Posted at the Institutional Resources for Unique Collection and Academic Archives at Tokyo Dental College, Available from http://ir.tdc.ac.jp/
Title 血脇守之助伝
Journal , (): ‑394
URL http://hdl.handle.net/10130/917
Right
第 十 八 草 歯 学 の 殿 堂
桃粟三年'博士八年
大正十二年五月二十一日'花沢鼎の学位請求論文'
「at人類象牙質の微細構造殊に歯細管と歯繊維との関係についてtb、象牙質の御蝕に関する研究補遺」
他に副論文四篇
が慶応義塾大学医学部教授会を満場一致通過した。これこそ歯科医の学位論文第一号となった歴史的な論文であっ
た。また'これに続いて大正十三年三月三十1日'奥村鶴吉の学位請求論文'
「斬蝕の起因たる醸酸作用に関する研究」他に参考論文四第
が慈恵会医科大学教授会を通過した。この二つの学位論文の通過は'歯科界有識者を歓喜の渦に巻き込み、
「歯科医学の曙光」
「血脇イズムの象徴」
とし賞賛の嵐をあびた。
そもそもわが国における学位令の制定は'明治二十年五月二十一日(勅令第十三号)に遡ることができる。この法律
‑ 297‑
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花沢先生学位 記
では、法'医'工'文、理学に対して博士あるいは大博士の学位授
与を許していた。その後'明治三十一年十二月十日勅令第三百四十
四号によって農、林、獣医学にも博士号が許されるようになり、さ
らに大正九年七月六日勅令第二百号をもって文部大臣の認可を得て
大学が学位を授与できる制度に改められ'これが昭和三十五年度ま
での学位授与に適応されていた。しかし当時は'歯科医の研究業績
が評価される場がどこにも無‑、歯学博士や医学博士への道は固く
閉ざされているという最悪の条件下での学位論文通過であった。
この花沢鼎の論文は、最初東京帝国大学医科大学(医学部)に提
出された。そして種々検討が行なわれたが'前例がないという杓子
定規な議論の末受理されなかった。この時新進気鋭の医学者を多数
集めて意気盛んであった慶応義塾大学医学部は、進んでこの論文を
ー 298‑
受理することを決めた。そこで、改めて慶応義塾大学の方へ提出さ
れたのであった。この論文は大正四年に発表されており'通過までの期間は実に八カ年を要した。えいごう「桃粟三年へ柿八年へ永劫の真理また八年」という語呂あわせさえできる隠忍の八カ年であった。
その上'この時期に'歯科界のl部のグループはその政治的意図から花沢医学博士の誕生空貴ばず'露骨な妨害工
作を行なったから、茨の道は今日では考えられないほどの険しさであった。
一万㌧奥村鶴吉は歯科解剖学の研究を志し、透明標本による根管の微細分岐状態について研究を進め、十八カ年の
歳月をかけて五万本の歯牙を集め'多忙な寸暇をさいて超人的努力を続けていた。しかもあの大震災にょってこの努
力の結晶は、あと形もなく失われてしまったのである。ところが不幸中の辛いというか'東京帝国大学医学部教授三
田定則の指導で行なっていた前蝕に関する研究の標本が、あの災禍のさ中、毛布に‑るんで運ばれていった貴重資材
の中に温存されていた。そこで、再び震災後の激務に屈せずこの研究を発展させ'遂に医学博士第二号の栄冠を得た
のであった。このように'先人の苦労は誠に涙ぐましいものがあったが'反面'金杉英五郎が大正十三年四月十二日
に本校内で開かれた祝賀会の席上'
「‑‑奥村'花沢の両君が如何に偉くとも'両君をして今日の大をなさしめ、歯科界の筋道を確立してきた血脇君
が功績の七分をおとりになっても差支えないと思う‑‑」と挨拶した言葉の含蓄を噛みしめてみる必要がある。
歯科医学の曙もまた偉大な指導者の下で育まれた偉大な果実の一つであったことを知ることができる。
ところで、医学博士花沢鼎の誕生は、副産物として歯科大学創設期成会の運動に再点火の機会を与えることにな
り'大正十二年五月六日学生間の発議で再度期成会が発足する運びとなった。これに対して学校当局側も正式にその
必要性を痛感し、六月二十一日、血脇守之助'池田成彬、富安晋三名の連署で'大学校舎建設のための第二次基金募
