• 検索結果がありません。

01_P _新井勉.indd

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "01_P _新井勉.indd"

Copied!
36
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

近代日本における大逆罪・内乱罪の創定︵新井︶ ︵一七五︶

近代日本における大逆罪・内乱罪の創定

新  

井     

   はじめに

内乱罪の分離 一  大逆罪・内乱罪の創定    ︵一︶フランス法の模倣    ︵二︶大逆罪・内乱罪の分離    ︵三︶朝憲紊乱への階梯    ︵四︶旧刑法の成立と条文の確定 二  分離への反発    ︵一︶分章撤回する    ︵二︶一章に二節をおく    おわりに 論 

(2)

学  第七十九巻第二号︵二〇一三年九月︶ ︵一七六︶

はじめに

内乱罪の分離

古く唐律は、社稷を危うくせんと謀る謀反を一〇悪の筆頭に掲げて、謀反という罪が全犯罪のうち最悪のものたる ことを示した。社稷の語は直接皇帝という尊号をさすのを憚ったものである。唐律においては、謀反は皇帝その人に 対する攻撃のみならず、皇帝の位︵現王朝︶に対する攻撃を含んでいた。すなわち、君主の概念と王朝の概念が区別 されていなかったから、謀反は近代刑法学のいう大逆罪と内乱罪の二つを含んでいたのである。 目を中世イングランドに転じると、一三五一年の反逆法は、公然たる行為により国王殺害の意思を示すこと、国王 に対して戦いをしかけること、国王の敵対者に追随すること、主としてこれらの事項を反逆罪と定めた ︵1︶ 。この反逆法 において、王朝︵プランタジネット朝︶の存立が国王その人の安全を中心として構成されていることからみて、君主 と王朝は概念上区別されていなかったらしい。 一方、一八世紀のフランスにおいては、犯罪は、神に対する不敬罪、人に対する不敬罪、私人に対する犯罪の三群 に区分された。この人に対する不敬罪︵君主に対する反逆罪と混同されていた︶がさらに二類に区分され、その第一 類は国王やその家族の殺害・殺害未遂と、国家︵ブルボン朝︶の主権および安全に対する侵犯の二者を含んでいたと いう ︵2︶ 。ここでも、君主と国家︵ないしは王朝︶はいわば一つに括られていた。 フランス革命後、立憲君主制下の一七九一年刑法は、初めて君主と国家をはっきり区別した。国境にオーストリア やプロイセンの軍靴の音が迫る中で、この刑法は大逆罪を含む全犯罪中、外患罪を一番敵視しなければならなかった のである ︵3︶ 。ナポレオンの一八一〇年刑法も、七月王政下の一八三二年の改正法も、同じく国家の外的安全を内的安全

(3)

近代日本における大逆罪・内乱罪の創定︵新井︶ ︵一七七︶ より重視した。その上でこの改正法は、大逆罪と一括りのものとして、政府の顛覆・王位継承順序の変更・王権への 反抗を目的とする内乱罪をおき、第二帝政下の一八五三年の改正法も、一八三二年改正法の大逆罪・内乱罪の内容を 大きく修正することがなかった ︵4︶ フランス刑法︵一八五三年の改正法︶の問題の箇所は、第三部、第一編、第一章、第二節、第一款の冒頭二箇条で ある。第三部重罪・軽罪およびその処罰、第一編公事に対する重罪・軽罪、第一章国家の安寧に対する重罪・軽罪の うち、第一節が国家の外部安寧に対する重罪・軽罪、第二節が国家の内部安寧に対する重罪、第二節の第一款﹁皇帝 及皇室ニ対スル危害及陰謀﹂の冒頭がそれである ︵5︶ ○フランス刑法 第八十六条 皇帝ノ生命若ハ身体ニ対スル危害ハ殺親罪ノ刑ニ処ス 第二項以下 略︵皇族の生命・身体に対する危害、皇帝・皇族に対する不敬︶ 第八十七条 政府又ハ帝位継承ノ順位ヲ顛覆シ若ハ之ヲ変更シ又ハ公民若ハ住民ヲ動シテ皇帝ノ権力ニ対シ武 器ヲ執ラシムルヲ目的トスル危害ハ隔離流刑ニ処ス ︵注︶第八八条、危害の定義。第八九条、第八六条・第八七条の予備・陰謀。 ベルギーがオランダから独立したのは、一八三〇年のことである。ザクセンから国王を迎え、立憲君主国の政体を 採用した。一八六七年の刑法は、これも大逆罪と内乱罪を一括りにして配置した。この内乱罪は、右のフランス刑法 に倣いそれを修正して、憲法や王家継統法の変更、王権への反抗や、議会︵両議院もしくはその一院︶の顛覆を目的 とするものである ︵6︶

(4)

学  第七十九巻第二号︵二〇一三年九月︶ ︵一七八︶ プロイセンを中核として、一八七一年、ドイツの統一が実現した。一八七一年の刑法︵一八七〇年の北ドイツ連邦 刑法︶は、これもやはりドイツ皇帝や各邦君主に対する大逆罪と、ドイツ帝国や各邦の憲法・王位継承順序・領土に 対する内乱罪を一括りのものとして配置した ︵7︶ 。しかも、憲法や王位継承順序の変更、領土の分割は、概念上は大逆罪 に包摂されていた。この刑法典は、この一括りを各則冒頭に掲げたのである。 オランダの一八八一年刑法や、イタリアの一八八九年刑法の大逆罪・内乱罪の扱いも、フランス刑法やドイツ刑法 と径庭がない ︵8︶ 。ヨーロッパは一九〇〇年の時点でサンマリノ、スイス、フランスの三国を除き、他の国々は君主国で ある。そのため、右にざっと一した幾つかの刑法典のように、他の国々の刑法典も君主国の歴史をひきずっていた と想像される。 さて、唐律に戻ると、一〇悪の最初三つは、①謀反、②宗・山陵・宮闕を毀さんと謀る謀大逆、③国に背き偽に 従わんと謀る謀、である。これらはそれぞれが罪名で、各則の賊盗律に刑罰を定める条文がある。そこで賊盗律を 開くと、第一条が謀反大逆条で、同条は①②を括って、謀反︵謀るだけで︶および大逆︵実行に移すと︶は皆︵首従 の別なく︶斬に処すると定めている。 時代が下ると、明律も、清律も、これら三悪の罪名もそれぞれの注︵社稷を危うくせんと謀る、宗などを毀さん と謀る、という構成要件︶も修正することなく、謀反大逆条の﹁謀反大逆﹂の四字を以て一罪とし、謀反・謀大逆の 科刑上の区別をなくし、謀反を王朝への攻撃、大逆を皇帝への攻撃として前代の解釈を大きく変更した ︵9︶ 。これは、律 の条文の字面をそのままにしておいて、解釈により君主と王朝を分離したことを意味する。 この解釈が近世日本に入った。明治の早期、司法省の刑法草案編纂のさい、ボアソナードが国事犯︵ボアソナード

(5)

近代日本における大逆罪・内乱罪の創定︵新井︶ ︵一七九︶ は﹁政治犯﹂と表現した︶の死刑廃止を力説する 10︶ 一方、天皇に対する罪をフランス刑法の殺親罪の刑︵死刑︶に倣う よう主張したため、編纂委員は大逆罪と内乱罪は罪質が異なるとして、二つを別の章においた。この方針を刑法草案 審査局がうけついだ結果、明治一三年︵一八八〇年︶刑法は、大逆罪・内乱罪を二章にわけて設置した。 それまで新律綱領も、改定律例も、八虐︵中国の一〇悪︶を掲げず、謀反大逆条をおかなかった。明治一三年刑法 は、フランス刑法の罪刑法定主義を採用して、大逆罪や内乱罪をおいた。もっとも、これらを二章にわけておいたの は、一九世紀ヨーロッパの刑法典に例のないやり方である。歴史的にみれば、これは、大逆罪という一括りの犯罪の 中から内乱罪を分離したことを意味する。 ︵1︶

