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19 世紀テヘランのマドラサとワクフ

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19 世紀テヘランのマドラサとワクフ

近 藤 信 彰

Madrasa and Waqf in Tehran during the Nineteenth Century

Kondo, Nobuaki

Madrasas, the traditional institutions of higher education in Muslim regions, were active in Iran during the nineteenth century even when modern west- ern institutions were introduced there. is article investigates the madrasas and waqfs of Tehran during the nineteenth century. Although there are many discussions on the political and social roles of the ulamas in nineteenth cen- tury Iran, such as those related to the Tobacco Protest and the Constitutional Revolution, the educational systems and institutions of Iran through the waqf, including the fi nancial aspects, have not yet been fully examined. is is the fi rst comprehensive study on the madrasas and waqfs in an Iranian city during the Islamic period.

Based on available published and unpublished documents, I first list 43 madrasas that were actually maintained during the nineteenth century.

Most of them were built by Qajar high offi cials, including Mīrzā Moḥammad Ḥoseyn Khān Sepahsālār, and Farrokh Khān Amīn al-Dowle, who had careers as diplomats and were known as “modern reformers.” e ulamas related to each madrasa were identified and grouped into two categories: mojtaheds, who were specialists of Islamic law and jurisprudence, and   āref ff s, who created the Tehran school of Islamic philosophy. I also provide information on the geographical locations and sizes of each madrasa.

In the second section, I introduce waqf related documents of the madra- sas, which vary in their types and contents. In addition, I refer to not only the waqf deeds that were drawn up during the time of building the madrasas but also the additional waqf deeds and lease documents. e donors, waqf proper- ties, waqf administrators, waqf supervisors, waqf incomes, and expenditures are analyzed in the article. The stipulations of the waqfs and the financial structures vary from one to another.

e third part concerns the actual management of the madrasas. I analyze

the waqf stipulations on professors, students, and facilities. Except for Nāṣerī

Madrasa, most madrasas had one professor. The most important subjects

were divided into two categories: science of tradition, such as Islamic law and

jurisprudence, and science of reason, such as philosophy and logic. In normal

Keywords: Madrasa, Waqf, Tehran, Educational System, Legal Documents

キーワード : マドラサ,ワクフ,テヘラン,教育制度,法廷文書

(2)

はじめに

歴史上,イスラームの宗教寄進制度である ワクフ制度がムスリム社会の様々な公共施設 の維持に貢献し,また社会のさまざまなサー ビスを提供してきたことは,広く知られてい る。このワクフ制度が支えた施設の例として,

まず,最初に挙げられるのは伝統的教育機関 であるマドラサである1)。実際に,西アジア・

北アフリカ史では,マドラサを対象とするワ クフに関しては,これまで邦文でも多くの研 究が積み重ねられてきた。あえてこれらの研 究の問題点を指摘するとすれば,とりわけ中

世に関する研究ではワクフ証書の伝世状況に 限界があり,特定の

1

つないし

2

のマドラサ に関する事例研究にならざるを得ないことが 挙げられる。同時代の特定の都市のマドラサ を数多く同時に取り上げ,その全体像に迫る のは,史料的にあるいは作業的に困難であっ たのである2)。やむを得ないことではあるが,

一方で,研究者が恣意的に対象を選んで,そ れを一般化しているという批判も免れえない であろう。これに対して,特定の都市の全体 の研究になると,ワクフ証書以外の史料や現 地調査に基づいたサーベイ的研究にならざる を得ない場合が多い3)

イラン史に関するならば,そもそもマドラ

madrasas, one professor had to teach both sciences. But Nāṣerī Madrasa had two professorships and two assistant professorships: One professor each for teaching the two sciences. e waqf deed shows the types of books that were considered as text books.

It is clear that the urban community needed the ulamas because they presided over shari  a courts as well as guided the religious life of Shi  i believ- ers. e Qajar high offi cials built the madrasas and endowed them with waqf.

Furthermore, the madrasas provided the ulamas with not only their education system, but also their stronghold for political and social activities.

目次 はじめに

Ⅰ.テヘランのマドラサ

1.

マドラサの確定

2.

数の変遷

3.

創設者

4.

ウラマーとの関係

5.

位置

6.

規模

Ⅱ.マドラサのワクフ

1.

ワクフ関係文書のあり方

2.

寄進者

3.

ワクフ財

4.

財人と監督人

5.

収入

6.

支出

Ⅲ.文書にみるマドラサの運営

1.

教授と教授内容

2.

学生

3

附属施設 おわりに

1

) ワクフとマドラサはペルシア語ではそれぞれ,vaqf,

ff madrase

となるが,本稿では他の地域を専 門とする研究者に配慮し,アラビア語風にワクフとマドラサとする。

2

) たとえば,ワクフ証書を利用した岩武

1999;

三浦

2004; 長谷部 2004

などを参照。

3

) 三浦

1995

や谷口

2005

は主に地誌を,ジハーン,アフメト&三沢伸生

2001

はマドラサ登録者名簿 の分析で,同時代の特定の都市のマドラサ像を明らかにしようとしたもの。深見

1999

はマドラサ 建築に関する調査の成果。

(3)

サとそのワクフに関する研究が限られている ことが指摘できる。とりわけ,19世紀のイ ランに関しては,これまで本格的な研究が存 在しなかった。もちろん,近代化との関連で この時期に導入された近代的教育機関に関心 が集中するのは理解できる

( Ekhtiar 1994;

Ringer 2001 )

。しかしながら,そのことは もちろん同時代のオスマン朝の例同様

秋葉

1998 )

,19世紀のイランでマドラサが機能し ていなかったことを意味するものではない。

むしろ,イラン立憲革命やイスラーム革命と の関連から,19世紀イランのウラマーの政 治的・社会的役割が重視されてきたにもかか わらず,ウラマーを養成・再生産する場であ り,彼らの活動の拠点であったマドラサとそ れを支えたワクフに関する研究が十分に存在 しないことは,片手落ちといわざるを得ない。

2006

年に刊行されたリッターの大著は

19

世 紀前半のイランのマドラサ建築について広範 な情報を与えてくれるが,マドラサの運営や 財政については建築の背景として簡単に触れ る程度である

( Ritter 2006: 66 - 76 )

4)。イラ ンにおける研究も,主にマドラサの通史や事 典あるいは建築学的・歴史地理学的研究に留 まっている5)。ワクフ関係の文書を利用した 本格的な研究は未だ行われていないのである。

そこで,本稿では

19

世紀テヘランのマド ラサに関して,可能な限り多くの事例を取り 上げ,公刊・未公刊のワクフ証書等の文書史 料を利用して,これらのマドラサの機能や特

徴,それを支えたワクフ設定の実態を明らか にしたい。これにより,同時代のウラマーの 再生産を支えた環境を明らかにすると同時 に,他の時代,他の地域の事例と比較する材 料を得ることが可能となると考える。

Ⅰ.テヘランのマドラサ

1.