集構想を公表するに至った。勿論その約二カ月後にあの大災厄が訪れることを予知できる筈はなかったが‑⁚。
ー 299‑
校旗は燦たり
大正十一年七月'学校、同窓会'学生会は共同で校歌公募を学内および一般同窓に呼びかけた。
丁度'秋には欧米視察から校長の帰国が予定され'学生会にとっても創立十五周年を迎えるため、その記念事業を
兼ねて血脇校長の帰国歓迎会の席上で発表しょうという趣向であった。しかし'この企画は成功せず'いつとはなし
に下火となり、大正十五年1月に、北原白秋に対して正式の校歌作詞依頼が行なわれるまで放置されていた。
その後一年半を経過した昭和二年五月四日'学生会委員総会で、校歌'それに加えて校旗制定を熱望する動議が提
出され'その年度の予算のl割(五百五十五円八十九銭)をこの運動の促進に提供することを満場一致可決した.こ
の運動の先頭に立ったのは'昭和三年三月卒業更始会のクラスの面々で'当時最終学年生であった。白秋への依頼は
すでに行なわれていたが'当時流行作家であった白秋がそう簡単に御輿をあげるはずがな‑、棚上げの形となってい
た。学生委員の熱情でお尻に火のついた形となった学校側は、風間又四郎に同行を命じ'一行は五月六日早‑も大森
の北原邸を訪問した。北原邸の玄関には「面会謝絶」の貼紙がされていたが'おそるおそる面談を申し出ると'思案
するより生むはやすしの例の通り、白秋は快よく面会に応じ、一行の熱意にほだされて「六月までにはきっと作詞す
る」と誓約してくれた。1行は足が宙に躍る心持で帰途についたが、その後も白秋は多忙を極め'約束の期日になっ
ても作詞がはかどらず、またもや見通しがたたない状況に追い込まれた。そこで、守之助はじめ教職員および全学生
が一人の洩れな‑各自一枚ずつの葉書をしたためて北原白秋のもとに送付した。白秋はこれに励まされ座右に置いて
精進したが、稿を重ねて幾十回'い‑ら努力を慣例しても意にみたなかった。
‑ 300‑
そして九月二十七日の夜へ詩興に乗じて校歌を作成し翌日「TDCの校旗の下に祭れひとし‑」が関係者に手渡さ
れ、二十八日の学内各教室の黒板に1斉に校歌として書き出された.しかし、二十八日の夜、白秋は眠ることができ
なかった。どうしても満足できないのである。そして二十九日の早朝から午後一時までの間に'現在の校歌「校旗は
燦たり‑‑」が完成した。午後四時'急報に接して、福島秀策と風間又四郎は四年生総代四名と共に北原邸を訪問し
た。北原白秋は実に晴々しい顔をして一行を応接間にむかえ、新しい作詞を手渡すと同時に、それまでの失敗作を披
露した。白秋に校歌を依頼したのは大正十
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北原白秋の 自筆による校歌
五年の一月一日であったから合計二十一カ
月を要したことになる。白秋は肩の荷がお
りて本当によかったと喜び、一行を引き止
め、十二時過ぎの夜半まで歓待した。
翌三十日、高津式および日本交響楽協会
の牧野の斡旋にょって'山田耕搾邸を訪
問'作曲を依頼した。山田耕符に対して
も、北原白秋と同じように催促をしないと
何時でき上がるか判らないというおそれが
あったため、数日後、高津と学生総代四名
がおそるおそる銀座の事務所に訪問、様子
を伺った.気配を察した耕符は1同を歓
‑301‑
右:校旗,校歌記念制定式 (西校舎前庭)における北原
白秋の挨拶 (昭和2年11月4日) 待メLーt
ト ル を 上げいたが途中にわかに思てでい、 立即ち、 席で 譜書業一面早のをに同あまきビクりッ、 リ 仰 天の 一幕なたとっ。 十月 七にはれをこ日 最終的な 譜か週一に実面た成完たおなに作曲て間でしらししこ と になる。 山 田 耕 作は 後に、だい無ど
理な注 文であっ たと 述 懐にかてにか間が、いてとるあたよと‑しっっ 一同 胸をなでおろし た。
と こ ろ でこ の 校 歌は' 十月 二十五午後八時二十日 分' 九 州 科歯席列会議協合総険保西関会'学医にてし 帰 京し た 血 脇' 福島、 風間 三 先生を、学生二 十名がプ ラ‑ッ ホムー に 整 列し て 大 合 唱で 迎え たにとき 始めて 公 開さ れ た。血 脇 校 長は 下をむいあがて「あとりうへ り がとう