James Fitzjames Stephen,

A History of the Criminal Law of England

, 1883, vol. 2, p. 249. ︵2︶ ・ガロ﹁フランス近代の刑法史﹂二九九∼三〇〇頁。塙浩著作集第一九巻﹃フランス刑事法史﹄ ︵信山社、二〇〇〇年︶ 所収。塙氏の翻訳の原典は、

Jean René Garraud,

T

raité théorique et pratique du droit pénal français

, 3éd., 1913. ︵3︶ 内田博文・中村義孝訳﹁フランス一七九一年刑法典﹂ ︵立命館法学第九六号、一九七一年︶五五頁以下。 ︵4︶ さしあたり、司法資料第二五八号︵一九三九年︶の﹃仏蘭西刑法典﹄二一頁以下、中村義孝編﹃ナポレオン刑事法典史料 集成﹄ ︵法律文化社、二〇〇六年︶一七八頁以下。 ︵5︶ 前掲﹃仏蘭西刑法典﹄二四頁。 ︵6︶ 手元に一九世紀のベルギー刑法がない。司法省第八局編﹃刑法表﹄ ︵一八八三年︶を参照。一七八頁、一八〇頁。 ︵7︶ さしあたり、司法資料第一九一号︵一九三五年︶の﹃一九三〇年独逸刑法草案並に現行独逸刑法典﹄一九六頁以下。 ︵8︶ 日本大学法学部図書館は、訳者不詳﹃和蘭刑法﹄や曲木如長訳﹃伊太利刑法﹄を所蔵している。どちらも司法省が印刷に ふしたものらしい。前者の発行年は不明、後者は一九〇三年の発行。

(6)

学  第七十九巻第二号︵二〇一三年九月︶ ︵一八〇︶ ︵9︶ 明律・清律における解釈の変更について、さしあたり、律令研究会編﹃訳註日本律令﹄第五巻・唐律疏議訳註篇一︵東京 堂出版、一九七九年︶三五∼三六頁。この唐律疏議訳註篇一︵名例︶の著者は滋賀秀三氏。 10︶ 七月王政下一八三二年の改正法は、第八七条の法定刑として死刑をおいた。第二共和制下一八四八年二月二六日の布告が 一般的に国事犯︵政治犯︶の死刑を廃止したという︵オルトラン著・井上正一訳﹃仏国刑法原論﹄第一帙上巻一七五∼一七七 、一八八八年 。信山社 日本立法資料全集別巻 、一九九九年︶ 。この点 、ブローニュ蜂起に失敗したルイ ナポレオン ︵後 のナポレオン三世︶が北フランスの一城塞に終身禁錮に処せられた︵脱獄した︶話が想起される。

一 

大逆罪・内乱罪の創定

新律綱領も改定律例も明律・清律に倣いながら、編纂時の政治事情から謀反や謀大逆など八虐を掲げず、謀反大逆 条をおかなかった。明治一三年刑法、いわゆる旧刑法が、各則冒頭、第二編第一章皇室に対する罪の中心に大逆罪を おき、第二章国事に関する罪の第一節内乱に関する罪として内乱罪をおいたのは、政治事情への配慮より西欧刑法に 倣う必要性が勝り、さらに編纂者らが西欧刑法の採用する罪刑法定主義を認識したことによる。 もっとも、大逆罪という語は、旧刑法のどこを探してもみあたらない。第一一六条の天皇・三后・皇太子に対して 危害を加え、または加えんとした行為を、明律・清律の解釈を以て一般に大逆︵罪︶と称したのである。一方、内乱 罪という語は、旧刑法の節名にあり、第一二一条の構成要件の中に政府を顛覆し、または邦土を僣窃し、その他朝憲 を紊乱することを目的となし﹁内乱ヲ起シタル﹂者とある。旧刑法が名付け親である。

(7)

近代日本における大逆罪・内乱罪の創定︵新井︶ ︵一八一︶ ︵一︶フランス法の模倣 旧刑法の編纂は、明治八年︵一八七五年︶九月、司法省が刑法草案編纂委員をおいて緒についた。このとき、編纂 の一助として、ボアソナードにフランス刑法を講義させた。しかし、独力の編纂が失敗し、翌年五月、ボアソナード に章節毎の原案を提出させ、それを基礎として編纂を行う方式に改めた。各則冒頭には、編纂委員が希望して天皇に 対する罪をおくことを決定した 11︶ 。ボアソナードの原案中、最初の三箇条は次のようである 12︶ ○原案、和訳 第一条 日本天皇、皇后並皇太子ノ身体ニ対シタル重罪又ハ軽罪ハ卑属ノ親其尊属ノ親ノ一人ノ身体ニ対シ重罪 又ハ軽罪ヲ犯シタル如ク第○○条ニ従ヒ処断ス 第二条 皇威ヲ覆スヲ目的トナス重罪ハ重流刑并○○円ニ至ルマテノ罰金ニ処スルコトヲ得 第三条 皇嗣ノ順序︵正確には、皇位継承の順序か︶ヲ換ヘルヲ目的トナス重罪ハ軽流刑并○○円ヨリ○○円ニ 至ル罰金ニ処ス これはボアソナードがフランス刑法第八六条、第八七条の主意により起草したもので、一目みてわかるが、第一条 が第八六条、第二条・第三条を併せて第八七条に対応している。第二条について、編纂委員を代表して鶴田皓︵纂集 長︶が皇威の原語は何かきくと、通訳を務める名村泰蔵がオトリテ・アンペリアルだと答えた 13︶ 。第八七条のフランス 語︵前掲和訳には﹁皇帝ノ権力﹂とある︶をそのまま綴ったものである。そしてボアソナードは、同条の政府顛覆を 削除したことについて﹁日本は皇統連綿の国体に付、其政府を覆す者は即皇威を覆すものなり。依て皇威を覆す云々 の語中に政府を覆す云々のことをも含畜するものと為し之を省きたる訳なり﹂と説明したのである 14︶

(8)

学  第七十九巻第二号︵二〇一三年九月︶ ︵一八二︶ しかし、編纂委員は﹁皇威ヲ覆ス﹂の意味がわからなかった。天皇を殺したら、天皇のオトリテ・アンペリアルを 滅ぼし、それは第二条の罪に入るのではないかというのである。そこで、ボアソナードは﹁皇威の原語は天皇一身に 係るへきにあらす。其系統に係るへきものなり﹂と答えた後、それなら皇朝︵ディナスティ︶を覆す云々と記せば よいと教えた 15︶ ボアソナードと編纂委員は第一章については第四案まで作成した。この第四案を、刑法草案第一稿︵明治九年々末 成稿︶の各則第一章とした 16︶ 。章名は﹁天皇ノ身体及ヒ主権ニ対スルノ罪﹂である。原案の第一条は第一一八条﹁天皇 皇后及ヒ皇太子ノ身体ニ対シタル犯罪ハ卑属ノ親其尊属ノ親ノ身体ニ対シテ犯シタル重罪軽罪ニ同シ﹂で、おそらく 仏文は元の第一条と同じである。原案の第二条・第三条は、第一二〇条﹁皇室︵ディナスティ︶ヲ顛覆シ又ハ皇権ヲ 拒絶シ若クハ減損シ又ハ皇嗣ノ順序ヲ紊乱スルコトヲ目的ト為ス犯罪ハ重流ニ処シ且五千円以下ノ罰金ヲ附加ス﹂と して、併せて一条に纏められた。 すなわち、刑法草案第一稿は、各則第一章に第一一八条君主に対する大逆の罪と、第一二〇条王朝に対する謀反の 罪︵内乱罪︶を並べた。ボアソナードがフランス刑法第八七条のグヴェルヌマンの語を回避し、ディナスティの語を 選択したことにより、第一稿の定める内乱罪は、母法 17︶ よりさらに君主制国家にふさわしい内乱罪としてかきこまれた のである。 もっとも、第一二〇条内乱罪の刑を流刑に止めることは、原案第二条の審議のときから、編纂委員はボアソナード に対して﹁日本にては従前内乱を起したる罪は特別に取扱ひ、総て死刑に処すへきことゝ為す。故に今後と雖も之れ に死刑を廃し流刑に処するは太た不都合なり﹂と強く異論を唱えた。しかし、ボアソナードが現在ヨーロッパ各国は

