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戦後の東プロイセンのソヴィエト化 : 第二次世界 大戦の帰結によせて

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戦後の東プロイセンのソヴィエト化 : 第二次世界 大戦の帰結によせて

著者 コスチャショーフ ユーリー, 橋本 伸也

雑誌名 関西学院史学

号 43

ページ 25‑50

発行年 2016‑03‑20

URL http://hdl.handle.net/10236/00025739

(2)

戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

│第 二 次 世界 大 戦 の帰 結 に よせ て

ユ ー リ ー

・ コ ス チ ャ シ ョ ー フ 橋 本 伸 也 訳

・ 解 題

︻ 著者 紹介 と解 題︼ 以 下に 掲載 する のは

︑ロ シア 連邦 の飛 び地 カリ ーニ ング ラー ドに ある イマ ニュ エル

・カ ント

・バ ルト 連邦 大学 人文 科学 部の ユー リー

・コ スチ ャシ ョー フ教 授が

︑二

〇一 五年 一一 月二 六日 に関 西学 院大 学文 学部 で行 った 招聘 講演

﹁い かに して ドイ ツの ケー ニヒ スベ ルク はロ シア のカ リー ニン グラ ード にな った のか

?﹂ の内 容を

︑コ スチ ャシ ョー フ教 授自 身が 改題 のう え論 文形 式に 改稿 した もの であ る︒ コス チャ ショ ーフ 教授 は︑ 訳者 を研 究代 表者 とす る国 際共 同研 究﹁ 東中 欧・ ロシ アに おけ る歴 史と 記憶 の政 治と その 紛争

﹂が

︑京 都大 学人 文科 学研 究所 の共 同研 究班

﹁現 代/ 世界 とは 何か

?│ 人文 学の 視点 から

﹂な どの 研究 プロ ジェ クト とと もに 開催 した 国際 会議

﹁歴 史と 記憶 の政 治と その 紛争

││ ユ ーラ シ ア 東西 の 対 比と 対 話

││

一 一 月 二 八 日

・ 二 九 日

︑ 関 西 学 院 大 学 文 学 部

︶ のた め に 来 日 さ れ た

︒折 角 の 機 会で もあ り︑ 関西 学院 大学 の学 生を 対象 とし た講 演を お願 いし たと ころ

︑快 く受 諾し てく ださ った

︒講 演内 容は

︑歴 史記 憶や アイ デン ティ ティ の政 治に 関わ る近 年の 研究 動向 を意 識し なが ら︑ 図像 史料 を駆 使し つつ カリ ーニ ング ラー 二 五

(3)

ド現 代史 の概 要を 手際 よく 提示 する もの であ った

︒第 二次 世界 大戦 の戦 中・ 戦後 の国 境線 移動 と中 世以 来の 住民 であ るド イツ 人の 強制 追放

︑ソ 連各 地か らの 組織 的移 住に よっ て︑ 文字 通り 急ご しら えで 人為 的に 作り ださ れた 空間 であ るカ リー ニン グラ ード の最 初期 の様 相は

︑か つて 豊下 楢 彦 法学 部 教 授︵ 当 時

︶ を代 表 者 とす る 関 西学 院 大 学・ 大 学共 同研 究﹁ 沖縄 とカ リー ニン グラ ード

││ 周縁 地域 の自 立/ 従属 と地 域秩 序構 築を めぐ る 比較 現 代 史│

│﹂

︵ 二

〇 九

〇 一

〇 年 度

︶ の成 果 と して 簡 単 に紹 介 し たこ と が あ る︒ だが

︑よ り 長 期的 な 実 相 の紹 介 は 日本 で は まっ た く な いこ とか ら︑ 現代 史研 究上 の空 隙を 埋め るた めに も︑ コス チャ ショ ーフ 教授 にさ らに お願 いし て︑ 講演 内容 を論 文化 して

﹃ 関西 学院 史学

﹄誌 上に 掲載 する こと とし た︒ 教授 のご 理 解と ご 尽 力に 心 よ り お礼 申 し 上げ た い︒ 訳 出し た 本 文 の掲 載に 先立 って ここ では

︑コ スチ ャシ ョー フ教 授の 経歴 と業 績を 紹介 しな がら

︑日 本で はほ とん ど注 目さ れて こな かっ たカ リー ニン グラ ード の歴 史に あえ て光 を当 てる 意義 につ いて 簡単 に論 じて おき たい

︒ コ スチ ャシ ョー フ教 授は

︑一 九五 五年

︑シ ベリ ア中 部に ある ケメ ロヴ ォ州 の小 都市 ユル ガで 生ま れた

︒一 九七 二年 には モス クワ 大学 歴史 学部 に入 学し

︑学 士課 程お よび 大学 院で は南 スラ ヴ・ 西ス ラヴ の歴 史を 専攻

︑セ ルビ ア史 に関 する 論文 で准 博士

︵ ソ 連

・ ロ シ ア の 学 位 制 度 は 西 側 と は 異 な り

︑ 准 博 士 は 近 年 の 日 本 の 課 程 博 士 に 近 い 位 置 づ け で

︑ さ ら に 上 位 の 学 位 と し て 博 士 号 が あ る

︶ の 学位 を 取 得 した

︒一 九 八 一年 に は 当 時 の カ リ ー ニ ン グ ラ ー ド 大 学 に 助 手 と し て 採 用 さ れ︑ 准教 授を 経て

︑一 九九 九年 から は正 教授 職に ある

︒同 年に はモ スク ワ大 学か ら︑ ハプ スブ ルク 帝国 支配 下に あっ た一 八世 紀の セル ビア 民族 の歴 史に かん する 学位 請求 論文 によ り博 士号 を授 与さ れた

︒ カ リー ニン グラ ード 大学 着任 後の コス チャ ショ ーフ 教授 は︑ セル ビア 史と なら んで

︑カ リー ニン グラ ード と東 プロ イセ ンの 地域 史に も関 心を よせ るよ うに なり

︑ペ レス トロ イカ 期の 自由 な雰 囲気 にあ った 一九 八八 年か らは

︑若 手教 員や 学生 とと もに 第二 次世 界大 戦後 のソ 連内 地か らの 移住 者を 対象 とし たオ ーラ ル・ ヒス トリ ーの プロ ジェ クト を組

戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

二 六

(4)

織し た︒ その 時点 でカ リー ニン グラ ード 州に 暮ら す第 一世 代の 移住 者三 二〇 名を 対象 とし たこ のプ ロジ ェク トは

︑そ れま で﹁ ファ シス トの 巣窟

︑東 プロ イセ ンに 果敢 に乗 り込 んだ ソヴ ィエ ト英 雄﹂ とし て神 話化 され た初 期の 移住 者た ちの 実相 と生 きた 経験 を掘 り起 こし たと いう 点で 画期 的な もの であ った

︒訳 出し た本 文か らも うか がえ る通 り︑ 実際 の移 住者 たち は神 話的 な英 雄像 から はほ ど遠 く︑ およ そみ ずか らの 経験 を書 簡や 日記

︑回 想と して 詳し く書 き残 せる よう な人 びと では なか った から

︑オ ーラ ル・ ヒス トリ ーは

︑ソ 連期 の公 式文 書か らは けっ して 捉え られ ない 日常 史や 社会 史と して のカ リー ニン グラ ード 史を 成立 させ るの に不 可欠 の方 法と なっ た︒ エゴ

・ド キュ メン トが 乏し いな かで のオ ーラ ル・ ヒス トリ ーの 有効 性は

︑近 著﹃ 戦後 農村 の日 常生 活﹄ の序 論で コス チャ ショ ーフ 教授 自身 が強 調し てや

まぬ とこ ろで ある

︒後 掲論 文で は︑ 移住 者た ちの 経験 と見 聞が 淡々 と書 き連 ねら れて いる が︑ たと えば

︑見 なれ ぬ花 が美 しく 植え られ た庭 や赤 瓦葺 の切 妻屋 根に 目を 見張 った とい った さり げな い記 述の ひと つひ とつ が︑ 粘り 強い オー ラル

・ヒ スト リー の成 果な のだ

︒だ が︑ 英雄 像と はか け離 れた 人び との 実相 に迫 るこ のプ ロジ ェク トは

︑イ デオ ロギ ー的 制約 が解 けた ソ連 解体 後も 政治 的に 危険 視さ れか ねな いも のだ った

︒実 際︑ その 成果 は︑ 当初 一九 九二 年に 刊行 予定 だっ たに もか かわ らず

︑州 内の 政治 的理 由や 出版 社の 自主 規制 のた めに 頓挫 し︑ 断片 が一 九九 六年 に発 表さ れた 以外 は︑ まず はド イツ やポ ーラ ンド の雑 誌上 で公 刊さ れ︑ やっ と二