マドラサの確定

本稿で扱うのは寄宿制のイスラーム諸学に かかわるマドラサである。ペルシア語で「マ

ドラセ

Madrase」という言葉は学校一般を

指すため,たとえ,史料中に「マドラセ」と されていてもただちに伝統的マドラサを指 すわけではない。19世紀半ば以降創設され た西洋式の学校6),キリスト教徒のための学 校7),孤児のための学校であることが明らか なもの8)は,「マドラセ」という名称を持っ ていても除外しなければならない。

次に,史料においてペルシア語で「マス ジェド

( masjed )

モスク

と呼ばれてい ても,同時代史料で学生が居住していたこと が明らかなものは,実際にはマドラサである と判断できる。このようなことが起こる理 由は,当時の宗教施設は最近の術語でいう ところのモスク−マドラサ複合体

( masjed- madrase )

9)が主流であり,一つの施設がモ スク

( masjed )

ともマドラサ

( madrase )

と も呼ばれた例が多いからである。

1

は,テヘランの代表的なマドラサの一

4

) この他,Abbās Zaryābによる

Encyclopaedia Iranica

の項目や

Sajjad Rizvi

による思想史研究も マドラサに触れるがワクフ証書を参照したものではない(

Zaryāb 1997; Rizvi 2005: 115

-

116

)。

Hormoz Ebrahimnejad

による医学史研究もごく表題の印象とは異なり,ナーセリー学院のワクフ

にはごく簡単に触れるだけである(

Ebrahimnejad 2009: 65

-

67

)。

5

) たとえば,Solṭānzāde 1364; Kasāī 1377; Mollāzāde 1381; Ḥājjī Qāsemī 1377; Motamadī 1381;

Ḥabībī 1388など。ワクフ証書を利用した研究としては,総論的ではあるが,サファヴィー朝期を 扱った

Aḥmadī 1381

が参考になる。

6

) ドウラト区の

Madrase-e Dār al-Fonūn

1851

年創立)と

Madrase-e Neẓām

1885

年創立)。

7

) アルメニア人学校がサンゲラジュ区に存在した。

8

) ウードラージャーン区の

Madrase-e Eqbāl al-Dowle

1889

年以前創立)とサンゲラジュ区の

Madrase-e Sardār-e Fīrūz Jang

1899

年創立)。前者が孤児用であることは,Maāser 118

r

.後 者に関しては公刊されている

1317/1899

-

1900

年のワクフ証書で明らかとなる(

Fīrūz Jang 124 g

-

126

)。

9

) この概念については,Solṭānzāde 1378; Ritter 2006: 73-

74.

(4)

つマルヴィー学院の平面図であるが,中庭の 廻りに学生の居室が並んでいる一方,図面の 右側にシャベスターンとよばれる夜間用礼拝 室があることがわかる。また,図

2

は同じく 有名なナーセリー学院

現在は,セパフサー ラール学院/モスク,モタッハリー学院/モ スクとして知られる

であるが,やはり中庭 の廻りに学生の居室があり,そのほかにドー ムのある礼拝室とシャベスターンが別に造ら れている10)

これらの施設は,マドラサ

( madrase )

もモスク

( masjed )

とも称される。ナーセ

リー学院を例に取れば,「セパフサーラー ル・ モ ス ク

( Masjed-e Sepahsālār ) (   Abd al-Ghaff ā ff r

」「新 築 の ナ ー セ リ ー・ モ ス ク

( Masjed-e jadīd al-benā-ye Nāṣerī )

Īrān

797: 2 )

「故大セパフサーラールの集会モスク

( Jāme

( -e marḥūm-e Sepahsālār-e Aẓam )

Īrān 717:3

「ナーセリー・マドラサ

( Madrase-e Nāṣerī )

(   Alīshāh 17 )

など様々な名前で呼 ばれている11)。この二つの施設に,実際に人 が礼拝に訪れた記録も存在する。1305年ラ マザーン月/1888年

5 - 6

月の警察の報告に よれば,マルヴィー学院にはラマザーン月

3

日の

300

人を始め,多くの礼拝者が訪れた。

また,同報告によれば,ナーセリー学院には,

同 月

11

日 に は

1500

人,10日 と

22

日 に は

1000

人の礼拝者が訪れたという

( ( ( Na ẓmiyye 719, 726, 727, 739 )

。人々が礼拝を行うモス クとしても機能していたことがわかる。

これに対して,大バーザール内に位置す る ミ ー ル ザ ー・ ム ー サ ー 学 院 は, 多 く の 史 料 が「ミ ー ル ザ ー・ ム ー サ ー・ モ ス ク

( Masjed-e Mīrzā Mūsá )

」 と の み 記 し て い る。しかし,フランス人ロシェシュアール

Rochechouart

が,1867年 刊 行 の 旅 行 記 の 1 マルヴィー学院1階の平面図

出典:Ḥājjī Qāsemī 1377: 137 日本語キャプションは筆者

10

)ちなみにḤājjī Qāsemīが図面を提示する

19

世紀創設の

11

のマドラサすべてに,シャベスターン があり(表

1

9, 12, 16, 66 21, 22, 24, 26, 66 27, 77 28, 33, 39

),そのうち

6

つはドーム礼拝室を持ってい る(同

12, 16, 66 22, 26, 66 27, 77 33

)。深見によればシャベスターンが認められるのはサファヴィー朝期の 現存マドラサ

20

のうち,一つに過ぎない(深見

1999: 271, 285

)。

11

)ただし,ワクフ証書では中世の代表的マドラサであるニザーミーヤ学院(

11

世紀)の故事が引か れており,寄進者の意識としてはマドラサが中心であったと考えられる(((

ā ā erī

ī I b. 53

-

54

)。

(5)

なかで,テヘランの

14

のマドラサの一つと してムーサヴィー学院という名でこれを挙 げている。彼の説明によれば

6

つの居室を 備え,1名の哲学の教授と

10

名の学生を擁 していたという

Rochechouart t 110 )

。また,

1301/1884

年の人口調査書も,この学院を「モ

スク」

( masjed )

としているものの,15名の 男性が居住していたことを明らかにしている

Nofūs 1301

( : 241 )

。したがって,この施設は

マドラサに含めることができるのである。

ちなみに,先述の

1305

年ラマザーン月に 集団礼拝が行われたと報告されているモスク

28

のうち,マドラサと兼用,もしくはこれ を併設していたものは半数の

14

に及ぶ。つ まり,代表的なモスクの半数はマドラサ兼用

もしくはマドラサ併設であったのであり,こ うした例が多いことがこの時期の宗教施設の 特徴の一つである。そして,この特徴を踏ま えて,19世紀のテヘランのマドラサのリス トを作成すると,表

1

のように計

43

のマド ラサを挙げることができる。作成にあたって は,古地図

3

(Березин , Kuržiž, Abd al- Ghaff ār )

,1269/1853年 お よ び

1317/1899 - 1900

年の建造物調査書

Benāhā,   Alīshāh

1303/1886 - 1305/1888の警察報告 ( ( ( Na ẓmiyye

, そして,

1867

年のロシェシュアールの報告と

1301/1884

年の戸別人口調査書

( ( ( Nofūs 1301

を参照した。以下,この表に基づいて分析し ていこう。

2 ナーセリー学院1階の平面図

出典:Ḥājjī Qāsemī 1377: 96 日本語キャプションは筆者

(6)

119世紀テヘランのマドラサ

名称 行政区 建設者 初出年代

1 Ḥakīm Hāshem/Mādar-e Shāh Arg/Dowlat Moḥammad HāshemṬabīb 1102/1691 2 Ḥakīm Moḥammad Saīd Khān/