(9)

近代日本における大逆罪・内乱罪の創定︵新井︶ ︵一八三︶ 政治犯に死刑を科さないと頑強に主張したため、編纂委員はとりあえずボアソナードに従ったのである 18︶ ︵二︶大逆罪・内乱罪の分離 明治八年九月、司法省はボアソナードに命じて、刑法草案編纂委員にフランス刑法を講義させた。この講義は、翌 九年五月まで、約八カ月続いた。ボアソナードはまず、編纂委員の求めに応じて刑罰論を展開した。そのさい、今回 編纂する草案は﹁国事犯と通常の犯罪とを区別すへき積なるや。仏国にては通常の犯罪に比すれは国事犯の者に於て 其取扱ひを寛宥にすることあり﹂と説明した 19︶ 。国事犯というのは︵近代刑法学のいう︶政治犯のことである 20︶ 政治犯の取り扱い︵処分︶を寛宥にするというのは、ボアソナードが第七五条﹁仏蘭西ニ抗敵シテ武器ヲ所持セル 仏蘭西人ハ総テ死刑ニ処ス﹂について、同条の犯罪を﹁政事の罪と為す時は死刑にあらす。通常の罪と為す時は死刑 なり。千八百四十八年の布告を以て政事の罪に死刑を廃せることは国民一般皆知る処なり﹂と説明した 21︶ ように、政治 犯の死刑廃止をさしていた。この一八四八年の布告は、二月革命時の第二共和制仮政府の布告のことである 22︶ この講義の中で、ボアソナードは、第八六条﹁皇帝ノ生命若ハ身体ニ対スル危害﹂は﹁其犯罪の事柄は極重きもの なれとも矢張通常の罪と見做すなり﹂と説明し、編纂委員がこれは国事犯︵政治犯︶ではないのかときくのを、通常 犯だとして退けた 23︶ 。ボアソナードとしては、殺親罪の刑︵死刑︶がある以上、皇帝に対するアタンタ︵侵害︶を通常 犯だというしかなかったのかもしれない。ボアソナードは次に、一八五三年の刑法改正時をふり返り、皇帝に対する アタンタはナポレオン三世の威権を憚って死刑を廃止できなかったことや、その時の議論は二説あり、このアタンタ を国事犯中の例外規定とする意見が多数だったことを、詳しく説明したのである 24︶

(10)

学  第七十九巻第二号︵二〇一三年九月︶ ︵一八四︶ 一方、ボアソナードは、第八七条について﹁第八十七条は醇粋の国事犯と云うへきものなり。国事犯とは何となれ は政府を覆へし政体を一変せんとすることを謀るものなり。例へは共和政事の時なれは王政と為さんとし、王政の時 なれは共和政事と為さんとする等のことなり。又は皇帝の即位の順序を紊たし帝権を拒み政府を覆へさんとの目的の 意ある者なり﹂と説明した 25︶ 。これこそ醇粋の国事犯、すなわち真正の政治犯だというのである。ただ、ボアソナード が﹁本条を改正せし千八百五十三年の頃は三世﹃ナポレヲン﹄在世中のことなり。故に之は其王家の為めに用ふへき 法律なり﹂と指摘した 26︶ のは、単に死刑を隔離流刑に改めたにすぎないから、紛らわしい説明である。 さて、明治一〇年一月に始まる刑法草案第一稿の見直しのさい、編纂委員は、ボアソナードから教わったフランス 刑法の知識をよく記憶していた。そのため、第一一八条天皇・皇后・皇太子の身体に対する犯罪と、第一二〇条皇室 の顛覆・皇権の拒絶・皇嗣順序の紊乱を目的とする犯罪を同じ章におくことについて、編纂委員は﹁此第百十八条は 通常罪にして、第百二十条は国事犯なり。其通常罪と国事犯と性質の異りたる罪を同しく此第一章中に混同して置く は、太た不都合ならすや﹂と指摘して、二箇条を別の章におくことを求めた。すなわち﹁第百十八条の罪は尊属の親 に対する罪に同しと為す︵死刑︶故に、国事犯を流刑に処すへき原則に抵触せんとす﹂というのである 27︶ ボアソナードが第一一八条の﹁天皇の身体に対したる罪は通常罪と国事犯と二つの性質を帯ひたる者﹂で、第一稿 はそのうち国事犯の性質を重視したのだと反論しても、原則論に忠実な編纂委員は納得しなかった。編纂委員はさら に﹁一体第百十八条の罪を尊属の親に対する罪に同しと為したるは、畢竟日本の人民は天皇を親とし︵て︶戴き之を 尊ひ且親む所の主意に基きたるものなり。然らは飽私罪と見做さゝるを得さるへし﹂と迫ったため、ボアソナード の方が分が悪くなった。その結果、第一一八条を第一章に残す一方、第一二〇条を︵フランス刑法第九一条の内乱の

(11)

近代日本における大逆罪・内乱罪の創定︵新井︶ ︵一八五︶ 罪に倣う︶第一三四条と併せて別の章におくこととなった 28︶ ︵三︶朝憲紊乱への階梯 フランス刑法の講義が、第九一条﹁公民若ハ住民ヲシテ武装セシメ又ハ互ニ武器ヲ執ラシメ以テ内乱ヲ惹起スルヲ 目的トシ又ハ一乃至数個市町村ニ於テ侵略、殺戮若ハ掠奪ヲ為スヲ目的トスル危害ハ死刑ニ処ス﹂に及ぶと、第八七 条との関係が問題となった。ボアソナードは、第九一条は﹁其主意最も広し﹂として、国民の宗教上の争乱や、議院 設立のための紛擾などを例にあげた。編纂委員が地方住民が賦税の適否を論じて一揆を起した場合も第九一条の内乱 のうちに入るのかときくと、ボアソナードはそれは前段でなく、後段の一個ないし数個のコミューンの箇所にあたる と答えたのである 29︶ その後、草案編纂のさい、編纂委員はボアソナードに、第二章︵外患罪︶に続き、天皇の主権に対する内乱とは別 に、第三章としてその他の内乱の条文をおくことを求めた。編纂委員は佐賀の乱や神風連の乱の類いを想定し、減税 一揆や地租改正反対一揆を内乱と同列に扱うのは過酷だと主張した 30︶ 。ボアソナードはこれを考慮しながら、フランス 刑法第九一条に倣い原案を作成した。この原案を審議して作成された第二案を、第一稿の各則第三章とした。第三章 の中心は、第一三四条﹁院省地方各官署ノ権ヲ傾覆若クハ変乱シ又ハ各官署ノ布令ヲ廃シ若クハ中止セシムルノ目的 ヲ以テ内乱ヲ起シタル者ハ軽流ニ処ス﹂の規定である 31︶ 。この院は太政官の正院をいう。 繰り返しになるが、刑法草案第一稿の見直しのさい、編纂委員は第一二〇条を、この第一三四条と併せて別の章に おくことをきめた。その上で、編纂委員は、第一二〇条の表現をみて﹁日本のコンスチヽーシヨンに対したる国賊は

(12)

