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児島縫製業産地研究
第一次予備調査トリップレポート
*実施期間 2
0
0
4年7月2
8日∼3
1日
山
村
英
司
−259−1.研究全体の進め方 本研究では児島地域を対象にして,備後縫製業で行った方法を踏襲し,調査を進め る(上掲の図を参照)。最終的に企業レベルのデータを利用して長期的な産地発展の 統計分析を行う。データ収集の方法の基本としては,企業の沿革,生産量が掲載され ている刊行資料(『全国繊維企業要覧』)などから,調査対象企業のデータを収集する。 ただし,これらのデータには統計分析を十分に行うだけの情報が乏しい。したがって, 追加的に直接企業の関係者から情報を集める必要がある。 本格調査を行う前の作業の流れは次の順である。!1郷土資料,社史などの文献資料 の収集と精読!2調査地にて関係者への聞き取り調査,!3アンケートの調査票の作成, ! 4代表性のある企業を選定し,聞き取り調査を兼ねて調査票のプレテストの実施。こ こでは!1と!2を第一次予備調査とし,第一次予備調査終了後に!3にとりかかり,!4を 第二次以降の予備調査にて行う。今回実施した第一次予備調査での目的は,!1!2の作 業を通し,収集資料を読むことにより対象地域の特性を知り,第二次予備調査におけ る聞き取りの質問事項の概略を決めることである。さらに,岡山県アパレル工業組合 へ調査の趣旨の説明を行い,調査への協力と理解を得ることも重要である。 予備調査の詳細は次の通りである。出発前に岡山県アパレル工業組合に連絡をとり, 調査地におけるスケジュールを予め決める。調査地にて効率的な活動を行うために, このような下準備が重要である。調査地では,過去からの産地発展の様子をイメージ 化するため,業界の長老的な人物より聞き取り調査を行う。これと同時に,調査地の 地形や企業立地場所などを観察する。この過程の中で産地発展に関する簡単な仮説を 幾つか考え,その実証を行う際に必要とされるデータを想定する。詳細なデータは本 格調査のアンケートによって収集する。第二次調査以降において利用するアンケート 図 研究の進行予定 第 一 次 予 備 調 査 第 二 次 予 備 調 査 本 格 調 査 (データ収集) 統計分析と 論 文 執 筆 *事前資料収集 *調査地の下見 (地形や企業の立 地場所の把握) *長老的関係者 へのインタビュー *代表性のある数社 に 対 す る,ア ン ケート調査表のプ レテスト。 *調査を行いながら 調査票を修正する。 *組 合 加 盟 企 業 約 120社に対し て ア ンケートの配布 *事後的聞き取り調 査。 *産地の実情の把握 *学会等での研究発 表 *専門学術誌への投 稿。 児島縫製業産地研究第一次予備調査トリップレポート −260− の調査票を作成する際には,回収率を上げられるよう工夫する。調査票の作成が完了 後は,実際にどの程度調査票が機能的で効率的であるかを精査するために,第二次以 降の予備調査にてプレテストを実施する1)。 以下,第2節において本研究の目的と意義を簡単に説明する。第3節では,第一次 予備調査によって知りえた,児島産地発展の概要について記す。第4節では調査終了 後,論文を作成する際の方法論を簡単に記す。第5節では第二次以降の予備調査にお いて実施予定のプレテストの概要を記す。 2.児島産地発展研究の目的と意義 広島県の新市町を中心とした備後地方縫製業産地の発展過程について,筆者はこれ まで Yamamura et al.(2003),山村(2002),山村(2004)の研究成果をあげてきた。 これらの研究では,主に生産立地の移動,直販比率の上昇,そして後継者への教育投 資などに焦点を当てつつ,創業者の前職や経営者の人的資本が企業パフォーマンスに 果たす効果の長期的変化を検討した。 備後地方はもともと備後絣の産地として知られていた。それが,大正12年に岡山県 の児島から足踏みミシンを移入することによって,その下請加工をするようになった。 これが縫製業をはじめるきっかけであった。つまり,備後地域に先んじて児島ではじ めに縫製業が盛んになり,縫製業発展において先導的な役割を果たしていたように思 われる。一方,近隣地域である備後は児島から生産技術等を学ぶことにより縫製業に 新規参入地域であり追随地域といえよう。 児島産地と備後産地の間には,上記のように縫製業開始時期の違いがある。縫製業 開始時期の違いはいかなる両産地間に差異を生み出したのであろうか。例えば,両地 域は主要生産服種に違いがある。備後地域は男性作業着,児島地域は学生服である。 縫製業では製品が持つ特性ごとに,納期,流行などに関わる需要の特性に違いがある。 このような需要の特性に対応するために,それぞれに異なる生産や販路のシステムが 形成される。これらのシステムは産地発展に影響を与えたであろう。これを解明する ことにより,備後モデルとは異なる児島モデルを提起できるだろう。 また両モデルの比較する視点に立って研究を進めるのも面白いかもしれない。地理 1) プレテスト対象企業の担当者からも,質問項目や調査票の構成について感想をき く。そして極力回答が容易で負担のかからないような調査票を作成する。 −261− 児島縫製業産地研究第一次予備調査トリップレポート
