初期同志社生徒の食生活を探る
著者 森永 長壹郎
雑誌名 新島研究
号 107
ページ 113‑130
発行年 2016‑02‑29
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015599
初期同志社生徒の食生活を探る
森 永 長壹郎
はじめに
明治維新は「料理維新」1)と言うにふさわしい時代であった。明治維新を 境に日本人の食事内容は大きく変わっていく。西洋の食事が入ってきたから である。幕末から明治にかけて庶民の食事観は「コメの飯があったら後の副 食物はつけたしでよい」2)というわけで、おかずは食欲増進的な役をはたし ていたにすぎない。東京庶民一般の家庭での副食物は「朝餉に味噌汁、午飯 に肴、夕飯に煮物、また露物を副ふる」3)のが普通であった。1886(明治
19)
年
7
月の越後屋呉服店90
人の食事を調査したところ、「きわめて粗食、とく に夕飯は米飯と漬物のみ」4)と報告されている。米食については、明治期、2つの意見に分かれていた。白米か麦飯かであ る。海軍省医務局副長の高木兼寛はパン、牛乳、野菜を多くして米飯を減ら した食事療法を試みた。この結果、脚気の症状が緩和された。脚気は欧米の 軍隊にはない病気である。1882(明治
15)年、高木は「麦食推進の意見を
天皇に上奏した」5)。1884(明治17)年、高木が海軍兵食を麦飯に変更した
ところ、「脚気罹患率が1,000
人当たり3〜5
人に激減」6)した。1885(明治 18)年には、東京大学生理学教授の大沢謙二が麦飯論に反論
した。1886(明治
19)年、森林太郎が『日本兵食大意』を発表し、兵食改
善を説き、麦飯には反対した。森は「米飯、魚、豆腐、みその組み合わせに より、タンパク質や脂肪は十分に補える。日本食で栄養的に劣るような問題 は全くない」7)と主張した。1910(明治 43)年に鈴木梅太郎は米糠からビタミン BI
を抽出する。脚気の原因は精白米によるビタミン
BI
の欠乏であることが証明され、ここで論争は終わった。
明治の食生活を一変させたのは洋食が入ってきたことである。1872(明治
5)年 5
月19
日、医学校雇教師のオランダ人、マンスフェルト(C. G. vanMansvelt)、洋学校雇教師のアメリカ人、ジェインズ(L. L. Janes)を宮中に
招き、日本人の体位向上には「肉食が必要であり、牧畜の奨励が急務」8)と の意見が出された。この年、明治天皇は「率先して獣肉を食し、肉食こそ文 明開化の象徴」9)と言われる時代を迎えた。熊本洋学校時代、ジェインズは種子をアメリカから取り寄せ、農民の団体
(耕耘社)に渡した。えんどう豆、玉葱、キャベツ、カリフラワー、レタス などが栽培された。彼が熊本を去るまでに、オクラ、とうもろこし、じゃが いも、トマト、スウェーデンかぶ、メロン、ピーナツなどがこの地方の産物 になった。
ジェインズは果物にも関心をもっていた。島原湾の野生のみかんの樹を取 り入れ、改良しようとした。パンもジェインズが肥後で初めて成功した。
「パン、パン、小麦のパン。『生命』だけでなく、西洋文明の『糧』」10)とジェ インズはうたいあげた。パンは健康食として受け入れられた。パン焼きの仕 事は成長産業になった。その頃の日本人の半分は消化不良だったし、多くの 者がカタルかリュウマチにかかっていたのだから、商人は休む暇もないほど であった。
洋学校の生徒たちは
3
年間も勉強を続けると健康を害した。ひどい壊血病 が10
人に1
人の割りでクラスに出はじめた。指がこわばり、手足の関節が 痛くなる病気である。このような病気には食事を変える以外に薬はない。ジ ェインズは新鮮な肉だけが薬だと言った。スープは肉と骨の大きな切り身 に、ざく切りのキャベツ、玉葱、じゃがいも、トマトのシチューが薬となっ た。2週間で「塩中毒や壊血病はあとかたもなくなった」11)。肉を常におい ている店も現れた。「肉はパン同様、ある種の医薬品」12)としての意味をもっ た。オランダ人との交易が続いた長崎では洋風の食べ物が出回り「日本におけ る西洋料理発祥の地」13)となった。本格的な西洋料理については政府や知識 人が肉食を奨励した。和洋折衷という新しい洋食を作りあげて行ったのは庶
民の工夫であった。庶民は牛肉を味噌や醤油で味付けして牛鍋やすき焼きを 作り上げ、更に家庭料理の中に、とんかつやあんパンを取り込んでいった。
以上のような社会背景の中で筆者は創設期の同志社英学校の生徒は何を食 べていたのか、生徒は学校に文句を言わなかったのか、自炊や外食はどうで あったのかなどに関心をもった。また旧制高校ではどうであったのかなどに も関心を持ち、調べることとした。
明治初期、同志社英学校の食事に関する規定
