秦国しんこくものがたり物 語(始皇帝の父親まで) 秦の王は、西方の騎馬民族だった。先祖が禹うとともに治水し、秦に封じられたという。 しかし実のところは周孝王の時代、馬を飼うのがうまかったため、農作物がなくて人口の 少ない秦の土地をあてがわれ、貴族にしてもらったのが秦である。中国は、最初の世襲王 朝である禹の夏、殷いん(商)、周と王朝が移り変わり、やがて宗主を周として、魯ろ、斉さい、晋しん、秦しん、 楚そ、宋、衛、陳ちん、蔡さい、曹そう、鄭てい、燕えん、呉ごという14 の都市国家に分かれた。これが春秋と呼ば れる時代である。それが戦争によって併合されたあと、中原の大国であった晋が、韓かん、魏ぎ、 趙 ちょう の三晋に分かれた。そして周を形式上の宗主とし、秦、魏、韓、趙、楚、燕、斉の七国 に分かれた戦国時代が始まった。これを戦国七雄と呼ぶ。燕は現在の北京にある小国で、 長城の隣は匈奴きょうどだった。秦は貧しい黄土高原で、函谷関かんこくかんにより周と接していた。このなか で楚と斉は広大な面積を持っていたが、斉も部下の田氏に乗っ取られ、王は交代していた。 斉は現在の斉南あたり、楚は楊子江のあたりで、現在の南京ぐらいにある。 ここに挙げるのは秦国の秦孝公→恵文君→武王→昭 襄じょう王→孝文王→庄襄王の秦王時代。 そして統一国家を作り上げた政(秦始皇帝)→胡亥こ が い(二世)→子嬰し え い(三世)と、秦国滅亡までの物 語である。秦国物語なので、個々の登場人物については、詳しい履歴を述べてない。 中国には、人間を女神の女媧じ ょ かが作ったという伝説がある。女媧が、黄土をこねて人形を 作り、それに生命を吹き込むと人間になった。こうして女媧は人間を作り続けたのだが、 それでは数を作れないので、最後には木の枝を泥水に浸し、それを落としてできた土の塊 を人間にした。だから人間には、美しい貴族、そして不格好な庶民ができたのだという。 こうして人間不平等の神話を作り上げた。 最後に女媧は、もっとうまい人間製造方法を考えついた。それは人間どうしを結婚させ て、子供を作らせる方法だった。こうして人間は土から作られ、死ぬと土に帰る。だから 人間の価値は、女媧の手作りなのか、それとも木の枝でつくった大量生産品なのかによっ て決まるとされていた。だから上等の人間である貴族や大臣が、農民や兵士をしいたげる のは、当時の世では当然のことだったのである。 一、帝国秦の礎(孝公と商 鞅しょうおう) 秦国は中原の西に位置し、政治、経済、文化が未発達で、土地も痩せて人口も少なく、 牧畜ぐらいしか産業がなかった。そのように未発達な秦だったから、秦は他国に夷狄い て きと見 なされ、魏に戦争をしかけられては、河西の領土を奪われてしまう。それは戦国時代にな ったとき、魏文侯が、魏国の社会制度を改革し、強い国家を作ったからだ。それに引き換
え秦は、紀元前476 年の厲れい公、躁公、簡公、出子までの90 年間(紀元前 385 年まで)、庶長 (官職名)の専横による国王の取り替え、内乱勃発などで国力が弱まり、戦争に負けて次々と 領土を魏に奪われた。 紀元前 413 年、魏は秦を攻めて鄭ていで破った。紀元前412 年、魏は秦を攻めて繁龐はんほうを占領 した。紀元前409 年、魏文侯は、呉起を将軍とし、秦国を攻め続けて、臨晋、元里、洛陰、 郃 こう を攻め取った。 このままでは滅びるしかない。そこで改革が必要だった。紀元前 385 年、秦献公が即位 し、秦国の社会改革をおこなった。そして紀元前366 年から紀元前 362 年にわたる韓魏連 合軍に対して、初めて勝利した。紀元前361 年、秦献公が死んだ。 秦献公が死ぬと、秦の孝公が即位した。若干 21 歳だった。孝公は、自分の領土を奪われ る状態を憂いて、秦を強化しようと考えた。それには秦献公の改革では、生ぬるいと感じ ていた。 そのころの秦国では、貴族が威張りくさり、自分が法だと言わんばかりに、勝手放題を していた。また痩せた土地なのに農民への年貢取立が厳しく、兵は貴族の下で働いて、兵 が敵を倒しても、兵の上司である貴族が手柄を横取りしていた。 こんな状態を改善しなければ、秦を強国にすることはできない。 孝公は、まず秦を改革するために、優秀な人材が必要だと考えた。そこで「秦国人であ れ、外国人であれ、秦に富をもたらし、強くした者には、金と地位を与えよう」と公布し た。そのため中原で就職できなかった多くの人材が、秦を目指してやってきた。 そのなかに衛国の貴族であった衛鞅がいた。彼は孝公に会わせてもらうと、「国に富をも たらすには、農業を保護しなければなりません。国を強くするには、兵に報奨を与えねば なりません。国家を治めるには、必賞必罰とすべきです。褒美を与えて、罰を下せば、政 府の権限は保たれ、改革がしやすいでしょう」と言った。 衛鞅の話を聞くと、孝公は賛同した。それでは、さっそく改革しよう。 しかし秦国の貴族と大臣達は、孝公が衛鞅の方法を採用することに反対した。その改革 は、農民と兵士の地位を高めることになるからだ。 孝公は衛鞅の改革を完全に支持したのだが、だれもが反対し、また自分も即位したばか りなので無理ができず、反乱が起きないよう、しばらく放置することにした。そして2年 あまりの歳月が過ぎた。孝公は、ますます改革の必要性を感じた。自分の王位が安定した ところで、衛鞅を左庶長の職にし、大臣達に言った。 「今日から制度改革のことは、すべて衛鞅に任せる。衛鞅に反抗することは、王に反抗 することである」 衛鞅が左庶長となった紀元前 359 年、彼は改革の草案を作って孝公に見せた。孝公も納
得し、それを秦国に新法として発布することにした。 衛鞅の心配は、貴族や大臣の抵抗だけではなかった。これまで法律のなかった国で、法 令を発布しても、国民が本気にするのだろうか? そこで彼は、南の城門に丸太を置き、張り紙をした。そこには、こう書いてある。 「法令。この丸太を北の城門へ移動させたものには、金十両を与える」 すぐに南の城門に人垣ができた。人々がワイワイ騒いでいる。 「こんな杭、誰だって動かせるわい。こんなものを、たった北門へ移動させるだけで十 両も払うバカがいるか?」 「たぶん左庶長の悪い冗談だろう」 「そうだな。これを運んだら、おおかた、引っ掛かったぁ!と喜ぶんだろう」 みんな集まって見ているだけで、誰も運ぼうとはしなかった。 衛鞅は、誰も運ぶものがいないと聞いて、彼は賞金を5倍にした。 「法令。この丸太を北の城門へ移動させたものには、金五十両を与える」 賞金が上がり、みんなは「そんなアホな」と騒ぎ始めたが、やはり運ぶものはいない。 すると男が人垣から現れ、「オレが担いでゆく」と、本当に運び出した。みんなは道を開 け、無邪気な子供のように笑いながら男の後をついて行った。 男が北門まで丸太を運ぶと、待っていた衛鞅が言った。 「君は、王の法律を守る善人だ。法律どおり賞金を与える」 男は、茫然として賞金を受け取った。が、しばらくして喜びに変わった。 取り囲んでいた人々も、やはり茫然と見ていたが、しばらくすると悔しがった。 みんな口々に「明日も丸太が出ていたら、ぜったいにオレが運んでやる」 この事件は、その日のうちに秦じゅうで噂となり、知らぬものはいなくなった。 「左庶長が言ったことは、絶対に間違いない。彼の命令は、本当だ」と人々は噂した。 次の日に、みんなは北門へ向かった。だが丸太はなく、張り紙があっただけだった。 誰も字を読めなかったので、そばに役人がいて読み上げた。内容は三つだった。 一、犯罪連座制。五軒を一伍、十軒を一什とし、一伍と一什は、互いに監督する。その 組のうち一軒が法を犯したら、他の九軒が告発する。告発しなければ、罪人と同罪である。 告発すれば、敵を殺したと同じく功績となる。各人に居民証を発行する。居民証がなけれ ば通行できず、宿泊もできない。 二、戦争による昇級。官職や地位に関係なく、手柄および殺した敵の数によって功績と する。敵一人を殺せば功一分とし、一級ほど昇級する。功績が大きいほど地位が高くなる。 田畑、住宅、馬車や馬、お手伝い、服などは、地位の等級よって決める。軍事上の功績が なければ、金があっても等級以上の生活をしてはならない。貴族も戦争の功績によって地 位が決まる。 三、農業の奨励。庶民で、食料や布を増産したものは、政府の強制労働を免除される。
