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重工業から農林漁業まで 幅広い産業を支えた動力機関発達の歩みを物語る近代化産業遺産群 *

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済産業省からの認定を受けて頂けるかどうかの確認作業を実施中です。最終的な取り扱いについて は、次回の第4回委員会でご報告させて頂きます。 No タイトル 頁 1 重工業から農林漁業まで幅広い産業を支えた動力機関発達の歩みを物語る近代化産業遺産群 1 2 近代日本の「ものづくり」を支えた工作機械・精密機械産業の歩みを物語る近代化産業遺産群 3 3 軍需優先の中で戦後の大衆車量産の基礎を築いた自動車産業の歩みを物語る近代化産業遺産群 5 4 欧米を驚愕させるまでに急成長を遂げた戦前の航空機産業の歩みを物語る近代化産業遺産群 7 5 各種産業を支える産業材としての耐火煉瓦製造の進展と原料開発の歩みを物語る近代化産業遺産群 9 6 先人のベンチャー・スピリットが花開き多岐にわたり発展した化学工等の歩みを物語る近代化産業遺産群 11 7 我が国の近代土木技術の自立・発展と海運業隆盛の歩みを物語る港湾関連の近代化産業遺産群 13 8 山間地の産業振興と生活を支えた森林鉄道の歩みを物語る近代化産業遺産群 15 9 旧居留地を源として各地に普及した近代娯楽産業発展の歩みを物語る近代化産業遺産群 17 10 近代の都市生活に活気と潤いをもたらした大衆レジャー産業発展を物語る近代化産業遺産群 19 11 大量輸送を支える存在として近代化・国産技術化が急がれた橋梁の発展の歩みを物語る近代化産業遺産群 21 12 山岳・海峡を克服し全国鉄道網の形成に貢献した土木技術等の発展を物語る近代化産業遺産群 23 13 海峡をつなぎ人々・物資の往来を支え続けた鉄道連絡船の発展を物語る近代化産業遺産群 25 14 全国に遍く人と物を運び産業近代化に貢献した鉄道網形成の歩みを物語る近代化産業遺産群 27 15 安全な船舶航行に貢献し我が国の海運業等を支えた燈台等建設の歩みを物語る近代化産業遺産群 29 16 清潔な水を大量に供給し都市の生活・産業の発展を支えた近代水道の歩みを物語る近代化産業遺産群 31 17 国土の安全を高め都市生活や産業の発展の礎となった治水・砂防の歩みを物語る近代化産業遺産群 33 18 近代社会の発展とともに花開いた消費・娯楽等の都市生活文化の歩みを物語る近代化産業遺産群 35 19 当初から欧米諸国と肩を並べて歩みを進めた電機通信技術の発展の歩みを物語る近代化産業遺産群 37 20 革新的な技術・経営により戦後の本格的普及の礎を築いた近代家電製造業の歩みを物語る近代化産業遺産群 39 21 北海道に適した建設材料として建造物の近代化に貢献した赤煉瓦製造業の歩みを物語る近代化産業遺産群 41 22 道北・道東の原野と山岳を拓いて進められた物流インフラ整備と産業振興の歩みを物語る近代化産業遺産群 43 23 東北地方の産業振興の基礎を築いた水資源・交通インフラ整備の歩みを物語る近代化産業遺産群 45 24 「近代国家に相応しい首都へ」今日の東京の礎を築いた近代都市形成の歩みを物語る近代化産業遺産群 49 25 上流の森林資源を背景に多岐にわたり発展した中部地域の木材加工業の歩みを物語る近代化産業遺産群 51 26 新たな食文化の創造や伝統食品の近代化に挑んだ中部・近畿の食品製造業の歩みを物語る近代化産業遺産群 53 27 「商都から近代経済都市へ」近代産業導入と先進的都市計画による大阪発展の歩みを物語る近代化産業遺産群 55

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1.重工業 から農 林漁業 まで 、幅広 い産業 を支え た動力 機関 発達の 歩みを 物語る 近代 化産業 遺産群

蒸気機関、内燃機関、電動機(電気モーター)等の原動機は、多くの産業や輸送に必要不可欠なもの であり、産業の振興を図るうえでは非常に重要な要素である。 幕末から明治初期の工業黎明期にまず用いられたのは、「水車」である。水資源に恵まれ、古来から 水車を動力に用いる術を身につけていたわが国にあって、工場動力として水車が用いられたのも当然の 流れである。しかし、明治20 年頃になると、工場動力の主流は、蒸気に取って代わることとなる。 わが国がはじめて接した蒸気機関は、蒸気船である。薩摩・長州等の諸藩では1853 年のペリー来航 以前から蒸気船、さらには蒸気機関車の研究が進められ、1855 年には薩摩藩島津斎彬によって早くも 国産初の蒸気船とされる「雲行丸」が完成している。また、蒸気機関車も1872 年の新橋・横浜間鉄道 開通にあたりイギリスからの輸入機関車が導入されている。一方、工場用動力としては、明治初期段階 で長崎県高島炭坑や群馬県富岡製糸場などに導入されている。しかし、この時期に蒸気機関を導入した のは、産炭地やその集積地といった好立地を有する工場が中心であり、全国的普及は、蒸気船や蒸気機 関車による輸送手段の整備が進んだ明治中期以降となる。なお、明治中期以降には蒸気機関の国産化が 進み、1881 年には大阪砲兵工廠で定置型蒸気機関、1893 年には工部省鉄道寮神戸工場で蒸気機関車が 完成するなど、大型の輸送機器、機械動力を中心に幅広く利用されるようになる。 このようにわが国の大量輸送、重厚長大産業に広く浸透した蒸気機関であるが、小型化すると出力低下が 著しいため、小型船舶や自動車、小規模工場などに導入しにくいといった問題があった。これに対して普及 したのが内燃機関、いわゆるエンジンである。わが国に最初に導入された内燃機関は、明治中期のガスエン ジンとされ、当時すでに街灯用として供給されていた都市ガスを用いて、自家発電、工場用動力として用い られている。また、ガスエンジンは、都市ガス以外にも、石炭や木炭、木くず等から発生させたガスでも駆 動可能なことから、場所を問わず広く普及した。ガスエンジンもまた当初は輸入品で占められたが、1897 年には池貝庄太郎の池貝鉄工所(現:㈱池貝・㈱池貝ディーゼル)によって石炭ガスを燃料とするガスエン ジンが国産化、以降相次いで横浜船渠、発動機製造㈱、俣野鐵工所等で生産されている。ガスエンジンは、 後にディーゼル機関が普及するまで第一線で活躍を続け、特に製材所のような小工場においても、水力に代 わる動力として重用された。(なお、ガスエンジンは、その後第二次大戦中の燃料事情悪化に際して、自動 車(木炭自動車)や鉄道車両などの動力として再び用いられることとなる。) ガスエンジンに代わって普及したのは石油類を用いる内燃機関である。ガスと比較してタンクでの輸 送・貯蔵が容易な石油類の特長を生かし、「持ち運び可能なエンジン」として小型船舶・自動車等の輸 送機器用、遠隔地等の小型発電用として幅広く利用され、今日に至るまで内燃機関の主流を占めること となる。石油類を用いる内燃機関は、小型・高効率化を目指して、比較的短期のうちにめまぐるしく技 術革新が進む。最初に普及したのは灯油を燃料とする「石油機関」であり、以降「焼玉機関*、「ディ ーゼル機関」(軽油燃料)、「ガソリン機関」の順で開発・普及が進んだ。このうち、石油機関と焼玉機 関は、今日ではほとんど用いられることはなくなったものの、特に焼玉機関は低価格燃料が利用可能、 構造が比較的単純で生産・補修が容易等の理由から、昭和 30 年代頃まで沿岸海運の主役を務めた機帆 船(ポンポン船)の動力として大いに活躍している。 石油類を用いた内燃機関の国産化を先導したのもまた前出の池貝鉄工所である。1896年に石油機関、 1903 年に焼玉機関、1920 年にエアインジェクション・ディーゼル機関、1926 年に無気噴油ディーゼ ル機関と、次々に国産初となる製品を開発している。同社の焼玉機関は小型漁船用機関として広く利用 されたほか、船舶用ディーゼル機関は現在でも同社の主力製品となっている。池貝と時を同じくして開 発に力を入れたのが滋賀県の山岡発動機工作所(現:ヤンマーディーゼル)である。同社創業者の山岡 孫吉は、1921 年、フランス製機関を手本とし、農機での利用を想定した独自改良を加えた「ヤンマー 変量式横型石油発動機」を開発、その後も主に農機向けの小型高効率ディーゼル機関を生産、世界有数 のエンジン・農機メーカーに成長している。また、島根県の佐藤造機(現:三菱農機)の創業者、佐藤 忠次郎は、1931 年に日本古来の燃料である木炭を焼玉の加熱に用いる焼玉機関を独自開発、その他独 創的アイデアで生み出した各種農機とともに、全国的に普及している。なお、今日ではエンジンの代名 詞とも言えるガソリン機関は、自動車用として1907 年に内山駒之助らの手によって初めて国産化され た。実用量産は昭和に入って自動車メーカー各社を中心に行われ、今日では世界トップレベルの技術を 有するわが国の主要産業に成長している。 以上のように小型高効率の内燃機関の開発・普及は、特に製材所や町工場のような小規模な製造事業 所、農機や揚排水施設等の農業分野、沿岸海運や漁船等の小型船舶、自動車など、実に幅広い分野の産 業近代化に大きく貢献したといえる。 *:ガソリン機関と同じ、レシプロ内燃機関の一種。始動時に機関上部の「焼玉」を外部から加熱し、燃料に点火する機構を持 ったもの。石油機関より高効率、低価格燃料が利用可能、構造が比較的単純で製造・補修が容易といった特徴を持つ。

