149

Ala royne de Navarre ‥‥…      ‥‥150

dJαdざc′β(ねmβ.‥       ‥‥150

A maistre NoelAlibert       …151

A madamela seneschale de Poitou.…‥…      ‥151

Ala royne de Navarre ‥      ‥152

dん適加=血糊      ….152

A M・1e chancelier d Alen90n=・・        ‥153

Ala royne de Navarre ‥・       ‥153

AJαゐねゐmβ.       ‥154

Du Goust du vin retrouv …      ‥‥154

Del Appetit recouvert‥‥      ‥…155

A madame Marguerite・‥‥      ‥155

Ala royne de Navarre ‥・・       =156

A Blaise Vollet de Dye‥…      ‥‥…156

Ala royne de Navarre ‥‥‥・・・‥‥       ‥‥…157

A mademoyselle de Sainりねter ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥…‥‥…・157 88

Ala royne de Navarre・・       ‥157

dJdd〜√Jβ(ね∽g.      ‥158

dβJgββ柁COγβ∫ …      ‥158

D une Mule qu on menoit vendre…       ‥159

Sur un ouvrage de mouches a miel・      ‥159

De ZetSasesdisciples‥      ‥160

Surl eglogue fゝicte par Cl・Le Maistre ‥     ‥160

A Ant.Du Moulin ‥       ‥160

De40)1a royne de Navarre…‥      ‥161

まずわれわれの注意をひくのは,ここでひんぱんにくり返される,a

ladicte dame,a elle encore という語句である。なぜナヴアール女王に

捧げられたエピグラムが,2,3篇ずつちらばって配列されているのであろ うか?デ・ペリエが死ぬ間際まで作品を整理していたとすれば,をぜ同じ 女王にあてたこれらの詩を一カ所にまとめなかったのであろうか?考えら れる解答は一つであろう。これらのエピグラムの配列は時間的な順を追っ ているのかも知れないということである。われわれはこの仮定の上にたっ て,これらのエピグラムを配列順に読み下し,彼の伝記の解明に何らかの 手がかりを与えてくれそうなものを拾い出してみよう。その場合,時に応 じて,エピグラム以外の詩も参照にし,考え合わせて行くことにしよう。

エピグラム群の最初に置かれているのは,《ナヴアール女王について》

ββJαγ竹花β滋〟b〃αrγβと題され,リヨンの市民に向って語りかける詩で ある。

Tu es trompe)O peuplelyonnois!

(147)

(間違っているのだ,リヨンの人々よ!)

彼らにはマルグリットの本当の姿が見抜けなかったのである。それは デ・ペリエが初めて彼女の婆を教会で見かけた際のことをいっているの に違いない。

Orl

ayJeVeu Chemineren publique

89

(9)

Ce monstre−1え,Princesse,que tu S9alS,

qu est fさminin,Virilet angelique.‥

De honte et crainte en ay eu telaccとs,

Incontinent que de mes yeuxl,ay veu・‥

Maisj ay aussiBonEspoir ce bonhomme・

(147,dJαゐgβゐ∽β・)

(女王様,御存知の通り女性でありながら,力強く,また天使のよう な驚くべき方が,公衆の面前をお通りに怒るのを私は日にしたので す‥‥‥その方のお姿を私の目がとらえるやいなや,私は激しい恥と恐れ を感じたのでした‥‥‥しかし私には希望という良きうしろだてもついて います。)

長詩《Prognostication des Prognostications》につけられた序詩も,

この時の情景を描いていると思われる。

Dea,maintenantte c〔唱nOistray,Princesse,

Sans demander aux autreslaquelle est ce,

Carje t ay veue au milieu del eglise,.‥

Mais,enl instant de celle veue heureuse,

Je RIZ attainct de hontelangoureuse,‥.

Et cependant ce passe temps sera A toy de veoir ce nouveau prognostlque,

qu ay calcul¢,Selon mon sens rustique,

Et f瓦ict o飴ir par nostre maistre Antoine・

(130)

(ええ,もう人にたずね夜くても貴女が分ります。教会でお姿を拝見 したからです・…‥このすばらしいお姿を目にしたとたん,私はみじめな 恥かしさに襲われました…・・tでもどうか私の案じ出したこの新らしい占 を御覧になってお気晴しをなさって下さい。アントワーヌ殿を通して献 上させていただきます。)

つまり,デ・ペリエはリヨンに到着した女王の婆を見かけると,すぐ彼 女に自分の才能を認めてもらうべく,詩を送ったのであった。

次の詩では,生活が忙がしすぎて詩が思うように書けないことを女王

90

に訴えている。

Ma povre Muse,6noble dame!c土10mme,

Et sine tient qu,え払ulte deloyslr:

Las!elle voit en telestat son homme

qu on n en pourroit pas un pire choysir…

Ce qu elle escrit,C est a・1a desrob e,

Car,Oilj ay prou besongn占toutlejour,

Tant quejen ayla mainlasse et courbde,

IIsemble encor quej aye fゝict s句our・

(148,d g抽β柁√βγ肌)

ミューズ

(女王様,私の詩神は休職中です。ただただ暇がないせいです。ああ,

今のこの私は考えられる限り最悪の状態にいます‥・‥・物を書くとしまし ても,こっそりとです。一日中あまりにも仕事が多すぎて,手は疲れは て指は曲り,かえってのらくら遊んでいたように見えるほどだから夜の です。)

マルグリットはこの青年に注目したのであろう。デ・ペリエの恩師でも あり,彼女とも親しかったオークンのサン・マルタン修道院長,ロベール

・エローRobert Hurault41)に色々と彼のことを問い合せたらしい。

Tu as trouv¢un enquesteur de mesme

Pour t enquerir de moy,tOn malfaicteur,

quimecongnoist mieulx que ne fais moy m8me,

quiha estd et est mon precepteur・‥

C,est monselgneur mOnSieur de Sainct Martin・‥

150

d

r

∂ダ〃β滋此ひα

rr

β・)

(ともかく貴女はお見つけになりました,この忠人の私めを取り調べ る調査官を。それは私よりもよく私を知っておられる方,昔も今も私の 恩師であられる方です‥‥‥。それはサン・マルタンの現下殿です。)

この「悪人」

malf

icteur

 が,次の詩で示される通り「へぼ詩人」の 別称でしか覆いことは,ベッカーの指摘したところである。

Ha!1e voICy,Madame〉1e voICy〉

91

(10)

Le maぬicteur quiles rimes malfaict‥

C estluyquiha baill占ce dizain cy,

Lequelpeult etre e5t enCOreimparfaict・

Or)qu,ilsoit donc detenu pourle fゝict Et chasti占de son outrecuydance・

Remonstrezluisa f乙ulte etimpudence,

Et,S ilvous plait,qu ilsoit en telle sorte

Mis pr150nnier,pOurfaireresidence,

Enlieu siseur queJamaisilnen sorte・

(150,dJ 紋加

k職.)

(ほら御覧下さい,韻を合わせるのが下手をこの悪人(=へぼ詩人)

を。またまたどうも出来の悪い10行詩を献上いたしております。〔♪っ とらえてその自惚れを罰してやって下さい。その厚顔な過ちを叱りつけ て下さい。そしてできますことなら,しっかりと牢屋につなぎとめて,

そこから出られないようにして下さい。)

もちろん,ここでいう牢屋につながれることとは,女王の従者として正 式に雇われることを暗に指すのである。いかにもマロの弟子らしい機智に 富んだ請願である。

女王の側近,ポアトゥー奉行夫人ルイーズ・ド・ゲイヴォンヌにあてた 詩(151)では,「待つこと久しく」く(longue estl

attente〉〉と,マルグリ

ットから良い返事がなかなか得られない苦しみを語っている。

彼はまた直接女王に対しても,待つことの不安を訴えかける。

MadamらVOStre prlSOnnierタ

Ilfaict encor

dela grue

Luy voulez−VOuS prlSOn nyer?

Carilva et court parla rue‥・

(152,dJαr竹花β滋肋〃αγrβ.)

(女王様,貴女の囚人はまだ待ちぼうけを食わされています。牢屋を 彼に拒もうとをさるのですか?彼は町なかを走りまわっているのです

が‥…・)

次の詩はこの「町を走る」というイメージを発展させたものである。

92

Sile prevost des mareschaulx venolt,

Veu queJe Suis maintenant sans rienfaire‥.

Iln est pas seur quen eusse del a肋ire.

Ilme prendroit comme un de ces noyseux】…

Rt me mettroit captiravecques eulx,

Sans regarder queJe SuisJale vostre・

(152,dJαゐfg血mβ.)

