幼年絵雑誌の「地域性」に関する歴史的考察
―月刊絵雑誌『チャイルドブック』を事例として―
松 山 鮎 子
1.はじめに
(1)研究目的と問題背景
本稿の課題は,1950 年代の幼年向けの月刊絵雑誌『チャイルドブック』について,その記事内容を「地 域性」の観点から検討し,各地で実施された「地方編集会議」の役割について明らかにすることである。
家庭や地域社会の子育て支援,あるいは子どもたちの成長発達(子育ち)支援の実施の重要性を めぐって,現在,彼らを取り巻く文化的な環境のあり方があらためて見直されている。ここでいう「文 化」は,自然や歴史,社会関係などいくつかの要素を含むものであるが,いずれにせよ,ここでは その「地域性」に留意した教育支援の必要性が問われている1。また,教育に関わるさまざまな議論 の場でも,「地域に根ざした教育」というフレーズが使用されて久しい。だが,子どもの生活環境と 地域性との関係が教育問題の俎上に上るのは,なにも近年に限ったことではない。
戦後,それが大きく取り沙汰されたのは,1950 年代後半以来の「高度資本主義社会」の実現によ り新たな児童問題の噴出した時期であった。具体的に,経済の発展にともない衣食住の生活が飛躍 的に豊かになった反面で,人口集中によって都市の過密化が進行した。その一方,農山漁村では過 疎により地縁共同体の機能が低下し,子どもの生活と発達環境に大きな歪みが生じたのである2。そ うした変化に対し,まず,農村の子どもの余暇生活の整備の必要が 1955(昭和 30)年に指摘される3。 さらに,1969(昭和 44)年に「都市化と社会教育」の問題が検討され4,「社会教育の原点は,地域に,
生活の場に文化を創造するという仕事でなければならない」ことが論じられた5。このように,1950 年代後半頃から地域社会と教育との新たな関係性が,さまざまな実践に結実していくのである。
ところで,幼児保育(幼児教育)の歴史にあっては,終戦直後から「民主主義的な保育実践」が,
父母と保育者,学者の協働によって大きく進んだ6。中でも,教育学者であり,後にお茶の水女子大 学附属幼稚園園長を兼務した周郷博[1907-1980]は,戦前の児童文化,特に童話が「現実の子ども」
を考慮しなかった点を批判し,児童文化人と教師らが互いを区別することなく,共に実生活と結び ついた子ども観に基づきながら種々の問題に取り組まねばならない点を主張した7。児童文学が,政 治・経済・社会的現実に生きる子どもの問題を扱わねばならないという考えは,同時代の若手児童
文学者らの思潮でもあり8,周郷の立場もそうした新たな子ども観の時流に乗るものであった。
終戦後,周郷がいち早く着手したのが,幼年絵雑誌の出版活動である。とりわけ,1950(昭和 25)年の初頭,各地の子どもの生活実態を反映した誌面作りのため,全国の幼児教育関係者らに協 力を仰ぎ「地方編集会議」を組織した。児童文学において,開拓地や僻村等を舞台に「地方色」を もつ物語が登場するのは,1960(昭和 35)年頃からである9。しかし,「地方編集会議」は,それ以 前に幼児保育者と家庭,社会との協働で発展した実践で,それが子どもの読物に何らかの「地域性」
を反映していた可能性が考えられる。
(2)研究方法と資料
そこで,本稿では① 1949(昭和 24)年の『チャイルドブック』創刊号(第 13 巻第 10 号)から 1963(昭 和 38)年の第 27 巻第 12 号までの記事内容の分析を行った上で,②「地方編集会議」の成立状況と その役割を明らかにした。これらの作業によって,1950 年代の幼年絵雑誌における「地域性」につ いて検討した。なお,絵雑誌は絵本と異なり,歌やお話など多彩な内容を含む総合的な情報誌である。
本誌も,1963(昭和 38)年まで総合絵雑誌として出版されていたが,福音館書店の発刊した 1 冊 1 話の絵雑誌『こどものとも』(1956・昭和 31 年創刊)の盛況を受け,翌年から『チャイルドブックゴー ルド』を創刊,歌やお話などジャンル別,または年代別の雑誌を刊行し始めた。その後も,『サンチャ イルド』(1971・昭和 45 年創刊),『おはなしチャイルド』(1975・昭和 49 年創刊)等が相次ぎ創刊 された点をふまえ,本研究の対象年代はジャンルおよび年齢の細分化以前までと定めた。
(3)先行研究および本論の流れ
『チャイルドブック』の先行研究として,中村[1992]は,戦前の継続前誌である『コドモノヒカリ』
の時代ごとの様相を辿ったが,戦後については今後の検討課題として言及したのみである。また,絵本・
絵雑誌の研究は,戦前期は比較的豊富な蓄積があり[中村:1988, 三宅:2009 等],戦後も,後に絵本 ブームを迎える 1960 年代についてはまとまった研究があるものの[三宅:1997],1950 年代は,両者 の間にあってあまり注目されてこなかった。したがって,戦後の絵本・絵雑誌出版全盛期以前の時期 に本研究が焦点を当てることは,子どものメディア史全体を考察する上でも意義があるだろう。
本論の具体的な流れは,第一に,『チャイルドブック』創刊までの歴史を追い,その概要を説明す る。次いで第二は,本誌の記事を「地域性」の観点から分析する。さらに第三に,分析をふまえ,「地 方編集会議」の成立背景と役割について検討し,全体のまとめとする。
2.月刊絵雑誌『チャイルドブック』の概要
(1)『チャイルドブック』創刊以前について:絵雑誌の特徴をふまえながら 編集姿勢から分けられる『チャイルドブック』の前史を,下記に示す10。
① 創刊号〜第 4 巻第 2 号 1937(昭和 12)年〜 1940(昭和 15)年:小川未明[1882-1961]
に師事した児童文学作家の奈街三郎[1907-1978]と,北原白秋[1885-1942]に師事した児 童文学作家の柴野民三[1992-1992]を編集者に,子ども研究社から『コドモノヒカリ』が刊 行される。
② 第 4 巻第 3 号〜第 8 巻第 3 号 1940(昭和 15)年〜 1944(昭和 19)年:北原白秋に師事し た童謡詩人・童話作家の輿田準一[1905-1997]を編集長に迎える。また,雑誌は帝国教育出 版部(全国の道府県の各教育界を連合統一した団体)から刊行される。その後,児童文学作 家の関英雄[1912-1996]が編集を引き継ぐ。
③ 第 8 巻第 4 号〜休刊号※特定できず 1944(昭和 19 年)〜 1945(昭和 20)年:『コドモノヒカリ』
を『日本ノコドモ』に改題。1942(昭和 17)年の「企業整備令」に基づく「出版事業整備要綱」
(1943・昭和 18 年 11 月閣議決定)の発令で,他誌を合併し,社名が国民図書刊行会となる。
④ 続刊号※特定できず〜第 13 巻第 9 号 1945(昭和 20)年 11 月〜 1949(昭和 24)年:周郷 博が編集長として関わる。
⑤ 第 13 巻第 10 号〜 1949(昭和 24)年〜:『日本のこども』(第 11 巻第 8 号より,ひらがな表記)
を改題して『チャイルドブック』となる。
戦前の絵雑誌は,「幼児から小学校低学年を読者対象とする,多色刷り印刷を用いた,絵を主体に した定期刊行物」であり,内容は,子どもの遊びや行事,読み物,英雄譚,生活,知識,しつけ,
