Ⅳ 大王古墳論(上)―大王古墳の原設計―
1.はじめに
奈良盆地東南部(大和)や佐紀,古市,百舌鳥,三島野などの古墳群(これらの古墳分布地域を以 下「王陵区」という)には大王(=倭王)1)や有力王族の墓と目される墳長 200mを超す大型前方後 円墳が点在し,江戸時代の国学者から今日の考古学者に至るまで,被葬者の特定は重大な関心事とな ってきた。近年では王朝交替説などの立論の根拠ともされ,文献史学者からも活発な発言が行われて いる。
現行の陵墓の治定は記紀や延喜式の記載を拠りどころとするものであるが,その当否について考古 学的な検証作業が必要なことはいうまでもない。主体部構造や副葬品の内容は被葬者の政治的力量を 推し量る上で重要な情報を提供するが,宮内庁の管理下に置かれた古墳について,そのような情報を 新たに得る手段は絶たれており,近い将来においても好転は期待できそうにない。したがって,陵墓 図の検討などによって,周濠を含む古墳の規模や形態から,被葬者の政治的地位などをいかに説得性 をもって説明するかという重要な課題が,考古学に課せられているといってよい。古墳そのものの外 形を対象とする築造企画論の進展に期待がかかる所以である。
王陵区に所在する古墳の中から大王墳を抽出しようとする試みにとって,墳丘規模が立論の最大の 根拠とされる場合が多い2)。古墳の規模(大きさ)は被葬者の政治的,経済的力量を如実に反映する と一般に理解され,河内大塚古墳や見瀬丸山古墳など治定外の古墳を大王墳とする見方が支持される のも,その大きさゆえであろう。したがって,個々の古墳について墳丘規模を正確に把握することは,
そのような論者にとって避けて通ることのできない基礎的な前提作業といってよい。墳丘の築造企画 論や尺度研究にとっても,本来の墳丘規模をいかに正確に把握するかということが,その後の検討作 業の成否を左右するといっても過言ではないほど重要な手続きとなる。
ところが,そのように重要な基礎作業を,みずから行って被葬者比定論などの根拠とする論者は甚 だ少ない。文献史学者の場合は,おそらく考古学者のしかるべき著書の計測値を利用し,考古学者で も一部の築造企画研究者をのぞけば,陵墓図などに実際に定規を当てて測定した上で所論を展開する ことはほとんどないと推測される。築造企画研究者にあっても,近年は尺度論をともなわない墳裾輪 郭線の比較手法が盛んであり,このような論者には墳丘規模計測の必要性すら認識されていないかの ような感がある。
古墳を取り扱った諸書に「巨大古墳」のランキング表(墳長だけが問題にされる場合が多い)が掲載 され,その順位と数値が無批判に受け入れられて一人歩きしている現状があることは事実といえよう。
その数値はどのように計測されたものか明記されないのが常であるが,同一古墳について諸書で異な る数値が列挙され,筆者の把握する規模とはかなりかけ離れた数値であることからも,信頼性には大 いに疑問がもたれる。数メートル程度の差異であれば無視してよいという前提でこのようなデータを 大王墳比定などに利用するというのであれば,厳密さに欠けたあまりにも非科学的な研究姿勢という ほかない。
大王墳比定論や築造企画研究を前進させる最低限の条件整備として,墳丘各部の正確な当初企画値 を確定し,共通理解する必要が痛感される。このような基礎的研究は一個人ではなく,しかるべき研
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究所や学会レベルにおいて推進され,その成果が共有されるべきものと考えるが,現状ではそのよう な必要性すら認識されていないようであり,実現は期待できそうにない。そのため,筆者の個人的検 討作業によって把握されたデータを公表し,これを叩き台として各位の高教を仰ぎながら確度を高め ていき,古代史研究者の共有財産となることを目指したいと思う。
本章では,王陵区に所在する大王墳クラスの大型古墳について,復元的把握法による当初プランと 規模の復元案を作図例として示す。また,地方に存在する大王墳級の大型古墳についても併せて検討 する。
2.王陵区の大規格古墳
本節では,王陵区に所在する墳長 200mを超える古墳について,24 等分値企画図によって当初の墳 丘規格(規模)とプランの復元的把握を行う。墳長 200mを超す古墳は,王陵区以外では大和盆地西 部に4基,吉備に3基,淡輪,上毛野に各1基あるにすぎず,王陵区と葛城・吉備両勢力の根拠地以 外ではほとんど例外的な存在といえる。墳長 200m程度の規模を,大王墳あるいは有力王族墳の標準 とする暗黙の,あるいは明文化された了解事項が存在していた可能性も考えられる。筆者の尺度論に よれば,古墳尺 150 歩が 205.5mとなる。150 という数値は,12 進法と関係の深い 60 進法にとって切 りのよい数値(60×2.5)であることが注意される。当面,墳長 150 歩以上の古墳を大王墳級古墳と して検討対象としたい。
三島野の今城塚古墳は墳長 150 歩に達しないが,近年この古墳を真の継体陵とする見方が定説化し つつあるので,この古墳と同じ後円部規格(径 72 歩・98.6m)をもつ古墳については,墳長 200mに 満たないものも参考のために取りあげる。
なお,本論が『考古学雑誌』(沼澤 2005)に掲載されたのちに,新たに確認調査結果や測量図が報 告された五社神古墳,御廟山古墳,両宮山古墳については,新資料にもとづく検討結果をやや詳しく 記載する。同じく桜井茶臼山古墳,メスリ山古墳についてはⅢ章に所見を示した。また,新たに当初 プランの確定ができた久津川車塚,雲部車塚,昼飯大塚の3基を追加した。各古墳の復元根拠などに ついては掲載誌にゆずり,ここでは特記事項のみ記載する。
1)大和王陵区
萱生,柳本など大和盆地東南部の大王墳分布地域をここでは大和王陵区として一括して扱う。
1 箸墓古墳(現・倭迹迹日百襲姫命陵,1期,図Ⅳ-1)
後円部 5 段という異例の斜面構成をもつ。全体プランについては,寺沢薫の復元案(寺沢 2002)が最 も信頼に足る。筆者は墳長を 42 単位,歩数では 210 歩と推定する。210(60×3.5)という値は 60 進 法にとって切りのよい数値であり,後円部径 120 歩とともに,画期性の想定される古墳の設計値とし てふさわしい。初期古墳では前方部前縁線は外湾するカーブを描くのが定式だった可能性が高い3)。 2 西殿塚古墳(現・手白香皇女陵,1~2期,図Ⅳ-1)