」を 繰り 返た。し 福島 秀 策はて大ビクし‑ッ 切な 九 州 土 産を 紛 失し たいとう 感 激ぶあたでりっ。 一 方' 校 旗の 方は 五月四の決日 議のあと 京都高屋島 に 依種考参従来用いれ章頼校各をいのたてにらしし、 て 新 たに
選定し、当時の最
高
活かして作りあげたものだけに、この校旗ができあがると織物組合で評判になって、校旗としてこれ以上のものは全
国にあるまいという賞賛を受けた。
当時の記録によれば、
「昭和二年十一月四日は朝から糠のような細雨が降っていた.既に前日から西校舎庭には四周に紅白の幌幕を蹟ら
し、正面なる附属医院側壁には校歌四章の大文字窒口同く掲げへ其の下に美々しき式壇を設け準備は悉く整っている。
定刻十時、六百の健児まづ雨を衝いて中央に整列Lt左方には教職員、右方には来賓、同窓'校友諸氏参列すれば、
此時血脇校長を初め、作詞者北原白秋氏'作曲者山田桝搾氏、財団理事木下誹次郎氏、奥村鶴苦学生会長へ其他の諸
氏壇上に進まる。見よ見よ壇の中央にTDCの校章厳かに黒き嚢に被ほれて立てられているのは之こそ吾等が校旗で
あるO校歌は既に高‑掲げられて吾等の第三戸を待っている。此の静寂なる壮厳裡に奥村学監より挙式の辞あり'1
同起立して君が代を二唱すれば'此時血脇校長は一歩を進め、校旗の黒き包袋を静かに除けば、金色燦たる濃紫の校
旗は吾等の眼前に其の勇姿を現し来った。先生更に之を手に執られ、﹃諸君之を以って本校の校旗と定めます﹄と厳
かにただ三一ロ、之が此の記念式典の式辞であった。特に山田耕搾氏の奏でるピアノの音は朗らかに響き出で満場之に
和して校歌を合唱した。節より節へ'章より章へ'歌えば歌うほど聴けば聴くほど感激は感激を生みへ涙さえこぼれ
る歓喜の極みであった」
北原白秋は、この式典で挨拶に立ちへ
「私は校旗は燦たりと書いたけれど、こんな校旗ができているとは実は思わなかった。この燦たるTDCの校旗が
できたときにその校歌を私が作ったという事は作家として一生の光栄です。私は校歌を幾つも作った。しかしこんな
に感激して作ったことはいままでに1度もない。こんな祝典まで挙げて発表して箕った事もない。よはれたこともな
‑ 303‑
い'嬉しいです満足です感激です‑‑。一体詩を作るのに其の材料となるものは山です川です谷です海です。何かそ
こに勝れた景色がなければならぬのです。然し水道橋には何も景色などありやしない。困りました弱りました苦しみ
ました。その末に、この学校において歌うべきものはチワキズムである、この学校の精神である。血脇先生を中心に
して歌うことだ。これだと思ったのです。このチワキズムの精神を休して何とか作ったのが今回の校歌です。諸君の
お気に召せば結構だと思います‑⁚・。この作詞をしてみて不思議なことに'私は自分が時々TDCの学生ではないか
と思ったり'この学校の同窓ではないかと思ったりするようになった。しかし今日ここに立ってみると最早私は同窓
である。同窓になりきってしまった(拍手)。実に愉快です。電車や汽車に乗っても何だか人の歯ばかり目について
仕様がない(拍手笑声)」
次いで山田耕解は、
「北原氏と私は別居こそしていますが'夫婦みたいな仲で'つまり北原が父、私が母だ。北原氏から種を受けて私
が生み出すという訳なのです。ところが今度の作風は従来の型とかなり変わっていた。六百枚の手紙が北原氏の机の
傍に積まれていたそうですが'今度の作は諸君の一人1人の注射をうけて生れた歌詞であります。この作曲を受け
持った私の立場ですが全く困りました。白秋先生が二年かかったものならは'私はその倍の四年ほしいところです。
それを何と三日でやれというのです。朝から晩まで、自動車に乗っても、散歩をしても忘れず原稿を出してやってみ
た。原稿はクチャクチャになったが駄目なのです。私独りで考えているだけでは押す力が足りないと思った。これはど
うしても諸君等と1緒に散歩してみるとか生活に触れて、その生活の中から何とか引き出したいと思っている矢先、
丁度折よ‑数名の方が催促にこられたからへビールと寿司とおでんを取り寄せ'お互にメートルを挙げたのでありま
す。そうやっているうちに何と申しますか'つまりあなた方の声をハッキ‑私の胸に感じる事ができたような気がし
‑ 304‑
て其の場で作曲の原案ができました。私はいつも私自身が作るのではない'何かこう神秘的に私の心に宿ったものが