的に近接し同一業種の産地が異なる発展をしてきたとすれば,Greif(1998)らが提 唱する歴史制度分析に近い視角から,集積経済の発展と変容を考察することが出来よ う。一方,もし児島と備後がほとんど同様の発展経過をたどってきたのならば,備後 モデルがより一般的な説明力をもつことを実証できる。いずれにしても,本研究によっ て日本の縫製業産地発展の実像を明らかにする基礎的研究が蓄積される。 3.児島産地発展の概観 ! 1 歴史と地理的特性 岡山県西部で瀬戸内海に面し,対岸に香川県を望むところに児島地域は位置する。 「児島半島は,標高百∼三百メートルのさして高くもない山並みが海岸まで迫り耕地 が狭く,しかも平坦地が少なかった」(山陽新聞社1977 p.10)。このような地で幕末 ごろまでに干拓が進み,新田が造成された。「新田では,塩分が残り,しかも砂の目 が粗いなど米作にハンディがあった。このため,米のほか綿,大豆,砂糖栽培が盛ん …むしろ綿作の方が雨の少ない瀬戸内海の気候にマッチし,米作より有利だった」(山 陽新聞社1977 p.10)という。要するに,児島地域は海と山に囲まれておりもともと 狭隘な平野があるばかりで,さらに雨も少なく,土壌も塩分を含んで米作には不向き な土地であったのである(図1および資料1を参照のこと)。 このような地形的な条件の下で,江戸時代には綿作がさかんになる。そして「綿が 重要な換金作物になるにしたがい…綿花や繰り綿の出荷販売よりもうまみのある二次 加工品の生産に移る」(山陽新聞社1977 p.11)。こうした経過をたどって,古くより 盛んになったのは塩田と織物であった。織物の製品としては「小倉帯,真田紐,袴地」 (多和田1957 p.161)などが売り出された。これらの産業が下火になる大正期には足 袋生産が盛んになり,「県全体では1916年から19年には年産1000万足になり,岡山県 は全国一の足袋生産県として脚光を浴びた」(富澤1997,p.27)。こうして足袋生産量 で日本有数の地域となった。その後昭和に入り「服装の変化,時勢の推移による理由 や関東は行田の足袋工業や福助足袋などの大企業におされ」(多和田1957 p.273)よ うになり「生産は漸く衰退より転換期に入った時,足袋の裁断技術を活用して学生服 及び作業衣生産に踏切ったことは機会をつかむに敏なる児島同業者間に波及してつい に第二次大戦前には全国八十五パーセントに達し」(多和田1957 pp.274‐275)た2)。 地理的な特徴から非農業に比較優位があったという点と,縫製業が開始される以前 児島縫製業産地研究第一次予備調査トリップレポート −262− 図1 児島(調査地域)の大まかな位置と地形 −263− 児島縫製業産地研究第一次予備調査トリップレポート
に繊維産業が発展していた点において,縫製業開始時点において備後地域と同様の条 件にあったと言えよう。児島の中心部は古くからの市街地の味野,小川,さらに田の 口,上の町,下の町から形成されている。これらの地域に縫製メーカーおよび縫製関 連企業が立地している。とりわけ織物の生産地として江戸時代から発達していた田の 口には,有力な縫製企業が多数立地している。例えば,学生服メーカー最大手の尾崎 商事,明石被服,さらに学生服メーカーとしてはそれに続く規模の小郷産業,河合産 業などである。田の口は縫製業の中心地と考えられる3)。 2)現在の明石被服,テイコク株式会社などをはじめとして,多くの企業がこの時期 に足袋から縫製業へと転換を図った。 資料1 児島(調査地域)の写真 (山陽新聞社1977 p.10) 児島縫製業産地研究第一次予備調査トリップレポート −264− 昭和の戦後において,「がちゃまん景気」を含む昭和20年代から30年代にかけて, 産地内の労働力だけでは対応できないほど需要が拡大した。企業も「新規業者も雨後 のタケノコのように誕生し,大小百数十業者を数える群雄割拠時代を迎えた」(山陽 新聞社1977 p.32)のである。産地内だけの労働力では需要に追いつかない。そこで, 九州や山陰などから,集団就職という形で女子労働力が児島に流入した。 「(昭和)27年からは素材も木綿からナイロン,テトロンなどの合繊時代を迎える。 各業者は大手繊維メーカーの傘下に入り,従来の児島地区内での織物!染色!縫製と いった一貫生産体制は消滅」した(山陽新聞社1977 p.32)。新合繊の中でもテトロン は非常に優れた素材であり,その登場の衝撃は決定的であったという。 新合繊は積極的に児島に供給された。繊維企業側の動機としては「用途先の新規開 拓を迫られた合繊メーカーにとって,販路が明確であり,独自の全国販売ルートを有 していた学生服産地は極めて貴重な存在で」(富澤1997,p.27)あり,中間財の供給 先であった。これ以降,テトロンは東レ系を中心として,川上である繊維企業から商 社を経て川下の縫製企業まで系列化が進んだ(角田1971;1975)。主要な学生服メー カーはほとんどが,系列に入っていった。学生服生産において規模の経済性を享受し, 競争力を持つためにはこのような系列に入ることが重要であったように思われる。そ して一定以上の規模の企業でなければ,このような系列に入ることは出来なかった。 さらに系列の中でも,一次系列,二次系列,三次系列とランク付けされていた。一 次系列には最大手の企業が入り,ここに組み込まれると低価格でテトロンを購入する ことが可能になる4)。