言葉遊び,図画,西洋文物,懸賞,風俗など総合的に構成されていた[三宅:2009]。明治期から 昭和初期まで,日本では絵本よりもむしろ,そうした絵雑誌の方が子どものための一般的な読み物 として王道であったが,第二次世界大戦を契機に,それは大きな転換期を迎えることとなる。つま り,これまで児童文化の主流の一つだった絵雑誌が,婦人雑誌や他の大人向けの総合雑誌と同様に,
1941(昭和 16)年から 1944(昭和 19)年にかけ発令された「雑誌統合令」によって,休刊・廃刊 に追い込まれたのである。ただ,『コドモノヒカリ』の編集長の輿田は,統制下の出版状況が絵雑誌 の乱立を制し「大正児童文化運動の流れが,戦時統制を切っ掛けにいわば,復興を果した」,「大正 デモクラシー下の児童文学は,これとは,矛盾的旋回の様相として,戦時当初の児童読物浄化の一 時期を担うことになる私たちを養成していた」とした11。だが,厳しい査定を通過するための誌面 作りは,同時に「茨の道」でもあった12。
その後,終戦後の 1945(昭和 20)年 11 月には,空襲後の焼け野原だった東京において,いち早 く『日本ノコドモ』が復刊しており,その他の絵雑誌も,戦前の流れを汲んだ総合的な内容で次々 に出版された13。中村[1988]によれば,戦後の『日本ノコドモ』の再開は,新たに周郷博を編集 長に迎えるも,詩人や作家,画家は戦前と変わらない顔ぶれであった。さらに,確認できる最も早 い復刊号には,たとえば配給されるパンの描写など物資不足の子どもの生活を表す絵に加え,米兵 が風景の中にいて「ハロー,グッバイ」と英語の詩がつけられている14。次号でも,題字に「NIPPON
NOKODOMO」とローマ字標記が入り,連合軍総司令部提供でマッカーサー元帥の写真が掲載され た15。このように,戦時下の統制が解除されたとはいえ,内容はなお時局に即したものだった。
書物と異なる雑誌メディアの特徴は,第一に,それが永久に保存されることを前提としていない,
一時的に所有されるものという点である。幼年絵雑誌の場合も,毎月の季節行事に合わせて構成さ れており,そうした一時性をもって読者に迎えられていた。また,テレビやラジオが普及していな い時代,雑誌が情報伝達を加速化する役割を果たし,その場にいなくとも写真などで多くの人間が 出来事を「体験」できる,情報の視覚化・共同化の効果ももたらした16。大人向けの雑誌に限らず,
先の時局にかなった描写が表すように,幼児のための絵雑誌にも同様の役割が期待された。雑誌の 情報伝達効果を示す例として,『コドモノヒカリ』を挙げてみよう。そもそも本誌は,「健康明朗で 隅から隅まで子供に楽しい絵本」,「新時代の絵本」,「子供の生活力を高め豊かにする絵本」を抱負 に刊行され17,たしかに誌面は前頁カラ-で色彩豊か,内容もバラエティに富む。その中で,たと えば 1934(昭和 9)年,日本で初飛行したアメリカ製の航空機ダグラスを「ダグラス旅客機」と題 した絵と詩で紹介する18。本文には「ダグラス CD2 型旅客機は十四人乗,時速三四〇籵九州―豪灣 連絡線に就航中」と解説もあり,幼児向けにも時事的話題が盛り込まれたことが分かる。
このように時事問題を誌面で扱う姿勢は,『チャイルドブック』も同様である。たとえば,1953(昭 和 28)年 3 月末に昭和天皇の名代としてエリザベス英国女王の戴冠式に出席した明仁皇太子を,4 月号の絵と詩で「皇太子さまがお乗りになったプレジデント・ウィルソン号」と紹介する19。さらに,
同年 6 月号に「エリザベスじょおうさまの たいかんしき おめでとう おめでとう」の一文を添え,
ウエストミンスター寺院に集まる観衆の絵が描かれた20。10 月号では皇太子の写真入りで,皇居の 絵と「こうたいしさまが おかえりになった ごくろうさま ごくろうさま」の文が掲載される21。 これらの情報の詳細については別に解析が必要だが,ここでは,絵雑誌が絵本とは異なる情報伝達 メディアであった点を確認しておきたい。ただ,絵雑誌は情報伝達の役割を担ったとはいえ,大人 の雑誌にはない,児童文化財としての価値も与えられていた。児童文化活動家・児童文学作家の松 葉重庸[1905-2005]は,児童文化を「大人である教育指導者たち並に一般児童文化生産者たちが児 童たちに,児童たちの幸福とよき社会人に成長するために必要なる文化財を伝承せしめるために生 産するもの」であるとし22,その中の児童読物(幼年向雑誌)に『チャイルドブック』や他の絵雑 誌を挙げた。つまり,絵雑誌は一時的な情報メディアでありながら,それが児童向けであるがゆえ,
絵本と同様に一定の文化的価値が期待されたのである。
(2)『チャイルドブック』の創刊:総合保育雑誌として再登場
1949(昭和 24)年 10 月,『日本のこども』は,『日本のこども絵本・チャイルドブック(みんな よいこ)』と改題された。この時期,編集長の周郷博は,お茶の水女子大学・東京女子高等師範学校 の専任講師に就任したため,『チャイルドブック』においては編集顧問として引き続き出版に協力す ることになった23。ところで,終戦後,周郷は敗戦が日本の児童文化を「建直す好機」と述べ,具
体的に二つの課題を提起した24。一つは,空襲により甚大な被害を受けたことで,寺子屋や小学校,
国民学校など一連の初等教育が再組織の必要に迫られていることである。すなわち,児童文化に関 する問題は,現在,「白紙にかえして根本的に考えていく状態」であり,「小学校と所謂児童文化と の間の伝統的な境界は取り除かれた」ため,小学校教師は「児童の保健の問題は勿論,その環境の 中の種々な社会問題と取組まなければならず,児童の読物,児童雑誌,映画芝居等について通暁し なければならなくなった」。一方で,児童文化人は「その狭い文学運動の殻を破り,又は安易な営利 主義を踏越えて,児童のひろい教育問題と取組まなければならなくなっている」。この二つの動きを 一致させるために,彼は二つ目の課題として,互いの社会認識に一致点を見出すことと,人間観-
児童観を共通のものにするよう主張した25。周郷のこうした認識は,後述のように,『チャイルドブッ ク』編集顧問の時代にも継続することとなる。
『チャイルドブック』は,戦前の号数を引き継いでいることから知れるように,『コドモノヒカリ』
と同じく「楽しい絵本」かつ「子供の生活力を高め豊かにする」絵本作りが第一義だった26。創刊号は,
「編集者保育図書研究会高市次郎/発行者大橋貞雄」,第 15 巻第 5 号は「編集者保育図書研究会 高市次郎,城谷花子,石田道雄/発行者 大橋貞雄」,続く第 6 号には「編集者 指導 周郷博,担当 高市次郎・城谷花子・石田道雄/発行者大橋貞雄」と各担当者が記されており,このまま 1955(昭 和 30)年頃まで継続する。上記の高市次郎[1876-1957]は,戦前にフレーベル館を創業した幼児 教育界の第一人者である。同社からは,『チャイルドブック』のライバル誌『観察絵本キンダーブッ ク』(1927・昭和 2 年創刊)が刊行されていた。この『キンダーブック』は,創刊の辞に「新幼稚園 令の観察項目の加へられたるを機として弊社は此の新計画を発表し,謹みて大分斯界に捧げたいと 思ふ」27とあるように,1926(大正 15)年公布の「幼稚園令」で新たに加えられた,保育項目「観察」