1879(明治 12)5
月28
日、「同志社ハ・・・地所凡ソ六千余坪塾舎凡テ四宇[宇=建物を数える語]其三宇ヲ教場及ヒ生徒寮トシ其一宇ヲ食堂トス食 堂ハ北ニ在リ」14)とあり、生徒数
90
余名で皆寄宿生であった。1880(明治 13)年、食費は 1
日3
食分で「毎月二円五十銭を納ル可シ」15)とある。ちなみに授業料は毎学期
1
円50
銭で、3学期制であった。1882(明治
15)年の英学校規則第 5
条によると、授業料は毎学期2
円50
銭に上がり、食費も「毎月
2
円75
銭」16)に上がっている。物価の高低により、増減 することもあった。食費の納入は前月の末日までに納入することになってい た。食事時間については、朝食が午前
6
時、昼食が正午の12
時、夕食が5
時 半であった。食事の時間は日の長短によって取り計かられ、授業時刻を知ら せるのと同じ報鐘で知らせた。注意事項もあった。食事以外の時、やむを得 ず食堂に入るとき以外は、みだりに食堂に入ることは禁止されていたが、事 故があって食堂に入る必要があるときは寮長の許可を得なければならなかっ た。生徒が病気療養のために台所で料理する必要があるときは、まず担当教 員の許可を得て、経済上賄い方に迷惑をかけないように注意すべし、とあ る。1.何を食べていたのか
食堂を監督していたのは医師のテーラー(Wallace Taylor)で、日本人の
食生活を全く無視して思いもよらない食物を食べさせた。「マッシ」17)という 皮つきの小麦を挽いて粉にし、練ったものに若干の砂糖を入れてあったが、
うまいものではなかった。次に豌豆の皮がドロドロになるくらいに煮て、
少々の砂糖を入れたものが出たが、「毎日の食物としてはかなり閉口した」18)
と徳富蘇峰は言う。更に、麦の中に牛肉を入れて煮たあと、牛肉は取り出し て細かく切り葉っぱと一緒に汁を作り、麦は茶碗に盛って食べたとも言う。
1
週間に1
回パン2
切れが出たが、それは「非常なる馳走」19)であったとは 蘇峰の弁である。やがて食堂問題が持ち上り、「米飯を一杯づつ給与せらる る」20)ことになった。副食物は茄子、唐茄子、冬瓜などの野菜に、肥料にす る干し鰯(ホシカ)よりやや上等な小鰯の煮干しを加えたものであった。小 麦の引き割りのようなものを捏ねて、それに醤油をかけたものや、大麦を捏 ねて醤油をかけたものがでた。「米飯は勿体ない」21)というので出なかった。中島力造は一度、米飯を食べたことがあったが、米に豌豆を混ぜたものであ ったと回想している。牛肉は度々でたが、「漬物は一度も食はせなかった」22)
という。これは新島がアメリカから弟・双六へ出した手紙「な漬、たくわん の如き消化し難きものは一切食う勿れ、度々豚の赤肉を食せん事を要す」23)
を思いださせる。
不満が出るのも当然であった。20人ばかりの生徒たちは何か気に食わな いことがあった日、朝食時に飯櫃をひっくり返して、新島からひどく怒られ たことがあったが、その時徳富健次郎が随分理屈を捏ねたという。具体的な ことが書かれていないのが残念であるが、かなり食事に不満があったとみえ る。飯櫃をひっくり返すようなことがしばしば起こった後、食堂問題が持ち 上り、1週間の献立について評価をし、詳しい統計表を作って、食堂演説会 が行われた。ついに食堂委員を生徒の中から若干名選出し、賄い方は委員に
1
週間分の献立を提出し、その承認を得て調理してもらうということになっ た。1887(明治20)年 4
月12
日の食堂視察委員の選挙結果は次の通りであ る。17
点 山路一三16
点 岸本能武太15
点 松尾音二郎はげむ
15
点 望月興三郎14
点 山中 百24)明治
17(1884)年、池袋清風の日記によると、牛乳を殆んど毎日 1
合飲み、昼も
1
合飲むことがあった。7月の大雨の後、井戸水を飲んだところ、下痢をして困ったが、腸カタルとなった。10日経っても下痢、腹痛、胃腸 は完治せず、毎日
3
回粥を食べている。野菜をやめ、梅干、味噌、瓜のなら 漬を食べたが、2週間経っても胃腸は治らず、食事も、牛乳もすすまず、8 月になって薬を飲み、下痢が止まったという。2.自炊
生徒の中には食事代
2
円50
銭を支払えず、1円50
銭くらいで生活してい た「貧乏仲間」25)もいた。ミカン箱を置いて、賄い飯を食べる寮生との領分 を仕切った。ミカン箱にはコンロ、茶碗、雑巾、渋団扇、箸、小刀、醤油を 入れた瓶等がはいっており、もう1
つのミカン箱には古新聞に包んだ炭を入 れ、米櫃用としても役に立っていた。俎板はミカン箱のふたが使われた。昼飯をつくるとき、授業に遅れないように、鍋をコンロにかけ、団扇であ おぎ、そのまま教室に駆けつけることがしばしばあった。ケイディー(C.