後円部が3段築成となった初めての古墳である。墳頂テラスは半径 4 単位と広い。斜面に立地する ためか後円部斜面構成が左右で異なるが,谷(左)側のB型が本来意図されたものか。箸墓と同じ前 方部のプランを描き入れてみると,ほぼ合致し,同一プランの可能性が高い。
3 行燈山古墳(現・崇神天皇陵,3期,図Ⅳ-1)
斜面構成A型。墳頂テラスの半径は 4 単位。前方部は2段築成とみるべきで,現況の前方部最下段 は,修陵事業によって自然地形を墳丘に見せかけようとした造作の所産である。側縁線は途中で開き 度合いが変わり,緩やかなカーブを描いて開く。
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図Ⅳ-1 大和王陵区の古墳企画図 1/2500
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4 渋谷向山古墳(現・景行天皇陵,3期,図Ⅳ-1)
斜面構成A型,墳頂テラスの半径は3単位である。この古墳も墳長 290mとも 300mともいわれ,現 況汀線間で測った数値が一人歩きしている。前方部は明らかに2段築成で,最下段は修陵事業の所産 とみるべきである。前縁裾線はシャープな直線を描いているが,修陵による変形の可能性も考えられ る。側縁裾線はごくわずかカーブするが,ここでは直線で復元した。
5 メスリ山古墳(3期,図Ⅳ-3)
第3段裾が半径6単位,第1段と第2段の斜面幅が2単位という異例の構成を示す。前方部長は 16 単位を第一候補とし,このとき墳長は 40 単位となる。前方部の平面プランについては不明な点が多い
(桜井茶臼山とともにⅢ章参照)。 6 桜井茶臼山古墳(2期,図Ⅳ-3)
斜面構成はメスリ山と同じ。前方部長は 22 単位と,単位数では畿内の大型古墳では最も長い。
2)佐紀
7 五社神古墳(現・神功皇后陵,3期,図Ⅳ-2)
前稿では,
『集成』には後円部径 195mとあり,これが正しければ 144 歩(197.3m)という,箸墓の 120 歩 を大きく上回る大規格ということになる。仮にこの古墳が佐紀の地に営まれた最初の大王墳とす れば,それなりの画期性のある古墳ということができるが,それにしてもこれほどの大規格古墳 が営まれたとなれば被葬者推定などに大きな影響がでる。事実は,集成の数値はエプロン状地形
(墳丘外の自然地形の整形)を含めて計測された,当初規格からかけ離れた数値であろうと思わ れる。この古墳はいわゆる丘尾切断によって作出され,後円部背後で尾根から切り離されている。
切断部の切通しの幅は狭く,円周図の検討で径 120 歩(164.4m)以上では 12 単位目の円周が対 岸の斜面まで達してしまう。径 114 歩(156.2m)の円周は,ぎりぎり切通しの底を通る小道のあ たりに止まるので,これより大きい規格ではありえないとみるべきであろう。
という理由で後円部径 114 歩,前方部長は 16 単位,墳長 40 単位, 190 歩(260.3m)と考えた。い ずれにしても等高線間隔2mの陵墓図では検討にも限界があった。
その後,1mコンタの新図と,宮内庁職員による墳丘外形観察の所見が公表され,あわせて後円部 は4段築成で直径 190m,前方部は3段で前幅 150m,墳長 267mとの捉え方が示された(徳田ほか 2 005)。これはやはり,エプロン状部を墳丘に含めた捉え方であり,誤りである。墳丘外の自然地形の 整地がいつ行われたか不明で,幕末の修陵時の所産かもしれない。4段築成の大王墳などはほかにな く,一般には立入りの機会を拒絶したまま,一方的かつ安易にこのような復原案を提示するのはいか がなものかと思う。
新図でもテラスはあまり明瞭に表現されておらず,宮内庁が墳丘内の平坦部にスクリーントーンを かけた図で検討せざるをえない。後円部の最も上にある平坦部を第2テラスとみて,その内周が半径 7単位,外周が8単位になる値を探すと,径 126 歩(172.6m)が最も適合度がよい。企画図を見ると,
墳丘第3段の裾は半径7単位の円周より 1/3~1/4 単位ほど外をめぐっている。これは,第3段の表層 の流出や腐葉土の堆積によって,見かけ上,墳裾線が外に押し出されたためであろう。一般論として,
封土の流失などの経年変化によって,墳丘の裾線は外方に押し出され,逆に肩線は内側に後退する。
第2テラスの幅が1単位よりせまいのはそのためである。
このように見れば,第2テラスの内周は半径7単位,外周は8単位に本来一致していたと考えられ る。第1テラスの幅も全体的に1単位より狭く,経年変化の著しいことが理解される。斜面幅は墳丘
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第1段より第2段の方が広い ので,斜面構成はB型と考え ておく。墳裾線は西(谷)側 では半径 12 単位の円周に一 致し,墳丘外の平坦部に接し ているが,東(山)側では半 径 11 単位前後しかない。山側 では,地山の削り出しによる 墳丘の形成が設計どおりにで きていないことがわかる。同 様の地形に営まれた西殿塚古 墳でも,ほとんど同じ施工状 況が観察できる。
また,この古墳は後円部背 後で丘尾切断されているが,
切断部は狭く,予定どおりの 墳裾は形成されていない。半 径 12 単位の円周は対岸の斜 面の上に達する。したがって,
後円部径 126 歩というのはあ くまで計画値であり,どこで 測っても現状の直径は 172.6 mになどならない(これより かなり小さい)。
以前考えたように,丘尾切 断部に墳裾を一致させて直径 を計測すべきなのか,ほぼ計
画どおりに施工されているらしい墳丘第
が,ここでは後者をとり,計画値は 126 歩であったと考えておきたい。
前方部長は 12 単位が第一候補となる。王陵
図Ⅳ-2 五社神古墳企画図(後円部径 126 歩・172.6m) 1/2000 3段の裾を基準にして復元的把握を行うべきか悩むところだ
区の大王墳級古墳では 14単位が最も短い部類であり,12
,最下段は濠底の浚渫土が盛られたものともい う
単位というのは異例であるが,新図の観察によるかぎり長さ 12 単位,隅角が隅切りされているようだ が前幅(最大幅)は 16 単位と捉えられる。墳長は 36 単位,189 歩(258.9m)となる。
8 佐紀陵山古墳(現・日葉酢媛命陵,3期,図Ⅳ-3)
部分的に4段築成のような状況が見られるというが
(笠野 1992)。濠外からの観察では後円部左側の第 1 段斜面は,隣接する佐紀石塚山古墳よりかな り低く,第 1 テラスの幅もそれほど広くないので斜面構成B型と捉えられる。前方部は,宮内庁調査