私に書かせるのです‑‑。私は今度のように学生の力に動かされ'また職員の熱誠に感じたことはありません。今後
私は死にますまで日本に居ります内は、毎年一回必ず伺います。そして練習というか色上げというか責任を以て復習
をさせて頂きますことを御約束致します」
チワキズムを盛り込んだ歌詞を胸に再び起こる大合唱、感激と喜悦が交叉するうちに、簡素にして華やかな式典は
午後一時半閉幕となった。
明日死すとも可なり
昭和四年十一月二日'新校舎落成式の日'本館一階には来賓室が設けられ'いまを時め‑文部大臣小林一大、内務
省衛生局長赤木朝治'東京帝国大学医学部長林春雄、慶応義塾大学医学部長北島多一らが守之助を囲んで談笑してい
た。午後零時半過ぎのことである。この室に高山紀斎が案内されて入ってきた。高山は老の一徹というか'守之助の
前に進み出で、涙を流しながらその手を堅‑握りしめ、とぎれとぎれに、
「長生きはするものだ、こんな立派な校舎ができるとは'全‑夢のようだ‑‑。政府の力でできない事を君はやり
とげた‑‑・。社会が進歩すれば最早や官立の学校はいらない。自由な教育機関が成長していけばよい‑‑。それでこ
そ学問が独立できる。学問の権威ができる」と守之助を賞賛した。高山紀斎はこのとき齢八十へ咽喉を害し'声はか
すれていたが、守之助は老師が心情を吐露されたのをみてほろりとしながらへ
「すべては先生のおかげです。皆さまのおかげです。私は大正十二年十月二十日には死んでいたのです。死ぬ気で
‑ 305‑
昭和4年10月30日竣工,新校舎完成 新校舎落成
昭和4年7月頃の水道橋周辺 やればでいでるこまこきとう、
見 本を示たかたす」のでしっ 高山の 手をなとり がら 傍 の 椅 子 へ
と 案内し た。
林 春 雄は、
「こ れ は 天 下の 偉 観で すぞ'
是非早部案内を内て‑もらし い た いのも だ
」にときしり 落 成 式 後の 構内見学楽みをし
にし て いる 様子でたあっ。 本 校医杉長学財大科学会恵慈事監金団英五郎が来賓室に・ あ わただ入てきてくしっ、
「 い や、
い や' 今は日 大 任'
大 任、い受付聞いた千までら 三 百 名入も 場し たそだう
」 金 杉 英 五郎は本式典の日
の 司 会 役引受けいをてたき。
「 今は日 招 待 客と同 窓だけ限た」にのにっ
「 ホー ル 内 に は 入り 切れま せんな
」
「 1、 二 階の 廻廊1杯すもでよ
」
「 満員 札 止めい」でなもきし
「 あ あもう そ ろ そ ろ 時 間
で す。 先 生 方お 支 度を‑‑
」 午 後 二時' 血脇 校長先導の で 文 部大臣以下釆箕が入
場
お祭りのようにざわめいていた会場に一瞬時の流れが停止したような静寂が訪れた。右手に手袋を握りしめた金杉
司会が'おもむろに立ち上り'式壇に進み出で'
「これよりプログラムの順序に従って落成祝賀式を挙行いたします」と開式を宣言した。今日この日の為に練習を
重ねていたハーモニカ部の吹奏に合わせて全員が君が代を二唱着席。血脇校長が式壇に歩む'この時、拍手とどよめ
きが満場を圧し、あたかも凱旋将軍を迎える如‑、しばし鳴り止まなかった.頃をみて、一礼した守之助は'奉書を
懐からとり出し草稿を両手でしっかりと提りながらへ
三 一
日'一句力をこめて朗読した。「閣下並びに各位へ本日校舎落成式を挙げるに当たり
'
閣下並びに各位の御臨席を辱うしたるは本校の深く光栄とするところであります‑‑。本校の建築は全く本校独自の見地より出発した設計に成ったものでありまして、中に幾
多の新工夫を含み敢えて先進国の模型に模倣したものではないのであります。然もその費用の大部分は校友の酸出せ
られたる浄財であります。そしてその一部分は本校自身の若草にょって積み立てたるものであります。この二つの事
実は、本校が柳か世間に自負せんと欲する所のものであります。
本校は此の新居に移ると共に益々本来の使命に精進したい覚悟であります。若し内において教職員一層其の本分に
向かって協力尽棒Lt外において閣下並び各位の後援を賜るを得ましたならば、辛に過なきを期し得る事と信じま
す。終わりに臨み重ねて閣下並びに各位のご臨席を謝し深‑将来のご幸福ご繁栄を祈る次第であります」
この工事は'守之助の親友森山松之助の設計監督の下に行なわれ'建築委員長は花沢鼎'昭和三年一月十一日に起