商売をしていたり、怠惰なため貧乏なものは、妻や子供とともに政府へ入ってお手伝いを する。兄弟は成人したら分家し、戸籍を作って税金を払う。分家しなければ、成人ごとに 税金を取る。 新法の公布は、秦国に大きな変化をもたらした。まず軍事的に功績のない貴族や領主は 特権を失った。彼らは金があっても、たんなる金持ちに過ぎず、政治的には地位がない。 軍事で功績があれば地位がもらえ、うまくすれば領主になれる。ただし領主と言っても、 領地から税金を徴収できるだけで、領民を管理できない。 貴族が領主だった秦国は、そのときから地主制の領主へと変わった。こうした大きな改 革に対し、貴族領主は抵抗したものの、孝公は衛鞅を信任し、新法に反対する大臣を一人 ずつ処罰していった。 こうして3年が過ぎると、民衆は新法が良いものだと感じ始めた。生産量がアップし、 生活も豊になった。民衆が最も喜んだのは、生産量を上げれば政府の労働を免除されるこ とだった。人々は、農業生産や機織りを増やすことに文句はないが、兵隊に取られて家族 と離れ離れになることを嫌った。兵士たちも、良い待遇を受けたければ、敵を殺せばよい ので、誰もが勇敢な兵士になった。 衛鞅の新法によって、秦国は農業生産が増え、軍事力も強くなった。それにより魏国の 西部に攻め入って河西を取り返したばかりでなく、河東まで攻め入って、魏国の首都であ る安邑まで攻め上った。紀元前 350 年、強国だった魏国も、ついに秦と講和するしかなか った。秦の孝公は、さらに改革を進めるため、魏の恵王に譲歩して会見し、同盟条約を結 んで、河西の大部分と安邑を魏国へ返した。孝公は時間をかけて目的を達することにした のだ。魏の恵王は、秦の孝公を良い人だと考え、友達だと信じ、もう秦国が戦争しに来る ことはないと安心した。 秦の孝公は、改革の第一段階が成功したと思った。彼は、魏の恵王と同盟してから、衛 鞅に大規模な改革を実施させた。それは 一、阡陌せんばくと 封 疆ふうきょう:阡陌とは、戦車が通るための農村の道路である。春秋時代は戦車が多 用された。そのため東方の国々は、早くから田畑に道路が作られている。だから秦も、田 畑に道路を作るだけでなく、広大な阡陌を平坦にして作物を植える。封疆とは、貴族を領 主として分けられた国境や防衛のための土累、荒れ地、林、溝などである。こうした土地 を開墾して田畑にする。それは開墾した人の所有になる。田畑は自由に売り買いできる。 二、統治機構を作った:貴族領主が所有する領地以外は、県と呼べる地区がなかったの で、町や村を合併して、大きな県を作った。各県には県知事を置き、県全体のことを管理 させる。県知事には助役がおり、それを県 丞けんしょうと呼ぶ。県知事と県丞は、国家が直接任命す る。こうした国家が直接統治する地方機関は、全部で41 作られた。
三、咸陽かんようへ遷都せ ん と:東に発展するため、首都を雍 城ようじょうから東の咸陽へ移した。 こうした改革に、当然反対する人々はいた。噂によると一日のうちに七百人余りの改革 反対者を殺したため、渭河の水が赤く染まったという。 王子の教育係は、この改革は横暴だと感じ、快く思っていなかった。その影響を受け、 王子も改革を批判して守らなかった。それで衛鞅は困ってしまった。 衛鞅は孝公に「国家の法律は、例外なく守られねばなりません。もし上に立つ者が守ら ねば、庶民は国家を信用しなくなります。王子は法を犯しました。しかし王子に刑罰を科 すわけにはゆきません。これは王子の教育係の責任なので、教育係が刑罰を受けるべきで す」と言った。秦孝公は、衛鞅の意見に同意した。そこで王子の教育係を捕らえ、公子こ う し虔けんの 鼻を削ぎ落とし、公孫こうそん賈かは顔に刺青いれずみをした。この一件から新法を批判する大臣はいなくな った。 秦国は山地で、土地が広くて人口が少ない。隣国の三晋(魏、韓、趙)は、古くから発達し ていたので、人口は多いが土地は少ない。そこで衛鞅は、他国の農民が秦国へ来て農業を するならば、そのものに田畑と住宅を無料で進呈するという法律を作った。秦国は、本国 人には必ず兵役を科し、順番に徴兵したので、ますます兵力が増した。外国から来た人は、 農業と機織りを熱心にしていれば兵役を免れるのだ。また秦国の定規は長さがバラバラ、 計量カップも量がマチマチ、重さも統一されていなかった。そこで衛鞅は、全国の長さ、 容量、重さに基準を作った。このように全国一律に度量衡を決めることで、納税や商売に 非常に便利となった。 秦国は改革して十数年のうちに、豊かな強国になった。そこで周王朝の天皇は、秦の孝 公を王と認めて「方伯」に任命した。周王朝は、かつては中国の支配者だったが、そのこ ろには領地も小さくなり、象徴としての地位でしかなかった。周王朝は、地方の権力者を 王として任命することで、細々と象徴としての立場を守り続けていたのだった。中原の諸 国も、秦国が豊かな強国になったのを知り、西の夷狄扱いはやめ、王と認められたことを 祝辞した。そして天下統一を目指していた王達は、秦国が衛鞅を採用して強国に変貌した のを見て、自分たちも人材を探し始めた。 のちに秦孝公は、商の地一帯を衛鞅に与えて封建領主にしたので、衛鞅は商君と呼ばれ るようになった。のちの商鞅とは、小国衛から来た衛鞅のことである。 紀元前 338 年、秦の孝公は病死し、太子が即位した。それが恵文王である。恵文王は太 子の時に、衛鞅の改革に反対したため、太子の教育係が、鼻を剃られたり刺青をされた。 太子が即位すると、教育係の二人は勢力を盛り返した。そして衛鞅に恨みを抱いていた秦 の恵文王は、衛鞅に謀反の罪を着せて殺してしまった。しかし恵文王は、弱小国であった 秦を強国へと変貌させた衛鞅の改革までは取り消さなかった。
