島崎藤村文芸研究
著者 細川 正義
URL http://hdl.handle.net/10236/13880
論 文 内 容 の 要 旨
本学位申請論文『島崎藤村文芸研究』は、「文明批評家・島崎藤村」を「序論」に据え、本論は「Ⅰ 詩」「Ⅱ 小説」の部立ての下に22章から成っている。論文全体の内容と構成とを把持する上での一助になると判断し て、各章の題目をサブタイトルを含めて掲載順に示すと次のようになる(章数は省く)。
「Ⅰ 詩」
「藤村文芸における関西漂泊の旅の意義―神戸来訪の謎をめぐって―」・「藤村文芸における透谷像―そ の受容と継承の有り様について―」・「『若菜集』論―抒情詩の成立」・「『落梅集』論―人生と芸術の〈真〉
を求めての戦いの方法―」・「藤村とキリスト教―宗教への仰望の視点―」・「藤村詩の形成―ダンテ『神曲』
の影響を中心に―」
「Ⅱ 小説」
「『水彩画家』論―〈新しい芸術〉への出発―」・「『破戒』論Ⅰ―実態凝視の方法の確立―」・「『破戒』論
Ⅱ―「精神の自由」の獲得―」・「『春』論―〈春を待つ心〉において―」・「『家』論Ⅰ―〈新しい家〉の構 築をめざして―」・「『家』論Ⅱ―女性達の形象の意図―」・「『海へ』論―「渡仏体験」における〈旅〉と〈海〉
の意義―」・「『桜の実の熟する時』論―捨吉像の変化の意義―」・「『新生』論Ⅰ―〈新生〉への戦い・〈実行〉
の精神において―」・「『新生』論Ⅱ―「告白」の意義・〈真〉を求める心―」・「『新生』論Ⅲ―リモオジュ 体験における宗教性―」・「『嵐』論―〈実行の精神〉への確信・「『春を待ちつゝ』論―〈春の到来〉への 確信と期待―」・「『ある女の生涯』論―ある女の生涯・〈夜明け〉前―」・「『夜明け前』論―近代日本の〈夜 明け前〉・「草叢の中」の青山半蔵―」・「『東方の門』論―藤村における東と西―」
その出発期から晩年までの文学者島崎藤村の人生と彼が生み出した作品との関わりが、ほぼ時系列的に考 察の対象となっている。各章はそれ自体で明確なモチーフを持つとともに、他の章とのつながりも重視した 叙述をとっている。したがってここでは、それぞれの章の内容を逐一説明するのではなく、論文全体を通じ て論者がどういった藤村像を、そしてまた彼の作品を読む意義をどのように発見していっているのかという 点に絞ったまとめ方を行うこととする。
まず第一に重きを置かれているのは、己の内と外を取り巻く苦悩や挫折や煩悶に満ちた現実と渡り合いな がら、それを芸術創作上の方法や様式に置き換えてどこまでも自身の生を貫いていこうとする、作家として
氏 名
学 位 の 専 攻 分 野 の 名 称 学 位 記 番 号 学位授与の要件 学位授与年月日 学 位 論 文 題 目
論 文 審 査 委 員 (主査)
(副査)
細 川 正 義
島崎藤村文芸研究
博 士(文 学)
乙文第129号(文部科学省への報告番号乙第365号)
学位規則第4条第2項該当 2015年2月27日
大 橋 毅 彦 森 田 雅 也
教 授 教 授
中 島 国 彦
(早稲田大学文学学術院教授)の藤村像である。先に挙げた章題一覧中の特にサブタイトルの付け方に注目すれば、その中に出てくる「人 生と芸術の〈真〉を求めての戦い」、「実態凝視の方法」、〈春を待つ心〉、「〈実行〉の精神」、「「告白」の意義」
などの表現がこの点に深く関わっていることがわかる。すなわち、常に人生に関心の起点を置く藤村の作中 人物は、ある時は「眺め入る」姿勢をとって自己の生の能動的探求に向かおうとし、またある時は暗澹たる 現実を前にして何かを喪失することによってかえって人生の「春」を仰望する意思を見出しもすれば、実行 の精神を発動させて自身にとっての「真」を発現させていくことが、「破戒」論、「春」論、「家」論、「新 生」論を中心として本論のかなりの部分を費やして論じられている。そして、作品の制作順に即して、この ようないくつかの傾向を持った人物造型を見る時、それらは一面においては反復され、 一面においては新た なキャラクターの出現としても受け止められるものだが、それは作家藤村の創作姿勢の一貫性と深化の側面 との両方を物語ってもいるといったところにも、論の射程は広がっている。
次いで特徴的なのは、宗教的な側面から藤村の文学を検証する姿勢を随所に打ち出して論を展開している ことである。藤村が洗礼を受けてから教会を離脱するまでの教会生活はたかだか4年間のものであったが、