〇〇 二年 にな って ロシ ア語 版が 出る とい う経 緯を

たど った

︒ オ ーラ ル・ ヒス トリ ーの 成果 に加 えて

︑移 住者 の出 身地 域と カリ ーニ ング ラー ドの 双方 の文 書館 での 入念 な史 料調

査に よっ て得 られ た豊 かな 知見 は︑ コス チャ ショ ーフ 教授 の二 冊の 単著

︑す なわ ち﹃ カリ ーニ ング ラー ド州 秘史

﹄お よび

﹃戦 後農 村の 日常 生活

﹄と して まと めら れて いる

︒前 者は カリ ーニ ング ラー ドの 地方 出版 で︑ 戦後 初期 から 一九 五〇 年代 まで のカ リー ニン グラ ード にお け る﹁ フ ァシ ス ト・ ド イツ

﹂表 象 と プ ロイ セ ン・ ド イツ 的 精 神文 化 の 破 壊︑ 戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

二 七

(5)

スタ ーリ ンが 吹聴 した

﹁ス ラヴ 人の 土地 とし ての 東プ ロイ セン

﹂テ ーゼ の古 文書 学者 や考 古学 者に よる 追認

︑カ ント の墓 が破 壊を 免れ た顛 末︑ カリ ーニ ング ラー ドに おけ る﹁ ロシ ア文 化﹂ の創 出と いっ た文 化史 的問 題か ら︑ 移住 民の 形 成し た 地 域の 社 会 的相 貌

︑新 た に 組織 さ れ たコ ル ホ ーズ 集 会 で の軋 轢

︑共 産 党お よ び 行 政当 局 に よる 権 力 創 出 過 程︑ カリ ーニ ング ラー ドを めぐ るイ デオ ロギ ーに いた るま での きわ めて 多岐 にわ たる 論点 に及 んで いる

︒特 筆す べき は︑ ソ連 各地 から の移 住 の組 織 化 過 程に つ い ての 克 明 な叙 述

︵ そ の 一 端 は

︑ 以 下 に 訳 出 し た 論 文 か ら も う か が え る

︶ と並 んで

︑中 世以 来の 東プ ロイ セン の住 民で ある ドイ ツ人 住民 の強 制追 放に つい て︑ ソ連

/ロ シア に残 され た乏 しい 文書 館史 料を もと にな んと か再 構成 した こ と であ る

︵ 当 該 部 分 は 注

① の

﹁ ド イ ツ 人 追 放

﹂ と し て 訳 出

・ 刊 行 済 み

︒︶ 第 二 次 世界 大戦 後の ドイ ツ東 方領 土か らの 大量 強制 移住 をは じめ とし た人 の移 動︑ いわ ゆる 被追 放民 と民 族浄 化に つい ての 関心

の高 まり が︑ 多く の知 見の 蓄積 をも たら して いる とは いえ

︑ソ 連統 治下 に置 かれ た東 プロ イセ ンに つい ては ほと んど 情報 が得 られ てこ なか った

︒そ うし たな かに あっ て当 事国 のド イツ でも

︑コ スチ ャシ ョー フ教 授の 研究 成果 は注 目さ

れ︑ 参照 され てい る︒ 冷戦 期に 不可 視化 され た戦 時下

・戦 後期 のド イツ 人の 悲劇 的経 験の 記憶 が︑ ポス ト冷 戦期 の歴 史記 憶の 変容 のな かで 再浮 上さ せら れて きた わけ だが

︑プ ーチ ン

メド ヴェ ージ ェフ 政権 の歴 史政 策の もと で自 己愛 的な

﹁大 祖国 戦争

﹂史 観が 横行 しが ちの ロシ アで

︑追 放さ れた ドイ ツ人 の経 験に 公正 に向 きあ おう とす るコ スチ ャシ ョー フ教 授の 姿勢 は貴 重だ と言 わな けれ ばな らな い︒ 他 方︑ 後者 の﹃ 戦後 農村 の日 常生 活﹄ は︑ すで に一

〇〇 巻を 悠に 超え た﹃ スタ ーリ ン主 義の 歴史

﹄シ リー ズの うち の一 巻と して

︑モ スク ワで 刊行 され たば かり の著 作で ある

︒前 著で も扱 われ たカ リー ニン グラ ード 州の 農村 にお ける 新し いコ ルホ ーズ の形 成過 程を

︑や はり オー ラル

・ヒ スト リー の成 果に 加え て文 書館 での 徹底 した 史料 調査 に基 づき 描い たこ の農 村研 究は

︑た んに カリ ーニ ング ラー ドと いう 特殊 な地 域の 歴史 にと どま らず

︑集 団化 以降 のソ 連農 村史

戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

二 八

(6)

研究 とし ても 重要 な意 味を 有す るも ので あろ う︒ 州内 の各 コル ホー ズと 党組 織の 集会 議事 録や 管理 記録

︑貼 りだ され た壁 新聞

︑あ るい は労 働の 様子 を伝 える 写真 など の豊 富な 史料 を駆 使し たこ の微 視的 研究 は︑ その 内部 に渦 巻い た葛 藤や 権力 闘争 の実 相を

︑も ちろ ん声 高な 暴露 や非 難で はな く︑ 淡々 とし た誠 実な 歴史 研究 の成 果と して 浮か びあ がら せ て い る︒ 日 本 の ド イ ツ 農 業 史 に は︑ 足 立 芳 宏﹃ 東 ド イ ツ 農 村 の 社 会 史│

│﹁ 社 会 主 義

﹂経 験 の 歴 史 化 の た め に

││

﹄︵ 京 都大 学学 術出 版会

︑二

〇一 一年

︶と いう

︑東 ドイ ツ にお け る 被追 放 民 に よる 農 村 形成 に つ いて の 特 筆 すべ きみ ごと な労 作が ある

︒ま った く異 なる 文脈 で書 かれ てい なが ら︑ 直接 のつ なが りを 有す るこ れら 二著 を対 質さ せる こと で︑ 第二 次世 界大 戦後 のヨ ーロ ッパ 東部 の歴 史的 経験 をよ り豊 かに 理解 でき るだ ろう

︒故 郷を 追わ れて 東ド イツ の農 村に 転が り込 んだ ドイ ツ人 たち と︑ やは り故 郷を 離れ て︑ ドイ ツ人 の姿 の消 えた カリ ーニ ング ラー ドで 営農 した ソ連 諸民 族の 人び との 経験 の共 通性 と差 異を 捉え るこ とは

︑二

〇世 紀と いう 時代 を考 える うえ で︑ 不可 欠の 作業 のは ずで ある

︒ 訳 出 し た講 演

/論 稿 は︑ これ ら 二 著 とし て 結 実し た コ スチ ャ シ ョ ーフ 教 授 の多 年 に わた る 研 究 成果 の エ ッ セ ン ス を︑ ごく 限ら れた 紙幅 のな かに 凝縮 させ たも ので ある

︒小 難し い理 論的 考察 を振 りか ざし て長 広舌 をふ るう こと は一 切な く︑ 残さ れた 記録 と証 言か ら確 認さ れる 事実 のみ を淡 々 と 積み 上 げ る歴 史 学 的 手法 は こ こに も 貫 かれ て い る が︑ 叙述 対象 の選 択や 用い られ た形 容辞 から は︑ 過去 に向 き合 う際 のコ スチ ャシ ョー フ教 授の 真摯 で公 正な 態度 が感 得さ れる だろ う︒ 講演 から の改 題・ 改稿 に際 して 付さ れた

﹁第 二次 世界 大戦 の帰 結に よせ て﹂ とい う副 題も

︑事 情を 知ら なけ れば 見過 ごし そう だが

︑き わめ て意 味深 長で ある

︒と いう のも プー チン

メ ドヴ ェー ジェ フ政 権は

︑対 外的 な歴 史政 治の なか でポ ーラ ンド やバ ルト 諸国 など 対立 する 近 隣 諸国 を 糾 弾す る た め に︑

﹁第 二 次 世界 大 戦 の帰 結 を 受 け入 れよ うと しな い﹂ とい う決 まり 文句 を頻 用し てい るか らで ある

︒あ まり 気づ かれ てい ない が︑ 対日 関係 でも

︑と くに 戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

二 九

(7)