学  第七十九巻第二号︵二〇一三年九月︶ ︵一八六︶ 第百三十四条の一地方一部落に限りたる内乱にあらす。即不庭︵逞︶の徒にて日本の朝憲を紊乱するものなり。故に 此第百二十条の罪に入れて論せさるを得さるへし。然るに其明文なし﹂とか﹁一体此第百二十条の皇室を顛覆し又は 皇権を拒絶し云々の罪は全く日本国一般の政体に関する罪なり。故に朝憲を紊乱するとか又建国法を紊乱するとかの 主意を示すへき適当の語を用ひんことを要す﹂とか主張して、書法を修正するよう求めた 32︶ ボアソナードが日本には建国法がなく﹁其建国法の有無に拘わらす広く係るへき為め、矢張皇権を拒絶し若しくは 減殺すると記する方宜しからん﹂と諭したが、編纂委員はそれでは日本人はよくわからないから﹁日本文にては朝憲 を紊乱するとか又は如するとか記せんとす﹂と強く主張した。結局、通訳の名村泰蔵が仏文はそのままにし、和文 を朝憲如︵如の字は其字義軽きに失せんとすれとも先つ仮りに︶と記すことに収めたのである 33︶ 如はむ、ないがしろにすることで、朝憲の如は朝憲を憚らないことだから、朝憲如は朝憲を乱す朝憲紊乱 とさしたる違いはない。江戸幕府は、政治犯を﹁公儀を恐れざる致し方﹂として処罰した 34︶ 。これに対して、明治政府 は、公の政府顛覆の企てや不平士族の反乱を﹁朝憲を憚らざる﹂所業として処罰し、さらには百姓一揆や紙幣贋造 も同じく﹁朝憲を憚らざる﹂所業として処罰した 35︶ 第一稿の見直しが行われたのは、明治一〇年上期である。司法の大木喬任が﹁臨時暴徒処分例﹂をもち、属僚を 率いて西国へ下り、その指揮の下、各臨時裁判所で神風連の乱、秋月の乱、萩の乱を処断してきて、数カ月のことで ある。この﹁臨時暴徒処分例﹂は、第一条で﹁朝憲ヲ紊乱センコトヲ企テ兵器ヲ弄シ衆ヲ聚メ以テ官兵ニ抵抗シ及ヒ 官兵ヲ殺傷セシムル者首及ヒ従ト雖モ首ト同ク画策ヲ主︵つかさ︶トル者、斬﹂と定めた 36︶ 。この処分例は、愛宕通旭 らの陰謀や江藤新平らの挙兵という国事犯︵政治犯︶の事例と朝憲紊乱の語を結びつけたもので、第一稿の見直しの

(13)

近代日本における大逆罪・内乱罪の創定︵新井︶ ︵一八七︶ さいも、九州臨時裁判所やその出張所で裁判の準則として使用されていたものである。編纂委員としては、不逞の徒 の処分例第一条の文頭を刑法草案の第一二〇条にもってくれば、その意味がわからない人はいないだろうという、と いう話である。 修正されたはずの第一二〇条は、校正第一案の第一三三条である。同条の構成要件は﹁本朝ヲ顛覆シ又日本管内ニ 於テ皇権ヲ拒絶シ又天皇ノ特権ヲ減損シ又皇嗣ノ順序ヲ紊乱スルヲ内乱ノ目的トナシタル重罪﹂である。何か手違い があったらしく、これは前の第一二〇条と同じである。そのため、編纂委員は皇権の拒絶と天皇特権の減損の二つを 併せて朝憲の如と記すよう求めた 37︶ 。二つの区別がはっきりしない、というのである。 ボアソナードがこれに答えて、オトリテ︵権力︶とプレロガチーブ︵特権︶は区別が明らかであり、前者は日本の 土地の一部を占拠して皇権を拒絶する類いをいうし、後者はこれまで天皇に属した議員︵元老院議官?︶選挙や条約 改正の特権を減損して行わせないようにする類いをいうと説明した。しかし、編纂委員はなお﹁其二事を特書すれは 各特別に示す訳なれとも、仮令特書せさるとも日本文にて朝憲云々と記する時は、右二事の主意に係るは勿論、国事 犯中何事にも通し用ゆへきの便利あらんとす﹂と主張した 38︶ 。ボアソナードが再びこれに答えて、皇権の拒絶はドイツ 刑法第八一条第四項の記す﹁領地の全部又は一部を非理に云々領せしめんとしたる﹂という主意と同じだと説明した ため、編纂委員は第一三三条の和文を﹁国家ヲ顛覆シ邦土ヲ僣窃シ其他朝憲ヲ如シ若シクハ皇嗣ノ順序ヲ紊乱スル コトヲ目的ト為シ﹂と記すこととして、同条に関する議論を決着させたのである 39︶ 一方、校正第一案の第一三四条﹁官︵この官は括弧の中に記される︶院省地方各官署ノ権又ハ其長官ヲ顛覆シ又ハ 変更シ又ハ其官署ニ於テ政事上又ハ行政上ニ付処分シタル法度ヲ廃止又ハ中止スルヲ目的トナシ内乱ヲ起シタル者ハ

(14)

学  第七十九巻第二号︵二〇一三年九月︶ ︵一八八︶ 前条ニ記載シタル区別ニ従ヒ各々一等ヲ減ス﹂について、編纂委員は、官署の権を修正しないと、第一三三条の朝憲 如と区別しにくいと指摘した 40︶ 。これは、あるいは、太政官︵明治一〇年一月正院の称の廃止︶をはじめ中央官署の 権力の顛覆と、前条の朝憲如の区別を懸念したものだろうか。しかも、編纂委員は﹁然し日本文の朝憲如の語は 所謂不応為の罪名と同しく国事犯中何事にも通し用ゆへきものなれは、到底其区別を為し難し。故に之れは裁判官の 監定に任せ置くへし﹂といって 41︶ 、朝憲如の語が不応為︵情理において為すを得べからざるのこと︶と同じく、内容 が確定されない一般条項としての利便性をもつ、という認識を口にしたのである。 このようにして内乱罪の条文の内容が固まってきたが、ここで一つ確認しておくことがある。それは、繰り返しに なるが、編纂委員が朝憲︵紊乱・如︶の語を﹁コンスチヽーシヨン﹂や﹁建国法﹂と同義のものとして刑法草案に もちこんだことである。しかも、朝憲如の語の使い勝手のよさを認識してもちこんだことである。もっとも、それ でいて、刑法草案第二稿︵明治一〇年六月成稿︶の見直しのさい、ボアソナードが﹁此第百三十三条中﹃朝憲ヲ如 シ﹄の語は或ひは例へは百姓一揆の如き小事にも係るに似たり﹂というと、編纂委員は﹁然し日本文にて朝憲の字は 小事に係るへき意味にあらす。故に仏文の適訳にはあらされとも先つ此語の外恰好の字面なきを如何せん﹂と一蹴 した 42︶ 。これは、実は、それまで政府が百姓一揆をあるいは朝廷を憚らず、あるいは朝憲を憚らずとして断罪してきた 事実に反していた。 ︵四︶旧刑法の成立と条文の確定 話の順序が逆になったが、編纂委員がボアソナードとともに刑法草案第一稿を編纂したのが明治九年一二月、刑法

(15)

近代日本における大逆罪・内乱罪の創定︵新井︶ ︵一八九︶ 草案第二稿を編纂したのが翌一〇年六月。編纂委員が確定稿たる﹁日本刑法草案﹂を纏め、編纂委員・司法大書記官 鶴田皓の名で司法の大木喬任に提出したのが、明治一〇年一一月のことである。日本刑法草案中、第二編の必要な 箇所は次のようである 43︶ ○日本刑法草案     第一章 天皇ノ身体ニ対スル罪 第百三十一条 天皇皇后及ヒ皇太子ノ身体ニ対シタル犯罪ハ子孫其祖父母父母ノ身体ニ対シテ犯シタル重罪軽罪 ニ同シ     第二章 内乱ニ関スル罪 第百三十四条 国家ヲ顛覆シ又ハ邦土ヲ僣窃シ其他朝憲ヲ如シ若クハ皇嗣ノ順序ヲ紊乱スルコトヲ目的ト為シ 内乱ヲ起シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス    一  内乱ノ教唆者及ヒ其首魁ハ無期流刑ニ処シ五百円以上五千円以下ノ罰金ヲ附加ス    二、三 第百三十五条 略︵官省地方各官署の傾覆・変更、その長官の黜除などを目的とする内乱︶ 第百三十六条 略︵立法行政官の議事、各裁判所の審判の妨害を目的とする内乱︶ ︵注︶第一三五条、第一三六条、どちらも第一三四条の刑の各一等減。 日本刑法草案を、政府︵太政官︶は、その頃の立法諮問機関たる元老院へ送る前に、臨時に部内に刑法草案審査局 を設置して審査させた。国家権力を支える刑法の編纂は大事業であり、加えて西欧法を模倣する初めての法典だった

(16)