そうした評伝的な指標とは別に、藤村の内にあってキリスト教がいかなるかたちで根付き、彼の作品世界を 潤していったのかといった点に論者は関心を向けていく。そしてたとえば、ルナンの『イエス伝』が教会の 形式主義に飽き足らない青年達の心を捉えていった明治25年前後の時代状況と呼応するかのように、恋愛の 主情性を基調に聖書を読もうとする態度を深めていきもすれば、ダンテ『神曲』との出会いを通じて聖書の 峻厳な世界よりも、罪の実感の中に深く沈み込むことによって生の曙光を希求する言葉を詩の中に書きつけ ていく詩人藤村の姿を浮上させている。さらに「新生」論に至っては、主人公岸本捨吉のリモオジュのサン・
テチェンヌ寺院における宗教的体験の内実について、それが彼の内奥の人生への関心を呼び覚ますものであ り、敬虔な「幼い心」を発現させるものであること、そしてそのことと深く関わって生じてくる父への遡及 と回帰を通じて彼に新たな人生を開示していく原動力たり得ているなどと結論づけていくように、多角的な 考察を試みている。
さらにもう一つ力点が置かれるのは、藤村の文明批評家としての位相の提示である。それは既発表論文中 最も新しい論考「文明批評家・島崎藤村」を「序論」に置き、「文明批評家島崎藤村の認識眼を芸術家藤村 の業績とともに高く評価する必要があろう」と述べていることから早くも了解できるが、本論においてはそ うした藤村の認識眼を育てる契機として、神戸という海港都市も含んだ関西漂泊の旅の意義や、北村透谷か らの批評精神の継承といった問題が再考されており、藤村壮年期における渡仏体験を扱った箇所では、その 旅が西洋の新しい発見とともに日本の歴史と文化を相対化するまなざしを藤村にもたらして彼の批評精神を とみに活発化させていった経緯を、『海へ』をはじめとする紀行文をもとに検証している。そして藤村最後 の小説「東方の門」を取り上げた最終章においても、作者の死によって中絶して已んでしまったこの作品の 執筆意図が、その発見は先の渡仏体験に遡及し得る日本の「中世」に価値を見出しつつ、それによって近代 化の過程にあっても蓄積され続けてきた日本の「腰骨の強さ」に形を与えることであったと結論づけている。
論 文 審 査 結 果 の 要 旨
細川正義氏の学位申請論文『島崎藤村文芸研究』は、長らく島崎藤村の研究に携わってきた氏がその間書 き継いできた論考をもとに、序論と二十二の章より編成されている大著である。論文全体を貫く研究モチー フは、明治二十年代の日本近代文学始動期に「文学界」同人や『若菜集』の詩人として出発して以来、「破戒」
「春」「家」「新生」「夜明け前」など幾多の同時代の注目を浴びる小説作品を世に送り出しながら、昭和の戦 時下「東方の門」の執筆途上で病没する藤村にとって、斯様な軌跡を描いて文学者として生きていくとはど のようなことであったのか、そして彼の生み出した作品を今日の私たちが読み継いでいく意義はどんなとこ
ろにあるのかを追尋するところに置かれていて、揺るぎのない印象を与える。
各作品が藤村にとって持っていた意義を解明するために、そこに書かれてあることに正面から向き合うこ とは当然必要なことであるが、そうした読みの姿勢を堅持しながら作品の表現の特色に分け入ることによっ て説得力のある論旨を開示している箇所は随所に見られる。たとえばその「破戒」論にあって、「眺め入る」
という表現に含意された主人公丑松の内面凝視に傾いていく動きと、丑松を取り巻く人物たちの造型の変化 とが不可分の関係にあると捉えることによって、最終的には自己の内部の必然においての戦いへの意思を作 品世界に投影していく藤村像を読み取っているところが、それに該当しよう。
一方、一つの作品を論じるにあたって、それをその作品だけの問題にとどめておかずに、それが構想され る背景にある藤村の動きや、他の作品との関係性に注目しながら論点を提示していることも、本論全体が目 指す方向に合致した研究手法だと言えよう。それは、初期の短編集『緑葉集』における試みを『夏草』以後 の詩業の展開と呼応させて考えているところや、「春」から「家」へのモチーフの推移を問題にして、仮構 した幻像を追い求めるのではなく、徹底した自己凝視の姿の中に〈春を待つ心〉を実現しようとした藤村の 企てを看取していくところに窺われる。こうした重層的、相互参照的な作品の扱いを通して、論者の捉える 藤村像はさらなる厚みとボリュームとを増していっている。
