- 1 - TCGC 名所旧跡探索(都心・山の手・島嶼)グループ・土曜コース 平成 24 年度第 5 回研修会(8 月 25 日)資料 研修テーマ:東京の原点「府中」を訪ねる ~古代以来の武蔵国の中心地としての府中を理解し、 江戸時代に於ける府中の存在感を知る~ はじめに 今年 5 月 23 日東京スカイツリーが開業、高さ 634mは、律令時代以降現在の東 京が属していた「武蔵国」にちなむことはあまりにも有名になりましたが、そ の武蔵国の政治・社会・文化の中心地は府中であり、大國魂神社は武蔵国の守 り神でした。そこで東京スカイツリー開業年の夏企画として府中を散策します。 「百聞は一見に如かず」、発掘された出土品等を見ることで府中が武蔵国の中心 地だったこと、また家康が江戸開府前から訪れ、開府後、隠居後も重要視した 土地だということを知ることが出来ます。江戸後期には周辺の名所・旧跡を 訪ねる旅が流行り、小金井の桜、国分寺、府中(国府)、多摩川は江戸から半日 ~1 日で来られる格好の周遊ルートでした。 府中市概略 府中市は東京都のほぼ中央に位置し、新宿から西方約 22kmの距離にあります。 遠く大化の改新後、武蔵国の国府が置かれ、江戸時代は宿場町として栄え明治 以降は郡役所が置かれるなど、多摩地域の中心として歴史的役割を担ってきま した。そのため府中には歴史ある寺社や旧跡などが多く残り、様々な伝統行事 が継承されています。 また、多摩川や湧水、武蔵野の豊かな自然に恵まれ、東京競馬場やサントリー ビール工場などは、おとなも子どもも楽しめるレジャースポットとして人気が あります。1954 年 4 月府中町、多磨村及び西府村の 1 町 2 村が合併し、人口約 5 万人の府中市が誕生、現在では 25 万人を擁する首都東京の近郊都市として発 展を続けています。なお、市の木は「けやき」、市の花は「うめ」です。 府中観光協会マスコット「古都見ちゃん」
- 2 - 馬場大門のケヤキ並木 馬場大門ケヤキ並木は大國魂神社の参道であり、江戸時代には並木北端(都立 農業高校付近、ケヤキ並木南端から 550m 余北)に大國魂神社の木製の一之鳥居 が建立されました。現在は昭和 26 年に寄進された大鳥居(二之鳥居)が境内に 建立されています。 1062 年、源頼義、義家父子が、前九年の役の戦勝祈願御礼としてけやきの苗 1000 本を寄進したことに始まると言われます。その後、徳川家康が関が原、大坂両役 の戦勝の御礼として馬場を献上し、けやきの苗を補植しました。現在、その江 戸初期のものが数本残っているほか、けやきが 152 本、楓などの老樹を含め、 合計で 200 本を越えています。枯れたけやきの上に桜が生えているものもあり ます。拝殿より並木に向かい旧甲州街道手前のけやきが最古で樹齢約 600 年で す。ケヤキ並木は大正 13 年天然記念物に指定され、現在もケヤキ並木として唯 一の国指定天然記念物です。くらやみ祭り期間の 5 月 3 日にケヤキ並木で夕方 から囃子の競演、競馬式(駒くらべ)が行われます。競馬式の馬は、以前は近 くの農家の馬でしたが、今は JRA 東京競馬場の馬だそうです。 源義家公像 源義家は、頼朝、義経の先祖にあたり、前九年、後三年の役で安倍貞任、宗任 と戦い、源氏の武威の最盛期を迎えました。京都の石清水八幡宮で元服したの で八幡太郎と称しました。 大國主命が府中の地を初めて訪れた時の「宿探し」の故事 大國主命は夜になっても宿を見つけることが出来ず、近くの農家に一夜の宿を 乞うも、断られました。二軒目に野口家を訪ねて一夜の宿を求めると、「当家は 目下お産の最中で取り込んでいますが、構わないならば、どうぞ」と大國主命 一行を迎え入れました。大國魂神社は 1900 年後の現在もこの故事を「野口仮屋 の儀」の神事として執り行っています。くらやみ祭りの 5 月 5 日 22 時頃、宮司 と神職一同は野口の仮屋に向かい、野口家の末裔のご当主の接待により、故事 に則って響膳勧盃(キョウゼン・カンパイ/ご馳走と酒を振舞うこと)の古式を 行います。現在の野口家の当主は、前府中市長の野口忠直氏です。 大國魂神社 起源は第 12 代景行天皇(日本武尊の父)41 年(西暦 111 年)5 月 5 日。2011 年で 鎮座 1900 年。主祭神は武蔵国の守り神としてお祀りされた大國魂大神です。 武蔵国の総社である大國魂神社には、武蔵国の由緒ある6つの神社の神様もお 祀りされています。府中に武蔵国の国庁(現・都道府県庁)があった時代、国