学  第七十九巻第二号︵二〇一三年九月︶ ︵一九〇︶ から、政府は慎重をきしたのである。参議・法制局長官の伊藤博文を総裁とし、審査委員は元老院議官、法制局書記 官、司法書記官︵纂集長を務めた鶴田皓を含む︶の中から任命した。審査は長引き、一年六カ月を費やした 44︶ 審査局は審査に入ってすぐ、数点の重要事項を予決問題として政府に上申し、その指令を仰いだ。明治一一年二月 二七日、伊藤博文が出局し﹁上申の件は内閣より上奏を経て決定すること左の如しと口達せり。一、皇室に対する罪 を設くること。一、国事犯の巨魁を死刑に処し刑名を区別して設くること﹂云々 45︶ 。これは、審査委員の一人、村田保 の回顧談の中の記事である。その頃の現行法たる新律綱領・改定律例にない大逆罪・内乱罪を新たにおこうというの だから、天皇と政府の同意が必要だった。さらには、大逆罪を高々親殺しと同視してよいのか、内乱罪の処分を無期 流刑に止めてよいのか、という問題もあった。伊藤の口達は後者を死刑に処せ、と命じていた。 審査局の審査は司法省の刑法草案編纂のときと違い、おそらく議事録が残されていない。修正案は幾つか残されて いる。明治一一年一〇月︵?︶成稿の﹁刑法草案修正稿本 46︶ ﹂は、大逆罪として第一一六条﹁至尊上皇三宮及ヒ東宮ニ 対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス﹂をおいた。内乱罪として第一二一条﹁政府ヲ顛覆シ又ハ邦土ヲ 僣窃シ其他朝憲ヲ紊乱スルコトヲ目的ト為シ内乱ヲ起シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス﹂をおき、第一号﹁首魁及ヒ 其教唆者ハ死刑ニ処ス﹂と改めた上で、元の第一三五条、第一三六条︵官省地方各官署の傾覆・変更など、立法行政 官の議事などの妨害︶の条文を削除した。 審査の具体的な内容はよくわからない。審査委員は日本刑法草案を逐条審査すること四回、確定稿たる﹁刑法審査 修正案﹂を纏めた。刑法草案審査総裁・元老院幹事柳原前光が太政大臣の三条実美に提出したのが、明治一二年六月 のことである。日本刑法草案の全四七八条は圧縮されて全四三〇条となっていた。刑法審査修正案中、第二編の必要

(17)

近代日本における大逆罪・内乱罪の創定︵新井︶ ︵一九一︶ な箇所は、次のようである 47︶ ○刑法審査修正案     第一章 皇室ニ対スル罪 第百十六条 天皇皇后及ヒ皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス     第二章 国事ニ関スル罪      第一節 内乱ニ関スル罪 第百二十一条 政府ヲ顛覆シ又ハ邦土ヲ僣窃シ其他朝憲ヲ紊乱スルコトヲ目的ト為シ内乱ヲ起シタル者ハ左ノ区 別ニ従テ処断ス    一  首魁及ヒ教唆者ハ死刑ニ処ス    二、三、四 ︵注︶第一一六条の﹁皇后及ヒ﹂を元老院が﹁三后﹂と直した以外は、このまま旧刑法の条文として確定。 政府︵太政官︶は、明治一三年三月、刑法審査修正案を元老院の審議にふした。元老院は三月、四月、数回の審議 を行い、修正らしい修正を加えることなく、ほぼ刑法審査修正案どおり可決した。そのため、旧刑法を考察しようと いう場合、審査局が日本刑法草案を修正した箇所はどこか、修正した意味は何かを調べることが必要となる。大逆罪 は元の殺親罪の刑を死刑と改めたにすぎない。一方、内乱罪は、①﹁国家﹂の顛覆を﹁政府﹂の顛覆に改め、②朝憲 の﹁如﹂を﹁紊乱﹂に改めたばかりか、③末尾の﹁皇嗣ノ順序ヲ紊乱スル﹂を削り、④前にみたように、第一三五 条、第一三六条をどちらも削除してしまった。ここでは、これらの修正の意味について論じることをしない 48︶ 。ここで

(18)

学  第七十九巻第二号︵二〇一三年九月︶ ︵一九二︶ 指摘しておくのは、①審査局は大逆罪・内乱罪の分章を保ち、内乱罪︵政治犯︶は首魁らを死刑に改めながら、大逆 罪︵通常犯︶と区別して他の者に流刑や禁獄を科していること、②審査局は第一三五条、第一三六条を削除する一方 で、第三章静謐を害する罪の第一節として兇徒聚衆の罪の三箇条をおいたこと、これら二点である。この兇徒聚衆罪 というのは、近代刑法学のいう騒擾罪である。 11︶ 天皇に対する罪の創定をきめた後、ボアソナードが未遂犯・欠効犯の減刑をいいはって譲らず、既遂犯と同じ死刑を主張 する編纂委員と対立した 。新井勉 ﹁明治日本における大逆罪と内乱罪の分離﹂ ︵日本法学第七二巻第三号 、二〇〇六年︶四七 ∼四九頁。 12︶ 早稲田大学鶴田文書研究会編﹃日本刑法草案会議筆記﹄第二巻︵早稲田大学出版部、一九七七年︶四九三∼四九四頁。 13︶ 注 ︵ 12︶五〇〇∼五〇一頁。 14︶ 注 ︵ 12︶五〇〇頁。 15︶ 注 ︵ 12︶五一八∼五一九頁。 16︶ 注 ︵ 12︶五五五∼五五六頁。 17︶ フランスの一八一〇年刑法は、第八六条皇帝に対する大逆罪に並び、第八七条に政府の顛覆・皇位継承順序の変更・皇帝 権力への反抗を目的とする皇族に対する危害の罪をおいた。一八三二年の改正法が、第八六条に国王に対する大逆罪と併せて 皇族に対する危害罪をおき、第八七条に皇族危害罪から切り離した形で、政府顛覆・王位継承順序変更・王権への反抗を内容 とする内乱罪をおいた︵中村・前掲﹃ナポレオン刑事法典史料集成﹄一八七∼一八八頁︶ 18︶ 注 ︵ 12︶四九八∼五〇〇頁。 19︶ ボアソナード ﹁仏国刑法会議筆記﹂一六六頁 。これは 、明治八年九月二五日の講義で 、西原春夫ら編 ﹃旧刑法 明治 13 年︶①﹄ ︵信山社・日本立法資料全集、一九九四年︶所収。通訳は名村泰蔵。

(19)

近代日本における大逆罪・内乱罪の創定︵新井︶ ︵一九三︶ 20︶ ボアソナードがクリム・ポリティクといい、それを通訳が国事犯と訳したことについて、新井勉﹁近代日本における大逆 罪の罪質について﹂ ︵日本法学第七五巻第一号、二〇〇九年︶九頁以下。 21︶ 注 ︵ 19︶二四八∼二四九頁。明治八年一二月一〇日の講義。 22︶ 注 ︵ 10︶参照。ちなみに、政治犯について、ボアソナードの師たるオルトランは、政治犯が法理上犯罪として成立しないと いうのではないが﹁往々同一の人にして囹圄より堂に移り、又堂より囹圄に入るを見るの習慣は、事実に因りて国事犯は 犯罪にあらすとの論結を甚た演繹せしめんとするものなり﹂という。オルトラン・前掲書、第一帙下巻︵一九九九年︶一二〇 ∼一二一頁。 23︶ 注 ︵ 19︶二五〇∼二五一頁。正確には、ボアソナードは皇帝に対するアタンタ︵侵害︶を通常犯だと説明する一方で、国事 犯︵政治犯︶だと口走ったり歯切れが悪い。通訳を通すせいか、なおさらわかりにくい。 24︶ 注 ︵ 19︶二五一∼二五二頁。ボアソナードとしては、このアタンタを通常犯とも国事犯ともしないで、刑法全体の中で全く 別の種類の例外規定とする、一八五三年当時の少数説がよいという。 25︶ 注 ︵ 19︶二六八頁。明治九年一月二五日の講義。 26︶ 注 ︵ 25︶ 同じ。中村・前掲﹃ナポレオン刑事法典史料集成﹄一八八頁参照。 27︶ 注 ︵ 12︶五五七∼五五八頁。引用中の注︵死刑︶は、引用者。 28︶ 注 ︵ 12︶五五八∼五五九頁。 29︶ 注 ︵ 19︶二七四∼二七五頁。明治九年二月五日の講義。 30︶ 注 ︵ 12︶五九三∼五九六頁。編纂委員は一揆を内乱と同列に扱うのは過酷︵重きに失する︶ながら、静謐を害する罪とする のは軽きに失する、ともいう。 31︶ 注 ︵ 12︶六二六頁。 32︶ 注 ︵ 12︶五六一∼五六二頁。 33︶ 注 ︵ 12︶五六二∼五六三頁。括弧の中の︵其字義軽きに失せん︶は、名村の言葉。