に役立つ保育教材として創刊された雑誌であった。そのため,当時の他の絵雑誌と異なり毎月ひと つのテーマに沿って誌面が構成され,全国の営業所から各幼稚園・保育園へ訪問販売し契約を取り 付ける直販方式を採用した点で特異な存在だった28。戦後の『チャイルドブック』は,これに倣い,
従来の書店販売に代えて直販で営業を行った。また,創刊号に「お母さまへ 本号は,文部省保育 要領の『生活指導』にもとずいて編みました」29と書かれているように,総合保育雑誌として戦後 の歩みを開始した。
ところで,『キンダーブック』が当時 257 × 180 ミリ,全 16 ページで 30 円だったのに対し,『チャ イルドブック』は同様の判型と頁数で 35 円の価格を設定した。その後も,多くの絵雑誌が年々値上 げする流れにのりながら,他誌に比べ 5 円高い価格で販売された。このように,他誌よりもやや高 めの値段だった点から,契約先の幼稚園・保育園に通園する園児の家庭が,地方にあっても比較的 生活に余裕のある層だった可能性が指摘できる。
(3)『チャイルドブック』の営業範囲について
資料から分かる当時の営業範囲は,地図上で示した地域である(※巻末資料【図 1】)。なお,北海
道は札幌市,埼玉県は浦和市,東京都は足立区・江戸川区・北区・江東区・杉並区・墨田区・台東 区・中央区・千代田区・港区・文京区・立川市・多摩市,神奈川県は横浜市,新潟県は高田市(現・
上越市),静岡県は静岡市・浜松市・沼津市・蒲郡市,愛知県は名古屋市・豊橋市,兵庫県は神戸市,
山口県は下関市の 24 市区名が確認できた30。
また,当時の営業担当の証言によれば,創刊時は「幼稚園の数も少なく,片端から訪ねて歩いた のであったが,『チャイルドブック』はほとんど知っている人はいないというのが実状であった」(江 戸川・葛飾・足立・横浜市地区担当)。さらに,「特にどの園も歴史のあるキンダ―ブックが圧倒的 に採用され,チャイルドさん,済みませんが戦前からフレーベルと関係があるからとか,絵本が悪 いのでといった断りの言葉が強く,これが厚い壁となり,旺盛な志気も阻喪しそうな事がしばしば でした」(九州地区・下関市担当)と,当初は知名度の点で『キンダ―ブック』に押され売り上げが 伸び悩んでいた。
しかし,同じ九州地区担当者は,「幸い二十六年以降,戦後の第一次ベビーブームの幼児たちが 入園するようになり,それに応じて各地で新設園が増設され,絵本も年と共に増販を見るようにな りました」,「各鉱業所で働く人々の幼児達のために,保育園の設置が積極的になされた関係上,炭 鉱地区での増冊もまた売上に大きく寄与しました」と述べている。幼稚園数は,戦前の 1940(昭和 15)年に国公私立 2,079 園だったが,終戦時に一時大きく落ち込んでからは,1950(昭和 25)年に 2,100 園,1960(昭和 35)年には 7,207 園まで増加,以後,高度経済成長期は右肩上がりで推移す る31。数値は保育園を除外しているため,それも合わせればさらに数は増えるだろう。また,『チャ イルドブック』の売上部数に関して,1950(昭和 25)年は不明だが(ただし,年商は 144 百万円),
1955(昭和 30)年には 180,000 部(年商 142 百万円),1960(昭和 35)年で 213,000 部(年商 132 百万円)だった32。これら発行部数も,本誌が同時期に売り上げを大きく伸ばしたことを示している。
つまり,本誌は新興の幼稚園・保育園設立とともに読者範囲を拡大していったのである。
3.本誌の内容分析:「地域性」の変遷に着目して
(1)分析記事について
分析の対象とする時期は,『チャイルドブック』創刊号から第 27 巻第 12 号(『チャイルドブックゴー ルド』発刊によるジャンルの細分化)までとした。資料は下記のとおり,全 180 冊中 117 冊で,出 版されたと思われる 64 冊は未見のままである。
対象資料一覧(117 冊)
年代 巻 号 昭和 24 年 1949 第 13 巻―10
昭和 25 年 1950 第 14 巻―9 10 11 12 昭和 26 年 1951 第 15 巻―1 3 6
昭和 27 年 1952 第 16 巻―4 8 9 10
昭和 28 年 1953 第 17 巻―1 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 昭和 29 年 1954 第 18 巻―1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 昭和 30 年 1955 第 19 巻―1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 昭和 31 年 1956 第 20 巻―1 2 3 4 6 9
昭和 32 年 1957 第 21 巻―4 9 12
昭和 33 年 1958 第 22 巻―1 4 5 6 7 9
昭和 34 年 1959 第 23 巻―1 2 4 5 7 8 9 10 11 12 昭和 35 年 1960 第 24 巻―1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 昭和 36 年 1961 第 25 巻―1 2 3 4 6 7 8 9 11 12 昭和 37 年 1962 第 26 巻―1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 昭和 38 年 1963 第 27 巻―1 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
上記の 15 年間を編集姿勢と内容面からみて区分すると,次のように分けられる。
① 創刊号〜第 16 巻第 12 号 1949(昭和 24)年〜 1952(昭和 27)年:『日本ノコドモ』時代か ら周郷博の協力者として編集に携った,城谷花子が編集長に就任。周郷博は編集顧問として 引き続き雑誌発行に関係する。また,戦前,北原白秋に師事した石井英雄(まどみちお)[1909-]
が編集に加わる。
② 第 17 巻第 1 号〜第 21 巻第 8 号 1953(昭和 28)年〜 1957(昭和 32)年:周郷と城谷の主 導により,「地方編集会議」(名称「チャイルド地方企画会」)が発足。また,第 20 巻第 3 号から,
本社独自に開発したカリキュラムに沿い,「標準発達カリキュラム準拠」と表紙に記載された。
これにより,各頁に「自然・音楽リズム・制作・社会・ことば・遊び・生活」のいずれかで,
ねらいの説明が加えられる。
③ 第 21 巻第 9 号〜第 27 巻第 12 号 1957(昭和 32)年〜 1963(昭和 38)年:「地方編集会議」
の終了から,ジャンルの細分化にともなう『チャイルドブックゴールド』発刊までの時期。
表紙には,「標準発達カリキュラム準拠」の記載。
分析に際しては,まず,それぞれの記事を①「タイトル」,②「作家名」,③「画家名」,④「ジャ ンル=絵と文,お話(創作話・日本民話・外国民話),絵,絵話,漫画,歌(童謡・唱歌・わらべ唄),