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認定 島根県 八 束 郡 東 出 雲町 農 作業 の労 力軽 減に大 き く貢 献し た” サトー 式 稲麦 こぎ 機” と”サ トー式炭火焼玉機関” − サトー式稲麦こぎ機 ● 島根県 八 束 郡 東 出 雲町 − サトー式炭火焼玉機関 ● 大阪府 大阪市 大 阪企 業家 ミュ ージア ム − ヤンマー小形横形 水冷ディーゼ ルエンジン HB形 ● 長崎県 長崎市 三 菱重 工㈱ 長崎 造船所 資料館の蒸気タービン − 陸用蒸気タービン ● 山口県 山 陽 小 野 田 市 太 平洋 セメ ント 小野田 工場の蒸気機関 − 蒸気機関 ● 北海道 小樽市 蒸気機関車大勝号 − 蒸気機関車大勝号 ● 福岡県 大牟田市 三 井鉱 山( 株) 三池港 の 蒸 気 式 浮 ク レ ー ン (大金剛丸) − 蒸気式浮クレーン ● 茨城県 行方市? ㈱ 池貝 の戦 前の 国産内 燃機関群 − 戦前の国産内燃機関 ● 兵庫県 尼崎市 山岡発動機(ヤンマー) の戦前の内燃機関群 − ドイツMAN 社世界最古 のディーゼルエンジン ● 兵庫県 尼崎市 山岡発動機(ヤンマー) の戦前の内燃機関群 − 立型水冷4サ イクルディ ーゼル ● 兵庫県 尼崎市 山岡発動機(ヤンマー) の戦前の内燃機関群 − ヤンマー小形 横形水冷デ ィーゼルエンジンHB形 ● 大阪府 池田市 発 動機 製造 ㈱( ダイハ ツ )の 戦前 の国 産エン ジン − ガスエンジン ● 福岡県 苅田町 旧 戸畑 鋳物 の国 産エン ジン − 農耕用小型石油発動機 ● 大阪府 堺市 久 保田 鉄工 所の 戦前の 国産エンジン群 − 灯油エンジン 石油エンジン ● 愛知県 蒲郡市 池貝の焼玉機関 − 陸用焼玉機関(池貝製) ● 静岡県 焼津市 赤阪鐵工所の焼玉機関 − 船舶用焼玉エンジン ● 愛知県 犬山市 旧 富岡 製糸 工場 の蒸気 機関 − 横形単気筒蒸気機関 ●

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2.近代日本の「ものづくり」を根底から支えた工作機械・精密機器の歩みを物語る近代化産業遺産群

日本人は、鋳物や鉄器、刀鍛冶に代表されるように、伝統的にものづくり技術に長けた民族であり、 また、そうした技術は、確かな技術と独創的アイデアを持つ“職人”達によって支えられてきた。我が 国の工業化初期段階もこうした職人達によって支えられてきたといえる。 その一方で、さまざまな工業製品の国産初期段階においては、主要部品を輸入し、組立を行う、いわ ゆるノックダウン生産的な手法がとられたものが多い。これは設計技術が未熟であっただけでなく、伝 統技術において金属素材を高度に切削する技術を持ち合わせていなかったことが大きく影響している。 ノックダウン生産から脱却し、“純国産化”を目指すうえでは、金属を切削加工する「工作機械」の導 入、さらには工作機械そのものの国産化が不可欠であった。 わが国における本格的工作機械は、1856 年に蒸気船建造等を目的に幕府・長崎造船所に導入された 竪削盤等のオランダ製機器が最初とされ、その後相次いで薩摩藩・集成館機械工場、幕府・横須賀製鉄 所等に導入され機械もいずれも輸入品であった。しかし、明治期に入ると、殖産興業政策のもと、1871 年に当時唯一の西洋式機械専門の官営工場である工部省赤羽工作分局が設置され、官主導で工作機械の 国産化が進められるようになる。 一方、同じ頃、民間の職人達の手によっても国産の工作機械が生み出されている。久留米の鼈甲細工 師の家に生まれ、数々の発明から「からくり儀右衛門」と称された田中久重は、1875 年、東京に民間 初の機械工場である田中製作所を創設、機械類の修理・製作を行っている。また、田中の下で技術を学 んだ伊藤嘉平治は、1875 年に郷里山形で鍛鉄製足踏旋盤を自作している。 民間による工作機械の製作は、明治中期以降になると本格化する。東京で町工場(後の池貝鉄工㈱、 現:㈱池貝)を営んでいた池貝庄太郎は、工場拡張にあたって工作機械の自製を発案、英国製を手本と し、独自改良を加えた旋盤を1889 年完成、その後 1905 年には池貝式標準旋盤の量産を開始している。 また、日露戦争以降には、工作機械調達の重要性を認識した軍部による工作機械増産施策もあり、民間 企業による工作機械生産が活発化する。愛知の製麺機メーカーであった大隈鉄工所(現:オークマ㈱) では、1904 年から工作機械の生産に着手、1918 年には汎用工作機械であるOS型普通旋盤の量産が開 始されている。また、「九州の炭坑王」と呼ばれた竹内明太郎が1909 年に設置した竹内鑛業㈱唐津鐵工 所では、米国で技術を学んだ竹尾年助を所長に迎え、自社鉱山で用いる作業機械と平行して工作機械の 開発・生産を開始する。さらに 1916 年には工作機械専業の㈱唐津鐵工所として独立、汎用機械だけで なく、陸海軍の要求する特殊工作機械など、さまざまな機械類が生産されている。 このように大正末期頃までには工作機械生産が業として成立、各地の企業でさまざまな機械が量産さ れるようになり、これが金属部品の量産、さらには昭和初期以降の自動車や航空機などの複合工業製品 の量産実現に大きく貢献することになる。 しかしながら、この頃の工作機械は、十分な加工精度を有していないものも見られた。少量生産の時 代には、エンジンなどの高精度製品の組み立て・調整を経験豊富な職人の勘と経験に頼ることで対応し てきたが、量産化以降は一般の工員であっても職人と同じ精度で作業を行うことが求められた。この問 題の解決に大きく貢献したのがマイクロメーター等の精密測定機器である。マイクロメーターも三豊製 作所(現:㈱ミツトヨ)等の企業によって戦前に国産化されているが、これによって誰もが職人と同じ 精度で部品寸法を計測、さらに高精度で製品を組み上げることが可能となったといえる。 なお、工作機械が製造面の技術を支えた機械であるのに対して、設計面での技術を支えた機械として、 歯車式計算機があげられる。国産初の歯車式計算機である「自動算盤」は、福岡の発明家、矢頭良一に よって作家・森鴎外の支援を受けつつ 1902 年に試作され、軍部や官公庁等に重用されている。その後 1923 年には、大阪で鉄工所を営んでいた大本寅治郎によって「タイガー計算器」が考案、電卓の普及 する1970 年までの長きにわたり生産が続けられた一大ヒット商品となっている。 このように工作機械・精密機器の発達によって、わが国の工業は、“職人技”による少量生産から、 近代的な大量生産へと進化を遂げることが可能となったといえる。

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認定 北海道 函館市 戦前の工作機械群 − 戦前の工作機械類 ● 埼玉県 南 埼 玉 郡 宮 代町 日 本工 業大 学工 業技術 大 学収 蔵の 戦前 の国産 工作機群 − 戦前の国産工作機械 (S形工作機械等) ● 愛知県 丹 羽 郡 大 口 町 ㈱ オー クマ 本社 「メモ リ アル ギャ ラリ ー」の 戦前の国産工作機械群 − 戦前の国産工作機械 ● ヤ マザ キマ ザッ ク㈱テ ク ニカ ルセ ンタ ー「デ ジ タル コミ ュニ ケーシ ョ ンプ ラザ 」の 国産工 作機械群 − 戦前の国産工作機械 ● 茨城県 行方市? ㈱ 池貝 の戦 前の 国産工 作機械群 − 戦前の国産工作機械 ● 熊本県 熊本市 熊 本大 学の 旧機 械実験 工場と工作機械群 − 戦前の国産工作機械 ● 愛知県 犬山市 工 部省 赤羽 工作 分局の 旋盤 − 菊花御紋章付平削盤 ● 福岡県 北九州市 自働算盤 − 自 働 算 盤(機械式卓上計 算機) ● 神奈川県 川崎市 沼 田記 念館 ・ミ ツトヨ 博物館の収蔵物群 − 戦前 の国産精密計 測機器 類 ● 長崎県 長崎市 三 菱重 工㈱ 長崎 造船所 資料館の収蔵物 − NSBM 社製竪削盤 ● 鹿児島県 鹿児島市 尚古集成館の収蔵物 − NSBM 社製竪削盤 ●