領土 問題 に関 連し てし ばし ばこ の語 が発 せら れて いる

︒し かる に︑ コス チャ ショ ーフ 教授 の付 した 副題 には 他者 への 攻撃 的意 図は 認め られ ず︑ むし ろみ ずか ら暮 らし 研究 対象 とす る地 域の 歴史 的現 実を

︑そ こに 含ま れた 深刻 な矛 盾や 葛藤 とも ども

︑﹁ 第 二次 世界 大戦 の帰 結﹂ とし て受 け止 め る態 度 が 読み 取 れ る︒ こ のよ う な 転用 は 多 義的 に 理 解 可能 だ が︑ あえ て こ のよ う な 副題 を 付 し たコ ス チ ャシ ョ ー フ教 授 の 意 図は 深 く 受け 止 め ら れる べ き もの だ ろ う

︒ち な み に︑ 愛国 主義 的気 分に 浸り きっ たロ シア のナ ショ ナリ スト たち はこ うし た態 度へ の苛 立ち を隠 そう とせ ず︑ カリ ーニ ング ラー ドの ネッ ト空 間で は︑ 他の 何人 かの 地元 歴 史 家た ち と とも に コ ス チャ シ ョ ーフ 教 授 も︑

﹁ロ シ ア の 敵﹂ とい う悪 罵を 投げ かけ られ てい る︒ 歴史 家の 受難 の時 代は

︑世 界規 模の こと なの であ る︒ こ うし た公 正な 態度 との 関連 で最 後に

︑コ スチ ャシ ョー フ教 授が とく に力 を入 れて きた ポー ラン ド及 びド イツ の大 学と の学 術・ 教育 交流 につ いて 紹介 して おこ う︒ イ マニ ュエ ル・ カン ト・ バル ト連 邦大 学は

︑ポ ーラ ンド 中北 部 の トル ン

︵ コ ペ ル ニ ク ス の 生 地 と し て 知 ら れ る

︶︑ ドイ ツ のフ ラ ン クフ ル ト・ ア ム・ オー デ ル︵ ポ ー ラ ン ド と の 国 境 の 街 で

︑ 西 部 の 大 都 市 フ ラ ン ク フ ル ト

・ ア ム

・ マ イ ン と は 異 な る

︶ の大 学と とも に﹁ トリ アロ ーグ

﹂と 呼ば れる 大学 間協 力プ ログ ラム を締 結し て︑ 各大 学 の学 生 と 教員 が 参 加 する サマ ース クー ルな どに よる 交流 とあ わせ て︑

﹁ オー デル 川 とネ マ ン 川の あ い だ で﹂ を主 題 と した 共 同 研究 を 組 織 して

きた

︒そ の成 果は すで にド イツ 語・ ポー ラン ド語

・ロ シア 語に よる 著作 とし て公 刊さ れた

︒い うま でも なく オー デル 川と ネマ ン川 は︑ 第二 次世 界大 戦の 戦中

・戦 後に おお きく 変更 さ れ た国 境 線 に 沿っ て お り︵ 現 在

︑ オ ー デ ル 川 は ド イ ツ

・ ポ ー ラ ン ド 間

︑ ネ マ ン 川 は カ リ ー ニ ン グ ラ ー ド 州 と リ ト ア ニ ア と の 国 境 で あ る

︑︶ 境 界 線 をめ ぐ る 記憶 の 差 異の 確 認 と 共有 が︑ 国境 を超 えた 大学 間協 力に よる 共同 研究 の主 題と なっ たの であ る︒ 歴史 と記 憶を めぐ るヨ ーロ ッパ の国 家間 対話 は︑ ドイ ツ・ ポー ラン ド間

︑ド イツ

・フ ラン ス間 の経 験を もっ て必 要以 上に 美化 して 語ら れて いる が︑ 実際 には

︑そ

戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

(8)

の東 部の 二国 間対 話︑ とり わけ ロシ アも 関与 した それ は︑ あか らさ まな 対立 も含 めて

︑日 本で 考え られ てい る以 上に 複雑 な様 相を 呈し てい る︒ しか るに 国家 間で はな く地 域を 単位 とし た三 者間 対話 から は︑ 国家 単位 の二 国間 関係 とは

異な る成 果が 生ま れて いる よう であ る︒ コス チャ ショ ーフ 教授 の研 究成 果を 読む にあ たっ ては

︑そ のよ うな 地域 間協 力へ の意 思も 想起 して おき たい

訳 者

* ド

イツ の一 地方 であ る東 プロ イセ ンを 一部 ソ連 に移 譲す る問 題が 最初 に検 討さ れた のは

︑一 九四 一年 一二 月に モス クワ で行 われ た英 ソ﹇ 外 相

﹈ 会 談の 際の こと であ る︒ この 時

︑ソ ヴ ィエ ト 側 が︑ 対 独戦 争 に より ソ 連 の被 っ た 損 害へ の補 償を 目的 に︑ ケー ニヒ スベ ルク を含 む東 プロ イセ ンの 一部 を二

〇年 の期 限付 きで ソ連 側に 引き 渡す よう 求め たの

!

︒ 二年 後の 一九 四三 年︑ イギ リス

・ソ 連・ アメ リカ 合衆 国首 脳に よる テヘ ラン 会談 で将 来の ポー ラン ド国 境が 論議 され た際 には

︑ス ター リン はこ う明 言し た︒ ロシ

ア人 はバ ルト 海に 不凍 港を 持っ てお りま せん

︒し たが って ロシ ア人 には 不凍 港で ある ケー ニヒ スベ ルク とメ ーメ リ︑ さら に付 随す る東 プロ イセ ン領 の一 部が 必要 にな るで しょ う︒ いわ んや 歴史 的に はこ れら は︑ 古来

︑ス

"

ラヴ 人の 土地 なの です

︒ 戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

三 一

(9)

!

チャ ーチ ルは この 提案 を検 討す ると 約束 し︑ その 後の スタ ーリ ン宛 書簡 で﹁ ロシ ア側 の主 張の 正当 性﹂ を認 めた

︒最 終的 には

︑一 九四 五年 の三 大国 首脳 によ るベ ルリ ン会 議︵ ポ ツ ダ ム 会 談

︶ の プ ロ トコ ル で︑

﹁ ケー ニ ヒ スベ ル ク 市 およ

"

びこ れに 隣接 する 地域 のソ 連へ の移 譲を 求め るソ 連政 府の 提案 に原 則的 に﹂ 同意 した 旨が 確定 され た︒ こ の决 定は

︑来 るべ き講 和会 議で 最終 調整 する こと にな って いた

︒ま もな く始 まっ た﹁ 冷戦

﹂の ため に︑ ソ連 も参 加し た講 和会 議は 開か れな かっ たと はい え︑ 国際 社会 でポ ツダ ム決 定の 合法 性に 疑義 が呈 され るこ とは なく

︑一 九七

〇年 のド イツ 連邦 共 和 国﹇ 西 ド イ ツ

﹈ と ソ連 と の モ スク ワ 協 定︑ 一九 七 五 年の 欧 州 安 全保 障 協 力会 議

︵CSCE

︶ の 最終 文 章﹇ ヘ ル シ ン キ 宣 言

︑﹈ さ ら に 一九 九

〇 年の ソ 連︑ ア メ リカ 合 衆 国︑ イギ リ ス︑ フ ラン ス

︑ド イ ツ 民主 共 和 国﹇ 東 ド イ ツ

﹈ およ びド イツ 連邦 共和 国と のあ いだ の多 国間 協定 でも

︑戦 後ヨ ーロ ッパ の 境 界線 は 揺 るぎ な い こと が 確 認 され た︒ 併 合さ れた ドイ ツの 一地 方の ソヴ ィエ ト化 はか なり 複雑 な過 程に 置か れて いて

︑数 年に わた って 継続 し︑ 一連 の制 度的 変更 や措 置を 含ん でい た︒ ド イ ツの 遺 産 大

戦 前 の東 プ ロ イセ ン は︑ い わ ゆる ポ ー ラン ド 回 廊で 他 の 領 土か ら は 切り 離 さ れた

︑ド イ ツ 最 東部 の 地 方 で あ っ た︒ ここ には 一三 世紀 以来

︑ド イツ 人の チュ ート ン騎 士修 道会 国家 があ り︑ これ は一 六世 紀に 世俗 的な プロ イセ ン公 国に 姿を 変え

︑そ の後

︑プ ロイ セン 王国 の一 部︑ 最終 的に は一 八七 一年 に統 一さ れた ドイ ツ帝 国の 一部 とな った

︒こ の間 の七 世紀 を通 じて

︑ド イツ 的世 界と ドイ ツ文 明の 一部 だっ たの だ︒ 東プ ロイ セン は騎 士団 の城 でよ く知 られ てお

戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

三 二

(10)