写真,遊び,知識」に分類した。そのうち,「写真」は分析から除外した。次に,立柳[2001]を参 考に「地域性」を示すカテゴリーを「自然環境」,「歴史的環境」,「社会的環境」,「情報環境」と定めた。
また,蓮見[2002]の『キンダーブック』における幼児の教育環境分析に従い,「自然環境」を「気 象/動物/植物/昆虫」,「歴史的環境」および「情報環境」に相当する項目を「地理(地形)/国・
地方/家・建造物」とした。「家・建造物」については,「園・学校(室内・庭)/家(室内)/庭(縁
側・玄関含む)/建物/店/神社・仏閣など/交通(道路,線路,港など)/公共(動物園,運動場,
テレビなど)」の下位項目を設定した。また,「社会的環境」については,登場人物の属性(性別,年齢)
および職業で分類した(動物の場合は種類)。その他にも,「生活(生活用品・食物・服装・生活様 式など)」,「遊び(玩具・子どもの姿など)」に特徴的な点が見出された場合は,備考欄に記載し考 察に加えた。
(2)―1 地理的環境における「地域性」
本稿では,各期で顕著な差のあった「地理(地形)/国・地方」,「家・建造物」に関して,必要 に応じその他の結果も示しながら論じることとする。
まず,対象年代の記事総数は 1 期が 73,2 期が 354,3 期が 272 であった。そのうち,場所を表 すカテゴリーの「地理(地形)/国・地方」は,1 期が 25(34.2%),2 期が 122(34.4%),3 期が 130(47.8%)だった(※巻末資料【表 1】)。総数は徐々に増加しているが,さらに細かくみると,「国・
地方」のうち日本国内は,1 期が 0 で,2 期が 26,3 期が 5,外国の国名・地域名は,1 期が 1 で,
2 期が 11,3 期は 12 であった。ここから,2 期の「地方編集会議」の開催された時期は,日本国内 の地名に関する記事が外国記事に比べて多く,逆に 3 期は,外国についての記事が日本国内を上回っ ていた点が明らかとなった。
この 2 期の日本国内の地名の描き方の特徴は,主にそれが地域の祭りなどとの関わりで示される 点である。たとえば,第 18 巻第 7 号(1954・昭和 29 年刊行)では,広島県の厳島神社が詩ととも に描かれている。「なつまつり(厳島神社の管絃祭。旧六月十七日。)」と題した本文には,「ゆうや け こやけの おやしろに まつりの おふねが そろいます かがりび かがりび ふえ たい こ にぎやかな よる またれます」と祭りの高揚感や期待感が表現されている33。他にも,新潟県 上越市で地方編集会議が行われた第 20 巻第 2 号では,八王子市の「おかめ」,宇和島市の「やつじ かめん」,埼玉(吉見)の「きつね」など,節分のお面の地域ごとの違いを絵と詩で紹介している34。 一方,3 期の描写は,「東京タワー」,下関市の「関門トンネル」(ともに第 22 巻第 7 号)や足立区の「お ばけ煙突」(第 24 巻第 3 号)等,同じ日本国内でも工業・科学技術の発達を象徴する記事であった。
次に,外国の国名・地域に関して,継続前誌『日本のこども』の時代には,米兵の姿などが風景 の中に多く描き込まれていたのに対し,1 期は「アメリカのおつきさま」と題したお話があるのみだっ た。また,2 期については,アメリカだけでなく中国,イギリスなど外国の昔話に地名が登場する他,
前述したイギリスのエリザベス女王の戴冠式のような時事的話題,アメリカの飛行機「スーパーコ ンステレーション機・エアロコマンダー機」のように特定の乗物の紹介であった。さらに,3 期は,
多くが各国の民話で,2 期に比べるとインド,ロシア,エジプト,グリーンランド等,紹介される国 の多様な点が特徴的である。
最後に,地理(地形)に関する記事は,3 期いずれも最も多く扱われていた。特に,山と森,海,
野原,川などをそこで遊ぶ動物や子供の姿とともに描くことが多かった(※巻末資料【表 1】)。ただ
し,2 期の場合,同じ野原の風景でも地方の特色をふまえて描かれている点が特徴的である。たとえ ば,第 16 巻第 10 号は地方編集会議が北海道札幌市で行われた。「あかとんぼ」と題した記事は,夕 焼け空に赤とんぼが飛ぶ様子を子どもたちが眺める構図だが,広い野原の背景には北海道らしい牛 舎と乳牛の絵が描かれている。また,同じく北海道での編集と思われる第 19 巻第 1 号は,雪景色の 丘でそり遊びに興じる大勢の子どもたちの背景に,馬ぞりに乗る男性の姿がみられる。2 期のこうし た地域的特性を表した自然描写が,3 期になると動物の頻繁に登場する架空の景色となっていった。
(2)―2 幼児の生活風景の変化
次に,「家/建造物など」を示す記事は,1 期に 63(86.3%),2 期に 178(50.2%),3 期に 193(71.0%)
だった。全体的な割合では,1 期と 3 期にこれらの描かれる頻度が高かったが,下位項目をみると,
各時期に多く扱われる対象が若干異なった(※巻末資料【表 2】)。具体的に,1 期に多く出現した項 目は「建物(特に住宅)」から順に,「園・学校」,「交通」および「室内」であった。次いで 2 期の 場合,最も多い「園・学校」から,「建物(特に住宅)」,「交通(特に汽車・電車)」,「室内」の順で ある。最後に,3 期は「交通(特に道路)」が最も多く,「建物」,「公共」,「園・学校」と続いた。こ のように子どもの生活と関わる事物を多く描く点に,本誌の「生活指導」の意図が表れる。だが,1・
2 期は幼稚園・保育園の場面が多いのに対し,3 期は「交通」,「建物」,「公共」など園以外の空間を扱っ ており,園児たちの生活空間が内(園)から外(街)の世界へ広がっていく様子が浮かび上がる。
さらに,「地域性」という観点からは,また別の面もみえてくる。たとえば,第 25 巻第 1 号(3 期)は,
「おめでとうのうた」と題して雪国のお正月の一家の風景を描いている。室内には,ちゃぶ台を囲み,
両親と祖母,3 人兄妹(兄弟妹)がおせちとお雑煮を食べている。玄関脇にはヤギが飼われており,
背景の雪山には熊が洞穴で冬眠中である。この絵と詩の左下隅には,「行事・音楽リズム:楽しいお 正月の生活です。地方によって,その環境や行事のあり方が多少違いますから,わかりにくいとこ ろは,その地方と比較して,よく説明してやりましょう」とねらいが示されている35。このような 解説がつくのは「標準発達カリキュラム準拠」以後だが,ここから,絵をとおして母親や保育者が 各地の生活の違いを子どもに伝えることを意図したと分かる。だが,同じ室内のお正月の場面でも 1 期は両親と子どもの核家族が描かれる傾向にあり,他の「室内」項目も台所や子供部屋,お風呂場 等,どちらかといえば都市の家庭を思わせる絵が主であった。実は,先の説明とは矛盾するようだが,
3 期は 1・2 期よりも多く農山漁村それぞれの生活を表わす記事が頻繁に出現した。具体的に【表 2】
の「建物」の項目を参照すると,3 期はそれ以前に比べ「住宅」と「田舎家」の出現回数が拮抗する。
特に,2 期の「田舎家」がほぼ農村であったのに対し,3 期はさまざまな職業の紹介にちなみ漁村や 山村の風景を描いた。また,「職業」項目の結果によれば,1 期は第 1 次産業の項目が全体の 9.0%,