Ḥājjī Mollā Āqā Reżā Ūdlājān Mollā Āqā Reżā Fīrūz-ābādī? 1117/1705-6以前

3 Mīrzā Bābā Chāl Bāzār Mīrzā Bābā? サファヴィー朝期

4 Moḥammadiyye Bāzār 不明 サファヴィー朝期

5 Chālḥeṣār/Āqā Moḥammd Khāje

/Sayyed Ṣādeq Sangelaj 不明 サファヴィー朝期

6 Abd ollāh Khān Bāzār Sayyed Abd ollāh Khān? 1214/1799年以前

7 Ṣadr Bāzār Mīrzā Moḥammad ShafīMāzandarānī 1227/1812

8 Maqṣūd Beyg/Mīrzā Ṣāleḥ/Pāmanārḥḥ Ūdlājān Maqṣūd Beyg? 1227/1812-3年以前

9 Khān-e Marvī Ūdlājān/Dowlat Mīrzā Moḥammad Ḥoseyn Khān Marvī 1231/1816

10 Dār al-Shefā Bāzār 不明 1237/1821以前

11 Sepahdār Ūdlājān Yūsof Khān Sepahdār Gorjī 1241/1825-6年以前

12 Ḥakīm/Āqā Maḥmūd Ūdlājān Mīrzā AḥmadḤakīmbāshī 1243/1827-8 13 Qāsem Khānī/Mahd-eOlyā Arg/Dowlat Moḥammad Qāsem Khān Qājār 1247/1831-2年以前

14 Yūnos Khān Jārchībāshī Sangelaj Yūnos Khān Jārchībāshī 1247/1832年以前

15 Mīrzā Reżā Qolī Sangelaj Mīrzā Reżā Qolī Khān FatḥAlī Shāh

16 Ḥājjī Rajab Alī Sangelaj Ḥājjī RajabAlī? 1252/1836-7

17 Mīrzā Ẕakī Nūrī Sangelaj Mīrzā Ẕakī Nūrī 1253/1837

18 Ḥājjī Mollā Jafar Sangelaj Ḥājjī Mollā Jafar Astarābādī? 1263/1847年以前

19 Ḥājjī Moḥsen Bāzār Ḥājjī Moḥsen? 1269/1853年以前

20 Mīrzā Abd al-Karīm Sangelaj Mīrzā Abd al-Karīm Najmābādī? 1269/1853年以前

21 Mīrzā Mūsá Bāzār Mīrzā Mūsá Vazīr-e Ṭehrān 1269/1853年以前

22 Sheykh Abd al-Ḥoseyn Bāzār Sheykh Abd al-ḤoseynṬehrānī 1270/1853-4

23 Amīn al-Dowle Chālmeydān Farrokh Khān Amīn al-Dowle 1276/1859-60

24 Sepahsālār Ūdlājān/Dowlat Mīrzā Moḥammad Khān Sepahsālār 1277/1860

25 Āṣafi yye/Āṣāf al-Dowle Bāzār Ḥājjī Moḥammad Qolī Khān Āṣaf al-Dowle 1277/1860-1 26 Sadiyye/ QanbarAlī Ūdlājān Ḥājjī Qanbar Alī Khān Sad al-Dowle 1288/1871-2 27 Moayyer al-Mamālek/Neẓām al-Dowle Sangelaj Dūst Alī Khān Moayyer al-Mamālek 1290/1873-4以前 28 Khāzen al-Molk/Sayyed Valī Bāzār Ḥājjī Moḥammad Raḥīm Khān Khāzen al-Molk 1292/1875

29 Emāmzāde Zeyd Bāzār Nāṣer al-Dīn Shāh Qājār 1296/1879

30 Mīrzā Īsá Vazīr Sangelaj Mīrzā Īsá Vazīr 1296/1879

31 Shāhzāde Khānom/Noṣrat al-Dowle Sangelaj Homāyūn Solṭān Khānom bt. Bahā al-Dowle 1297/1880

32 Fatḥiyye Chālmeydān Ḥājjī Abū al-Fatḥ Tājer 1297/1880

33 Nāṣerī Dowlat Mīrzā Ḥoseyn Khān Sepahsālār-e Aẓam 1297/1880

34 Kāẓemiyye Chālmeydān Mīrzā Sayyed Kāẓem Mostowfī-e Esṭabl 1298/1881

35 Mīrzā Ḥoseyn Sangelaj Mīrzā ḤoseynḤakīmbāshī? 1301/1884以前

36 Mīrzā Moḥammad Khān Sangelaj Mīrzā Moḥammad Khān? 1301/1884以前

37 Sar-e Pūlāk Chalmeydān 不明 1301/1884以前

38 Serāj al-Molk Dowlat Reżā Qolī Khān Serāj al-Molk 1301/1883-4

39 Ṣanīiyye/Memārbāshī Ūdlājān Ḥājjī Abū al-Ḥasan Memārbāshī 1303/1885 40 Dāngī/Ḥājjī Sayyed Jafar Lārījānī Ūdlājān Ḥājjī Sayyed Jafar Lārījānī? 1304/1886以前

41 Niyākī Ūdlājān Āqā Sayyed Moḥammad Alī Niyākī 1307/1889以前

42 Monīriyye/Sayyed Naṣr al-Dīn Sangelaj Monīr al-Salṭane 1311/1894

43 Khān Alī Farrāsh Bāzār KhānAlī Farrāsh? 1317/1899-1900以前

(7)

講座

(Rochechouart) 規模

(Rochechouart) 居住者

(Nofūs 1301

学生 室数

1 1講座法学居室19学生30

2 1講座哲学居室20学生30 男性15 (((Naẓmiyye

3 男性11借家人有

4 1講座神学居室20学生40 男性37 19(Mīrās)

5 男性30

6 講座なし 居室20学生30 13(Ḥabībī)

7 3講座神学・哲学・天文学居室40学生80 (((Naẓmiyye

8 2講座異端神学居室40学生70 男性33 (((Naẓmiyye

9 2講座哲学・神学居室40学生80 男性56 (((Naẓmiyye) 27(Ḥājjī Qāsemī)

10 1講座哲学/代数学居室20学生30 (((Naẓmiyye

11 (((Naẓmiyye

12 (((Naẓmiyye) 7(Ḥājjī Qāsemī)

13 1講座哲学居室20学生30 13, 18(Mahd-e Olyā III)

14 学生22職員1

15 学生24

16 (((Naẓmiyye) 3(Ḥājjī Qāsemī)

17 3講座哲学・神学・アラビア語文法居室20学生30 学生他男性24 14(MīrzāẔakī II) 18

19 20

21 1講座哲学居室6学生10 男性15 15(Ḥabībī)

22 聖職者をめざす 居室40 学生10 学生17 職員1 27(Ḥābībī)

23 男性20 (((Naẓmiyye

24 1講座哲学居室24 学生0 男性40 18(Ḥājjī Qāsemī)

25 男性18

26 (((Naẓmiyye) 18(Ḥābībī)

27 学生,職員等男性32 (((Naẓmiyye) 14(Ḥājjī Qāsemī)

28 学生8職員1 (((Naẓmiyye

12(Khāzen) 6(Ḥājjī Qāsemī)

29 男性70

30 12(Ḥabībī)

31 学生29 6(Eżām

32 住人無 29(Ḥabībī)

33 120(Nāṣerī I) 60(Ḥābībī)

34 男性36 (((Naẓmiyye) 20(Ḥabībī)

35 学生15

36 学生7

37 男性7 7(Ḥabībī)

38 (((Naẓmiyye) 11(Ḥabībī)

39 (((Naẓmiyye) 23(Ḥājjī Qāsemī)

40 41

42 31(Īrān

43

(8)

2.