二、合 縦がっしょう(蘇秦そ し ん) この頃、蘇秦そ し んと張儀ちょうぎという二人の人物が、秦の天下統一に向けて動く。 蘇秦は洛陽らくようの人で、合縦論を唱えた。合縦とは、強大な秦国に対抗する、中国大陸を横 切る黄河の横線に垂直な連合という意味である。つまり戦国七雄のうち、秦を除く国が同 盟を結んだ。 蘇秦は鬼谷子き こ く しのもとで、張儀とともに弁論術を学んでいた。鬼谷子とは、鬼の谷に住む 先生という意味だが、鬼というのは幽霊のことだから、おおかた大勢が殺された谷に住ん でいたのだろう。 蘇秦は自分の弁論術を使って、どこかの国に仕官できさえすればよかった。まず彼は、 周天王のところへ行った。しかし周は宗主といえども実質的な力がなく、人材を登用して も意味がなかったので、だれも王に蘇秦を紹介してくれるものはなかった。 「やはり自分の弁論術は、発展する強国でなければ意味がない」 そう思った蘇秦は、天下一の強国である秦へと向かった。当時は戦国時代で、戦国七雄 が天下を取ろうと、虎視眈々と狙っていた。なかでも衛鞅の改革を取り入れた秦は、他の 国を凌駕して最強の国へと変貌していた。 蘇秦は「秦は強国なのだから、一つずつ七国を併合して、天下を取るべきだ」と主張し た。だが秦の恵文王は、衛鞅を殺した後でもあり、外国人を登用したくなかった。恵文王 は、蘇秦の話を聞き終わると、 「秦は、それほど強くはない。そんなこと、できるわけがない。先生の話は筋が通って はいるが、何年か準備して強国になったら先生の意見を取り入れましょう」と拒否した。 蘇秦は、拒否されても諦めずに長文の手紙を書き、他国の併合を進言した。だが恵文王 は、パラパラッと手紙を見ただけで、すぐに机に置いた。 それでも蘇秦は一年あまり辛抱した。だが家から持ってきた金も使い尽くし、服もボロ ボロになり、そのまま滞在していれば旅館や食事の金すらなくなる。帰るしかなかった。 蘇秦は帰宅したが、仕官して有名になろうという考えは捨て切れなかった。 「秦国がダメなら、他の六国へ行けばよい。利害を説いて説得すれば、一国ぐらい雇っ てくれるだろう。そのためには兵法だ」 各国が、兵法を学んだ孫臏そんびんを欲しがったことを蘇秦は知り、仕官したい一心で、兵法を 研究し始めた。本を読んでいて眠くなると、錐を自分の太股に刺して眠気を覚まし、勉強 を続けた。こうして蘇秦は姜太公の兵法を覚え、各国の地形や政治状況、軍事力を暗記し た。また諸侯の心理も研究し、以前のような失敗を繰り返さないようにした。蘇秦は十分 に勉強したと感じると、兄弟に「もう十分すぎるほど勉強した。もう手を伸ばしさえすれ ば、天下の富が手に入る。もし私に旅費を出して、私に遊説させてくれれば、私が官にな ったとき、必ず兄弟にも、いい目をみせてやる」と言って、姜太公の兵法や、各国の状況 を話して聞かせた。それを聞いて信用した兄弟たちは、蘇秦に旅費を出してやった。
蘇秦は、滅び行く天子の国、宗主国の周には二度と行かなかった。また自分の手紙を読 みもせずに捨てた秦の恵文王を憎んだ。秦は、外国人でも能力があれば気軽に登用すると いう噂だったのに、行ってみると相手にされなかった。 せっかく秦に天下を統一させてやろうと思ったのに、秦の恵文王は自分をないがしろに した。戦国七雄なら誰でも、チャンスがあれば天下を統一してみたいはずだ。 秦が天下を統一したくなければ、自分の生きている限り、秦には絶対に天下を統一させ てやるものか。 蘇秦は、さまざまな国へ行ったが、どこの国にも相手にされなかった。 紀元前 334 年、蘇秦は燕国へ行った。戦国七雄のうち燕国は、北の辺境にある最弱小国 である。国王の燕文公に謁見し、 「燕国は、二千里の土地を持ち、数十万の兵がいて、六百台の戦車があり、六千余りの 騎兵がいますが、西の趙国、南の斉国と比べると力不足は否めない。この数年で、趙国も 斉国も強国になった。しかし強い国は戦争ばかりしているのに、弱い燕国は平和だ。なぜ だか判りますか?」と言った。 燕文公が「判らない」と答えると、 「燕国は、秦国に侵略されないからです。趙国が秦国を防いでいます。燕国は秦国から 遠い。秦国が燕国を侵犯するときは、必ず趙国を通らねばなりません。秦国は、趙国を通 らずに燕国と戦争することができません。だが趙国が燕国と戦争するのは簡単だ。朝に兵 を進めれば、午後には着く。王が近くの趙国と仲良くせずに、遠い秦国へ土地を進呈する のは悪い方策です。もし王が、私の計略を使うのならば、まず隣国の趙と同盟を結んでか ら、中原の各国と同盟を結び、共同で秦国に対抗しましょう。そうすれば燕国は、本当の 平和を手に入れることができます」と蘇秦。 燕文公は、なるほどと思った。だが強国の秦と対抗するといっても、列国の心が一つに なるだろうか? 「では、まず私が趙国に行って、交渉してきましょう」と、蘇秦が言う。 そこで燕文公は蘇秦に、趙への贈り物、旅費、馬車、部下などを与えて、趙国と交渉し てくれるように頼んだ。 趙国の趙粛 侯しゅくこうは、燕国から客人が来たと聞いて、自分で会ってみることにした。 「わざわざ、おいで下さって、ごくろうでした。どんな用事ですか?」 蘇秦は言った。 「現在の中原各国では、一番強いのが趙国でしょう。だから秦国は、趙国を一番に滅ぼ したいはずです。だが、それはできない。なぜ秦国が趙国を攻めないのか? それは秦 国が趙国に兵を進めれば、西南にある韓国と魏国が、秦国へ攻め込む恐れがあるからです。 つまり趙国は、韓国と魏国によって秦国から守られているのです。しかし韓国と魏国は、 敵から国境を守る山も河もない。もし秦国の大軍が、韓国と魏国を攻めたら、とても守り 切れないでしょう。そうして韓国と魏国がなくなったら、趙国は秦国の大軍から国を守り
切れないでしょう。私は各国の地形と政治を細かく分析しました。すると中原各国の面積 は秦国の五倍あり、兵を合わせると秦国の十倍います。もし趙,韓,魏,燕,斉,楚の六 カ国が合同で秦国に対抗すれば、秦国に攻められることはありません。そうすれば今まで のように、各国が秦国へ土地を献上して機嫌を取る必要もないわけです。六カ国が、めい めいに土地を秦国へ進呈して戦争を避けようとするのは、決して良策ではありません。六 カ国の土地には限りがあり、秦の欲望は無限だからです。このままでは、秦が六カ国の土 地すべてを奪ってしまい、それぞれの国は滅びるでしょう。もし大王が諸侯と義兄弟にな って同盟すれば、秦が、どの国と戦争しようが、他の五カ国も一緒になって戦います。孤 立した秦国だけでは、連合した六カ国を敵に回して戦争するわけにゆきません。やはり我々 は他国と会議を開き、共同して秦と対抗する策を相談すべきでしょう」 趙粛侯は、蘇秦の同盟計画を聞いて、なるほどと思った。 「あなたの計画は、趙国を守ることになる。それでは趙国の総理大臣になって、その同 盟計画を進めてください」 そういうと趙粛侯は、趙国の総理大臣印鑑を蘇秦に渡し、さらに百台の馬車、千斤の銅 銭、百の宝玉、千反の絹を与えて、各国と交渉してくるように頼んだ。 蘇秦は、趙国の総理大臣になった。一国の総理大臣ならば、どの国も必ず相手にしてく れる。今までのような個人と違い、他国の総理大臣を相手にしなければ戦争になることも 覚悟せねばならない。これまで秦国は、難癖をつけて各国の領土を少しずつ奪ってきた。 また衛鞅の改革を続行しているのも、富国強兵にして天下を統一しようという野望がある からに他ならない。これからは本格的に、秦への恨みを返すことができる。 蘇秦は、天にも昇る気持ちだった。ただちに韓国と魏国へ出発しようとした。 ところが出発しようとしていた矢先、趙粛侯に呼ばれた。 「たった今、国境から報告があって、秦国が魏国へ侵攻し、魏国が負けた。魏王は秦国 に降参し、河北の城を十ほど秦国へ譲ると約束した。もし秦国が、ここまで攻めてきたら どうしよう」 蘇秦は驚いた。もし秦国が趙国へ攻め入れば、趙国も魏国のように領土を渡して講和す るだろう。そうなったら秦国への恨みを晴らせない。蘇秦は勤めて平静を装って言った。 「秦国の兵は、魏国と戦った後です。疲れ切っているので、すぐには趙国へやってこな いでしょう。もし来たら、私にも兵を引き下がらせる方法があります」 「もしそうであれば、他国へ行くのは延期してください。秦国の兵が来なければ、その とき交渉に行ってください」と、趙粛侯が言う。 蘇秦は留まるしかなかった。趙粛侯に、ただちに敵を防ぐ準備をするように伝え、自分 は官邸へ帰った。 官邸に帰って、いろいろ考えた。そしてついに同級生の張儀を使うことを考えついた。 だが張儀は、非常に利口な人だった。そう簡単に、蘇秦の思い通りに動いてはくれない。