2 期は 30.6%,3 期が 39.7%であった(巻末資料【表 3】)。より詳細には,1 期は農業のみ,2 期は 農業と畜産業,3 期は農業と畜産業,漁業,林業だった。また,3 期はその他にも野球選手や医者といっ たさまざまな職業人が新たに登場している。つまり,歴史・自然環境を強調した 2 期とは違い,生活・
職種の多様性に,より「地域性」が表れたといえる。また,2 期の場合は,特に都市と農村の対比構 造で子どもの生活の差異,「地域性」を描いたことが明らかとなった。
ところで,3 期はこれまでにはあまりみられなかった「デパート」や「テレビ」,「工場」,「自動車」
など都市の風景を象徴する多くの項目が出現する。その中でも,第 21 巻第 12 号は,「お猿のちゃいちゃ ん」が円盤に乗って,山から田畑のある田舎の風景,たくさんの住宅や商店,工場が立ち並ぶ街へ,
さらに,大都市のデパートの屋上へ到着するというストーリー形式の絵になっている。この記事の 解説文には,「農山漁村から都市へ,社会の移り変わりを理解させましょう」と書かれている36。こ のように,3 期は地域ごとの違いを表す一方で,それが必然的に都市的なものへと移り変わってい くという「発展」の物語を同時に伝えているのである。なお,本稿の分析に含まなかった 1960 年代 以後の『チャルイルドブック』の誌面は,固有の「地域性」を失っていく傾向にあった。それゆえ,
1950 年代という一時期ではあるが,全国的な絵雑誌にさまざまな地方の風物が反映された内容が盛 り込まれたことは,子どものメディア史上でも特異なことだったといえるのではないだろうか。今後,
同時期の他誌とも比較しながら引き続き検討していきたい。
4.「地方編集会議」の成立背景とその役割
(1)契機としての IFEL 幼年教育研究会
前章では,「地方編集会議」時代の絵雑誌の内容に,自然・歴史的環境を中心に固有の「地域性」
が表れた点が明らかとなった。最後に,地方編集会議の成立状況をふまえ,関係者の語りからその 役割について考察する。
地方編集会議の発足した直接のきっかけは,周郷博が 1949(昭和 24)年にお茶の水女子大学の専 任講師に就任したことだった。ちょうどこの翌年に,お茶の水女子大学では,文部省および CIE(GHQ 民間情報教育部)の共催で教育関係専門家の養成を目的に「IFEL(TheInstituteForEducational Leadership)=教育指導者講習」(以下,IFEL)の第 5・6 期の講習会が開かれた。IFEL は,1948(昭 和 23)年 10 月から 1952(昭和 27)年 3 月まで 8 期にわたり,お茶の水女子大学,東北大学,東京 大学,東京教育大学,京都大学,広島大学など各地の大学を会場に実施された。講習期間は 2 週間 から 6 週間,または 12 週間という長期に及ぶものだった。また,占領終結後の 1952(昭和 27)年 の秋には,日本独自で第 9 期 IFEL が企画された。下記が,その開催主旨である37。
「『教育指導者講習』は,再建日本のための新教育が正しい方向をめざして発足し,発展するこ とを願い,文部省が予算を立てて開始した事業の一つである。連合国軍最高司令部民間情報教 育局はこの事業計画を立てるにあたって絶大な援助をしてくれたことは忘れられない感謝であ る。けれども講習の内容については文部省も民間情報教育局も干渉はしなかった。なるほど米 国から派遣せられた講師も,日本側の大学から加わった講師も,この事業の内容を価値あり意 義あるものにするために最大の協力をしたのであるが,決してある一定の型をもってこれを押
しつけようとはしなかった。新しい教育の枠は戦後の教育書法令が規定しているが,これをど のように具体化するかは日本人自身が現場で工夫し実行しなければならない問題である。そこ で文部省は先ず日本の教育改革の第一線に活動している指導者達のための講習を計画し,これ にその人々の自発的な参加を求める。この指導者達を教育行政官,学校管理者,指導主事,青 少年指導者,大学教授というように夫〻自ら職とする専門分野別に組分けして開設大学に入れ る。この組分けは年次によって異った。(後略および傍線:引用者)」
IFEL の日本人講師の名簿によれば,周郷博は 1 期から 8 期全てに関わっており,中でも 3・4 期 は副主幹,5・6 期は主任講師に任命されている38。特に,お茶の水女子大学で開催された 5・6 期 は,これまではなかった「幼稚園教育」の講座が新たに設置され,外人講師として,幼児教育専門 家でアメリカ合衆国教育省(局)初等教育顧問(ConsultantofElementaryEducation,U.S.Office ofEducation)の G.M.Lewis が招聘された39。松葉は当時のことを次のように回想している。「昭和 二十五年秋から翌年の春にかけてお茶の水大学を舞台として,日本全国の初等教育者の再教育が行わ れた。これらの研究集会はいうまでもなく彼(周郷:引用者注)とルイス女史とのコンビで行われた ものといえよう」40。また,国民図書刊行会の編集者であった角尾によれば,講習会の「受講生の教 諭は計三十六名,国公私立の幼稚園・小学校の教諭・校長・園長,教育委員会指導主事,短大・大学 の助教授・講師等で,北海道から九州に至る,極めて広範囲からバラエティに富む顔ぶれだった」41。
「昭和 25 年度教育指導者講習会修了者名簿」によれば,「幼児教育」部門は 12 週間コースで 9 月 18 日から 12 月 8 日にかけて実施され,修了者は 19 名(うち男性 9 名)であった42。受講生は,幼稚 園関係者が最も多く,その他には教育委員会の指導主事,小学校校長,文部教官,短大講師等であ る。また,都道府県別では関東甲信越 4 名,北海道・東北 3 名,北陸 1 名,東海 2 名,関西 5 名,
四国・中国 3 名,九州 2 名となっており,それぞれの地域から受講者が参集したことが分かる。なお,
IFEL への参加者は,全期間を合わせて延べ 9,374 人で,都道府県別参加者数は東京の 1,396 人を最 大に,大阪 393 人,北海道 384 人,福岡 373 人と続き,最も少ない鳥取県でも 74 人だった43。この ことからも,当時の講習会が全国各地の教育関係者で構成され,活況を呈した様子が伝わってくる。
さらに,この「幼稚園教育」の講習会は,小グループでの共同研究や討議,調査,資料収集を中心 に,必要に応じて全国から講師を招き指導を仰いで進められた44。IFEL 開催目的には,参加者それ ぞれがもつ問題について,専門家らの経験や意見を聞きながら「自由に論じあうことができるよう に討議会も開けば研究会も設ける」,「必要とあれば実地調査,見学,実習,実証もしてよい」とある。
また,こうした学習は「相当長期間に亘る生活共同体の経験をとおして,頭で学ぶことを行動をと おして学ぶ形をとったもの」と述べられており,周郷らの講座もそうした全体の主旨にかなうもの であった45。
加えて,この講習会をきっかけに,国民図書刊行会では 2 種類の報告書と研究書が刊行される。
前者が,周郷博ほか編『アメリカ教育使節団報告書要解』(1950・昭和 25 年刊行),後者が IFEL 幼