数の変遷

テ ヘ ラ ン に 市 壁 が 築 か れ た

16

世 紀 前 半,すでにサファヴィー朝君主タフマース プ

1524 - 76 )

の 姉 妹 に よ り, ハ ー ノ ム 学院

( Madrase-e Khānom )

が創設された と さ れ る

( ( ( Javāher-e Kalām 1357: 77 )

。 ま た,Motamadīは 主 に

Ḥoseynī Balāghī

ら の記述に基づいて,サファヴィー朝時代の テヘランのマドラサとして

7

つを挙げてい る

( Motamadī 1381: 44 )

。また,ワクフ慈 善庁の文書のなかにもサファヴィー朝期のマ ドラサに関するものがいくつかあり,そのう ちの一つはウードラージャーン区の

Ḥakīm Moḥammad Saīd Khān

学院

のちの

Ḥājjī Mollā Āqā Reżā

学院

2 ) )

に対する

1131

年 ズィーガアデ月

19

日/1719年

10

3

日付 のワクフ証書である

( Owqāf no.479 )

。しか し,これらサファヴィー朝期のマドラサのす べてが

19

世紀になっても機能していたとは 考えにくい。

1809

年にテヘランを訪れたモー リアによれば,当時テヘランには

3

から

4

のマドラサがあるのみだったという

Morier 225 )

。前述のタフマースプの姉妹によるマド ラサは

18

世紀に荒廃したとされる12)。サファ ヴィー朝期に創設されたものでも,モハンマ ディーエ学院

4

のように,19世紀に大規 模な改修を必要とした例もある13)

1

から数の変遷を抜き出したものが表

2

である14)

19

世紀を通して順調に建設されていった ことが明らかとなる。19世紀末の

43

という 数は,史料の精度の問題はあるものの,サファ

ヴィー朝期のエスファハーンで名前の知られ ているマドラサ数

32 (

羽田

1992: 218 - 227 )

を上回っている15)。また,19世紀末のイラ クのシーア派聖地アタバートにおけるマドラ サ数

34

をも上回っている

Cuinet t 189 )

。ア タバートやマシュハド,ゴムとは異なり,テ ヘランは聖廟を核に発展した宗教都市ではな い。また,サファヴィー朝期のエスファハー ンのようにシーア派世界全体の教学の中心で あったわけではない。しかし,それでも都市 テヘランの発展とともに着実にマドラサが建 設されていったのである。その理由を,本稿 を通じて明らかにしたい。

3.

創設者

これらのマドラサを創設したのは誰であっ たのか,表

1

の創設者の欄を見てみよう。ま ず,王族としては,ナーセロッ=ディーン・

シャー

29

のほか,その側室であったモニー ロッ=サルタネ

42

16),ファトフ・アリー・

シャーの孫にあたるホマーユーン・ソルター ン・ハーノム

31

17)が挙げられる。モハン マド・ガーセム・ハーン

13

も,王家と同 じガージャール部ゴユーンルー

Qoyūnlū

2 テヘランのマドラサ総数

マドラサ総数

1800 6

1825 10

1850 18

1875 28

1900 43

筆者作成

12

)ただし,ワクフだけは少なくとも

20

世紀後半まで残っていた(Ḥoseynī Balāghī 1350b: 141)。

13

1228/1813

年に宰相Mīrzā Muḥammad Shafīの妻によって改修とワクフがなされた(

Moḥammadiyye

)。

14

)なお,参考までにマドラサの名前を挙げず,数だけに言及した他の史料の情報を挙げておく。1809

3

4

Morier 225 r

),

1827

年と

1830

30

ḤḤḤadā

eq 321, Bostān 385

),

1868

35

(((

Nofūs 1284 a.

358

-

359; b. 350

)。

15

)ただし,フランス人旅行者シャルダンは,名前は挙げないが

48

という数を挙げている(羽田

1996: 183

)。深見は,1924年のエスファハーンの地図には

32

のマドラサの名前が挙がっており,

さらに現地調査により,17のマドラサが存在したことが確認できたとする(深見

1999: 264

-

265

)。 ただ,32のうちに他種の学校が紛れ込んでいたり,機能停止していたものがある可能性がある。

16

)テヘラン州ヴァズィール職も務めた

Moḥammad Ebrāhīm Khān Vazīr-e Neẓām

の姉妹。

17

)ファトフ・アリー・シャーの

37

Bahman Mīrzā Bahā al-Dowle

の娘。夫はアッバース・ミー ルザーの子

Fīrūz Mīrzā Noṣrat al-Dowle.

(9)

の出身であり,王家と姻戚関係にあることか ら,王族に含めてよいかもしれない18)。それ でも,王族は

4

件にすぎない。

これに対して,顕著なのはガージャール朝 に仕える官人である。ミールザー・モハン マド・シャフィーウ

7 77

,ミールザー・モ ハンマド・ハーン

24

,そして近代改革者 として有名なミールザー・ホセイン・ハー ン

33

は宰相経験者である。ミールザー・

モハンマド・ホセイン・ハーン

9

はファ ト フ・ ア リ ー・ シ ャ ー の 侍 臣

( nadīm-e khāṣṣe )

であり,ユーソフ・ハーン

11

は グルジア系の有力軍人であって

( Bāmdād 1363: vol. 4, 477 )

, ま た ユ ー ノ ス・ ハ ー ン

14

が 務 め た 伝 令 総 監

( ( jārchībāshī )

も ミールザー・アフマド

12

が務めた典医 総監

( ḥakīm-bāshī )

も当時の官職表に掲載 されている

Zanbīl l 124 - 125 )

。ナーセロッ

=ディーン・シャー期では,ファッロフ・

ハーン

23

が宮内大臣などを,ドゥース ト・アリー・ハーン

27 77

は財務大臣などを 務め,いずれも政府諮問委員会のメンバーで あった

( Bāmdād 1363: vol. 3, 83 - 84; vol. 1, 495 - 496 )

。 ア ー サ フ ィ ー エ 学 院

25

は,

そもそも外務大臣を務めたアボル=ハサン・

ハ ー ン

Mīrzā Abū al-Ḥasan Khān Shīrāzī

( d.1262/1845 - 6 )

の遺言によって創設され たものであり,実際に建設にあたったモハ ンマド・ゴリー・ハーンも法務大臣を務め た

( Bāmdād 1363: vol. 3, 365 - 366 )

。モハン マド・ラヒーム・ハーン

28

は王室宝物 庫 管 理 官

( Ṣandūqdār-e khāṣṣe ) ( Bāmdād 1363: vol. 5, 247 - 48 )

を経験し,レザー・ゴ リー・ハーン

38

は,エスファハーン総 督

Ẓell al-Solṭān

のテヘラン家令

( pīshkār )

, ハーッジー・アボル=ハサン

39

は建築総 監

( memār-bāshī )( Bāmdād 1363: vol. 2, 28 - 29, vol. 1, 40 - 41 )

を,サイエド・カーゼ

34

は厩舎財務官

( mostowfī-e esṭabl )

を務めた。テヘラン州知事を務めたガンバ ル・ ア リ ー・ ハ ー ン

26 6

と テ ヘ ラ ン 州 ヴァズィールを務めたミールザー・ムーサー

21

,ミールザー・イーサー

30

の父子 を加えれば,すくなくとも

17

名が官人の範 疇に入ることになる。

これに対して,ウラマーはシェイフ・アブ ドル=ホセイン

22

とサイエド・モハン マド・アリー

41 ) ( Maāser r 215 )

2

名の みである。しかも,前者はやはり近代改革者 として有名な宰相アミーレ・キャビールの 遺言により創設されたものである

Maāser 117 )

。商人も,ハーッジー・アボル=ファ トフ

32 ) 1

名のみである。

創設者の名前や属性が不明なものも少なく ないが,判明する限りにおいては,テヘラン のマドラサは官人を中心に創設されたと言っ てよいだろう。首都であったため,テヘラン に居住する官人の数が多かったことがその理 由として考えられる。ファッロフ・ハーン・

アミーノッ=ドウレやミールザー・ホセイ ン・ハーン・セパフサーラールのようにヨー ロッパ駐在の外交官の経験のあるものも,伝 統的なマドラサを建設したのである。

4.