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3.軍需優先の中で戦後の大衆車量産の基礎を築いた自動車産業の歩み を物語る近代化産業遺産群

自動車は、さまざまな工業分野に幅広い裾野を持つ製品の集大成であり、今日の工業国ニッポンを象 徴する代表的製品として揺るぎない地位を築いている。世界水準に追いつき、追い越したのは比較的最 近のことであるが、その基盤となる生産・販売システムの基礎は、すでに戦前に確立されている。 我が国における自動車の歴史は、1900 年前後の欧米車の輸入に始まり、1904 年には早くも山羽虎夫 によって日本初の蒸気自動車「山羽式蒸気自動車」が、さらには1907 年には内山駒之助等のオートモ ビル商会によってガソリン自動車「タクリー号」が生産されている。この頃、多数企業が自動車製造に 取り組んだが、大半は量産の域には達していない。この背景には、技術・生産水準の低さだけでなく、 道路整備が不十分な状況下で大手資本が自動車に将来性を見いださなかったこと等があげられる。 第一次大戦後、自動車に強い関心を持った軍部は、1918 年に軍主導により指定メーカー・購入者双 方への補助による生産・保有の推進により、有事の際に軍が徴発するトラックを確保することを目的と した「軍用自動車補助法」を制定、指定を受けた東京石川島造船所自動車部(後の石川島自動車製作所)、 東京瓦斯電気工業、ダット自動車製造(現:日産自動車)の3 社は、それぞれ「スミダ」「TGE」「ダッ ト」を年間数百台程度生産した。同法は、大戦後の不況下で造船各社等の自動車生産撤退が相次ぐ中、 上記3 社による生産基盤維持と技術向上に一定の効果を上げた反面、乗用車の生産を遅らせる原因とも なった。その後1923 年に発生した関東大震災では、アメリカから緊急輸入されたフォード T 型トラッ クを改造した通称「円太郎バス」が市民の足として活躍、自動車に対する関心は急速に高まりを見せる 中、1929 年には初の純国産量産車とされる「スミダ A4」が誕生、翌 30 年には国鉄バス第1号車とし て鉄道省に採用されている。しかし、需要拡大によってもたらされたのは、フォード、GM 等米国企業 の日本参入であり、国内企業の成長停滞と貿易収支悪化をもたらす結果となった。こうした状況に危機 感を持った商工省は、1931 年に「商工省標準型式自動車」を定めて石川島自動車製作所(後のヂーゼ ル自動車工業)、東京瓦斯電気工業、ダット自動車製造の指定 3 社による共同生産を支援している。さ らに戦時色が強まりつつあった 1936 年には、陸軍の主導により自動車生産の許可制と許可会社の保 護・助成、外資系企業の排除を旨とする「自動車製造事業法」が制定され、指定を受けた豊田自動織機 製作所(現:トヨタ自動車)、日産自動車、ヂーゼル自動車(現:いすゞ自動車)は、軍用トラックを 中心に生産し、終戦を迎えることとなる。 以上のように軍用車至上で進められてきた戦前自動車産業ではあるが、このような中にあって 1935 年には「ダットサン」、その翌年には「トヨダAA 型」という大衆向け乗用車の生産が開始されている。 「ダットサン」のルーツは、1914 年に橋本増次郎が設立、後に鮎川義介の戸畑鋳物㈱によって買収 される快進社自働車工業(後にダット自動車製造)の「ダット(DAT・脱兎)号」(出資者である田健 治郎・青山禄郎・竹内明太郎の頭文字をとって命名)にある。鮎川は、1910 年の戸畑鋳物創設後、得 意とする鋳鉄技術を活かした製品として小型発動機に着目、米国人技師、ウイリアム・ゴーハム(後に 帰化し合波武克人)を迎え、1924 年には農機・小型船舶用ディーゼル機関の販売を開始している。こ れによりエンジン生産に目処をつけた鮎川は、1931 年にダット自動車製造を買収、同社自動車部にお いて小型乗用車「ダットサン11 型フェートン」の生産を開始している。その後同社は 1934 年に日産自 動車㈱へ改称、ゴーハム設計による米国式最新生産ラインを導入、1935 年には年産 5 千台規模の我が 国初の自動車一貫生産ラインを稼働させている。 一方、「トヨダ AA 型」は、豊田喜一郎によって生み出されている。喜一郎は、父佐吉が設立した豊 田自動織機製作所で自動織機の開発・生産を行う一方、繊維産業が下火になるとみるや、既得のコンベ ア生産ラインと工作技術を活かした新たな製品として、自動車に着目する。1933 年に同製作所内に自 動車部(現:トヨタ自動車㈱)を設置、1936 年には量産車である「トヨダ AA 型乗用車」と「同 GA 型トラック」の生産を開始している。喜一郎は、大量生産・大量販売が求められる大衆車に、必要な物 を必要な時に必要なだけ生産する「ジャストインタイム(カンバン)方式」を導入することで効率を追 求するとともに、販売面でも当時日本GM の販売担当であった神谷正太郎を迎え、フランチャイズ方式 による全国ディーラー網形成、販売金融の実施など、今日と同様の生産・販売システムを完成させてい る。なお、日産、トヨタと並ぶ日本三大自動車メーカーである本田技研工業の創業者、本田宗一郎は、 戦前、トヨタの下請け工場の工場長を務めていたのも偶然ではない。 また、戦前の大衆車を語るうえで欠かすことのできないのが「オート三輪」である。オート三輪は、 1920 年頃から各地の中小零細メーカーを中心に、オートバイの発展型として生産されていた。その後 1930 年代中期には実用的国産エンジン生産の実現もあり、独自の機構を持った貨物車両へと発展、日 本内燃機(現:日産工機㈱の前身)、発動機製造(現:ダイハツ工業㈱)、東洋工業(現:マツダ㈱)等 の今日でも自動車メーカーとして盛業を続けるメーカーによって量産、中小事業所等で広く利用される に至っている。

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認定 愛知県 長久手町 ト ヨタ 博物 館収 蔵の戦 前の国産車群 − 山羽式蒸気自動車(模型) ● − 国産吉田式(タクリー号) (模型) ● − TGE-A型トラック(模 型) ● − フォ ードTT型( 円太郎 バス)(模型) ● − オートモ(模型) ● − フォード モデルA ● − シボレーフェートン ● − ト ヨ ダ G 1 型 ト ラ ッ ク (模型) ● − 筑波 ● − トヨダ AA型乗用車(復 元) ● − ト ヨ タ AB 型 フェ ー ト ン ● − トヨ ダAA型乗用 車(模 型) ● − ダットサン16型セダン ● − 水野式自動三輪車 ● − 日産 70型フェートン ● − トヨタ AC型乗用車 ● − トヨタKCトラック ● 愛知県 名古屋市 産 業技 術記 念館 の戦前 の国産車群 − トヨダG1 型トラック ● − トヨ ダスタンダー ドセダ ンAA型 ● 広島県 府中町 マ ツダ ミュ ージ アム収 蔵の三輪トラック − マツダ TCS 型三輪トラ ック ● 東京都 八王子市 日野自動車21世紀セン タ ー・ オー トプ ラザの 戦前の貨物自動車 − TGE-A 型 軍用保護自動 貨車 ● 愛知県 岡崎市 三 菱自 動車 の戦 前の国 産車 − 三菱A 型 ● 神奈川県 座間市 日 産自 動車 収蔵 の戦前 の国産車群 − ダット サン 11 型フェー トン ● − ニッサン乗用車70 型 ● − ニッサントラック80 型 ● 神奈川県 横 浜 市 鶴 見 区 日 産自 動車 横浜 工場ゲ ス トホ ール ・エ ンジン 博 物館 収蔵 の戦 前の国 産車 − ダットサン 15 型ロード スター ● 神奈川県 川崎市 い すゞ 自動 車収 蔵の戦− スミダM 型バス ●

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4.欧米を驚愕させるまでに急成長を遂げた戦前の航空機産業の歩みを物語る近代化産業遺産群