そこで策を練った。 三、秦の領地拡大(張儀) 張儀は、魏国の人だった。やはり鬼谷子について政治を学んだ。そして魏国の魏恵王の ところへ行ったが、国王は採用しなかった。そこで妻を連れて楚国へ行き、楚威王と会お うとしたが、王は会ってくれなかった。ついに楚国の総理大臣である昭陽のところへ行き、 そこの居候になった。 ある日、昭陽は客人や家臣と一緒に、池のほとりに建てた日除けで酒を飲んでいた。す ると客人の一人が、 「大臣は、国王から天下の国宝である『和氏璧か ず し へ き』を戴いたそうですな。我々にも『和氏 璧』を見せていただけないでしょうか?」と言った。 そこで昭陽は家臣に『和氏璧』を持ってこさせ、その場にいた客人に手渡しながら見せ ていた。そのとき池の鯉が跳ねた。みんなが池を見つめた。鯉は次々に跳ねた。しばらく すると黒雲が湧き、今にも雨が降り出しそうになった。昭陽は、あわてて客人に、家へ入 るように言った。その混乱のなかで『和氏璧』が見えなくなった。昭陽は腹を立てたが、 客人を責めるのも気がひけたので、そのまま客人を帰らせた。しかし居候達が隠してない かと疑った。 昭陽の家臣が言った。 「張儀は貧乏だから、『和氏璧』を盗んで売ろうとしているに違いない」 そこで昭陽は、張儀に白状させるように家臣へ命じた。張儀は、棒で何百回も叩かれた が白状しなかった。身体中を叩かれた張儀が気絶した。昭陽は、張儀が死んだと思って引 きあげた。張儀に濡れ衣を着せた家臣は、息絶え絶えになった張儀を家まで送った。 張儀の家では、妻が張儀のボコボコにされた姿を見て泣いた。 「あなたが私の言うことを聞かないから、こんな姿になってしまった。仕官しようと思 わなければ、こんなことにはならなかったのに」 張儀はウンウン唸りながら尋ねた。 「俺の舌は、まだ残っているかい?」 「バカね。人にボコボコに殴られて、まだ冗談言うの? ちゃんと舌は付いてるわ」 張儀は 「よし、舌さえ残っていれば恐くない。おまえも安心していいぞ」 と言った。しばらく養生してから張儀は魏国へ帰った。しかし、このときの恨みから、 張儀は楚国を滅ぼしてしまう。 張儀が魏国へ帰って半年もすると、かつての同級生だった蘇秦が趙国の総理大臣になっ
たことを知った。そこで蘇秦を尋ねて、仕官の推薦をしてもらうことにした。 ちょうど玄関に商人が来たので、張儀が出て行って尋ねると、彼は趙国から来たことが 判った。その商人は賈舎人か し ゃ じ んという名前だった。張儀が質問した。 「噂では、趙国の総理大臣は、蘇秦というそうだが、本当か?」 賈舎人は答えた。 「先生は、何という名前なのですか? まさか我国の総理大臣と知り合いではないでし ょうに」 「私は張儀という。大臣と友達で、同級生だった」 賈舎人は喜んだ。 「失礼、失礼。実は、我々は大臣の家の者ですよ。あなたが大臣に会いに行けば、きっ と大臣も喜ぶでしょう。もしかすると仕官に推薦してくれるかもしれません。私の商売は、 ここで終わりです。帰らねばなりません。もし先生が私を信用してくれるなら、馬車は用 意してあります。私と道連れになって一緒に帰りましょう」 張儀は喜んで、一緒に趙国へ向かった。 かれらは街はずれに到着した。中国の都市は、敵から守るために街の周りを城壁が囲ん でいた。街の中には都会人が住み、城壁の外には農民が住んでいた。 その城壁から入ろうとしたとき、賈舎人が言った。 「私は城壁の外に住んでいます。ここで、お別れせねばなりません。大臣の官邸から近 い街に、粗末な宿屋があります。東に大きな木があるので、すぐ見つかります。先生が街 へ入ったら、そこで泊まっていてください。私は暇を見つけて、必ず伺いますから」 張儀は賈舎人に感謝し、一人で城壁の中へ入っていった。 翌日、張儀は蘇秦を尋ねて行った。だが誰も取り継いでくれなかった。そうしたことが 続いた五日目、やっと門番が奥へ取り継いだ。そして帰ってくると 「今日は総理大臣は特に忙しい。大臣は先生の住所を書いてもらえという。後で人を迎 えに寄越すらしい」 張儀は住所を残し、宿屋に戻って待つしかなかった。しかし何日過ぎても、何の便りも なかった。 蘇秦は偉くなったら、張儀のことなど友達とも思ってないようだ。 張儀は腹を立て、宿屋の主人に事情を話し、話し終えると帰ろうとした。しかし主人は 「あんたは、大臣が人を迎えに寄越すと言ったじゃないか! もし迎えが来たとき、あ んたがいなければ、どこを捜せばいい? 数日どころか一年半でも、あんたを帰らせはし ないよ」と言う。そこで張儀は主人に、賈舎人の住所を尋ねたが、彼は何も知らなかった。 そうこうして数日が過ぎ、張儀は再び蘇秦を尋ねた。蘇秦の門番が「明日会う」と伝え た。そのとき張儀は旅費を使い果たし、服装も季節外れのものとなっていた。大臣に会う のだから、少しはまともな身なりをしなければならない。張儀は主人から服と帽子を借り
ると、次の日に官邸へと出向いた。張儀は、門で蘇秦が待っていると思い込んでいた。だ が門は閉められ、門番は潜り戸く ぐ り どから入るようにいう。張儀は、背を丸めて潜り戸から入っ た。張儀が奥へ入ろうとすると、家臣たちが呼び止めた。 「大臣の公務は終わってません。ここで待っていてください」 張儀は廊下で待たされた。上を見ると、何人かの役人が蘇秦と喋っていた。なかなか話 が終わらないが、終わると次の一団がやってくる。張儀は立ち続けて足が怠くなった。昼 になっていた。気分が悪くなってきたとき、二人の家臣が声を上げた。 「張先生、どうぞ」 「大臣が呼んでいます」 張儀は、服装を整えて階段へ向かった。きっと蘇秦は、駆け寄ってくるだろう。 しかし蘇秦は腰掛けたまま動かなかった。張儀は階段を駆け上がると御辞儀した。 蘇秦は、ゆっくりと立ち上がると「何年も会わなかった。元気か?」と聞いた。 張儀は、怒って答えなかった。 「昼食です」と家臣が告げた。 蘇秦は 「公務が忙しくて、長いこと待たせてしまった。ここで簡単な食事だが済ませてくれ。 私のほうは、まだ君と話がある」 そういうと家臣が張儀を連れていった。 張儀は部屋から追い出されて庭へ座らされ、出された食事は青菜と麦御飯だけだった。 部屋の蘇秦を見ると、山海の珍味がテーブルの上に並んでいる。張儀は、こんな扱いを受 てまで食べたくなかったのだが、空腹には勝てなかった。 食事が終わってしばらくすると、 「張先生、どうぞ」と呼ばれた。 張儀が部屋に上がると、蘇秦が尻を動かしているのが見えた。張儀は耐え切れず 「季子り しよ!私は君を友達だと思って遠くからやって来た。だが君は、僕を友とは思って ない。同級生だったことも忘れてしまっている。君は、本当に無情な奴だ」と言った。 蘇秦は笑いながら 「君は才能が僕より上だと言った。そして君が先に鬼谷子のところから出た。しかし、 そんな惨めな境遇になろうとは思わなかった。僕は君を国王に推薦したりなんかしない。 君は、あれこれと迷うから何一つできない。そうなると僕まで巻きぞえを食う」 張儀は顔を真っ赤にして、 「私は富が欲しければ自分で稼ぐ。君の推薦なんかいらない」と言った。 蘇秦は、薄笑いを浮かべながら 「じゃあ君は何しに来たんだい? わかった。同級生のよしみで金をやろう。好きなよ うに使うといいさ」 そういうと家臣が張儀に、十両の金を渡した。張儀は、金を地面に叩きつけると出てい