ウラマーとの関係

1

の「講座」の列にはロシェシュアー ルの記述に基づいて示した各マドラサの「講 座」

( chaire )

が示してある。もちろん,「講 座」という概念は元来マドラサには馴染みに くいものであり,どの程度正確なものである かは疑問の余地がある。しかし,同時代のシー ア派教学の中心地アタバートで主に教授され ていた法学

( fi qh )

・法理論

( uṣūl )

以外の,

別な学問が教授されていた可能性を示唆して いる19)

これを裏付けるのが,表

3

に示した各マ

18

)モハンマド・ガーセム・ハーンの娘は,モハンマド・シャーの妃(マフデ・オルヤー)となり,ナー

セロッ=ディーン・シャーの母となった。

19

)アタバートの法学・法理論優先の状況に関しては,近藤

2005, 140

-

141.

(10)

3 マドラサのウラマー関係者

名称 ウラマー関係者 典拠

1 Ḥakīm Hāshem/Mādar-e Shāh Ḥājjī Mollā Moḥammad Jafar Astarābādī(d. 1847)教授 Makārem 1: 85.

2 Ḥakīm Moḥammad Saīd Khān

/Ḥājjī Mollā Āqā Reżā Ḥājjī Sayyed Āqā Akhavī教授 Dāneshvarān3: 424

5

Chālḥeṣār/

Āqā Moḥammd Khāje/

Sayyed Ṣādeq

Āqā Sayyed MoḥammadṢādeq Sangelajī(d. 1883)導師 Āqā Moḥammad Reżā b. MoḥammadṢādeq(d. 1892)導師 Āqā Sayyed Moḥammad b. MoḥammadṢādeq Ṭabāṭabāī

(d. 1920)管財人

Īrān234:1, 262: 2 Naẓmiyyee719, 721

Chālḥeṣār

6 Abd ollāh Khān Mīrzā Moḥammad Ḥoseyn Sabzavārī(d. 1900-1)教授 ḤukamāḤḤ ā79.

7 Ṣadr

Sheykh MoḥamamdṬehrānī 教授

Sheykh Esmaīl Kojurī Māzandarānī(d. 1862)教授 Āqā Moḥammad Reżā Qomsheī(d. 1888)教授 Shehāb al-Dīn Neyrīzī(d. 1909)教授

Kirām 3: 339 Rūḥ3: 302 Maāserr222 Nuqabā2: 845 8 Maqṣūd Beyg/MīrzāṢāleḥ/ḥḥ

Pāmanār

Sheykh Zeyn al-Ābedīn Hezārjarībī(d. 1893)導師 Āqā Sayyed Reyḥān ollāh Borūjerdī(d. 1910-1)導師

Maāserr303 Naẓmiye 734, 736e

9 Khān-e Marvī

Ākhond MollāAbd ollāh Zonūzī(d. 1841-2)教授 Mīrzā Masīḥ Astarābādī(d. 1846-7)管財人 Mollā Moḥammad AlīṬehrānī監督人

Mollā Moḥammad Taqī Ardakānī(d. 1850-1)教授 Mollā Mīrzā Moḥammad Andarmānī(d. 1866)管財人 Ḥājjī Mowlā Hādī Modarres(d. 1878-9)教授 Ḥājjī Mīrzā Abū al-Qāsem Kalāntarī(d. 1875)教授 Ḥājjī Āqā Buzurg Ṭehrānī(d. 1884-5)監督人

Mīrzā Abd al-Raḥīm Mojtahed Nehāvandī(d. 1887)教授 Ḥājjī Mollā Alī Kanī(d. 1888)管財人

Mīrzā Zeyn al-Ābedīn Emām Jome(d. 1904)管財人 Āqā SayyedAbd al-Karīm Lāhījānī(d. 1905-6)教授 Mollā Moḥammad Mahdī Ḥajjār教授

Sheykh MoḥammadḤasan Nāẓer(d. 1904-5)監督人

Dāneshvarān2: 364 Marvī I Marvī I Maāserr196 Maāserr206 Maāserr203 Dāneshvarān2: 365

Nuqabā1: 232 Maāserr193 Etemādd133 Īrān667: 2 Maāserr242 Maāserr246 Maāserr239 10 Dār al-Shefā Āqā Mīrzā Abū al-Ḥasan Jelove(d. 1897)教授 Īrān910: 4 12 Ḥakīm/Āqā Maḥmūd

Āqā Maḥmūd Kermānshāhī(d. 1854-5)導師 Ḥājjī Āqā Moḥammad b. Maḥmūd導師

Sheykh Mahdī b. Āqā Moḥammad(d. 1892-3)導師/管財人

Foṣaḥāā5: 946 Maāserr224 Nuqabā5: 474 13 Qāsem Khānī/Mahd-e Olyā ĀqāAlī Zonūzī(d. 1890)教授 ṬarāṬṬeq3: 507 14 Yūnos Khān Jārchībāshī SheykhAbd al-Alī Bahreynī

Āqā Sheykh Fażl ollāh Nūrī(d. 1909)導師

Nurī 450ī -451 Naẓmiyye 719e 18 Ḥājjī Mollā Jafar Ḥājjī Mollā Moḥammad Jafar Astarābādī(d. 1847) Makārem 1: 86 20 Mīrzā Abd al-Karīm Ḥājjī Āqā Moḥammad Najm-ābādī(d. 1885-6)導師

ĀqāḤoseyn b. Āqā Moḥammad(d. 1928-9)導師

Maāserr194 Maāserr194

21 Mīrzā Mūsá

Mīrzā MūsáṬehrānī導師 Mīrzā Ebrahīm b. Mūsá導師 Mīrzā Aḥmad b. Mūsá導師

Kirām 3: 521 Kirām 1: 23 Nuqabā1: 24

22 Sheykh Abd al-Ḥoseyn

SheykhAbd al-ḤoseynṬehrānī(d. 1869)管財人 Sheykh Moḥammad barādar(d. 1883)管財人 Mollā Ṣādeq Qommī導師

Āqā SheykhAlī導師

Abd al-Ḥoseyn II

Abd al-Ḥoseyn III Īrān234: 1 Naẓmiyye 720e 23 Amīn al-Dowle Ḥājjī Mollā JafarṬehrānī Chālmeydānī(d. 1878)導師

Āqā Sheykh Mūsá b. Jafar(d. 1896)導師

Rūḥ 4: 335-336 Rūḥ4: 337

24 Sepahsālār

ĀqāAlī Zonūzī(d. 1890)教授

Sheykh Mīrzā Ḥasan Kermānshāhī(d. 1919-20)教授 Āqā Sayyed Esmāīl Behbahānī(d. 1878)導師 Āqā SayyedAbd ollāh Behbahānī(d. 1910)導師

Maāserr211 Nuqabā1: 373 Īrān 234: 1, 266: 2 Naẓmiyyee717, 723 26 Sadiyye Sheykh Muḥammad Mahdī Behbahānī(d. 1893-4) Nuqabā5: 475

27 Moayyer al-Mamālek/

Neẓām al-Dowle

Ḥājj Mowlā Moḥammad Ṭehrānī教授

Mollā MoḥammadṢādeq barādar(d. 1896-7)教授 Āqā SayyedṢāleḥ Khalkhālī教授

Sheykh Maḥmūd b. Muḥammad Ṣādeq(d. 1916)教授 Āqā Jamāl al-Dīn Mojtahed Borūjerdī(d. 1885)導師 Mollā Alī Akbar Borūjerdī(d. 1929-30)導師