二次系列に入る企業は一次系列企業に次ぐ規模の企業であり, テトロンの価格も一次系列に比べて割高になる。二次系列と三次系列の間にも,一次 系列と二次系列と同じ関係がみられる5)。三次系列にも入ることが出来ないような小 規模企業は,テトロンを利用することが出来なかった6)。 3) 日本の3大学生服メーカーは,尾崎商事,明石被服,テイコク株式会社である。テ イコク株式会社の本社は現在岡山市内にあるがもともとは児島の企業で,1974年に 岡山へ本社を移した(テイコク株式会社,1996)。各企業のブランドは,尾崎商事が カンコー,明石被服がヨット,テイコク株式会社がトンボである。 4) 大島氏と柏野氏によると,一次系列に入ることが出来る企業は従業員千人以上の 企業だったという。 5) 東レの一次系列に入った主な企業は尾崎商事,明石被服,帝国興業,備前興業, 日本商工などがあった。柏野氏によれば,二次系列企業としては小郷産業があった という。 6) 昭和30年代には急速に縫製業から退出する企業が増加した。 −265− 児島縫製業産地研究第一次予備調査トリップレポート
この時期から,それまで児島産地の中で供給されてきた素材を,東京や大阪の大企 業から調達するようになったのである。つまり,繊維から縫製まで産地内で完結した 取引関係を中心に行われていたのが,産地外部との取引へと変容していったのである。 技術革新による新合繊の誕生が,地域限定的な取引関係から広域的な取引関係への変 化を促したものと考えられよう。 系列化が進展していく過程で,一方ではジーンズ生産や女子オフィス制服の生産を 開始する企業が出現した7)。需要側の要因として,高度成長期に入り国民所得が上昇 し,より個性的でファッショナブルな製品への需要が高まっていった。例えば,大阪 万博のコンパニオンが着用していた制服にならって,一般企業でも女子オフィス制服 を採用するようになったという。このような需要の変化に着目し,系列化が進む学生 服よりもジーンズや女子オフィス制服の生産や販売に比較優位もつと考えた企業が, 生産服種の転換を図ったのであろう8)。 少子化が進む昨今であるが,実は児島では昭和40年代から学生服生産が減少してい た。生産量は「(昭和)40年度から43年度までは平均して七百五十万着になり,44年 度に於いては五百九十三万着に減少した。明治時代以来の縫製業界の名門西原本店の 倒産(44年1月)などを織込んで,学生服の生産量はさらに落ち込み,45年度(1970) は四百三十万着(児島地区八十九社の生産量)に減少した」(角田1975,p.248)。ま た昭和五十年時点においては「児島織物㈱や日本被服㈱のように,今でも学生服に比 重をかけている企業も残っているが,大勢は総合衣料メーカーとして多品目,少量生 産,分工場の時代に入っている」(角田1975,p.249)という指摘もある。「学生服の 児島」として知られていた児島産地であるが,実態はかなり早い時期から学生服から 7)小規模企業で学生服生産を続けた企業は,ニッチ的な生産を行うことで活路を求 めた。このような企業は標準的なデザインの学生服ではなく,特徴をもった学生服 を生産した。変形学生服問題はそのような経緯の中で起きた。筆者が中高生であっ た1980年代前半から中盤にかけて,変形学生服としては,上着の内側に虎や竜など の刺繍を施したものや,短ラン,中ラン,長ランなどの丈の長さが異なるものがあっ た。ズボンでは,ボンタン,ドカンなど脚部が太目のデザインがあった。1980年代 に流行した変形学生服であるが,後にこれらの変形学生服を好ましものでないと考 えが業界内で持ち上がり,標準学生服を指定し,この条件を満たす製品だけが製造 可能になった。 8)マルオ被服の場合は,昭和39年に翌年廃業寸前に追い込まれ,他の服種生産への 転換しか残された道はなかったという。実態としては,マルオ被服と同じような理 由で,ジーンズや女子オフィスウェアへの生産に参入した企業が多かったのかもし れない。 児島縫製業産地研究第一次予備調査トリップレポート −266− の転換を図っていたのかもしれない。 学生服を中心とした単品種,大量生産からの転換の要因は次のように考えられる。 国民所得の上昇に伴うファッション性の追求は学生服の多様化ももたらした。1980年 代半ばからは,黒色の詰め入の学生服から,ブレザーを採用する学校が増加した。さ らに学生服のブレザー化は学校ごとに異なる独自のデザインを取り入れる潮流を生み 出した9)。 ! 2 生産システムの特徴 昭和40年代に入ると,他地域からの労働力を調達する代わりに,九州や山陰などの 地方へ工場を作り生産を行うようになっていった。例えば,学生服の大手企業である 明石被服は山口の宇部,尾崎商事は九州の都城などに工場を立地させ生産を行うよう になった10)。産地外からの女子労働力流入,それに続く他地方への生産拠点の移動は 備後産地でも同様に観察されており,このメカニズムはある程度一般化できるように 思われる11)。 備後産地は男子作業着である「ワーキング」を主産品にしているが,他にはモンペ が変化して出来た女性パンタロン(「モンペスラックス」として知られる)の生産で も知られている。これに対し,児島は昭和に入ってから,本格的に学生服生産を生産 し,日本最大の学生服産地として知られるようになった。