年教育研究会編『幼年教育』全 4 冊である。このうち『幼年教育』は,「幼稚園教育」講習会のメンバー らにより,会の研究成果として 1952(昭和 27)年の第 1 号から,1953(昭和 28)年の第 2 号,1954(昭 和 29)年の第 3・4 号まで出版された。国民図書刊行会が同書の出版を請け負ったのは,周郷が『チャ イルドブック』の編集顧問に携っていた縁からである。そして,角尾によれば『幼年教育』は,こ の当時編集長であった城谷花子が「東奔西走,各地の指導者になっている IFEL メンバーを軸にして,
幅広い編集を展開し」完成したものだった46。これら刊行物によって「たちまちチャイルド本社(国 民図書刊行会:引用者注)の勇名を全国の幼児教育関係者に知らしめ」,「顧問周郷博がチャイルド の名を全国に知らしめた」のだが47,この時の城谷と各地の幼児教育関係者との出会いが,地方編 集会議の実現にも繋がるのである。
(2)参加者の回想にみる「地方編集会議」の役割
IFEL での結びつきを端緒として生まれた地方編集会議は,記録によれば 1953(昭和 28)年か ら 4 年間,第 1 回目の大阪を皮切りに毎月 1 回のペースで合計 48 回開催された。資料から確認でき た開催地は,大阪,北海道(札幌市),新潟(上越市),神奈川(横浜市),長野,愛知(名古屋市),
兵庫(神戸市),山口(下関市),福岡,長崎,宮崎,鹿児島である。ただし,後述の城谷の回想で,
各地の出張所や販売店の協力によって会議が開かれたと述べられており,【図 1】の営業範囲と照ら し合わせれば,記録にはないがその他の都道府県でも開催された可能性が高い。ここでは最後に,
地方編集会議の中心人物だった城谷花子をはじめ,当時の会議に参加した 5 人の幼児教育関係者の 回想から取り組みの成果と役割について検討する。
まず,『幼年教育』をきっかけとして,各地の幼稚園教諭らと関わりをもてるようになった城谷花 子は,地方編集会議の発足について次のように語っている48。
「(周郷に,各県の IFEL 参加者の幼児教育者を紹介されたことは,)私にとってはもちろん,会 社にとってもなによりの贈りものでした。周郷先生の温かい配慮のおかげで,日本の幼児教育 のパイオニアとして,長く活躍しておられる諸先生を知って,私の仕事部屋の窓は大きく開い た思いがいたしました。この各地の先生方に中心になっていただき二十八年一月より毎月一回,
チャイルド出張所や販売店の協力のもとにチャイルドブックの地方編集会議を開くことになり ました。この会には周郷先生も何度か出席してくださり,また大橋社長も度々出席されました。
これによって各地の先生との交流も深まり,絵本の企画の上にはもとより,営業面にもプラス になったことは,あきらかです。」
上記から,地方編集会議の成果は,城谷個人にとって,これまでの『チャイルドブック』編集の 仕事が大きく広がったことだった。また,雑誌の作り手と各地の実践に従事する教育者との交流が 深まったこと,それが販売数の向上にも役に立ったことは,当時の営業担当者の記述でも言及され
ており,本誌全体の利益であったといえる。
次に,勝木とみは,長野県保育専門学院講師・松本短期大学教授(1984・昭和 59 年現在)であり,
地方編集会議の当時は新潟県上越市の保育園に勤務していた。勝木は,1950(昭和 25)年 10 月 10 日に,
翌 1951(昭和 26)年の 3 月号の企画を,与田準一と城谷花子,富山営業所の安倍,それに新潟県の 雪国に生活する保育者たちの共同企画で行った。また,1955(昭和 30)年 9 月には大橋貞雄社長と城谷,
営業の安倍夫妻が新潟県高田市に来て,翌年 2 月号の編集会議が開かれた。勝木は,この 2 回の会 議開催の意義について,次のように記している49。
「それまで,絵本というものは,都市の出版社が独自のお考えで企画され,専門家の手により作 製されて私どもの現場におりてくるものと考えておりました。しかし,地方での編集会議により,
絵本というものを,とても身近なものと感じるようになり,子どもを,保育を,見る目を開か せていただきました。(中略 : 引用者)北陸地方は,安倍さんが担当でおられましたが,どの園 でも安倍さんが来られるのを楽しみにしておりました。お人柄とお仕事に対するご熱意はもち ろんですが,雪におおわれた生活でとかく閉鎖的になりがちな私どもに,地方のニュースを聞 かせてくださったり,保育についてよいアドバイスをしてくださったり,居ながらにして私ど もは再教育をしていただいておりました。最近は,絵本に関心をもつ方が多くなり,手作りの 絵本グループがつくられていますが,過去をふりかえりますと,その基は,地方もちまわりの あの編集会議が発端といって過言ではないと思います」
上記のように,勝木は活動により自らの手で子どもの絵本を作るという発想をもち,保育者とし ての自立性を養った。また,新潟の雪深い気候条件によって,都市から訪れる児童文学者や編集者,
営業者との交流はさまざまな知識を得られる貴重な情報源であった。
次いで,山口たつは,名古屋市青葉幼稚園園長・一宮平安幼稚園園長(1984・昭和 59 年現在)で ある。彼女は,第 5 期 IFEL の受講生で,名簿によれば当時は愛知学芸大学付属幼稚園文部教官であっ た50。名古屋を中心とした愛知県での地方編集会議は,1953(昭和 28)年 9 月号の出版のために同 年の初め頃に開催された。山口の証言からは,当時編集会議に出席した教諭たちのその後の活躍に ついて知ることができる51。例えば,幼稚園教諭だった岩崎は,その後,江南女子短期大学教授と して幼児教育者養成を行う。同じく幼稚園教諭の山本正は,犬山市で合唱団の幼稚園顧問理事を務 めている。また,執筆時は絵本の出版社を経営していた勝田昭三は,名古屋市の幼児教育の内容向 上のために,毎年講習会を開催し,絵本の扱い方について指導員を通じ現場の教師に理解させている。
さらに,山口は編集会議の後に,周郷を幼稚園へ迎え母親たちのための講演を開催している。この ように,地方編集会議での活動を契機に,参加した教諭らは,さまざまな地域のための幼児教育実 践に携わっていったと考えられる。
次の遠藤君も,お茶の水女子大学の IFEL 講習会の参加者の一人である(ただし,「昭和 25 年度
教育指導者講習会修了者名簿」には記載なし)。当時,遠藤は幼児教育者の養成機関である頌栄短期 大学(神戸市)に教授として在職していた52。地方編集会議は,1952(昭和 27)年 7 月号発行のた めで,参加者には神戸市の「公私立の園長,主任級の教師たち」が出席し,各々意見を述べ合った。
彼女によれば,編集会議の過程では作家や編集者だけでなく絵本画家との交渉があった。そして,
それが保育者の絵本を見る目を大きく変えることに通じたという。
「(会議の)内容をいよいよ絵に表現してくださる幼児画の先生に意志の疎通をはかり,一冊の絵 本となるまで大変な努力が必要なのであることを知った時,絵本を見る心が変わったのである。