(福尾ほか 1992)の所見からみても長さ 14 単位でよさそうである。
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図Ⅳ-3 大和,佐紀王陵区の古墳企画図 1/2500
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図Ⅳ-4 佐紀王陵区の古墳企画図 1/2500
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図Ⅳ-5 ヒシアゲ古墳企画図 1/2500
9 佐紀石塚山古墳(現・成務天皇陵, 4 期,図Ⅳ-3)
傾斜面に立地するため墳裾レベルが左右で異なり,当初プランの判定が難しい。陵墓図から2面の テラスが存在するとみられる(陵外からも観察される)。92mの等高線が 7 単位目に一致するよう作図 すると径 96 歩,斜面構成A型となることがわかる。宮内庁調査(福尾 1997)によっても前方部プラ ンは判然としないが,前方部長は佐紀陵山と同じと思われる。
10 宝来山古墳(現・垂仁天皇陵,3期,図Ⅳ-4)
前方部も3段化した前方後円墳である。濠内の浚渫土が堆積しているためか陵墓図では段築の状況 はやや不明瞭である。標高 84mから 92mまで等高線がかなり密にめぐり,墳丘第3段の範囲を示して いるとみられる。斜面構成はA型であろう。
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11 コナベ古墳(小奈辺陵墓参考地,5期,
図Ⅳ-4)
陵墓図の等高線間隔は2mと粗いが,後 円部各段の構成は比較的よく見てとれる。
後円部径 96 歩,斜面構成はB型でまちがい なさそうである。
12 市庭古墳(現・平城天皇陵, 5期,図
Ⅳ-4)
墳丘の大部を失う。周濠の部分的発掘に よって後円部径は 130mと報告(吉田 1976)
されたが,その後の検討で後円部径は約 14 7mと推定されている(岸本 1995)。径 108 歩(148.0m,1 単位 4 歩半)が後円部の当 初規格とみてまちがいあるまい。
13 ウワナベ古墳(宇和奈辺陵墓参考地,6 期,図Ⅳ-4)
陵墓図の等高線間隔は2mと粗い。第 1 テラスが広いのに対し,第 1,2段斜面幅 が小さく,一見して斜面構成C型とわかる。
前方部長は 21 単位と単位数では大仙陵古 墳と同じとなる。前幅は 24 単位と大仙陵の 28 単位より狭い。
14 ヒシアゲ古墳(現・磐之媛陵,佐紀,7 期か?,図Ⅳ-5)
陵墓図の等高線間隔は2mと粗い。墳丘 の改変は著しく,段築も明瞭でない。周濠 は二重で,内堤の平坦部で当初の状態を留 める埴輪列が確認されている(笠野 1996)。 後円部規格は径 96 歩と 90 歩が候補で,外 縁施設を含めた全体的一致度から径 90 歩 が当初の規格と判断される。内濠は後円部 背後で 4 単位,前方部前面で 6 単位の幅,
内堤は4単位の幅で一周する。内堤の外周 線は縦 60 単位,横 50 単位の範囲に収まる。
3)古市王陵区
15 津堂城山古墳(藤井寺陵墓参考地,4 期,
図Ⅳ-6)
墳丘の損壊は甚だしいが,確認調査によ って墳丘規模がほぼ正確に把握されている
(藤井寺市教委 2002)。後円部径は 128mと
図Ⅳ-6 津堂城山古墳,古市墓山古墳企画図 1/2500
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されるが径 96 歩(131.5m)
であろう。前幅は 22 単位(
120.6m),墳長は 38 単位,
152 歩(208.2m)と復元さ れる。それぞれ市教委が把 握する 121m,208mという 数値に一致しており,この ことから後円部径も筆者の 推定する値が本来のものと みるべきことが知られる。
16 仲津山古墳(現・仲姫陵,
5期,図Ⅳ-7)
斜面構成A型。後円部径 120 歩,墳長 210 歩(287.7 m)と,どちらも箸墓古墳 と同じ値であることが注意 される。周濠外周線は2単 位ないし4単位間隔の方格 線間に収まり,墳丘と同じ 基準単位によって割りつけ られていることが明らかで ある。
17 古市墓山古墳(応神陵ほ 号陪塚,5期,図Ⅳ-6)
第 1 テラスと第2段の斜 面幅が左右で若干異なるが,
右側が本来のプランとみて斜面構成B型と捉えておきたい。周濠は後円部まわりと前方部前面で 4 単 位の幅をもち,周濠範囲も2単位間隔の方格線内におさまる。
図Ⅳ-7 仲津山古墳企画図 1/2500
18 誉田御廟山古墳(現・応神天皇陵,6期,図Ⅱ-2)
大仙陵古墳と同じ後円部径 192 歩,1単位は8歩。斜面構成A型。墳長は 38 単位,304 歩であり,
60 進法にとって切りのよい 300 という数値に近似していることが注意される(大仙陵は 360 歩)。 19 市野山古墳(現・允恭天皇陵,7期,図Ⅳ-8)
斜面構成C型。前方部は前縁線が中軸線に直交せず,もともと施工誤差があった可能性が高い。左 半部の墳裾線はC点から 17 単位目の方格線に一致するが,この数値は素数であり,当初企画値とは考 えがたい。右半部は 18 単位目に一致するので,これを前方部長とみておく。
20 軽里大塚古墳(現・日本武尊陵,7期,図Ⅳ-8)
宮内庁の調査(徳田ほか 2003)で,第 1 テラス上の埴輪列と第2段斜面の葺石が検出された。墳裾の葺石 基底石は検出されず,本来の墳裾は 26 本のトレンチより外側にあったと考えられる。これらを根拠に作図した 結果,径 90 歩,斜面構成C型と復元される。前方部長は 16 単位が第一候補となる。墳長は 40 単位,150 歩,
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図Ⅳ-8 古市,三島野王陵区の古墳企画図 1/2500
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前幅は作図によって 36 単位と推定さ
サンザイ古墳(現・仲哀天皇 きく変形する が
(4期,図Ⅳ-19)
格
23
成で,確認調査の所見(上田 1989)から前方部長 12 単位,
前 れる。
24
径 162 歩,墳長は 40 単位,歩数では 270(60×4.5)歩と 60 進法にとって切りのよい数値で
25
,わが 最大の古墳の墳長がこのような値であることは偶然でないと考えるのが自然であろう5)。
れる。
21 岡ミ
陵,8期,図Ⅳ-8)
戦国期の城郭化で大