日本の学生服のおおよそ8 割程度は児島で生産されている。 ワーキングや女性パンタロンと異なる学生服の特質は,短納期にある。本山専務に よれば,日本全国の中学校や高校の合格発表は3月10日前後にある。それから入学式 9) 大手学生服メーカーは,森英恵などの著名デザイナーの手によるデザインを採用 し,学生服の審美性を追及する方向を打ち出した(明石被服興業株式会社1988)。 10) 尾崎商事の社長尾崎芳郎氏は学生服の需要の減少傾向に対処するために「白もの (シャツ,トレーニングシャツ,タイツなどをいい,学生服は黒ものと呼ばれた) の生産を増やそう」と考えた。そして「『児島では五百人もの従業員は確保できん, 適当な土地はないか』と土地探しを始めた」(山陽新聞社1977 p.33)のである。そし て昭和38年に米子市に岡山県かの業者としては最初の分工場を建てたのである。こ れに続いて「他の業者も数年遅れて分工場の建設に入」(山陽新聞社1977 p.33)る。 11) 生産拠点の移動は同時に生産服種の多様化も伴っていた。「児島の縫製業が学生服 中心の単品多量生産から,多品目少量生産の総合衣料メーカーに転換しかけたのは 昭和44年頃からであった。大手縫製業者の多くは少なくとも1972年に達する頃には, 黒(学生服),白(体育衣料),色もの(カジュアルの三脚生産に転じ,全国各地に 分工場を造って,安い労働力の出会いを求め,さらに後進国まで足を伸ばそうとし ていた)」(角田1975 p.256)。 −267− 児島縫製業産地研究第一次予備調査トリップレポート
までのほぼ一ヶ月の間に,学校に納品しなければならない。ただし,学生の体格は相 当なばらつきがあり,画一的な既製サイズの生産では対応できないケースが必ずある という。このような場合,セミオーダーで特別に小さいサイズや大きいサイズを生産 することになる。つまり,短納期で大量の生産を,新入生一人一人の体格に合わせて 行うことを要求される。実際にこれを実現させるためには,生産や流通に独自のノウ ハウがなければならないのである。 備後地方では1990年代以降,急速に生産拠点が中国を中心としたアジアへ移動して いった。生産コストを低下させるために,より賃金の安い場所へ移動させたことが要 因として挙げられる。ただし縫製技術などが著しく日本よりも低い場合には,このよ うな生産拠点の移動は困難である。日本からの技術指導員の派遣などによって,中国 において近年の急速な生産技術の上昇があり,日本と遜色ない生産技術をもつことに なったことがもう一つの要因といえよう。 児島においては,主要生産服種である学生服が短納期とセミオーダーが生産の要件 となり,迅速かつ柔軟な生産システムが構築されていなければこれらの要件に対応で きない。中国のような遠隔地での生産は,納期までに比較的余裕があり,既製品の大 量生産を行うには重大な問題はない。しかし,学生服のような需要の特質をもった製 品には十分に対応することは困難であろう。このような背景から,児島産地において は備後ほど顕著な生産拠点の海外への移動はみられなかったようだ。ただし,昨年 (2003年)学生服生産企業で初めて業界最大手の尾崎商事が上海での生産を始めたこ とを記しておかねばなるまい12)。おそらく,画一的な既製サイズの学生服は上海で大 量生産し,セミオーダーが必要なサイズは国内の小ロット生産で対応するという分業 を行っているのでないだろうか13)。 ! 3 販路システムの特徴 以上,生産面に関して児島産地の特質を素描したが,販路に関して知り得たことを 備後産地と比較しつつ記しておく。備後産地はもともと絣問屋だったのが,比較的生 産が容易な縫製業に転じ,問屋時代に築き上げた販路を利用して全国へ品物を売りさ 12)尾崎商事は国内の分工場建設も初めて行っており,児島産地における革新の先導 者としての役割を果たしていると考えられる。 13)備後と同じように児島でもメーカーは下請を利用した生産が重要な部分を占めて いるという。特殊な技術が不要な標準品の生産は下請けバッファーとして利用し, 需要の変動に対応しているのである(Asanuma 1989)。 児島縫製業産地研究第一次予備調査トリップレポート −268− ばいた。このような製造問屋が,現在における備後産地の主力企業となっている。一 方,製造業へ参入しなかった問屋も産地問屋として,産地発展期に大いに活躍したの である。備後では産地発展の初期においては問屋が活躍し,次第に短納期やブランド 維持などの重要性が高まるようになるとエンドユーザーへ品物を売る小売店に直接品 物を流通させるようになった(Yamamura et al. 2003)。このような販路の変化は図2 のように示される。 児島においても,商人が存在しその重要性を指摘する郷土研究もある(角田1975)。 しかしながら,縫製業とのかかわりにおいて問屋は備後ほど重要な役割を果たしてい なかったようである。在来産業であった繊維業は,製品の販売先は外国にもあった。 大正5年ごろの実情によれば,外国向けは「多くのは直営の店舗を設置するか特約店 を持っていて,それらの店宛に輸出して販売させていた」(多和田1959, p. 227)とい う。