M. Cady)は、鐘が鳴り終わるとすぐ教室の中から鍵をかける厳しい先生で
あった。1時間後、戻ってふたを開けると飯は黄色で、底の方は真っ黒焦げ になっていることがあった。自炊の寮生が作った
1
週間の献立がある。日曜日 (朝)味噌 (昼)肉 (晩)里芋 月曜日 (朝)塩 (昼)味噌 (晩)さつま芋 火曜日 (朝)塩 (昼)塩 (晩)南瓜 水曜日 (朝)南瓜 (昼)塩 (晩)ねぎ 木曜日 (朝)塩 (昼)干物 (晩)水菜 金曜日 (朝)麩 (昼)味噌 (晩)豌豆 土曜日 (朝)塩 (昼)ジャム (晩)豆腐26)
おかず
山室軍平は、菜は味噌を
2、3
度買ったり、塩ばかりなめていたこともあ った。月ヶ瀬の梅見の時、弁当として飯櫃を蝙蝠傘で担って持って行ったと 語る。岸本能武太と新原俊彦は1
日交代で朝早く起きて、賄い所の火をもらって麦ばかりの飯を炊き、菜は塩サケを天井につるして、それを切って食べ たと言う。
自炊生活で最も関係のあるのは賄い方で、火種をもらう親方である。源助 と音吉と言うのがいた。源吉は「透明的、任侠的」で27)しかも寛容で、音吉 は「陰険利己的」28)でけちであった。源吉は菜の残りを快くくれたのに、音 吉は「菜泥棒をしないかと障子の穴から覗く」29)ところがあった。のちの
2
人の運命について、源助は今出川に菓子屋を開いて相当に栄えていたが、音 吉は失敗を重ね、最後には薩摩芋の皮を満載した荷車を汗して引き歩いてい たという。明治
20
年から30
年以後、生徒が激増し、学校内の食堂以外に2、3
の「認可賄」30)ができて、各人好きなところの賄で食事をしたので、信者は黙祷 して食べ、他の者は勝手に食べるようになった。
次は経済的に格上の
2
人の話である。この2
人は「出羽奥州五十四郡の御 主」仙台侯31)と背の高い色白の「太っちょ」32)である。彼らの共通点は胃袋 で、御飯を2
人分、お菜は3
人分も食べたので、どこの賄い所も、「お口に あいますまい」とか「手前の方は御免蒙らせていただきましょう」と言ってこく
敬遠した。彼らのことを京童は「大きい石を食んでいらっしゃる惰力(イノ ルシャ)はおそろしいもの」33)と皮肉った。しかし「麿様は一向蚊に刺され
た い け
た程も感じず、さすがは大家の大きい所がおあり遊ばした」34)とは京童も参 ったようである。
3.外食
寮生がよく行った飲食店がある。安くて、たくさん買える飲食店から、1 年に
1
度くらいしか行けない店まであった。これから判断すると、寮生は学 校の食事では足らなかったようだ。通称コムパニーと言われる親睦会では、各々
3
銭出して、薄皮まんじゅう10
個、金平糖1
袋、紀州名物(みかん?)5個が買えた。牡丹餅が1
個5
厘 であった。ここにも平等主義があって、じゃんけんで負けたものがひと走り し、5分で準備ができた。ゴールドフィッシュとは出町橋を渡った絹糸紡績の側にあった志る粉屋の ことで、1杯
1
銭2
厘の汁粉を4
杯飲んで、5銭白銅貨を置いて、残りの2
厘はチップとし、大威張りで帰ったことがあった。今出川室町下がるにはうどん屋があった。うどん屋の
W(ダブリュウ)
はまたの名をポストといった。郵便函の近くにあったからである。この店に ついては笑い話がある。ある日、教員の森田久万人が教員会議に緊急動議を 出した。「毎夜生徒間に、ダブリュー、ダブリューという話声がする。苟し くも宗教学校の寄宿舎で、女に関する醜聞を喋々するなど、一刻も捨ておけ ない。早速委員選定調査着手のことを切望します」35)と申し出た。しかし、
年少の教師がダブリューとはうどんの合言葉で、womanを意味しないこと を明らかにして大笑いになったことがあった。またこのダブリューで、たら ふく食った後、お金が足らず、1人を人質に残して寮に帰り、金策して、そ の男を取りに行ったとこともあったという。当時は大食するのを名誉のよう に思っていたので、京極の竹亭で牛肉を食べ、ゴールドフィッシュで汁粉を つめこみ、ミカンを買った。当時(明治
22
年)は物価が安くて、2人で1
円もあると、大金持ちの気分で飲食店に入った。「1、2銭出し合って、あん ころ餅や豆やらを買ってよく食べた」36)という。1879(明治 12)年の頃、新京極に京都最初の西洋料理店ができた。料理