り︑ その うち のい くつ かは 今日 まで

︑基 本的 には ポー ラン ド領 内に 残さ れて きた

︒中 世の 煉瓦 造り の城 郭と して 世界 最大 のひ とつ で︑ かつ てチ ュー トン 騎士 団の 指導 者で ある 総長 の居 城で あっ たマ リエ ンブ ルク 城︑ ポー ラン ド語 では マル ボル ク城 もこ れに 含ま れる

︒こ の地 域の 建築 が醸 し出 す雰 囲気 は︑ 主と して 数多 くの 美し い聖 堂の おか げで 生ま れた もの だっ た︒ 東プ ロイ セン には

︑高 度に 発達 した 農業 と工 業も 存在 した

︒ 戦 争の 最終 局面 でこ の地 域は 甚大 な被 害を 被っ た︒ 最初 の一 撃を もた らし たの は英 米空 軍で ある

︒一 九四 四年 八月 末 の数 日 間 に︑ ケー ニ ヒ スベ ル ク だ けで 約 四 万発 の 爆 弾が 投 下 さ れて 五

〇〇 人 以 上 が死 亡

︑数 万 人が 棲 家 を 失 っ た︒ 東プ ロイ セン の州 都は

︑一 九四 五年 四月 の赤 軍に よる 市街 戦で もひ どい 損害 を被 った

︒市 中心 部は 事実 上壊 滅状 態で

︑市 全体 でも 住宅

︑公 共機 関︑ 工業 関連 建物 の損 壊は 六〇 パー セン ト以 上に のぼ った

︒東 プロ イセ ンの 他都 市の

!

多く も廃 墟と 化し

︑工 業︑ 運輸

︑農 業︑ 土木

・治 水関 連施 設も きわ めて 甚大 な被 害を うけ た︒ 三 六四 あっ た工 業関 連企 業の うち 全壊 は一 八六 件︑ それ 以外 も手 痛い 被害 にあ った

︒地 域は 闇に 包ま れた

︒発 電所 が破 壊さ れ︑ 送電 線も 倒壊 させ られ たの であ る︒ 戦闘 が進 むと

︑ネ マン 川や 砂州 沿い のダ ムや 堤防 も破 壊さ れ︑ その ため に数 百平 方キ ロメ ート ルも の埋 立地

︵ 海 水 面 よ り 低 い

︶ が水 没し た︒ 不発 弾も 深刻 な問 題だ った

︒戦 後最 初の 数カ 月に 軍人 たち が一 七万 五〇

〇〇 発の 地雷 と二

〇〇 万発 の砲 弾を 処理 した が︑ 都市 でも 農村 でも さら に長 期に わた って 爆発 音が とど ろき 続け てい た︒ 赤 軍の 戦利 品獲 得部 隊に よる 分別 のな い活 動も

︑地 域経 済に 多大 の被 害を もた らし た︒ これ らの 部隊 は︑ 工業 設備 を解 体撤 去し て﹁ ソ連

﹂に 送り 出し

︑企 業な どの 備品

︑化 粧タ イル

︑煉 瓦︑ 街路 の敷 石そ の他

︑価 値の あり そう なも のを かき 集め て運 びだ した

︒周 知の 通り

︑こ の地 域は

︑戦 後は ソ連 統治 下に 移管 され るこ とに なっ てい たの に︑ であ る︒

戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

三 三

(11)

最 初の ソ連 移住 者た ちの 目に とび 込ん でき たの は︑ 歪ん だ鉄 路︑ ばく だい な数 の戦 車そ の他 の破 壊さ れた 武器

︑打 ち捨 てら れた 大砲

︑果 てし なく 続く 塹壕

︑破 壊し つく され たト ーチ カで あっ た︒ 各地 の鉄 道駅 には 鉄柱 だけ がぽ つん と立 って いて

︑周 囲に は焼 け焦 げた 煉瓦 の山 があ った

︒ケ ーニ ヒス ベル クで は︑ 破壊 され た中 央駅 から 街中 心の 広場 まで 建物 はな く︑ あっ たの は焼 け落 ちた 建物 の残 骸で あり

︑と きお り壁 面が 二・ 三面 残さ れて いる だけ だっ た︒ 人の

!

姿も なく

︑車 や生 き物 もお らず

︑住 民に 見捨 てら れた 死の 街と いう 印象 だっ た︒ ソ 連 によ る 行 政の 開 始 戦

闘終 結後 の一 年間

︑ソ 連の 手に 渡っ た東 プロ イセ ン北 部で 唯一 の権 力は 軍部 だっ た︒ 一九 四五 年夏 に特 別軍 管区 が設 置さ れ︑ 実権 は軍 の司 令官 や守 備隊 長た ちが 掌握 して おり

︑か れら はま るで 我が 物顔 だっ た︒ 軍部 が多 くの 都市 や村 々を 領有 し︑ それ 以外 でも まし な建 物や 住居 を 占 拠し た だ けで な く︑

﹁ 自 分た ち

﹂の 居 住区 を 違 法な 監 視 所 や遮 断機 で民 間人 から 隔離 した

︒こ の臨 時統 治機 関は

︑軍 隊本 来で はな いも のも 含め て︑ 広範 囲の 任務 を果 たさ ねば なら なか った

︒現 地ド イツ 人住 民の 暮ら しの 統制

︑公 共事 業︑ 工場 の稼 働︑ 農業 労働 の組 織化 など であ る︒ 赤軍 将校 は戦 うの には 長け てい たが

︑軍 隊的 統治 法を 民生 部門 に適 用す るの は不 得手 だっ た︒ 軍当 局に は︑ この 地域 に暮 らし 始め た民 間人 の移 住者 は気 にそ まな かっ た︒ 軍司 令官 たち の傍 若無 人ぶ りを モス クワ に訴 える こと がよ くあ った から であ る︒ 行 政シ ステ ム再 編と 軍政 から 民政 への 移行 は︑ 一九 四 六 年春 に 始 まっ た

︒ケ ー ニ ヒス ベ ル ク軍 管 区 が解 体 さ れ て︑ 代わ りに ロシ ア・ ソヴ ィエ ト連 邦社 会主 義共 和国 の一 部と して ケー ニヒ スベ ルク 州が 設け られ

︑同 時に

︑国 防省 では

戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

三 四

(12)

なく ロシ ア・ ソヴ ィエ ト連 邦社 会主 義共 和国 大臣 会議 に服 属す る臨 時文 民権 力機 関と して

︑民 政局 の設 置が 開始 され た︒ 一 九四 六年 六月 には モス クワ で︑ ケー ニヒ スベ ルク 州に ソヴ ィエ ト法 を施 行し

︑す べて の土 地・ 銀行

・工 場・ 運輸 通信 手段

・公 共施 設を 国有 化す る政 令が 採択 さ れ た︒ これ に よ り︑

﹁特 別 管 区﹂ を ロシ ア 共 和国 の 通 常の 行 政 主 体に 転換 する 法的 基盤 が整 えら れた

︒と はい え軍 から 文民 へ の 権力 移 譲 には 一 年 以 上を 要 し︑ 軋 轢も 少 な から ず あ っ た︒ 将校 たち は︑ 自分 たち の独 占的 な権 力と 財産 をな かな か手 放そ うと しな かっ たか らで ある

︒ 一 九四 七年 春に は︑ ソ連 の政 治シ ステ ムの 基礎 であ る各 級共 産党 委員 会が 組織 され た︒ 立憲 主義 的統 治へ の移 行過 程は

︑最 終的 には 一九 四七 年一 二月 に完 了し た︒ 地方 レベ ルの 権力 機関 であ る各 級勤 労者 代議 員会 議の 最初 の選 挙が 行わ れた ので ある

︒ カ リ ーニ ン グ ラー ド 州 への 移 住 軍

人以 外で 旧東 プロ イセ ン最 初の ソヴ ィエ ト人 住民 に な った の は いわ ゆ る 引 揚者

︑つ ま り 戦時 期 に 労役 の た め に︑ 占領 下の ソ連 諸州 から ドイ ツへ とフ ァシ スト によ って 連れ ださ れた 人々 であ る︒ かれ らの 故郷 への 帰路 は東 プロ イセ ンを 通っ てい た︒ どこ にも 戻る とこ ろの なか った 引揚 者の 一部 は︑ 引き 続き プロ イセ ンに 暮ら すこ とに なっ た︒ カリ ーニ ング ラー ド州 への 大量 移住 は︑ 一九 四六 年七 月九 日付 でス ター リン の署 名し た政 府決 定で 決め られ た︒ この 決定 は︑ 一九 四六 年末 まで にロ シア