(20)

学  第七十九巻第二号︵二〇一三年九月︶ ︵一九四︶ 34︶ 平松義郎﹃江戸の罪と罰﹄ ︵平凡社ライブラリー、二〇一〇年︶九四頁。原本は一九八八年の発行。 35︶ 新井勉﹁明治四〇年刑法の成立と内乱罪﹂ ︵日本法学第七三巻第一号、二〇〇七年︶一九頁以下。 36︶ 内閣記録局編 法規分類大全﹄ 法門① 原書房、 年︶ 八頁。 時暴徒処分例 井勉 ﹁明治前期 の逆について﹂ ︵政経研究第四九巻第四号、二〇一三年︶一六頁以下。 37︶ 注 ︵ 12︶六三九頁。実は前回︵第一稿の見直し︶の編纂委員の主張は、和文で、①国家︵皇室︶の顛覆、②朝憲の如、③ 天皇特権︵皇権?︶の拒絶または減殺、④皇嗣順序の紊乱と記すことだった︵五六三頁︶から、今回③を朝憲如と記すよう 求めるのは、前回と大きなズレがある。 38︶ 注 ︵ 12︶六三九∼六四〇頁。 39︶ 注 ︵ 12︶六四〇頁。仏文はそのままだから、朝憲如は結局、仏文の﹁天皇ノ特権ヲ減損シ﹂にあたる。なお、前掲﹃刑法 表﹄をみると、ドイツ刑法第八一条謀反大逆罪の第四項は﹁連邦ノ甲国ノ領地ノ全部又ハ其一部ヲ連邦ノ乙国ヘ領セシメント シタル者﹂と記され、第三項は﹁連邦ノ領地ノ全部又ハ其一部ヲ外国政府ニ領セシメントシ又ハ其領地ノ一部ヲカシメント シタル者﹂と記されている ︵一九〇∼一九一頁︶ 。前者は ﹁又ハ甲国ノ領地ノ一部ヲカシメントシタル者﹂と記されるはず が省略されている。 40︶ 注 ︵ 12︶六四一頁。 41︶ 注 ︵ 12︶六四一∼六四二頁。 42︶ 注 ︵ 12︶六五八∼六五九頁。 43︶ 司法省︵?︶発行の﹃日本刑法草案﹄六一頁、六二∼六四頁。第一三五条の黜︵しりぞける︶除は、罷免と同じ。ちなみ に、本書は縦二〇・七センチ、横一三・七センチの洋装版で、目次一〇頁、本文二三〇頁。発行者・発行年は記載なし。参照 には、前掲﹃日本刑法草案会議筆記﹄第四巻︵一九七七年︶巻末所収のものが便利である。 44︶ 司法省刑事局編﹁旧刑法、治罪法及旧刑事訴訟法編纂沿革﹂①︵法曹会雑誌第八巻第八号、一九三〇年︶一一二∼一一四 頁。

(21)

近代日本における大逆罪・内乱罪の創定︵新井︶ ︵一九五︶ 45︶ 村田保﹁法制実歴談﹂ ︵法学協会雑誌第三二巻第四号、一九一四年︶一四三頁。 46︶ 早稲田大学鶴田文書研究会編﹃刑法審査修正関係諸案﹄ ︵早稲田大学比較法研究所、一九八四年︶六五∼六七頁。 47︶ 太政官︵?︶発行の﹃刑法審査修正案﹄四九頁、五〇∼五一頁。ちなみに、本書は縦二〇・七センチ、横一三・四センチ の洋装版で、目次一〇頁、本文一八一頁。発行者・発行年は記載なし。参照には、前掲﹃刑法審査修正関係諸案﹄巻末所収の ものが便利である。 48︶ 内乱罪について、審査局が日本刑法草案を修正したことの意味について、さしあたり、新井勉﹁明治日本における内乱罪 の誕生﹂ ︵日本法学第七〇巻第四号、二〇〇五年︶一五三頁以下参照。

二 

分離への反発

旧刑法の編纂は、司法省の草案編纂、刑法草案審査局の審査、および元老院の審議をへて、明治一三年︵一八八〇 年︶四月、すべて終了した。上奏をへて、七月一七日、政府はこれを公布し、明治一五年一月一日より施行したので ある。同時に公布し施行した治罪法とともに、西欧法を模倣する初めての法典である。この旧刑法中、大逆罪・内乱 罪の条文は、前掲刑法審査修正案の第一一六条︵皇后及ヒを三后と直す︶および第一二一条である。 元老院の第一読会で内閣委員として趣旨説明を行った村田保は、政府提出案︵刑法審査修正案︶について﹁従前の 律よりは寛にして濫ならす、密にして疎ならす、真に完然無瑕と言はさる可らす﹂と力説した 49︶ 。しかし、完全で瑕が ないと力説しても、旧刑法は施行してすぐ改正論の逆風に曝された。早くも明治一五年九月、司法省は、政府︵太政 官︶に実務上の差し支えが少なくないとして一部改正案を提出した 50︶ 。これがきっかけとなった。

(22)

学  第七十九巻第二号︵二〇一三年九月︶ ︵一九六︶ ︵一︶分章撤回する 司法省の一部改正案は、旧刑法の一〇数箇条について、修正や加除を施したものである。まず、未成年者中一六歳 以上も減刑する第八一条を削除し、続いて、第二六一条の博罪の成立を現行犯から非現行犯へ拡大し、第三八〇条 の強盗傷害を無期徒刑から死刑へと加重した。さらに、第四〇一条として贓物の出所を証明できない者を罰する規定 をおき、第二編第三章の静謐を害する罪の中に、第一〇節として無頼および乞丐の罪をおいた 51︶ 詳しい経緯はわからないが、このとき政府は、この一部改正案を部内で審査させた。法制局も︵太政官の︶法制部 も廃止されたから、審査にあたるのは参事院しかない。内局・六部のうち、法制部︵同じ名称︶である。明治一五年 の暮れか翌一六年の初め頃か、法制部は、一部改正案に対する﹁太政官調査修正案﹂を纏めた 52︶ 。この修正案は、司法 省の求めるところを基礎とし、それに数倍する箇条の修正や加除を施したものである。もっとも、全四三〇条に及ぶ 法典だから、なお一部改正案にすぎない。第二編の第一章皇室に関する罪と、第二章国事に関する罪の第一節内乱に 関する罪は、元どおり分章されたままである。修正が加わった条文を記すと、次のようである 53︶ ○太政官調査修正案     第一章 皇室ニ対スル罪 第百十六条 皇室ニ対シ悖逆ヲ謀ル者ハ死刑ニ処ス    皇陵ヲ毀壊シタル者亦同シ     第二章 国事ニ関スル罪      第一節 内乱ニ関スル罪

(23)