こ う の
はすべてビフテキ一式で、一皿
3
銭であった。高野重三は「おいしいこと、本当に頬が落ちそう。その後洋行もし、食道楽もしたが、新京極
3
銭のビフ テキ以上の美味には出逢わない」37)と回想する。ピーピー連(ポスト、即ちうどん組)38)は生肉と餅を持ってすき焼き屋に 行き、一人前を注文すると、後は持ち込みの品で安上がりの満腹を狙った。
鍋底に餅を焦げ付かせても主人は大切な客とみて悪い顔もしなかった。
夜
9
時になると東寮の井戸端で、互いに名前を呼ぶ。呼ばれた方は「ピー かオーか」39)と質問する。ピーはポストで、オーはオックスで、牛肉屋を指 す。ピーならうどんを10
杯食べても15
銭ですむが、オーに行くと財布の中 味が問題である。オーに誘うときは、1日前に門番の黒札に書留が来ている との通知が出た時であった。竹亭のことはバムブーと言われ、牛鍋専門の店であった。その
2
階には奉書、いわゆる、お品書きがあった。『同志社ローマンス』によると、すき焼 き代
3
銭、なべ代2
銭、焼き麩代1
銭、ねぎ代5
厘、セリ代5
厘、砂糖代5
厘、味噌代5
厘、奈良漬け5
厘、伊丹上酒代4
銭、御飯代2
銭5
厘、千枚漬 け5
厘であった。金魚亭は新京極にあったしるこの店で、甘党の寮生はゴールデンフィッシ ュと言った。
曙亭はドーンといわれ、三条縄手川沿いにあった。ここは甘党のところ で、しるこ、牡丹餅など大変甘く、大抵のものは
3
銭でうんざりするほど食 べられた。新島はここにお忍びで通っていた40)。新島は場末のしるこ屋で書 生に会うのをきまり悪く思ったのか、ここには親類の子供を連れて来ていた という。新島の好みは挽茶といって、体裁のよい箱に一切の道具を入れて出 すもので10
銭であった。寮生は帰省するとき、または正月、新島の家に招かれた。「キャベジーマ キ、オムレツ、ビフテキ等」41)当時余り食べたことのないものを食べさせて もらった。チーズはまずいので食べない寮生がいると「是は西洋料理を食べ る時は必ず食べなけれバなら無いものだ」42)と新島に言われた。
5、6
人の寮生が正月休みに新島の家に遊びに行った時のことである。汁 粉の御馳走になった。その時山本久栄の給仕で河合義雄と青木要吉(明治23
年神学科卒業)が食べ競べをしたが、青木が15、6
杯食べた。新島の父親(明治
20
年永眠)が喜んで「若い時は甘いものを沢山食べるのがいい・・・甘いものを沢山食べるからきっと長生きをする」43)と褒められたという。
年始に宣教師宅に行って初めて西洋料理を食べた寮生もいる。食べ方がわ からないので、先生や奥様の食べ方をみて、その通り真似したものもいたと いう。
湯浅一郎は京都のうなぎの不味さは忘れないと語る。山国育ちの彼は海の
はも
魚を食べたことがない。京都で鱧のかば焼きを食べたとき、「非常に骨の多 い鰻」44)だと思い、湯葉を食べた時も、「油っこい変なもの」45)だと思ったそ うだ。「パンの中に牛肉を入れたもので、1個
2
銭5
厘の饅頭は、弁当の代 わりになって、大に珍味の物として悦んだ」46)と書いている。安部磯雄(明治
17
年卒業)の思い出がある。医学博士のゴルドン(M. L.Gordon)がいたので栄養分を摂取することには注意が払われていたが、味
は満足できるものではなかった。毎週1、2
回は米飯の代わりに「モシュ」47)というものが出たが、これはオートミールに似たものであった。豌豆をよく 煮て潰し、これに砂糖を入れて米飯の代用として出された。食事は質の点で 不満であった。寮生は蕎麦屋、餅屋、牛肉屋、料理屋に出入りしたことで証 明できる。1892、3(明治
25、6)年の頃、アメリカに留学中、寄宿生活を
していた安部磯雄の食事は贅沢であったという。学生の食欲がいかに旺盛で も、それ以上は食えなかったと書いている。彼は「朝飯にすらステーキや卵 のフライやオートミールなどが供せられ、牛乳は茶か水の如く何等の制限も なく用ゆることが出来る。昼飯と晩飯には肉もあれば肴もある。食後には果 実もあれば菓子もある」48)と述べている。アメリカの学生は料理屋や牛肉店 で食事をするということが「絶対にない」49)いうことを安部は知った。ただ、季節によってアイスクリームとイチゴを食べるくらいのことはあったとい う。要するに、「集会を機会として飲食することを娯楽であるかの如く考え るのは全く平素の食事が余り粗末であるがためではないかと思う。これは青 年の教育上大に考ふべきこと」50)と安部はコメントしている。