・ソ ヴィ エト 連邦 社会 主義 共和 国内 の二 三の 州・ 自治 共和 国と ベラ ルー シか ら一 万二

〇〇

〇家 族を 自発 性に 基づ いて 移住 させ るこ とを 定め てい た︒ 戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

三 五

(13)

移 住を 奨励 する ため に︑ 一連 の特 典が 設け られ た︒ たと えば 旅費 の無 償と 資金 援助 であ る︒ また 各家 族は

︑ア パー トま たは 戸建 住宅 を〇

・五 ヘク ター ルの 土地 付き で個 人所 有す るこ とが 認め られ

︑住 居の 建設

・修 繕と 家畜 取得 のた めの 無利 子 貸 付も 供 与 さ れた

︒各 家 族 には

︑国 定 価 格︵ つ ま り 低 額

︶ の 穀 物 や 商品 一 式 の販 売 も 決め ら れ た︒ 衣 服と 靴︑ 布 地三

〇 メ ート ル

︑灯 油 一〇 リ ッ ト ル︑ 塩一

〇 キ ログ ラ ム︑ 石 鹸一 キ ロ グ ラ ム︑ マ ッ チ 四

〇 箱 な ど で あ る

︒ま

!

た︑ 移住 者は 三年 間す べて の税 金を 免除 され た︒ 工業 その 他の 経済 分野 で就 労す るた めの 勤労 者の 都市 移住 につ いて 政府 が同 様の 決定 を行 うの は︑ すこ し後 のこ とだ

︒ 計 画で は︑ 移住 は二 人以 上の 就労 可能 者の いる

﹁家 族﹂ 単位 とさ れて いた

︒し かし 実際 には

︑い わゆ る不 完全 家族

︵ 子 ど も と 片 親 だ け

︑ そ れ も 母 親 だ け が 多 い

︶ や偽 装 家 族 もき わ め て広 く 見 ら れた

︒移 住 候 補者 は す べて 秘 密 裏 に︑ 犯罪 者や 危険 人物 の摘 発を 目的 とし た治 安機 関に よる 審査 を受 けた

︒審 査の 結果

︑各 州・ 共和 国で 旧東 プロ イセ ン移 住希 望者 のう ち一 二パ ーセ ント まで がふ るい 落と され た︒ も っと も勤 勉で 訓練 の行 き届 いた 勤労 者を 選ぶ よう にと いう 要請 にも かか わら ず︑ 移住 者の 熟練 度は きわ めて 低か った

︒一 九四 六年 に州 内最 大企 業の 第八 二〇 号造 船工 場に 採用 され た三 六〇

〇人 のう ち九 五パ ーセ ント は︑ 造船 業で 働い たこ とが 一度 もな かっ た︒ 農業 でも 状況 はま った く同 じで

︑村 には

﹁希 望す れば だれ でも

︑コ ルホ ーズ 員の ふり

"

をし てや って 来た

︒コ ルホ ーズ 員 で はな か っ たど こ ろ で はな い

︒法 律 家︑ 医師

︑音 楽 家︑ 技 術者

︑教 師 だ っ た﹂ と︑ 地元 当局 はこ ぼし てい た︒ 移 住者 中で もっ とも 目立 った のは

︑ヒ トラ ーに よる 占領 地帯 と化 した ロシ ア︑ ウク ライ ナ︑ ベラ ルー シで 焼き 払わ れた 農村 や破 壊さ れた 都市 の住 民だ った 人び とで ある

︒戦 争で 一家 の大 黒柱 を失 い︑ 立て 直し の力 も資 金も なか った かれ らに とっ ては

︑戸 建住 宅か アパ ート を与 える とい う募 集係 の約 束は

︑移 住を すす める 格好 の餌 であ り︑ 納得 する

戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

三 六

(14)

理由 だっ た︒ 多く の人 々が

︑転 居を 決意 する こと で自 分と 子ど もを 飢え から 救い

︑新 天地 で生 き抜 くこ とに 希望 を抱 いて いた

︒移 住者 のな かに は山 師や 犯罪 者も 多数 含ま れた し︑ それ どこ ろか いわ ゆる 職業 的移 住者

︑す なわ ち特 典を 得る ため に何 度も 移住 者登 録を した 人び とも いた

︒金 を使 い尽 くす と︑ 姿を くら まし ては また もや 何度 も応 募し たの であ る︒ 他方 で︑ 新規 居住 者た ちは

︑同 胞た ちと は異 なる 積極 的な 特徴 を身 につ けて いた

︒フ ット ワー クが 軽く

︑好 奇心 旺盛 で進 取の 精神 に富 み︑ 危険 をお かす 覚悟 があ り︑ その うえ 自由 だっ た︒ カ リー ニン グラ ード 州に 移住 者が もっ とも 多く やっ てき たの はソ 連の 三つ のス ラヴ 系 共和 国 か らだ っ た︒ ロ シア

︵ 六 四 パ ー セ ン ト

︑︶ ベ ラ ル ー シ

︵ 九 パ ー セ ン ト

︑︶ ウ ク ラ イ ナ︵ 七 パ ー セ ン ト

︶ であ る

︒さ ら に隣 接 す るリ ト ア ニ ア か ら は 約 四 パ ー セ ン ト が 来 た︒ 農村 地域 での 新規 居住 者の 配分 は﹁ 同郷

﹂原 則︑ すな わち 同一 地方 出身 者を まと めて 居住 させ る原 則を 考慮 して 行わ れた

︒移 住者 中で は︑ 当初 は女 性が 男性 を約 一・ 五倍 程度 上回 って いた

︒移 住者 の典 型は 男性 では なか った だけ では ない

︒女 性た ちも 未婚 か︑ 普通 は一 人な いし 数人 の子 連れ の寡 婦だ った

︒年 齢構 成で は青 年比 率が きわ めて 高く

︑若 年︵ 一 七 歳 ま で

︶ と 老 齢 の集 団 は はる か に 少 なか っ た︒ こ うし た 事 情 のお か げ で死 亡 率 が相 対 的 に 低い 一方 で︑ 出生 率は きわ めて 高く なっ てい た︒ こう した こと は︑ 成立 初期 の州 の住 民に 固有 にみ られ たも のだ った

︒ 居 住場 所と 就労 職種 が変 わっ たこ とは

︑お そら くカ リー ニン グラ ード 新規 居住 者に もっ とも はっ きり と見 られ た特 徴の ひと つだ った

︒都 市出 身者 と農 村出 身者 がほ ぼ半 々だ った のだ が︑ 移住 者の 三分 の一 以上 が仕 事の 性格 や生 活様

カリーニングラード地区へのソヴィエト移住者、1947-50年 比率(%)

64 9 7 4 14 100 移住者数(千人)

253 35 29 15 53 391 出身共和国

ロシア ベラルーシ ウクライナ リトアニア その他の共和国 合計

戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

三 七

(15)

式を 一変 させ たの だ︒ わか りや すく 言う と︑ カリ ーニ ン グ ラー ド 州 の各 都 市 の 住民 は そ の四

〇 パ ーセ ン ト が﹁ 農 民﹂ 出身 者で 占め られ てい て︑ これ はあ る程 度︑ 農村

・都 市 間 の移 住 に みら れ る 一 般的 傾 向 に一 致 し てい た

︒と こ ろ が︑ 全国 規模 で見 ると

︑カ リー ニン グラ ード の農 村は 独特 の現 象を 示し てい た︒ 農業 など まっ たく わか らな い都 市民 の三 分の 一以 上が 農村 住民 とし て入 り込 んで

︑そ のこ とが 固有 の問 題を 生み 出し

︑長 く尾 を引 くこ とに なっ たの であ る︒ 移 住者 の大 量流 入の おか げで 州の 人口 がも っと も急 激に 補填 され たの は︑ 一九 四六 年か ら一 九五 五年 にか けて のこ とで ある

︒一 九五

〇年 に住 民数 は五

〇万 人を 超え た程 度だ った が︑ 一九 五〇 年代 中頃 以降 は基 本的 には 自然 増に よる 成長 が続 いて いた

︒も っと も︑ 最近 まで 移住 要因 はあ る程 度意 味を 持ち 続け てい た︒ 移住 者に よる 逆向 きの 移住 が高 い 水準 で 続 いて き た ので あ る

︒戦 後 最初 の 一

〇年 間 に カリ ー ニ ン グラ ー ド 州に は 一 二

〇万 人 が 流入 し た が

︑八

〇 万 人︑ つま り流 入者 数の 三分 の二 が州 外に 舞い 戻っ てい った

︒こ の時 期に 州内 には

︑本 質的 には

︑恒 常的 な住 民は いな かっ たの であ り︑ 条件 付き で言 うな らば

︑住 民の 入れ 替え が三 回は 行わ れた のだ

︒当 然の こと なが ら︑ この よう なロ ーテ ーシ ョン は︑ この 地域 への 滞在 は一 時的 なも のに すぎ ない とい う感 情に もと づく 独特 の心 理を 形づ くり

︑そ のこ

!