一方国内においては通常「仲買問屋があって地方の製造業者のほとんどがこれに 販売していた」のであるが児島では「企業家たちで有力なものは直接他地域に取引し …大阪商人の手を経ないで製造業者が直接か,土地の取り次ぎ店の手によるかして全 国各地へ行商に出かけることは,特に明治以降に行われていたことであった」(多和 田1959,p.228)という。その後,繊維業から足袋や縫製業へと主産品が変わるとき に,繊維製品の販路を利用して足袋や学生服が販売されたとすれば,児島は備後ほど 問屋の役割が重要ではなかったと考えられよう。 児島の主要生産服種はこれまでも述べてきたように学生服である。学生服の売り先 図2 備後産地における流通構造変化 (作業着,男性ワーキングウェア) (初期) 卸 問 屋 (全国各地) メーカー 産地問屋 小 売 店 (中期) 卸 問 屋 (全国各地) メーカー 小 売 店 (後期) メーカー 量 販 店 −269− 児島縫製業産地研究第一次予備調査トリップレポート
は全国の学校であるわけであるが,前述のような短納期,セミオーダーの要件がある 学校と取引をするには独自のノウハウが必要だという。マーケティングは生産と密接 に連動しており,生産システム状況を頭に入れつつ取引をしなければならない。慣例 として,契約は10年単位の長期的な契約となる。一校で毎年数百人の新入生が入学す ることを考えると,非常に大きな収入をもたらすといえよう。さらに,学校ごとに独 自の制服のデザインを採用ようになった現在は,当該校の近辺の学校の制服と異なる デザインであることを,学校側が条件付けるようになった。したがって,契約を結ぶ 際には,周辺校がどのデザインの制服を採用しているかの情報が要求される。 このように特殊かつ長期的な取引は問屋を仲介して進めることは困難である。各学 生服メーカーは企業内に強力な営業部を儲け,問屋を仲介しない販路を昔から構築し ているという(図3を参照のこと)。したがって,児島においては比較的早くから直 販が主要なマーケティング方法になっていたように思われる。このような学生服の販 路の特徴は,繊維業時代からの経路依存性によっていたように思われる。 ! 4 ジーンズメーカーについて
児島産地はジーンズメーカー大手の Big John や Bobson を生み出しており,国内有
数のジーンズ生産を誇る。Big Johnはもともとマルオ被服という学生服メーカーで あった。昭和30年代において児島の中では規模の小さなメーカーであった14)。前述の ように昭和30年のテトロンの登場によって引き起こされた東レや帝人による系列化は, 他の中堅企業と同じようにマルオ被服の社運を左右する出来事であった。マルオ被服 は系列に加わることは出来ないために,テトロン素材を入手することが困難な状況に あった。こうした流れの中で,昭和39年には倒産の危機に瀕した。 逼迫した状況にあった昭和39年当時,マルオ被服の営業部責任者であった柏野静夫 氏は,ある日東京の御徒町の店先で米軍兵の古着ジーンズが売られているのに目をつ けた。同年には東京オリンピックが開催されており,外国人選手たちがジーンズ姿で 14)マルオ被服は当時「従業員百人,年間売り上げ二,三億円の中小メーカー」(山陽 新聞社1977 p.39)であった。 図3 児島産地における流通構造 (学生服) メーカー(営業) 学校(全国各地) 児島縫製業産地研究第一次予備調査トリップレポート −270− 街を闊歩していた。それまでは,米国のジェームスディーンの映画などを通して見知っ てはいたものの,日本人にとってそれは別世界の出来事と感じる空気が強かった。オ リンピックは,高度成長により国民所得が上昇し消費者の需要がより審美性を追及す るようになる契機となった。未だ日本国内でジーンズを生産しているメーカーは存在 しておらず,学生服から転換する服種として将来性があると感じ取ったのである。備 後産地では,絣を都市の市場へ運んでいた産地問屋が縫製品に関する市場情報を産地 もたらし,縫製業開始の端緒を開いた(Yamamura et al. 2003)。これと同じように, ジーンズにおいても都市の市場情報に精通したメーカーの営業部社員が,技術革新を 起こす上で重要な役割を担ったと言えよう。 しかしながら,ジーンズはあらゆる面でそれまでの学生服等の生産方式とは異なっ ていた。まず藍色に染め上げる技術は特殊で,ロープ染色という方式が必要であった が,その技術を導入するには困難があった。さらにジーンズ生地を縫うには,極太の 針が必要であったが,それまで縫製使用していた針にそれほど太いものはなかった15)。 さらに,糸は特殊糸が必要であった。その糸は6番,8番,10番,20番の4種類で, 一本のジーパンにそれぞれ糸を使い分けて使わねばならず,高度の縫製技術が要求さ れた16)。このほか,付属品であるファスナー,ボタン,リベットも国内で調達するの は困難であった17)。最終的には日本繊維輸入組合を通してデニムの生地を,上記の付 属品をニューヨークに支店があった三泰貿易を通してマルオ被服は輸入することにな る。 実際にジーンズを製造すると,板のようなものが出来上がったという。あまりにも, 生地が硬いためにデニム生地をそのまま縫ったものは穿くに耐えないものであった。 このような製品を店頭に並べても,売れ行きは低調で,米軍の中古品とは比べようも ないほどだった18)。いかにしてはき心地の良い製品にするかを検討したところ,ジー 15) 児島は畳生産も盛んであった。畳針を利用することによりジーンズ縫製が可能に なったという。 16) 糸の太さは番号の数字が小さいほど太い。例えばジーパンの中で最も強度が必要 とされる股下の部分は6番糸で縫い,負担がかからない部分になるほど利用する糸の 番号の数が大きくなる。 17) ファスナーはタロン社,ボタンはスコービルなど特定のメーカーのしか,ジーン ズには利用できなかったという。 18) アメリカでは,消費者が購入した後,何日間もジーパンをはき続け,石でジーパ ンを打ち付けるなど工夫して体になじませる習慣があるという。このような習慣が ない日本人には,米国内では通用するような新品の販売は困難であったと思われる。 −271− 児島縫製業産地研究第一次予備調査トリップレポート