近代日本における大逆罪・内乱罪の創定︵新井︶ ︵一九七︶ 第百二十一条 政体ヲ変更シ又ハ邦土ヲ僣窃シ其他朝憲ヲ紊乱スルコトヲ目的ト為シ内乱ヲ起シタル者ハ左ノ区 別ニ従テ処断ス    一  首魁及ヒ教唆者ハ死刑ニ処ス    二、三、四 法制部は修正案と一緒に理由書を作成した。第一一六条の修正理由は﹁原文天皇三后皇太子に対し危害を加へ又は 加へんとしたる者云々とあるは、特に玉体に対し奉り危害の所業を為したる者の如く見ゆるのみならす、天皇に対し 危害を加ふ云々の文字は古典に曽て見さる所﹂だから、天皇・三后・皇太子の語を皇室に改め、さらに﹁原文は危害 を加へ奉らんとしたる者にして始めて罰あるか如く、其権衡を得たる者にあらさる﹂から、危害を加え云々も︵悖逆 を︶謀ると改める、というのである 54︶ 。その権衡というのは、旧法︵反を謀るだけで極刑に処する謀反︶における権衡 のことをいう。 第一二一条の修正理由をみると、政府を顛覆しとあるのを政体を変更しと改めるのは﹁太政官は即ち天皇臨御万揆 を親裁し賜ふ所にして、天皇の政府なり。其政府を顛覆せんと謀る者は、即ち第百十六条皇室に対して悖逆を謀る者 とす。故に惟た内閣の組織を一変せんとする如き政治上の犯罪に係る者は政体を変更する者と為し、宜く此条を以て 論す可きなり。但政体を変更せんと謀るも其目的共和政治に在る者の如きは、即ち皇室に対して悖逆を謀る者を以て 論す可し﹂というのである 55︶ 。すなわち、政体の変更と改めることにより、第一一六条は君主の身︵大逆︶や位︵君主 制や君主の政府︶に対する謀反、第一二一条は単なる政治上の犯罪、として分離しようというのである。 参事院の法制部が太政官調査修正案を纏めるさい、おそらく井上毅︵法制部議官兼内閣書記官長︶が中心的な働き

(24)

学  第七十九巻第二号︵二〇一三年九月︶ ︵一九八︶ をしたに違いない。その井上が、同僚で木下犀潭塾同門の鶴田皓︵司法部議官・部長︶と旧刑法の改正について意見 を交わしたのは、明治一五年一二月のことである。刑法案や刑法改正案が提出されたさい、これを審査するのは法制 部の担当ながら、総会議にかかることを予想すると、鶴田へ根回しが必要だった。 井上は、改正意見を二通記し、鶴田へ送付した。一通目は、新刑法︵旧刑法をいう︶は詳密本元にして千載の大典 ながら名分と倫理を怱略︵粗略?︶にし、名分については四点で誤ったと論じている。①古律は謀反や謀大逆を予謀 のとき誅鋤する︵殺しつくす︶が、新刑法の第一一六条は天皇・三后・皇太子に対し危害を加え、加えんとしたる者 といって、その危害を謀る者を罰しない。②古律の謀大逆たる、宮闕︵皇居︶を破り放火する罪を掲げない。③大宝 律の大不敬にして死刑に処する、乗輿︵天皇をいう︶を指斥︵非難︶し情理切害なりという条文を掲げず、漠然たる 不敬条をおき、重禁錮に処するに止まる。④宮禁の尊厳は直指せず、宮闕や乗輿などと言葉を婉曲にするのが人臣の 礼である。第一一六条は天皇を危害する、などと古典に見ざる文字を記しているが、これは﹁立憲国に於て天子神聖 之主義にもあらず﹂というのである 56︶ 二通目は、旧刑法の大逆罪・内乱罪の分置について、甲乙二案を示し﹁元来皇室に対する罪と内乱とを分割したる は共和主義之精神にして甚た我国体に適当せずと存候。彼の仏国刑法に皇帝を干犯する者を国事犯に混したるは彼国 理論家之満足せざる所にして、日本刑法は即ち仏国理論家をして厭足せしむるも我国之瑕疵なる哉如何せん﹂と主張 している 57︶ 。これら二案は次のようである 58︶ ○甲案 此度之改正ニ於而、皇室ニ対スル罪ト内乱ノ罪ヲ合セ、左之大意を以而案ヲ立ツ。

(25)

近代日本における大逆罪・内乱罪の創定︵新井︶ ︵一九九︶    凡ソ朝憲ヲ紊乱シ宮闕ヲ干犯シ悖逆ヲ行フコトヲ謀リ及乗輿ヲ指斥シ情理切害ナル者ハ死刑ニ処ス    本条ノ罪ヲ犯ス者ハ期満免除并宥恕軽減ノ例ニ非ラズ ○乙案   

条  宮闕ヲ干犯シ悖逆ヲ行フコトヲ謀リ及乗輿ヲ指斥シ情理切害ナル者ハ死刑ニ処ス       本条云々、同甲案   

   不敬ノ刑ヲ重罪トス   

   朝憲ヲ紊乱シ内乱ヲ興スコトヲ謀ル者ハ死 右両案中御取捨奉仰候。何分今日之刑法ハ不安之物なるハ只此一点ニ有之歟ニ候ヘハ、御熟考奉万冀候。 井上は、大逆罪・内乱罪の分置を﹁共和主義之精神にして﹂国体にあわないという。甲案は、律の謀反と同じよう に、二つを﹁悖逆ヲ行フコト﹂を謀るとして一条に包摂するものである。乙案は﹁悖逆ヲ行フコト﹂を謀る罪、不敬 罪、および﹁朝憲ヲ紊乱シ内乱ヲ興スコトヲ謀ル﹂罪を、それぞれ別の箇条としておくものである。そして甲乙二案 どちらも、期満免除︵刑の時効︶も、宥恕減軽︵未成年者︶も認めない、というのである。 井上は、一通目を、右は﹁先日匆々中反覆熟議之時を失ひ遺憾奉存候に付、猶楮上に托し縷陳仕候間更に奉仰賢慮 候﹂と結んだ。井上が二通を鶴田へ送付したのは、御用納めの後寸暇をえた一二月三〇日のことである。先日匆々中 反覆熟議の時を失ったと記したのは、あるいは、法制部が太政官調査修正案を纏めたときの事情をふり返っているの かもしれない。この場合、修正案の成立時期は、おそらく明治一五年暮れである。 しかし、修正案は、第一一六条を改め、①予謀の段階で罰し、④宮禁の尊厳を保ち、③第一一七条の不敬罪に一項

(26)

学  第七十九巻第二号︵二〇一三年九月︶ ︵二〇〇︶ を加え、これを第一項﹁皇室ヲ指斥シ情理切害ナル者ハ無期徒刑ニ処ス﹂とする一方、元の条文を﹁皇室ニ対シ不敬 ノ所為アル者ハ軽懲役ニ処シ其情軽キ者ハ三月以上五年以下ノ重禁錮ニ処ス﹂と改め、第二項へ回した 59︶ 。井上がそれ を承知で改正を力説するのは、何か不自然である。それなら、井上が鶴田と意見を交換した後で、法制部は右の乙案 の線で修正案を纏めたのではないか。この場合は、修正案の成立時期は、明治一六年初め頃である。あるいは、この 時点で、鶴田が甲案に同意するのを渋ったかと想像される。 ○太政官調査修正案、続き 第百十七条 皇室ヲ指斥シ情理切害ナル者ハ無期徒刑ニ処ス    皇室ニ対シ不敬ノ所為アル者ハ軽懲役ニ処シ其情軽キ者ハ三月以上五年以下ノ重禁錮ニ処ス    皇陵ニ対シタル罪亦同シ 井上は、同じ頃﹁第二編第一章第二章改正の議﹂と題する覚書を作成した。井上は、この覚書の中で皇室に対する 罪と国事犯を二分するのは﹁実に建国の大義に乖き、立憲の主義に戻︵悖︶り、将来永遠に国体と相矛盾し、不軌の 徒をして口実を藉り、邪説の資と為すことを得せしめんとす﹂と論じ、これは断じて改めざるべからざるなりと大書 した 60︶ 上で、理由を詳論している。 理由は四つある。①第一二一条の政府は天皇の政府にして、邦土は天皇の邦土、朝憲は天皇の朝憲であるが、これ を内乱罪として皇室に対する罪としないのは、不可の一である。②各国刑法は皆、君主を犯す罪と国に背き乱をなす 罪を同一類とし、一条を以て包括するものがあるし、条を殊にして節を同じくするものがある。それは、君主の身を 危うくするのと君主の位︵現王朝︶を犯す︵攻撃する︶のと、悖逆たるは同一である。ところが、政府を顛覆し朝憲

(27)