Maāserr222 Maāserr222 Maāserr250 Nuqabā5: 433

Īrān569: 3 Maāserr224

(11)

ドラサとウラマーとの関わりである。まず,

教授に注目すると,いくつかのマドラサで著 名な哲学者が教鞭を執っていることが明らか である。たとえば,アブドッラー・ゾヌー ズィーは神智学

( ḥikmat,神秘主義的思弁

哲学

のテヘラン学派20)の祖と見なされて いる人物であるが,マルヴィー学院

9

が 建設されたとき,創設者によって招聘され,

20

年間この学院で教授した

Ṭarā eq 3:506 )

。 その子アリー・ゾヌーズィーもマフデ・オル ヤー学院

13

7

年間教授したのち,新 設 の セ パ フ サ ー ラ ー ル 学 院

24

へ 移 り,

20

年以上,哲学や法学を教授した

Maāser 211 - 212; Ṭarā eq 3: 507

21)。ダーロッ=シェ ファー学院

10

のアボル・ハサン・ジェ ロヴェも著名な哲学者であり,ここで

40

年 以上にわたって教授を行った

Īrān 910: 4

のち,新設のナーセリー学院

33

の教授 となった。ほかにも,アブドッラー・ハー ン学院

6 66

のモハンマド・ホセイン・サブ ザヴァーリー,サドル学院

7 77

のモハンマ ド・レザー・ゴムシェイーとシェハーボッ=

ディーン・ネイリーズィー,セパフサーラー ル学院

24

とダーンギー学院

40

で教鞭 を執ったハサン・ケルマーンシャーヒー,モ アイエロル=ママーレク学院

27 77

のサーレ フ・ハルハーリーも,哲学・神智学系の人物 である。以上のように

19

世紀のテヘランで は

8

つ以上のマドラサで哲学・神智学が教授 されたのである。さらに,ハキーム学院

12

の礼拝導師,アーガー・マフムードも,ウ スーリー派の革新者ヴァヒード・ベフバハー ニー

( d. 1799 )

の孫でありながら,神智学 者

(āref ff )

として知られていた。

しかし,他の教授のほとんどは法学・法理 論を修めたモジュタヘドであったと考えられ る。たとえば,マルヴィー学院

9

の教授 であったハーディー・モダッレス,アボル=

ガーセム・キャラーンタリー,アブドッ=ラ ヒーム・ネハーヴァンディーの

3

名は法学 と法理論を教授したことが知られており,モ ジュタヘドであると見なされていた。同様に 教授であったモハンマド・タギー・アルダ カーニーもモジュタヘドの一人とされてい 3 続き

28 Khāzen al-Molk/Sayyed Valī Āqā Mīrzā Moḥammad Ḥasan Āshtiyānī(d. 1901)導師 Rūḥ 1: 318 29 Emāmzāde Zeyd Āqā Sayyed Moḥammad Jafar Kāshānī(d. 1899)

 導師/管財人

Picot 70

30 MīrzāĪsá Vazīr Āqā Sheykh Hādī Najmābādī(d. 1902)導師 Naẓmiyye 719, 721e 31 Shāhzāde Khānom/

Noṣrat al-Dowle

MollāAlī Moḥammad Ṭāleqānī(d. 1894)導師 Sheykh Mūsá b.Alī Moḥammad

Eżām12-13 Eżām 17

33 Nāṣerī

Āqā Moḥammad Najmābādī(d. 1885-6)教授 Āqā Mīrzā Abū al-Ḥasan Jelove(d. 1897)教授 Ḥājjī Mīrzā Moḥammad Alī Qarājedāghī(d. 1892)教授 Ākhond Mollā Moḥammad Alī Rostamābādī(d. 1913-4)導師 Ḥājjī Mīrzā Abū al-Fażl Nūrī(d. 1898)導師/教授

Nāṣerī I Nāṣerī I Nuqabā4: 1341 Naẓmiyye 719, 723e

Īrān 860: 2 34 Kāẓemiyye Āqā SayyedAlī Akbar Tafreshī(d. 1904-5)教授 āser 121r 37 Sar-e Pūlāk Āqā Sayyed Ebrāhīm Lavāsānī(d. 1892)導師 Maāser 245r 39 Ṣanīiyye/Memārbāshī Āqā Sheykh Maḥmūd Ṭehrānī導師/教授 Nuqabā 5: 305 40 Dāngī Sheykh Abbās Nehāvandī(d. 1893-4)導師/教授

Sheykh MīrzāḤasan Kermānshāhī(d. 1919-20)教授

Maāser 215r

Nuqabā 1: 373 41 Niyākī Āqā Sayyed Moḥammad Alī Niyākī導師/教授 Maāser 215r

20

)テヘラン学派については,Corbin 1986, 479-

481; Nasr 2006, 235

-

256. 本格的な思想内容の研究と

して

Rizvi 2005.

21

)彼の経歴については,Rizvi 2005, 116にも言及がある。ただし,マフデ・オルヤー学院ではなく,

マーダレ・シャー学院で教授したとするが,誤りである。また,セパフサーラール学院とマーダレ・

シャー学院を宮廷と強く結びついたマドラサとしているが,その根拠は明らかではない。

(12)

た。ハキーム・ハーシェム学院

1

で教授 を務めたモハンマド・ジャアファル・アスタ ラーバーディー,ナーセリー学院

33

のア ボル=ファズル・ヌーリー

キャランタリー の子

も著名なモジュタヘドである。

モジュタヘドが多いのは,モスクを併設し ている,もしくはモスク兼用であるマドラサ の礼拝導師も同様である。1873年から

1895

年までの政府年鑑のモジュタヘド一覧と比較 すると,10の学院でモジュタヘドが礼拝導 師を務めている。そのうち,チャールヘサー ル学院

5

,アミーノッ=ドウレ学院

23

, セパフサーラール学院

24

,モアイエロル

=ママーレク学院

27 77

4

マドラサでは,

モジュタヘドが父子

2

代で礼拝導師を務めて いるのである22)。これらのモジュタヘドの礼 拝導師は,礼拝のみならず,マドラサにおけ る教授にも携わっていたと考えられる。さら に後述するように,モジュタヘドが,マドラ サのワクフ管財人を務める例も複数見られる のである。

以上のように,教授・礼拝導師・管財人と してモジュタヘドが多くのマドラサに関わっ ていた。逆に言えば,多くのモジュタヘドが 何らかの形でマドラサと関わっていたのであ る。そして,モジュタヘドの序列が必ずしも 明確でないのと同様,マドラサ人事上の上下 関係も,特別な地位にあったマルヴィー学院 やナーセリー学院を除いては,必ずしも明確 ではない。のちに立憲革命で活躍する著名な モジュタヘド達―ヌーリー

14

,ベフバ ハーニー

24

,タバータバーイー

4

らも それぞれ特別とは言い難い一つのモスク=マ ドラサで礼拝導師や管財人の役割を果たして

いたに過ぎないのである。

5.