ライト兄弟が世界ではじめて有人動力飛行に成功したのは、1903 年のことである。わが国でも早く から航空機の重要性が認識され、1909 年には陸海軍大臣監督のもと、気球及び飛行機の研究を目的と した「臨時軍用気球研究会」が組織、気球や飛行船などの研究を行う一方、1910 年には同研究会の徳 川好敏大尉によって、フランスから輸入された「アンリファルマン」機の国内初飛行が行われている。 さらに翌1911 年には、徳川大尉の式により国産初の軍用機である「臨時軍用気球研究会式一号(会式 一号)」機が作成され、同年開設された日本初の飛行場である所沢飛行場(臨時軍用気球研究会所沢試 験場)において飛行に成功している。 しかし、「会式一号」は、改良は施されているとはいうもの、基本的には「アンリファルマン」機の 複製であり、その後生産された機も欧米諸国のコピーやライセンス生産の域を出ず、“国産”と呼ぶに ふさわしいものとは言えない状況が続いた。1922 年に陸軍が採用した「乙式一型偵察機(仏サルムソ ン社2A−2のライセンス生産)」に代表されるように、外国機のライセンス生産は昭和初期頃まで盛 んに行われたが、このことは後の航空機純国産化に向けた技術的習熟上、大いに寄与することとなる。 航空機の重要性、さらには国産航空機生産の重要性に早くから着目したのが中島知久平である。海軍 に所属した中島は、ヨーロッパ諸国への視察の経験を通じ、当時主流を占めた大艦巨砲主義に対し、航 空機を中心とした国防の必要性を唱え、海軍機関大尉を退役した1917 年、生家に近い群馬県尾島町(後 に現太田市に移転)に「飛行機研究所」(後に中島飛行機製作所に改称、戦後解散し、現:富士重工業 ㈱等)を設立した。設立当初の数々の失敗を経て 1919 年に完成した「中島式四型」は、同年に開催さ れた飛行競技会においてアメリカ製機を抑えて優秀な成績を収めるに至った。この成功により、ようや く国産機の性能が認められるようになり、後に中島式五型として、陸軍初の国産機として制式採用され ている。また、1931 年には、陸軍初の単葉戦闘機として制式採用された「九一式戦闘機」を開発する など、戦前の航空機産業をリードした。なお、初期の中島飛行機を資金面で支えたのは、当時の日本毛 織の社長、川西清兵衛であった。川西はその後独自に「川西航空機(現:新明和工業㈱)」を設立、海 外からも史上最も秀逸な飛行艇と賞賛される「二式大艇」など、独特の技術を持つ企業に発展している。 国内メーカーでは、中島飛行機のほか、三菱造船(後に三菱航空機へ分社、新三菱重工を経て現:三 菱重工業㈱)や川崎航空機(現:川崎重工業㈱)、石川島飛行機製作所(後に立川飛行機㈱)等である。 第一次大戦を経て航空機の重要性をより強く認識するようになった陸・海軍は、これら国内メーカーに 対して高い技術水準を要求した競争試作を行わせることで機体・エンジンともに“国産化”を推進し、 昭和初期には欧米機に引けをとらない、純国産と呼ぶにふさわしい傑作機が多数生み出され、生産する メーカーも10 社以上を数えるまでに成長した。当時傑作機には、1937 年に東京∼ロンドン間の飛行に 成功し、世界中から称賛を浴びた「神風号(九七式司令部偵察機)」、第二次大戦前半に米軍に恐れられ た「零式艦上戦闘機(零戦、1940 年海軍制式採用)」、欧米機に比肩する性能から接収した米軍を驚愕 させた「四式戦闘機(疾風、1944 年陸軍制式採用)」など、世界的な評価を得たものも多い。さらに終 戦間際に試作された「橘花」等の国産ジェット機の技術は、アメリカにおける戦後のジェット戦闘機開 発に反映されている。 第二次世界大戦の勃発によって、最高潮に達した日本の航空技術であるが、その後の戦局悪化に伴う 資源・燃料の不足、徴兵による熟練工員の不足、工場の空襲などにより、産業は急速に消耗した。さら に戦後のGHQによる航空機生産禁止措置により、産業としての歩みをいったん止めることとなる。し かし、1953 年には、早くも国産航空機の製造が再開され、その設計には戦前の航空機設計に従事した 技術者があたっている。また、「橘花」に搭載されていた「ネ20」エンジンの技術は、戦後初の実用国 産飛行機であると同時に日本初の実用ジェット機でもある「T-1 練習機」にも反映されている。さらに 国産の名機として著名であり、世界中の空を駆けめぐった「YS11」の開発には、戦前の航空産業を支え た多くの技術者が参加、生産はかつて航空機生産を行っていた企業の流れをくむ各社によって行われて おり、戦前に培われた技術が大いに継承・活用されることとなる。

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認定 埼玉県 所沢市 所 沢航 空発 祥記 念館の 所蔵物 − 九一式戦闘機 ● 埼玉県 所沢市 所 沢航 空発 祥記 念館の 所蔵物 − その他所蔵物715 点 ● 広島県 呉市 呉 市海 事歴 史科 学館所 蔵物 − 零式艦上戦闘機六二型 ● 岐阜県 各務原市 か かみ がは ら航 空宇宙 科学博物館所蔵物 − 陸軍乙式一型偵察機 (サルムソン2A-2) ● 鹿児島県 南九州市 知 覧特 攻平 和会 館の収 蔵航空機 − 陸軍四式戦闘機「疾風」 ● 鹿児島県 南九州市 知 覧特 攻平 和会 館の収 蔵航空機 − 陸軍三式戦闘機「飛燕」 ● 鹿児島県 南九州市 知 覧特 攻平 和会 館の収 蔵航空機 − 海軍零式艦上戦闘機 ● 鹿児島県 南九州市 知 覧特 攻平 和会 館の収 蔵航空機 − 一式戦闘機『隼 』3型甲 ● 鹿児島県 鹿屋市 鹿屋航空基地収蔵物 − 二式飛行艇一二型 ●

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5.産業材としての耐火煉瓦製造の進展と原料開発の歩みを物語る近代化産業遺産群

「煉瓦」と言えば、一般的には建築用煉瓦である「赤煉瓦」の知名度が高いが、幕末に我が国で初め て本格的に製造された煉瓦は、鉄製大砲を製造するための反射炉に用いられた「耐火煉瓦」であった。 明治以降の産業近代化の過程で、耐火煉瓦は、製鉄だけではなく製鋼、非鉄金属製造、セメント製造等 における炉材として欠かせないものであり、品質向上と生産量拡大に向けた技術開発に力が注がれ、ま た、耐火煉瓦の原料を得るための鉱山開発が進められた。 幕末の国産耐火煉瓦は、従来から陶磁器や瓦の原料として用いられていた陶土や陶石を原料とし、登 窯等の伝統的技法により製造されたものであり、品質は必ずしも良好とは言えなかった。近代製鉄業の 導入に向けて耐火煉瓦の国産化を企図した工部省は、韮山反射炉等の耐火煉瓦原料となった伊豆梨本の 粘土に着目し、1873 年に同地に登窯による耐火煉瓦工場を建設したが、充分な品質が得られなかった。 そこで、1879 年には、セメント工場である深川工作分局内に耐火煉瓦工場を建設し、新たな原料の研 究や平坦地に設置できる平地窯の導入等が行われた。これら官営工場と、後述する品川白煉瓦で製造さ れた耐火煉瓦は、我が国初の鉄鋼一貫製鉄所として 1874 年に操業を開始した中小坂製鉄所の高炉に使 用されたが、一説には依然として十分な品質が得られなかったとも言われている。深川工作分局で耐火 煉瓦製造を指導した宇都宮三郎は、初の国産セメント製造・硫酸製造などの業績を残した科学技術者で あり、「日本近代化学の父」と呼ばれる。 一方、反射炉の研究を行う中で耐火煉瓦に関心を抱いた西村勝三は、民間人として初めてガス発生炉 向けの耐火煉瓦製造を開始し、1884 年には、前記の深川工作分局内の耐火煉瓦工場の払い下げを受け て「伊勢勝白煉瓦製造所」(現:品川白煉瓦㈱)を設立した。西村は、技術改良と全国各地への原料探 索に努め、福島県石城郡赤井村(現:いわき市)に広大な耐火粘土産地を発見し、1895 年に小名浜志 工場を完成させて事業の基礎を確立した。また、近畿地方の各地に原料採取地を確保し、1904 年に大 阪工場を建設した。 また、古くから焼物の産地であり、大多羅反射炉が築造された岡山でも、民間による耐火煉瓦製造の 動きが始まった。岡山県三石で蝋石を利用した石筆製造に従事していた加東忍九郎は、農商務省地質調 査所の技術者から、三石の蝋石が耐火煉瓦の原料として適していることを教えられ、1890 年に三石耐 火煉瓦製造所(現:三石耐火煉瓦㈱)を設立して製造に乗り出した。これが契機となり、三石に日本耐 火煉瓦㈱、その周辺に位置する伊部や片上に九州耐火煉瓦㈱などの工場が立地し、今日まで引き継がれ る岡山県の耐火煉瓦製造業の基礎が確立した。 これらの耐火煉瓦製造をさらに活発化させたのは、鉄鋼国産化に向けた動きであった。1901 年に操 業を開始した官営八幡製鐵所には、耐火煉瓦工場が併設されたが、高品質の製品を製造するため、国内 は言うに及ばず朝鮮・中国にまで原料を求めた。また、大正期に入り、製鉄・製鋼工場が全国各地で設 立されると、高炉内壁に適したクロム煉瓦や、製鋼用平炉向けの珪石煉瓦など、より高品質の耐火煉瓦 の需要が高まり、原料採取地の開発が盛んとなった。 こうした中で、明治後期に我が国最古のクロム鉄鉱床が発見された若松鉱山は、当初は鉱石をアメリカ に輸出していたが、1904 年頃に耐火煉瓦原料としての用途が開かれた後は、全量を国内の耐火煉瓦原料 に振り向け、その過程で自ら耐火煉瓦の製造・販売も行うという特殊な鉱山となった。若松鉱山に代表さ れる中国山地クロム鉱山群は、1925∼45 年の全国シェアのうち 47.5%を占める代表的な産地となり、こ の時期の鉄鋼業の近代化に大きく貢献した。 一方、原料の確保と並行して生産技術の近代化も進められ、成型工程は手打ちから機械へ、乾燥工程 は窯の余熱利用から乾燥炉へ、焼成工程は登窯から角窯やトンネル窯へと徐々に移り変わって行き、そ の一方で、国は耐火煉瓦の JES 規格を定めて粗製濫造を防止したことにより、我が国の耐火煉瓦製造 業界は品質と生産量の向上を果たすこととなった。 このように、我が国の耐火煉瓦製造業は、伝統的な窯業技術を出発点として、官民双方が呼応しつつ 技術改良や原料開発に努力し、その末に国産化・品質向上・生産量向上を果たした。耐火煉瓦は素材製 造業の成否を大きく左右する「縁の下の力持ち」とも言える存在であり、このような近代化の道のりは、 我が国の産業史上において重要な意義を持つものと言える。