工へ昭和四年十月三十日に竣工した。本館はオランダ風を加味した外装タイル張り鉄筋コンクリート地上四階、地下
一階、付属建物を加えると総坪数は二千六百九十坪で、室数は合計百五十七重'工事請負は大阪の橋本組および石井
組であった。
‑ 308‑
守之助が二度にわたり強調した浄財は'昭和四年十月1日現在、
申込総額
l、三
〇
四、〇
三五円第一回申込六六七㌧四二五円第二回六三七、六10
円申込人員
六'八六二名第1回申込二、四
〇
五名第二回四、四五七名収入総額
八一五㌧五九五円第一回払込四五二六三三円第二回二六五'四五九円
支出総額利子等
七九九へ五六八円九八㌧五
〇
八円であった。
‑ 309‑
総工費(予算)
内訳
建築工事費(但シ旧館荘附属校舎木造ノ部ハ修理二止ル)
設備費
器械器具費(新規購入ノモノノ、,、)
其他 七八六'
〇 〇 〇
円四八六㌧
〇
五〇
円二二七'
1 0 0
円l
三'1五〇
円三九、七
〇 〇
円来賓祝辞は文部大臣祝辞を以て始まったが'当時文部大臣が私立校の新築祝賀の席に出席し
、
祝辞を述べるなどということは前例のないことであった。
こいねがわ「先哲日‑居は気を移すと'今や居新にして人心改まり、清新の気校内到る処に満つ'庶幾‑ば永‑今日の意気を
失わず'努力奮励以て益々本校の声価を高められん事を」
簡にして要を得た内容で校長以下学校側にとってはかけがえのない贈物のように思えた。
祝辞は'内務大臣安達謙三㌧東京府知事牛塚虎太郎、そして長身'禿頭'長馨をひるがえした東京帝国大学医学部
長林春雄へと続‑'
「‑‑私は縁故がありまして、古い時代の本校を知っています。そのはじめの頃と今日とを比較すると実に隔世の
感がある。実に大きな発展でありましてへ驚嘆に値するものがあります。‑‑強将の下に弱卒なし'私共は将来の発
展に割目期待する次第であります」
慶応義塾大学医学部長北島多一は'
「血脇君は日本の歯科界の功労者である。‑‑従来も英才を多数育てられたのでありますが、今後ますます人才の
輩出されることを希望してやみません‑‑」
と温顔をほころはせた。このあと歯科医師会関係、歯科医学会関係'同窓会関係の祝辞があり、次いで奥村学監か
ら祝電披露が行われた。
A.Bletterパ‑歯科医学校長
C.N.1ohnson米国歯科医師会前会長
SimonFlexnerロックフェラー医学研究所長
Sz
co
ndedeCasaAgui‑arFDI会長Osc
ar R 6m er
ライブチッヒ大学総長ー 310‑
など海外からの祝電'祝辞四十九通、国内からの祝辞十六通、祝電百二十三通であった。
守之助は再び悠然と立ち上がり、一切の肩の荷を下したような表情で参会者に丁重なお礼の言葉を述べ'落成式を
終了した。
続いて奥村鶴吉満三十年、花沢鼎および佐藤義三満二十五年勤続者表彰式が行なわれ'小休止の後'屋上で祝賀会
が開かれた。
校歌のレコードが間断なく校内に響き渡る中を千三百人が縦列の人波を作って屋上へと連なった。屋上にはべソー
ハウスと並んで大天幕が張られ'白布にくるんだテーブルの上には、麦酒、サソドウィッチが準備され'北島博士の
発声で東京歯科医学専門学校の万歳を三唱して乾杯、饗宴に‑つろぎの一刻を過ごした。そして立食パーティー場か
ら案内されて校内各室にしっらえられた記念展覧会を見学した。この展覧会は'本校、本邦のみならず海外歯科事情
を有史以来展望する大規模なもので十月六日まで1般にも開放され、その入場者数は、二万五千二百四十二名にのぼ
った。
あけて十1月三日'明治節の佳き日である.昨日の厳粛さとは打って変わった陽気が中央ホールを支配する。午前
九時二十分'学生祝賀式および鈴鐘献呈式が開会。「輝く校旗の下に」をハーモニカバソドが吹奏する中を校長以下
学校首脳部壇上に入場'拍手の轟きにハーモニカバンドの吹奏が打ち消されそうになる。
校長の式辞に引き続き'学生総代松宮誠1が祝辞を朗読した。
「秋天高き水道橋畔に燦然たる母校の新築落成を記念する為に斯‑も盛大なる学生招待祝賀式を挙げられ恩師並び
に諸名士ご臨場の末席に列して鼓に祝辞を述べ得ますことは私の深く光栄に存ずる次第であります。顧みれば我等が
本校に入学して以来あの仮校舎において母校と互いに苦楽を共に頒ちつつ今日に至りました。
‑ 311 ‑