とが ある 程度

︑カ リー ニン グラ ード の人 びと の心 性と して 定着 した

︒ ド イ ツ人 と そ の強 制 追 放 東

プロ イセ ン住 民の 避難 は︑ 戦争 末期

︑赤 軍が 国境 に接 近す るの と同 時に 始ま った

︒一 九四 五年 三月 から 四月 だけ でも

︑東 プロ イセ ンか ら海 路や 鉄道 で約 三〇 万人 が避 難さ せら れた

︒移 住の 第二 の波 は︑ 戦争 終結 後最 初の 数年 間に 生じ た︒ この 時︑ 反ヒ トラ ー連 合の 同盟 国間 の協 定で

︑東 欧・ 中欧 諸国 から 事実 上す べて のド イツ 系住 民を 組織 的に

戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

三 八

(16)

!

移住 させ る事 業が 始 まっ た

︒ド イ ツ人 歴 史 家は

︑ケ ー ニ ヒ スベ ル ク﹇ 要 塞 警 備

﹈ 司 令 官 のオ ッ ト ー・ ラシ ュ の 回 想を 引用 して

︑戦 闘行 動終 結後 も留 まっ たド イツ 人の 民間 人の 数を

︑ケ ーニ ヒス ベル クだ けで 一一 万人 程度 と見 積も って いる

︒か れら の言 によ れば

︑そ の後 の二 年間 でそ のう ち七 五パ ーセ ント 以上 が死 亡し てお り︑ 生き 延び た二 万な いし

"

二万 五〇

〇〇 人だ けが ドイ ツへ の強 制追 放に 処せ られ た︒ ソヴ ィエ ト側 のデ ータ はこ れと はま った く違 って いる

︒東 プロ イセ ンの うち ソ連 の手 に渡 った 部分 で軍 政当 局が 一九 四五 年九 月一 日に 実施 した 人口 調査 によ れば

︑一 三万 九六

#

一四 人の ドイ ツ人 が と どま っ て い た︵ 軍 人 の 捕 虜 は 含 ま な い

︶︒ こ の 数値 が ど れ ほど 正 確 かは い い にく い が︑ 飢 え と寒 さ︑ 人口 稠密 や石 鹸不 足︑ さら に好 まし くな い生 活条 件の 結果 生じ た疥 癬・ 腸チ フス

・発 疹チ フス など のさ まざ まの 疾病 の大 流行 で生 じた 高い 死亡 率の ため に︑ 急速 に減 少し たこ とは わか って いる

︒一 九四 六年 から 一九 四七 年に かけ ての 冬季 のド イツ 人住 民の 死亡 は︑ 一カ 月当 たり 四〜 五〇

〇〇 人に のぼ った

︒ 生 き抜 いた 東プ ロイ セン のド イツ 人は

︑戦 争終 結後 にド イツ に強 制移 住さ せら れた 中欧 や南 東欧 諸国 出身 の同 胞た ちと 運命 をと もに した

︒た だし

︑東 プロ イセ ンの ソヴ ィエ ト部 分か らの ドイ ツ人 強制 追放 は︑ ただ ちに 強行 され たと いう わけ では ない

︒全 体と して 当初 はそ うし た行 動は

︑ソ 連指 導部 の計 画に はな かっ たか のよ うな 印象 さえ ある

︒大 規模 送還 の開 始は 二〜 三年 遅れ たの だが

︑こ れは なん とも 実際 的な 判断 によ って 説明 可能 だっ た︒ ソヴ ィエ トの 行政 機関 は︑ ロシ アそ の他 のソ 連邦 各共 和国 から の移 住者 が州 に到 着す るま では

︑地 元住 民の 労働 を利 用す るの が理 に適 って いる と考 えた とい うわ けだ

︒ こ れら のド イツ 人の 法的 地位 は定 まら なか った

︒そ れは

︑戦 後の ドイ ツ全 体の 運命 がは っき りし なか った のと 同じ であ る︒ おそ らく 当初 は︑ これ らの 人々 をソ ヴィ エト 国家 に統 合す る路 線が 採ら れて いた

︒こ のこ とは

︑ド イツ 人児

童の ため に四

〇校 以上 の学 校が 開設 され

︑ド イ ツ 語で 授 業 が行 わ れ て いた と い う事 実 が 証明 し て い る︒

﹃新 時代

﹄と 戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

三 九

(17)

いう 名の ドイ ツ語 新聞 が発 行さ れ︑ 一日 二時 間は ドイ ツ語 によ るラ ジオ 放送 も行 われ

︑ド イツ 人ク ラブ と呼 ばれ る文 化 施設 も 開 設さ れ た︒ と はい え 基 本 的に は 女 性︑ 老人

︑子 ど も ばか り で

︑お ま けに 衰 弱 状態 に あ っ た ド イ ツ 人 住 民 は︑ 地元 当局 にと って ます ます 厄介 な重 荷に なっ てい て︑ この こと が歴 史的 故郷 への 強制 追放 とい う決 定を 下す 原因 とな った

︒さ らに

︑国 内を 支配 した 共産 主義 者た ちは

︑か つて 敵で あっ たド イツ 人は ソヴ ィエ トの 人び とに 有害 な影 響を 及ぼ して おり

︑ソ ヴィ エト 人は ドイ ツ人 と好 まし くな い関 係を 結ん でい て︑ 共産 主義 とは 無縁 の敵 対的 イデ オロ

!

ギー をも たら して いる と考 えて いた

︒ 一 九四 七年 一〇 月一 一日

︑ス ター リン の署 名し たソ 連邦 閣僚 会議 秘密 決定 第三 五四 七│ 一一 六九 с号

﹁ロ シア

・ソ ヴ ィエ ト 連 邦社 会 主 義共 和 国 カ リー ニ ン グラ ー ド 州か ら ド イ ツの ソ ヴ ィエ ト 占 領 地域 へ の ドイ ツ 人 の移 住 に 関 する 件﹂ が採 択さ れた

︒一 九四 七年 一〇 月か ら一 一月 にか けて 三万 人の ドイ ツ人 を移 住さ せる 計画 であ る︒ まず 移住 対象 にさ れた のは

︑有 用労 働に 従事 でき ない 子ど もや 病気

・高 齢の ドイ ツ人 だっ た︒ 一九 四八 年二 月一 五に は二 番目 のソ 連邦 閣僚 会議 決定 第三 三三

│一 二二 с号 が採 択さ れ︑ これ は州 内に 暮ら して いる 残留 ドイ ツ人 全員 を︑ 一九 四八 年三

〜四 月と 八〜 一〇 月の 二段 階に わけ て移 住さ せる よう 定め てい た︒ 移住 対象 者に は︑ 私有 財産 を三

〇〇 キロ グラ ムま で持 ち出 すこ とが 認め ら れて い た︵ 実 際 は 別 ル ー ル で 動 い て い て

︑ 手 で も て る ト ラ ン ク ひ と つ だ け

︒︶ 各 地 区で の 移 住 の組 織化 は作 戦実 施 グ ルー プ︵﹁ ト ロ イ カ

﹂︶ に 委 ね られ て お り︑ こ れは 内 務 省と 国 家 保 安省 そ れ ぞれ の 地 区支 署 長 に くわ えて 地区 執行 委員 会議 長か ら構 成さ れて いた

︒ ド イツ に強 制追 放さ れた ドイ ツ人 民間 人の 列車 名簿 が今 日ま で残 され てお り︑ これ はド イツ 人人 口調 査の 一次 史料 とし て唯 一の もの であ る︒ これ らの 名簿 によ れば

︑一 九四 七年 から 一九 四八 年に かけ てカ リー ニン グラ ード 州か らド イツ のソ ヴィ エト 占領 地区 には 四七 編成 の列 車が 送り 出さ れて おり

︑一 九四 九年 から 一九 五一 年に はさ らに 三編 成が

戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

(18)

!