- 3 - 司(知事)には6つの神社を巡拝する職務がありましたが、交通機関がない時 代は大変なことで、国庁の近くに6つの神社の神様を合わせお祀りしました。 そのため大國魂神社は六所宮と称されました。現在東京五社のひとつです。 (東京五社:東京大神宮、靖国神社、大國魂神社、明治神宮、日枝神社) 武蔵国一の宮~武蔵国六の宮 一の宮 : 小野神社 (東京都多摩市) 二の宮 : 小河(二宮)神社 (東京都あきる野市) 三の宮 : 氷川神社 (さいたま市大宮区) 四の宮 : 秩父神社 (埼玉県秩父市) 五の宮 : 金鑚神社 (埼玉県児玉郡神川町) 六の宮 : 杉山神社 (横浜市緑区) ご本殿のうち、中殿(中央)は大國魂大神・御霊大神、武蔵国諸神 東殿(左手)に小野大神・小河大神・氷川大神、西殿(右手)に秩父大神・金 佐奈大神・杉山大神、それぞれの神々がお祀りされています。 源頼義・義家の親子や徳川家康にゆかりがある神社で、幕末には新選組局長 近 藤勇の天然理心流四代目襲名披露の野試合が行われました。 5 月のくらやみ祭は、武蔵国の五穀豊穣と国土安穏を祈る国府祭が起源の最大の 行事、7 月 20 日のすもも祭には五穀豊穣・悪疫防除・厄除の信仰をもつ「から す団扇(うちわ)」「からす扇子(せんす)」が頒布されます。大國様と八幡様が 出かけた時、八幡様が宿を探しに行って戻ってこず、大國様が「待つのはいや だ」といったという言い伝えから大國魂神社には松(待つ)がなく、府中では 正 月の門松にも松を使わない習慣が残っています。2009 年 7 月大國魂神社全域と 東側市道及び市史跡・武蔵国衙跡(当時)は国史跡に指定され、2010 年 3 月く らやみ祭が東京都指定無形民俗文化財に指定されました。 大鳥居 御影石製では日本一と言われています。 宮乃咩神社(みやのめじんじゃ) 祭神は天鈿女命(あめのうづめのみこと)。 当社は演芸の神、安産の神様として崇敬されています。創立は本社と同じ 111 年。源頼朝の妻、北条政子の安産を祈願した神社です。(北条政子の子供は頼家、 実朝です)。
- 4 - 相撲場 毎年 8 月 1 日、八朔相撲祭が行われます。1590 年(天正 18)8 月 1 日家康の江 戸入城を記念して天下泰平・五穀豊穣を祈る奉納相撲として始まりました。 鼓楼 その昔、時刻や緊急事態を知らせるための太鼓です。寺の鐘楼に対して、神社 では太鼓を置くから「鼓楼」と呼ばれます。慶長年間の造営の際、三重の塔と 相対して建設、1646 年の火災で焼失、約 200 年余後 1854 年再建されました。慶 長年間の造営は、家康が江戸開幕を祝し、六所宮の本殿を造営、それに伴い鼓 楼と三重の塔を建立したということです。 本殿 東京都の文化財 昭和 37 年指定 永承 6 年(1051)源義家 六所宮の南向きを北向きに改める(「源威集」) 治承 4 年(1180)源頼朝 六所大名神に参詣し神馬及び矢を奉納(「源平盛衰記」) 天正 18 年(1590)兵火により社殿をことごとく焼失 慶長 11 年(1606)家康の命により六所宮の造営を開始 正保 3 年(1646)府中大火で社殿・重要文書等焼失 寛文 7 年(1667)家綱の命により現在の社殿を建立 慶応 3 年(1867)老朽化の為大修理 昭和 43 年(1968)昭和 40 年 9 月の台風で崩壊したため大修理 銀杏 幹周 9.1m、樹高 23mで、麻布善福寺の次ぐ都内 2 番目の幹周です。 東照宮 徳川家康公歿後、駿河国久能山より下野国二荒山に霊輿を遷されたその途次、 この国府の斎場に一夜逗留せられたのでその遺跡を後世に伝える為 1618 年秀忠 の命により造営されました。 くらやみ祭 大国魂神社の例大祭は、4 月 30 日の品川海上禊祓(みそぎはらい)式から 5 月 6 日の神輿還御までの 7 日間に様々な神事がおこなわれます。くらやみ祭といわ れるのは、その昔、神輿渡御が深夜に街の明かりを全て消した暗闇の中で行わ れたためです。祭りのメインは 5 月 5 日。午後 6 時の花火の合図とともに、国 内最大級の6張りの大太鼓が地鳴りのごとく打ち鳴らされ、神輿渡御が行われ