今や世界に誇るべき宏壮な母校の新校舎を仰ぎみる時我等の感激我等の歓喜如何にしても是を言い現わす言葉があ
りません。本校創立以来葱に四十星霜校遅日を逐って盛にして今やその名声四海に高‑内容外観共に充実完備するに
至りましたのは'是実に血脇校長先生を初め諸先生の堅忍不抜なるご努力と是に加うるに多数校友の絶大なるご後援
にあるものと信じます」
次で献鐘式に移り'学生会長奥村鶴舌から'
「‑‑我が学生会はお祝いの意を表したりと色々協議した結果、永久性のあるものを贈りたいというので屋上に塔
を設け鐘を吊るということに決まりました。塔屋は森山工学士に設計をお願いLt鐘は名匠なる東京美術学校の坂口
晃両先生苦心の作で'一里四方は充分聞えるということであります。万世にその響きを永‑伝えて実にこの学校のあ
らん限り鐘の音が伝えられることと思います」
校長は次いで遠藤義平(四年生)の献げる目録を受領し'演壇に進み出て、
「皆様の御心寵れる贈物を有難‑頂戴いたします」とうやうやし‑感謝の意を表し、
「将来'学校の職員で怠け心の出た時、眠‑なった時には戒めの鐘として目を覚ますよう屋上に鎮座まします事と
存じます⁚‑」
と言葉をつなぎ'にこやかに笑いながら'満場の拍手を受けた。
なお、この鐘の鋳造費は十四会(昭和四年三月卒のクラス名)が協賛醸出した。代表藤政正人が挨拶した。
午後五時からは屋上で七百名の学生を招待する祝賀会が開かれたが、次いで'五時四十分正面玄関前に教職員、同
窓その家族'学生各々手に手に提灯を持って集合、六時からプラス'''1ソドを先頭に祝賀提灯行列の隊列が行進を開始
した。三崎町では町内あげての祝賀気分で'全戸提灯を吊り'国旗を掲げへ隊列に声援を送った。
‑ 312‑
T・D・C行
進曲「ここ水道の橋畔に沖天高‑そそり立
つT・D・CT・D・Cぞ我
が殿堂完成つ
ぐ
夜の静寂をついて、
「おお七百の若人よ
功績古き学び舎に
学ぶ喜びこの誇り
師をは誘えん時は今
燦たる燦たる校旗
仰げ君」
の歌声が響く、やがて長蛇八百米の隊列は二重橋前に集結'午後七時、全員整列'プラスバソドに合わせて君が代を
二唱'天皇'皇后両陛下の万歳を三唱した。
帰路は白山通りを一ツ橋から水道橋へと向ったがへ沿道数万の観衆に包まれ、電車も止まって'行進に道をゆずっ
た。午後七時五十分正門前に帰校'枯れ果てた声をふりしぼって東京歯科医学専門学校万歳を三唱して解散した。
このあと十一月四日には'三崎町内招待音楽と映画の夕'十一日'十二日、新築落成祝賀大運動会(芝公園)が開
かれた。なお'十一月二日午後六時から九段上の富士見軒で、同窓会評議員会および第三十四回総会が開かれたO
ところで守之助はこの落成式と祝賀行事の数日間をどのような思いで過ごしたのであろうか、第三十四回同窓会総
会で述べた所感から、これを窺うことができる。
「とうとうお寺ができた。お寒銭を集めたお寺ができた。大正十二年十月二十日、震災直後の開校式でこの事業が
完成しないうちは私は死なないと広言した。この無鉄砲な広言を私は敢えてした。最早や天命を果たした。私は死んヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽでもよい。明日は死すとも可なり。歯科界の殿堂ができればよいのであって、私個人の問題ではない。落成式に歯科
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以外の人を招いて三百名釆たが'政治家や実業家や官僚に学校をみせて浄財だ浄財だと二回も言ったのは'そういうヽヽヽヽヽヽ人達にこの殿堂をみせ案外だと思わせたかったからである。私の本性はデモクラシーである。封建時代なら佐倉宗五
郎である。少々言い過ぎたかも知れないが、私は感激し、心底から感謝している。今ほど嬉しいことはない」(要旨)0
守之助の興奮もさることながら、この祝賀行事に参加した学生へ同窓の感激はまたひとしおであった。東京歯科医
学専門学校、歯科界は未来永劫守之助の統率の下にバラ色に輝いているように思えた。
昭和二年三月卒の同窓柿沼裕は(,'1ラック校舎で学んだ学生の1人であるが、この感激が忘れられず、歯学の殿堂に
記念となるものを求めていた。元来、美術愛好家であった柿沼裕は'塑像「幻影の美」こそ母校の玄関を飾るにふさ