った。蘇秦は頭を振っていたが、張儀を引き留めなかった。 張儀が旅館へ帰ると、自分の荷物が外へ運び出されていた。張儀は尋ねた。 「どうしたんですか?」 主人は、うやうやしく 「先生は大臣に会われたのでしょ? とうぜん役人になったはずだ。こんなところに住 めますか!」と言った。 張儀は頭を振りながら 「本当に腹が立つ。こんなことがあるのか」 そう言いながら、主人から借りた服や靴、帽子を脱いで返した。 「どうしたんですか?」と、主人。 張儀は、今日のことを簡単に説明した。主人は 「同級生ではなかったのですか? 先生は、少し身分違いの人と付き合おうとしたので すね。だが金は持ってくるべきだった。ここの部屋代、食事代も、ツケが溜ってるんです よ!」 部屋代や食事代のことを持ち出されると、張儀は、どうしてよいやら判らなくなった。 ちょうど、そのとき賈舎人がやってきた。そして張儀を見ると、 「このところ忙しくて、あなたに会いに来られなかった。ほんとうに申し訳ない。総理 大臣に会われましたか?」と言う。 張儀は、うなだれて 「ふん。あんな冷酷な奴のことなんか持ち出すな」 賈舎人は茫然ぼうぜんとして 「どうして先生は、彼を罵るのですか?」と聞く。 腹を立てて口も利けない張儀に代わって、主人が事の次第を説明した。そして 「もし先生がツケを払わず、家に帰っても金がないのでは、こんどは俺が困ることにな る」と付け加えた。 賈舎人は、張儀と主人の困り切った顔を見て、自分も気分が沈んできて、頭を掻きなが ら張儀に言った。 「もともと私が余計なことを申し上げて、ここに先生を連れてきたのです。だが、その ことで先生に迷惑をかけてしまいました。おわびに宿屋の代金は私が払い、先生を家まで 送りましょう。それでよろしいでしょうか?」 張儀は 「そんなことができようか? それに家へ帰っても会わせる顔がない」 しばらく張儀は黙っていた。 楚国では死にそうな目に会い、ここでは昔馴染みに邪険にされる。彼は復讐する方法を 考えていた。蘇秦は趙国を守るために同盟軍を作った。では自分が崩してやろうじゃない か!だったら秦国へ行って、次々と同盟国を離反させてやる。
「秦国へ行ってみようと思う。だがしかし……」 秦国は辺境の地で、山国であり、その道は険しかった。 すると賈舎人が口を開いた 「えっ、先生は秦国へ行きたいのに供がない。ちょうどよかった。私も秦国へ行くので す。秦国の親戚に会ってこようと思うのです。一緒に行きましょう。そこに馬車も用意し てあります。それに旅費だって要りません。互いに助けになるでしょう」 それを聞いて張儀は感激した。 「世の中には、こんなに義理固い人だっているんだ。蘇秦に爪の垢でも煎じて飲ませて やりたい」 賈舎人は宿屋の精算を済ますと、馬車に乗って西へ向かった。そして秦国に着くと、賈 舎人は役人に賄賂わ い ろを掴ませ、張儀が国王に謁見できるようにしてやった。 そのころ秦の恵文王は、外国人だという理由で蘇秦を追い払ったことを後悔していた。 蘇秦は、最初に「秦に天下を取らせてやる」と約束した。だが秦恵文王は、蘇秦など必 要ないと追い返した。秦恵文王は、強大な秦国の軍隊をもってすれば、他国は簡単に次々 と降参するに違いないと思っていた。確かに、その通りだった。だが自分の追い出した蘇 秦が、同盟関係の盟主となって秦国に対抗してきた。それでも秦国は、他国に戦争を仕掛 け、「どの国の軍隊であろうと、秦国軍に対して攻撃した軍隊があれば、その国から攻撃す る」と公言していた。それまでは、どの国を攻めても、秦国が恐くて、誰も攻撃しなかっ た。しかし蘇秦が同盟を結んでからというもの、それまでは近くで見ていただけで戦いを 挑んでこなかった他国の援助軍も、本当に秦国軍を攻めるようになった。秦国軍は、救援 軍に攻められるとは思ってなかったので、初めて大敗した。それからは秦国が脅しても、 領地を献上する国はなくなった。こんなことなら蘇秦を登用すべきだった。 すると今度は張儀が来た。家臣も人材だと推薦している。秦恵文王は、家臣が賄賂をも らって推薦していようとは思わないので、すっかり採用する気になっていた。 そして張儀は、秦国の外国人官僚になった。まず何よりも賈舎人に礼をしなければ。 すると折よく、賈舎人が別れを告げにきた。張儀は、目に涙を溜めながら 「私が不運だった頃、誰も私を相手にしなかった。あなただけが私の親友だ。あなたに 何度も助けられた。そうでなければ今の私はなかっただろう。これでやっと、いい生活が できるというのに、どうして帰ると言うのですか!」と聞いた。 賈舎人は笑いながら 「もう嘘は終わりにします。本当のことを言うと、先生の親友は、私ではない。蘇秦大 臣なのです」 張儀は、さっぱり訳が分からないという様子で 「それは、どういう意味かな?」と尋ねた。 賈舎人は、人に聞かれてはマズイというようすで、耳を貸してくれというと 「大臣は、中原各国を同盟させようと計画していますが、秦国が趙国を攻めて、この同
盟計画が失敗するのを心配しています。そこで大臣は、自分の信頼できる人物を秦国へ派 遣し、秦国をコントロールしようと考えたのです。大臣の信頼できる人は、先生のほかに なかった。秦国を掌握する能力を持ち、また王の信頼を得られるような人材は、そう簡単 には見つかりません。大臣は、自分の同級生だった貴方に見当をつけたのです。そこで私 に商人の格好をさせ、先生を趙国に連れてこさせたのです。大臣が先生を推薦することも できたのですが、それでは先生が大臣の部下になってしまう。親友が部下になって上下関 係となり、友人関係が崩れてしまうことを大臣は恐れたのです。そこで大臣は、先生に憎 まれようと計画しました。そうすれば先生は、大臣に敵対するため、絶対に秦国へ行くは ずです。また秦国だって、趙国の大臣に支援された人物など信用しません。先生は何とか して秦国に登用されるように頑張り、また先生が登用されるよう、私は国王周辺の大臣達 に賄賂を送りました。そうして秦王が、絶対に先生を登用するよう、大臣たちの推薦を取 りつけたのです。私は大臣の居候です。今、すべては終わりました。私は帰国して大臣に 報告せねばなりません」 それを聞くと張儀は、あっけにとられていた。しばらくして深い溜め息をつくと 「あーあ、私は自分を頭の切れる人間だと思っていた。だけど今まで、ずーっとだまさ れ続けていた。私など、季子の足元にも及ばない。あなたが帰国したら、私が季子に礼を 言っていたと伝えてください。そして季子が生きている限り、秦王は絶対に趙国を攻める ことがないと伝えてください」 賈舎人は帰国すると、蘇秦に首尾を報告した。そこで蘇秦は趙粛侯に 「これで秦国は、絶対に趙国を攻めることはないでしょう。では各国の諸侯に会ってき ます」と言った。 趙粛侯は同意して、蘇秦に金銭と馬車、そして部下を与えて各国へ旅立たせた。