(中略:引用者)私はかねてから幼児画家の黒崎義介先生にお目にかかり,先生の謦咳に接した いと願っていたことが実現して,城谷姉と同道して黒崎義介先生のお宅にお伺いしてお話をお 聞きできた時の感動は今も胸に深くのこっている。黒崎先生は動物を描く時(例えば熊)は動 物園に朝からお弁当を持って日参され,一日中おりの前でスケッチされる。当時先生のお宅に ご一緒におられた幼い甥ごさんを伴って動物園に行かれる。そしておりの中の熊とそれを見る 幼児のしぐさ,表情などを克明に頭の中に入れてから絵にするのだとお聞きしたのである」53。
幼児教育者が編集作業に携わるということは,このように,通常は知ることのなかった作家や画 家の地道な創作過程をも目の当たりにすることになったのである。
次に,福島ハマは,編集会議が開かれた 1952(昭和 28)年の当時,厚生省児童局保育課の厚生事 務次官として勤務していた(現職は泉短期大学教授と記載されているが現存せず)。彼女は,チャイ ルド社の北海道支社長野村孝太郎の要請で,札幌市において本社主催で開催される保育の講義の担 当講師として招聘された。講習会は同年の 6 月 10・11 日に 2 日間かけて行われ,受講生は 100 人 余りだった。また,出版社からは野村夫妻だけでなく,大橋貞夫社長と城谷花子編集長も参加した。
加えて,当地の「有名な公立私立の幼稚園・保育所園長」も招かれていた。この講習会の後に,出 席者の「公私立の幼稚園,保育所の園長など,北海道保育界の実力者方」で編集会議が行われ,こ れが同年 10 月号の雑誌刊行に実を結んだ。福島の証言から,地方編集会議においては,単に一部の 幼稚園・保育園関係者らが集まるだけでなく,合わせて地域の幼児教育関係者のための講習会など が実施されていた事実が分かる。また,雑誌が充実したものに仕上がったのは,「北海道保育界の実 力者を動員した」野村の力に負うところが大きいと彼女が語った点に,準備にあたる地方営業所社 員の日頃の地域との交流が雑誌の完成度を左右したことが示されている。
最後に,小川江美(淑徳大学講師・日本フォークダンス連盟理事)は神奈川県横浜市で 1954(昭 和 29)年に開かれた編集会に参加していた。ここでは,翌年の 2 月号の企画が行われたのだが,小 川も会議開催にあたる横浜営業所の田中千万喜の尽力について述べている。田中は,1951(昭和 26)年に横浜営業所を開設し,そこで普段から地元の保育者のために保育用品などを販売していた。
小川は,彼が「幼児教育に熱心であり,当時保育用品販売の少ない時代,ずい分お世話になった」
こと,「特にチャイルドブック編集については,会場設定,連絡係など,仕事を投げ出して協力して くださった」ことを語った54。このように,地方営業所では編集会議の開催に際し大きな責任があ ると同時に,日頃から保育用品の販売などで,地域の幼児教育関係者たちと交流を深めていたので ある。つまり,地方編集会議は本社から訪れる児童文学者や編集者だけでなく,こうした保育関係 者らと社員の日常的な繋がりによって成立し,絵雑誌作りを実現していたのである。
以上述べてきた地方編集会議の役割は以下のようにまとめられる。会社側にとって,それは①地 域の保育実践者や母親らと交流をもつことで,子どもの実生活に即した絵雑誌を構成し,仕事の幅 を広げることができ,②地域密着型の営業を展開することで,雑誌の完成度を上げ,それが購読者 獲得にも結びついたことである。他方,保育実践者らにとっては③画家や作家,編集者らと絵本の 編集を行うことで,絵本をより身近に感じることができるようになり,保育に対する見方が変化した,
④他のさまざまな幼児教育関係者らとの交流により,保育についての知識が深まるだけでなく自立 性・自主性が養われたことである。周郷は後年,幼児の成長にとって重要なことは,「家庭の集まり としての地域」の必要性であると述べた。つまり,幼児教育では,学校教育にただ従うのではなく,
家庭と地域が自立性をもって協力することが必要だと説いたのである55。彼にとって地方編集会議は,
絵雑誌の編集を通じて地域の幼稚園・保育園と家庭,社会が互いに自立性を育み合い,恊働で子ど もの教育について考える格好の場だったのではないだろうか。
5.おわりに
本稿では,1950 年代の幼年向けの月刊絵雑誌『チャイルドブック』について,その記事内容を「地 域性」の観点から検討し,その上で,「地方編集会議」の成立背景と役割について明らかにすること を課題とした。
戦後,総合保育雑誌として歩み出した『チャイルドブック』は,戦前の絵雑誌と同様に情報誌的 な性質を含みつつも,子どもの実生活に即し,新たな時代に対応した文化的価値ある誌面作りを目 指していた。本誌の内容から,そうした理念の具体的な現れとして,子どもの生活する日常風景を 記事に多く登場させた点が明らかとなった。また,特に地方編集会議の行われた時期には,子ども のメディアの歴史上でも比較的早い段階で,絵雑誌の表現の中に「地域性」を盛り込む努力がなさ れていた。具体的には,特に全国各地の自然の景観や宗教的行事などから,そうした固有の「地域 性」が示された。ただ,実際にはそれが都市と農村との対比でしか描かれず,山村漁村などその他 の土地の生活が捨象された点にも特徴があった。さらに,地方編集会議の終了後も,子どもに地域 の特色を理解させるというねらいは一定期間継続され,むしろ職業などの面では,都市と農村だけ に留まらない多様性が生まれていた。だが,同時にそれは,地域が都市的なものへ移り変わり「発展」
するという物語に埋め込まれ表現されたことも明らかになった。最後に,子どもの生活における地 域性は,その後誌面から徐々に失われる傾向にあったことを付け加えておく。
さらに,本誌編集において重要な役割を担った「地方編集会議」は,周郷博や城谷花子ら絵雑誌
の作り手たちと,IFEL の「幼児教育」講習会に参加した幼児教育関係者たちを中心とした実践家ら が恊働で行った活動である。地方編集会議の実態に関してはまだ多く調査の余地が残されているが,
本稿で示した関係者らの回想録によれば,その役割は以下のようにまとめられる。出版社側にとっ ては,それによって①地域の保育実践者や母親らと交流をもつことで,子どもの実生活に即した絵 雑誌を構成し,仕事の幅を広げることができた,②地域密着型の営業を展開することで,雑誌の完 成度を上げ,それが購読者獲得にも結びついた。また,保育実践者らにとっては③画家や作家,編 集者らと絵本の編集を行うことで,絵本をより身近に感じることができるようになり,保育に対す る見方が変化した,④他のさまざまな幼児教育関係者らとの交流により,保育についての知識が深 まるだけでなく自立性・自主性が養われた。今後の課題として,同じ時期の他誌と本誌との比較分 析を行うことが必要なのに加え,本稿ではその実態が十分に把握できなかった読者層(家庭と子ども)
の視点から,戦後の絵雑誌の様相について引き続き考察していきたい。
[付記]
本論は、平成 23 年度早稲田大学特定課題研究助成費(課題番号 2011A―855)による研究成果の一部である。
[注]
1 立柳[2001]は,「文化」を「環境への適応の仕方」と捉え,具体的に①自然環境②歴史的環境(歴史的建造物など 人工的に作られたもの)③社会的環境(家族や友人など周囲の人間)④情報環境を挙げ,これら 4 つの「文化」の 地域的な特性や,世代間の違いにも配慮する必要性を指摘した。