4.遠足で
1877(明治 10)年頃、寮生は清滝の「ますや」
51)の名物の栗飯を食べに行くのを楽しみにしていた。その栗飯を食べに行ったとき、古谷久綱が
12
杯 も食べたので皆が驚いた。飯食い競争もやった。清滝の枡屋で同級の親睦会があった。会費は
20
銭 で、50人位を東西に分けた。東の大関が田中四郎(旧姓:田村長太郎)、関 脇が村瀬民三郎、西の大関が古谷久綱で、会のある前夜も翌朝も断食した。しかも清滝まで歩いて行った。東の大関は
10
杯で切り上げたが、関脇の村 瀬と西の大関、古谷は14
杯で互角であった。50人の平均が8
杯半であっ た。枡谷の栗飯は食い上げになり、隣から飯を借りてきたが、最後にはかご 飯まで食わせた。明治
11(1878)年、およそ 20
名が大文字山を越えて大津に行った。途中、松茸が群がって生えていたので、3、40も取って寮に持ち帰り「皆に松 茸の馳走したので・・・感謝された」52)と山崎為徳は回想している。
冬季の登山は麦飯に梅干しの腰弁当であった。愛宕山で猪狩りをした時に は、大きい猪を
2
頭狩った。翌日、教師も生徒も食堂で獲物の御馳走に与っ た。稲荷山の兎狩りでは、1日がかりで1、2
羽しか取れず、最後にかかっ た狐と混ぜて炊いたら、臭くて食えなかった。稲荷の祟りてきめんであっ た。山本徳尚が数名で箕面まで往復したときのことである。夜中の
1
時頃起き て、茶漬けを食べ、途中、腹が空いたので百姓家に飛び込んで、さつま芋を ふかしてもらって食べながら歩いた。帰り道は山崎あたりで空腹になったの で、うどん屋に入り、松原通りでしるこを食べた。愛宕では月に
1
度の祭礼があった。その日には「シンコ」[シンコ餅]を 作って参詣の人に食べさせる。「ますや」の女将は書生が好きで、100個食 べたものは卵10
個を賞品として出すことになった。葛岡龍吉は甘党の旗頭 で、1皿10
個のシンコを10
皿食べて懸賞の卵をもらった。この時はシンコ の新記録であったが、後に土地の農夫で200
個食べたのがいたと『創設期の 同志社』(p. 241)の中で語っている。5.旧制高等学校
旧制高等学校の寄宿舎では何を食べてたのか。明治
44(1911)年の第一
高等学校寄宿寮の献立がある。朝 昼 晩
2
月23日 大根 味噌汁 牛肉 玉葱 大根 魚 肉照焼 油揚 佃煮 ハヤシ煮 おろし青味24日 刺身 葱
牛肉シチュウ 口取卯の花汁時鳥
25日 青味 油揚
焼き豚 豚肉 竹輪 白たき味噌汁 金山寺 吾妻漬 青味玉子茶碗盛
26日 葱 豆腐
ライスカレイ 煮魚 輪切大根味噌汁 煮豆
27日 千切油揚味噌汁
豚肉カツレツ 牛肉コロッケ−てっか味噌
28日 和布 豆腐
ボイルドビーフ 魚肉味噌煮味噌汁 甘露梅
3
月1
日 里芋 大根 記念祭に付き休み 味噌汁 福神漬53)第一高等学校寄宿寮では、大正
8(1919)年に麦飯が採用された。理由は
節米である。節米をする上で最も「実行的にして永続的なるは麦飯常用にあ り」54)という。麦飯を出している学校は、男女高師、陸士、学習院などで、いずれも好成績を挙げている。栄養上から見ると、滋養があり、消化は米だ けに比べると少々劣るが、カロリーの取り過ぎがなく、胃腸の筋肉の運動を 助けて便秘を防ぎ、殊に脚気の予防に効果があると指摘している。値段の点 からみると麦は米の半分程度であるから食料改善にもなると「第一高等学校 寄宿寮向陵誌」(昭和
5
年)にでていると『旧制高等学校』第6
巻はいう。旧制高校の寮の場合、大抵の寮が請負いで食堂を始めたが、請負人が暴利 を貪っていた。そこで学生が賄征伐をやったり、いろいろ騒いで、結局自炊 制度になっていった。自炊制度は寮の自治運営において最も困難な問題で、
「自炊即自治」55)としている場合さえある。
同志社英学校と旧制高校の場合、特に違うのは自炊についてである。同志 社英学校の場合は経済的に苦しい学生が個人的に料理するのを自炊といって いたが、旧制高校の場合は、寮生の自治制のもと、また学校の炊事委員のも とに実施されていた。大阪高等学校図南寮の自炊制は寮生の自治によって行 われていたが、昭和