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認定 群馬県 甘 楽 郡 下 仁 田町 中小坂鉄山 中 小 坂 鉄山 ( 製鉄 所 を 含 む ) 坑 道跡 ・ トロ ッ コ 道 跡・焙燃炉跡ほか − ● − 中小坂鉄山製大火鉢 ● − 中 小 坂 鉄 山 製 石 宮 の 鉄 柱 ● − 中小坂鉄山製鉄瓶 ● − 中 小 坂 鉄 山 製 鉄 の イ ン ゴット(なまこ) ● − 建設当初の輸入煉瓦 ● − 赤羽製作寮製煉瓦(天城 の刻印あり) ● 鳥取県 日 野 郡 日 南 町 若松鉱山(クロム鉄鉱) 跡 ディーゼル発電室 − ● 工作場 − ● 火薬庫 − ● 火薬類取扱所 − ● コンプレッサ室 − ● 機械選鉱場 − ● 破砕場 − ● 貯鉱場 − ● 沈殿池 − ● 受電室 − ● 救護室 − ● 鉱務所 − ● 坑 道 ・ 軌 道 ・ 索 道 鉄 塔 (一部) − ● 索道起動所 − ● 索道中継所 − ● 山神社 − ● 油脂庫 − ● 炭焼き釜 − ● 静岡県 賀 茂 郡 河 津 町 梨 本の 耐火 煉瓦 製造関 連遺産 登窯跡 − ● 岡山県 備前市 備 前市 の耐 火煉 瓦製造 関連遺産 三 石 耐 火煉 瓦 製造 ㈱ 事 務所棟 − ● 同 煙突 − ● 旧 日 本 耐火 煉 瓦㈱ 煙 突 (八角煙突) − ● 備前市歴史民俗資料館 − ●

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6.先人のベ ン チャ ー・ スピ リ ット が花 開き 多岐 に わた り発 展し た 化学 工業 の歩 みを 物 語る 近代 化産 業 遺産 群

化学工業は、高度の技術水準が必要とされるだけではなく、例えば、イギリスの産業革命期において、 大量生産が可能となった織物の漂白のために塩素製造が工業化されたように、他工業と深く関連する 「総合産業」という性格を持つ。このため、あらゆる近代工業を同時並行的に育成せざるを得なかった 我が国では、化学工業の育成に多大な苦労を強いられた。 我が国の化学工業の幕開けは、貨幣・紙幣の製造に必要な原材料を製造するため、1873 年に大阪の 造幣局(現:独立行政法人造幣局)に建設された硫酸工場であった。この工場は、造幣局以外に鉱山等 への供給も視野に入れた意欲的なものであったが、充分な国内需要が得られなかったため、1885 年に 民間に払い下げられた。硫酸製造の本格的な発展は、後述の化学肥料製造の成長まで一時的に停滞した。 一方、明治前期に民間が起業した化学工業として、マッチ・石鹸等の生活必需品の製造があった。特 にマッチは重要な輸出産業へと成長し、輸出港を抱える神戸や、後には姫路(今日では国内製造シェア の約8 割を占める)で盛んに製造された。また、マッチの原料である硫黄の需要が増大し、純度の高さ で知られ安田財閥が近代技術を導入して開発した硫黄山や、三井財閥のもとで電気精錬等の近代技術が 導入されたイワオヌプリ硫黄鉱山など、全国各地で硫黄鉱山が開発された。後年になると、硫黄は化学 肥料や医薬品等の製造にも利用されるようになり、我が国の化学工業を支える重要な原料となった。 明治後期を迎えると、化学肥料製造が化学工業の主力となった。高峰譲吉が英国の化学肥料工場を見 学し、我が国に伝えたことを受けて、1887 年に東京人造肥料会社(現:日産化学㈱)が設立された。 また、東大工学部電気工学科で学び、仙台の三居沢で1902 年に我が国初のカーバイド製造に成功した 藤山常一と、彼の同窓生である野口遵は、曽木電気会社と日本カーバイト商会(後に合併して日本窒素 肥料、現:チッソ㈱及び旭化成㈱)を設立した。 一方、染料・医薬品等の高度な技術を要する製品や、硫安・ソーダ等の工業基礎製品は、なかなか欧 州の大企業に太刀打ちできなかったが、これらの国産化の進展は、第一次世界大戦(1914∼1918)に 伴う欧米製品の輸入停止が大きな転換点となった。政府は、1915 年に「染料医薬品製造奨励法」を交 付して民間企業への財政的支援を行うとともに、「工業所有権戦時法」を制定して海外の特許を消失さ せ、化学製品の国産化を促進した。 染料については、和歌山の由良浅次郎が、我が国で初めてコールタールを原料としたアニリンの製品 化に成功し、1914 年にはこれを製造するためのベンゼン精留装置を建設した(現:本州化学㈱)。以降 はこの手法が主流となり多数の企業が生まれた。医薬品については、政府の支援で各種治療薬の国産化 と新規起業がなされ、また、前出の高峰が発見したジアスターゼとアドレナリンを取り扱う三共(現: 第一三共㈱)など、既存企業もこの時期に事業を拡大した。 政府の支援がなかった工業基礎製品についても、民間が技術改良を進め、輸入停止を背景としてよう やく国産化を軌道に乗せた。ソーダについては、中野友礼による「電解法」の工業化が大きな転換点と なり、この手法によって、関西財界の出資による大阪ソーダ(現:ダイソー㈱)や中野自身による日本 曹達等が設立された。また、前出の野口は、従来から製造していた硫安の消費拡大で経営を軌道に乗せ、 ソーダやアンモニア製造等の新規事業にも進出した。 この頃、化学工業に対して消極的であった財閥系大資本も、政府の支援こそ受けられなかったが、本 格的な進出を開始した。三井財閥は、三池鉱山の石炭を利用してコールタールを蒸留し、これを原料と した染料、爆薬、医薬品の製造を開始し、三井大牟田石炭コンビナートの原型を築いた。また、三井と 三菱は、それぞれ1910 年代にプラスチックの先駆けであるセルロイドの製造を開始し、1919 年には両 者を中心として大合同により大日本セルロイド(現:ダイセル化学工業㈱)が発足した。1920 年代か らは、セルロイド玩具や生地の輸出が拡大し、我が国のセルロイド生産量は世界一となった。 こうして軌道に乗った我が国の化学工業は、第一次大戦後の輸入再開により打撃を受けつつも、技 術・経営の改善と政府の支援によってこれを乗り越え、1930 年代には、電気化学工業と石炭化学工業 とを軸として、化学肥料、医薬品、セルロイド、火薬など多様な分野が花開いた。また、ソーダ等の工 業基礎製品の国産化は、紙・板ガラス・人絹等の製造業に材料を供給し、多様な産業の成長を促進した。 このような発展の礎として、化学研究に取組み世界的業績を挙げた高峰や、「技術者企業家」として 工業化に取り組んだ藤山・野口・中野など、専門教育を受けた人材が大きな役割を果たした。また、莫 大な設備投資が必要な化学工業においては、他の産業で力をつけた財閥等の大資本が、ビジネスチャン スを捉えて大胆な投資を行ったことも大きかった。