送ら れた

︒全 体で は︑ 州内 から 一〇 万二 四九 四人 のド イツ 人民 間人 が移 送さ れた

︒ 改 称 キャ ン ペ ーン 一

九四 六年 夏ま でケ ーニ ヒス ベル ク州 の古 くか らの ドイ ツ語 地名 には 事実 上手 がつ けら れて おら ず︑ その こと がこ の地 域の 新規 住民 に困 難を もた らし てい た︒ ロシ ア語 を聞 きな れた 耳に は不 慣れ なド イツ 語呼 称を 聞き 分け て覚 える こと は難 しか った のだ

︒ケ ーニ ヒス ベル クの 郵便 配達 人は ほぼ 例外 なく ドイ ツ人 だっ たが

︑こ れは 偶然 では ない

︒街 の地 名を 判別 でき たの は︑ かれ らし かい なか った

︒イ デオ ロギ ー的 判断 から も改 称は 必要 だっ た︒ なに より ナチ スの 過去 と関 わり のあ る呼 称は

︑地 図か ら抹 消し なけ れば なら なか った

︒ す でに 一九 四五 年一 一月 に軍 政当 局の 手で

︑ケ ーニ ヒス ベル クの 三七 四の 道路 と広 場に つい て最 初の 改称 が行 われ た︒ それ らは

﹁フ ァシ スト 指導 者の 名前 に因 んで いて

︑戦 勝国 民の 当然 の怒 りを かっ てい る﹂ こと を考 慮し ての こと だっ た︵ 実 際 に は

﹁ フ ァ シ ス ト 的

﹂ 呼 称 の 道 路 は 市 内 で 一 五 本 程 度 だ け だ っ た

︒︶ な かで もア ドル フ・ ヒト ラー 広 場 は︑ 勝利

"

広場 に改 称さ れた

︒ 居 住地 名の 改称 キャ ンペ ーン は︑ 州の 中心 地の 名称 変更 から 始め ねば なら なか った

︒ケ ーニ ヒス ベル クは 当初 はバ ルテ ィス クと 呼ぶ よう 提 案さ れ た が︑ 一九 四 六 年七 月 六 日 に︑ スタ ー リ ンの 側 近 でソ ヴ ィ エ ト議 会﹇ 最 高 会 議

﹈ 議長 であ った 故ミ ハイ ル・ カリ ーニ ンに ちな む名 称を 得た

︒そ の後 の数 カ月 には 相次 いで

︑旧 東プ ロイ セン の地 名を 全面 的に 変更 する 補足 的な 政令 が出 され た︒ 新名 称の 多く は︑ 終わ った ばか りの 戦争 に関 連し たも のだ った

︒州 内六 都市 が東 プロ イセ ンで 亡く なっ た ソ 連邦 英 雄 の名 前

︵ ネ ス テ ロ フ

︑ グ ー セ フ

︑ チ ェ ル ニ ャ ホ フ ス ク な ど

︶ を得 た

︒そ れ 以 外に 戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

四 一

(19)

は軍 事的 主題

︵ ク ラ ス ノ ズ ナ メ ン ス ク

﹇ 赤 旗

﹈︑ グ ヴ ァ ル ヂ ェ イ ス ク

﹇ 親 衛 隊

﹈︶ や︑ 社会 主 義 的シ ン ボ ル︵ ソ ヴ ェ ツ ク

︑ ピ オ ネ ー ル ス ク

︶ に因 んだ もの もあ った

︒州 の地 図に は共 産党 指導 者や ロシ ア人 の司 令官

︑作 家︑ 学者 の 名 前が 登 場 し た︒ 自然 やそ の 土 地の 特 色 の よう な も のに 因 ん だ 地名 の 与 えら れ た 居住 地 域 も あっ た︵ バ ル テ ィ ス ク

︑ ゼ レ ノ グ ラ ツ ク

﹇ 緑 の 街

﹈︑ オ ゼ ル ス ク

﹇ 湖

﹈︶

︒改 称 委 員会 に と って

︑ソ 連 邦 地 図が ま た とな く 役 立 った

︒移 住 者 たち の 出 身地 に 因 ん で命 名さ れた 村名 もあ った のだ

︵ ウ ラ ジ ミ ロ ヴ ォ

︑ モ ス コ フ ス コ エ

︑ ヤ ロ ス ラ フ ス コ エ

︒︶ ま れ な 例だ が

︑さ ら に命 名 の 仕 方が あっ た︒ 地名 のロ シア 化が それ で︑ ドイ ツ語 名と 似た 響き の名 称を つけ るの であ る︒ もっ と稀 な例 では

︑ド イツ 語か らロ シア 語へ の地 名の 翻訳 のよ うな

︑も っと も合 理的 だと 思え る命 名法 も利 用さ れた

︒こ の場 合︑ 名称 中に 含ま れた

!

有益 な情 報︑ つま り人 びと の暮 らし や仕 事に 必要 な目 印を 含む のが 一般 的な のだ が︑ そう した 情報 が残 され てい た︒ 大 規模 なキ ャン ペー ンに より

︑何 千件 もの 居住 地や 河川

・湖 その 他の 自然 物︑ 数万 件も の広 場と 道路 が新 しい 名称 をつ けら れた

︒拙 速で しか も地 元の 地理 に通 暁し た専 門家 がい ない ため に︑ 同一 のも のや 冴え ない 名称

︑イ デオ ロギ ー的 彩り の強 い名 称が 多く 見ら れる こと にな った

︒多 くの 地名 が重 複使 用さ れて

︑複 数の 村々 が同 一の 名称 をつ けら れる こと も多 かっ た︒ 最高 記録 は﹁ ソス ノフ カ﹂ で︑ 一二 の村 々が こう 命名 され たの だ︒ もっ とも 具合 が悪 かっ たの は︑ 何世 紀も かけ て定 着し 人び とに 自然 な目 印の 役割 をは たし てき た旧 称と 違っ て︑ 新名 称は 実に わざ とら しか った とい うこ とで ある

︒旧 称は

︑地 元の 特質 や歴 史的 伝統

︑民 族文 化的 な独 自性 を考 慮し たも のだ った から であ る︒ ちな み に︑ 隣接 す る ポー ラ ン ドと リ ト ア ニア で は︑ 改 称キ ャ ン ペー ン は ま った く 違 った 形 で 進 めら れ た

︒こ れ ら の 場 合 は︑ 第一 に︑ ドイ ツ語 名に 相当 する 独自 の別 名称 が使 われ るこ とに なっ ても

︑そ れら は数 世紀 にわ たっ てド イツ 語名 と併 用さ れて きた もの だっ た︒ 第二 に︑ ドイ ツ語 名称 の一 部が 母国 語に 訳さ れた り︑ 音韻 的に 適応 させ られ たり した のだ

戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

四 二

(20)

ド イ ツの 歴 史 的・ 文 化 的遺 産 へ の態 度 戦

後初 期の ドイ ツ的 な歴 史と 文化 への 態度 は︑ 宿敵 であ るド イツ

・フ ァシ ズム にた いし て広 く見 られ た態 度の 影響 を受 けて 形作 られ てい た︒ ソヴ ィエ トの 人び とに 多大 の災 厄︵ 五 年 間 の 対 独 戦 争 に よ る わ が 国 民 の 犠 牲 者 は 二 六

〇 万 人 を 数 え た

︶ をも たら した 不倶 戴天 の敵 への 憎悪 であ る︒ この 街 の 奪取 後 た だ ちに 中 央 紙﹃ プラ ウ ダ﹄ に 掲載 さ れ た ケー ニヒ スベ ルク にか んす る最 初の 記事 は︑

﹁ ケー ニヒ スベ ルク はド イツ 犯罪 史そ のも ので あり

︑そ の長 き生 涯を 通じ て︑

!