2 上笙一郎編『日本〈子どもの歴史〉叢書別巻:児童史研究のために』久山社,1998,pp.63-65 3 稲子文月「こどもの遊びについて」,日本社会教育学会編『日本の社会教育 第 1 集』国土社,1955 4 日本社会教育学会編『日本の社会教育 第 13 集:都市化と社会教育』東洋館出版社,1969
5 渡辺悟郎「茨城からの発言―都市化のなかの社会教育方法論序説」,同上『日本の社会教育 第 13 集―:都市化と 社会教育』p.221 渡辺の論旨は,子どもに限らず地域の生活者全般を述べたものである。なお,社会教育における 地域の意義を問い直す研究は,その後昭和 51(1976)年まで継続された [ 津高 :1981]。
6 上掲『日本〈子どもの歴史〉叢書別巻:児童史研究のために』p.159
7 周郷博「児童文化の理念と反省」,『児童心理』第 1 巻第 8 号,金子書房,1947.8
8 古田足日や鳥越信らの早稲田大学童話会は,戦前の「童心主義」児童文学を乗り越え,プロレタリアおよび民主主 義児童文学の伝統を継ぐかたちで,1953(昭和 28)年,マニュフェスト「少年文学の旗の下に」を宣言した。1960
(昭和 35)年には,物語の「面白さ」を重視し,欧米のファンタジー文学を開拓した石井桃子らも現れる。(猪熊葉子・
神宮輝夫ほか編『現代日本児童文学史』明治書院,1974,pp.13-14)
9 上笙一郎『児童文化史の森』大空社,1994,pp.117-118
10 中村悦子『幼年絵雑誌の世界―幼児の教育と子どもの生活の中から』高文堂出版社,1988,p.112 11 「座談会帝京出版部時代を語る」,『チャイルド本社五十年史』チャイルド本社,1984,pp.35-38
12 周郷博「少国民雑誌の新面貌」,『少国民文化』1942,p.57(上掲『幼年絵雑誌の世界―幼児の教育と子どもの生活 の中から』p.120)
13 その他にも,博文館の『家庭エホン』(1946・昭和 21 年 1 月創刊),新世界社の『コドモノハタ』(同年 4 月創刊),
フレンド社の『フレンドブック』(同年 8 月創刊)など多数ある。(鳥越信編『日本の絵本史Ⅲ―戦後絵本の歩みと 展望』ミネルヴァ書房,2002,p.369)
14 『日本ノコドモ』第 9 巻 7 号,国民図書刊行会,1945
15 『日本ノコドモ』第 10 巻 1 号,国民図書刊行会,1946
16 永嶺重敏『雑誌と読者の近代』日本エディタースクール出版部,1997 17 『コドモノヒカリ』第 1 巻 1 号,子供研究社,1937
18 同上『コドモノヒカリ』pp.4-5
19 『チャイルドブック』第 17 巻第 4 号,国民図書刊行会,1953,pp.5-6 20 『チャイルドブック』第 17 巻第 6 号,国民図書刊行会,1953,pp.7-8 21 『チャイルドブック』第 17 巻第 10 号,国民図書刊行会,1953,pp.5-6
22 松葉重庸『児童文化概論』巌松堂書店,1950(加藤理ほか編『児童文化と学校外教育の戦中戦後』有限会社港の人,
2012,p.550)
23 松葉しげつね「周郷博君のこと」,『チャイルド本社五十年史』チャイルド本社,1984,p.87 24 周郷博「児童文化の理念と反省」,『児童心理』第 1 巻第 8 号,金子書房,1947.8,p.501 25 同上 p.502
26 『チャイルドブック』創刊 70 周年記念冊子より(チャイルド本社,2006)
27 「観察絵本キンダーブッック創刊」,『フレーベル館 100 年史』フレーベル館,2008,p.47 28 上掲『日本の絵本史Ⅲ―戦後絵本の歩みと展望』p.368
29 『チャイルドブック』第 13 巻第 10 号,国民図書刊行会,1949 30 『チャイルド本社五十年史』チャイルド本社,1984 より確認 31 『幼児・児童教育講座―幼児と学校―』(1964)pp.24-25 32 上掲『チャイルド本社五十年史』p.232
33 『チャイルドブック』第 18 巻第 7 号,国民図書刊行会,1954,pp.7-8 34 『チャイルドブック』第 20 巻第 2 号,国民図書刊行会,1956,pp.1-2 35 『チャイルドブック』第 25 巻第 1 号,国民図書刊行会,1961,pp.1-2 36.『チャイルドブック』第 21 巻第 12 号,国民図書刊行会,1961,pp.1-7
37 「教育指導者講習小史」(高橋寛人編『占領期教育指導者講習(IFEL)基本資料集成・第Ⅲ巻』すずさわ書店,1999,p.9)
38 同上「教育指導者講習小史」p.31 39 同上「教育指導者講習小史」p.39 40 上掲「周郷博君のこと」p.87
41 角尾稔「『幼年教育』編集をめぐって想い出すこと」,『チャイルド本社五十年史』チャイルド本社,1984,p.149 42 「昭和 25 年度教育指導者講習修了者名簿」上掲『占領期教育指導者講習(IFEL)基本資料集成・第Ⅲ巻』p.247-248 43 上掲「教育指導者講習小史」p.41
44 上掲「『幼年教育』編集をめぐって想い出すこと」p.150 45 上掲「教育指導者講習小史」p.9
46 角尾稔「『幼年教育』編集をめぐって想い出すこと」p.150 47 上掲「周郷博君のこと」p.88
48 城谷花子「保育絵本に携わった四十年」,『チャイルド本社五十年史』チャイルド本社,1984,p.248 49 勝木とみ「私を育てた地方編集会議」,同上,pp.124-126
50 「昭和 25 年度教育指導者講習修了者名簿」上掲『占領期教育指導者講習(IFEL)基本資料集成・第Ⅲ巻』p.248 51 山口たつ「当時の編集会を懐かしむ」,同上,pp.126-128
52 遠藤の経歴は,元鶴林幼児教育専門学校校長,現職が神戸女子大学非常勤講師である。かつては兵庫県西宮市の市 立浜甲子園健康幼稚園に勤めていた。(遠藤君「チャイルド本社と私」同上 pp.129-132)
53 同上「チャイルド本社と私」p.130
54 小川江美「チャイルドブックに寄せて」,同上,p.136 55 周郷博『このかなしき幼児教育』創文社,1975,p.43-45
[参考文献]
立柳聡・小木美代子ほか『児童館・学童保育と子育ち文化―人と人を結ぶ文化創造』萌文社,2001
津高正文編『地方社会教育史の研究―日本の社会教育 第 25 集』東洋館出版社,1981 中村悦子『幼年絵雑誌の世界―幼児の教育と子どもの生活の中から』高文堂出版社,1988
蓮見元子「月刊絵本キンダーブックから見た幼児の教育環境の変化」,『関東短期大学紀要』第 46 号,2002,pp.15-69 法政大学大原社会問題研究所編『日本労働年鑑・特集版―太平洋戦争下の労働者状態・労働運動』労働旬報社,1971 三宅興子編著『日本における子ども絵本成立史―「こどものとも」のはたした役割』ミネルヴァ書房,1997 三宅興子・香曽我部秀幸編『大正期の絵本・絵雑誌の研究―一少年のコレクションを通して』翰林書房,2009 周郷博ほか編『アメリカ教育使節団報告書要解』国民図書刊行会,1950
[資料]
【図1】『チャイルドブック』都道府県別の営業範囲
【表 1】地理(地形)・国・地方に関する記事の時期別の出現回数
【表 2】家・建造物などに関する記事の時期別の出現回数
【表 3】職業に関する記事の時期別の出現回数