蘇秦は 韓、魏、斉、楚へ出向き、領地を秦国へ提供して和平を求めることの不利益、そして連合 して秦国と対抗する利点を丁寧に説明した。一国ずつ説得し、六国の連盟ができあがった ので、蘇秦は趙国へ帰った。帰国すると、趙粛侯は蘇秦に領地を与え、武安君という貴族 に昇格させた。そして趙粛侯は、斉、楚、魏、韓、燕の五ケ国に使者を送り、趙国の洹水えんすいで 会合を開くように約束した。 紀元前 333 年、蘇秦と趙粛侯は洹水へ行き、諸侯を招待する準備をした。五日ほどの間 に、諸侯は続々と集まってきた。蘇秦は各国の家臣と席順を相談した。楚国と燕国は昔か らある国で、韓、趙、魏は晋が分かれた国、家臣の田常が簡公を殺して乗っ取った斉も、 王が代わった新しい国だった。また国の大きさでは、楚、斉、魏、趙、燕、韓となる。そ のなかで楚、斉、魏は、周の天子が王と認可したが、趙、燕、韓は諸侯なので身分が違っ ている。これでは対等な関係として同盟を結べそうにない。そこで蘇秦は、全員を王と呼 ぶことに決めた。趙王が発起人なので、盟主として上座、そして国の大きさ順に並べた。 各国の国王も納得した。
会議が開かれると、各国の国王は席に着き、蘇秦は演説台に上がると 「お集まりの六ケ国の王は、広大な領地を持ち、人口も多くて、兵力もある。それなの に秦王にペコペコして、何の理由もなく自分の領地を少しずつ差し出したいのか?」 国王たちは、一斉に首を振る。 「同盟を結んで秦国に対抗する計画は、すでに話した通りです。これから皆で同盟を結 び、兄弟となって、互いに助け合いましょう」 君主たちは同盟を天地に誓い、六枚の契約書を作って、各国が一枚ずつ受け取った。 趙王が 「蘇秦は六ケ国を奔走して、同盟を結ぶために働いた。我々は彼にポストを与え、同盟 を管理してもらったらどうだろうか?」と提案した。 残りの五ケ国の王も全員が賛成し、蘇秦を「同盟委員長」にして、六ケ国の総理大臣印 鑑を蘇秦に渡した。すぐに蘇秦は地面に正座し、王達に礼を述べた。六人の王達は、喜び のうちに帰国した。 紀元前 318 年、楚、趙、魏、韓、燕の五カ国連盟軍は、函谷関へ行き秦軍と戦った。 これを聞いた秦王は、秦国の総理大臣である公孫こうそん衍えんに 「六ケ国が一つになったので、秦国には発展する可能性がなくなった。なんとかして同 盟を壊さねば」と相談した。 公孫衍は 「同盟は、趙国が音頭を取りました。まず大王は趙国に戦を仕掛け、どこかが助けにき たら、そこの国から攻撃しましょう。六ケ国の諸侯に、秦国の恐ろしさを判らせれば、ど の国だって秦軍と戦うのを恐がります。そうすれば彼らの同盟関係なんて、あっというま に壊れてしまいます」と答えた。 それを聞くと張儀が反対した 「六ケ国は同盟を結んだばかりで、やる気満々です。すぐには壊れないでしょう。もし 秦国が趙を攻めて、楚、斉、魏、燕、韓が共同で助けにきたら、いったいどうするのです? 厳しく対処するほど相手は恐がります。恐ければ、ますます一緒になって抵抗しなければ なりません。そんなことをするよりは、もう少し頭を使うべきです。例えば同盟国の一部 と仲良くします。そうすれば彼らは、一部の国が敵に通じているのではないかと疑いを抱 きます。内部で疑惑が起きれば、必ず同盟関係は崩れるでしょう。秦国と一番近いのは魏 国で、一番遠いのは燕国です。つまり魏国から奪った城を、いくつか魏国へ返してやるの です。そうすれば魏国は感激し、秦国と友好を結ぶでしょう。そして燕国の王子に大王の 娘を嫁にやれば、秦国と親戚になります。こうすれば秦国が孤立することはないでしょう。 まず近くと遠くの両国を仲間にすれば、後のことはうまく行きます」 秦王は、公孫衍の外部から攻める方法と、張儀の内部崩壊を狙う方法を比較した。
張儀の言い分ももっともで、外部の敵は結束を強める可能性がある。やはり内部崩壊を 誘ったほうが得策だ。 そこで張儀の策を採用し、趙国を攻めるのは止めて、魏国と燕国を仲間にすることにし た。魏国は城を返してもらえ、燕国は大国秦と親戚になる。おいしい話しだ。両国は秦国 と仲良くなった。張儀も、秦国に趙国を攻めさせない約束を守ることができた。 四、蘇秦の最後 同盟国の一部が秦国と友好を結んだことを趙王が知ると、同盟委員長の蘇秦を呼びつけ て怒鳴った。 「おまえが勧めた六ケ国同盟は、一年もしないうちに魏国と燕国が秦国に引き抜かれた。 もし今、秦国が趙国に攻めてきたとしたら、いまも両国は趙国を助けるだろうか? 同盟 は信用できるのか?」 それを聞くと蘇秦は焦った。方法を考えないと蘇秦は終わりだ。 「わかりました。では燕国に行き、そのあとで魏国へ向かいます。両国を何とかしまし ょう」と蘇秦が答える。 蘇秦が燕国へ到着したときには、燕文公は死んでおり、息子の燕易王えきおうが即位していた。 燕易王は蘇秦に会うと、総理大臣としての蘇秦に御辞儀した。燕国の総理大臣を引き受け ることは、簡単なことではなかった。燕易王は、蘇秦に頼ったのだ。 というのは燕の東南にあった強国斉が、燕文公が死去したチャンスに攻めてきて、十個 の城を奪ったからだった。 蘇秦は六カ国同盟を結んだとき、各国の総理大臣の印鑑を預かったが、それは各国の総 理大臣としての地位を意味する。 燕易王は、総理大臣としての蘇秦を頼って 「あなたの話は、先王から聞かされていました。同盟して秦国に対抗し、六カ国は仲良 くして互いに助け会う。それには賛成ですが、先王の葬式も終わらぬうちに、斉国は燕国 から十の城を奪ったのです。いったい同盟は意味があるのでしょうか。あなたは同盟委員 長です。どうにかしてください」 蘇秦は、燕国と秦国の結婚を詰問しに来たのだが、こうなっては、この問題を先に解決 するため斉国へ行かなければならない。 「では私が斉国へ行って、十個の城を取り戻してきましょう」 蘇秦は斉国へ着くと、斉威王に 「燕王は、大王と同盟国であり、また秦国の娘婿です。大王は、たかが十個の城のため に彼らと仇になってしまった。目先の利益のために大きな目的を失うのでは、あまりにも
もったいない。もし大王が私の計略を採用して、十城を燕国へ返せば、燕王は大王に感謝 し、秦国も喜ぶでしょう。斉国が隣国の燕、そして強国の秦に信用され、彼らに後押しさ れれば、斉国は必ずや天下を統一するでしょう」と言った。 それを聞いて、斉威王は喜んだ。 なぜ斉国は燕国を攻め、同盟関係を壊したのか? もともと斉国は大国で、西国の秦国から遠く離れた東の果てにあるため、秦国に侵略さ れることもなかった。秦国と斉国の間に、昔の晋国であった韓、魏、趙があったからだ。 だから六カ国同盟に参加する必要はない。では、なぜ同盟に参加したのか? それは強国の斉が天下を統一するためには、同盟を利用してリーダーになったほうが早 道と考えたからだ。ところが小国の趙が同盟のリーダーになった。これでは斉威王は納得 がいかない。斉と秦は、勢力が拮抗している。西国の秦は、六カ国を併合して統一しよう との野望をもっているが、東国の斉も同じである。 斉威王は、蘇秦の話を聞いて、十城の見返りに天下を取ったほうが得策だと考えた。す ぐに蘇秦の意見を受け入れて、燕国に土地を返した。 燕易王は、蘇秦が口先一つで十個の城を取り返してきたのを見て喜んだ。しかし日増し に蘇秦の名声が高まり、蘇秦の勢力が強くなってくると、燕易王は不安になってきた。