位置

マドラサのテヘラン市内での位置を示した のが図

3

であり,図中の番号は表

1

のマド ラサの番号に対応している23)。おおよそ建築 年代順になっているため,その展開過程が明 らかとなる。サファヴィー朝期から存在する

5

つのマドラサは,市内の各所に広がってい る。ただし,大バーザール内,市の中心であっ た

a

古集会モスク24)の向かいにはモハンマ ディーエ学院

4

があった。

一方,ハキーム・ハーシェム学院

1

の 近くに,18年,ファトフ・アリー・シャー によって新たに集会モスクである「王のモス ク」が建立され,ほぼ同時期にそれに隣接し てサドル学院

7 77

が創設された。モスクの 向かいのダーロッ=シェファー学院

10

も 同時期には存在していたことが確認できる。

これらを核として,大バーザールの北側には 計

13

のマドラサがあり

1, 2, 7, 77 8, 9, 10, 12, 19, 24, 25, 26, 66 37, 40

また大バーザールの西 側にも計

7

のマドラサがある

3, 6, 22, 27, 77 28, 29, 42

。これらのマドラサのうち,ミー ルザー・バーバー・チャール

3

,ハーゼノ ル=モルク

29

,エマームザーデ・ゼイド

30

,モニーリーエ

42

4

学院は,市 内の聖廟に隣接する形で建設された。

市の西側,サンゲラジュ区全体にマドラサ は広がっており,その北側には

9

のマドラサ がある

5, 14, 15, 16, 66 17, 77 20, 31, 35, 36 6

25)。 商業地区から離れており,閑静であったこと が理由であるのかもしれない。バーザール区 のハーゼノル=モルク学院のほか,サンゲラ

22

)モジュタヘドが礼拝導師を務めるも,父子による世襲に至っていないのは,ユーノス・ハーン学院

14

),ミールザー・アブドル=キャリーム学院(

20

),ハーゼノル=モルク学院(

28

),エマームザー デ・ゼイド学院(

29

),ミールザー・イーサー学院(

30

),カーゼミーエ学院(

34

)の

6

学院である。

23

)ただし,18,

43

は正確な位置は不明であるため,除いてある。

24

)このモスクに関しては,近藤

2003

を参照。

25

)行政区分上はモアエロル=ママーレク学院(

27 77

)とモニーリーエ学院(

42

)もサンゲラジュ区に 属した。また,詳細位置不明のハーッジー・モッラー・ジャアファル学院(

)もサンゲラジュ区 に属した。

(13)

ジュ区のミールザー・レザー・ゴリー学院

15

と旧市壁外ではあるがこの区に属する ミールザー・イーサー学院

30

には,創設 者の墓が置かれている。これに対して,マド ラサが少ないのは南東のチャールメイダーン 区である。アミーノッ=ドウレ学院

23

が 創設されるまでは,このあたりはゴミ捨て場 であり,非常に汚かった

Merāt 1972; t Rūḥ 4:336 )

。その後,ファトヒーエ

32

,カー ゼミーエ

34

,サレ・プーラーク

37 77

3

つの学院が創設された。

また,1868年以降新市壁の建設が開始さ れ,市街の拡張が行われるが,図

4

に示した ように新市壁の外には,マドラサはわずか三 つしかない。そのうち,ミールザー・イーサー 学院

30

とセラージョル=モルク学院

38

は旧市壁のすぐ外に建設されている。図

4

に 示されているように,19世紀末においても,

旧市壁と新市壁の間の地域は,依然,農地,

園地,空地がかなりの部分を占めていたため と考えられる。この意味で,ナーセリー学院

33 ) (

現モタッハリー学院

の創設は,その 位置の点でも画期的なものであったのである。

6.

規模

イスタンブルのような包括的なマドラサ調 査は行われていないが,それでもテヘランの マドラサの規模を示す史料が存在する。まず,

1868

年の人口調査によれば,マドラサに居 住している学生の数は

1463

名であり,マド ラサ数は

35

であった

( ( ( Nofūs 1284 , a. 358; b.

349 - 350; c. 113-114. )

。これは,19世紀末の アタバートにおける学生数

1,710

名,マドラ サ数

34 ( Cuinet t 189 )

と大きな差はない。テ ヘランの学生数とマドラサ数から,平均規模 を計算すると

1

マドラサあたり平均

41.8

人 居住していたことになる。

また,ロシェシュアールは,やや疑問はあ るが,当時のテヘランの

14

のマドラサの講 座数,学生数,居室数を示している

1

参 照

。規模が大きいのはサドル学院

7 77

とマ ルヴィー学院

9

で学生数

80,居室数 40,

3 旧市壁内のマドラサの位置

番号は表1に一致 a.古集会モスク b.王のモスク Adle and Hourcade 1992所収の地図を元に著者作成

(14)

小さいのは前述のミールザー・ムーサー学院

21

で学生数

10,居室数 6

であった。セパ フサーラール学院

24

は,居室は

24

ある がまだ学生はおらず,ミールザー・レザー・

ゴリー学院

15

は全体にこのとき空

( vide )

で あ っ た。 平 均 を 計 算 す れ ば, 学 生 数 が

39.2,居室数が 25.3

ということになる26)

さらに

1884

年の戸別人口調査は

23

のマド ラサの居住者数を明らかにしている

1 )

。 エマームザーデ・ゼイド学院

29

70

人,

マルヴィー学院

9

56

人,セパフサー ラール学院

24

40

人と多く,5マドラ サ

4, 5, 8, 27, 77 34

30〜39

人の居住者を 抱 え,20〜29人 が

5

マ ド ラ サ

14, 15, 17, 77

23, 31

,10〜19人 が

6

マ ド ラ サ

2, 3, 21, 22, 25, 36 66

9

人以下が

4

マドラサ

28, 32, 36, 66 37 77

で,そのうちファトヒーエ学院

32

には居住者はいなかった。このファトヒーエ 学院を除いて,計算すれば

25.9

人という平 均居住者数となる。ただ,居住者には学生の ほか,職員も含まれている場合がある。

また,現在まで残っている遺構の図面や フィールドワークなどから明らかとなった

20

のマドラサの居室数を数えて平均を出す と

18.3

室となる。もちろん,遺構に後に手 が加えられている可能性はあるが,仮にその ままとすると,多くのワクフ証書で一部屋あ たり

2

名まで学生を置くことができると規定 4 旧市壁外,新市壁内のマドラサ(番号は表1に一致)

Adle and Hourcade 1992所収の地図を元に著者作成

26

)ただし,計算にあたって,居室数からは数字の挙がっていないミールザー・レザー・ゴリー学院を,

同様に学生数からは同学院とセパフサーラール学院を除いてある。

(15)

していることから,これらのマドラサは平均

36

人ほどの収容力があったことになる。

以上のことから,史料によってばらつきが あり,また,すべてを信頼できないものの,

一マドラサあたり平均

25

人から

42

人程度 の学生数であったと考えてよいだろう。この 数字は,すでに研究のあるイルハーン朝下や ティムール朝下の著名なマドラサ27)より規 模が大きい。ただし,イルハーン朝やティムー ル朝のマドラサは,墓廟も含めた巨大なコン プレックスの一部であるが,19世紀テヘラ ンのものはモスク以外に大きな施設は併設さ れていない。一方で,サファヴィー朝期のも のを多く含むエスファハーンの場合,マドラ サの現存遺構

29

のうち,20は

18

室以上の 居室を持っており,55室以上のものが

6

あ るなど

深見

1999: 288 )

,規模はテヘランよ りさらに大きいことになる。

もっとも,マドラサ間の差も大きい。最大 のナーセリー学院

33

はワクフ証書に

120

人の学生に奨学金を与える規定があるのに対 し

( Nāṣerī I, a. 34; b. 67 )

,ミールザー・モ ハンマド・ハーン学院

36 6

7

人の学生が 居住していただけであった。したがって,数 例のマドラサを取り上げて,それを典型とす るということは,あまり意味のないことと言 わざるをえない。出来る限り多くのマドラサ を取り上げ,その特徴を踏まえる必要がある のである。

Ⅱ.マドラサのワクフ

1.