わしいと考えた。
「幻影の美」は加藤顕清の作で昭和四年秋開催された第十回帝展(帝国美術展覧会)で特選を獲得した話題の中心
作であった。この像は'当時の価格で五千円、葉書一銭五厘時代の五千円は現在の七百万円位に相当するから卒業二
年目の歯科医が購入するにはへあまりにも高価で
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「幻影の美」 加藤顕清作(昭和5年1月寄贈)
あっ
た。
そこ
で
柿沼は加
藤友人た関係のであもっ で、 意を 決し、
今でい月う 賦
購入を思いたち、
加 藤宅を 訪れ、
「 傑
作で
母 校の 玄
関を
飾り
たいただし。'
一 気 に 五
千は円
払ないかえら、 働い分割必てで
ず 償 還 する 覚 悟で
い
加藤はしばら‑考えていたが、「判った」と三一ロへ
「譲って‑れますか。ありがたい」
「譲るのではない。君を通じて寄贈する」
「え'寄贈する?」
「血脇さんの学校に寄贈するのなら異存はない。一文もいらない。君の希望通り寄贈し給え」
吉報を胸に、柿沼は水道橋へと飛んで行った。
詳細を聞いた守之助は'
「これは校宝だね」
とつぶやき、名作に校宝の座を与えたのであった。
塑像ほいまも黙して語らない。しかし母校愛に燃えた同窓の熱意と'それに感激した芸術家の好意は'永久に語り
継がれるべきであろう。ただ残念なことに'この母校の新校舎建設に当たっては、極‑一部の同窓が守之助の意図を
曲解し、反対運動を展開し、同窓会から除名されている。また、こんな大きな校舎を作って維持経営ができるかどう
かを疑問視するかげ口も全‑聞かれないわけではなかった。
その一年後のことである。ジャパンタイムスは芝社長の発意にょって、血脇校長の領徳号を十月十一日発行した。
全紙大四頁にわたり、日本における歯科の発達と血脇校長との関係を説明している。この号は海外にも数万部発行さ
れたという。
また'同じ‑玄関に置かれている塑像「人」山本稚彦作も'昭和五年秋帝国美術院展覧会で推薦の栄誉を得たもの
で'作者の好意により昭和六年二月本校に寄贈された。
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還暦を病床に迎える
落成式後'そでは守之助が少しずつ疲労して‑るのを心配していた。
「大分'お疲れの様ですからへ少し休養を取られたら‑‑」
「あまり責めないで‑れ'おれは忙しいんだ」
「そうは言ってももうすぐ還暦ですからね‑‑」
「そうか来春は還暦を迎えることになるな」
「新校舎もでき上がりましたもの'それ以上急ぐことはないでしょうに」
「しかし神官参拝をして落成式の報告も必要でな‑⁚・。それに同窓が俺に出て来いと言えば行かねはなるまい」
十一月十三日午前十時東京発西下、伊勢路へと向かった。十四日伊勢神宮に校舎落成報告をLt十五日福岡福陵会
に臨席、十七日鹿児島における九州各県支部同窓連合会臨席、十八日霧島神宮参拝'十九日熊本県同窓会支部発会式
臨席(時間に間に合わず遅れて到着)、二十日大牟田'二十二日神戸、二十三日帰京へそして再び一カ月後の昭和五
年一月二日東京発西下、一月三日徳島県同窓会支部発会式臨席へ五日同窓会兵庫県支部総会臨階'六日大阪歯科医学
会臨席'七日帰京と強行軍を続けた。そのためか翌日から発熱、感冒と診断され'高熱が続いたため、医師に絶対安
静を宣告され'自宅療養を続ける始末となった。二月一日は還暦にあたったが'お祝いどころではなく'二月中旬'
やっと床払いをして熱海で静養し、体力の衰えを回復することになった。三月二十五日、この日は第三十五回卒業式
が行なわれたので、身体の調子はまだ本格的ではなかったが姿を見せ、関係者を安堵させた。守之助は例の如く、告
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第8回 日本医学会総会 大阪中央公会堂をうめる参会者(昭
4月1日) 和 5年 喉辞行悪が子調た咽がなをのっ‑''
ま だま だ 本 格的復調 と は いえ ず'その 夜開かれた 謝 恩会でいつの名調子がもも 聞 か れ ず 黙 し て 語なかたらっ。 こ の 三 十 五回 卒 業生中には後に本'
学 学 長なとっ た関 根 永 滋、