,後円部右側の第3段斜面部の下 半から第2テラスにかけて当初の状 態が残されている可能性がある。こ こを基準に作図すると径 108 歩が候 補となる。後円部左側の埴輪列(堀内 1985)も第 1 テラスの範囲内におさ まる。前方部前縁部には「後世の盛 土が著しく」,本来の墳裾は「現裾よ り数メートル墳丘側に存する可能性 が高い」(福尾 1998)と報告されて おり,前方部長は 14 単位と推定され る。
22 古室山古墳
今城塚と同じ後円部径 72 歩の規 をもつが,築造時期からみて大王 墳の可能性はほとんどない。段築の 状況が不明瞭だが,墳裾で確認され た葺石基底石の位置(中西 1993)な
どからこの規格でまちがいない。前 図Ⅳ-9 土師ニサンザイ古墳企画図 1/2500 方部長は 14 単位だろう。
野中宮山古墳(5期, 図Ⅳ-19)
後円部は明らかに斜面構成C型の3段築 幅は 18 単位と確認さ
4)百舌鳥王陵区
百舌鳥陵山古墳(現・履中天皇陵,5期,図Ⅱ-7)
後円部 ある。
大仙陵古墳(現・仁徳天皇陵,7期,図Ⅱ-3)
後円部は径 192 歩,1単位8歩の規格,第3段裾を8単位目とする異例の斜面構成をもつ。その分,
第3段のノリ面長が長大となるため斜面の途中(6単位目)に幅半単位ほどの小段を設け,墳丘構造 の安定を図っている。この平坦面は宮内庁の現地調査によっても確認されている(徳田ほか 2001)。 前方部長は 21 単位,前幅 28 単位とみられる4)。以上の捉え方が正しいとすると,この古墳の墳長は 45 単位,360 歩(493.2m)となる。この数値は 60 進法にとってまことに切りのよい値であり 国
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26 土師ニサンザイ古墳(東百舌鳥陵 墓参考地,7期,図Ⅳ-9)
径 120 歩の規格で,この値の円 周図では第3段裾は半径7単位よ りわずかに小さい。これは左側の 径が若干小さいためで,このため 左側の第 2 テラスの幅は 1 単位よ り広くなっている。全体に左右で 施工状況に差がある。斜面構成は C型の可能性が高い。前方部長は 18 単位で,墳長は 42 単位,210 歩となる。
27 御廟山古墳(百舌鳥陵墓参考地,
7期,図Ⅳ-10)
墳長 200mにわずかに満たず,1 50 歩(205.5m)超級と 120 歩(1 64.4m)以下の百舌鳥大塚山古墳 など中規模墳との中間に位置する 古墳である。陵墓図の等高線間隔 は 1mだったが,その後 20cm コン タの精緻な測量図が公表された(
徳田ほか 2010)。あわせて墳裾の 確認調査結果も公表され,例によ って墳裾はおさえられなかったが,
墳丘第2段の葺石が確認された。
これによって,筆者従来の後円部
規格および墳裾プランの把握に変更はないが,斜面構成の捉え方に修正を余儀なくされたので説明を 加えておく。
図Ⅳ-10 御廟山古墳企画図(後円部径 78 歩・106.9m) 1/1500
従来の捉え方である径 78 歩(106.9m)で企画図を作成すると,後円部第3段裾は半径7単位,第 2テラスは1単位の幅でめぐる。検出された第2段の葺石は,基底石を設置せず,第1テラスの整地 土によって葺石をおさえたものと推定されている(徳田ほか 2010:P85 )。葺石は半径9単位の円周 より外側で検出されており,第2段の斜面幅が1単位以上あることを示している。したがって,従来 の斜面構成 C 型という捉え方は成立せず,第2段の斜面幅2単位,第1段は1単位の B 型に変更する。
第1テラス上の埴輪列は半径 10 単位と 11 単位の円周のほぼ中間をめぐっており,第1テラスの中間 に配列されていることがわかる。
前方部長 20 単位,前幅 30 単位,くびれ部幅 18 単位という墳裾プラン,また前方部前面の斜面構成 にも変更はない。墳長は 44 単位,143 歩(195.9m)となる。
28 百舌鳥大塚山古墳(5期, 図Ⅳ-19)
土取り工事によって消滅した。後円部径 72 歩,墳長は 40 単位,120 歩である。
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図Ⅳ-11 今城塚古墳企画図 1/2500
5)三島野王陵区
29 太田茶臼山古墳(現・継体天皇陵,7期,図Ⅳ-8)
径 102 歩,斜面構成C型で,後円部各段線と円周線との一致度はきわめて良好である。前方部は一 見して明らかに左右非対称で,単なる施工誤差ではあるまいが,どのような意図があったのか不明であ る。後円部にくらべ前方部側の浸食がかなり著しいようであるが,前方部側へ向かって下る地形(土 生田 1988)のため,水位上昇の影響をより強く受けたためと思われる。
30 今城塚古墳(治定外,8期,図Ⅳ-11)
確認調査によって後円部径約 100m,墳長約 190mと推定されている(高槻市教委 2001)。後円部径 72 歩,1単位3歩の規格とみられる。企画図では墳長 46 単位,138 歩(189.1m)と調査結果に一致 する。内濠は後円部背後と前縁部前面で6単位の幅をもつ。内堤も幅6単位で一周する。外濠は5単 位の幅で一周していた可能性が高い。全体規模は中軸線上の長さ 80 単位,最外周線の前幅も作図によ って 80 単位と推定される。縦横とも 80 単位,歩数では 240 歩という 60 進法にとって切りのよい数値
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の正方形になることが注意される。
(6)河内大塚古墳と見瀬丸山古墳 この2基の古墳は墳丘の遺存状態 が悪く,特に河内大塚については正 確な規格判定不能としておくのが慎 重な態度といえようが,後円部規格 と墳長だけでも確定できないか検討 しておきたい。
31 河内大塚古墳(大塚陵墓参考地,
古市近傍,9期,図Ⅳ-12 ) これまで見てきたように最・超大 型クラスの古墳では,墳長が60進法 にとって切りのよい数値(60ないし 30の整数倍)に設定されている場合 の多いことが注意された。墳長はほ ぼ 330mで,これを 1.37m(1 歩)
で割るとちょうど 240 歩となる。60 進法的に切りのよい 240 歩(328.8 m)が当初規格であった可能性は十 分考えられる。