15(1940)年に廃止された。「ソレニ費ス時間及労力カ
多大ニシテソノ事務を担当スル寮生ノ勉学ヲサマタグルコト甚ダシキアルニ 鑑ミ今回寮生一同ノ決議ト先輩ノ諒解トヲ得テ右炊事及会計ノ自治制度ヲ自 発的ニ廃止シ炊事及・・・会計ノ事務全部ヲ生徒課ニ委託スルコトトセ リ」56)とした学校もあった。寮の自炊制度は「寮設置当初からのものであり、中途から実施したものもある。また一旦実施したものの、後に廃止したとい う例」57)もあって、旧制高校の場合、その運営の難しさを知ることができる。
大阪高等学校は自炊制即ち自治制度を廃止し、学業に励むようになった が、今の同志社大学大成寮、此春寮そして壮図寮は自治制で寮長が集金など の事務をやっているが、旧制大阪高校図南寮の自治制度廃止の理由を考える と、学業の妨げにならないのか心配である。
おわりに
英学校の寮生の食うや食わずの生活をしながら学業に励む苦学生の姿に筆 者は刺激を受ける。そしてその背後にある寮生と宣教師や寮生同士の結びつ きが見えて来る。しかもそれが卒業後も生きているのが印象的である。
山室軍平は同志社英学校の入学試験には合格したものの、一文無しであっ た。級友の吉田清太郎が彼のために賄の給仕の仕事を見つけてきた。余り物 でよければ食うには困らなくなったが、入学金と月謝が納められない。吉田 は宣教師の牛のミルク配達をして彼の入学金と月謝を引き受けたが、1年位 それを内緒にしていた。さらに吉田の故郷の松山から
1
人の貧しい学生が出 てきた。吉田は彼も助けようとしたが方法が見つからず、布団や道具を売っ た。それくらいでは足りないので、自分の食事を彼に与え、自分は断食をし た。ある朝、御所の旧近衛邸の池を見ると猫の死骸が浮いているのを見て、解剖用にといって、それをもらって帰り、炊いて食べた。吉田の部屋からは 肉を炊くおいしい匂いがしていたという。
学校も経済的に苦しい寮生を放ってはいなかった。デイヴィス(J. D.
Davis)がクラーク(N. G. Clark)に宛てた 1877
年10
月12
日の手紙には、11 人の牧師を目指す若者で経済的に助けを必要とする者に学校も仕事を用意し たとある。その仕事は、図書館にある本の維持管理、夜9
時半の閉門、食料 の買い出し、グランドや樹木の世話、ベルの係、礼拝出席者の名簿つくり、会計としての帳面付け、料理の監督(適切に料理され、味付けされている か、不足しているものはないか)など。この
11
人分の総計は月40
ドル。10 カ月で1
人平均3.63
ドルであった。また熊本洋学校の12
名の卒業生には出 来るだけ多くの授業を担当してもらった。外国人教師なら月200
または300
ドル支払うところを、1876(明治9)年には月 3.50
ドル、1877年には月4
ドル払ったという58)。
同じくデイヴィスがクラークに宛てた
1879
年6
月16
日の手紙によると、経済的に困っている牧師志望の学生を助ける気持ちのある宣教師に呼びか け、給料の一部を提供してもらい、それに義理の兄弟(brother-in-law)がく れた
200
ドルを加えて、第一回卒業生の為に本を購入したり、伝道の仕事を している1
人の学生には、日本伝道会社(Japan society)の給料の半分を払 っている。デイヴィスは絶えずキリスト教関係の本を補充し、遠くから来て いる学生には本を与え、近くの者には貸し出している。貸し出した本のうち 半分またはそれ以上の本が戻ってきたと書いている59)。寮生と宣教師の深いつながりも見えて来る。明治
10(1877)年の春、デ
イヴィスの息子(J. Merle Davis)が誕生後1
年何カ月の時、悪性の熱病に罹 った。70名の寮生は同情の熱に燃え、日夜、その回復を祈ったのみか、特 別祈祷会を1
度のみならず行い、毎夜寝ずに、室内温度の調節をしながらス トーブの前で夜を明かした。デイヴィス夫人は「私共が・・・お国へ向かい ます時、病気の時など誰1
人助けてくれる者はないと決心・・・ところが今 ではみなさんが、御祈り下さるのみか、徹夜看護という始末・・・唯感謝の 涙に暮れています。国に居ましては、ベビーのため、毎日70