- 5 - ます。8 基の神輿は、大太鼓と提灯の灯りに導かれ、神社本殿から御旅所(旧甲 州街道と府中街道の交差点)まで渡御されます。 武蔵国衙跡 大化の改新によって、武蔵国(現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部)がお かれ、府中にその政治の中心地「国府」が置かれました。国府の政務機関であ る「国衙(こくが)」の跡が 30 年余りに及ぶ発掘調査の結果、大國魂神社の境 内および、その東側一帯に存在していたことが確実となり、さらにその中枢施 設「国庁」とみられる大型建物跡が発見されました。この建物跡は最重要施設 として、史跡に指定されています。 武蔵国(一つの律令国)は現在の東京都のほぼ全域、埼玉県のほぼ全域、川崎市 と横浜市の大部分を占め、その国庁所在地(都道府県庁所在地)が府中市でし た。江戸に幕府が開かれるまで、府中はこの地域の中心地だったのです。 国庁→ 国司(知事)が勤める役所。 国衙の中にある施設の中で、中心となる施設で現代の「知事室」 国衙→ 役所の建物がある区画で、現代の「都庁舎全体」 国府→ 国庁のあるまちで、現代の「新宿副都心」 高札場 旧甲州街道と府中街道の交差点にあり都の旧跡指定。ここに 6 枚の高札が掲げ られました。この高札場に隣り合って、大國魂神社の例大祭の時、八基の神輿
- 6 - が渡御するお旅所があります。 甲州街道「府中宿」 旧甲州街道と旧鎌倉街道の交差点府中宿は甲州街道の宿場町で、江戸から約 7 里半、内藤新宿、高井戸、布田に続く 4 つ目の宿場で、「武蔵国の中心部」にあ り、非常に栄えた宿場でした。府中宿は新宿(しんしゅく)・本町宿・番場宿の 3宿で構成され、幕末ごろには飯盛旅籠 8 軒を含め 38 軒の旅籠があり、さらに 戦国時代から江戸初期、関東有数の軍馬の供給地で、馬市が開催されました。 参勤交代のほか、甲州からのぶどうや柿の運搬、江戸からの観光客で賑わいま した。 府中には、大國魂神社(国衙)を中心として、甲州街道のほか、府中街道(川越街 道に続く)、鎌倉(相州)街道、人見街道(杉並区大宮八幡神社を結ぶ)、小金井街 道、国分寺街道、品川街道(品川・六郷付近まで続いた古道で別名いかだ道。多 摩川上流で伐った木材をいかだにして流し、その後人だけこの道を戻った)、さ らに東山道武蔵道と新旧多くの道が集まっています。 中久本店 1860 年(万延元年)創業当時の酒蔵をそのまま利用した酒屋です。 府中の地酒「國府鶴」(こうづる)(大國魂神社の御神酒)を醸造、販売していま す。大國主命が宿を借りたという農家、野口家の現在です。 府中(家康)御殿跡 徳川家康・秀忠・家光が鷹狩りや多摩川で鮎漁を行った際に休憩や宿泊した施 設・府中御殿があったと伝えられていたため、イトーヨーカドー撤退後の 2010 年発掘調査が開始され、江戸時代初期の徳川家の家紋「三葉葵紋」が入った 鬼瓦の一部等が出土し、建物の跡も確認されました。 府中御殿は、家康が江戸城に入城した 1590 年に、家康が建てたと言われ奥州征 伐を終えた豊臣秀吉も府中御殿に招かれたと伝えられています。 1608 年 9 月 12 日家康が尾張清洲から江戸に来ますが、江戸城には入らず直接府 中御殿に入り、二代将軍秀忠が江戸城から府中御殿に出向いたとの記録があり ます。さらに 1611 年 11 月家康が忍(おし)(行田市)、秀忠が鴻巣滞在中、11 月 12 日駿府から徳川義利(注:義直。家康の九男。尾張徳川家初代藩主。)が 急病になったとの連絡が入り、13 日両者は河越(現・川越)で合流し、14 日 府中御殿に入りました。 このように江戸初期には、武蔵野を大御所(家康)や将軍(秀忠)が行き交い、 河越や府中がその中継点・たまり場になっていた様子が知られます。恐らくそ