後円部規格は,径 138 歩と径 132 歩が候補となる。前者をとれば前方 部長は 18 単位となり,この場合左右 隅角付近は濠水によってかなり浸食 され,剣菱形部は後世の排出土と解 釈されることとなる。同じく剣菱形 前方部をもつとされた今城塚では発 掘調査によって当初はそのようにな っていなかったことが確認されてお り,本墳の場合も二次的に生じたプ ランとみるべきものと考える。前者 の後円部径 138 歩,墳長 42 単位,2 41 歩半を当初規格と捉えておきた いと思う。前方部の幅などについて は参考程度に見ていただきたい。
図Ⅳ-12 河内大塚古墳,見瀬丸山古墳企画図 1/4000
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図Ⅳ-13 葛城の古墳企画図 1/2500
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32 見瀬丸山古墳(畝傍陵墓参考地,大和,10 期,図Ⅳ-12)
『集成』をはじめ諸書で後円部径約 150mという見方で一致している。108 歩(148.0m)の規格に 近いが,円周図での検討ではこれではやや小さいように思われる。周濠の水田化以前における濠水の 浸食なども考慮し,2ランク上の径 120 歩(164.4m),1単位5歩を当初規格と考えたい前方部プラ ンについては,過去の航空写真(末永 1975)で比較的明瞭に確認される左隅角の位置を現況図に落と す作図作業によって,図のように復元することができる。前方部長 20 単位,墳長は 44 単位,220 歩
(301.4m)と復元される。
3.王陵区以外の大規格古墳
ここでは,王陵区以外の大規格古墳(後円部径 72 歩以上)について墳丘規格とプランの確定作業を 行う。
1)大和盆地南西部
33 巣山古墳(馬見,4期,図Ⅱ-9)
先述。発掘された後円部の墳裾基底石から後円部径 96 歩と確定された。
34 築山古墳(磐園陵墓参考地,馬見,5期,図Ⅳ-13)
後円部の第 1 テラスは広く,斜面構成C型とみられる。第 2 テラス上には小径が通り,これが第3 段裾を取り巻いているとみれば,墳裾の径は 90 歩と復元される。前方部長 18 単位の推定とともに,
宮内庁の確認調査結果(清喜 2001)と矛盾しない値である。周濠は後円部まわりと前方部前面で4単 位の幅があり,周濠外周の側縁線は中軸線に平行する。
35 新木山古墳(三吉陵墓参考地,馬見,5期,図Ⅳ-13)
後円部右側に等高線の間隔がほかより多少広いところがあり,第2テラスの存在を示すとみられる。後 円部右側汀線の 5~6m内側を,右くびれ部付近から後背部にかけてめぐる小道は第 1 テラスの上を通 っているらしい。これらを根拠に円周図を作成し,径 90 歩の規格と判定された。斜面構成はC型か。
周濠は後円部まわりで幅3単位,側縁線は中軸線に平行する。
36 室大墓古墳(南葛城,5期,図Ⅳ-13)
前方部の確認調査などにもとづく木許守の復元案(木許 1996)では後円部径 148mで,これは古墳 尺の 108 歩に当たる。企画図を作成すると,第3段裾はほぼ7単位目に,12 単位目は外周道路の縁に 一致し,推定の妥当性を示す。後円部第 1 段がほぼ全周にわたって削平され,神社境内地などに利用 されているのは,第 1 段が低く,その上面テラスが広かったことに起因すると推測され,斜面構成C 型とみてまちがいないと思われる。前方部は木許の復元案や末永の航空写真などから図のように復元 した。前方部長 15 単位とみたが,16 単位ならば墳長は 40 単位,180 歩となって大規格古墳にふさわ しい数値となり,その可能性も捨てがたいが,前縁部の道路までを墳丘範囲とみて,15 単位としてお きたい。
37 川合大塚山古墳(馬見東方,6期ころ,図Ⅳ-13)
第 1 テラスは現況の観察でも明らかに幅広く,斜面構成C型でまちがいない。幅8単位の内濠がめ ぐり,内濠外周は縦 60 単位,横 40 単位の枠にちょうど収まる。
38 島の山古墳(馬見東方,5期,図Ⅳ-14)
墳丘の損傷が甚だしいが,墳丘確認調査(見須ほか 1998)により第2段と第3段の葺石基底石およ び第 2 テラス上の円筒埴輪列が原位置を保って検出されており,これを根拠に径 78 歩の規格と判定し た。斜面構成はB型。
69
図Ⅳ-14 葛城,淡輪,山城の古墳企画図 1/2500
39 掖上鑵子塚古墳(南葛城,6期ころ, 図Ⅳ-14)
前方部長は現状
10
単位だが,現状の前縁墳裾線は墳丘第2段の裾で,第1段を含む当初企画はも っと長かったはずである。前方部に向かって高まる自然地形上に営まれている(今尾ほか1986)
ため,前方部先端では第1段を設計どおり削り出すことができなかったとみられる。現況前縁線の手前の水 田下に,痕跡的な第1段裾部が埋没している可能性が考えられる。後円部の斜面構成からみて,前方 部も第1段は斜面,テラス各1単位の幅をもっていたはずで,これを加え本来は前方部長
12
単位と70
して企画されたことはまちがいない。
2)淡輪
40 西陵古墳(6期,図Ⅳ-14)
測量図(大阪府教委 1977)によれば第3段裾は6単位目に一致し,第 2 テラスの幅2単位という異 例の斜面構成を示すかと見られる。ただ,現況を確認するとテラスの幅は確かに広いものの2単位ま ではなく,広いところでもせいぜい1単位半程度であり,部分的な第2段斜面の崩壊によって図上で は広く見えることがわかった。第1テラスも広く2単位の幅があるので,第2テラスが1単位よりは 多少広いものの斜面構成C型とみておきたいと思う。
41 淡輪ニサンザイ古墳(現・五十瓊敷入彦命宇度墓,7期,図Ⅳ-20)
後円部径 72 歩の企画図では,第1段斜面及び第 1 テラスの幅はそれぞれ1単位とみられるから,斜 面構成B型ということになる。ところが第2段の斜面高は2mほどしかなく,また第2テラス上を通 る小道は7単位目と9単位目の円周の間を蛇行しながらめぐっている。この小道が平坦面をたどって いるとすれば,第2テラスの平坦面の幅は2単位とみなさざるをえない。この古墳の斜面構成はほと んど例をみないD型の可能性が高い。
3)山城・丹後・丹波・播磨 42 久津川車塚古墳(6期,図Ⅳ-14)
多年の調査によって 3 段築成の古墳と確認され,後円部径 113m,墳長 180mと把握されている(小 泉 1999)。後円部第 2 テラスが良好な状態で残り,墳丘第 3 段裾のラインも測量図によく表れている。
第 3 段裾を半径 7 単位に一致させる作図によれば,後円部規格は径 78歩(106.9m)と判定される。墳丘第 2 段はかなり高さがあるので,斜面構成はB型とみられる。前方部長は 15 単位,墳長は 39 単位,1 単位が 3 歩 1/4(4.45m)なので歩数で 126 歩 3/4,173.6mとなる。前方部長が 16 単位なら墳長は 4 0 単位,130 歩(178.1m)と切りのよい数値になって,市教委の推定値にも近くなるが,今のところ 墳長 39 単位で問題ないと考えている。