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認定 北海道 虻 田 郡 倶 知 安町 倶 知安 町の 硫黄 鉱山関 連遺産 イワオヌプリ硫黄鉱山 − ● 北海道 川 上 郡 弟 子 屈町 弟 子屈 町の 硫黄 鉱山関 連遺産 硫黄山 − ● − 硫 黄 山 レ ス ト ハ ウ ス 内 の展示物 ● 釧路鉄道跡 − ● 兵庫県 姫路市 姫 路市 のセ ルロ イド製 造関連遺産 ダ イ セ ル化 学 工業 網 干 異 人館 − ● 兵庫県 姫路市 姫 路市 のマ ッチ 製造関 連遺産 − 田 中 マ ッ チ ㈱ の 所 蔵 物 (燐寸(マッチ) ● 和歌山県 和歌山市 和 歌山 市の 化学 工業関 連遺産 − ベンゼン精留装置 ● 兵庫県 尼崎市 尼 崎市 のソ ーダ 製造製 造関連遺産 ダイソー(株) 尼崎工場事 務所 − ● 同 食堂 − ● 同 倉庫1(4棟) − ● 同 倉庫3 − ● 大阪府 大阪市北区 大 阪市 の化 学工 業関連 遺産 独 立 行 政法 人 造幣 局 造 幣博物館 − ● − 造幣博物館の所蔵物(硫 酸 ソ ー ダ そ の 他 工 業 製 品製造設備の模型) ● 宮城県 仙 台 市 青 葉 区 仙 台市 の電 気化 学工業 関連遺産 三居沢発電所 − ● − 三 居 沢 電 気 百 年 館 の 所 蔵物(電気化学工関連) ● 福岡県 大牟田市 大 牟田 市の 化学 工業関 連遺産 三井化学(株)J 工場及び労 務館 − ● 岐阜県 各務原市 各 務原 市の 製薬 業関連 遺産 − 内 藤 記 念 く す り の 博 物 館の所蔵物 ● 鹿児島県 大口市 大 口市 の水 力発 電関連 遺産 旧曽木第2発電所 − ● 宮崎県 延岡市 延 岡市 の化 学工 業関連 遺産 旭化成ケミカルズ(株)愛宕 事 業 場 「カ ザ レー 記 念 広 場」の保存物 カ ザ レ ー 式 ア ン モ ニ ア 製造装置 ●

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7.我が国の近代土木技 術の自立・発 展と海運業隆 盛の歩みを物 語る港湾関連 の近代化産業遺 産群

明治草創期における近代土木技術の導入はお雇い外国人によってもたらされたものだが、その歩みを 築港の歴史から紐解くならば、オランダ人のファン・ドールンが手がけて失敗に終わった野蒜港(1882 年竣工)、ジョージ・アーノルド・エッセルが計画・設計し、ヨハニス・デ・レーケ工事の指揮・監督 を行った三国港(1885 年竣工)、ローウェンホルスト・ムルデルにより野蒜の失敗を活かして完成され た三角西港(1887 年竣工)の明治三大築港と呼ばれる港湾整備があげられる。これらの港湾整備には、 それぞれ先にあげたオランダ人技術者が深く関わっているが、三国港に建設されたエッセル堤は土砂堆 積と高波対策のために造られた防波堤兼導流堤であり、粗朶沈床工という代表的な西洋技術の導入によ り日本独特の自然特性へ対処していった彼らの挑戦と失敗、その教訓を活かした成功の軌跡をみること ができる。 お雇い外国人の指導によって我が国に近代土木技術が導入された後、日本の技術者による献身的努力 と情熱により我が国の土木技術は驚異的発展を遂げ、世界史上まれにみる早さで技術自立を達成するこ ととなる。しかし、その背景には土木技術の面では、江戸時代の鎖国政策下においても古来からの伝統 と経験を活かして、日本の風土に相応した独自の技術の蓄積がなされていたことを見逃してはならない。 その好例の一つが、在来の左官技術の一つであるたたきの技術を大規模な土木工事等に改良して応用し た「人造石工法」であり、その工法を全国的に普及したのが現愛知県碧南市出身の服部長七である。人 造石工法は明治10 年代から 30 年代にかけて、国産セメントの品質安定と生産量の拡大による価格低下 によるコンクリート工法が普及するまでの過渡期において、全国各地の築港、干拓堤防などの土木工事 に採用されたが、その特徴はコストの安さとセメントに匹敵する強度にあった。人造石工法によって施 工され、現在も残っている代表的な構造物としては、四日市旧港の潮吹き堤防、名古屋港護岸などの港 湾施設ばかりではなく、弥富市の立田輪中人造石樋門や豊田市の百々貯木場及び周辺の水制工、明治用 水の頭首工・樋門等にも残されており、遺構の数の多さが当時の人造石工法の普及状況を物語っている。 服部長七はこの人造石工法により請負師としての地位を確立していき、服部組という建設請負業の組織 を立ち上げて全国数十ヶ所に支店をもつまでに成長するが、彼の国士的性格が採算を度外視した大工事 を請け負うことも多かったため服部組は経営的には厳しい状況が続き、1904 年に彼が突然一切の事業 から手を引いて隠棲してしまうと、服部組も解散を余儀なくされる。 その後、日本人技術者による本格的港湾整備は、「近代港湾の父」と言われる廣井勇の出現によって 達成されるが、その代表的功績は日本初のコンクリート製外洋防波堤として名高い小樽港の北防波堤の 完成(1908 年)であり、これを契機として我が国でもセメント工業が定着することとなる。廣井が小 樽港築工に際してまず取り組んだのはコンクリート開発であり、セメントに火山灰を混ぜることで強度 が高く亀裂が生じ難いコンクリートブロックの製造に成功するとともに、コンクリートブロックを斜め に積み重ねていく「スローピングブロック」という独特な工法を採用するなど、独創的な技術の導入を 試みている。廣井は小樽港のみならず函館港の改良工事にも携わるなど北海道全体の港湾建築に力を注 いでおり、さらには東京帝国大学教授として日本の土木工学の礎を築き、多くの土木技術者を世に送り 出すとともに、日本の土木技術を世界的レベルにまで押し上げることに貢献した。しかし、近代的な港 湾建設には膨大な資金と最先端の技術が必要であったことから、その後も官による直営工事が主体とな って進められたため、港湾建設において官から民への技術移転が進み、本格的に民間の土木建設業者の 請負による施工が行われるようになるのは戦後のことである。 廣井勇に代表される明治の土木技術者の努力により、日本はいち早く築港における技術的自立を果た すことができたが、これにより、周囲を海に囲まれた日本が海外への物流拠点を全国的に確保し、国内 の鉄道網の延伸と合わせて、日本各地の産業の発展と海外進出を推進するとともに、その後の我が国に おける海運業隆盛の基盤を固める上で極めて重要な役割を果たした。

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認定 北海道 函館市 船入澗防波堤 船入澗防波堤 − ● 北海道 小樽市 小樽港 小樽港(北防波堤) − ● 宮城県 東松島市 野蒜築港関連遺産群 市街地跡 − ● − 紀功之碑(内務一等属黒 澤敬徳碑) ● − ローラー ● 野蒜測候所跡 − ● 下水道跡(悪水吐暗渠) − ● 新鳴瀬川 − ● 新鳴瀬川架橋橋台 − ● 突堤 − ● 北上運河 − ● 東名運河 − ● 愛知県 弥富市 立田輪中人造石樋門 立田輪中人造石樋門 − ● 愛知県 名古屋市 名古屋港 人造石護岸 − ● 愛知県 豊田市 百 々貯 木場 及び 周辺の 水制工 百々貯木場 − ● 水制工(ナカダシ) − ● 水制工(オオダシ) − ● 愛知県 豊田市 明 治 ・ 枝 下 用 水 頭 首 工・樋門 明治用水旧頭首工 − ● 枝下用水旧頭首工、第2 樋 門 − ● 三重県 四日市市 潮吹き防波堤 潮吹き防波堤(旧港北防波 堤) − ● 福井県 坂井市 三国港 エッセル堤 − ● 熊本県 宇城市 三角西港 石積埠頭等 − ●

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8.山間地の産業振興と生活を支えた森林鉄道の歩みを物語る近代化産業遺産群