本論考が宗教的な側面から藤村の文学や彼の足跡を検証する姿勢を一つの特徴としていることについては
「論文内容の要旨」でも触れたが、そこで持ち出されるキリスト教からの視座が作品の新たな読みを用意し ていく点も注目してよいところだろう。すなわち、概して青春讃歌の詩集として見られがちな『若菜集』所 収の「鶏」や『落梅集』中の「君こそは遠音に響く」の表現を取り上げて、それぞれそこにはキリスト教にあっ ては本来「恋」と「罪」という対立するテーマを前にした藤村が〈内なる悪〉に寄り添うかたちで心情表現 の場をつくろうとする動きや、聖書ならびにダンテ『神曲』が人性の「誤り」として排除していく恋の闇の 中で盲目となって彷徨うありようの方に傾斜していく藤村の心情が現れていて、それこそが藤村文学の自己 証明になっていると考察している。また、藤村とキリスト教との関係を論じるにあたって避けて通れない〈新 生事件〉後のリモオジュ体験を問題とする箇所でも、数ある先行研究の要諦を整理しつつ、「新生」という 作品を読んでいく上でさらに注目すべきは、主人公が神への仰望を神そのものでなく、多くのキリスト者ら の献身と堅信に対する畏敬として示していることや、信仰的な意味での「幼い心」と主人公の人生において の「若かった日」とが接続するかたちでプロットが組み立てられていることであるといった示唆的な見解を 打ち出している。
以上、藤村の思想ならびに人生と藤村の作品世界との間を往還することによって本論考が挙げてきた研究 上の成果を概観してきた。冒頭でも述べたように細川氏の研究の重点は、藤村の文学に向かう姿勢の全体像、
あるいは「真」の姿を捉えることにある。そしてその目的は藤村の作品と次々と取り組むことによってたし かに達成せられてはいる。だが、〈藤村〉への寄り添い方が強くなればなるほど、そしてまた作家藤村にとっ ての〈真〉はこれしかないのだという考えがはっきりしていけばいくほど、それ以外の手法に拠る作品研究・
作家研究と対話する機会が減じ、作品に向けられる視野それ自体も狭まるというリスクも生じてこないか。
「新生」の主人公の心を覆う深い人格的退廃とそこからの脱却とは、いわゆる大正デカダンスや大正生命主 義という言葉に象徴される時代情況と無縁でないかもしれず、感想集『春を待ちつゝ』の周辺には大正作家 達のそれぞれ個性的な相貌をもった随筆感想集もあったはずだ。しかるに本論考にあってはそうした問題に 対する比重のかけ方は少なく、作品の読みは大体において藤村の心意や創作意図の次元へと収斂していって いる。
とはいえ、この種のないものねだり的な言を弄したところで、本論考の価値は損なわれるものではない。
いやむしろ島崎藤村学会機関誌「島崎藤村研究」誌上で「研究消息」欄を担当してきた氏は、これまで視野 に入れてきたさまざまな研究方法の中から取捨選択した結果として、自身の接近法が芸術と生活とが不可分
の関係にある藤村文学を研究していく上では最も有効な方法であるという反論を確信的に用意されているよ うに思われる。
本博士学位申請論文の公開発表会は2015年2月10日に本学文学部本館にて開催され、引き続き実施された 口頭試問では、藤村の内面世界の遍歴とその証左としての作品世界の関わりについて氏が提示してみせた見 取り図の達成度を掘り下げるかたちでの質疑応答を行い、近年の資料整備を視野に入れた氏のさらなる藤村 論に関する展望を語ってもらった。一方、藤村の文明批評家としての側面を氏が論じていることに関しても 高く評価しつつ、そうした課題設定が日本近代文学全体に通じるテーマに接続するという視点に立って、藤 村の批評の質を氏が藤村と並行して研究している芥川龍之介の作品世界と関連づけて問うていくことをめ ぐっての質疑応答もなされた。
以上、審査委員会は本博士学位申請論文を慎重に審査し、公開発表会と口頭試問における内容、ならびに これまでの氏の学会における諸活動の実績などから判断して、細川正義氏が博士(文学)の学位を授与され るにふさわしいとの結論に達したので、ここに報告する。