パンを丹念に洗うことにより,体に馴染みやすくできることを発見した。現在では, ジーンズの生産工程の中には,他の服種にはない「洗い」という工程がある。この工 程は,日本で開発されたものなのである19)。この工程をメーカー内部で行うと多大な コストがかかるために,専門業者に外注することが一般的である。「洗い」専門業者 は,児島だけでも3万人の就業人口がいるという。 備後地方の主要生産服種である男子作業着とは違い,ジーンズはブランドが商品イ メージや品質を保証する機能が強い。そして,製品の品質の指標としての価格が高い
ほど,企業のブランドが高く評価される(Klein and Leffler 1981)。しかし,問屋はど
のブランドでも商品が売れさえすればよいので,問屋を仲介するとメーカーの意向を 無視した低価格設定を行うようになる。そうすると,せっかく構築したブランドが損 なわれ,メーカーに大きな損失をもたらす。柏野氏によれば,実際に以上のような理 由から,Big John はジーンズ生産を開始して,数年後には問屋を仲介しない直販を行 うようになったという(図4を参照のこと)。 実際のマルオ被服の販路網形成は次のような経緯をたどった。若干長い引用である が,当時の状況を良くうかがうことが出来る。「昭和45年ごろからは『つくればつく るほど売れた』ジーンズブームの時代を迎える。マルオ被服の業績は急伸し,同社の 発展はそのままジーンズ業界発展の歴史となった。ブーム到来の一年前の四十四年マ ルオ被服社長の尾崎小太郎氏は『いまのうちに販売網を確立しておこう』といち早く 次の手を打っている。『ジーンズは全く新しい繊維製品。これまでの販売網にこだわ ることはない。自動車メーカーや家電メーカーでは,他商品を扱わない自社の専売店 19)「洗い」作業は,河川を汚染し経済的外部性を発生させる。環境汚染を緩和する ための装置を備えるために大きなコストがかかる。県ごとに「洗い」作業に対する 規制はことなる。児島産地を擁する岡山県では産業保護のために,規制が緩やかだ という。EDWIN は東京のジーンズメーカーであるが,「洗い」作業は児島の「洗い」 専門業者に委託しているという。因みに EDWIN の名称は ED=江戸,WIN=勝の意 味をもつ。 さららにどの程度「洗い」をするかによって,製品の色合いが決まる。流行など に対応した色合いを出すには,高度に洗練された「洗い」技術が必要とされるとい う。この点において,女性オフィスウェアなどと著しい違いがある。 図4 児島産地における流通構造 (ジーンズ) 消 費 者 メーカー 小売店・専門店 児島縫製業産地研究第一次予備調査トリップレポート −272− を全国に持っているではないか。このシステムで行こう』と考え出したのが同社独特 のセールスディビジョン(直営の地区販売会社)方式だった。このシステムだと単一 商品しか扱わないので問屋経費も既存問屋の半分以下の5∼10パーセントで済む。情 報のフィードバックも正確で早い。新しい商品にふさわしい新しい販売システムがこ こにうまれた」(山陽新聞社1977 p.40‐41)20)。 ジーンズ業界でも学生服業界と同じように系列化の潮流があった21)。しかし「学生 服メーカーの系列化とちがって,ジーンズの場合,メーカーの独自性が十分に生かさ れているのが特徴である…合繊学生服の系列化の場合,児島地区の縫製業者がつくっ た学生服は○○ビニロン学生服,△△テトロン学生服といったように素材メーカーの 名が表面に出された。今回のジーンズの系列化はビッグジョン,ボブソンといった縫 製業者の商標が前面に出て,縫製業者側の自立独立性が強い。商標の力が販売面でい かに大きいかを物語っている」(山陽新聞社1977 p.42‐43)。このことは,当時画一的 でブランドがほとんど重要ではなかった学生服に対して,ファッション性やメーカー ごとにデザインに特徴を持つジーンズにおいてブランド力とそれを維持するための販 路システムが重要であったことをものがたっている。