ワクフ関係文書のあり方

マドラサのワクフに関係する文書には,さ まざまな種類がある。これまでの調査の結果,

収集しえた文書は以下のように分類できる28)

A.ワクフ証書

・マドラサ創設の際のワクフ証書

( 11

学院

  サドル

7 77

,マルヴィー

9

,ミール

ザー・ザキー

17 77

,セパフサーラール

24

,サアディーエ

26 66

,ハーゼノル

=モルク

28

,シャーザーデ・ハーノ ム

31

,ファトヒーエ

32

,ナーセリー

33

,カーゼミーエ

34

,サニーイー エ

39

・マドラサ改修の際のワクフ証書

( 3

学院

  モハンマディーエ

4

,ガーセム・ハー

ン/マフデ・オルヤー

13

・モスク創設の際のワクフ証書

( 3

学院

  ハキーム

12

,シェイフ・アブドル=

ホ セ イ ン

22

, ハ ー ゼ ノ ル = モ ル ク

28

・追加のワクフ証書

( 9

学院

  モッラー・アーガー・レザー

2

,アブ ドッラー・ハーン

6 6

,サドル

7 77

,ハ キーム

12

,マフデ・オルヤー

13

, ユーノス・ハーン

14

,ミールザー・

ザキー

17 77

,ミールザー・アブドル=

キャリーム

20

,シェイフ・アブドル

=ホセイン

22

,ナーセリー

33 ) B.他の証書類

・ワクフ財の賃貸証書

  ハキーム・ハーシェム

1

,チャールへ サール

5

,ミールザー・ザキー

17 77

・マドラサ創設のための遺言証書  アーサフィーエ

25

C.ワクフの収支表

 マフデ・オルヤー

13 ) D.勅令とホクム

27

)ラシード区(タブリーズ,1309年)

12

人,ロクニーエ(ヤズド,1325年)

10

人,シャムスィーエ

(ヤズド,1327年)

10

人(岩武

1989, 22

),ミール・チャグマーク(ヤズド,1445年)

8

人(岩武

1990, 72

)。エフラースィーエ(ヘラート,1481-2年)

22

人,アーファーグ・ベイゴム(ヘラート,

1506

年)

11

人(

Subtelny 2007, 177, 187

)。

28

)イランにおける調査は

1998

年以降,断続的に行われた。特に,ワクフ関係の文書の閲覧を許し ていただいたワクフ慈善庁の関係者の方々に,心から感謝する。なお,同庁に所蔵されていても

2004

年以降に整理された文書に関しては,閲覧することができなかった。

(16)

 ・勅令

   ミールザー・サーレフ

8

,マルヴィー

9

・ホクム

   ハキーム・ハーシェム

1

,モッラー・

アーガー・レザー

2

,アブドッラー・

ハーン

6 6

かなり残存状況についてばらつきはある が,前近代史でよく分析の対象となる創設時 のワクフ証書のほかにも,マドラサに関連す るさまざまな文書が伝世していることが明ら かとなる。ワクフにしても,マドラサ創設の 際のもののほかに併設するモスク建立のワク フ証書,改修の際のワクフ証書,さらに追加 のワクフ証書があるのである。必ずしも十分 ではないが,ワクフが設定されたあとの運営 に関わる文書も残されており,その実態の一 端も知ることができる。

2.

ワクフ設定者

新たにマドラサを創設した際,創設者が ワクフを設定する場合が多く,この場合ワ ク フ 設 定 者 は 創 設 者 と 同 一 で あ る。 し か し,改修や追加のワクフ証書の場合,当然 のことながらワクフ設定者は創設者と異な る。モハンマディーエ学院

4

に対して,

1228/1813

年にワクフを設定したのは,サド

ル学院

( 7 )

を創設した宰相ミールザー・モ ハンマド・シャフィーウの妻ナバート・ハー ノムであった

4 )

。サファヴィー朝期に 建築されたとされるこのマドラサは,当時荒 廃しており,ミールザー・モハンマド・シャ フィーウが修復したが,学生を住まわせる ために新たなワクフ財が必要とされていた

( Moḥammadiyye )

。ワクフ条件もサドル学 院のワクフ証書とほぼ同一である。また,ア

ブドッラー・ハーン学院の現存するワクフ証 書は日付も寄進者の名前もワクフ財の詳細も 不明な不完全なものであるが,ワクフ条件は サドル学院のものを模倣しており,この宰相 か妻どちらかが関与していると考えられる

(Abd ollāh I )

。なお,サドル学院そのもの

の追加の

1233/1818

年のワクフ証書は,創

設者ミールザー・モハンマド・シャフィーウ 自身のものである

( Ṣadr II )

ガーセム・ハーン学院

13

は,創設者の 娘であるマフデ・オルヤー,すなわち,ナー セロッ=ディーン・シャーの母によって改修 され,1272/1855年にワクフがなされた。こ のマドラサは小さなものでかつ荒廃していた らしく,マフデ・オルヤーは実質的に新築を 目指し,12年間にわたって毎年

6000

トマー ンを建設費に,9000トマーンをワクフ財に 用いることを誓言した

( Mahd-e Olyā I )

29)。 このほか,創設者の親族が,創設者の事業を 継続した形で行われる追加のワクフの例とし て,創設者の娘二人によってなされたユーノ ス・ハーン学院

14

1254/1838

年のもの,

ミールザー・ホセイン・ハーン・セパフサー ラールの創設したナーセリー学院

33

に対 して弟ヤフヤー・ハーン30)が行った

1300/1883

年および

1307/1890

のものが挙げられる。

9

通とワクフ証書が最も数多く残っている のがミールザー・ザキー学院

17 77

である31)。 創設者によるワクフ証書とその更新のほか,

7

通は創設者と出身地を同じくする一族のワ クフ証書である。ミールザー・ジャーニー が故人であったミールザー・エスマイール・

ヌーリー

Mīrzā Esmaīl Nūrī

の遺産と自分 自身の財産を

5

回に分けてワクフを行い,そ の後,ジャーニーの息子のミールザー・モハ ンマド・レザーが父の遺産を含めて,2回ワ クフを行っている。創設者との直接の関係は

29

)ただし,この証書でワクフ財として具体的に挙がっているのは図書のみである。

30

)外務大臣や法務大臣を歴任した彼の経歴については,Bāmdād 4: 438-

472.

31

)筆者が閲覧し得なかった

1277

Jomādá II

月下旬/

1861

1

月上旬付の

Mīrzā Moḥammad

Taqī Moshref-e Boyūtāt

の一通を加えれば

10

通となる。この文書については,Reżāī 1386: 337.

表 1   19 世紀テヘランのマドラサ
表 3  マドラサのウラマー関係者
表 4 マドラサのワクフ財 名称 文書(年代) 設定者 ワクフ財 市内ワクフ財 (1853) 市内ワクフ財(1899- 1900) 1 Ḥakīm Hāshem/Mādar-e  Shāh
表 4 続き ワクフ ( 1855 ) Mīrzā Jānī Nūrī サライ 1/6 *ワクフ ( 1861 ) Mīrzā Moḥammad Taqī Bālkīn 村ガナート 17 Mīrzā Ẕakī Nūrī ワクフ ( 1863 ) Mīrzā Jānī Nūrī Shara ī 村 2/6 浴 1 ワクフ ( 1864 Mīrzā Jānī Nūrī 村 1/6 ワクフ ( 1865 Mīrzā Jānī Nūrī 村 3/6 ワクフ ( 1881 ) ājjī Moḥammad Reżā
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