我が国は、「木の文化」とも称されるように、古来から用材として、燃料として、生活の中で木材が 多用されてきた。特に明治期以降の国家近代化に伴う木材需要急伸をうけ、「林業」もより組織的かつ 大規模に行われるようになった。 山林で伐採した木材の搬出作業は、明治 30 年頃まではもっぱら人力(人肩・木馬)や畜力、河川を 利用した流送に頼ったものであった。しかし、こうした搬出手段は、重労働かつ危険性が高く、加えて 大量輸送に適したものではなかった。加えて各地で水力発電用ダム建設が相次ぐと、河川流送も困難な 状況となった。 こうした中で着目されたのが「鉄道」の利用、いわゆる「森林鉄道」である。国内では 1910 年の津 軽森林鉄道(青森)の運行開始を皮切りに、その後戦後にかけて北海道、秋田(米代川流域)、山形(県 北部)、長野(木曽地方)、高知(中芸地方)、宮崎(延岡地方)、鹿児島(屋久島地方)など、全国各地 の林業が盛んな地域の国有林で盛んに導入が進められ、さらに一部の公有林、民有林にも広まっていっ た。森林鉄道は、旅客の輸送を目的とした公共交通機関である通常の鉄道と異なり、本来木材搬出を目 的に敷設される産業施設であり、用いられる車両は純粋な産業用輸送機械である。しかし、山間奥部の 林業集落生活者にとっては、日常の足として、また生活物資の輸送手段としても親しまれ、木材運搬以 外にも盛んに利用された。 大半の森林鉄道では、急カーブや急勾配に対応可能であり、かつ安価に建設するため、線路幅が 762mm のいわゆる“ナローゲージ”が採用された。これにより、用いられる車両も全般的に小型であ り、小さな機関車が木材を満載した運材車を牽引する独特の鉄道風景が全国各地で見られた。機関車は、 戦前においては主にドイツ、アメリカ等から輸入された蒸気機関車が用いられた。その後、当時の実業 家で、「軽便王」とも称された雨宮敬次郎が創設した雨宮製作所等によって国産化されるようになる。 雨宮製作所は、恐慌のあおりを受けて昭和初期には解散するが、その技術は後進メーカーによって引き 継がれ、蒸気に代わってガソリン式の内燃機関車の導入も進められた。なお、戦後に普及したディーゼ ル式内燃機関車の大半は、酒井工作所、加藤製作所、立山重工業、協三工業(社名は当時)等の国内メ ーカーで製造されたが、これらの一部は現在でも建設作業機械メーカーとして盛業を続けている。 蒸気機関車の中には、第二次大戦時の燃料事情悪化の際に森林鉄道ならではとも言える薪が燃料とし て用いられたものがある。これら機関車は、薪を使用することで煙突から多量に発生する火の粉の飛散 による火災を防止するため、ダイヤモンドスタック等と呼ばれるユーモラスな形状の煙突に改造され、 その姿は今日でも北海道遠軽町の森林公園いこいの森で保存される雨宮21 号、長野県上松町の林野庁 赤沢自然休養林内で保存されるボールドウィン号等で見ることができる。一方、貨客車についても、木 材輸送用の運材車だけではなく乗客を運ぶ一般客車、さらに一部路線では学童の通学専用客車、理髪車 など、林業従事者とその家族の生活に必要なユニークなものも存在した。 戦後の拡大造林期にかけて全国各地で路線網は拡大、最盛期には国有林だけで1 万 kmに達する総延 長を誇った森林鉄道であるが、昭和 30 年代以降はトラック輸送の発達、ダム建設による水没(車道林 道への付け替え)等により減少の一途をたどり、昭和50 年頃の木曽を最後に実質的に全廃されている。 廃止に伴い、活躍した車両はスクラップにされたり、放置されたりするものが多かった。その一方で、 山間地の産業と生活に密着した愛すべき鉄道遺産として、保存・復元された車両も少なくない。特に保 存車両の一部には、熱心な行政機関や愛好家団体等により動態保存されているものもみられる。 また、路線についても、車道林道への改築や荒廃によって原形をとどめないものが大半であるが、一 部では線路やトンネル、橋梁等の構造物が今日まで保存され、登山道・遊歩道等として活用されている ものがあるほか、木曽の赤沢自然休養林、京都大学芦生研究林、屋久島の安房森林鉄道等では、当時の 路線を活用した動態運転が行われ、現在にその姿をとどめている。

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認定 北海道 紋 別 郡 遠 軽 町 森 林 鉄 道 蒸 気 機 関 車 「雨宮21 号」 − 森 林 鉄 道 雨 宮 2 1 号 蒸 気機関車 ● 山形県 最 上 郡 真 室 川町 真室川森林鉄道 − 真 室 川 森 林 鉄 道 の 機 関 車 ● 長野県 木 曽 郡 上 松 町 木 曽の 森林 鉄道 関連遺 産 赤沢森林鉄道 − ● − 森 林 鉄道 機関 車 C-4 型 135 ● − 森 林 鉄道 機関 車 C-5 型 98 ● 京都府 南丹市 京 都大 学芦 生研 究林軌 道 京都大学芦生研究林軌道 調査中 ● 高知県 安 芸 郡 安 田 町 魚梁瀬森林鉄道 オオムカエずい道 − ● 明神口橋 − ● 釜ケ谷橋 − ● 五味ずい道 − ● 河口ずい道 − ● 堀ケ生橋 − ● 二股橋 − ● 小島影橋 − ● 立岡高架・奈半利川橋 − ● 三光院ずい道 − ● 鹿児島県 屋久島町 安房森林鉄道 安房森林鉄道 − ● 群馬県 沼田市 林 野庁 森林 技術 総合研 究 所林 業機 械化 センタ ー 収蔵 の森 林鉄 道遺産 群 − 旧 木 曽 森 林 鉄 道 の ボ ー ル ド ウ ィ ン 号 ほ か 戦 前 の森林鉄道車両 ●

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9.旧居留地を源として各地に普及した近代娯楽産業発展の歩みを物語る近代化産業遺産群

我が国における外国文化の導入は外国人居留地から始まった。居留地に生活する外国人達は、競馬や テニスといったスポーツをはじめとする母国のレクリエーションをもたらし、居留地の周辺には外国人 向けのレクリエーション施設が設置された。1899 年に居留地が撤廃され、外国人と日本人との雑居が 進展するとともに、これらのレクリエーションは日本人の間にも浸透していく。 我が国初の近代競馬場は横浜で誕生した。1862 年、薩摩藩の行列を乱した英国人商人らの一行が乗 馬したままであったため、1人が斬殺、2人が負傷するという事件が発生する。報復として薩摩はイギ リス艦の砲撃を受け、政府は多額の賠償金を支払うこととなった。有名な生麦事件である。これをきっ かけに、外国人居留地の住民は幕府に対して乗馬や競馬のできる土地を提供するよう要望し、1866 年 に我が国初の近代競馬場である横濱競馬場が建設された。当初、横濱競馬場では外国人だけで組織され たレース・クラブによって競馬が行われていたため、日本人とは無縁の世界であったが、クラブの再編 により、1875 年には日本人も会員になれるようになり、同年、明治天皇が初めてレースを観戦してい る。1905 年に明治天皇にちなんで創設された「皇帝陛下御賞盃」は、現在の天皇賞の前身である。横 浜での開催以降、札幌、仙台等でも競馬が開催され、各地に競馬場がつくられていった。 また、1870 年、我が国初の西洋式公園として横浜に開園した山手公園は、山手居留地の外国人が日 本政府から土地を借り受けて開園したが、その借地料捻出のため、外国婦人達からなるテニスクラブに 貸与された。1878 年、公園内にテニスコートが設置され、我が国の近代テニスの発祥の地となった。 関東大震災後に外国人住宅として建てられた旧山手 68 番館は、テニスのクラブハウスとして同公園内 に移築され、現在、公園管理事務所として使われている。なお、山手公園についで1876 年に開園した 横浜公園は、我が国初の野球の国際ゲームが行われた場所として知られている。 一方、神戸の外国人居留地の住民により別荘地として開発された六甲山では、1901 年にはイギリス の貿易商が私財を投じて六甲山上に日本で最初のゴルフコースである六甲山ゴルフ場を造った。2 年後 には会員制の倶楽部を組織し、神戸ゴルフ倶楽部が誕生した。当初の会員数は120 人ほどで、ほとんど が外国人であったが、地元はもとより、横浜や長崎、さらには香港や上海からもゴルフと避暑を求めて 外国人がやってくるようになるなど、我が国初というだけでなく、周辺アジアの国々を含め、モデルの ゴルフ場となった。 長崎では、1861 年には大浦居留地に我が国最初のボウリング場「インターナショナル・ボウリング・ サロン」が開設されており、1869 年には長崎ボウリング倶楽部が設立された。長崎にはこれを記念し たわが国ボウリング発祥の地碑が設置されている。また、1899 年の居留地制度撤廃を受け、外国人と 日本人の社交クラブとして長崎内外倶楽部が発会し、1903 年にクラブの集会場として、内外倶楽部が 建てられた。この建物は、ビリヤード室、バー、食堂、読書室を備えており、「日本人と外国人の間で 社交を促進し、あらゆる面で同じ制度に基づいて、友好関係とレクリエーションを促進する」というク ラブの目的を果たす場として、我が国の近代化に多大な貢献を残した内外の知名士会員により華やかな 運営がなされた。 これらのレクリエーションは、導入後比較的早期に広まったものや、戦後のブームを経て広まったも の、我が国独自の形式で広まったもの等、一般大衆へ浸透した時期や方法は様々であるものの、外国人 居留地を起源とするという点で共通しており、外国人居留地は、我が国のレクリエーションの歴史にお いて非常に大きな意義を持つものといえる。