ジーンズはもともと No sex,No age,No place の特質をもつ衣類である。つまり, 性別,年齢,場所を問わず着こなすことが出来るという機能性に最大の特徴があると いえる。このような性格を持つ衣類であるから,男女の区別なく,サイズは違うが同 じデザインの製品を生産していた。しかしながら,徐々に機能性ばかりではなく審美 性の追及もジーンズに求められるようになると予測した企業があった。ベティスミス は女性物ジーンズの生産に特化する道をとった。ベティスミスの大島社長によれば男 性はジーンズに求める基準が機能性8割で審美性2割,一方女性の場合機能性2割に 対し審美性8割という。このような女性の価値観に対応するため,女性物ジーンズの デザインには際立った特徴があるという。例えば,通常のジーンズは腰まわりの部分 などは直線的に裁断するが,女性物の場合体にフィットさせつつ体の線を美しく見せ 20) この時期に,Big John の下請け生産を行っていた,ボブソン(マルオ被服社長の実 弟の尾崎利春氏が社長)やベティスミス,ドット,ジョンブル,そして井原市のカ クタス,バイスラーなどが参入した(山陽新聞社1977 pp.41‐42)。 21) 昭和50年代前半において「系列化を進めているのは倉紡(大阪),鐘紡(同),東 洋紡(同),ユニチカ(同)の四大紡で,倉紡はビッグジョン,ボブソン,東洋紡は バイソン,ブルーウェイ,ラングラーを系列化しており,大手ジーンズメーカーの 色わけがかなりはっきりしてきてい」(山陽新聞社1977 p.42)た。 −273− 児島縫製業産地研究第一次予備調査トリップレポート
るために曲線的に裁断する。形だけではなく,色彩も多様化させ,ファッショナブル なイメージを製品に持たせるのである。このような工夫を各所に施すことによって, 世界で始めて女性物ジーンズという製品を広めていったのである22)。 ここまでみてきたとおり,ジーンズという服種には生産面,流通面において著しい 特徴があることがわかった。このような服種を扱うことで成功するには独特のノウハ ウが必要に思われる。したがって資本力があったとしても,他の服種を生産している 企業が参入するのは困難である。過去には,昭和40年代に学生服の大手企業である尾 崎商事がビッグベルというブランドでジーンズを売り出したが程なくして撤退した23)。 またテイコク株式会社も同様にジーンズを生産していたこともあるが,同様に撤退し たという。 ! 5 女子オフィスウェアメーカーについて 前述のように,ジーンズメーカーと同じく,女子オフィスウェアメーカーは,企業 の系列化が進んだ後に,学生服メーカーから鞍替えしたところが多かった24)。この時 期は,消費者の需要の動向も大きく変化した時期である。企業では社員の女性事務服 に,審美性を求め始めたのであった。 女子オフィスウェアの特徴は取引相手が企業であることだ。昔はメーカーから卸問 屋,そして全国にある代理店という流通ルートが主流であった。これが,徐々に問屋 を仲介しないようになり,現在ではほとんどメーカーから直接代理店へ商品を流通さ 22)ジーンズ業界では近年急速に中国をはじめとして海外での生産を行うようになっ た。これまでは「洗い」によって発生する環境汚染がネックとなって海外生産が困 難だった。この問題は汚染防止装置を設置することによって解決できたという。ま た海外での生産は労務管理などが非常に難しい。 ベティスミスも3年前から中国での生産を開始した。ベティスミスは,10年前から 十数名の中国人を児島の本社工場で働かせて十分な社員教育を施した後に,指導員 として中国工場に派遣することによって円滑な生産システムを構築している。 23)しかし1974年ごろの縫製産業全体の不況期において「学生服は勿論,大量生産で きる一般商品(ワーキング,ワイシャツ等)は不況のどん底に沈んだ,『カジュアル も必ずしも良いとはいえない。ジーンズファッションを除いてはほとんど失敗して いる』(尾崎商事専務尾崎房次郎氏談)」(角田1975 p.257)。他の商品とはことなり, この時期にジーンズの需要の増大していたように思われれ,この状況においては尾 崎産業もジーンズで成功していたようである。しかし,ある程度ジーンズにも質を 問われる時代に入ると最適な販路などにおいて,学生服とは異なるジーンズから撤 退せざるをえなかったのだろう。
24)ただし,ジーンズ業界のように Big John や Bobson ほどの巨大企業は誕生していな い。 児島縫製業産地研究第一次予備調査トリップレポート −274− せる直販方式をとっているという(図5を参照のこと)。 女子オフィスウェアはデザインなどの美しさや流行への対応などがとりわけ重要視 される。したがって,製品の企画力や,新商品が何を意図しているのかの説明が要求 される。さらに,エンドユーザーである企業からの要望の汲み上げを行い,顧客ニー ズに素早く対応することも非常に重要である。以上の要件を満たすことによって,メー カーがもつブランドの評判が高まる。ブランドの評判を落とさないためには,顧客と の取引で機会主義的行動を取ることは避けなければならない。しかし,問屋はメーカー ブランドが損なわれそのメーカーの商品が売れなくなったとしても,他のメーカーと 新たな取引を開始すればよい。したがって,問屋はメーカーと違って,短期的利益を 目的に行動するであろう。 代理店との間に直販システムを構築する上で重要なことは,代理店とメーカーの間 で情報を共有し,機会主義的な行動を取らないような信頼関係を構築することである。 実際に女子オフィスウェアメーカーは,全国にある代理店と長期的な取引関係を結ん でいる25)。そして,代理店は,あたかもメーカーの営業部のような機能をしているの である26)。効率的な流通を行うためには,在庫状況を把握することが非常に重要であ 25) これは生産における,メーカーと下請企業の間に構築される長期的取引関係と類 似した。 