人の祈祷など 迚も想ひもよりません」60)と涙ながらに語った。同じ釜の飯を食うという表現がある。卒業生が語る寮生活の恩恵として無 二の親友の発見である。「霊と霊との結合」61)において非常に堅く暖かで、熱 烈な宗教的趣味と精神的気分が与ったものはないと回顧する。
海老名弾正が安中で眼病に罹り、読書が不可能になったことを知った蔵原
これひろ
惟郭は、東海道を草履で、10日以上かけて安中に着いた。彼は海老名を越 後の温泉に案内し、本を読み、話をして慰めながら、1ヵ月も滞在した。寮 生時代、この
2
人がいかに深い友情をはぐくんできたかを証明するできごと である。海老名が元気になると、蔵原は上州の小学校を訪問し、母校のため 俊才を探し、数名を入学させた。その中に柏木義円牧師や工部大学の特待生 となり、鉄道技師となった宮下瀧五郎がいる62)。上原方立と綱島佳吉は意気投合の間柄であった。散歩の途中、綱島は上原 に「君は僕のため・・・何程までにその愛心を表すことができるか」63)とた
ずねた。上原は「僕は君のために死ぬことが出来る」64)と大きく言下に答え たという。これは大言壮語ではなく、上原は卒業後、大阪島の内教会に赴任 し、腸チブスの婦人を見舞って感染し、数日床について亡くなった。
新島はどうであったか。彼は教室では、びりの生徒を最も大切にいたわ り、極めて謙遜柔和であった。一方には「精神の烈しい信仰の強い国士の趣 が」65)あった。「先生は人に対して決して差別的な待遇をされず、紳士でも書 生でも、若しくは婦人子供に至るまで皆平等懇切に取扱はれた」66)という。
筆者は何故、寮生と食生活を調べたのか。衣食住は生活の中で基本的なも のである。その中でまず食生活を取り挙げたのは、明治初期になると外国と の交流が盛んになり、食生活も大きな影響を受けたからである。
学寮の食事に関して、生徒間に格差があったことは筆者には驚きであっ た。何故なら寮生はすべて同じものを食べていたと思っていたからである。
また食事代が払えない生徒に自分の食事を与え、自分は食べずに我慢したこ とや、死んだ猫を煮て食べた話などは想像を絶する事である。このようなこ とは筆者の寮生活からは考えられないことであった。
安部磯雄の留学時代の食事と同志社英学校の食事を比較してみると
1892、
93
年頃、アメリカの大学の寮の食費が、1日3
食で1
ヵ月15
ドル(日本円 で30
円)、同志社では1
日3
食で2
円50
銭であった。日本では食事に対し て関心が薄かったというほかない。今日でも何かを節約すると言うとき、ま ず食費の節約を思う。食い盛りの若者にこそ十分食べさせるべきである。L. L.
ジェインズの食事に対する考えは、熊本のみならず朝廷にまで聞こえていたのは新しい発見であった。そしてジェインズの肉食に対する考えが なかなか受け入れられず、薬として扱われたというのもおもしろい。
学校の食事は栄養の面は注意が払われていたというが、うまくなかった し、分量も十分ではなかった。寮生がよく外食したのは、この
2
点を補なお うという無意識の行動であった。彼らから不平が出たのもこの2
点からであ る。故に食事中の楽しさが伝わってこない。一方、外食の楽しさは自ずと伝 わってくる。うまいものを腹いっぱい食べたからである。まずいものを食べ ながらも、寮生が目指したものは自己実現であった。教師を負かそうと予習 に力を入れた結果、授業中の教師との議論の烈しさは、取っ組み合いの喧嘩さえも辞さなかった。教師を辞任にまで追い込んだこともあった。荒っぽい ことではあったが、学問に対する真摯な態度が見てとれる。友情も芽生え た。寮生同志の喧嘩もあって、同じ寮の中に居るのがお互い苦しいこともあ ったろうし、孤独のうちに生活することもあったろう。しかし全員が寮生活 をしている時にこそお互いの切磋琢磨により人間が磨かれていったと思うの である。
注
1)岡田哲著『明治洋食事始め』とんかつの誕生、講談社学術文庫(2012)p.14(以 下『洋食事始め』とする)。
2)小木新造「東京庶民の食生活」、芳賀登、石川寛子監修『全集日本の食文化』第 2巻「食生活と食物史」(雄山閣、1999年)p.233.