松宮 誠 1の緊 張れ1誠松たみが姿た宮ほのらしこ. 時 卒 業 生総 代てとし 守 之 助か卒業証書一括授与受のをら けさら、 に 答 辞を 述 べ て いる。 卒 業 式の 数日 後' 昭 和 五 年四月 一日
' 午 前 九 時 二 十 分 第 八回日 本医 学会が 大開者加参た阪幕堂会公央中六ではし。 千 九 百科余百九千医五歯名'一十ち名いわれ空前のうと' 盛 況を 呈た治明し。 三 十五 年第一本学会回医(当時は日日 本 連合医学会称た)行ていがなわとし
れて か四ら' 年
日 毎 に 開 催れ'明治三さ 十九 年第二か第一歯科分会回回科目ら が 成 立たし。 三月 三 十 1日 横 浜に 到 着たAし
D・・Btack は 夜 行列車で 大 阪 に 到 着'開会式には 六 人の 医系 外 来 講師、
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・={・・Cか・・:I.,,
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7,・・ji・・I,J日本医学会歯科分科会会場 血脇守之助とArthurD.Black(
昭 和
5年 4月 3日,鹿島俊雄 〔現理事長〕撮影)
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(Denmark ) と と も に 式 壇に 着 席Lへ
総 会 祝 辞を 述 べ たが' 全的規国 模の 学
会に
海 外の 著 名な 歯 科 医 学 者 が 特 別 講 師とし て 招 聴れたのは今さ 回 が 初めてであた。っ 翌四月
二日
から 歯 科 分 科 会 が 大 阪 府 立実業会 館開かれで' 参 加
者千五
百名は 分 科
会てとし
最 大の 規 模であっ た。ブラクッ は 祝 辞 の 中で 予 防 歯 科 学の 興 隆を 説歯科衛生婦(の頃はこき 衛生 士はと いっ て い な かっ た )の 活 用を 語ているっ。 次いで
三日
( 分 科 会 日 二 目 ) に は 歯 槽 膿漏病理おびのよ 療 法を奥 村 鶴吉の 通 訳で 講 演
し、
四 月 四日 大 阪 歯 科 医 学 専 門 学 校を 訪 問し た。
そ の 後は' 神
戸'
大 阪' 京 都' 東 京の 各 地で 歯 牙 中 心 感 染' 近 世 歯 科医 術、
歯 科 教 育なにど ついて 格 調 高い 名 講 演を 行なっ 東 た。
京では、 四 月 二 十
一日'
丸の内日 本 工業 倶楽 部で日 本 歯 科医師
会はじめ関連団体
十
あったが、四月二十三日'寸暇をさいて水道橋畔に偉容を誇る歯学の殿堂を表敬訪問した.守之助は、四月一日開会式
以来'日本歯科医師会会長としてホスト役を務めていたが'この日は校長としてブラックを迎え、校内を案内Lt校
長室で懇談したoA・D・Btackは、歓迎宴で堀切東京市長に守之助のことを「私の父G・V・Btackが米国で行なった
仕事を日本で実行している人」と評したぐらい好感をもって接していたから'いとも打ち解けた間柄であった。午後
守之助は、奥村'遠藤を伴い'ブラックを案内して巣鴨の小林富次郎邸を訪れた。小林邸では純日本料理で歓待した
ので、遠藤至六郎が辞書片手にゼソマイ、ワサビ'数の子'高野豆腐の説明に大わらわであった。守之助も一役買っ
て出でakindoへconsommeなどとお吸物の説明を試みた。
四月二十五日、ブラック夫妻は守之助らの見送りをうけ'龍田丸で帰国したが'朴訴な人柄は接する人々を魅了し
た。ブラックもまた守之助宛に龍田丸から、
「小生等の日本滞在中における如何なる時間も愉快そのものに有之候」と打電し、心から感謝の意を表わした。
このように'昭和五年の春は、病気やら来条の応接で多忙を極めて機会を逸したので'還暦の行事はその年の秋に
繰り越された.十一月1日'同窓会主催の血脇校長還暦祝賀会が赤坂山王下草楽で開かれた。
出席者四百五十名を前にして守之助は、
「教育、医政共に独りのよ‑する所にあらず‑‑」莞蘭として謙遜の口調で挨拶した。
また、学生会が主催する還暦祝賀式ならびに運動会は'芝公園グラウソドで開催され、校長家族を招待して盛大に
行なわれた。
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