- 7 - れぞれの立場から、関東の統治に関しざっくばらんな会話が交わされたのでし ょう。1616 年 4 月家康は 75 歳で亡くなり、翌 1617 年 3 月棺が久能山から日光 へ遷座される途中、府中御殿で 2 日にわたり法要が行われました。このように 由緒ある府中御殿ですが、江戸時代後期の文献によれば、1646 年大火で焼失し その後再建されることはありませんでした。今回の発掘調査では、出土した鬼 瓦や石組井戸周辺の土も赤く焼け、火事の痕跡が見られました。 <徳川家康が日光山に改葬されたルート> 1617 年 3 月 15 日、家康の霊柩は、久能山から日光山に移されるために出発しま した。富士山麓の善徳寺(15 日)、三島(16・17 日)、小田原(18・19 日)、中 原(平塚)(20 日)、府中(21-22 日)(『東武実録』によると府中に 23 日まで宿泊)、 仙波(川越市)(23-26 日)、忍(行田市)(27 日)、佐野(28 日)、 鹿沼(29-4 月 3 日)を通り、4 月 4 日に日光山の座禅院に到着したということ です。(江戸東京博物館) 府中崖線 府中崖線は多摩川と国分寺崖線の間に有ります。立川・国立市あたりから府中 を通り、小田急線の狛江付近までの約18kmにわたっています。崖線の南部 には多摩川沖積面が広がっており多摩川の流れが作った浸食跡が崖線として残 されています。府中市内では、ほぼ中央に府中崖線(ハケ)が東西に伸びてお り、崖線の上には「ハケ上(立川段丘)」、下には「ハケ下(沖積低地)」の地形 が広がっています。高さ数メートルの崖線(ハケ)沿いは開発から残されて緑 地が多く存在しています。ハケには湧水ができるため原始・古代より人々が住 みつき、文化や歴史が生まれます。武蔵国府もそんな府中崖線上に置かれまし た。国府へ向かう旅人は、しばしば氾濫する多摩川沿いを避けて、ハケ上の道 を辿って国府へ向かったことでしょう。水に恵まれたハケ下では稲作が行われ ていて、JRA 東京競馬場も元は田圃でした。水が豊富な府中は、古くから良馬が 育ったそうです。 下河原緑道(参考) 1976 年 9 月に廃線となった旧国鉄下河原線の跡地を利用して、甲州街道沿いに ある下河原線広場公園より南へと、自転車・歩行者専用道として整備したもので す。下河原線の前身は、1910 年多摩川の砂利運搬を目的に開通した東京砂利鉄 道でした(国分寺→下河原)。緑道の一部には、かつてこの道が鉄道であったこ とを示す 2 本のレールが、路面に埋め込まれて今も残っています。 なお当日、1933 年の東京競馬場開場に伴い、翌年(1934 年)「東京競馬場前駅」
- 8 - まで開設された(当初は競馬開催日に限り旅客運行)下河原線・廃線跡を通り ます。 下河原線は 1949 年より<国分寺→東京競馬場前>で常時旅客運行されていました が、1973 年、現・JR 武蔵野線の開通に伴い廃止となり、1976 年には残された貨 物線(国分寺→下河原)も廃止となりました。 サントリー武蔵野ビール工場 ユーミンの「中央フリーウェイ」の曲でもおなじみの 1963 年開設されたサント リー最初のビール工場で、都内唯一のビール工場です。 新田義貞公の像(分倍河原駅前) 新田義貞は鎌倉末期に活躍した鎌倉幕府を滅亡させた武将の一人です。 上野国(現・群馬県)の豪族でしたが、後醍醐天皇の命で元弘の乱に参戦、小 手指原の戦い(現・所沢市近辺)、久米川の戦い(現・東村山市近辺)で幕府軍 を破り、鎌倉街道上道(かみのみち)を南へ進み、分倍河原へ。分倍河原の戦 いで鎌倉幕府 14 代執権・北条高時の弟、北条泰家軍を撃破し、その勢いで多摩 川を越え相模国(現・神奈川県)に入り、挙兵からわずか 2 週間で鎌倉幕府を 滅ぼしました。その後新田義貞の名はあまり聞かれなくなりました。室町幕府 を築いた北朝方の足利尊氏に対して、建武の新政を支持する南朝方にいて南北 朝の動乱で敗れ、鎌倉幕府討伐の 5 年後に討ち死にしてしまったのです。 <参考出版物等> 「府中市の歴史」府中市教育委員会 府中観光協会各種パンフレット 府中の森博物館・資料 ふるさと府中歴史館・資料 江戸名所図会