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認定 神奈川県 横浜市 横濱競馬場 横濱競馬場一等馬見所 − ● 神奈川県 横浜市 山手公園 日本庭球発祥之地碑 − ● 旧山手68 番館 − ● − 横浜山手・テニス発祥記 念館の所蔵物群 ● 神奈川県 横浜市 横浜公園 横浜公園 − ● 兵庫県 兵庫県 六甲山ゴルフ場 神戸ゴルフ倶楽部、クラブ ハウス − ● 長崎県 長崎市 長 崎市 内の 旧居 留地時 代 のレ ジャ ー産 業関連 遺産 国 指 定 史跡 出 島和 蘭 商 館 跡 内 建 造物 旧長 崎 内 外 クラブ − ● 「 わ が 国ボ ウ リン グ 発 祥 の地」の碑 − ●

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10.近代の都市生活に活気と潤いをもたらした大衆レジャー産業発展を物語る近代化産業遺産群

我が国では、大正から昭和にかけて農業から工業へと我が国の産業構造の転換と都市化が進行し、そ れとともに大衆レジャーが現在の原型を整えていくこととなった。資本主義の発達を支えてきた交通機 関の発達は、一方で人口の都市集中や都市の住環境の悪化を招き、大都市郊外では住宅地開発が行われ た。都市化に伴う中産階級の出現は、週休制の生活リズムを定着させ、余暇生活に変化をもたらした。 各地に動物園や遊園地といったレジャー施設が誕生し、近世における寺社参詣が電車の開通によってよ り身近なものとなる等、生活リズムの変化を背景として、気軽に“お出かけ”を楽しむための大衆レジ ャー産業が大きく発展・普及した。 我が国初の遊園地は、江戸時代の植物園である花屋敷を前身として 1886 年に開園した浅草花屋敷だ と言われる。利用者は主に上流階級であったが、徐々に、庶民向けの動物や見世物の展示、遊戯機器の 設置を行うようになった。また、我が国初の近代動物園は、内国勧業博覧会をきっかけとして 1882 年 に開園した大日本帝国農商務省博物館付属動物園(現:上野動物園)であった。これに続いて、大阪や 名古屋においても、博覧会の会場建設を契機に開園した公園を利用する形で、1903 年に京都市動物園、 1915 年に天王寺動物園、1918 年に鶴舞公園附属動物園(1937 年に移転し東山動物園となる)がそれ ぞれ開園した。これら公立の動物園は、文化センター的な役割を持った近代都市における社会教育施設 として建設され、利用者は大人が中心であった。しかし、珍しい外国産動物の展示の増加により大きく 人気を集めた動物園は、次第に遊園地の一種として見なされるようになる。 遊園地や動物園の盛況ぶりに着目した電鉄資本は、沿線の顧客開拓の一環として郊外に遊園地と動物 園が一体となったレジャー施設を次々と開設した。その最初期のものとして、京阪−香里園(1910 年、 1923 年以降に移転しひらかたパークとなる)や阪急−箕面動物園(1910 年、後に宝塚に移転)が挙げ られ、その後、阪神、近鉄、名鉄、東急、小田急、京成、西鉄が、競い合うように子供や家族をターゲ ットにした大衆娯楽的な遊園地や動物園を建設した。 また、1880 年前後に医学的治療を目的に始まった海水浴は、1885 年に神奈川県大磯にレジャー目的 の海水浴場が開かれ、以降各地に海水浴場が整備されていった。1929 年には国鉄によって逗子海水浴 場に海の家が設置され、乗車券と海の家利用券がセットにして売り出されており、レジャーとしての海 水浴が普及していたことが伺える。また、関西でも、古くから白砂青松の景勝地として知られていた浜 寺で、鉄道の開通を機に、「東洋一の海水浴場」と謳われた浜寺海水浴場や浜寺公園、別荘地などが整 備され、「関東の湘南・関西の浜寺」と称される一大レジャースポットに発展した。 一方、近世から行われていた社寺参詣目的の利用客を見込んで、寺社と都市とを結ぶ鉄道も各地で建 設された。代表的なものでは、伊勢神宮への参拝客輸送を目的に1888 年に設立された参宮鉄道(現: JR 紀勢本線・参宮線)や、これに遅れて 1932 年に大阪・宇治山田間を開通させた大阪電気軌道・参宮 急行電鉄(現:近畿日本鉄道㈱)、川崎大師への参詣客輸送を目的の一つとして1899 年に開業した大師 電気鉄道(現:京浜急行電鉄)、1898 年∼1930 年にかけて大阪・高野山上の鉄道ルートを完成させた 南海鉄道高野線・高野山電気鉄道(現:南海電気鉄道高野線・鋼索線)等が挙げられる。 また、施設や車両が現存するものとしては次のようなものが挙げられる。日本最初の営業用ケーブル カーである近鉄生駒鋼索線は、宝山寺への参拝客を見込んで 1918 年に宝山寺線が、生駒山上に建設さ れた遊園地のためのアクセス路線として1929 年に山上線が、それぞれ開業した。1928 年以来 2000 年 まで使用されたコ 1 形車両が生駒山麓公園に保存されている。四国では、「讃岐の阪急」と呼ばれた琴 平電鉄(現:高松琴平電気鉄道㈱)が、四国の玄関口である高松と、参詣地・琴平とを短時間で結ぶた めに計画された。1919 年、関西の私鉄に倣い標準軌の高速鉄道として敷設され、1913 年までに全線が 開通し、高松−琴平間が国鉄よりも 40 分短縮された。現在も当時の橋梁が多く現役施設として使用さ れ、開通当時の車輌も動態保存されている。 こうした大衆レジャーの普及は、国力の高まりに呼応して大衆の生活が豊かになり、その市場に向け た新たなビジネスとして、多様な娯楽産業が全国的に大きく発展してきた様子を物語っている。「近代 化」と言うと、とかく「富国強兵・殖産興業」という言葉に代表される国家レベルの事業・産業に目が 行きがちであるが、レジャーの普及に象徴される「民力」の高まりも、紛れもなく近代化の1 ページを 飾る重要な出来事と言える。

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認定 東京都 台東区 東京都恩賜上野動物園 − − ● 神奈川県 中郡大磯町 湘南の海水浴関連遺産 大磯駅駅舎 − ● 愛知県 名古屋市 東山動植物園 − − ● 京都府 京都市 京都市動物園 − − ● 大阪府 大阪市 天王寺動物園 − − ● 大阪府 枚方市 ひらかたパーク − − ● 大阪府 堺市西区 浜寺の海水浴関連遺産 浜寺公園駅 − ● 大阪府 河内長野市 高 野 山 参 詣 関 連 遺 産 ( 南 海 電 気 鉄 道 高 野 線・鋼索線) 紀見トンネル − ● 和歌山県 橋本市 ● (高野線)紀ノ川橋梁 − ● 紀伊清水駅 − ● 学文路駅 − ● 伊 都 郡 九 度 山町 丹生川橋梁 − ● 九度山駅 − ● 高野下駅 − ● 下古沢駅 − ● 上古沢駅 − ● 伊 都 郡 高 野 町 紀伊細川駅 − ● 紀伊神谷駅 − ● 極楽橋駅 − ● 鋼索線(線路) − ● 高野山駅 − ● 奈良県 生駒市 近 鉄生 駒鋼 索線 関連遺 産 − コ1 形 1両車両 ● 香川県 綾 歌 郡 綾 川 町 琴 平 山 参 詣 関 連 遺 産 (高松琴平電気鉄道) 滝宮駅本屋 − ● 綾川橋梁 − ● 土器川橋梁 − ● 香東川橋梁 − ● − 1000形車輌 ● − 3000形車輌 ● − 5000形車輌 ● 元山駅本屋 − ● 新川橋梁 − ● 鴨部川橋梁 − ● − 回転変流機 ● 琴電屋島駅 − ● 屋島登山鉄道屋島山上駅 − ●

参照

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