43 蛭子山古墳(3期,図Ⅳ-15)
先行する2号墳に制約されたためか,後円部は前後方向に若干押しつぶされたように歪んで正円形 をなさないが,第3段裾が7単位目に一致する円周図の作図から径 78 歩の規格と判定される。斜面構 成B型,前方部長は 10 単位と短い。
44 神明山古墳(4期,図Ⅳ-15)
3段築成といわれるが段築は不明瞭で,墳裾もはっきりしない。墳丘規格の判定は困難だが,作図 作業による検討では,後円部径 90 歩とみたとき前方部前縁裾が現況の切通しに一致するなど,ほかの 規格の場合より一致度がよい。一応これを当初規格と考えておきたい。前方部前縁で自然地形から切 り離されており,切通しの位置から前方部長 12 単位と確定される。
45 網野銚子山古墳(4期,図Ⅳ-15)
径 84 歩の規格である。第2段斜面幅2単位の斜面構成B型でまちがいない。前方部長は,わずかに 遺存する前縁部の第1段斜面から 16 単位とみられる。
46 雲部車塚古墳(7 期,図Ⅳ-20)
宮内庁の調査(有馬ほか 2006)によって,墳丘第2段の葺石基底石とみられる石列が複数箇所で検 出された。第2段の斜面幅が広く,斜面幅2単位の斜面構成B型の可能性が高い。B型であれば第2 段裾は中心から 10 単位目にくるから裾線の直径は 20 単位,宮内庁の推定ではその径は約 80mなので 1単位は約4mとなる。これは古墳尺の3歩(4.11m)に近い値であり,基準単位が3歩であれば後
71
図Ⅳ-15 畿内周縁部及び吉備の古墳企画図 1/2500
円部規格(直径)はその 24 倍の 72 歩(98.6m)となる。この値の企画図を作成すると,墳丘各部と 円周線,方格線との良好な一致がみられ,この規格でまちがいないことが確認される。前方部長は 12 単位,墳長は 36 単位,108 歩(148.0m)と捉えられる。
47 五色塚古墳(播磨,3期,図Ⅱ-6)
72
後円部径 90 歩である。報告書(丸山ほか 2006)によれば第 3 段裾の直径は 72.2mとされ,これを 1 単位長で割ると 14.05 となるから半径は7単位でまちがいない。ところが第2段以下は定型を示さ ず,斜面幅各2単位,2面のテラスは半単位の幅となっている。斜面構成A~D型のどれにも当ては まらない例外的なものといえる。
4)伊賀・美濃
48 御墓山古墳(伊賀,5期,図Ⅳ-15)
後円部径約 110m,墳長約 190mとの測定値(山本 1985)が知られる。測量図(福田ほか 1999)の 精度はあまりよくないが,後円部径 84 歩,墳長 39 単位,136 歩半,187.0mと捉えている。後円部の 斜面構成は特殊で,第3段裾は半径8単位となる。
49 馬塚古墳(伊賀,8期, 図Ⅳ-20 )
後円部径
72
歩の規格で,前方部長は10
単位と短い。後円斜面構成はB型。50 昼飯大塚古墳(美濃,5 期,図
Ⅳ-19)
発掘調査によって直径 96m と推定(中井ほか 2003)されて おり,径 72 歩(98.6m)の可能 性が高い。推定値とは3m弱の 差があるが,墳裾基底石は右く びれ部付近と後背部の2か所で しか検出されておらず,この2 つのポイントから推定された値 なので若干の誤差はまぬがれ難 いと思われ,径 72 歩の規格で問 題ないと考える。前方部長は現 況で 10 単位ほどだが,後世の掘 削分を補えば 12 単位が本来の 前方部長だった可能性が高い。
墳長は 36 単位,108 歩,148.0 mとなる。斜面構成はB型かC 型とみられるが確定できない。
5)吉備
51 造山古墳(備中,5期,図Ⅳ -16)
後円部墳裾をほぼ全周にわた って削り取られ,当初の墳裾線 は左側くびれ部付近にしか残さ れていない。この部分を基準に 復元すると,径 156 歩が第 1 候 補となる。円周図では第3段裾 をはじめ各段との一致は良好で
図Ⅳ-16 造山古墳企画図 1/2500
73
ある。斜面構成はA型,
前方部長は 16 単位であ る。
52 作山古墳(備中,6期,
図Ⅳ-15)
全体的に損傷が甚だし いが,第3段裾に7単位 目を一致させる作図によ って後円部径 120 歩の規 格と確定される。斜面構 成B型。前方部長 16 単位,
側縁線は直線状に復元し たが,2段目の裾より上 の線は撥形に開いている 点は注意すべき要素とい える。
53 両宮山古墳(備前,7 期,図Ⅳ-17)
開墾によって段築が失 われ,各段の裾径などか らの復元的把握が不可能 なため,現況汀線の直径 よりひとまわり大きい径 78 歩(106.9m)と推定 した。その後,濠水を抜 いての観察,簡易ボーリ ング調査などによって後 円部径は 116mとの所見
が示された(宇垣 2006)。発掘はされていないため絶対とはいえないが,現状では最も信頼すべき推 定値であると思われる。116mは径 84 歩(115.1m)に近似するので,この規格に変更する(1 単位は 3 歩半・4.80m)。墳長は 206mとされるので,これは約 43 単位になるので前方部長は 19 単位という ことになる。しかし,すでに述べたように前方部長が素数に設定されることは基本的にないと考えて いるので,18 単位か 20 単位のどちらかが本来の計画値であると思われる。企画図を作成してみると,
20 単位では長すぎるので,18 単位の方をとりたい。前幅 145mは 30 単位に当たるが,同様に 28 単位 の方がよいと思われる。周濠は後円部まわりで 6 単位の幅があり,前方部前面の幅も同じだったとす れば内濠の前幅は 40 単位,140 歩となる。
図Ⅳ-16 造山古墳企画図 1/2500
図Ⅳ-17 両宮山古墳企画図(後円部径 84 歩・115.1m)1/2000
6)日向
54 女狭穂塚古墳(女狭穂塚陵墓参考地,日向,5期,図Ⅳ-20)
径 72 歩の規格,前方部長 18 単位,斜面構成は A 型である。
7)上毛野
74
55 太田天神山古墳(上毛野,5期,図Ⅳ-18)
測量図(金津 1999)による作図から,後円部径 90 歩と確定される。第2段斜面幅2単位の斜面構 成B型で,前方部長 16 単位,墳長 40 単位となる。
56 浅間山古墳(上毛野,4期,図Ⅳ-18)
耕作による変形のため当初の段築は損なわれ,各段の構成はわからない。墳裾の直径は 78 歩,前方 部長 16 単位で問題ないと考える。