この 街は 強盗 とし て生 きて きた のだ

﹂と いう 一文 から 始ま って いた

︒フ ァシ ズム への この よう な憎 悪は

︑公 式プ ロパ ガン ダの 後ろ 盾を 得た もの で︑ ドイ ツ的 なる もの のす べて に及 んで いた

︒そ こか ら導 かれ る結 論は

︑東 プロ イセ ンの ドイ ツ的 な文 化と 遺産 には まっ たく 価値 はな く︑ 根絶 可能 どこ ろか むし ろ根 絶し なけ れば なら ない

︑と いう こと であ った

︒﹁ プ ロイ セン 精神 の追 放﹂ とい うス ロー ガン が︑ そ のた め の 武器 と し て 盛ん に 活 用さ れ た︒ こ の土 地 の 歴 史は 新た に︑ 白紙 状態 から 始め られ なけ れば なら ない

︒戦 後初 期に は︑ この 地域 の戦 争以 前の 過去 に触 れる こと は事 実上 全面 的に 禁止 され てい た︒ 下 っ 端 の移 住 者 たち は

︑目 に し たも の を まっ た く 違っ た ふ う に受 け と めた

︒こ こ で は何 も か も が目 新 し く 興 味 深 く︑ もと の故 郷と は驚 くほ ど違 って いた

︒街 や村 の外 観に もひ どく 驚か され た︒ 木造 の建 物は ひと つも なく

︑あ った のは 赤瓦 葺の 切妻 屋根 や鋳 物製 で精 巧な 格子 状の 橋の 欄干 だ︒ 丸石 や煉 瓦で 舗装 した 道路

︑豊 かな 植栽

︑こ れま で見 たこ とも ない よう な花 の咲 きに おう

︑手 入れ の行 き届 いた 庭も 目に 入っ てき た︒ 多く の人 びと のお 気に 入り の日 課に なっ たの は︑ 地元 の墓 地を 訪れ るこ とだ った

︒美 しい 記念 碑や 銅像

︑納 骨所 を備 えた 公園 のよ うだ った

︒教 会の 聖堂 戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

四 三

(21)

も似 ても 似つ かぬ もの だっ た︒ おご そか で峻 厳と も思 える 威容 に圧 倒さ れそ うな ほど 壮大 だっ たし

︑内 部に はイ コン の代 わり の像

︑オ ルガ ン︑ ベン チが 備わ って いた

︒無 事に 残っ たア パー トの 部屋 や邸 宅に 入居 した 人び とは

︑こ れま で とは ま っ たく レ ベ ルの 違 う 住 居の 快 適 さと 出 会 って

︑ヨ ー ロ ッ パ的 な 日 常生 活 の い くつ か の 要素 を は じめ て 知 っ た︒ ひど く破 壊さ れて いた にも かか わら ず︑ 堅牢 さ︑ 品質 の良 さ︑ 清潔 さ︑ 秩序 とい った 印象 は残 って いた

︒ま さに

!

﹁ 異国 にや って 来た みた い﹂ だし

︑こ こに は﹁ 別種 の人 びと が暮 らし てい たの だ﹂ と︑ 多く の人 びと が感 じて いた

﹁プ ロイ セン 精神 の追 放﹂ をめ ざす 当局 の方 針の 不愉 快き わま りな いあ らわ れは

︑ス ター リン 死後 には 克服 され た︒ 最初 はご くわ ずか だっ たが

︑国 家に よる 保護 下に 置か れる よう にな り︑ その 後は 何十

︑何 百も のド イツ 風の 建物 と建 造物

︑芸 術的 な記 念物 がこ れに 続い た︒ 当局 が修 復や 再建 のた めの 予算 をつ ける よう にな った

︒だ が︑ 地域 の戦 前の 歴史 への 禁令 が最 終的 に解 かれ たの は︑ 一九 八〇 年代 後半 のペ レス トロ イカ 開始 以降 のこ とだ

︒ 戦 後︑

﹁ 記念 碑﹂

﹁歴 史記 念物

﹂﹁ 文 化記 念物

﹂と いっ た 概念 は

︑ソ ヴ ィエ ト の 戦 士た ち の 墓所 に の み用 い ら れ てき た︒ ドイ ツ的 な記 念碑 は撤 去さ れて

︑改 鋳さ れた

︒わ ずか に無 事に 生き 残っ たも のも ある が︑ その ひと つは ドイ ツの 偉大 な詩 人で ある フリ ード リヒ

・シ ラー の記 念碑 で︑ いま も街 中心 部の 劇場 前に ある かつ ての 場所 に立 って いる

︒世 界的 に著 名な 一八 世紀 ドイ ツの 哲学 者イ マニ ュエ ル・ カン トの 墓碑 も保 存さ れて きた

︒か れは

︑生 涯を ケー ニヒ スベ ルク で過 ごし

︑﹁ 地 元の 偉人

﹂と なっ た︒ その 後こ の墓 碑 は修 復 さ れて

︑い ま で は カリ ー ニ ング ラ ー ドの 主 要 名 所の ひと つと なっ てい る︒ 破壊 され た記 念碑 の素 材が ソヴ ィエ ト的 モニ ュメ ント の製 作に 使わ れる こと もよ くあ った

︒ケ ーニ ヒス ベル ク大 学本 館前 に建 立さ れて いた カン トの もう ひと つの 記念 碑も そう した 運命 をた どっ た︒ 戦後

︑哲 学者 の像 は撤 去さ れ︑ みご とな 大理 石製 の台 座が ドイ ツ人 共産 主義 者の エル ンス ト・ テー ルマ ンの 胸像 を置 くの に用 いら れた

︒共 産主 義崩 壊後 にテ ール マン が台 座か ら引 きず り降 ろさ れる 一方

︑カ ント 像が 改め て青 銅で 鋳造 され

︑﹁ 故 郷﹂

戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

四 四

(22)

の台 座上 に建 立さ れた

︒ か つて 王城 は東 プロ イセ ンの 主要 名所 で︑ これ もま たケ ーニ ヒス ベル クの 建築 物の 奏で る旋 律の 中心 音の 役割 を果 たし てい た︒ 城は かな りひ どく 破壊 され ては いた が︑ それ でも 再建 可能 な状 態だ った

︒一 九五

〇年 代の 公的 議論 のな かで は多 くの 市民 が︑ 将来 の修 復の ため にこ の壮 大な 建築 物を 保存 する のに 賛成 して いた

︒ド イツ 人研 究者 であ るベ ルト

・ホ ッペ の見 解に よれ ば︑ 城の 運命 をめ ぐる 論争 は﹁ 実際 は︑ この 地域 のド イツ 的歴 史に たい する 態度 をめ ぐる

!

軋轢 であ り︑ 地域 アイ デン ティ ティ の形 成に 関す る問 題 群 の全 体 に かか わ っ て いた

﹂︒ し か しな が ら 共産 党 政 権 は城 の撤 去を 決定 し︑ 一九 六八 年に 爆破 され た︒ 一 九七

〇年 台か ら八

〇年 代に なる と︑ 全国 民的 な歴 史の 語り のな かで

︑第 二次 世界 大戦 にお ける ソヴ ィエ ト人 民の 勝利 にま すま す重 要な 位置 づけ がな され るよ うに なっ た︒ まさ にカ リー ニン グラ ード 州で も︑ 新し い儀 式や 共同 想起

"

の実 践が うっ てつ けの かた ちで 挙行 され た︒ 新方 針は

︑フ ァシ ズム への 勝利 とソ ヴィ エト 戦没 軍人 を記 憶す るた めの 多数 の軍 事記 念碑 やメ モリ アル の創 設と いう 形を とっ た︒ 州内 には 今日 まで に合 計二 二〇 もの この 種の 記念 碑が 設け られ てお り︑ それ には カリ ーニ ング ラー ド市 内に 四八 ある 軍事 メモ リア ムも 含ま れて いる のだ が︑ この 数字 はロ シア の他 のど の都 市よ りも 多い

︒ 一 九八

〇年 代後 半の ゴル バチ ョフ によ る﹁ ペレ スト ロイ カ

﹂︑ イ デオ ロ ギ ー 的ド グ マ の緩 和

︑グ ラ スノ ス チ﹇ 公 開

﹈ 政策 の開 始と とも に︑ カリ ーニ ング ラー ド州 でも

︑こ の地 域の 戦前 の歴 史へ の禁 令が 完全 に撤 廃さ れた

︒学 校や 大学 でも 戦前 の歴 史が 学ば れる よう にな った し︑ 学術 集会 やセ ミナ ーも 開催 され

︑ケ ーニ ヒス ベル クと 東プ ロイ セン の過 去に つい ての 歴史 学的 な労 作も 少な から ず登 場し た︒ 一九 九四 年に カリ ーニ ング ラー ドの 人び とは

︑名 高い ケー ニヒ スベ ルク

・ア ルベ ルテ ィー ナ大 学の 四五

〇周 年を おご そか に祝 った し︑ 現代 的で ロシ ア的 なカ リー ニン グラ ード 大学 戦 後 の 東 プ ロ イ セ ン の ソ ヴ ィ エ ト 化

四 五

参照

関連したドキュメント

に、東日本大震災後のトモダチ作戦や官民を挙げての寄付、ボランテ

なお、規制法令の測定と苦情処理における測定では種々異なることがあり、具体的 な相違について下記に整理しました。

高温面上の液滴の挙動 160度~300度 液滴はいくつかに分裂し伝熱面上でダンスをするよ