(もしお巡りさんがやって釆ましたら,今ぶらぶらしておりますこの 私は,どんな厄介な日に会わないともかぎりません。きっと私をああし たならず者の仲間と考え,奴らと共にひっ捕えて牢にぶちこむことで しよう。私がすでに貴女のものでありますことも知らずに。)

このあたりで,デ・ペリエはしきりに自分が「女王のもの」であること を強調している。ここで考え合わせてみたいのは,長詩のグループに収め られているβαJJα滋ゐJαrβダ〃g滋〟bひαrrg(139),とそれにすぐ続く2っ の詩,d・ね成正g db梢(140),dβJJββ〃COγβ∫(141)である。このデ・ペ リエが書き残した唯一のバラードの,可etefaittort,quene terendz

le tien.》 というルフランは,さきに見たようにシュヌゲィエールに『キ

ュンパルム』出版後の女王の不興を想定させたものであったが,次のよう な詩句をみると,デ・ペリエが女王に「彼女のもの」として仕えようとし きりに画策していた頃のものと考えるベッカー説に軍配が上がる。

Puisque suis seur de sa bさnignit占‥・

Devrois」e paS aller en sa maison,

Me presenter丘・anChement devant elle?

Est−Ce bien f乙ictluifaire fburbe telle,

Veu queJe Suis a elle)nOn paS mien?‥・

Mais quandje penseえ1a capacite Du mien esprit,dont n,en ay pas fbison;

Passer ne puislapremiとre cloison…

(139)

(あの方のお恵みの深さを確信しております以上,すなおにあの方の ところへ顔を見せに参上した方がよろしいのではないでしようか?この 私は私のものではなく,あの方のものであります以上,いつまでもぐず

93

(11)

ぐずしているのは,はたして良いことなのでしようか?‥‥‥しかし私の 貧弱な精神の能力のことを考えますと,とても最初の敷居をまたぐ気に はなれません。)

このバラードでは自分の才能に対しおそろしく卑下しているデ・ペリエ は,次の詩では逆に,自分を雇って下さるなら,どんなことでもやりのけ てみせますと大押韻派風の技巧をふまえて大言壮語する。

Situme veulx donc pour toy retenir

Je te diray qu ilen peult advenir‥

Servir pourray d un bienfianc aumosmier,

Carje ne sGay pOlntl aumosne nyer;

Ou situ veulx que sois ton secretaire

Je s与aurOis bienle poinct du secret taire‥・

(140)

(私を臣下にして下さいましたら,さていかをることになりますかお 聞き下さい。大司祭長の役でもつとめます,施物を拒むことは苦手です から。私を秘書にとお望みなら,秘密は決してもらしますまい。)

デ・ペリエの作品集でこの次に置かれているのは,一見散文体で書かれ ているようであるが,読んでみるときちんと韻をふんだ10音綴の詩句で できていることが判明するという,ひとひねりした詩である。この中で,

デ・ペリエはかなり具体的に自分がおかれている情況を物語っている。ま ず女王に対しtutoyerすることの弁解から話が始まる。

Sije vous disicy ou吻Ou ffβ〝乃g,ne VOuS SOis grier;Car libert占chr占tienne se en dispense,et Dieu accepte aussl,quand

Onl invoque et onl appelle ainsi.

(141)

(貴女様に対し,tOy とかtienne とかの言葉をここで私が用いまし ても,お怒りに覆らないで下さい。キリスト者の自由がそれを許すので すし,神様すらも,この呼称をお受けになられるのです。)

ところで女王はデ・ペリエに会う前から,彼を従者としてやとい,仕事

94

をさせる約束をしてきた。(《‥・1equulpour tien,ains quejamaisle

Visses)aS retenu pOur faire aucuns services qulte SerO叫aydant

Dieu,agr ables・》)ところが女王が彼のことを悪く思っているという噂

が流れている。恐らく彼がもとの主人の家を一週間前に出てしまったこと に関して誤解があるのであろう。デ・ペリエとしては今さらもとへは戻れ ず,恩師のロベール・ユローのところで女王の正式の出頭命令が下り,彼 の名が職員名薄に記入される日を首を長くして待っている。彼のこの今の 有様を見たら人は何というであろう。

quedirontceulxlesquelz,premierquemoy‥∵OntVeuet

SCeu enVerS mOiton vouloir,dont ne me pulS repentir ne

douloir,quim ont nommd少∫∫β∫∫f〃花r呼αJg?IIz cuyderont que

ねulted占loyalesesoittrouv占eenmoy;Cequen,estpas,etDieu

me doint plustotle mien trespas!