そ れというのも大国の晋が、以前に強い勢力を持った家臣に乗っ取られ、王位を奪われたう え三晋に分裂したり、また斉国では有能な総理大臣が王位を奪ったことを知っていたから だ。蘇秦に人望が集まると、王位を奪われると心配したのだった。しかし大国の晋や斉な ら王位も欲しかろうが、小国燕の王位を奪うつもりは、蘇秦には全く無かった。蘇秦は燕 易王の不安を感じ取ると、言った。 「ここに私がいても燕国の役には立ちません。斉国へ行ったほうがいいでしょう。そこ で斉国の大臣をしながら、裏では燕国の便宜を図りましょう」 燕易王は 「どうぞ、好きなようにしてください」と言った。 蘇秦は、燕易王に罪を着せられ、もう燕国にいられないような風を装って、斉国へ逃げ てきた。斉威王は蘇秦を利用しようと思い、彼を外国人の役人とした。 しばらくすると斉威王が死に、彼の息子が斉宣王となった。 蘇秦は、六カ国が秦国を恐れるから同盟が成立するのであって、同盟国のなかに秦国と 匹敵するような強国があると同盟の障害になると考えていた。そこで斉国の力を、他の同 盟国並みに弱めようと考えた。幸いに斉宣王は若く、頭も回らなかった。彼は、女好きで 貪欲だった。 蘇秦は、新王を使って斉国を弱めることを考えた。そこで家臣を派遣して、各国から美 女を捜し集めるとともに、豪華な宮殿と花園を建設し、それを賄うため国民に重税を科し た。また亡き先王への孝行という名目で、斉国の国費と労力を使い、斉威王の巨大な墓を
建造した。こうして斉国は、みるみる疲憊ひ へ いしていった。 こうした蘇秦のやり方は、斉宣王に見破られることはなかったが、先王の斉威王に信任 されていた田文、つまり孟嘗君はだまされなかった。孟嘗君は刺客を差し向けて、蘇秦を 殺してしまった。 蘇秦が死ぬと、蘇秦の手下により、燕王のため斉国を疲憊させようという陰謀が明らか になった。斉宣王も蘇秦にだまされていたことが判り、斉と燕は再び仇どうしになった。 紀元前 314 年には燕国で内乱が起こり、そのチャンスに斉宣王は燕国を攻めて燕王を殺 したので、危うく燕国は滅亡するところだった。そして斉の勢力は拡大した。それだけで なく斉国は、南の大国である楚国と同盟を結んだ。こうして斉と楚の両大国に同盟を結ば れると、秦国だけでは天下を統一することができなくなった。 蘇秦が死んだので、いよいよ張儀が本領発揮する番だった。張儀が秦国を中心に、国家 を西から東へと連合させるためには、どうしても斉と楚の同盟関係が障害になる。そのこ とを張儀は秦恵文王に説明すると、楚国へ向かった。 五、張儀の活躍と死 戦国七雄のうちで、もっとも大国だったのは秦、斉、楚だった。韓、魏、趙は大国の晋 が3つに分かれたものだから、一国あたりの面積は小さく、北の辺境にある燕国は人口も 面積も小さかった。だから秦と斉には天下を統一する力があった。斉と楚が、手を組んで しまったので、張儀は同盟を壊して障害を取り除くことにした。 張儀が楚国へ到着したころは、以前に張儀が楚国に住んでいたときの楚威王い お うは死に、息 子が即位して楚懐王かいおうに代わっていた。楚懐王は、張儀が秦国の総理大臣だと聞いており、 また「和氏璧」事件を知っていたので、きっと張儀が仕返しに来たに違いないと思って心 配していた。すると張儀がやってきたので、ねんごろに接待した。 張儀は楚国へ来ると、まず楚懐王の家臣で、もっとも気に入られている靳 尚きんしょうに、高価な 贈り物をし、そのあと楚懐王に会った。張儀は 「現在、天下には七つの強国があります。なかでも最強なのは斉、楚、秦です。もし秦 国が斉国と連合すれば、斉国は楚国より強くなります。また秦国が楚国と連合すれば、楚 国は斉国より強くなります。だから秦王は、わざわざ私を派遣して、楚国と仲良くしたい と考えました。けれど残念なことに、あなたは斉国と同盟しています。斉国は楚国のため に、何かしてくれましたか? もし大王が斉国と絶交すれば、秦王は楚国と永久に仲良 くするばかりでなく、商と於の土地を六百里ほど差し上げます。そうすると楚国に3つの メリットがあります。一つは六百里の土地がもらえる。二つめに斉国の勢力を弱めること ができる。三つめに秦国が楚国と戦争することはない。一石三丁です。こんなおいしい話 はないでしょう。大王、どうされます?」と言った。 それを聞くと楚懐王は喜んで、
「秦国がそういう考えならば、どうしても斉国と同盟する理由はない」と言った。 楚国の大臣たちも、労せずして六百里の土地が手に入ると思うと、みんな楚懐王にお祝 いを述べた。だが、突然一人が立ち上がった。 「そんなことをすれば、後悔することになるぞ。何が祝いだ!」 見れば外国人官僚の陳軫ちんしんだった。みんな不機嫌そうに 「どうしてだ」と尋ねる。 「秦国が、どうして六百里もの土地を大王に送るのか? それは大王が斉国と同盟を結 んでいるからです。楚国は斉国と義兄弟になって戦力が拡大したので、秦国も戦争を仕掛 けられなくなったのです。もし大王が斉国と絶交なさるなら、それは自分の首を絞めるこ とになります。そうなれば斉国の救援を得られなくなり、楚国は戦争を仕掛けられるでし ょう。大王が張儀の提案を受け入れて斉国と絶交し、また張儀も約束を守らないとしたら? 各国から領地を奪い取った秦国が、楚国に土地をくれなかったら、大王はどうなさいます か。先に商と於の地を受け取ってから斉国と絶交しても遅くはないでしょう」 王族の屈原くつげんも、きっぱり斉国と絶交することに反対した。 「張儀の話は信用できません。大王は、絶対に彼の話しを真に受けないように」 しかし張儀から賄賂をもらっている靳尚は 「斉国と絶交しなければ、何の理由もなく秦国が土地をくれるはずがありません」と反 対した。 楚懐王は 「そりゃあ道理だ。まず人を派遣して商と於の地を受け取ろう」と決定した。 楚懐王は逢侯丑ほうこうちゅうを使者にして、張儀と一緒に秦の首都である咸陽へ行き、商と於の地を 受け取る一方で、斉国へも使者を派遣して絶交することにした。 逢侯丑と張儀が咸陽へ着くと、張儀は足を捻挫したから治療してくると告げ、どこかへ 行ってしまった。逢侯丑は三カ月待たされて焦ったが、張儀が土地を割譲する約束したこ とを、秦文恵王に手紙で訴えるしかなかった。秦文恵王は 「総理大臣が約束したのなら、その通りにしよう。しかし楚国は、まだ完全に斉国と絶 交したわけではない。私は見知らぬ人の手紙を、疑いもなく信じ込むわけにゆかぬ。やは り総理大臣の病気が治ってからの話だ」と答えた。 逢侯丑は、秦文恵王の言葉を楚懐王に報告した。すると楚懐王は 「もしかすると秦王は、我々が斉国と絶交したのを信じられないのではないだろうか」 と考えた。そこで使者を斉国へ派遣し、ご丁寧に斉宣王を罵倒した。 斉宣王は、楚国の使者が会いに来たと聞くと、この間の同盟破棄と国交断絶を白紙に戻 すという話だと思い、会ってみたところ、いきなり使者が大声で罵り始めた。それを聞く と斉宣王は、怒り心頭に達した。すぐに秦文恵王のところへ外務大臣を派遣し、一緒に楚 国を攻めようと約束した。