図Ⅳ-18 上毛野の古墳企画図 1/2500
4.単位数から見た大型古墳の築造企画
本稿は墳丘規格(規模)の確定作業を主眼としたものであるが,後円部規格を確定しその 24 等分値 によって前方部長をはじめ墳丘各部の平面構成についても復元的に把握する作業を行うことができた。
把握された墳丘各部の単位数を整理したのが表Ⅳ-1である。前方部幅やくびれ部幅について若干の誤 差のあるものが含まれる可能性はあるが,その場合も誤差は2単位(左右各1単位)未満に収まるも のと考えている。単位数で把握された各部の数値から,平面構成の変遷に関して何か意味のある情報 を読み取ることはできるか,簡単に見ておきたい。
前方部長 表Ⅳ-2 のとおり,12 単位以下の前方部長をもつのは8基と少なく蛭子山,神明山,雲部車 塚など地方古墳の小規格古墳が主体である。ほとんどは 14 単位から 20 単位までの長さをもち,全体 の8割以上を占める。16,18 単位の2種は 10 基以上あり,16 単位が最多である。21 単位以上も4基 と少なく,大仙陵,ウワナベ,今城塚など大王墳クラスの大規格古墳にほぼ限られる点は注意される。
1期の箸墓がすでに 18 単位の長さをもち,また3~6期にかけて 14~18 単位まで各単位数の古墳 が並存するように,時間を追って前方部長が長くなっていくような傾向は認められない。今回検討し た大規格古墳においては,前方部長の変化は時間的傾向を顕著に示すものではないと結論してよいと
75
図Ⅳ-19 後円部径 72 歩(98.6m)の古墳企画図(1) 1/2000
思われる。
前方部前幅 前方部前幅(表Ⅳ-3)については,1期の箸墓,西殿塚が撥形に広がる前方部をもつた め 23 ないし 24 単位と広いものの,2期以降についてみると時間を追って幅が広くなっていく傾向が はっきり現れており,前方部前幅は時期判定の根拠となしうるとみてまちがいない。
くびれ部幅 くびれ部幅(表Ⅳ-4)は前幅の広い箸墓や西殿塚でも 10 単位と狭く,3期以前は基本 的に幅 12 単位以下,4期以降 16 単位以上の幅をもつものが主流となる。4期で 12 単位以下のものは
76
図Ⅳ-20 後円部径 72 歩(98.6m)の古墳企画図(2) 1/2000
77
時期 古墳名 斜面構成 後円部径 墳長 前方部長 前方部幅 くびれ幅 大単位 所在
箸墓 特 24 42 18 22~23 10 3 大
西殿塚 B 24 42 18 22~23 10 3 〃
2 桜井茶臼山 特 24 46 22 16 12 2 〃
行燈山 A 24 38 14 14 8 2 〃
渋谷向山 A 24 40 16 16 10 4 〃
メスリ山 特 24 40 16 16 12 4 〃
五社神 B 24 36 12 16 12 3,4 佐
佐紀陵山 B 24 38 14 16 12 2 〃
宝来山 A 24 42 18 24 14 3 〃
蛭子山 B 24 34 10 14 12 2 丹
五色塚 特 24 38 14 16 12 2 播
佐紀石塚山 A 24 38 14 18 12 2 佐紀
津堂城山 ? 24 38 14 22 18 2 古市
古室山 ? 24 38 14 26 16 2 〃
巣山 A 24 40 16 22 16 4 葛
網野銚子山 B 24 40 16 16 12 4 丹後
神明山 ? 24 36 12 16 10 3,4 〃
昼飯大塚 ? 24 36 12 20 14 3,4 美濃
浅間山 ? 24 40 16 18 10 4 上毛
コナベ B 24 38 14 24 16 2 佐
市庭 ? 24 40 16 26 16 4 〃
仲津山 A 24 42 18 28 16 3 古
古市墓山 B 24 40 16 28 18 4 〃
野中宮山 C 24 36 12 18 14 3,4 〃
百舌鳥陵山 B 24 40 16 26 18 4 百舌鳥
百舌鳥大塚山 ? 24 40 16 28 16 4 〃
室大墓 C 24 39 15 26 18 3 葛
築山 C 24 42 18 22 14 3 〃
新木山 C 24 40 16 24 16 4 〃
島の山 B 24 42 18 22 16 3 〃
造山 A 24 40 16 26 16 4 吉
太田天神山 B 24 40 16 26 18 4 上毛野
御墓山 特 24 39 15 20 14 3 伊
女狭穂塚 A 24 42 18 26 13-14 3 日向
ウワナベ C 24 45 21 24 16 3 佐紀
誉田御廟山 A 24 38 14 28 18 2 古市
西陵 C 24 44 20 24 18 4 淡
久津川車塚 B 24 39 15 26 18 3 山城
作山 B 24 40 16 26 16 4 吉
川合大塚山 C 24 44 20 26 16 4 葛城
掖上鑵子塚 B 24 36 12 28 20 3,4 〃
ヒシアゲ ? 24 42 18 28 16 3 佐紀
市野山 C 24 42 18 30 16 3 古
軽里大塚 C 24 40 16 36 18 4 〃
大仙陵 特 24 45 21 28 16 3 百舌
土師ニサンザイ C 24 42 18 34 17 3 〃
御廟山 B 24 44 20 30 18 4 〃
太田茶臼山 C 24 40 16 27 16 4 三島野
淡輪ミサンザイ D 24 42 18 28 16 3 淡輪
雲部車塚 B 24 36 12 24 18 3,4 丹波
両宮山 ? 24 42 18 28 18 3 吉
岡ミサンザイ ? 24 38 14 26 16 2 古市
今城塚 ? 24 46 22 32 18 2 三島
馬塚 B 24 34 10 26 16 2 伊
9 河内大塚 ? 24 ? ? ? ? ? 古市
10 見瀬丸山 ? 24 44 20 32 18 4 大和
6 4
7
8
表Ⅳ-1 墳丘の平面構成表 (数字は単位数)
6~7 5 1
3
和
紀
後 磨
城
野 紀
市
城
備
賀
輪
備
市
鳥
備
野 賀
78
10 12 14 15 16 18 20 21 22 14 16 18 20 22・23 24 26 27・28 30 30以上
1 2 1 2
2 1 2 1
3 1 1 3 2 1 3 2 5 1
4 2 3 3 4 2 2 1 2 1
5 1 1 2 7 4 5 1 1 2 2 6 3
6 1 1 1 1 2 1 6 2 3 2
7 1 2 5 1 1 7 1 5 2 2
8 1 1 1 8 2 1
9 9
10 1 10 1