(142)

(私よりも以前に,私に対する貴女の御意向−その御意向は私によ って嘆かわしいものでもつらいものでもある筈はございませんが−

を知っておられた方々,私をすでに「女王様のもの」と名づけて下さっ たあの方々は何といわれることでしよう?きっとこの私に許しがたい落 度があったと思われることでしよう。そんなことはございません。そん なことになる位なら,死んだ方がまだましです。)

彼はかたすら女王の寛大な心にすがりつこうとする。だが最後に,女王 に職を拒まれたとしても,ほかに彼を雇いたいといっている人間がいるこ とをほのめかすのを忘れてはいない。

ここで考察した

3

篇の比較的長い詩は,目前にぶら下りながらまだまだ 手のとどかない女王の秘書の職に何とかありつこうとして,デ・ペリエが あらん限りの技巧を駆使して書き上げた,なかなか気迫に満ちたものであ るが,「女王のもの」という語句がくり返され,またデ・ペリエが一時住 居も仕事も失って町をほっつき歩いていたことを思わせる記述があるとこ ろから,エピグラムの配列の中の,先にみたテクール版

152

ページあたり の詩と同じ時期に作られたものと推定される。

そうこうするうちにデ・ペリエは女王に実際に会い,話はしだいに具体 化したのであろう。正式に就任する日も近づいてきて,デ・ペリエは女王

95

(12)

の書記官に次のようにたのみこむ。

Prudent chancelier de renom,

Avant que fiirela closture

Del estat,n oubliezle nom

TantJOyeuX de Bonaventure・

(153d〟.Jg√ゐα〃√βJfβr d

dJg〃√㈹・)

(高名で慎重な書記官様,職員名薄の作成の筆を置かれます前に,ど うかお忘れにをらないで下さい,あの心楽しいボナヴアンチエールの名 前を。)

だが,デ・ペリエの気がかりの種はむしろ女王の意向に関して存在して いたのかも知れをい。

que s ilest en vostre escriture,

Et quela Royne vousl e肋ce,

Je nesぢay paS plus quej en払ce‥.(id・)

(もしあなたがお書きになっても,女王がそれを消しておしまいにな れば,私はもうどうして良いのか分らなくなります。)

彼が,戦陣におもむこうとするナヴアール王に,女王への推挙をたのむ 書簡詩を書いたのもこの頃のことであろうか?

Heureux d part vous prlerOisえmon tour,

Et,davantage,un plus qu heureux retour‥・

Ce nゐntmoins quej aye bien a丹誠re,

Veu mon estat et povre qualit占〉

De quelque grace etlib占ralit占・

Or,je ne s甲・y pOlntl art de demander;

Mais,S ilvous pla壬t de me recommander

Tant seulementえma bonne maistresse,

Ce ne sera pas petitelargesse・

(143,血r呼ゐ〟bぴαrrβ)

(私からも幸多い御出発と,さらに幸多い御帰還をお祈り申し上げま

96

す……しかしながら,私の今の状態と貧しい身分からして,いくらかの 御好情におすがり申し上げをければなりません。私は請願の手管は心得 ておらない着ですが,もし私の善良な女主人様に私めのことをよろしく 御推挙下さいましたら,かたじけないかぎりでございます。)

この詩はエピグラムでは覆いので,詩の配列からは制作の時期が推定で きないが,1536年は,フランソア1世とその宿敵,神聖ローマ皇帝カルル

5世との仲が特に険悪になった年で,6月頃から,ピレネー地方でも両軍

の間に小ぜり合いが起っている。とすればこの詩が書かれたのは,ナヴ アール王がスペインと境を接する自分の領土を守るべく,一時フランス 宮廷を離れようとした時であると考えることもできよう。42)また,デ・

ペリエが 《

Veu mOn eStat et pOVrequalit

占》 という言葉を使っている のは,彼がまだ正式に女王の従者に採用されてないことを示すものであろ う。しかし彼はその日の近いことを確信して,女王のことを《ma bonne

maistresse》 といっているのであろうか?

この自分の夫君に対するデ・ペリエの請願に,ナヴアール女王はかえっ て気を悪くしたものらしい。次の女王への書簡詩(

143

dJ

α 

r

呼〃β 滋 肋びα

r

γβ)でデ・ペリエはこの件に閲し色々と苦しい弁解をしている。だ が彼がこの詩の中で最後に女王に切威するのは,金銭的を安定であった。

その女王からいよいよ給金の額についての問い合せがあった。

que me mettiez ainsiau choiz de dire CombienJe Veulx avoir de vous de gage,

Je doubte fbrt sij y dois contredire

Ou accorder,VOire et en quellangage‥・

(153,dJαγ竹花β滋肋〃drrβ・)

(貴女様からどの位お給金をいただきたいか申してみよとのお言葉で すが,どうお答したら良いものか本当に因ってしまいます。)

多くいいすぎても,少しいいすぎても失礼に当るというわけである。

ともかく,彼はついに正式にナヴアール女王の秘書に採用され,宮廷 で暮すことになった。その喜びを彼は軽妙なロンドー 

dJ

α γ呼〃β 滋 肋〃α

rr

βで次のように表現する。

97

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