近代日本における大逆罪・内乱罪の創定︵新井︶ ︵二〇一︶ を紊乱する者を内乱罪として、皇室に対する罪とは別扱いするのが、不可の二である。③我が国は宮中・府中ともに 一体となし、皇室と政府はかつて両岐することがなかった。将来憲法が制定されても、政府を以て皇室に属し、政府 を以て議院・政党に属せざるべきは、不易の理である。ところが、今刑法が政府と皇室をわけ、政府顛覆を内乱罪と して、これを皇室を干犯する罪としないのは、不可の三である。④内乱とは両党が相戦う名称であり、旧法では臣民 にして皇室や政府を犯す者を反逆とする。今皇室に対する罪、すなわち反逆罪とは別に、内乱罪をおいて政府を顛覆 する罪人をまち、不軌の徒をして藉口し反逆の名を逃れさせるのは、不可の四である 61︶ 井上は、具体的な改正を提案している。①第一章皇室に対する罪と、第二章国事に関する罪の第一節内乱に関する 罪を併せて一章とし﹁悖逆ノ罪﹂をおく。②第一一六条を書き換えて﹁皇室ニ対シ、悖逆ヲ行フコトヲ謀ル者ハ死刑 ニ処ス﹂と改める。③同条に﹁本条ノ罪ヲ犯ス者ハ、第八十条不論罪宥恕ノ例ヲ用ヒズ﹂という第二項を加え、一六 歳未満の未成年者についても減刑を外す。④第一一七条を書き換えて、第一項﹁乗輿ヲ指斥シ、情理切害ナル者、及 諸ロ悖逆ノ言ヲ為シ朝憲ヲ如スル者ハ有期徒刑ニ処シ、其ノ教唆シテ人ヲ惑ハスノ情アル者ハ無期徒刑ニ処ス﹂と 改めるほか、第二項の皇室に対する不敬、第三項の皇陵に対する不敬の刑を加重する。⑤第一二一条に﹁政体ヲ変壊 シ、邦土ヲ僣窃シ、及朝憲ヲ紊乱スルコトヲ謀ル者ハ無期流刑ニ処ス﹂という第一項を加え、その次に﹁前項ノ目的 ヲ以テ兵乱ヲ興シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス﹂という第二項をおき、その処分例は旧刑法と同じとする。⑥国事 に関する罪の第二節外患に関する罪を改め﹁第二章、謀ノ罪﹂とする、というのである 62︶ 。この改正論は、前掲鶴田 あて乙案の内容に近く、より詳細である。 さて、明治一六年三、四月頃か、司法省は、政府︵太政官︶に、前年九月提出の一部改正案にさらなる修正・加除

(28)

学  第七十九巻第二号︵二〇一三年九月︶ ︵二〇二︶ を施した改正案を提出した 63︶ 。提出時期は早ければ二月頃だったかもしれない。改正案は、全四三〇条の法典中半分の 箇条に修正・加除を施した上、徒刑・流刑、懲役・禁獄、重禁錮・軽禁錮の刑期を一斉に延長するなど、いわば全面 改正案と称してよいものである。 この改正案は、第二編の第一章皇室に対する罪と、第二章国事に関する罪の第一節内乱に関する罪を併せて一章と し、第一章内乱に関する罪をおき、第二章として皇室に対する不敬の罪をおいた。元の第二章の第二節外患に関する 罪は、名称を保って第三章をたてた。大逆罪、内乱罪について、旧刑法に修正が加わった条文を記すと、次のようで ある 64︶ ○司法省改正案     第一章 内乱ニ関スル罪 第百十七条 皇室ニ対シ悖逆ヲ謀ル者ハ死刑ニ処ス    皇陵ヲ毀壊シタル者亦同シ    本条ノ罪ハ宥恕及不論罪ノ例ヲ用フルコトヲ得ス 第百十九条 政体ヲ変更シ又ハ邦土ヲ僣窃シ其他朝憲ヲ紊乱スルコトヲ目的ト為シ内乱ヲ起シタル者ハ左ノ区別 ニ従テ処断ス    一∼四 元のまま     第二章 皇室ニ対スル不敬ノ罪 第百三十一条 皇室ニ対シ大不敬ノ所為アル者ハ有期徒刑ニ処シ其情軽キ者ハ重懲役ニ処ス其不敬ノ所為ニ係ル

(29)

近代日本における大逆罪・内乱罪の創定︵新井︶ ︵二〇三︶ 者ハ軽懲役ニ処シ其情軽キ者ハ三月以上五年以下ノ重禁錮ニ処ス    皇陵ニ対シ大不敬若クハ不敬ノ所為アル者亦同シ 司法省改正案は、井上が強く非難する、旧刑法の第一章と、第二章第一節の分章を撤回した。しかも、第一一七条 も、第一一九条も、太政官調査修正案の第一一六条、第一二一条をそのまま転用した。第一一七条は新たに第三項を 追加した。これはおそらく、司法省の︵旧︶刑法改正担当者が、参事院法制部から修正案をみせられ、井上の主張を きかされたに違いない。あるいは、鶴田が古巣司法省の下僚らに指示したのかもしれない。しかし、この司法省改正 案に誤記がないとすれば、第一章の名称は、井上が排斥する内乱の罪である。それだけでなく、皇室に対する不敬罪 を以て一章をたてるのは、かなり突飛である。 ︵二︶一章に二節をおく 政府︵太政官︶は、司法省提出の全面改正案を部内で審査させた。法制部がこれにあたり、明治一六年五月、全面 改正案に対する﹁太政官再調査案﹂を纏めた 65︶ 。そして議官補清浦奎吾、員外議官補名村泰蔵、議官井上毅、議官鶴田 皓、四人の名で参事院議長の山県有朋に提出した。審査に鶴田が加わっているのは、法律案は部会議でなく、総会議 で審議するからだろう。 この再調査案は、司法省の求める修正・加除を大幅に削減したものである。中でも、徒刑・流刑、懲役・禁獄など 刑期の延長を認めなかった。刑期の延長は﹁其の関係する所、刑法の全局全部の変動にして、取りも直さず旧刑法を 廃して新刑法を施すもの﹂だからという 66︶ 。ともあれ、肝腎の大逆罪、内乱罪について、旧刑法に修正が加わった条文

(30)

学  第七十九巻第二号︵二〇一三年九月︶ ︵二〇四︶ を記すと、次のようである 67︶ ○太政官再調査案     第一章 悖乱ノ罪      第一節 皇室ニ対スル罪 第百十六条 皇室ニ対シ悖逆ヲ謀ル者ハ死刑ニ処ス 第○○条    皇陵ヲ毀ツ者ハ死刑ニ処ス 第百十七条 皇室ニ対シ不敬ノ所為アル者ハ三月以上五年以下ノ重禁錮ニ処シ其情重キ者ハ重懲役又ハ軽懲役ニ 処ス    皇陵ニ対シ不敬ノ所為アル者亦同シ      第二節 国事ニ関スル罪 第百二十一条 政体ヲ変壊シ又ハ邦土ヲ僣窃シ其他朝憲ヲ紊乱スルコトヲ目的ト為シ兵乱ヲ起シタル者ハ謀反ノ 罪ト為シ左ノ区別ニ従テ処断ス    一∼四 元のまま 太政官再調査案は、旧刑法の第一章と、第二章第一節︵および第二節︶の分章を撤回し、併せて一章とし、第一章 悖乱の罪をおきながら、一章の中に第一節皇室に対する罪、第二節国事に関する罪、および第三節外国に関する罪の 三節をおいた。大逆罪、内乱罪についていえば、一章にして二節を配置したのである。なお、第一一六条は、太政官 調査修正案の第一一六条と同じ。第一二一条の構成要件は、修正案の表現をかなり改めた。

参照

関連したドキュメント

Yamanaka, Einige Bemerkungen zum Verhältnis von Eigentums- und Vermögensdelikten anhand der Entscheidungen in der japanischen Judikatur, Zeitschrift für

四二九 アレクサンダー・フォン・フンボルト(一)(山内)

目について︑一九九四年︱二月二 0

[r]

[r]

[r]

Date & Time 27 May 2017 (Sat), 15:10 – 16:40 Venue Kwansei Gakuin University Library

人の自由に対する犯罪ではなく,公道徳および良俗に対する犯罪として刑法