26) 本山氏によれば,女子オフィスウェアメーカーのセロリーでは,全国200件以上も ある代理店をメーカーの営業マンが訪問できるのは,年2回程度だという。そこで, 本山氏は20日に1度,セロリー通信という代理店向けの「社外報」をつくり,ファッ クスでこれを配信していたという。内容は簡単な社内報のようなものであり,営業 成績や目標売り上げの情報のほか,日常の話題など柔らかい話題も取り上げている。 このような「社外報」を定期的に発行することによって,メーカーへの帰属意識や 信頼関係を培う上で大きな役割を果たしたように思われる。 図5 児島産地における流通構造 (女性オフィスウェア) (初期) 卸 問 屋 (全国各地) 企 業 (消費者) メーカー 代 理 店 (後期) 企 業 (消費者) メーカー 代 理 店 長期的取引 −275− 児島縫製業産地研究第一次予備調査トリップレポート
るという。代表的な女子オフィスウェアメーカーであるセロリーは代理店との間にコ ンピュータネットワークを作り,メーカーが瞬時に在庫状況を把握できるようになっ ている。 4.方 法 論 児島地域における調査を終えた後に,調査等により収集したデータを利用して,児 島縫製業の長期的発展を統計的に分析する。その際に,経済学の理論的なフロンティ アである契約理論,集積理論,学習理論,企業生存理論,社会的ネットワーク理論, そして社会関係資本などのエッセンスを抽出し,実証研究に適用させる。つまり,理 論と現実の間に横たわる溝を埋めるべく,どの程度理論は現実を説明しうるのかを探 ることに力点が置かれる。そのために,理論的な根拠をもった仮説を構築し,これを 歴史資料および収集データを利用して検証する。したがって,論文は歴史資料に統計 分析を交えた構成となる。また,山村(2004)のように,必要に応じて既存の理論モ デルを援用して,仮説を導くことも論文に説得力を与える上で有用となろう。 5.プレテストについて 今後は繊維機業要覧等では入手できないデータをアンケート調査により収集する。 その前に,調査票を作成しそのプレテストを行う。プレテスト対象企業は9∼10社程 度で,製造服種は学生服,ジーンズ,女性ユニフォームなど数種を取り上げる。そし て,それぞれの企業規模は大企業に偏らずに,中小企業も含む。このように,児島産 地において代表性のある企業を抽出しプレテストをすることによって,調査票の改善 点などが明らかになろう。またプレテストを行う過程で児島産地の実情をより深く理 解できよう。これにより,研究において検証可能な仮説やその経済理論的な根拠が吟 味される。 参 考 文 献 和文献 明石被服興業株式会社(1988)。『スクール・アイデンティティとして学校服』明石被 服興業株式会社 角田直一(1971)『児島の日本一物語』児島ライオンズクラブ 児島縫製業産地研究第一次予備調査トリップレポート −276− 角田直一(1975)『児島機業と児島商人』児島青年会議所 山陽新聞社編(1977)『せとうち産業風土記』山陽新聞社 テイコク株式会社(1996)『テイコク120年史』テイコク株式会社 多和田和彦(1959)『児島の歴史第一巻児島産業史の研究』「児島の歴史」刊行会 富澤修身(1997)倉敷市児島地区アパレル産地の分析 ―― 現代日本繊維産業論(4)『経 営研究』(大阪市立大学経営学会)48(3) : pp.21‐41. 山村英司(2002)「人的資本と産地の発展サイクル ―― 備後地方における縫製業産地を 事例として ―― 」『社会経済史学』68(3) : pp 65‐81. 山村英司(2004)「社会的信頼,人的資本,そして学習効果のダイナミクス ―― 備後縫 製業産地の発展と変容を事例に ―― 」『経済研究(一橋大学)』(掲載決定) 洋文献
Asanuma, B. (1989). “Manufacturer-Supplier Relationships in Japan and the Concept of Relation-Specific Skill,” Journal of Japanese and International Economies, Vol.3, pp.1-30. Greif. A. (1998). “Historical and Comparative Institutional Analysis,” American Economic
Review. Vol.88, pp.80-84.
Klein, B and Leffler. K. (1981). “The Role of Market Forces in Assuring Contractual Performance,” Journal of Political Economy, Vol.89, pp.615-641.
Yamamura, E., Sonobe, T. and K. Otsuka. (2003). “Human Capital, Cluster Formation, and International Relocation : The Case Study of The Garment Industry in Japan, 1968-98,” Journal of Economic Geography, Vol.3, pp.37-56.
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