3)同上、p.229.
4)西東秋夫著『日本食生活史年表』(楽游書房、昭和58年)p.85.
5)同上、p.80.
6)同上、p.82.
7)『洋食事始め』p.74.
8)同上、p.28.
9)同上、p.15.
10)フレッド・G・ノートヘルファー著、飛鳥井雅道訳『アメリカのサムライ』(法政 大学出版局、1991年)p.221.
11)同上、p.229.
12)同上。
13)『洋食事始め』p.15.
14)「同志社視察之記」上、『同志社百年史』資料編Ⅰ(同志社、1979年)p.124.
15)同上、p.253.
2015年4月3日の日本銀行京都支店の資料によると、明治20年、30年前後の データはないとのこと。明治35年の1円の価値はおおよそ1,500円である。2円 50銭の価値はおおよそ4,000円である。
(参考)企業間で取引される際の商品価格で試算
年 指数 1円の価格 2.5円の価格
1901(明治34年) 0.469 1,516 3,791円
1902 0.474 1,500 3,751
1903 0.504 1.411 3.527
安部磯雄のアメリカの寄宿舎では明治25、6(1892、93)年頃、1ヵ月食費が 1日3食15ドル(日本円で30円)。同志社英学校では食費、1日3食1ヵ月2円 50銭であった。『社会主義者となるまで』p.52.
同志社尋常中/高当普通学校規則(明治29年度)
尋常中学校 食料 金3円(1ヵ月分)『同志社百年史』資料編Ⅱ, p.1520.
同志社普通学校一覧(明治38年6月印刷)
食費 現今の食料は1ヶ月米飯4円50銭、麦飯4円35銭とす。同上,p.1530.
東京専門学校(現早稲田大学)の明治22年頃の食費は、「1ヶ月2円80銭位、
其換り食物も御粗末で朝は賽の目豆腐の汁に漬物位、少し遅く行くと其豆腐がな くなって了い汁許りであった。又時に賄が悪いといふて、賄征伐と称し、飯台等 を引くり返して暴れたものである」。(『早稲田大学百年史』、昭和53年)p.1011.
2015(平成27)年『学生寮のご案内』同志社大学学生センター学生生活課の資
料によると、
大成寮、此春寮、壮図寮の食費
1日2食 朝食 140〜155円、夕食 250〜300円 自治制度で食費は寮長が集め、料理は生協が担当する。
16)『同志社百年史』資料編Ⅰ, p.259.
17)徳富猪一郎著『蘇峰自伝』(同朋舎、1995年復刻)p.81.
18)同上、p.82.
19)同上。
20)同上。
21)同志社社史資料室編『創設期の同志社−卒業生たちの回想録』(同朋舎、1986 年)p.33.
22)同上、p.33.
23)新島襄編集委員会『新島襄全集』第3巻、(同朋舎、1986年)p.41.
24)『同志社百年史』資料編Ⅰ、p.743.
25)松浦正泰著『同志社ローマンス』(警醒社、大正7年)p.251.
26)同上、p.253.
27)同上、p.254.
28)同上。
29)同上。
30)『同志社五十年裏面史』p.194.
31)『同志社ローマンス』p.256.
32)同上。
33)同上。
34)同上、p.257.
35)同上、p.224.
36)『創設期の同志社』、p.93.
37)『同志社ローマンス』、pp.227〜228.
38)同上、p.226.
39)同上、p.227.
40)同上、p.226.
41)『創設期の同志社』、p.99.
42)同上。
43)新島民治は1887年1月30日永眠、青木要吉は1890年卒業 44)『創設期の同志社』、p.98.
45)同上。
46)同上、p.99.
47)安部磯雄自伝『社会主義者となるまで』(改造社、昭和7年)、p.52.
48)同上、p.188.
49)同上、p.189.
50)同上。
51)高橋光夫著『山崎為徳の生涯』(山崎為徳を顕彰する有志の会代表 大内誠喜寿 刊行)p.174.
52)同上、p.279.
53)旧制高等学校資料保存会編『旧制高等学校全書』第6巻、「生活・教養編」(Ⅰ)
(旧制高等学校資料編保存会刊行部、1983)p.110.
54)同上、p.111.
55)同上、p.92.
56)同上、p.107.
57)同上、p.92.
58)J. D. Davis to N. G. Clark, Oct. 12, 1877.
59)J. D. Davis to N. G. Clark, June 16, 1879.
60)『同志社ローマンス』pp.49〜50.
61)同上、p.107.
62)同上、pp.108〜109.
63)『同志社ローマンス』p.146.
64)同上。
65)同上、pp.16〜17.
66)同上、p.23.