小計 2 6 9 3 15 12 4 2 2 小計 2 8 3 2 6 6 12 10 3 4
*計55基(河内大塚を除く)
表Ⅳ-2 前方部長一覧表
時期 前方部長(単位数)
表Ⅳ-3 前方部・前幅一覧表
時期 前方部・前幅(単位数)
*計55基(河内大塚を除く)
8 10 12 13 14 16 17 18 20 A B C D 特 不明 2 3 3・4 4
1 2 1 1 1 1 2
2 1 2 1 2 1
3 1 1 5 1 3 3 3 2 3 4 1 1 2
4 2 2 1 2 1 4 2 1 5 4 3 2
5 4 7 4 5 3 5 4 1 2 5 1 6 1 7
6 3 3 1 6 1 3 3 6 1 2 1 3
7 5 1 4 7 1 5 1 1 2 7 6 1 3
8 2 1 8 1 2 8 3
9 9 1
10 1 10 1 10 1
小計 1 5 8 0 6 19 1 14 1 小計 9 15 12 1 6 13 小計 13 17 6 19
時期 斜面構成型式
表Ⅳ-5 斜面構成一覧表
*計56基
時期 大単位(単位区)
表Ⅳ-6 大単位一覧表
*計55基(河内大塚を除 3
9
く
*計55基(河内大塚を除く)
表Ⅳ-4 くびれ部幅一覧表 時期 くびれ部幅(単位数)
網野銚子山などの地方古墳が多く,中央の大規格古墳では4期以降 16 単位ないし 18 単位の幅にほぼ 限定される。前方部前幅同様,くびれ部幅も時期的傾向を示すといってよい。
斜面構成 表Ⅳ-5 のとおり,西殿塚後円部左側でB型の斜面構成が確認されるが,確実なところ では3期からA,B両型式が現れ,A型は6期に1例(誉田御廟山)あるもののほぼ5期をもって終 わる。B型は6期まで複数の古墳で採用され,8期にも地方の古墳(馬塚)で1例確認される。これ らに対しC型の初現は5期と遅れるが,6,7期では主流となる。A,B2型式にくらべC型が後出 することは明らかで,斜面構成もある程度時期的傾向を示す要素とみて誤りないといえよう。
大単位 前方部長から推定される大単位を整理したのが表Ⅳ-6 である。前方部長 14 単位,22 単位は 大単位として2単位区を使用したものと考え,15,18,21 単位は3単位区,16,20 単位は4単位区,1 2 単位は3,4単位区どちらかとして整理した。この表でも時期的傾向は見てとれない。3単位区(
=8等分値)と4単位区(=6等分値)がそれぞれかなり多く確認され,前者は石部氏ら4氏の,後 者は上田宏範氏が主張される基準単位に一致するので,両説とも部分的には正しいという評価を下す ことができるといえようか。
後円部墳頂平坦面 この広さもある程度時期的傾向を示す。西殿塚,行燈山では半径4単位の広さが あり,渋谷向山の段階で3単位となり,4世紀代は3単位の古墳が多く,その後も主流となる。5期
79
以降,2単位半や2単位に半径を縮めたものが現れる。第3段裾を7単位目に固定するという原則が あったので,墳頂平坦面の径を小さくすればノリ勾配がゆるくなり,盛土量も多少縮減される。墳丘 規模極大期に当たり,そのような効用を意識して墳頂平坦面の径を縮小するという工夫が行われてい ることは確実である。ただ,墳頂部は墳裾部と同様かそれ以上に後世の変改をこうむっていることが 多く,正確な把握ができないものも多いため,縮小傾向を確実な一表として示すことが今のところで きない。
以上は墳丘規格上位の 53 基だけを材料とする分析結果であり,中小規格古墳を含めた場合にはまた 異なる結果が得られるかもしれないが,大王墳を含む畿内を中心とする各地の最高首長層の古墳を対 象とした結果であるから,大筋で一般的傾向は抽出できたものと考える。
5.墳丘規格の序列と区分
王陵区等における大規格古墳の墳丘規格を復元的に把握する作業を行った結果,後円部径 72 歩以上 と確定された古墳は 56 基であった。ほかに,大阪府岸和田市摩湯山古墳が既存の測量図では正確な判 定ができないものの後円部径 100m余,墳長 200m前後かとみられるが,今回の検討対象からは除外せ ざるを得ない。宮城県名取市雷神山古墳も後円部径 100m 前後とみられ,径 72 歩の可能性があるが,
測量図および確認調査のデータを検討しても,正確な規格判定ができない。ただ,72 歩の可能性はあ ると思われる。この 2 基を加えると,径 72 歩以上の古墳は 58 基となる。
墳長 200mを超える古墳は 35 基確認され,このうち古墳尺 150 歩(205.5m)以上は 34 基である。
ほかに逸している古墳がないとはいいきれないが,現存する中におそらくこれ以外 200mを超す古墳 はないだろう。
検討した古墳の後円部規格を地域別に整理したのが表Ⅳ-7 であり,後円部規格の大きい順に墳長は じめ各部の計測値を整理したのが表Ⅳ-8 である。後円部規格に関しては,確実なものとしてはこれが 全国のベスト 56 となる。ただし,墳長に関してはこのランキングの下位のものを上回る古墳が知られ る。茨城県石岡市の舟塚山古墳(5期)は後円部径 66 歩(90.4m)であるが,墳長は 132 歩(180.8 m)あって,径 78 歩の浅間山や掖上鑵子塚などを上まわる。ほかにも,古室山や馬塚などを超える墳 長をもつ古墳はいくつか知られるが,径 66 歩以下のクラスについては十分探索が及んでいないため,
当面の考察から除外する。
個々の古墳の検討でも明らかなように,ごく一部の遺存度の悪い古墳(及び測量図の精度の粗いも の)をのぞけば後円部規格の判定に関しては誤りないと考えている。墳長についても,ほぼ当初企画 値を確定できたと考えているが,後円部規格にくらべればやや確信のもてないものが多く含まれてい ることは否定できない。ただし,その場合も判定誤差はそれぞれの基準単位で 1 単位の範囲におさま るものとみている。このような保留条件を付した上で,墳丘規格の序列から考えられる点を記してみ たい。
後円部規格 後円部規格に関しては,
①径 120 歩以下の規格と,それを超える規格との間には相当の格差がある
という事実にまず注目される(表Ⅳ‐7)。120 歩を超える古墳は6基しかなく,径 126 歩ながら前方 部長が 12 単位と短いため全体規模で劣る五社神をのぞくと,河内大塚の径 138 歩は,箸墓など6基の 径 120 歩とは3ランクの差がある。最大規格の大仙陵と誉田御廟山が同規格で,その下の百舌鳥陵山 とは5ランクの差があり,百舌鳥陵山と造山は1ランク差であるが,河内大塚とは4ランクの差があ って,相互のランク差がきわめて大きい点も注意される。