斉と同盟して楚国を攻める約束が結ばれると、張儀は逢侯丑を訪問した。 「将軍は、まだ秦国におられたのですか。まさか土地を受け取ってないとか?」 逢侯丑は 「秦文恵王は、大臣の病気が治ってからの話だと言われるのです」と答える。 張儀は 「私の六里の土地を楚王へ献上するのに、なにも秦王に相談することはないでしょう」 と言う。逢侯丑は耳を疑った。 「私は、商と於の六百里の土地を受け取りにきたのですよ」 張儀は答えた 「ありえない! 秦国の土地は、すべて戦争で取ってきたのですよ。簡単に人へやれま すか? 六百里どころか六十里でも無理だ。私が言ったのは六里で、六百里ではない。そ れは私の土地で、秦国の土地ではない。たぶん楚王が聞き違えたのだろう」 それを聞いて逢侯丑は、張儀が、とんでもないペテン師であることを知った。 張儀としては、思い通りに計画が進んだ。昔、楚国の総理大臣である昭陽に、半死半生 の目に遭わされた張儀は、これでやっと借りが返せると思った。もう間もなく、秦と斉の 連合軍が、楚を攻めるだろう。 逢侯丑が帰国して報告すると、楚懐王は目を怒らせた。紀元前 312 年、楚懐王は屈くつかつを 大将、逢侯丑を副将にし、十万の兵をもって西北へ遠征に出かけ、秦を討ちに行った。対 する秦文恵王は、魏章を大将、甘茂を副将にし、やはり十万の兵で楚に応戦した。そして 斉国に、一緒に参戦するように勧めた。 絶交したのみならず、使者まで派遣して斉宣王を罵倒した楚国に、目にもの見せてくれ ようと思っていた斉宣王は、この呼びかけに応え、匡章を大将とする五万の兵で、楚国と 交戦しに出かけた。 楚国の大将は一人だけ、西の秦と交戦していると、東からは斉の軍勢が背後から国を侵 犯してくる。引き返さないと都が危ない。だが秦との戦争は拮抗状態だ。退けば、背後か ら矢が飛んでくる。気が気ではない。目前の秦と戦っていれば故郷を失ってしまうかも知 れないのだ。こうして兵は家族が心配になって次々と脱走し、楚の軍は総崩れになった。 十万の兵も2∼3万しか残らず、漢中の六百里あまりの土地も秦国に奪われてしまった。 それだけで終わらなかった。北に面していた韓国と魏国も、楚軍の負け戦を知って、この チャンスに兵を挙げて国境付近を占領し始めた。楚懐王は、焦って頭を掻きむしり、屈原 を斉国へ派遣して謝罪し、外国人官僚の陳軫を秦軍の駐屯地へ行かせて講和し、さらに二 城を献上した。 秦国の大将は、伝令を秦文恵王に派遣して報告した。秦文恵王は 「二つも城はいらない。それより商と於の地を黔 中けんちゅうと交換して欲しい。もし楚王が同意
すれば、すぐに兵を退こう」と言った。 魏章が、それを楚懐王に伝えると、怒りに燃えていた楚王は 「交換には及ばない。張儀を引き渡してくれれば、喜んで黔中を献上する」と言った。 大臣たちは 「張儀一人と、数百里の土地を交換するのでは、釣り合いがとれません」と反対した。 しかし怒りで冷静な判断のできない楚懐王は、張儀と引き換えることを決定した。 秦王は、それを聞くと 「そんなこと、できるわけがない」と怒鳴った。 だが張儀は 「引き渡しなさい。商と於を手放すこと無く、ただで黔中が手に入るのでは、おいしい 話じゃあ、あ∼りませんか」 秦文恵王は 「そんなことをしたら、楚王に捕まって殺されてしまうぞ。御前が殺されたら、どうや って秦は天下を取ったらいいのだ。強国の楚がダメになったとはいえ、まだ斉は無傷だ」 という。 「大丈夫です大王! 私が楚を引っ掛けたのだから、楚王が私を恨むことは計算済みで す。必ず戻って来て、次は大王のために斉を潰しますから。早く私を楚に引き渡してくだ さい。楚には内通者がいますから絶対に大丈夫です」 張儀がそう言うと、秦王は半信半疑で、張儀を楚へ向かわせた。 張儀は楚へ着く前に、楚懐王の寵 臣ちょうしんである靳尚へ、贈り物を持たせた使いを出した。 使いは 「張儀が楚へやってくる。たぶん楚懐王が捕まえるだろう。だが、張儀が責められたら 内通者のことを喋るかもしれないし、あなたが内通者であることは秦王も御存知です。だ から、事が公になれば、あなたも困るし、私達も困る。だから張儀を取りなして、逃がし てください」という。 「そんなことを言われても、あれだけ楚懐王が怒っているのだから、私が止めれば、私 が殺される」と、靳尚。 「もちろん、あなただけでは困難でしょう。だけど王には、お気に入りの女がいるでし ょう? それを使って張儀を逃がせば、あとはうまく行きます」 と、使者は、靳尚に張儀の計画を聞かせた。 張儀が楚へ到着すると、すぐに楚懐王が捕まえた。そして牢屋に閉じ込めて、吉日を選 んで処刑することにした。 張儀と内通している靳尚は、楚懐王の最愛の美人、鄭袖ていじゅに贈り物を見せた。さまざまな 絹の流行服、それに西国で採れる宝石、化粧品、そうした品々を見せられると、鄭袖は何
としてでも欲しくなった。それは張儀が逃げられたときの成功報酬だという。 楚懐王が朝廷から帰って、鄭袖のところへ行くと、鄭袖は言った。 「最近、張儀と申す人を捕まえたそうね」 「そう。とんでもないペテン師だ。ワシをだました。処刑しようと思う」 「まあ、おやさしい大王には似合わないわ。大王は、おやさしくて国民に尊敬されてい るのに。国では仁愛じんあいがあり、もっとも王として相応ふ さ わしい人だと噂しておりますのよ。大奥 でも女たちが、大王はやさしくてダンディな方だと人気がありますのよ。そんなやさしい 大王が、人を殺すのは似合いませんわ。帰してあげたら、やっぱり大王は仁と愛の持ち主 に恥じませんことよ。だまされても、笑って許してやるほうが、大王らしいわ」 愛人から、そのように言われると、楚懐王の気持ちがぐらついてしまうのだった。 そして昼に朝廷へ行くと、寵臣の靳尚がやってきた。楚王は 「この間は、おまえの言うことを聞いてエライ目にあった。だが憎い張儀は捕まえた」 という。靳尚は、 「張儀は、秦国の総理大臣ですから、まさか嘘を言っているとは思いませんでした。そ れに陳軫は外国人なので、楚国に対する愛情がありませんから。彼は楚の国の利益など、 どうでもよいのです。あれは自分の存在を目立たせるために、反対して見せただけでしょ う。あのときは、みんなが張儀を信じたのです。私だけではありません。そりゃあ屈原は 反対しましたが、あの口うるさい爺さんは、今度に限らず、何に対しても文句ばかり言っ てます。取り合わなくて当然ですよ。大王だって、張儀を信じたじゃあないですか」 「そりゃあ、そうだ」と、楚王。 「でも大王。私は、いまでも思うのですが、たかが詐欺師の張儀を、黔中の何百里と交 換したのは、もったいないのではないでしょうか?」と、靳尚。 「ワシも、だまされた直後は、何を犠牲にしてもいい。とにかく張儀を捕らえて仕返し してやる、と思っていたのだが、いざ捕らえて牢に閉じ込めてみても、おまえの言うとお りだ。あいつの処刑の吉日を待っていると、だんだん冷静になってきて、なんともったい ないことをしたものかと、今更ながら後悔し始めている」と、楚王。 「そうですね。秦では、張儀は総理大臣にすべき人材でも、前に楚国にいたときは、総 理大臣の家に飼われていた居候ですからね。秦国には、よっぽど人材がいないんですね。 何の能力もない居候に、総理大臣を任せるのですから。楚国にいたとき、張儀は『和氏璧』 を盗んだというじゃあありませんか。そんな盗みと詐欺しかできないような人間を、広い 領地と交換するのは、もったいないですよ」 そう靳尚に指摘されると、だんだん張儀を捕らえたことを後悔してくる楚懐王であった。 「そうだな、鄭袖にも張儀を殺すことは、やめたほうがいいと言われた」 「そうですよ。イメージダウンですよ。それに張儀を渡してくれたら土地を献上すると 申しましたが、張儀を殺すとは言ってません。一国の総理大臣を殺されては、秦国も黙っ